「モネの庭」を巡って

『長崎国際大学論叢』 第6巻 2006年1月 17頁〜24頁
「モネの庭」を巡って
―ジヴェルニーから日本へ―
小
要
坂
智
子
旨
本論は、フランスのジヴェルニーにある「モネの庭」の観光体験とモネの作品解釈の関係について考
察するものである。さらに、「モネの庭」を模して造られて、日本の庭について、分析と考察を試みる。
キーワード
クロード・モネ、モネの庭、作品解釈と媒介
1. はじめに
ク色の家はその村の中で最も大きなものであっ
近年の日本からのフランス周遊ツアーの多く
たという(Tucker[1
995:175])。モネはこの
に、ヴェルサイユ宮殿やモン・サン・ミシェル
土地で二人目の妻となるアリスとともに安定し
などの世界遺産と並んで、ノルマンディー地方
た家庭を作り上げることができた。同時にもと
の ジ ヴ ェ ル ニ ー に あ る 画 家 ク ロ ー ド・モ ネ
もと庭仕事の好きであったモネは造園に夢中に
(Claude Monet 1840
1926)の家と庭園の見学
なった。そして、その庭は彼の後半生の作品の
が組み込まれている。4月から10月までの7ケ
重要な主題となっていったのである。
月しか開いていないこの庭を訪問する日本人観
1890年には土地と家を購入し、本格的に庭造
光客は数多い。この庭が人をひきつける理由は
りに心血を注ぐこととなる。ジヴェルニーに
どこにあるのだろうか。
移ってからも、制作のため長期に家を空けるこ
すでに、モネと彼の庭、モネの作品の源泉と
との多かったモネは家族に宛てた手紙の中で
しての庭については、多くの論考があるが、本
も、庭の手入れに触れ、庭師への指示を書いて
論では、はじめにモネの作品の解釈と「モネの
いる。また、旅先から苗木や種を送ることも
庭」の観光体験との関係について、観光の作品
あった。
解釈の媒介という観点から考察する。次いで、
1893年には、道路と鉄道をはさんだ向こう側
日本国内にある「モネの庭」と称する場所につ
の土地も手に入れ、庭を拡張した。これが、
「水
いて、こうした庭がどのようにして日本で受け
の庭」と呼ばれる部分で、
「睡蓮」の連作を生
入れられているかについて分析と考察を試み
み出す源泉となる。モネがこの水の庭を造るた
る。
めに、セーヌ川の支流であるリュ川から水を引
き、池を作り、睡蓮を植えることになったとき、
2. 画家モネの庭―ジヴェルニー
周辺の住民は強く反対した(Tucker[1
995:
1883年、モネはノルマンディー地方のジヴェ
175])。住民たちは、川から大量の水を引き込
ルニーに居を構えた。ジヴェルニーはルーアン
むことや異国からもたらされた奇妙な植物に
とパリを結ぶセーヌ川沿いのごくありふれた、
よって川が汚染されることを恐れたのである。
静かで美しい村落であった。モネの借りたピン
これに対してモネは強く反発、すぐさま政治的
17
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智
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手法でこれを解決しようとした。最もすでにモ
1980年の一般公開以来と考えがちであるが、
ネの計画は進んでおり、住民の反対は遅きに失
もっと古くから、人々はこのジヴェルニーを目
していた。あまつさえ、1901年と1910年には拡
指してやってきていた。モネがジヴェルニーに
張工事も行われたのである。
引っ越してほどなくすると、芸術家たちの一団
「水の庭」には睡蓮やボタン、つつじ、藤な
がやってきた。画家を志す人々が、パリから程
どを植え、日本風の太鼓橋もしつらえた。モネ
遠くない田舎で、芸術家コロニーを形成するこ
の日本と日本美術に対する深い理解と敬意はこ
とは、よくあることではあった。モネを慕うア
うした形で庭にも印されたのである。この「水
メリカ人の画学生たちはパリを離れ、ジヴェル
