鹿児島純心女子短期大学研究紀要 第34号,37−56 2004 奄美の婚姻習俗と関連民謡 奄美の婚姻習俗と関連民謡 小 川 学 夫 Matrimonial Tradition and Related Folk Songs in Amami Islands Hisao Ogawa 奄美諸島の伝統的な婚姻習俗を説明する民謡と実際の婚礼歌を紹介しながら、諸行事の成り 立ち、新旧などを考察した。奄美には、「クチムスビ」などといわれる婚約の儀礼と、「ネービ キ」などといわれる正式の結婚式とがあったが、結論的に「ネービキ」系の行事は新しいもの で、かつては「クチムスビ」系行事で婚姻関係は成立したのではないかと推定した。 Key words: [奄美諸島][奄美民謡][婚姻習俗][婚礼歌] (Received October 14, 2003) [目次] はじめに 1、奄美における婚姻習俗の概要 2、婚姻にまつわる民謡歌詞群をめぐって 3、婚礼における祝歌、儀礼歌の系譜 まとめ [論考本文] はじめに 奄美における現在の婚姻習俗は、ほとんど本土のものと変わらないが、それでも結婚披露宴 に民謡のウタシャ(歌い手)が招かれて、祝い歌をうたうということがよく行われる。しかし、 かつての婚礼には、今と比較にならないくらい頻繁に歌が出たようで、歌が婚礼全体を仕切っ ていたのではないかと想像できるほどである。なお、婚礼の座の歌とは別に、婚姻に関係した 事柄を歌った興味ある民謡〈注1〉も少なくはない。本稿では婚姻習俗と歌のかかわりを描出 しながら、かつ婚礼で歌われた歌の系譜をたどってみたいと思うものである。 用いた主な資料は、次の著書の関連項目と、 私自身が折々に見聞したものである。 『龍郷町誌 民俗編』 〈注2〉(本稿では『龍郷町誌』と略す)の「第5章 二、婚姻」 (執筆 登山修) * 鹿児島純心女子短期大学生活学科生活学専攻人間文化コース (〒8 90−8525 鹿児島市唐湊4丁目22番地1号) −37− 鹿児島純心女子短期大学研究紀要 第34号 (2004) 『名瀬市誌』〈注3〉の「第五章 九、明治大正時代の名瀬近郊の習俗(根瀬部を中心として の記録) 第十節 1、婚礼」(執筆 恵原義盛) 『瀬戸内町誌 民俗編』 〈注4〉 (本稿では『瀬戸内町誌』と略す)の「第四章 一、婚姻」 (執 筆者 登山修) 『喜界町誌』〈注5〉の「第8章 第六節 一、婚姻」(執筆者 英友一郎) 『伊仙町誌』〈注6〉の「第6編 第三章 第二節 婚礼」(執筆者 泉昭久) 『和泊町誌(民俗篇)』〈注7〉 (本稿では「和泊町誌」と略す)の「第四章 第一節 婚姻」 (執筆者 永吉敏人) 『与論町誌』〈注8〉の「第七編 第四節 三、婚姻」(執筆 野口才蔵) 『奄美民謡大観(改訂増補版)』〈注9〉(本文では『奄美民謡大観』と略す)の「結婚式にお ける水掛の風習」など(著者 文英吉) 『南島歌謡成Ⅴ 奄美篇』〈注10〉(本文では『大成』と略す)の諸項目(編者 田畑英勝・亀 井勝信・外間守善) 『日本民謡大観(沖縄 奄美)奄美諸島篇』〈注11〉(本文では『日本民謡大観』と略す)の諸 項目(編者 日本放送協会) 『奄美の島唄 歌詞集』〈注12〉(本文では『歌詞集』と省略)の各項(著者 恵原義盛) 『奄美の島唄 定型琉歌集』〈注13〉(本文では『定型琉歌集』と略す)掲載の各歌詞 なお、民謡詞章の引用に当たっては、発音表記は尊重しながら表記法は本稿の統一した体裁 に従った。つまり、左側に、歌詞部分はひらがなで、ハヤシコトバや投げコトバはカタカナで、 相方ハヤシは歌詞反復以外はカタカナで表記し、括弧でくくった。右側に共通語訳を付したが、 原文を参考にしながら、小川が試みたものである。 1、奄美における婚姻習俗の概要 奄美の民俗は総体的にみて、それを実修する(あるいは「実修した」)人々の世代、島やシ マ(集落)、階層等によって大きく違うといわれる。それは私自身の実感でもあるが、婚姻習 俗の場合も例外ではない。しかし、明治から昭和20年代にかけての婚姻習俗をみてみると、む ろん例外はあるが、おおよそ次のような過程を経たといえる。 ①婚姻相手の決定 ②「サンゴービン(三合瓶)」などといわれる男側から女側への結婚申し込み ③「クチムスビ(口結び)」などといわれる実質的縁組(以下「クチムスビ系行事」という) ④「ネービキ(根引き)」などといわれる結婚式(以下「ネービキ系行事」という) ⑤「ミキャモドリ(三日戻り)」などといわれる里帰り ①の場合、親たちが一方的に決めてしまう場合と、若い男女がお互い好きあっていく場合が あった。各種報告を読むかぎりでは、後者に傾くが、男女が知り合う主たる場は歌遊びであっ た。現在、シマウタとして歌詞として残されているものは膨大なものがあるが、その大半は広 −38− 奄美の婚姻習俗と関連民謡 義の恋歌といってよいものである。その理由は、かつての歌遊びの場が、若い男女の社交の場 であったことに他ならない。 今70歳以上の人のなかには、自分の妻は歌遊びで一緒になったという人に時々会うことがで きる。与論島では「ヨアソビ(夜遊び) 」といって、娘を持つ親が、婿選びのために我が家に 青年達を呼んで歌遊びをやるということもあった。(与論町誌) ただ、近年になると、地域によって、歌遊びの楽しみがおおらかに享受される土地と、遊び 人、道楽者がやるものだと蔑視する土地もでてきた。後者のような所では、民謡を歌う女性は ズレ(淫売女)のようなものとさえいわれたものである。〈注13〉 いずれにせよ、若い男女が知り合い、結婚相手を決める主な場が「歌遊び」であったという 時代は、ごく近年まで続いたのだった。 こうして婚姻の相手が決まるか、相応しいと思う相手が現れると、②の段階に進む。多くは、 伯父伯母などの近親のものが、当の男性の代わりに娘の実家に嫁貰いを確認に行くのである。 このことを土地によって「ソウダングワ(相談ぐわ)」「ハナシグワ(話ぐわ)」「モレ(貰い)」 「ホシコロゼ(懐酒) 」「サンゴービン(三合瓶) 」などという。「ソウダングワ」「ハナシグワ」 というのは、それぞれ「相談する」「話をつける」という意味からきたものだが、「モレ」とい うのは、ずばり「嫁貰い」を指す。「ホシコロゼ」というのは、「懐にしのばせる酒」のこと、 「サンゴウビン」というのは、「三合の酒の入った瓶」のことだが、伯父伯母たちが相談に出 かけるときに、世間には知られないようにこっそり持参したものである。その三合の酒(焼酎) はただの手土産ではなかった。女性側がこの縁組を承諾するか、断るか、三合の酒で返答した のである。もし、返事を貰いにいったとき、空の瓶を返されたら承諾の意味であり、そのまま だったら断りの意味であったという。