アメリカ映画「最後の誘惑」 - So-net

33.アメリカ映画「最後の誘惑」の感想文(2)、筆者:林
久治
映画:最後の誘惑、(アメリカ映画:163 分)DVD(アマゾン):991 円
原題:The Last Temptation of Christ、製作:1988 年、日本公開:1989 年
監督:マーティン・スコセッシ、原作:ニコス・カザンザキス(1951 年)
主演:ウィレム・デフォー(イエス・キリスト)
図1.映画「最後の誘惑」で、ナザレのイエスが活躍した地域。
(1)前書き
前回(第 32 回読書感想文)から、アメリカ映画「最後の誘惑」(以後、本映画と
記載する)の紹介を始めている。紹介する理由は、前回に記載したので、今回は省
略する。前回のサイトを以下に記載するので、興味のある方は、ご覧下さい。
前回のサイト:http://www015.upp.so-net.ne.jp/h-hayashi/D-32.pdf
前回は次ぎの2箇所を紹介した。①ナザレのイエスが神の声を聞いて伝道を始め
た経緯。②イエスが十字架にかけられて死ぬ前に、普通の人間として生きることへ
の悪魔の誘惑があったが、それに打ち勝って神の子として十字架上で死んだ様子。
今回は、前回に省略した部分(イエスの伝道から、十字架に架けられるまでの経
緯)を紹介する。
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(2)本映画の紹介(なお、林の注釈や意見を青文字で記載する。)
前回の紹介①:時は西暦 30 年頃、場所はローマ帝国の支配するユダヤのナザレ村。
本映画では、ここに住む一人の若者イエスは、神の幻聴に悩まされていた。イエ
スは砂漠で神の幻覚に「町に戻って、人々に君の心を語るとよい。」と言われた。
イエスはユダを連れて伝道を始めた。詳細は、前回のサイト/fをご覧下さい。
図2.左:マグダラのマリアが村人達から折檻を受けていた。右:イエスは村人達
に、初めて自分の心を語った。
場面1:イエスはユダを連れてナザレ村に行った。
そこで、マグダラのマリアが村人達から折檻を受けていた。
村人A「石を投げろ!」(図2左)
イエス「こんな事はいけない!なぜだ。」
村人B「この女は淫売でユダヤ人だ。安息の日にも客をとっている。モーセの掟を
破ってる。」
イエス「掟を破ったことのない者は?この中にいるか?一人でもいたら進みでるが
いい!この石を投げるがよい!」
村人C「やましいことは、何もない。」
イエス「よし、大きい石がいい。いいな、ゼベダイ。神は見てるぞ。君は雇い人を
だまし、あの後家と何をしたか。神が君の手を麻痺させてもよいのか?」
ゼベダイは黙って、手に持った石を落とした。イエスはマリアを助け起こして、
村人達に言った。
イエス「神は奇跡を示される。私たちは家族だよ。君らに話をしたい。エート、ソ
ノー。例え話をしたい。エート。農夫が畑を耕してて、ある種が地面に落ち、鳥が
食べてしまった。ある種は石に落ち、枯れてしまった。だが、ある種は肥えた土地
に落ちて、一国を養える小麦を実らせた。その農夫は、この私だ。」
村人D「先生、教えて下さい。あなたが農夫で、我々が石なら、種は何です?」
イエス「エート、愛だ。愛し合う心だ。」
村人D「言うのは簡単だが、別世界のことだ。説教は飢えを癒してからだ!」
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イエス「神は怒っておられた。だが、今は違う。ある朝、私に現れて、そよ風のよ