の庭」と家の周辺の「ノルマンディーの庭」か
ニーで夏をすごしにやってきた(ラックマン
らは、晩年の「睡蓮」の連作を中心とした作品
[2003:211])。1887年にはすでに土地のカフェ
群が生み出された。
はホテルになり、食料品店に外国産の食品も並
こうして、モネが精魂傾けて造り上げ、創造
んだという。ラックマンの言葉を借りれば、「主
の源泉となった庭であったが、現在我々の訪れ
要な土地の産業として、芸術観光業が農業を補
ることのできるジヴェルニーの家と庭園は、往
うようになってしまった」のである。当時のジ
時のままに継承されてきたものではない。モネ
ヴェルニーの人々に観光業としての意識があっ
の死後遺産を相続したのは次男のミシェル・モ
たかはともかくとして、ここではラックマンの
ネ だ が、し ば ら く は モ ネ の 義 理 の 娘 ブ ラ ン
「芸術観光業」という言葉に注目しておきたい。
シュ・オシュデ・モネ1) がジヴェルニーの家と
現在ジヴェルニーの地を訪れる観光客の中に、
庭の事実上の管理にあたっていた。彼女の死後
アメリカ人と日本人がしめる割合が大変高いと
は1961年まで弟のジャック・オシュデが管理し
いわれるが、アメリカ人の数が多い一因はここ
ていた。しかし、手入れは次第に行き届かなく
にある。1992年には彼らアメリカの画家たちの
なっていた。ミシェルが1
966年に交通事故でな
作品を集めた美術館がジヴェルニーにオープン
くなると、遺言により、その遺産はパリのマル
している。
モッタン美術館に寄贈された。マルモッタン美
日本の人々も生前のモネを訪ねていた。彼ら
術館はフランス芸術アカデミーに属している。
は主としてモネの作品を購入することを目的に
作品はマルモッタンに移動したものの家と庭は
やってきていた。黒木三次夫妻は、モネの友人
しばらくは荒れるままに放置された。その後、
でフランス首相であったクレマンソーに伴われ
クロード・モネ財団の理事長、フランス学士院
て訪れ、作品を購入している。このときモネと
会員のジェラルド・ヴァン・デル・ケンプの尽
ともに撮った写真が現存している。彼らは4点
力により、国の援助や寄付を受け、本格的な大
の作品を購入し、そのうちの2点は現在東京の
改修が行われて庭は生き返り、1980年から一般
石橋財団ブリヂストン美術館に収蔵されてい
に公開されている。
る。また、画家児島虎次郎は、大原美術館のコ
レクションのためにモネから直接睡蓮の絵を
3. ジヴェルニーを訪れること
買った。もともと日本の著名な西洋絵画のコレ
モネの庭には年間およそ4
0万人が訪れるとい
クションは第一次大戦後の日本の経済発展に
う。ヴェルサイユ宮殿の約1
0分の一程度の客数
伴ってこの時代に形成されたものが多い。
であるが、7ケ月間しか開いていない施設であ
その中でも桁外れのコレクションを有してい
ることやパリからの交通の便を考えると少ない
たのは松方幸次郎である。彼もまた1922年にモ
とはとてもいえない。
ネの元を訪れ、18点もの作品を一挙に購入し
た2)。それから60年余りたったバブル期には、
モネの家を訪問する人々が登場したのは、
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「モネの庭」を巡って
ジヴェルニーから日本へ
モネの全作品のうちの10パーセントは日本に存
の他の文化資源に恵まれていないこの街は、
在するとさえいわれていたが、モネと日本との
ゴッホを求めてやってくる人々であふれてい
関係は、モネ自身の若い頃からの日本への興味
る。
に加え、生前のモネに対する日本人の敬意から
三浦篤は、ゴッホの終焉の地であるフランス
も特別に親密なものであったことがわかる。日
のオーヴェール=シュル=オワーズで体験し
本の現在のモネ人気は、長い時間をかけて形成
た、作品の前で感じるものとは別の感動を分析
されたものである。
している(三浦[2002:182185])。ゴッホの