しかし、一度に承諾するのは軽いと思われるので、何度 かのやり取りの末、けっきょくは承諾することが結構あったとされる。 「伊仙町誌」によれば、同地には「サキムリ(酒盛り)」という行事があり、男側の近親の夫 婦が三合瓶を持って、娘の実家に行くのだが、このとき娘自身が「ありがとうございます」と いって、三合瓶を受け取り、それを先祖に供えた後、瓶の栓を抜くことが、そのまま結婚を承 諾することになったという。 ③の段階における「クチムスビ」は「口約束」の意味だとされる。本土の結納に当たるとい う人が多いが、実際今も「クチムスビ」という名のもと、結納の儀式と同じことをやっている 家が少なくはない。 この行事では、夫婦者の仲人が立てられるか、男側の伯父伯母や両親が女性側の実家に行っ て正式に結婚を取り決める。婿自身は何の関係もなく執り行われるのが普通であった。このと きも、男側から酒や肴を持参した。肴は「シジリブタ(硯蓋) 」といわれる重箱のような器に 入れて持っていったところから、この儀礼そのものを「シジリブタ]というところもある。 (『瀬戸内町誌』) ところで、多くの地域では、かつて「クチムスビ」をもって実質的な夫婦生活が始まるもの であった。周囲の人々も夫婦同然と認めた。 「喜界町誌」によれば、この島では、結婚を約束した日に「グジンムカエ(御前迎え)」とい う行事を行う。男の家でも、女の家でも盛大な祝宴を張り、男の家に娘を送っていくことまで −39− 鹿児島純心女子短期大学研究紀要 第34号 (2004) はするのだが、そのまま婿方の家に居つくのではない。また実家に帰って、その後は男の方が 公然と通うことになるのだという。 与論島では、始めて両家が会うという意味で「はがんぱじみ(拝み始め)」という行事が行 われる。やはり婿方の両親やオジ,オバが娘の家にお願いに行くのである。それが承諾された 後に、日柄をみて、酒や肴を持って女の家に行き、 「クチムスビ」とか「クチダル(口頼ん) 」と いう婚約の小宴を持つものだった。これで、二人の結婚は公認されるのであった。 ( 『与論町誌』 ) 。 これらの行事を仮に「クチムスビ系行事」と名付けるとすれば、どの地域にあっても、クチ ムスビ系行事には婿になる男性は一切参加していなかったという事実がある。 このすぐあとに「ジサン(持参)」とか、「フージサン(大持参)」といわれる行事を行う地 域もあった。これも男側から女側に餅やご馳走が詰められた重箱などが持参されるのがふつう で、これがシマ(集落)の各戸に配られるのである。つまり、この行事をもって二人の縁組が 共同体によって認知されたということになるのである。(『瀬戸内町誌』『龍郷町誌』など) 「クチムスビ」も含めたこのような席で、儀礼的な歌が出たかどうかは、これまでの報告で は特に触れられていない。ただ儀礼的な歌は出なかったとしても、祝いの歌遊びがあったこと は十分に想像される。 さて、「クチムスビ」や「ジサン」という行事が終わっても、すぐに本格的な結婚式が行わ れるとは限らなかった。しかし、実質的な結婚生活は始まった、というのは、男性、女性とも それぞれの実家に住みながら、夜になると男が女を訪ねて夜を明かすという、いわゆる[訪問 婚」が行われたということである。 奄美のシマウタの歌詞のなかには、カナ(恋人)のもとに忍んでいく歌や、忍びを促す歌が 数多くあるが、多くはこの時期のことを歌ったものだと考えてよい。 最終段階ともいうべき④の、婚礼は、つい近年までなかった地域もあったというし、やらず にすます夫婦も多かった。さらには、子どもが生まれた後に行う夫婦も多かったようである。 この「ネービキ」といわる結婚式は、嫁を出す側と、嫁を迎える男側で行われるのが普通 だった。前者は「ヤータチ」などといわれた。その意味は「娘が家を立つ」ということだが、 地域によっては「夫婦で家を盛り立てる]意味にとっているところもあるから注意すべきである。 後者が「ネービキ」とか、「ミービキ」「トジソーイ」などといわれるものである。「ネービ キ」「ミービキ」は訛りの違いで「根(血筋)を引く」ということ、「トジソーイ」は、「妻と 添う」ことである。 歌が頻繁に歌われたのは、このときである。それは、単なる婚礼祝い歌としてうたわれると ころもあったろうが、明らかに儀礼歌としてうたわれるところが多かった。参考までに、『和 泊町誌』などには、祝宴のなかで歌や踊りが出たことが記され、 『瀬戸内町誌』『名瀬市誌』な どでは明らかに儀礼として歌が出たことが記されている。 なお、娘が家を出るときは、棺が家を出るときのように表の玄関から出ること、婿の家に入 るときは「クダメイシ(踏み石) 」か「チキャラクサ(力草)」と称するものを踏んでから入る 風習が多くの土地にみられる。 (「チカラクサ」については『瀬戸内町誌』に記載あり) 特異なのは、嫁いできた嫁に、シマ(集落)の青年たちが水を掛ける風習があったことであ る。(『奄美民謡大観』『伊仙町誌』 ) −40− 奄美の婚姻習俗と関連民謡 このネービキ系行事における花婿の処遇は興味ある事柄のひとつである。多くの土地では、 夫婦ともにその座に出るが、『名瀬市誌』の例では、「トジソリ(妻添い)」といわれるその席 には花婿は出ることなしに、式の間は納屋の辺から遠く、わが花嫁を見ているばかりだったと いう。祝宴に移ってから、やっと踊りに引っ張り出されたというのだが、このことは何を意味 しているのだろうか。 おしまいは⑤の「ミキャムドゥリ(三日戻り)」といわれた里帰りである。婚姻の全体的な 流れからすれば付随的なものにとられがちだが、結婚して3日目に嫁方の里に帰るのを儀礼化 しているところがかなり存在する。 このとき、女性だけが帰るところと、夫婦で帰るところが ある。この「ミキャムドゥリ」を歌った民謡と伝説があるので、それは次項に紹介したい。 以上、婚姻習俗のアウトラインを記したが、この形に整うまでに、時代を経るごとにいくつ かの行事が重なったのではないかと考えられる。 2、婚姻にまつわる民謡歌詞群をめぐって 次に、かかる婚姻のあり方が、民謡ではどのように歌われているかをみてみよう。なお、 「民 謡歌詞群」という言葉を使ったが、民謡のなかに、特別これだけを歌う曲や場があるわけでは ない。たまたま、婚姻にいくぶんでも関係ある複数の歌詞をこのように呼んだのである。 奄美の人々が、かつて婚姻に関するいかなる制度を持っていたのか、婚姻というものをどう 意識していたのか、ということに対して、シマウタは口伝えと変わらないくらいに、いやそれ 以上正確に、かつ雄弁に説明してくれると、私は考えている。 ①当時の婚姻圏を示唆する歌詞 一般に、奄美の通婚圏は村内婚(奄美の場合、正確に言えばシマ〈集落〉内結婚)が最も古 く、時代を経るごとに婚姻圏は広がったとされる。 ○なきゃがしま わしま あなたの里 私の里 しまひとつ あれば 里が一つで あれば のてに くぅぬしのぎ なんで こんな辛いめを わぬや とぅりゅり 私は とるのだろう 奄美大島の遊び歌 『大成』491頁 この歌の「私」は他シマの人と一緒になったのである。だから同じシマだったらこんなに苦 労しなかったのに、というのである。近ければいつでも逢えて苦労することはなかったという ことは事実だが、他シマ同士の縁組だと、結婚後の親類同士の付き合いが大変だったという事 情もあったようだ。 このほか、他郷との縁組を嫌う歌詞に次のようなものがある。 ○たしま きょらいんがぬ 他郷の 美青年が いきゃ きょらさあても どんなに きれいでも わしま そんごきらぬ 吾が里の ソンゴギラ(醜男のことか)の ちゅいき まさり ひと息の方が 勝っている 奄美大島の遊び歌 『定型歌詞集』235頁 −41− 鹿児島純心女子短期大学研究紀要 第34号 (2004) ○たしまいん むすぶなよ 他の里の人との縁を 結ぶものではない たしまえん むしべば 他の里の人との縁を 結べば うとぅさんなだ うとぅすんどぅ 落とさなくともよい涙を 落とすよ 奄美大島の遊び歌『歌詞集』(注15)75頁 あとの歌詞のように「たしまいん むすぶなよ」で始まるものは、いく首か残されており、 とかくこのことが強く意識されていたことが分かる。 それでも、現実には他郷の人同士の縁組は結構あったのであろう。時代が新しくなるにつれ、 それは頻繁になったはずである。 ○しまやねんどぅ うとぅがしま (自分の)里はないよ 夫の里が自分の里 あわれ うなぐぬくゎや 哀れ 女の身には しまやねんどぅ うとぅがしま (自分の)里はないよ 夫の里が自分の里 奄美大島の遊び歌(注16)『歌詞集』74頁 この歌詞などは、他郷との縁組がそう珍しくなくなった近年のものと考えられる。伝統的に 女性優位に彩られた奄美という事情を考えても、そう古い歌詞でないことは明らかといえる。 さて、同じ他郷でも、ヤマト(本土)の人との結婚は、より敬遠された。それは、次のよう な歌詞からも伺うことができる。 〇やまとんちゅと いんむすぶなよ 本土の人とは 縁を結びなさんなよ ほんぽ まきゃぎぃれぃば 船の帆を 巻き上げて出帆すれば かつぃむぃどころや ねんどねんど 掴み所が ありません ありません 奄美大島の遊び歌(注17)『大成』451頁 一方、これは薩摩藩の支配下にあった時代(1600年代はじめから明治になるまで)のことだ が、鹿児島からやってきた役人や、あるいは流刑された人と,島滞在の間だけ妻になるアンゴ (島妻)の風習があった。それは一方では名誉なことであり、また一方では人々の揶揄の対象 となるという二面性があった。 ○うんにゃだるぬ ふれぃむんぬ うんにゃだる(女性名)の 狂れ者は ちこぉれくゎば はんにゃぎぃてぃ 乳呑み児を ぶん投げて とのとぅじ なりが 殿の妻に なるために あかきな はりくらでぃ 赤木名(地名)に 走りくさった 奄美大島の遊び歌 (注18)『大成』465頁 赤木名は当時、代官所が置かれたところであり、ここでの「殿」とは、鹿児島から来た役人 と考えるのが妥当である。この歌は、乳飲み子を捨ててまでアンゴとなる魅力があったことを 表しているとともに、島の人々の厳しい目があったことも知れる。 以上のように、奄美でも、都市部と田舎では大きな差異があったことは事実だとしても、基 本的には村内婚であったことが、明らかになるのである。 ②求婚から妻問い期間までの状況を歌った歌詞 −42− 奄美の婚姻習俗と関連民謡 奄美に恋歌が数多く残っている理由が、かつて奄美の歌遊びが、嫁選び、婿選びにつながる 男女社交の場であったためだということは先に述べた通りだが、歌の歌詞から具体的にその状 況をたどってみよう。 ○まがりょ たかちぢに 曲がりくねった 〈峠の〉の頂に 提灯を 灯して〈待っています〉 ちょうちんぐわば とぼし うれぃが あかがりにし それの 明かり〈を目安〉に しぬでぃ いもれぃ 忍んで 来てください 奄美大島の遊び歌(注19)『大成』484頁 実際に提灯を目安に忍んで行き、そこであいびきをしたわけではない。いわば、私の所に来 て欲しいという、求婚の歌にもなりえたものである。このとき、 〇ひるや うめぇじゃしゅり 昼は 〈あなたを〉思い出し ゆるや いむぃみりゅり 夜は 夢に見て きもちゃげぇぬ かなや 愛しい お前のことは わすぇれ ぐるしゃ 忘れ がたい 奄美大島の遊び歌 『大成』494頁 といった文句を返せば、それは承諾したことになる。反対に次のような消極的な文句を歌えば 相手は真意をつかみかねるだろう。 ○うれぃが あかがりしに その 明かりに しぬでぃ いこすぃれぃば 忍んで 行こうとすれば よそがむぃぬ おこさ 他人の目が こわく くちぬ うとぅるしゃ 口(うわさ)が 恐ろしい 奄美大島の遊び歌(注20)『大成』484頁 ところで、シマウタによく出てくる「忍び」のことについて触れておきたい。 「忍び」は、 お互いが好きになったものの、まだ世間や親たちの承認を得ていない段階の「忍び」ともとれ るが、実際には、クチムスビといった儀礼(前項で述べた③の段階)の後の、妻問い期間のこ とにも当てはまるのではないかと考えられる。 なぜ、世間も親も公認したあとに、忍んで妻のもとに通わなければならないのか。それは、 「万葉集」の数多い恋歌から分かるように、いくら二人の仲が公認のものとなっても、恋の通 い路は、秘密めいたものであり、うわさを恐れたのである。古代においては、 「うわさ」も言 霊の1種であり、その影響で恋が破れることを恐れたという考えもあるが(注2 1)、奄美でも その余韻が残っていたのかもしれない。また、夫婦の同衾は神聖な儀礼ともいえるものであり、 それはけっして人前に晒すべきものではないという思いが、人々の意識の底にあったせいでは ないかと、私は考える。 ○ちぃんごみぃじぃ たみぃてゐ チンゴ水(糸を縒るのに芭蕉の繊維を浸した水)を溜めて 家の敷居を 濡らし やどぅばしぃりぃ ぬらちゐ かなが もゆんゆるや いとしの人が 来られるときは やどぅぬ やしぃく 家の戸が 易く〈開くように〉 徳之島の遊び歌 『日本民謡大観』612頁 −43− 鹿児島純心女子短期大学研究紀要 第34号 (2004) また、待っているのに夫が来ないときの焦燥をうたった歌詞もある。 ○すぅばやどぅば あけてぃ 〈家の〉横戸を 開けて かなまちゅる ゆるや いとしい人を待つ 夜は ゆあらしが しぎく 夜嵐が ひどく かなや みゃらぬ かれは 見えない 奄美大島の遊び歌(注22)『大成』477頁 実際、嵐があったかどうかというより、恋人、ないし夫が来なかったという嘆きの言葉であ る。 妻問いの一夜を過ごすしても、翌朝になると別れなければならない。『喜界町誌」には、男 は夜おそく妻のもとに行き、朝は世間がまだ起きないうちに帰るものだった、と記している。 いわば「朝別れ」である。奄美大島の遊び歌のなかにも「朝別れ節」という節があって、一番 に次の歌詞をうたう。 〇あさわかれ だもそ 朝別れ さえも かにぃくじぃさ やぁしぃが こんなに〈胸が〉苦しく あるが きゃしが とぅかはちぃっか どうして 十日二十日を ぬちぃや いきゅり 会わずに 過ごせよう 奄美の遊び歌 『日本大観』541頁 そのほか、太陽と月の明かりを間違えて、今はまだ帰らぬようにと、愛しの君にいう歌が残っ ている。 〇あがれ あかがりや 東の 明かりは ちきど あかがりゅる 月の 明かりです きもいそぎ いそぎ 〈日がもう昇ったと〉心が急いで みちに たつな 〈早く家を出て〉道に 立ちなさるな 奄美大島の遊び歌 『定型琉歌集』16頁 以上、求婚から世間の公認を受けた妻問いの期間までの状況を知らしめる、いく首かの歌詞 をあげてみた。後には、歌掛けの場を盛り上げるために、自分の真情とは関係なくそれらの歌 詞を選んで歌うこともあったが、それぞれの歌詞が歌われ始めた当座は、当事者たちが自分た ちの思いをそれに託したのだと思う ③婚姻に関する行事、儀礼が出てくる歌詞 先ず、「サンゴービン」とか「フトコロゼ」などといわれた、婿方から嫁方への結婚申しこ み行事をうたった文句をあげる。 〇あっから さんごびんぬきゅり あちらから 三合瓶〈を持った人〉がやって来る わんもれがぬさんごびん さんごびん 私を貰うための三合瓶だ 三合瓶だ わんや かくれぃとぅらば 私は 隠れていますから をぅらんち いいよ 居ないと いいなさいよ どぅしんきゃ どぅしんきゃ 友だちよ 友だち 奄美大島の遊び歌(注23)『大成』472頁 −44− 奄美の婚姻習俗と関連民謡 〇あがれぬ にしから あがれ(地名か)の 北の方から むちじゅ さけじゅぬきゆり 餅のお重 酒の〈肴の〉お重〈を持った人〉が来る あんまとぅ じゅうとぅや お母さんと お父さん うり うけとぅるな それを 受け取りなさるなよ 徳之島の遊び歌(注24)『大成』519頁 いずれも、婿方の使いが三合瓶や餅を入れたお重を持って、結婚申しこみにやって来たのだ が、それを見て断って欲しいといっている歌である。とはいえ、簡単に承諾すると軽薄な娘だ ととられることもあったというから、本心かどうかは分からない。 次の段階である「クチムスビ」や「ジサン」の行事が出てくる歌詞は、私はまだ見付け出し ていない。 正式の結婚式である、いわば「ネービキ」をうたった歌詞はある。これは、婚礼の祝宴でも 実際にうたわれるものだが、次のようなものである。 〇おねびきぬ ゆるや ネービキの 夜は はしかしゃど やすが 〈花嫁は〉恥ずかしく ありますが あしゃが ゆになれば 明日の 夜になれば むちと かしゃよ 餅と 〈それを包む〉カシャ(サネンの葉)〈のように肌を 合わせる〉よ 奄美大島の婚礼祝い歌 『奄美の島唄 歌詞集』23頁 ネービキでは、花嫁が玄関の踏み石を踏んで家に入るところが多いが、次の歌詞はそれを歌っ ている。 〇くだむぃしゅる いしに 踏みしめる 石に くがねばな さかし 黄金の花を 咲かせて くれぃからぬ さきや これからの 先は うゆをぇ ばかり お祝い ばかり〈が続く〉 奄美大島の婚礼歌 『大成』445頁 「水掛け」は、この行事にうたわれる実際の歌のなか出てくる。したがって、ここでは省略 し、次項にあげるつもりである。 ついで「ミキャモドり」をうたった歌詞が、奄美大島の遊び歌のひとつ、「上がれ日ぬはる 加那節」(「上がれ世ぬはる加那」とも)に出てくる。この歌の「はる加那」は、実在の人とい うより伝説上の神女であるが、それに伴う歌と説話を調べてみると、「ミキャモドリ」の意味 が決して軽んじられないことが分かってくる。 先ず、話を説明する関係上、はる加那が登場する次の三首をあげる。 〇あがれゆぬ はるかなや 天上の世の はる加那(愛称)は だにむらぬ いねかな 何処の村の 稲加那(稲の神のことか)か うまみちゃむぃ ひこじょかな それを見たか ひこじょ加那 てるこ くまよし てるこ(天上の聖なる世界) くまよし(人名) 奄美大島の遊び歌 『大成』456頁 −45− 鹿児島純心女子短期大学研究紀要 第34号 (2004) 〇てぃるこがれぃ とぅゆだる てるこまで 音に聞こえる いねかなとぅ はるかな 稲加那と はる加那 なるこがれぃ とぅゆだる なるこ(てるこの対語)まで 音に聞こえる くまゆし ひこじょかな くまよし ひこじょ加那 同上 〇てぃるこから うれぃてぃ てるこから 下りて きゅうどぅ みきゃなりゅり 今日で 三日になる みきゃむどぅり ゆはむどぅり 三日戻り 四日戻り しゅんちゅど みぶしゃかなしゃ する人を 見たい愛しい 同上 歌に伴う話もいくつかの系統に分けられるが、ここに「三日戻り」がテーマとなった2つの 話をあげておきたい。 その1、奄美大島の大和村大和浜出身の民俗研究家、長田須磨氏が著書『奄美方言分類辞典 上巻』(昭和52年発行)〈注25〉に紹介しているものである 昔、神の国テルコからヒヤンザの国に男ばかりやって来た。そのとき、もとからいたヒ ヤンザの男たちは山に逃げてしまった。そのうち、ヒヤンザのはる加那と、テルコから来 たくまよしが仲良くなった。初めは隠していたが、3日目に周りのものに打ち明けて祝い をした。それが三日目の里帰りの始まりである。(要約) その2、奄美大島、名瀬市根瀬部出身の奄美研究家、恵原義盛氏が論文「奄美の創世神話な ど」(注26)に発表されたものである。 はる加那は天上から稲の種を持ってきた女だが、地上でひこじょ加那と結婚する。 天上には、くまよしという夫がいて、はる加那の帰りを待っていた。かつては、結婚して 3日目に「みきゃむどり」といって里帰りするものだった。そして、そのときに初夜を営 むのが習慣だった。ところが、はる加那はいつまでたっても里帰りできなかったので、ひ こじょ加那はいつまでもはる加那と同衾できずに嘆いた。(要約) この説話をどう解釈するかが問題である。確たる根拠があるわけではないが、私には奄美に おける女性優位時代の名残りを伝えているような気がしてならない。戻って行くのは、女性の 里である。そこで始めて夫と同衾できるというのは、女性の優位性を取り戻したということで はないか。