うに爽やかに言われた。立て、と。私は立った。」
セベタイ「地獄に落ちろ!」
女A「子供のおとぎ話だわ。何の役にもたたない。」
イエス「君らは正義に飢えている。」
村人E「パンにも。」
イエス「パンにも? 公平に、敬意をもって扱われることにも飢えている。正義に
飢えている者こそ、神の祝福を受ける。二度とパンに飢えることはない。真に尊い
ものを得る、愛だ。人を愛し、慰め、善を行う勇気を持つ。そして、死を悲しみ喪
に服する者は祝福される。神はその人々を慰めてくれる。弱気者、また虐げられて
いる者も祝福される。平和を作る者、慈悲深い者、病人、貧しい者、天国はその人
たちのものだ!」(図2右)
以上の部分は有名な「山上の垂訓」に相当する。しかし、新約聖書の4福音書
(マルコ書、マタイ書、ルカ書、およびヨハネ書)では、「山上の垂訓」は洗礼者
ヨハネの後に記載されている。
村人F「ハ、ハ、ハ!」
イエス「いま笑っている者は、やがて泣くだろう。いま満腹の者はやがて飢え、金
持ちは富を失う!」
多数の村人達が「金持ちを殺せ!」と叫んで飛び出して行った。
イエスは戸惑いながら言った。「愛だ。愛を持て。」
セベタイが息子達に言った。「帰ろう。」
息子の一人「残ります、父上。」
セベタイ「仕事を手伝え、ヨハネ!お前が必要だ。」
もう一人の息子「私も残ります。」(福音書ではヤコブ。)
イエスはガリラヤ湖畔で、漁師の兄弟ヤコブ(福音書ではペテロ)とアンデレを弟
子に加えた。
場面2:イエスは十数人の弟子達を連れてガリラヤを伝道して回った。
弟子達が野宿をして寝ている時、ユダがイエスに問うた。
ユダ「頬を打たれたら、もう一方の頬を出す?それは、天使か犬だ。おれは自由な
人間だ。頬は出さない。」
イエス「君も、私も、目的は同じだ。」
ユダ「同じ?
あんたもイスラエルの自由を?」
イエス「私が求めるのは、魂の自由だ。」
ユダ「違う。そこが納得できない。体を自由にした後で、魂の自由がある。家は土
台から建てる。」
イエス「その土台が魂だ。」
ユダ「土台は体だ。そこが出発点だ。」
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イエス「違う。魂を変えねば、何も変わらない。ローマ人が別の征服者になるだけ
だ。勝利を得ても、毒は体内に残る。それを断つことが必要だ。」
ユダ「どうやって?」
イエス「愛だよ」
ユダ「おれは高僧の刺客だ。」
イエス「なぜ、殺さない?」
ユダ「待つことにした。あんたは国を統一する、あの人かも知れない。」
イエス「私が救世主だと。どうして分かる。私はマグダラに石を投げる者を殺した
かった。だが、口を開いたら愛という言葉が勝手に飛び出した。どうして?」
ユダ「洗礼者ヨハネの所へ行くのか?
彼が答えを。」
彼は、救世主の訪れは近いと言っている。
イエス「ユダ、私は怖い。そばにいてくれ。」
図3.左:ヨハネはイエスを洗礼した。右:ヨハネはイエスに言った。
場面3:イエス一行はヨハネの洗礼場に行く。
ヨルダン川(図1)で、ヨハネは次の言葉を叫びながら、人々を洗礼していた。
ヨハネ「来たれ!さらば癒されるであろう!神の言葉を聞け!」
イエス「預言の言葉を?
イザヤは何と?」
ヨハネ「彼は言った、主の道を整えよ、と。君が主なのか?」
イエス「それを尋ねたい。」
ヨハネ「なぜ、ここへ?」
イエス「洗礼を受けたい。」
ヨハネ「おそれ多いことに、あなたが主なら、私に洗礼を。」
イエス「私に洗礼を。」
ヨハネはイエスに洗礼を行った。(図3左)その夜、二人は話し会った。
ヨハネ「愛…、その意味は?
