『茶味』の輪読を終えて

<禅と諸道>
『茶味』の輪読を終えて
沖野 元禮
昨年4月から毎月の擇木禅セミナーでの茶書勉強会で、奥田正造著『茶味』輪
読会の読み手を仰せつかり、1年をかけて3月の会をもって読み終えました。
嘗て磨甎庵老師の侍者を勤め始めた頃、
「お前も平手前くらいやっておけ!」
といわれ、今は亡き緝熙庵老禅子からのお勧めもあって、佐藤妙珠禅子門下に加
えていただいたのは何年前でしょうか? お稽古に顔を出したり引っ込めたり、
その間この『茶味』も何頁かは拾い読みいたしました。
今回読み手を仰せつかって、せめてスラスラ読めるようにと何度か読み返し、
或いは各会毎の要点と思われる事項を2,3枚の紙にまとめて話題提供の資料と
したりもいたしましたが、いかんせん仏教の知識に乏しく、加えて坐禅、茶道の
境涯も低く、字面はなんとかこなせるようにはなりましたものの、
「一体全体奥田
正造先生(以下著者と呼ばせていただきます)がおっしゃらんとされるところは
何なんだ」
というところがはっきりいたしません。
「何とかこの茶味を把握したい」
との思いで自分なりにまとめたのがこの一文です。
出来上がりを見みてみますと、結局各章のタイトルと私が「これは」と感じた、
いわば好みのフレーズの羅列にすぎないものですが、自分といたしましてはこれ
で『茶味』の概要は把握できたような気分ですし、これを以てなんとはなしに『茶
味』を読み終えたかの安心した感じがしております。
『茶味』はご承知のとおり、著者が「第一章の序話」で述べておられるとおり、
「応接の礼、彼此談論の和はげにありたい、そうしてこのような心持ちはお茶か
らでなければ、出て来ないように思う」との茶道に対する思い入れの一方を述べ
ておられた本文と、これも「一の序」で述べておられる著者の茶道の背景となっ
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ている一方を述べられた『爐邊閑想』とからなっています。
本文と『爐邊閑想』とを1枚の紙にまとめましたのが次頁の図、奥田正造著『茶
味』のまとめであります。図は、枡を爐縁に見立ててその内側に『茶味』本文各
章のなかから好みのフレーズを、その外側に『爐邊閑想』の中から好みのフレー
ズを抽出して記載しております。そうして、図に入りきらないフレーズは3頁以
下に各章毎に書き出し、末尾に参照・確認の為の(頁―行)を附記しました。
伝教大師最澄の比叡山での「依身より依処」のご述懐(156-10)、読み手を命ぜら
れなければ改めて『茶味』を読み返すこともなかったでしょうことを思いますれ
ば、ただ感謝あるのみであります。ありがとうございました。
■著者プロフィール
沖野元禮(本名/倶久)
昭和 17 年、広島生まれ。中央大学法学部卒。元陸上自衛官。昭
和 63 年、人間禅白田劫石老師に入門。現在、人間禅輔教師。
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第一章:序話
・賓主応接の礼、彼此談論の和はげにかくありたい(紀伊大納言頼信と細川忠
興との逸話)
、そうしてこのような心持ちはお茶からでなければ、出て来な
いように思う。(6-10)
第二章:茶道の由来
・茶道を説明するには是非ともその師弟三伝する間を考察する必要がある。
(7-5)
・茶道精神に於いて貴ぶ所は、一向問取と禅林の清規と是である。(133-1)
・師影に絶対随身行持することによって・
(略)
・啻(ただ)に手前に光りを放
たしむるのみならず、また直ちに仏心を養い仏格を成ずるの大道である。
(139-7)
・利休のお茶の精神とは仏と交わって己事を究明するの一事である。(146-1)
第三章:茶道の真諦
・茶道の精神を簡単につくす言葉は『和敬清寂』の四字である。(15-2)
・和敬清寂の4字に導かれつつ精行倹徳の人となる。これが茶道の修であり証
である。(20-7)
・之から考えると修行の出発はまず静寂の境を求めて、茲に身を置くことが第
一であるといわねばならぬ。(156-4)
第四章:かすかなる感じ
・心身を練る第一歩は感受性を鋭敏ならしむるに在る。(21-2)
・心を練るに当たって最も都合良く、最も重き役目をなすものはかすかなる感
じである。(23-2)
・自性法身の風光を古徳練行の跡に求め、霹靂(へきれき)を無声の茅檐(ぼ