しかし、こういった生前のモネを求めてやっ
特異な生涯と作品をたどりながら、いわゆる
てきた人々と、今日のジヴェルニーを訪問する
「ゴッホ神話」が形成されていく過程をおい、近
人々の目的はおのずと異なったものになってい
代美術がいわば擬似宗教として機能しているこ
る。
とを指摘する。ゴッホゆかりの地を訪ねる体験
通常、美術をテーマにした観光であるなら
は、いわば聖地への巡礼と同様なものであり、
ば、いわゆる作品を鑑賞したり、歴史的な建造
社会の犠牲となった芸術家への償いの気持を呼
物や遺跡の探訪を目的としたものがほとんどで
び起こすものであると説く。
ある。いわば、本物をじかに見ることが目的と
現在一般的に流布しているゴッホという画家
なっている。しかし、モネの庭の場合、ジヴェ
像は、必ずしも、実態を正確に伝えるものでは
ルニーにはモネの作品は存在しない。彼の家の
ない。こうしたゴッホ像が作られた背景には美
壁にかけられているのは、多数の日本の浮世絵
術史学や展覧会、映画、小説、戯曲といった言
である。そのほかに見られるのは複製画とブラ
説がある4)。愛と友情を拒絶され、精神に変調
ンシュが描いた作品だけだ。実際に画家の家を
をきたし、社会から理解されぬままに、自らを
訪ねながら、当の本人の作品を鑑賞することが
撃ち死んでいった画家、あるいは死んだ後に
ないという、奇妙にねじれた体験をすることに
なってから、ようやく評価を得ることのできた
なる。
画家といったゴッホのイメージは、繰り返し、
同様な体験にゴッホをめぐる旅がある。南フ
本や映画、TV番組などで語られる「神話」で
ランスのアルルやサン・レミあるいは、彼の終
ある。その画業の死後の評価は、近年の高額な
焉の地であるオーヴェール=シュル=オワーズ
オークションレコードに明解に示されている。
では、ゴッホの足跡をたどることができる。実
こうした生前には評価されなかった悲劇の画
際にアルルでは、画架を持ったゴッホのプレー
家が、死後に認められるという天才の神話―天
トが街路に埋め込まれていて、そこをたどって
才は同時代には理解されない―は、近代になっ
ゆくとゴッホゆかりの場所を訪れることができ
て生まれたものである。しかし、このように、
3)
る。有名な跳ね橋 や彼の入院していた病院の
英雄視されるアーティスト像は、いわば、聖な
中庭といった場所にはゴッホの複製画が置か
る殉教者であり、
「神の死」が宣告された近代社
れ、作品と描かれた場所を比較することができ
会においては、芸術が宗教の役割を担っている
る。
とするのが、三浦の論旨である。
アルルやサン・レミは、現在我々がゴッホと
こうした、ゴッホの聖人伝説とその聖地めぐ
聞いてすぐに思い浮かべるような作品−たとえ
りとしての観光という捉え方は果たして、モネ
ば、《ひまわり》
、《星月夜》−の生み出された
の例においても有効であろうか。
地であるが、オーヴェール=シュル=オワーズ
モネもまた、画家としてのキャリアのはじめ
は彼の終焉の地として名高い。アルルのように
から、社会に温かく迎えられたわけではない5)。
ローマ時代の遺跡やロマネスクの教会などのそ
しかし、ジヴェルニーに居を構える頃から、次
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第に彼の生活は安定してきていた。1900年代に
筆を執っていた場所に立つことにより、きらき
入ると彼の名声は定着し、晩年の大作であるオ
らと光を反射する色鮮やかな水面へと変化する
ランジュリー美術館の『睡蓮』は、国家的プロ
視覚を得ること。これこそが、モネの庭で我々
ジェクトであった。こうした晩年には大家とし
が経験することなのではないであろうか。いわ
て認められ、曲折はあるものの家庭生活にも恵
ば、モネの視覚を通して、庭を、自然を、世界
まれ、長い人生を送った画家の生涯を、ゴッホ
を眺めることを知るのである。
の生涯を重ねあわせることはできない。モネ
モネの庭を訪れても作品を見ることはできな