求める。」
密のように甘く、血にもなる。愛は犠牲だ、行動を
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イエス「愛で、すべて収まる。」
ヨハネ「収まる? 周囲を見ろ。疫病、戦争、腐敗、偽りの預言、偶像崇拝、拝金
主義、くだらん世の中だ。腐った木は、斧で切り倒すほかない。」
イエス「私の心には、愛しかない。」
ヨハネ「私にも心はある。だが不正は愛せない。愛せぬものとは闘う。神は怒りを
要求する。」
イエス「怒りを?
我々はみな兄弟なのに?」
ヨハネ「神の道は愛だけと思うか? 死海の底に何がある? ソドムとゴモラが沈
んでいる。あれも神の道だ。主が来る日には、木から血が吹き出し、壁の石が命を
持ち、家人を打ち殺す。その日がやって来た。神の斧をあなたに渡そう。」
イエス「間違った答えだ。」
ヨハネ「正しい答えは?」
イエス「分からない。」
ヨハネ「私を信じないなら、だれを信じる?」
イエス「神を」
ヨハネ「イスラエルの神は、砂漠の神。神の声を聞きたいなら、砂漠へ行け。」
(図3右)
イエス「ありがとう。」
ヨハネ「用心を。砂漠は神だけではないぞ。」
図4.左:焔はイエスに言った。右:洗礼者ヨハネの幻がイエスに言った。
場面4:イエスは砂漠に入って行った。
蛇が現れて、イエスに言った。
蛇「私はあなたの霊よ。あなたは孤独に泣いている。女を愛し家庭を持つことが、
だますことなの? なぜ世界を救おうなどと? 自分の罪だけで十分では? 世界
を救うなんて、思い上がりよ。救うのはあなた自身よ。愛を見つけて。見て、私の
目を、私の胸を。ベッドへ行きましょう。私のイエス。」
イエスは耐えた。すると蛇は消えた。
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雄ライオン「よくやった。おめでとう。女と家庭のつまらぬ誘惑は過ぎ去った。私
は君の貪欲な心だ。うわべは謙虚、本当は世界を狙っている。十字架を作りながら、
権力を夢見てたろう? 絶対権力を。口では神のためなどと。今なら地球上、どの
国でも望むままだ。ローマでさえ。」
イエス「デタラメだ!その舌を抜いてやる。」
ライオンはイエスに近寄って来たが、イエスの目前で消えた
焔「イエスよ。私を待っていたのだろう? 洗礼者は見抜いていた。君は神のたっ
た一人の息子だ。私の所へ来るがいい。生と死の世界を支配し、生を与え、生を奪
う。裁判の座につけ。私の隣に座るのだ。我々は絶大な力を握れる。」(図4左)
イエス「悪魔だな。」焔は消えた。
イエスが目覚めると、目の前にリンゴの木が生えていた。イエスがリンゴの実を
食べると、中から血が流れ出た。(筆者の林は、イエスがリンゴを食べた意味が分
からない。)焔がまた現れた。
焔は「また会おう!」と言って消えた。
イエスは斧が側にある事に気付いた。洗礼者ヨハネの幻が現れて、言った。
ヨハネ「恐れるな。君がその人だ。私の仕事は終わった。やすらかに死ねる。神は
君に、立て、と言っておられる。神の日が訪れた。その斧をとれ。人々に説くの
だ。」(図4右)
イエスは、斧でリンゴの木を切り倒して、砂漠を去った。そして、洗礼者ヨハネが
ヘロデ王に殺されたことを知った。
場面5:イエスは砂漠を出て、弟子達がいる場所に戻った。
イエスは弟子達に言った。
イエス「洗礼者ヨハネは水で洗礼を。私は火でしよう。私は君らを誘いたい。宴会
ではない、君らを闘いに誘っているのだ。」
イエスは素手で自分の心臓を取り出した。(こういう事は、新約聖書には書かれて
いない。筆者の林は「本映画の監督がこのような場面を作成した意図」を理解でき
ない。林は「これが、イエスの手品であれば大変おもしろい」と思うが…。)
イエス「私の心臓だ。神は我々の中にある。悪魔は我々の周囲に満ち満ちている。
我々の斧を悪魔の喉に振り下ろす。彼等と戦うのだ。彼等は病人の中、金持ちの中、
寺院の中にもいる。見せてやろう。羊を持つものは分け与えてしまえ。家族を持つ
ものは捨てるのだ。愛を信じていたが、今はこれを信じる。」
