(2) 企業価値最大化のための財務的意思決定

第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
(2) 企業価値最大化のための財務的意思決定
先述した通り、資本コストは、資本提供者たる投資家に対して負担しなければならない報酬のことをいうと
同時に、投資対象から獲得しなければならない目標利益率、つまりハードルレートでもある。
よって、企業価値の最大化のためには、投資決定に際しては資本コスト以上の利益の獲得が要求され、資本
調達決定に際しては資本コストを最小化することが要求されるのである。具体的には、以下のような行動をす
るべきとされる。
① 投資利益率がWACCを上回るような投資決定を行う。
② WACCを上回る投資利益率を生まない投資からは撤退する。
③ WACCをできるだけ低くするような資金調達を行う。
30
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
第6節
投資決定理論①
今までの議論は、主に貸借対照表の貸方に着目した議論であった。以下では、貸借対照表の借方に着目して、
企業価値の最大化のためには、どのような投資案を採用すべきかについて説明していく。
1.投資とキャッシュ・フロー
(C)
(1) 資金サイクル
企業の資金の流れと企業活動は密接に結びついている。その企業の事業特性、取引慣行、経営戦略といった
あらゆる要因が、企業の財務構造に影響を与え、逆に、財務的な意思決定が投資活動や営業活動に重大な影響
を与えることになる。具体的に、製造業を営むA社を想定して、一般的な資金サイクルを検討する。
① 株式の発行や借入によって資金を調達する。
② 製品やサービスを生産するための設備・機械を購入する。
③ 労働者を雇い、原材料を購入して、製品やサービスを生産し、たな卸資産として保管する。
④ 製品・サービスを販売し、売上債権が回収されたときに現金が流入する。
①~④の資金サイクルの中で、特にたな卸資産や売上債権から現金への転換が阻害されると、労働者や原材
料への支払が滞り、企業活動が維持できなくなる。
⑤ 債権者に対して負債の利子を支払い、元本を返済し、株主に対しては配当を支払う。
⑥ 固定資産は生産過程で消費または減耗することから、新たな固定資産を購入する。
⑤~⑥についても、①~④の資金サイクルが阻害されれば、これらの支払いも難しくなり、資金調達能力や
生産能力の低下を招くことになる。
つまり、これらの資金サイクルが円滑に機能しないと、A社の支払能力は低下し、さらに悪化すれば支払不
能に陥ることになる。損益計算書における損益と資金の流出入は必ずしも一致しないことを考慮すれば、たと
え利益が出ていたとしても、支払不能に陥る可能性は存在する。つまり、企業は利益のみならず、キャッシュ・
フローにも関心を持つ必要がある。
(2) 投資決定とキャッシュ・フロー
上述の通り、資金サイクルが円滑に機能しているかどうか、すなわち企業の支払能力が十分かどうかを捉え
るにはキャッシュ・フローの増分を測定する必要がある。それのみならず、投資プロジェクトの採用、不採用
を考える際にも、キャッシュ・フローの増分、とりわけ将来キャッシュ・フローの増分を測定する必要がある。
31
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
投資決定の枠組みの中では、投資の実行に伴って各期間内に実際に発生する現金流出をキャッシュアウトフ
ロー(Cash Out Flow)、現金流入をキャッシュインフロー(Cash In Flow)と呼び、さらにキャッシュインフロー
とキャッシュアウトフローの差額はネットキャッシュフロー(Net Cash Flow)と呼ばれ、おおむね会計上の営業
利益に減価償却費を加えた大きさになる。
キャッシュアウトフローの中には投資を行えば発生する周辺的支出も含めて考える。直接の固定資産の取得
に必要な支出のみならず、生産の拡大のためであれば同時に在庫や売掛金の増加分が生じてくるであろうが、
そのような流動資産への支出や設備の備え付けのための費用もキャッシュアウトフローに含めて考えることに
なる。
2.投資案の評価方法
(A)