うえん)に聞き、その体験と追憶とを無一物の庵裡に移して、その風尚たら
しめたいと希うたからであった。かくて帰結し得た三事は極めて平凡であっ
た。曰く暁に起きよ。曰く掃除せよ。曰く所作の音に気をつけよ。之を法母
庵の三事とした。(181-7)
第五章:自己の姿
・人は自己の姿を明らかに己の心の鏡に写つさしめる様な境地に立つ時、行動
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に不安を感ずる。(33-9)
・静かなる茶室に在りて、賓主応接の礼を学び、彼此談論の和を習う時、自己
の姿を和敬清寂という心の奧の鏡にかけて、その醜さを改め、万変に酬作し
て乱れざる精行倹徳を研く、かくして得たる自己の姿こそ、安祥として自由
の天地をゆくに足る自己の姿なのである。(37-11)
第六章:自然の趣
・客を迎えて馳走せんとする時、その主人のまごころは一種の趣となって現れ
る。さればこの趣は出さねばならぬというよりは主人の心から自然に現れる
筈で、これを自然の趣という。(39-2)
・理事両面から工夫せられた趣が相集まって所謂「一鳥不啼雲埋老樹」という
幽境を作り、茲に客を導くのである。(50-6)
第七章:所作と言葉
・心の働きが時に応じた動作となる、之を所作という。(52-2)
・平手前の練習を一日50回と定めて試みるに煩・
(略)
・思雑慮が影をひそめ
て全く虚心となり、一々の所作に純一無雑となることが出来る。(59-7)
・簡単なれど余情を含む挨拶が茶道の挨拶である。(62-4)
第八章:器
・真に値ある器とは、譬えば父母の手澤の存する様な、その人に取って二なき
器のことである(68-8)
・かかる徳ある人の手に触れた物こそは、例え欠け茶碗でも、破れ釜でも、三
重四重の箱に蔵めて敬重すべく、旦夕愛撫して古を偲ぶべしと思う。(175-3)
第九章:水屋の働き
・水屋の働きは清と敬とを第一とする・
(略)
・。洗いには水を惜みて水を惜ま
ずというを法とする。(86-6)
・懐石を作るには、喜・老・大の三心を先とせねばならぬ。(88-9)
・無動如来の道に参ずれば到る処に妙喜の国土が現出する。主人の清白なすす
ぎによって客も亦五濁の塵垢を去り、大悲所薫の甘露味をいかに喜んだこと
であろう。利休の参じ問わんとした所は、この不可思議の力を如何にして得
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るかに在ったのではなかろうか。(147-5)
・客を迎えて心入れの篤き、手前を行って一生懸命なる。賓主の礼、応接の和
の歴然たるは皆この馳走尽力の誠心の発現であって、仏心清浄の世界を招来
する所以である。(169-6)
第十章:茶境
・主客共に世塵のけがれを洗い去って、静寂の中相和し、相敬し、油然として
楽の心に叶うとき、之を茶境という。(97-2)
・高野全山は正に是一箇歴然たる茶室の露地である。別言すれば茶室に於ける
露地入りの気持ちは、応にこの高野詣での気持ちでなければならぬ。(161-6)
第十一章:無礙自在
・如何なる境に臨んでも、今・茲・我ということを忘れず、和敬清寂の自らな
る働きによって、所作に何等の躊躇がない。法に従えば、従容として一絲乱
れず、法を破れば、突嗟の働きによって更に一境を開く。無礙自在、
「白雲
の長空を飛ぶ」が如くである。(116-4)
第十二章:真の生活
・物欲の世界から遁れ得て、無一物の境に立ち、貴い心の働きに気づいたなら
ば、一事に接し一物に対しても感謝あり、慈心働き、更にいいしれぬ霊感が
わいて、しみじみと生き甲斐のあることが感ぜられる。一度この感を得来た
れば、わが眼前に展開せらるる森羅万象は、歓喜の一念に照らされて皆光明
に輝く。日々の行持はこの念によって報恩となり、やがて身心の敬愛となり、
大道の通達を以て自ら任ずるに至る。真の生活とは即ちこのことである。
(121-6)
・茶道の修養は更にその上のものをねらって居る。何ぞや曰く真実の生活是で
ある。茶道の修養は茶室裡にのみ止まって居るべきものではない。(182-9)
・日々同事ばかりのようで実は変化窮りないわが家常の中に、極楽世界を見出
すことがわが生を潤沢ならしむる所以で、ここに活用してこそお茶のお茶た
る功徳がある。(183-3)
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