は、前衛からはじめ最後は大家となる成功した
い。しかし、そこは、そこへ行く前にあるいは、
近代の画家像をなしている。
行ってから出会うモネの作品を理解する手立て
モネを崇める言葉もある。アンドレ・マッソ
が与えられる場であるといえる。いわば、モネ
ンはオランジュリー美術館のモネの「睡蓮」の
の庭の観光には芸術作品を解釈する道筋をつけ
間を「印象派のシスティーナ礼拝堂」と呼んだ。
る作用、つまり媒介としての作用があるのであ
神格化されているのは、作品そのものであり、
る。
彼が生きた場(=ジヴェルニー)は聖地ではな
いのである。
4. 日本におけるモネの庭
では、モネの庭で我々が経験するのは、どの
前項では、モネの庭を訪れる体験から、観光
ようなことなのであろうか。筆者とジヴェル
の作品解釈への媒介作用について、指摘した。
ニーに同行した知人は(美術史の専門家ではな
しかし、作品から離れた庭そのものの吸引力に
く、一般的な愛好家であったが)、「モネが立っ
ついても指摘しておく必要があるように思われ
ていたその場に立つことができたので感激し
る。そのために、ここでは、現在日本に再現さ
た」と語った。ここでは、偉大な画家と同じ空
れている「モネの庭」について、まとめておき
間を共有できたことに対する感動がある。モネ
たい。日本では現在いくつもの「モネの庭」が
と同じ場に立つという、その場を神聖化する感
ある。ジヴェルニーの庭を模して、あるいはイ
情を持ったことは確かなように思われる。しか
メージして造られたこれらの庭を詳述すること
し、それは、ゴッホほどに、その「悲劇的な人
から、日本における「モネの庭」の人気のあり
生(つまりは神話)」と結びついたものであっ
かが見えてくる。
たとは思えない。むしろ、まさにこの場所で、
「モネの庭」を称する場を列記してみよう。
モネが絵筆を執っていたということに、つまり
高知県北川村の「北川村モネの庭マルモッタ
は、作品と直接結びついている場を共有してい
ン」、印象派の作品をモチーフとした庭園美術
ることに、ウエートが置かれている。
館「ガーデンミュージアム比叡」
、香川県直島の
筆者の恩師であり、モネに関する大著を著し
地中美術館にある「モネの庭」
、2004年の花博
たヴァージニア・スペートが講義の中で、「絵画
のおりに作られ、現在も公開されている「浜名
を見る喜びは、それまで経験したことのないパ
湖ガーデンパーク」、その他にも栃木県足利市
−スペクティヴを獲得することである」と語っ
のフラワーパーク内の「モネの庭」、日本で一番
たことを、しばしば、思い出す。モネのような
早くジヴェルニーの庭から睡蓮を移植したとす
物語性を排除した視覚優先の作品を描く画家の
る愛知県豊橋動植物園の「モネの庭」、岡山県倉
場合、このことは、
「それまで、経験したことの
敷市にある大原美術館にある「モネの庭」など
ない視覚」を手に入れることと言い換えてよい
である。
ように思う。それまでは、睡蓮の花とにごった
高知県北川村にあるモネの庭は2000年に開園
水であった光景が、モネの庭に立ち、モネが絵
した。村民1600人の村で、初年度は21万人を集
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「モネの庭」を巡って
ジヴェルニーから日本へ
客したことで一躍注目を集めた。工業団地の計
ジヴェルニー同様のバラのアーチも作られてい
画が頓挫した土地は、自然公園にする以外に手
る(Fig.4、Fig.5)。建物内には、モネの複製
はなかったという。事業費22億円は村の年間予
画やモネの家をミニチュアで再現したものなど
算に匹敵する。96年に村の人がコンサルタント
が展示されている。さらに一角には、体験コー
とジヴェルニーのモネ財団を訪ねた時には、す
ナーがあり、押し花アートなどのセミナーを実
でに日本の3つの自治体が接触をしていたとい
施している。また、モネ関連の書籍の閲覧コー