イエスは斧を弟子達に示して、言った。
イエス「私に従うか?」
ユダ「神よ。」と言って、イエスの足に口付けした。(ユダはイエスの目的が自分
の目的「武力でローマを倒す」と同じであると思ったのであろう。)
イエス「今日と明日、私は人々から悪魔をはらい、3日目に私は全うされる。」
(この部分は、ルカ書 13:31-35 の記載と同じ。)
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図5.左:イエスはナザレ村の人達に高らかに宣言した。左から、マグダラのマリ
ア、ユダ、イエス、およびペテロ。右:イエスに対する、ナザレ村の人達の反応。
場面5:イエスは弟子達を連れてナザレ村に帰った。
イエスはナザレ村に帰る途中、亡者達から悪魔を祓い、ある盲人の目を見えるよ
うにした。ある結婚式では、水を葡萄酒に変えた。結婚式では、イエスは大いに酒
を飲み、歌い踊った。(この部分は、マタイ書 11:18-19 およびルカ書 7:33-34 の記
載と同じ。)
イエスは、ナザレ村の集会で村人達に声をかけた。
イエス「兄弟達よ!聞いてくれ。預言者が預言し、神が語ったのは私の事だ。神は
私に秘密を打ち明けた。私を待っていたのだろう? よい知らせを伝えに、急いで
やって来た。神の国が訪れる。」(図5左)
村人A「あんたは奇跡を起こせるって? 見せてくれたら、信じよう。」
イエス「救世主が奇跡そのものだ。私を受け入れるか? 私は今あるものをすべて
打ち壊し、作り変える。新しい世界だ。神の世界を作る。パンは貧しい者に。金銀
は朽ち、君らの心を腐らせてしまう。よく聞くがよい、洪水と火災が起こり、すべ
て滅びる。新しい方舟がその火を乗り切る。その鍵を持ち、開くのは私だ!方舟に
乗る者は私が選ぶ。君らナザレの兄弟達を最初に招待しよう。私と行こう。」(な
ぜ、イエスはここで分かりやすい奇跡を見せなかったのだろうか?)
村人B「マリアの息子が神の使い?」(「マリアの息子」とは「父なし子」すなわ
ち「私生児」を意味する。当時、私生児は罪の子と見做され、忌み嫌われた。)
村人C「家族を呼べ。頭が変だぞ。」(図5右)
イエス「何がおかしい。すべてが灰になるのだぞ。私と一緒にエルサレムへ!」
村人D「結婚しないと、ああなる。精液が脳を侵す。」
村人E「家へ帰れ!お前は悪魔だ!」
イエス「家はここだ!」
村人F「殺せ!妖術使いだ!」
イエス「エルサレムは落ちかけている。信じてくれ!」
母親のマリアがあわてて現れ、イエスに走り寄ってきて、言った。
マリア「息子よ、私と一緒に家に帰って。」
イエス「母親も家族もいない。私の父親は天国にいる。」
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マリア「何てことを!」(本映画では、マリアは「自分が神により受胎し、神の
子・イエスを産んだ」とは思っていない。)
村の女A「マリア、彼の背後に大勢の天使がいるのを見たわ。」
マリア「天使なんて要らないわ。」
福音書にも記載されている通り、イエスは故郷では受け入れられなかった。
場面6:イエスは弟子達を連れて、ナザレ村からエルサレムに出発した。
エルサレムへ行く途中、イエスはペタニア村で(場所は、図1を参照)、3日前
に亡くなったラザロを甦えらせた。(本映画では、「ラザロの復活」の意味が説明
されていない。)
イエス一行はエルサレムに着き、ユダヤ神殿に詣でた。そこには、ローマ皇帝の
像が飾られ、神殿娼婦達がいた。回廊には、犠牲の動物を売る商店や両替店が沢山
あり、民衆でごった返していた。イエスは商人等の店を片っ端から壊しながら叫ん
だ。
イエス「ここは神に祈る場所だ、商いの場ではない。」
神殿の高僧が現れて、イエスを詰問した。
高僧「ナザレ人よ、何をする。」
イエス「神が動物の生贄や献金を求めたか?」
高僧「ローマのコインには異教の神が彫られてる。異教の金はユダヤの金に両替せ
よとの法律だ。」
イエス「そんな法など、私が新しい法と希望を与える。」
高僧「物を壊すのが新しい法か?
