アンコールのほとけさま

アンコールのほとけさま
◇蛇神の住む町
世界の 3大仏跡の 1つアンコール・
ワットは、単に仏教遺跡というだけで
なく、世界の歴史的遺産として最も価
値 あ る 物 の1 つ で あ る 。 A D 1 1 0 0
年頃、今から約 8 0 0年 前 、 日 本 で い
えば平安中期・源平時代の少し前頃に
作られたものである。
アンコールとは「蛇神の住む町」と
いうカンボジア語で、インドのナーガ
信 仰 に よ る ナ ガ ラ ( 例: ク シ ナ ガ ラ …
釈迦が涅槃に入った町)という名前を
持った町と同じ語源である。カンボジ
ア国内に 1歩足を踏み入れると、 5頭
東洋のモナリザ
バンテ・アイ・スレイ寺院の女神
こ の 寺 院 は 、ヒ ン ズ ー 教 の 女 性 の た め の
寺 院 で あ る 。 此 処 に 女 神 像 が 4 体 あ る。
右向・左向と各2体あり、夫々ニュウア
ン ス が 違 っ て い る 。「 東 洋 の モ ナ リ ザ 」 と
いわれる像は紹介する本によって異なっ
ているが、私はこの像が本物と思ってい
る。
(北祠堂西面向って左側の女神)
(堀の内博子氏提供)
か7頭の顔を持ったコブラの姿が、建
物の装飾や階段の手摺などにふんだん
に使われているのがよく目立つ。 クメ
ール族とは、ナーガ(蛇)信仰を持っ
た 民 族 の 総 本 家 と 思 う の は 私1 人 だ ろ
うか?アンコールは、まさに蛇信仰の
中心の都で、光 栄 あ るク メ ー ル 帝 国 の
栄華を象徴する巨大遺跡なのである。
◇アンコール王朝の成立
紀元1 世紀の頃、カンボジアに扶南国が建国され、
インド洋から東南アジア・東シナ海一帯の海上交易で
活躍していたことは前のレポートで書いたところであ
アンコール・スラスラン
王様の沐浴場
手摺の欄干は全て5頭のコ
ブラである。広い池には、蓮の
花などが浮いている。
る。8世紀の1 時期に至り、扶南国の流れを引いた真
臘国は、ジャワ島のシャインレーンドラ王朝(ボロブ
ドール仏塔を作った)に滅ぼされ王様は人質となって
ジ ャ ワ 島 に 幽 閉 さ れ た。 幽 閉 さ れ た 王 様 の 息 子 が 成 長
し、カンボジアに帰国、ジャワからの属国を解消し、
ジ ャ ヤ ・ バ ル マ ン2 世 と な っ て 王 位 に 就 い た 。 A D 8
02年の事である。日本では桓武天皇平安京遷都の頃
である。カンボジアではこの年をアンコール王朝成立
の年としている。これから 4代目の王様が現在のアン
コ ー ル の 地 に 王 城 を 作 っ た 。そ れ 迄 の 間 約 1 0 0 年 は 、
ジャヤ・バルマン2世当時に
今のアンコール・トムの東部の郊外に都を構えていた。
建築されたヒンズー寺院
私の見たアン コール遺跡群の建物中最高の傑作と思
ジャヤ:強力な力
バルマン:力を持った王
王様は在世中必ず一つ以上
のお寺を造る慣わしとなって
いた。アンコール郊外にある
このヒンズー寺院は子供たち
の遊び場である。
っ た の は 、3 代 目 イ ン ド ラ ・ バ ル マ ン 1 世 の 作 っ た ヒ
ン ズ ー 寺 院 ( プ リ ヤ ・ コ ー :8 7 9 年 ) で あ っ た 。 建
物はそれほど大きくないけれども、全体のバランスか
ら受ける感覚は異様な迫力を持っており、地の底から
権威を持ちながら優しく語りかけるような雰囲気を持
っていた。恐らくこの時代はアンコール王朝の興隆期
であって、建築のみでなく、一般芸術や庶民の生活面
にも、優しくたくましい息吹が芽生えていたのであろ
う。
◇アンコールの王城
アンコール・トムの
全軍を閲兵する広場・テラス
第21代ジャヤ・バルマン
7世は別名ライ王とも言う。
チャンパ国と戦い国力が最
も栄えた王であった。同時に
都城や寺院も最大のものを残
した。晩年ライ病により失明
した。故にライ王のテラスと
言われている。
ここで「アンコール・トム」と「アンコール・ワッ
ト 」 に つ い て 詳 細 に 話し て み よ う 。
第 4 代 の 王 様 が 作 っ た 王 城 の 位 置 に 、 第2 1 代 ジ ャ