う。ちょうど、この時期に隆盛を迎えるガーデ
ナーも置かれている。ショップ内には、村の特
ニングブームのあおりを受け、「モネの庭」を
産品であるゆずを使ったワインや菓子類と、モ
わが町にという発想は、稀有なものではなかっ
ネのグッズ(絵葉書、複製画、傘など)が販売
たのである。
されている。一方レストランでは、モネの料理
北川村の村民一体で取り組む姿勢が評価さ
本からの料理もあるという。レストランのデザ
れ、「北川村モネの庭マルモッタン」という名
インには、フランスのカフェを意識したような
称の使用が許された。いわば、本家のお墨付き
テントや、ジヴェルニーのモネの家の食堂に用
というのが、集客のポイントの一つでもある。
いられている色彩が使われている。
パンフレットには「世界に2つのモネの庭」
「フ
別棟にはワイン・セラーがあり、ここでも、
ランスから高知に」「モネが見ていた風景があ
高知県産のくだものを使ったワインが販売され
ります」の字が躍る。庭園内には、何点かのモ
ている。ショップやワイン・セラーの品揃えに
ネの複製画も展示されており、モネの描いた場
所がここにあるということを強調している
(Fig. 1)
。
ジヴェルニーに倣って、
「水の庭」と「花の庭」
に分けた構成、ショップとレストランの入って
いる建物はモネの家をモデルにしたものという
ように、つとめて再現を心がけていることがわ
かる。「水の庭」は睡蓮の池を中心に、ジヴェル
ニーにもある日本の太鼓橋を模したといわれる
橋が架かる。「花の庭」にはモネの家が再現さ
れた建物があり(Fig.2、Fig.3)
、その前には
Fig.2 北川村モネの庭マルモッタン、レストラン、
ショップの入っている建物 2005年10月撮影
Fig.1 北川村モネの庭マルモッタン「水の庭」2005
年10月撮影
Fig.3 ジヴェルニー、モネの家 1999年9月撮影
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を与えられていた。中心である「水の庭」の睡
蓮は、ジヴェルニーから株分けされたものであ
ることが、解説板に記されている。さらに、モ
ネがジヴェルニーで栽培を試みたものの定着さ
せることのできなかった熱帯性の「青い睡蓮」
が、ここでは栽培されている。その睡蓮もモネ
が苗を仕入れていた南フランスから特別に取り
寄せたものである旨が説明されている。ジヴェ
ルニーよりも、モネの望んでいたものが実現で
Fig.4 北川村モネの庭マルモッタン、
「花の庭」バラ
のアーチ 2005年10月撮影
きているというわけで、いわば、再現の真正性
を強調するかのようである。
現在では、初年度の驚異的な入場者から、急
激な減少が続いている。2004年度は12万人にま
で落ち込んだ。当初は無料であった入場料も2
年後には300円に、本年度からは700円に値上げ
されている。受付の方の話では、当初のような
ものめずらしさから訪れる客から、季節ごとの
花を見に来るリピーターへと客層が変化してい
るようである6)。また、「モネの庭」以外にも、
Fig.5 ジヴェルニーのモネの庭
1999年9月撮影
子供の遊べる空間や、自然遊歩道も整備され、
バラのアーチ
人々の憩いの場である公園としての性格がより
強くなっているようである。
は、村や地域の物産を売り出そうとする意欲が
再現性の点では、浜名湖のモネの庭のほうが
感じられ、村の第三セクターが開業した場所に
優れているかもしれない。浜名湖花博の目玉の
ふさわしく、
「村おこし」の一環として、開業
一つとして造られたモネの庭は、ほぼ、ジヴェ
されたいきさつが見て取れる。一方で、ワイ
ルニーと同じような配置で、三分の二のスケー
ン・セラーは、モネからフランス、フランスか
ルで再現された。時間をかけて、モネの生きて
らワインという、連想が働いているように思わ
きた時代と同様な庭を復元してきたジヴェル
れる。フランス的なテイストを演出する意図が
ニーに比べれば、短時間で造り上げられた浜名