日本本土でも、つい近年まで、女性が出産のときにはたいてい里の実家に帰ってい たこととつながると思う。かつての奄美でも、子孫を増やすことが最高の価値を有することの ひとつだった。女性の優位性が保たれた理由はなんといっても、子どもを産むことができたか らである。はる加那をめぐる「ミキャムドイ」の話は、このことを改めて考えさせるものでは ないだろうか。 3、婚礼における祝歌、儀礼歌の系譜 1の「婚姻習俗の概要」であげた諸段階のうち、婚姻儀礼ともいうべきものをあげるとすれ ば、②の「サンゴウビン(三合瓶) 」などといわれる結婚申し込みの行事、③の実質的夫婦生 活が始まるきっかけとなる「クチムスビ(口結び)」などといわれる行事,④のいわゆる正式 −46− 奄美の婚姻習俗と関連民謡 な結婚式である「ネービキ(根引き)」があげられる。⑤の「ミキャムドゥイ(三日戻り)」に も、ただの里帰りではなく儀礼的なことを行う地域があったことは十分に考えられよう。 これらの諸儀礼のなかで、明らかに歌が出て、かつ重要な役割を果たすのは、ネービキ系行 事においてである。それ以外の儀礼においては、歌遊びのような場はあったかもしれないが、 婚姻儀礼専用の祝歌、ないし儀礼歌が歌われたというのは、これまでの報告にもないし、また 私自身も聞いていない。 ところで、ネービキの行事であるが、これも先述のように、女側が家から送り出す儀礼と、 男側が嫁として受け入れる儀礼とに別れる。これに付随して、婿方の家での迎えの行事を終わっ た後に、夫婦に水を掛ける風習を持つところがある。これもネービキに伴う儀礼のひとつだと みてよいだろう。 問題は、こうした儀礼の場で、どんな歌がうたわれたかということだが、歌詞はたくさん採 集され、記録されているものの、それが具体的になんという節(曲種)で歌われていたかは、 それほど正確に記録されたものは少ない。 そこでこの項では、それぞれの場でどんな歌詞がうたわれていたか、その概略を紹介し、次 にそれらの歌詞を実際にうたった、あるいはうたったと伝えられるいくつかの曲種をあげて、 その系譜を考察することとしたい。 先ず歌詞からあげる。 〈嫁方の実家での儀式〉 *婿方から派遣されたムカエッチュ(迎え人)がうたう歌詞 〇むかし くぬとのちに 昔この お屋敷に はなうえて おちゃが 花を植えて おきましたが せんごくの たから その千石の 宝を もらち たぼれ 貰わせて 下さい 『瀬戸内町誌』162頁 〇きゅうの よかろひに 今日の 佳き日に おさかづき ふぇーて お杯を 献じて せんごくの たから 千石の 宝を もろち たぼれ 貰わせて 下さい 『名瀬市誌』643頁 *嫁方がムカエッチュに娘を託す歌詞 〇わがなちゃる くゎや 私が生んだ 子は たけのこの ばみお 竹の子の 蕾〈のようなもの〉 えだは むたすしや 枝葉を 持たすように なきゃに たのも あなたに 頼みましょう 同上 〈婿方の家での儀礼〉 *ムカエッチュが嫁を添うてきたことを報告する歌詞 〇とよむ あがるひぬ 〈名が〉とどろく 昇る太陽のように −47− 鹿児島純心女子短期大学研究紀要 第34号 (2004) さかえちゅ あてぃどぅ 〈貴方は〉栄える人で ありますので きゅうぬ よかろひに 今日の 佳き日に うくてぃ きゃおた 〈嫁女を〉送って 参りました 奄美大島 『大成』446頁 〇きょうぬ よかるひに きょうの 佳き日に うやとめて きょたん 親を求めて 来ました なまから さきや 今から 先は なきゃど たのむ あなたに お頼みします 『瀬戸内町誌』164頁 これは、花婿というより、花嫁にとっての義父母に対する歌だといえる。 *嫁方がうたう歌詞 〇なまおすぃる おむぇぐゎ 今差し上げる 〈私の〉可愛い娘は たけのこぬ ちぼみ たけのこの 蕾〈のようなもの〉 ゆだむちゅる くぅとぅや 枝を持つようになる ことは しょしら たのも あなたに 頼みます 「集成Ⅴ」445頁 「瀬戸内町誌」には、このとき嫁がうたう歌として以下の歌詞が紹介されているが、実際に 花嫁がうたったとすれば、稀有な例である。いくら儀礼とはいえ、花嫁になったばかりの娘に そのような余裕があったとは考えられないからである。 〇わぬやなま わらぶぬ 私は今は 童(子ども)で むんやしりゃ をらん 物事を知っては いません いきたらん とぅころや いき足らない ところは ゆすて たぼれ 教えて 下さい 『瀬戸内町誌』164頁 娘の立場からうたった歌詞は、このほかにも何首かみられる。 *婿方がうたう歌詞 〇きょうぬ よかろひに 今日の 佳き日に おむぇぐゎ もれうけてぃ 可愛い娘さんを 貰い受けて にゃまより くぅぬさきや 今から この先は うゆをぇ ばかり お祝い ばかり〈が続きます〉 『大成』446頁 〇きゅうぬ よかろひに 今日の 佳き日に うゆむぃ とぅてぃからや お嫁さんを 取ってからには はりゃに くぅしゃてぃしゅてぃ 柱に 腰当にして うゆをぇ ばかり お祝い ばかり 同上 −48− 奄美の婚姻習俗と関連民謡 「柱に腰当する」というのは、悠々と暮らすことをいう常套表現だといえる。 *仲人格の人、ないし客人がうたう歌詞 〇きゅうぬ よかろひに 今日の 佳き日に めおと まぐわいて 夫婦 一緒になって すごもりぬ さかえ 巣篭もりの 栄え つるぬ ごとに 鶴の 如く 同上書 445頁 「まぐわい」という言葉はわが国の古語でもあるが、奄美でも「結婚する」、「男女体が一つ になる」意味を持っている。現在、奄美大島の結婚披露宴でうたわれるのは、多くこの歌詞と いえよう。 〇うやふたり なかに 親二人の なかで つぶでぃおる はなぬ 蕾んでいた 花が きゅうぬ よかろひに 今日の 佳き日に さきゅり ぎょらさ 咲いた 美しさ 『大成』445頁 ネービキ系行事での一連の儀礼的歌詞の紹介はこれまでとするが、むろんこの何倍もの歌詞 が記録されていることはいうまでもない。ところがそのなかに、嫁をうたったものはかなり多 いが、婿としての男性をうたった歌詞が皆無に近いことに気づく。 「娘をナキャ(貴方)やショ シラ(主人)に頼みます」とうたったとしても、それは婿を指すのではなく、嫁ぎ先の親たち を指していると考えるべきである。先にもあげたように、『名瀬市誌』の記事では、結婚式に 婿は出席していないものだった。このことと相俟って、奄美の婚姻における婿の位置づけにもっ と注目すべきだと思う。 次は、伝承の土地は限られるが、花嫁に対する「水掛け」の行事にうたわれた歌詞である。 