ヤ・バルマン7 世(建築狂と迄言われた王様
118
1∼1220年頃)が大規模の都城アンコール・トム
を作った。その周囲は、1 辺約3 ㎞の正 4角形で、水
壕 と 、 高 さ8 メ ー ト ル の 城 壁 、 5 つ の 城 門 で 囲 ま れ て
い た 。 東 側 に は 、 勝 利 の 門 ・ 死 者 の 門 と2 つ の 門 、 西 ・
北 ・ 南 側 に は 夫 々1 つ の 門 が あ っ た 。 都 城 内 に は 、 王
宮は勿論であるが、全軍を閲兵できる広場や、寺院・
僧院等と共に、一般庶民の住宅もあった。各城門前の
水壕の橋には、蛇を持った阿修羅と、蛇を持った神々
アンコール・トム内
の 欄 干 が 両 側 に 並ん で い る 。
「なるほど、蛇神のいる都
バイヨン寺院の尖塔 1992 年
城」であると、訪れる人達に十分納得させることがで
当時この寺院は壊れたまま
で、登ることが出来なかった。
尖塔の頂上にカンボジアの国
旗が立てられていた。
きる。
【注】 その阿修羅の石像が、最近盗難に遭い、所々
歯抜けになってしまった。ポル・ポト政権の仕
業だと言われているが、どうもタイの古物商あ
たりが暗躍しているらしい。
◇アンコールの大都市計画
大都城アンコール・トムの中心部に「バイヨン」と
いう仏教寺院がある。寺のいたるところから尖塔が林
アンコール・トム内
バイヨン寺院の尖塔 2002 年
1 枚の写真の中に 3 つの観
音菩薩の顔が見える場所があ
る。
立 し 、 そ れ ぞ れ の 塔 の4 面 に 4 つ の 顔 が 見 え る 寺 院 で
ある。最近この寺の地下部分より観音菩薩の像が発見
されたことから、色々の説のあったこの寺が観音菩薩
を祭った大乗仏教の寺院であることに決定された。
第 2 1 代 ジ ャ ヤ・ バ ル マ ン7 世 は 、 こ の 外 に も 数 々
の業績を残している。即ち、 2㎞×7㎞の用水池をア
ンコール・トムの東西に2 ヶ所、又北側にも作り、そ
れらの池をつないで、この地区一帯に水濠を張り巡ら
せた。そのうち「西バライ」の用水池は 800 年を経
西バライ用水池
た現在でも、水源としてこの地域の人々の生活を支え
カメラは中心付近より東の
方を写す。
ている。しかし建物や都市施設に熱心のあまり経済が
消耗し、加えて地方の豪族に仏教寺院の建設を奨励し
た為、国力は急速に衰退した。
◇アンコール・ワットはヒンズー教の寺院
ア ン コ ー ル ・ ト ム の 大 建 設 に 着 手 し た 頃 よ り 約8 0
年 前 、 第 1 8 代 ス ー リ ヤ ・ バ ル マ ン2 世 ( 1 1 1 3 ∼
1150 )がアンコール・ワットの建設を行った。
(ワ
アンコール・ワット建設者
スーリヤ・バルマン2世像
スーリヤ:太陽
バルマン:力を持った王
スーリヤは、ヒンズー教の
太陽神の名である。
ッ ト = 寺 院 と い う 意 味 ) ア ン コ ー ル 都 城 の 南 側 約2 ㎞
の郊外である。この寺院はヴィシュヌ神を主神とする
ヒンズー教寺院として建設され、その後大乗仏教寺院
と し て 使 用 さ れ 、現 在 は 小 乗 仏 教 の お 寺 と な っ て い る 。
当然のことながら、蛇神様は寺院内到るところにあっ
てヴィシュヌ神を守っている。
このレポートに記した王様の名前は次の通りである。
即位年
第1代
アンコール・ワット主参道
日本隊が修理中の建物
看板に日本国旗。左の参道
に 5 頭のコブラ。2002 年。
ジ ャ ヤ ・バ ル マ ン 2 世
第3代 イ ン ド ラ ・バル マ ン1世
802 年
業
績
建国
877 年
プリヤ・コー建設
第 18 代 ス ー リ ヤ ・バ ル マ ン 2 世 1113 年
アンコ ール・ワット建設
第 21 代
ジ ャ ヤ ・バ ル マ ン 7 世
1181 年
アンコール・トム ;バイヨン他
◇神様の名が王様の名前
前頁の王様の名前で、バルマンは王様の称号のよう
な も の で あ ろ う か ? そ の 前 に つ く「 ジ ャ ヤ 」
「インドラ」