この範囲については、管理会計論において学習する論点である。特に詳細な内容については、管理会計論で
学習していただきたいが、経営学においても試験範囲である以上、本テキストにおいても簡単に触れておきた
い。
(1) 正味現在価値法
正味現在価値法とは、投資プロジェクトから生じる将来キャッシュ・フローを現在価値に割り引いた金額と
投資額の現在価値合計を比べて、投資額の現在価値合計よりも将来キャッシュ・フローの割引現在価値が大き
い場合に当該投資を実行すると判断する方法である。つまり、正味現在価値法においては、正味現在価値>0
となる投資プロジェクトは実行されることになる。
ここで、キャッシュ・フロー C 、割引率 r 、投資額の現在価値合計 I 0 とすると、正味現在価値(NPV)は
以下のように表される。
NPV =
C1
+
C2
(1 + r ) (1 + r )2
+ ・・・ +
Cn
(1 + r )n
− I0
ここで、2つ以上の投資案から1つだけ投資案を選ぶのであれば、正味現在価値が最も大きいものを選ぶこ
とによって、企業価値の増加額は大きくなり、株価の上昇幅も最も大きくなる。
また、投資案が1つだけの場合、その正味現在価値が正であれば、投資を実行することにより、企業価値を
増加させ、株価も上昇することになる。逆をいえば、正味現在価値が負の場合には、企業価値や株価の観点か
ら、当該投資案は実行すべきでないことになる。
なお、割引率に関しては、投資プロジェクトのリスクに応じた割引率を算定することが困難性を伴うことが
多いなどを理由に、加重平均資本コストを使用することが多い。
32
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
<正味現在価値法の長所と短所>
① 時間価値を考慮している。
② 投資規模が明らかとなる。
長所
③ 相互排他的投資案の正しい順位付けが可能となる。
① 投資額に対する資金効率が判明しない。
短所
② 資本コストの算定が困難である。
設 例
正味現在価値法
投資額 100 万円で1期目に 40 万、2期目に 70 万の収益をもたらす投資案がある。ここで、割引率を6%とした場合、当該
投資案は実行するべきであるかどうか、正味現在価値法に基づき判断しなさい。
40
+
70
(1 + 0.06) (1 + 0.06)2
− 100 ≒ 0.036 > 0
以上より、当該投資案は実行すべきである。
補 足
投資案の割引率と期待収益率
(B)
投資額 95、当該投資案から得られるキャッシュフロー(1 年後)が 100 であるとする。利率(リスク・フリーレート)が
1%であり、投資家の期待収益率が6%であったとする。この場合、投資案の将来キャッシュ・フローの現在価値と投資額
を比較して、その差額が正であれば、投資案を採用するとする(投資を行った方が、現在価値が増加し企業にとって有利な
ため)。
<利率を割引率とした場合>
100
− 95 = 4
(1 + 0.01)
∴採用する
上記から、明らかなように、利率(リスクフリーレート)を割引率とした場合には、現在価値が正となることから、投資
案は採用される。しかし、これは正しい意思決定であるといえるであろうか。つまり、当該企業に投資を行う投資家は、資
本を提供する見返りとして6%の収益を期待しているのにも関わらず、当該投資案からは、約5%(100/95-1)の収益し
か得られていない。つまり、仮に、当該投資案を採用してしまった場合には、投資家の要求する収益を支払うことができな
くなってしまうのである。よって、割引率としては、利率(リスクフリーレート)ではなく、投資家の要求する収益率を用
いて投資判断を行う必要があるのである。
<期待収益率を割引率とした場合>
100
− 95 ≒ −0.7
(1 + 0.06)
∴採用しない
33
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
(2) 内部収益率法
内部収益率とは、年々の増分現金流入額の現在価値合計が、投資額の現在価値合計と等しくなる投資案独自
の割引率すなわち、NPVをゼロにする割引率のことを指す。
内部収益率法とは、内部収益率が資本コスト以上であり、かつ最も内部収益率が高い投資案を実行すると判