〇おぜんちば おぜん 〈結婚式に出る〉お膳といえば お膳 たかしれた おぜん たかがしれた お膳 なますまぬ おぜんぬ 今まだ〈食べ〉終わらない お膳は いつ すみゅり 何時 済むのか 『奄美民謡大観』146頁 〇かしき みーしょらば かしきを 召し上がるのなら はしはやく みーしょれよ 箸を早く〈とって〉 召し上がりなさい みずかけの ゆるや 水掛の 夜は きも いそがる 心が 急くことだ 同上 水掛けは、膳が終わった、つまり正式な儀礼が終わった段階で行われたことがよくわかる。 『奄美大観』には、ほかに4首の歌詞が載せられている。 以上、引用歌詞は大島本島に偏ってしまったが、 「水掛けの歌」を除いて、同趣向の歌詞は奄 美全域にみられるものである。これら豊かな内容と表現にも改めて驚くのである。 −49− 鹿児島純心女子短期大学研究紀要 第34号 (2004) 次に、これらの歌詞を歌った曲種について述べたい。 ①「かじゃで風節」〈御前風、おこれ節、うくれ節、うけれ節〉 奄美の結婚習俗を記録したものに、婚礼の場で歌がうたわれたことはよく書かれてはいるが、 実際どういう曲種がうたわれたということは、それほど記されているとはいえない。 しかし、少ない報告からも最も多くあげられている曲名は、表題にかかげたそれである。例 示しておこう。 『名瀬市誌』・・・・「ウケレ節」(643頁) 『与論町誌』・・・・「御前風」(1065頁) 『民謡大観』・・・・「おほろ節」[一名「結婚祝」、他地では「おこれ節」という] 『奄美民謡大観(増補改訂版)』「おこれ節」[一名「御前風節」、沖縄の「かぎゃで風節」から きている](186頁) 『奄美の島唄 歌詞集』・・・・「うけれ節」[沖縄の「かぎゃで風」をシマウタ風にうたう] (13頁) 『徳之島民俗誌』・・・・「御前風」(224頁) このうち「かぎゃで風」(「かじゃで風」という記載もある)や「御前風」が、婚礼とは断っ ていないものの、祝いの席でうたわれるという解説はきわめて多い。 ここでいえることは、特に沖永良部島、与論島の場合である。この島での「かじゃで風」は、 今も沖縄の歌と意識されないくらいに島の生活に密着しており、婚礼を含む祝の座はほとんど この曲に彩られているといってもよいくらいである。 ところで「かじゃで風」がもともと沖縄の祝歌であることは疑いないが、これが奄美の多く の土地では「御前風」といわれている。その理由は、本来沖縄の古典音楽で「御前風」という とき「かじゃで風」「恩納節」「長伊平屋節」「中城はんた節」「特牛節」の5曲を指すのである が、「かぎゃで風」が最も祝歌的で、かつ御前(琉球王)の前で歌うのに相応しい歌というイ メージが強かったために「御前風」といってしまったのだと思う。ちなみに、沖縄の地方に伝 わる「かぎやで風」も、「御前風」と呼ばれる傾向があるようである(注27)。 次に「おこれ節」とか、「うけれ節」とか、「おほろ節」という曲名の意味と、なぜそれらが 「かぎゃで風」と結びついたのか考えてみたい。 「おこれ節」の「おこれ」は「興れ」の意味だといい、じっさいこの文字を当てている人も いるが(注28)、私は「送れ」または「送り」の方が正しいと思う。婚礼にも花嫁を送る儀礼 があったことは事実である。このほか奄美には旅送り、葬列など「送る」儀礼は少なくない。 そのとき儀礼歌「かぎゃで風」がうたわれたと思うと、十分納得いくことではないだろうか。 「おほろ節」の「おほろ」もその流れの言葉ではないかと思う。 「うけれ節」の「うけれ」こそは、婚礼の際、娘を嫁として「受けれ」という意味かと考え られる(注29)。 ここで、沖縄古典音楽としての「かぎゃで風」が、歌詞や節回しばかりではなく、歌詞反復 −50− 奄美の婚姻習俗と関連民謡 の上でも、奄美ではいささか違って歌われるその例をあげておきたい。 うたわれる通りの詞章をしるす。(カタカナはハヤシコトバ) *沖縄の「かぎゃで風節」 きゆぬ ふくらしゃや A 今日の 誇らしさは なうにじゃな たてぃる B 何に たとえようか つぃぶでぃうる はなぬ C 蕾んでいる 花が つぃゆ ちゃたぐとぅ D 露に あって〈花開いた〉ようだ ヨーンナ ハリ ハヤシコトバ つぃぶでぃうる はなぬ C (歌詞の繰り返し) つぃぶでぃうる はなぬ C (歌詞の繰り返し) つぃゆ ちゃたぐとぅ D (歌詞の繰り返し) ヨーンナ ハリ ハヤシコトバ 『日本民謡大観(沖縄 奄美)沖縄諸島篇』657頁 *奄美大島(大熊地区)の「おほろ節」の場合 わがおせィる しゃくや ヨホー A 私のする お酌は かふなしゃく やしが ヨホー B 果報な酌 ですが ハレ せんごく せんごくぬ たかエイエイら ヨホー C 千石 千石の 宝を もろしエイエイ たぼれ D 貰わせて 下さい ヨホンナ ハヤシコトバ ハレ せんごく せんごくぬ たかエイエイら ヨホー C (歌詞の繰り返し) もろしエイエイ たぼれ D (歌詞の繰り返し) ヨンナー ハヤシコトバ 『日本民謡大観』 384∼5頁 ともに、うたわれている歌詞は8886琉歌調4句体歌詞である。この各句をA,B,C,Dと すれば、沖縄のそれはABCDCCDというきわめて特殊な歌い方がされ、奄美のそれはAB CDCDという下の句反復形だが、そのかわり3句目Cは、 「せんごく せんごく」のように語 句の一部を繰り返すという、複雑な歌い方をしている。ハヤシコトバだけは、そう変わってい ないということである。婚礼歌ということにこだわらず、沖縄、奄美の「かぎやで風」系歌謡 を比較すると、奄美には反復形が全く同じもの、こんな語句の繰り返しはなくただ下の句を単 純に繰り返すもの、全く繰り返さないものとがある。歌の伝承過程、ないし伝播過程において、 単純化したり、複雑化することはほかの歌にもよく見られる現象である。 最後に「おこれ節」とか「うけれ節」というとき、これは節名というより、「送るときの歌」 「受け取ってもらう歌」という一般名詞であった可能性も大いにあり、断りがなければ必ずし も「かぎゃで風」とは限らないことをいっておきたい。 ②「長朝花節」「ほこらしゃ節」 この歌も祝い歌であることはよく記されているが、かつて婚礼にうたわれたことはそう多く は報告されていない。 −51− 鹿児島純心女子短期大学研究紀要 第34号 (2004) 奄美大島、笠利町佐仁集落の歌世界が詳しく記録された著書『奄美の「シマの歌」』(中原ゆ かり著)〈注30〉の「婚姻」と歌を扱った個所に「佐仁を含めた大島北部方面では〈長朝花節〉 の曲にのせてその祝いにふさわしい歌詞で歌われる」 (91頁)とあるが、それも近年のことと されている。 「長あさばな節」の歌われ方は、奄美大島全域できわだった違いはないが、次のとおりであ る。 