お前などが…。」
イエス「古い法は終わり、新しい法が始まるのだ!私は神なのだ。」
高僧「神への冒瀆だ。」
イエス「私は冒涜の聖人だ。私は平和ではなく、剣を持ってきたのだ。」
高僧「いまに殺されるぞ。」
イエス「では、言おう。この神殿は3日のうちに、すべて破壊される。神はお前ら
だけのものと思うのか? 神の不滅の魂は、この世のすべての人のものだ。神は万
人のもの、イスラエルの神ではない!」
この日、イエス一行はユダヤ神殿からいったん引き揚げた。
場面6:イエスはユダだけに秘密を話した。
イエス「神からの恐ろしい秘密だ。エルサレムに来たわけを?」
ユダ「革命がねらいでしょう?」
イエス「昨夜、イザヤが現れた。私は羊だ、じき死ね運命なのだ。」
ユダ「死ぬ?
あなたは救世主では?」
イエス「そうだよ。」
ユダ「救世主が死ぬはずはない。」
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イエス「私も最初は理解できなかった。」
ユダ「毎日、言うことが違う。最初は愛、次は斧、今度は死ぬだと?
なぜだ。」
イエス「神は少しずつしか語って下さらないのだ。だが、やっと分かった。私には
いつもつきまとっていた不思議な声、足音、そしていつもある影が…。十字架だ。
自ら十字架につけられて死ぬのだ。神殿に戻ろう。」
ユダ「十字架で死んだ後は?」
イエス「生者と死者を裁きに戻る。」
ユダ「信じられない。」
イエス「信じるのだ。」
図6.左:イエス一行は宣言した。左から、ペテロ、イエス、ヨセフ、ユダ。
右:イエスは民衆に叫んだ。
場面7:イエスはロバに乗ってエルサレムに乗り込んだ。
イエスは(ゼカリア書の預言の通り)、ロバに乗ってエルサレムに入城した。民
衆はイエス一行を熱烈に歓迎した。
弟子達「ユダヤの王、イエスをみなで讃えよう。」(図6左)
イエスは、また、神殿の商店を叩き壊して回った。民衆も狼藉に加わった。
イエス「神よ、あなたのみ心に添っていることを。力の残っているここで、命をお
召し下さい。」
イエスは民衆に向かって叫んだ。
イエス「私は世界に火を放つためにやって来た。(図6右)洗礼者ヨハネは神の訪
れは近いと言った。神はここにいる。私が神だ!(図7左)私はすべての者に洗礼
を施す。火で!」
民衆「オウ!オウ!オウ!」民衆はまさに爆発寸前であった。
そこに、神殿兵達が現れた。民衆は怯んだ。ユダはイエスを促した。
ユダ「彼等は待っています。命令を。」
イエスも心の中で呟いた。「私も待っています。十字架ではなく、今ここで死
を。」
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ユダ「語りかける時です。早く、彼等に言葉を!」
しかし、イエスは何も言えなかった。ただ、両手から血が流れ出した。(これは、
十字架につけ、という神の徴であった。)
イエス「ユダ、助けてくれ。」
イエス一行は神殿から逃げ出した。民衆はイエスに失望した。この後の展開は、前
回の②で紹介した。詳細は、前回のサイト/fをご覧下さい。
図7.左:イエスは民衆に叫んだ。右:イエスはユダに頼んだ。
前回の紹介②のあらすじ。
イエスはユダに次ぎのように依頼した。
イエス「私は十字架で死ぬほかない。私は罪を贖う生贄だ。君がそこに導く。君を
通じて神がなさるのだ。神殿兵が私を捜している。君は彼らに、『イエスはゲッセ
マネにいる』と言うのだ。」(図7右)
ユダの手引きで、神殿兵達はイエスを逮捕した。ローマ総督ピラトは、イエスをゴ