断する方法である。具体的には以下の式を満たすような r が内部収益率である。
C1
C2
+
(1 + r ) (1 + r )2
+ ・・・ +
Cn
(1 + r )n
− I0 = 0
内部収益率法は、投資規模の異なるプロジェクトでも同一の基準で考えることができる点に長所があるが、
キャッシュ・フローが不規則な場合には、複数の内部収益率が算定されてしまう可能性がある。一般に、将来
キャッシュ・フローにマイナスの値があると、複数の内部収益率が算定されてしまう可能性があることが知ら
れている。
<内部収益率法の長所と短所>
長所
① 時間価値を考慮している。
② 収益性の判断基準として役立つ。
① 1つの投資案から複数の内部収益率が算定される場合がある。
短所
② 投資規模が無視される。
③ 相互排他的投資案の正しい順位付けができない場合がある。
設 例
内部収益率法の算定
投資額 40 万円で1期目に 20 万、2期目に 40 万の収益をもたらす投資案がある。当該投資案の内部収益率を求めなさい。
20
+
40
(1 + r ) (1 + r )2
− 40 = 0
r ≒ 0.281
(3) 回収期間法
回収期間法とは、投資案に投下した初期投資額が何年間で回収できるかによって、投資案の評価を行う方法
である。この方法では、基本的には投資額の現在価値合計が回収されるまでの期間をみて、より早期に回収さ
れる投資案を採用することになるが、予め目標回収期間を決めておく場合もある。この場合、ある投資案の回
収期間がそれよりも短い場合には当該投資案を採用し、逆に長い場合には採用しないことになる。
ここで、回収期間は以下のように算定することができる。
34
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
・毎年の増分現金流入額が等しい場合
回収期間=
初期投資額
毎期の増分現金収入額
・毎年の増分現金流入額が変動する場合
回収期間=(n-1)年+1年×
初期投資額-(n-1)年までの増分現金流入額
n 年の増分現金流入額
<回収期間法の長所と短所>
長所
① 計算が単純で、かつわかりやすい。
② 安全性の判定に優れている。
① 回収期間が到来後のキャッシュ・フローを無視している。
短所
② 現在と将来のキャッシュ・フローを同等に扱っており、時間価値を無視している。
③ 目標回収期間を用いる場合、その目標回収期間を合理的に決定することが困難である。
わが国の多くの企業が投資案の評価に回収期間法を採用している。この理由としては、積極的な投資が行わ
れた高度成長期の日本においては、投下した資本の早期回収による再投資が求められたことが挙げられる。ま
た、通常の回収期間法に換えて、時間価値を考慮するために、割り引かれたキャッシュ・フローを用いて回収
期間を定める場合もある。しかし、上で述べた問題点を考えると、回収期間法のみにより投資案の評価を行う
べきではなく、むしろ収益性を測ることのできる他の方法と併用して使うのが望ましい。
設 例
回収期間法の算定
① 初期投資額 10,000、毎年度の増分現金流入額が 4,000 の場合、回収期間は何年になるか。
10,000
4,000
= 2 .5
② 初期投資額 10,000、3年目の累積増分現金流入額が 8,000、4年目の累積増分現金流入額が 11,500 となり、それ以降、毎
年 3,500 の増分現金流入額がある場合、回収期間は何年になるか。
3 + 1×
10,000 − 8,000
3,500
≒ 3.57
35
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
3.正味現在価値法と内部収益率法の比較
正味現在価値法と内部収益率法は、ともに時間価値を考慮するという特徴を有しており、両者をあわせて割
引キャッシュ・フロー法とも呼ぶ。
下図を見てほしい。下図には右下がりの曲線が描かれている。これを投資の正味現在価値曲線(NPV曲線)
という。当初の投資の後、追加投資がなく、正のキャッシュインフローのある典型的な投資案は右下がりのN
PV曲線を持つ。NPV曲線と横軸との交点における割引率は、NPVをゼロにする割引率であるため、内部
収益率を表しているといえる。
正味現在価値法では、与えられた割引率で計算されたNPV>0となるような投資案が採用される。別の見