けぶぬ ほこらしゃや 今日の 誇らしさは ハレー いちよりも まさり 何時よりも 勝る (ヨイサヨイヨイ ヨーイサヨイヨイ) いちよりも まさり ヨーイーナー 〈歌詞繰り返し〉 シーや ハレーまさり ヨーイナー 〈歌詞繰り返し〉 (ナチカサコトバヌ ナマイヂタンド) いちよりも まさり 〈歌詞繰り返し〉 (ウマドシラレユル) ケー いちも このごとに 何時も 今日のように ハレあらち たぼれ あらせて 下さい (シマヤイチバン ムライチバンヨ) あらしマータ たぼれ 〈歌詞繰り返し〉 シーヤーハレー たぼれヨ−イェヤ 〈歌詞繰り返し〉 (カナサムチロン タヨリヤネンド) あらしマタ たぼれ 〈歌詞繰り返し〉 『奄美民謡大観』183−4頁 この歌詞自体、奄美の祝いごとにはどこでも、いつでも、どんな節ででもうたわれるもので、 「長朝花節」にとっても欠かせない文句だといえる。 ちなみにこの曲の原曲ともいうべき「ほこらしゃ節」という歌が大島南部に残っている。 「ほ こらしゃ」とは「誇らしく、嬉しい」という意味で、今あげた歌詞の「今日の」の部分を除い て、いきなり「ほこらしゃや」でうたいはじめるものである。歌の反復の形も「長朝花節」と あらかた一致する。この歌も、古くから婚礼でうたわれていたという可能性は強い。 ③「朝顔節」(奄美大島南部に流布) この歌も今日、奄美大島の結婚披露宴ではよくうたわれる曲である。歌詞はそのつど相応し いものを選ぶ。もとは大島南部の一部の地域で歌われていたものであるが、著名なウタシャ (歌者)がレコード吹き込みをするなどした結果、全島的にしられるようになった(注31)。 節回しが、荘重な感じがするところから、「かぎゃで風」の流れではないかという人もいるが、 節名のいわれになっている歌詞からも、うたわれる形からも「かぎやで風」とは関係はない。 「朝顔節」としての歌詞は 〇あさがおに ふれて 朝顔に 惚れて たぬき ゆびふらち たぬき(垂木のことか)が 〈朝顔を〉呼び惚れる −52− 奄美の婚姻習俗と関連民謡 かなぬ くとや 〈このゆに〉恋人の ことが わすれ ぐるしゃ 忘れ 難い 『日本民謡大観』576頁 うたわれ方は、「ABBCDD」と、上の句、下の句それぞれに繰り返しを行い、「ABCD CCD」の「かぎやで風」とは全く異なる。 この歌も、婚礼歌としていつごろからうたわれているのかは、「長朝花節」同様、明らかに なっていない。 ③「長雲節」(奄美大島全域に流布) この歌が現名瀬市大熊方面で、かつての婚礼において、娘を家から出すときの歌であったと いうことを、同地出身の亀井勝信氏(故人)から聞いたことがある。 この歌の「長雲節」としての打ち出しの歌詞は、次のような恋歌である。 〇ながくもぬ ながさ 長雲(坂の名)の 長いこと しのき さぉじびら しんどい さおじ坂 かなに おむぇなすぃば 〈しかし〉恋人に 思いいたせば くるま とおばる 〈砂糖〉車が〈廻る〉 平坦地〈みたいなもの〉 奄美大島の遊び歌 『大成』480頁 この歌は不思議な歌で、大島北部では歌遊びの際の別れ歌としてうたわれ、南の宇検村方面 では、正月や婚礼の祝にうたい、瀬戸内方面では、霊を呼ぶ歌として夜半に歌うのを嫌う傾向 があるとされる。さらには、系譜的にこの歌のルーツが海の仕事歌であることが分かっている。 なぜこのように、違った目的でうたわれるようになったのか、またそんなタブーが加わった のかを考えてみると、婚礼における「親と娘の別れ」に繋がってくるかもしれない。なお、嫁 ぐ娘が家から出るときは、死者の棺が家から出るときと同じであるとは、奄美でも昔からいわ れていることである。正に嫁方の人々が感じた喜びと悲しさのなかの、喜びの部分が祝い歌と しての方向に進ませ、悲しい部分が、別れ歌の方向に進ませたと考えることはできないだろう か。もしかすると「長雲節」は、葬送の歌としてうたわれた可能性も全く否定はできないと思 う。 「長雲節」とは別系統の歌だが、ある旅の送り歌が、その元をたどって行けば葬送歌ではな いかと考えざるを得ないものが確かに存在する(注3 2)。先に問題とした「かぎゃで風」も、 奄美で三十三年忌に歌われる所があることを知るべきである。〈注33〉 ⑤「道節」(徳之島) 昭和40年代のおわり、徳之島町花徳在住の広田勝重氏よりこの歌をはじめて聞いた。そのと き氏は、「道節」の「道」は、婚礼のとき花嫁が「道行き」するところからついたものだとい われた。以来、奄美にも本土と同じような、婚礼の際の「道行き歌」があると信じるように なったが、実はこの事例以外の存在を、私は見聞していない。その意味でも、この歌の系譜を 考えることは、大いに意味あることだと思う。 「道節」は次のようにうたわれる。(カッコのなかは相手方ハヤシ) −53− 鹿児島純心女子短期大学研究紀要 第34号 (2004) ハレー ゆなか みぃぬさみぃてゐ 夜中 目が覚めて にぃぶららぬ とぅきや 眠られない ときは (にぃぶららぬ とぅきや) うまちぃ とぅいゆしぃてゐ 火を 取り寄せて ハーレ ふきゅるマタ たばく たばく 吹く 煙草 煙草 『日本民謡大観』611頁 この歌詞はどの歌にもうたわれる、いわゆる共通歌詞で、今この節にうたわなければならな い特別の歌詞はない。 ところで、この節の系統を探っていくと、曲名を変えて徳之島、奄美大島、沖永良部島各地 に流布していることが分かる。徳之島では「はやり節」 「二上がり節」 「井之ぬいび加那志」 、 奄美大島(南部)では「徳之島節」「犬田布節」、沖永良部島では「犬田布嶺」といわれている ものである(注34)。が、この系統の歌の場合、歌遊びの場の単なる一曲であるにとどまらず、 全域的には、かつて病人を見舞う歌(奄美では「トゥギウタ(伽歌) 」という)だったといわ れ、ほかにも「旅の安全を祈る歌」というところもある。 ここでの問題は、この歌が婚礼と結びついているのかどうかということである。実は、奄美 大島の「徳之島節」に、次のようなハヤシコトバがうたわれていることを確認している〈注 35〉。 〇廻レヨ 三合瓶グワ 受ケレヨ 硯蓋グワ ハヤシコトバに出てくる「三合瓶」や「硯蓋」が婚姻儀礼と固く結びついていることは、多 くの報告からも十分に理解できる。とすればこの曲自体も婚姻と深く関連していたといわざる を得ないのである。 なお、この歌が病人見舞いの歌であったということは、つまりは死とつながる歌だったとい うことである。葬送と旅送りは、特に奄美では自然に結びつく。この場合も「長雲節」でみた ように、婚礼において娘を「送る」ことと、葬儀において死人を「送る」ことで両者は繋がる ものといえよう。 よって、奄美にも婚礼の道行き歌があったという一応の結論にはなるが、この件は、今後も 多くの古老から聞き取りをすすめて証拠固めをする必要がある。 ⑥水掛けの歌「ドンドン節」 先に歌詞だけはあげたが、ネービキの日、青年たちによって行われる花嫁への「水掛け」行 事にどのような歌が歌われたかをみてみる。 