ルゴダの丘で十字架に磔ける判決を下した。
十字架に磔けられたイエスは「(父よ。)なぜ私をお見捨てになるのですか?」
と呟いた。すると、天使が現れて、イエスを十字架から救った。イエスは通常の生
活に戻り、マグダラのマリアと結婚した。彼女は直ぐに亡くなったので、イエスは
ラザロの姉と再婚した。イエスは多数の子供を儲け、人間として人生を楽しんだ。
紀元 70 年に、エルサレムはローマ軍により落城した。その日、イエスは死の床に
あった。そこにユダが現れ、イエスに詰問した。
ユダ「臆病者め! あなたは私に何と言った。『私を裏切って、十字架につけてく
れ。私は甦り、世界を救うだろう。死は扉だ。兄弟ユダよ、恐れずに私を扉の向こ
うへ』と。私はあなたを愛した。だから裏切った。なのに、あなたはここで何をし
ている?」
イエス「お前は分かっていない。天使が現れたのだ。神が私を救うために天使を
…。」
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ユダ「天使だと?
どこに?
あれか?
悪魔だよ。」
天使は、一瞬にして燃える焔と化して、言った。
悪魔「また会うと言ったろ?」
イエスは神に懇願した。
イエス「父よ、あなたの手をお与え下さい。人々を救いたいのです。今一度、あな
たの胸へ!私をあなたの息子として迎えて下さい。その代わり、喜んで十字架につ
き、甦ります。私を救世主にして下さい!」
イエスはこう叫んで我に帰ると、まだ十字架の上にいる事に気付いた。一瞬の間、
イエスは苦しさの余り正気を失って、幻覚を見ていたのである。イエスは次のよう
に叫んで息を引き取った。
イエス「これで成就されました!」
(3)本映画に対する筆者(林)の感想
本映画におけるイエスの伝道開始は、新約聖書の4福音書の記載とは順番が違っ
ている。4福音書では次ぎのような順番になっている。①イエスは洗礼者ヨハネか
ら洗礼を受けた。②すると、天が開け、神の御霊が鳩のようにイエスに下った。ま
た、天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」との声が聞こえた。
③それから、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に行き、40
日の断食をした。④イエスが荒野から帰ると、ヨハネが捕らえられたと聞いて、イ
エスは伝道を始めた。
4福音書では、ヨハネがイエスを洗礼した時に、イエスに「神の御霊」が降り、
イエスは三位一体の神に変身したことになっている。本映画では、イエスは神から
の幻聴を聞いた後に、ヨハネから洗礼を受けたが、洗礼時には神の声はなかった。
本映画は、「イエスは人間であった」ことを強調しているのであろう。なお、「イ
エスはヨハネ教団に属していたが、分派・独立してイエス教団を作った。正統なヨ
ハネ教団を継承したのは、シモン・マグスであった」との説もある。
新約聖書は次ぎのように記載している。「イエスは十字架上で人類の罪を贖って
死んだ。イエスは死後の3日目に復活し、救世主(キリスト)であることを弟子達
に示した。その後、イエスは『必ず再臨する』という言葉を残して昇天した。」イ
エスを信じる人々(原始キリスト教徒)は「イエス=神は、天の軍勢を率いて間も
なく再臨され、ユダヤ民族を救って下さる」との強い期待を持っていた。
前回に紹介したように、 西暦 66 年、ユダヤの人々はローマ帝国に対して反乱を