垣間見える。
湖の庭は、花博の開催時には植栽の伸び方が足
高知県とジヴェルニーとの気候の差は著し
りず、ジヴェルニーの濃密な庭を知っている
く、花々までジヴェルニーと同じ種類というわ
と、薄められたような印象はいなめない。
けにはいかないようだ。筆者は、ジヴェルニー
外観はほぼ忠実に再現されたモネの家にはモ
には9月、北川村には10月に訪れたが、フラン
ネの生涯と作品に関するデータベースや、ハイ
スと日本との気温の差を考えれば、ほぼ似たよ
ビジョンの上映があり、モネに関する知識も十
うな時期といって差し支えないと思う。しか
分に得ることができるように配慮されていた。
し、日本の高温多湿の夏を過ごすことのできる
花博の会場跡は、現在は浜名湖ガーデンパーク
花は、ジヴェルニーの庭の花とはかなり異なっ
として公開されている。
ていたが、ダリアやナスタチウムなどの、ジ
公園内にモネの庭が再現されている例として
ヴェルニーでも目立った花々は、北川村でも場
は、豊橋動植物園、足利フラワーパークが挙げ
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「モネの庭」を巡って
ジヴェルニーから日本へ
られる。ここでは、もっぱら、池に睡蓮が浮か
このほかに、庭そのもののモチーフを印象派
べられ、再現されているのは、
「水の庭」であ
の画家たちによっている「ガーデンミュージア
る。豊橋は日本で始めて、ジヴェルニーの睡蓮
ム比叡」の例がある。2001年に開園したこの場
を株分けしたという。本家のジヴェルニーの庭
所は、ミュージアムと名乗るこの庭園には、陶
にも、豊橋にあるこの庭についての日本語のプ
板で再現された、モネ、ルノワール、シスレー
レートが置かれている。
といった印象派画家たちの作品がおかれ、その
一方、美術館に「モネの庭」を再現する例が
風景が庭に再現されている。2004年度は13万人
存在する。大原美術館、地中美術館は、モネの
近い入園者を集めている7)。陶板に複製されて
「睡蓮」の連作を所蔵、展示している。大原美術
いる作品の中では、モネの作品が最も多く取り
館の《睡蓮》(1906年)は先にあげた児島虎次
上げられている。ここでは作品を鑑賞するとい
郎がモネから購入したものである。睡蓮もま
うよりも、庭そのものによる作品の再現に主眼
た、ジヴェルニーから株分けされている。
が置かれているのである。
地中美術館は、建築家安藤忠雄の設計、展示
インターネットで検索してみると、このほか
デザインの建物に、モネ、ウォルター・デ・マ
に現在も計画中のものや、計画されたものの実
リア、ジェームズ・タレルのたった三人のアー
現に至らなかった例が存在していることがわか
ティストの作品が、設置されている、特異なコ
る。日本中に「モネの庭」が存在していると
ンセプトを持った美術館である。この美術館の
言ってよいだろう。
「地中の庭」は、今夏新たに入口の前に設けられ
これらは、モネの作品を鑑賞するために設け
たものである。ホームページの解説には次のよ
られた庭と、庭そのものの魅力を再現すること
うに書かれている。「『地中の庭』は、クロー
に主眼が置かれている庭に、大まかに二分でき
ド・モネが愛した植物を配した庭園です。モネ
る。このことは、
「モネの庭」というものの魅力
自ら造園したジヴェルニーを題材として、モネ
として、我々は、作品を見るための手助けと庭
が描いた作品、資料などを調査し、選定した約
そのものの観賞との二つとして捉えていること
150種類の草花と約40種類の樹木が四季折々の
を示すものである。
表情を見せます。『地中の庭』は、自然との対話
5. おわりに
を楽しめる場所であり、モネが描いた自然の美
本論では「モネの庭」を訪れる観光について、
しさを、実際に体験することにより作品への理
解を深めていただきたい、という思いが込めら
考察を試みた。ジヴェルニーのモネの庭を訪れ
れています。」モネの庭を知ることで、作品を