おぜんちば おぜん お膳といえば お膳 たかしれた おぜんナー 高の知れた お膳 なますまぬ おぜんぬ 今まだ済んでいない お膳は いつ すみゅりヨー 何時 済むのか ハリャドンドンセー サマヨトサンセー 『奄美民謡大観』145頁 最後にうたわれるハヤシコトバから、これも奄美に深く入り込んでいる「ドンドン節」であ −54− 奄美の婚姻習俗と関連民謡 ることは疑いをいれない。 「ドンドン節」は、もともとは本土の流行り歌で、おそらく幕末から明治にかけ、奄美の島々 に入ったことが分かっている。そして、現在もいろいろな行事と結びついてうたわれているの だが、よく知られているのが奄美大島、徳之島の「餅貰い歌」である。「餅貰い」とは、主に 稲の種付け(苗床への蒔種)をする日、青年や子どもらの集団が、シマ(集落)の各戸を歌を うたいながら廻って餅を貰う行事である。 それを青年たちが、「水掛け」の行事に流用したというのは実に自然なことだったといえる。 ただ、この場合も『奄美民謡大観』が記録した地域(名瀬市大熊とその周辺と考えられる) 以外ではどうだったのか、これも今後の研究課題である。 以上6種の曲をみてきたが、ここで気づくことは、儀礼歌としては「ネービキ」系の行事に 用いられる歌に集中しており、それ以外に用いられる歌がほとんどみられないことと、うたわ れた実態が明らかになっているのは、「かぎやで風」「ドンドン節」など奄美にとっては外来の 歌で、奄美土着の歌の実態が今やしっかりつかみにくくなっていることである。このことから、 「ネービキ」系の行事は比較的新しい行事で、従って外来の歌が取り入れやすかったのではな いか、という推定ができるのである。かつて、 「クチムスビ」系行事だけですませ、 「ネービキ」 系結婚式はしない人が結構いたと、いくつかの報告にあるが、このことを傍証するものだと思 う。 まとめ 婚姻習俗にかかわる民謡を、習俗を説明する歌と、行事のなかで実際にうたわれる儀礼歌と に分けてみてきた。ここにいろいろな問題点が浮かび上がってきたが、やはり「ネービキ」系 行事と「クチムスビ」系行事との関係である。前項の最後にも述べたように、古くは「クチム スビ」系行事こそ婚姻成立の最終行事で、「ネービキ」系行事はあとにどこからかもたらされ たものだ、というのが今私がいえる仮説である。「クチムスビ」系行事までは、嫁を中心とし た行事で、婿自身はほとん登場しない。このことは、奄美における女性の優位性と深く関係す るところに違いない。 また、「クチムスビ」系以前の行事に、歌は出なかったのだろうか。答えはもちろん「否」 である。あまり儀礼化、形式化されない「歌遊び」がその役割を果たしていたのだろうと思う。 奄美の歌遊びでは原則的にサンシン(三味線)が伴奏楽器として用いられる。今残っている婚 礼歌も、水掛けのおりの「ドンドン節」以外は、サンシン伴奏でうたわれる。いってみれば 「歌遊び」自体が婚姻に深く結びついた儀礼の一種であったと考えざるを得ないのである。 [注] 注1、 ノロ、ユタなどといわれる職能的宗教者が伝承する「神謡」 、子どもらが伝える「童謡」に対して、島々 の一般生活者が生活のなかで伝承してきた歌を「民謡」と呼ぶ。 「行事歌」 「仕事歌」 「遊び歌」の分けるが、本稿で問題となるのは「行事歌」と「遊び歌」である。特に 「遊び歌」は今「シマウタ」といわれるもので、かつては歌遊びの席で、主に三味線を伴奏にうたわれた。 2、龍郷町が昭和62年に発行。「婚姻」について、町内の集落ごとに分けて記載されている。 −55− 鹿児島純心女子短期大学研究紀要 第34号 (2004) 3、名瀬市役所が昭和43年に発行。 4、瀬戸内町が昭和53年に発行。 5、喜界町が平成12年に発行。 6、伊仙町が昭和53年に発行。 7、和泊町が昭和59年に発行。 8、与論町教育委員会が昭和63年に発行。 9、文紀雄氏が昭和41年に発行。著者は現名瀬市大熊出身。この地域のものが多く記録されている。 10、昭和54年、角川書店発行。 11、平成5年、日本放送出版協会発行。 12、昭和62年、海風社発行。 13、昭和62年、海風社発行。 14、 「うたしゅんちし ぞれなぬたちゅんにゃ 心あさかてぃどぅ ぞれな たちゅる」 (歌をして 淫売者の名 が立つことがあろうか 心根が浅いから 淫売者の名が立つのだ) (奄美大島の遊び歌『大成』450頁)の歌詞 が、当時の民謡に対する気分を教えてくれる。 15、奄美大島の遊び歌「朝花節」でうたわれる歌詞。ほかではうたわれない。 16、注15に同じ 17、注15に同じ 18、奄美大島の遊び歌「うんにゃだる節」の打ち出しの歌詞。 19、奄美大島の遊び歌「曲がりょ高頂節」の打ち出しの歌詞。 20、注19の歌詞の返し(返事の歌詞)とされている。 21、古橋信孝著『古代の恋愛生活』(昭和62年 日本放送出版協会発行)83∼85頁など。 22、奄美大島南部の遊び歌「すばやど節」の打ち出しの歌詞。類似歌詞が琉歌にもある。 23、奄美大島の遊び歌「こーき節」(「こき節」とも)に特有の歌詞。 まんじょ 24、徳之島の遊び歌「あむらぬ慢女節」によくうたわれる歌詞。 25、長田須摩、須山名保子共編、昭和52年、笠間書院発行。 26、「月刊 青い海」昭和51年8月号(青い海出版社発行)掲載論文 27、日本放送協会編『日本民謡大観(沖縄 奄美)宮古諸島篇』 (平成2年 日本放送出版協会発行)掲載の「御 前風」346頁など。 28、現瀬戸内町諸数出身のウタシャ、福島幸義氏(故人)はこの考えを持っていた。池野無風氏は、著書『奄美 島唄集成』(昭和58年 道の島社発行)で「送り節」説をとっている。(29頁) 29、『歌詞集』で、名瀬市根瀬部出身の恵原義盛氏(故人)は、この言葉の意味は不明としている。 30、平成9年、弘文堂発行。 31、現瀬戸内町古志出身の勝島徳郎氏、同町諸数出身の武下和平氏などの歌が広くうたわれるきっかけとなった。 32、宇検村宇検に伝わる「ウメチャラシュンニャヘイェ」は旅に出る人を送る歌だが「やまとたびしれば てぃ きゆでどぅまちゅる ごしょがたびしれば ぬゆでまちゅる(本土旅をすれば 月を数えて〈帰りを〉待つ が あの世への旅をすれば 何を数えて待とう)」といった歌詞がうたわれる。 (『日本民謡大観』391頁)旅人 より死者を送る文句とした方が、相応しく思われる。 33、『日本民謡大観』に天城町西阿木名の三十三年忌にうたわれる「御前風」が収載されている。(406頁) −56−
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