起こした。(第一次ユダヤ戦争)エルサレムを包囲したローマ軍は、紀元 70 年のあ
る日、ついに市内に乱入しユダヤ神殿に火を放った。ユダヤ神殿は、イエスが予言
したように、3日3晩のあいだ燃えて、全焼してしまった。ユダヤの人々がエルサ
レムに篭城していた間、一部のキリスト教徒はエルサレムから避難したので、彼等
は「裏切り者」と呼ばれた。残りのキリスト教徒は、イエスの再臨を信じて、エル
サレム篭城に参加した。しかし、エルサレムに乱入したローマ軍は、市内にいたユ
ダヤ人達を、ユダヤ教徒かキリスト教徒かの区別もなく、金持ちか貧乏人かの区別
もなく、総て虐殺するか奴隷にした。その間、神は沈黙していたし、イエス・キリ
ストの再臨もなかった。
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ユダヤの人々は、西暦 132-135 年に再度、ローマ帝国に対して反乱を起こした。
(第二次ユダヤ戦争)この時には、ユダヤ教会はシメオン・バル・コシェバという
男を正式に「救世主」と認定した。彼は「星の子」(シメオン・バル・コクバ)と
いうメシア称号を自称した。ローマ軍の鎮圧により、救世主は戦死し、ユダヤ教の
高僧達は反乱の首謀者として処刑された。多数のユダヤ人が死亡し、エルサレムは
完全に廃墟となり、ユダヤ全土は荒れ果てて、反乱は終結した。ユダヤの人々はエ
ルサレムへの立入りを禁じられ,祖国を追われることになった。
このような、ユダヤ滅亡の危機においても、神は沈黙していたし、イエス・キリ
ストの再臨もなかった。私は「イエスの功績は次ぎの事を全人類に知らせた」こと
にあると思っている。なお、イエス自身がこれらを自覚していたかどうかは不明で
あるが、イエスの言動により、結果的に全人類は次ぎの事を知るようになったので
ある。
1)神自身がこの世に現れて、特定の人間や民族を自ら救うことはない。神の息子
であるイエスが十字架の上であれだけ苦しんでいても、神は沈黙を守って、イ
エスを救いに来ることはなかった。
2)ユダヤ教の聖典(現在の旧約聖書)に記載されている神の顕現(ノア、アブラ
ハム、モーゼらへの顕現)は、ユダヤ民族の神話に過ぎず、事実ではない。
3)神は人や自然を通じて、神の意思を表す。つまり、神は「自然科学の法則」の
別名である。
4)神に頼ってはいけない。「神は自ら助くる者を助く」と肝に銘じるべきである。
私は個人的には、「車椅子の科学者・ホーキング博士が再臨のキリストである」
と思っている。イエスの時代には、人々は神々や悪魔の存在を信じていた。グーノ
ーシス派の人達は、「ユダヤ教の神は劣悪な神で、穢れたこの世界を作った。ユダ
ヤ教の神の上に全知全能の至高神がいて、至高神は無から全宇宙を創造した。」と
考えていた。
イエスの時代はおろか、20 世紀の後半まで、「無から全宇宙が自ずから生じた」
という説は、訳の分からない戯言に過ぎなかった。ホーキング博士はこの説の正し
さを科学的に証明し、「全宇宙の発生には神はいらない」と宣言された。私は「車
椅子の上で宇宙の真理を追究するホーキング博士の姿は崇高で、再臨のキリストに
ふさわしい」と考えている。
(執筆完了:2014 年 10 月 24 日)
図8.
左:三位一体の神
像
右:ホーキング博
士。筆者の林は、
「彼こそが再臨の
キリストである」
と思っている。
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