「スーリヤ」という言葉は王様が信仰する神様の名前
のようである。即ち「インドラ」は、インドラ神(仏
教に転じて帝釈天)を、
「スーリヤ」はインドでは、太
陽神のことを言う。ヒンズー教では「スーリヤ神」と
言うあまり有名ではない神様もおられるけれども、ヴ
ィシュヌ神は元々太陽神から成長してヒンズー教の3
アンコール・ワットの女神達
寺院内部の壁には、前面に彫
刻がある。女神(デヴァタ)の
姿は内部に進むほど、高貴にな
るようだ。
大神の1 つに迄 昇進した神様であるから、この当時呼
び名が混同していたのではないだろうか。
この両者の王様はヒンズー教の神様を信奉し、自分
をそれら神様の生まれ変わりと考えて、当時の権力、
経済力を背景に、立派なヒンズー寺院を建て、自分の
死後の住み家とした。したがって、アンコール・ワッ
トはスーリヤ・ バルマン2 世のお墓なのである。
タ・プローム寺院の木の根
気が付いたときには、大木の
根が回廊の屋根をまたいで立
っていた。現在これも天然記念
物としてそのまま保存してい
る。
アンコール・ワット 全 景
◇「ジャヤ・ バルマン」という王様
一方「ジャヤ」とは何を意味しているのだろうか、
アンコール郊外寺院
バンティ・クデイ寺院、軍隊
に守られて観光する。
カンボジア語で観音のことか、又釈迦・阿弥陀のこと
な の だ ろ う か 、 ジ ャ ヤ・ バ ル マ ン 7 世 は 、 仏 教 信 奉 者
であったことは間違いない。まったく見当違いかもし
れ な い が 、 ジ ャ ワ 島 で 育 っ た ジ ャ ヤ・ バ ル マ ン 2 世 は
ジャワの仏教国の影響を受けて、帰国独立後も「ジャ
ワ」即ち「仏教」ということで命名したのかもしれな
い。この説が正しければ「ジャヤ ・バルマン」という
王 様 は 、 ア ン コ ー ル 王 朝 2 6 代 約 5 3 0 年 の 内 、8 人
存在しているから、ほぼ3 人に1 人は仏教信奉者であ
ったと考えられる。
インドのヒンズー仏教文明が東南アジア地方に伝播
アンコール郊外
バンテ・アイ・スレイ寺院
に残るカンボジア文字
東洋のモナリザのある寺院
に柱に刻まれたカンボジア文
字がある。
フランス統治時代ベトナム
は完全に自国文字を失った
が、此処では、統治者の目を
盗み、仏教者によって、現在
の国字まで受け継ぐことが出
来た。
インド文字・タイ文字とも
違ったこの文字をカンボジア
の人々は誇りに思っているよ
うだ。
して約1 千年、受入側のクメール人にとってはヒンズ
ー教も大乗仏教も同じインド教として受け入れられ、
王様によって好みの神様をごひいきにしていたのでは
ないだろうか。但し、蛇族の基本だけは忘れないこと
を前提としていたようである。
【注】2002年、2度目にアンコールを訪れたと
き、「ジャヤ」について聞いてみた。「強力な力」
という意味だそうだ。「バルマン」は「力を持っ
た王」ということで、「 ジ ャ ヤ ・ バ ル マ ン 」 は 「 大 変
強 い 王 様 」 と い う こ と に な る 。ア ン コ ー ル 王 朝 は
「ジャヤ」の付いた王様の時代、国力が上昇期に
あったのだろう。
◇アンコール・ワットの価値
ア ン コ ー ル ・ ワ ッ ト は ア ン コ ー ル 都 城 の 郊 外 に1 1
00年頃作られたヴィシュヌ神を主神とするヒンズー
教の寺院である。その本当の目的は、建設をした王様
のお墓であったことが分かった。 では何故世界の歴史
遺産として貴重なのか?言葉で言うより実際に見に行
ってもらいたいところであるが、 建築屋である 梅山が
アンコール・ワット第1回廊
4号壁画・「乳海撹拌」
左側:阿修羅92体
右側:神々88体
中央:ヴィシュヌ神
中央下:大亀
上部:アプサラス(天女)
ヒンズー教の天地創造のシ
ーンである。神々と阿修羅が
引っ張る綱はコブラの胴体で
ある。
考えて大きく3 つある。
第1に、ほぼ完全な形で残っていること。
第2に、その造形の基本理念がカンボジア独特の様
式であること。
第3は、中央祠堂を取り巻く回廊の壁画が、独特の
絵画手法と共にすばらしい迫力があること
である。
◇アンコールのクメール族の宗教観