ることは、作品解釈への媒介となることを指摘
より深く理解することへの期待が述べられてい
した。一方、日本で、再現された「モネの庭」
る。
からは、作品そのものへと導く視点と、庭園の
この他にも京都の大山崎山荘美術館の庭に
類型として「モネの庭」を見つめる視点とが、
も、睡蓮とアイリスの一角が設けられていた
見られること、そして、それら二つの視点が、
が、大山崎のモネの展示スペース「地中の宝石
「モネの庭」に人々が足を運ぶ要因となってい
箱」と地中美術館の設計者が安藤忠雄であるこ
ることを分析した。しかし、これらのいくつも
とを考えれば、発想の源はおそらく同一であろ
作られた日本の「モネの庭」は、果たして、文
うと推察される。これらの庭は、まさに、展示
化的な観光を呼び起こす装置として機能してい
されている作品の鑑賞の手助けとしておかれて
るのか、あるいは、単に、フランスやモネとい
いるのであり、先に筆者が指摘したような、作
うブランドの力を借りた戦略であるのか、これ
品解釈への媒介作用を担っているのである。
らについては考察する余地が残されているよう
23
小
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智
子
に思われる。
スペクトラム―作品・言説・制度』
(若山映子,
圀府寺司編),光琳社.
注
圀府寺司(1999)
「消えた『烏』と『麦畑』
」
『西洋美
術研究』1号,125145頁.
1)ブランシュ・オシュデ・モネは二人目の妻アリ
スの連れ子であり,クロード・モネの息子ジャン
圀府寺司(2004)「ファン・ゴッホ展覧会史」『西洋
美術研究』10号,5263頁.
と結婚しているので,二重の意味で義理の娘であ
る.
佐藤聡子(2
001)「ミュージアムとテーマパークの
2)モネの日本人との交流については吉川(2004)
はざま―『北川村モネの庭マルモッタン』をめ
ぐって―」
『アートマネジメント』第2号,6
1
を参照.
3)現存する跳ね橋はゴッホの描いたものではな
67頁.
い.ゴッホが描いた場所から20メートルほど離れ
三浦
たところに再現されたものである.
篤(2002)「芸術という名の宗教」『語りえぬ
ものからの問いかけ』(宮本久雄,岡部雄三編),
4)ゴッホ神話の形成に関しては,以下の文献に詳
東京大学出版会.
しい:木下(1992),圀府寺(1992,1996,1999,
吉川節子(2004)「日本とモネの出会い」『武蔵大学
人分学会雑誌』第35巻4号,4567頁.
2004),Heinich(1
991=2005).
Spate, V.(1992)Claude Monet: The Colour of Time.
5)革命的アウトローであった印象派の画家たちと
Thames & Hudson, London.
いう言説も,現在では見直しを迫られている.
Rachman, C. (1
997) Monet.
6)2005年10月9日取材.
Phaidon Press,
London=高階絵里加訳(2
003)
『モネ』岩波書店.
7)筆者の問合せに関する回答(2005年10月).
Tucker, P. H.(1995)Claude Monet: Life and Art.
参考文献
Yale University Press, New Haven & Lon-
木下長宏(1
992)『思想史としてのゴッホ』学藝書
don.
Heinich, N.(1991)La gloire de Van Gogh: essai
林.
d’anthropologie de l’admiration. Editions de mi-
圀府寺司編(1
992)『ファン・ゴッホ神話』テレビ
nuit, Paris=三浦篤訳(2005)
『ゴッホはなぜゴッ
朝日出版局.
ホになったか:芸術の社会学的考察』藤原書店.
圀府寺司(1
996)「ファン・ゴッホ《烏の群れ飛ぶ
麦畑》―物語の結びとしての『絶筆』」『美術史の
24