第1について、アンコールには当時の遺跡が大変多
アンコール・ワットの平面図
回廊に残る壁画は天下一品である。
いが、遺跡の大敵は木の根である。東南アジアのジャ
ングルは生活力旺盛な大木が多く、建物を丸ごと木の
根が包んでいるものもある。そのような現状の中で、
アンコール・ワットは土間や手摺などが変形し 、崩れ
た所もあるが、現在迄ほぼ良好に保存されている。次
にアンコール・トムの中央にある仏教寺院バイヨンも
アンコール・ワット中央祠堂
とインド寺院の比較
左の図がアンコール・ワット
の平面、中央の高い塔と四隅の
やや小さい塔が立ち、計5本の
尖塔が聳えている。
右はインドの寺院で3本に尖
塔が立っている。
クメール族は「5」の数字を完
全なものとする宗教観があった
といわれている。
この形式は、寺院建築に限ら
ず、生活一般に根付いているよ
うである。
一部尖塔の崩れが見られるが、壁画の1 部と尖塔がよ
く残っている。その他の寺院は内部の歩行も困難で壁
画もまとまったものは残っていない。
【注】2度目の時には、仏教寺院バイヨンの復元が
相当進み、壁画や尖塔部分の観光がほぼ不自由
なく行うことが出来た。
第2について、アンコールにおけるヒンズー寺院の
造 形 の 基 本 理 念 に つ い て で あ る が 、中 央 の 高 い 尖 塔 に 、
そ れ を 囲 む4 隅 に 4 つ の 尖 塔 が あ る 。 尖 塔 は 大 小 合 計
し て 5 つ あ る 。 ヒ ン ズ ー 教 の 発 生 地 イ ン ド で は 、3 大
神(ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ)の為に 3つの
尖塔を原則としている。クメール族は「 5」という数
字を完全なものと考えているらしい。ここに蛇信仰と
共に民族独自の宗教観による造形様式が伺われるので
ある。
バ イ ヨ ン寺 院 の 様 式 は 、 恐 ら く 中 央 に 大 き な 尖 塔 が
アンコール・ワット第1回廊
2号壁画「歴史の回廊」
の内「軍隊の行進」
行進する兵隊の姿が、2重
3重に彫刻され、あたかも動
いているように見える。
独特の手法である。
あり、周囲に幾重にも尖塔が取り巻いていたのではな
いだろうか?
尖塔は破損し、崩れているものも多い
ので、全体の形は良く分からないが、ボロブドール仏
塔や、ラオスのルアンパバーン仏塔と同じ発想で、須
弥 山 を 造 形 し た の で は な い だ ろ う か 。 こ の 寺 院 は4 面
に 観 音 像 の あ る 尖 塔 が林 立 し て い る の が 特 徴 で あ る 。
◇アンコール遺跡の壁画
第3について、アンコール・ワットの壁画はほぼ完
全に、又バイヨンの壁画は部分的に良く残っている。
この壁画によって当時の生活状況や戦いの状況及び宗
バイヨン寺院第1回廊
壁画「チャンパ軍との戦」
大画面の一部である。左チ
ャンパ軍を槍で刺す場面であ
る。下に倒れたチャンパの兵
隊が見える。クメール兵は裸
で褌のみ、チャンパ兵は衣装
をつけ、ヘルメットまで着用、
文化の差が良くわかる。
教 的 考 え 方 を 知 るこ と が で き る 。
特殊な絵画手法は、市販の本やビデオ等で見て頂く
として、どんな壁画があるかを列記してこのレポート
を終了したいと思う。なお壁画を見て梅山なりに感じ
考えたことを別のレポートとした。
▼アンコール・ワットの壁画
1.ラーマーヤナ物語・ランカ島の戦
2.マハーバーラタ物語・両軍の決戦
3.スーリヤ ・バルマン 2世の宮廷、軍隊の行進
4.天国と地獄
5.乳海撹拌の図(天地創造神話)
6.ヴィシュヌと阿修羅の戦
7.クリシュナとバーナの戦
8.バラモンの神々と阿修羅の戦
9.寺 院 全 面 にア プ サ ラ ス ( 天 女 ) 像
▼バイヨンの壁画
バイヨン寺院第1回廊
壁画「アプサラス(天女)の踊」
此処に残された踊りを参考
にして、現在のカンボジア踊
りの復興がなされたという。
複雑な手足の動きである。
1.ジャヤ・ バルマン7 世の生涯
2.チャンパ軍との戦
3.アンコール庶民の生活
平成 4年4 月