方をすれば、この評価方法で採用される投資案は内部収益率 r よりも低い割引率で割り引かれているか、投資
案が採用されるために、内部収益率 r よりも低い資本コストで資金が運用されなけば、企業価値の増加はなく、
企業価値の増加をもたらさないような投資案を正味現在価値法では採用しないことになる。
つまり、このような典型的な独立投資案の採否については、2つの評価方法の間で矛盾は起こらない。
下図を使って説明すると、割引率(WACC)が r1の水準にある場合、正味現在価値法においては、NPV
>0となるため、当該投資案は採用されることになり、また内部収益率法においても、正味現在価値法におい
て用いた割引率 r1(資本コスト)は内部収益率より小さいことから、当該投資案は採用されることになる。
一方、r2 の水準にある場合、正味現在価値法においては、NPV<0となるため、当該投資案は採用されな
いことになり、また内部収益率法においても内部収益率の方が資本コストより小さくなることから、当該投資
案は採用されないことになるのである。
36
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
(1) 相互排他的投資案の順位付け
相互排他的投資案を考えてみると、2つの評価方法のいずれを採用するかによって、結論が異なる場合があ
る。下図には、相互排他的投資案A、BのNPV曲線が描かれている。
まず、内部収益率法により評価すれば、rB>rA であるから、B案はA案より望ましいことになる。
一方、正味現在価値法によれば、割引率が rC よりも低ければ、曲線はA案の方がB案より上方に位置してお
り、NPV(A)>NPV(B)となるから、A案がB案に勝ると判定される。しかし、割引率が rC よりも高けれ
ば、曲線はB案の方がA案より上方に位置しており、NPV(A)<NPV(B)となるから、B案がA案に勝る
と判定される。つまり、A案とB案のNPV曲線が一回交差しているため、交差点に対応する割引率を境にし
て、結論が逆転してしまうのである。
この例においては、rC より右の領域では内部収益率法と正味現在価値法による順位付けは同じであるが、rC
より左の領域では食い違いが生じることになる。
(2) 再投資の際の資本コストについての仮定
正味現在価値法と内部収益率法では、将来得られるキャッシュ・フローがどのような利益率により再投資さ
れるのかについて、結論を異にする。
正味現在価値法においては、将来キャッシュ・フローが資本コストで再投資されると仮定している。
これに対して、内部利益率法においては、将来キャッシュ・フローが当該投資案の内部収益率で再投資され
ると仮定している。
ここで、内部収益率は投資案ごとに異なっており、一般に資本コストよりも高率である。しかし、そのよう
な有利な投資機会が常に存在するとは限らない。これに対して、正味現在価値法では、資本コストを再投資利
益率と仮定しているが、資本コストは最低必要利益率であるので、これを代替的な投資機会と考えることは現
実的な仮定であるといえる。
37
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
(3) 価値加法性の原理
投資案を独立に評価することができ、企業の価値が採択された投資案の価値を加算して求めた総計と等しい
ことが成り立つならば、それは資本予算の編成にとって望ましい。この原理を価値加法性の原理というが、こ
れは正味現在価値法には妥当するが、内部収益率法には妥当しない。
今、下表に示される3つの投資案について考える。AとBは相互に排他的であり、どちらかが選択されなけ
ればならないが、Cは独立の投資案である。ここで価値加法性が成り立つならば、C案を考慮することなく、
AとBの二者択一の選択が可能になる。
内部収益率法によってAとBの二者択一を行えば、Aが選ばれる。しかし、Cを加えた組み合わせを考える
ならば、内部収益率法はA+CよりもB+Cを選ぶから、先の結論と矛盾することになる。
一方、正味現在価値法においては、二者択一の選択からはAが、そして組合せからもA+Cが選ばれる。さ
らに、投資案を組み合わせたときのNPVは、独立に計算されたNPVの合計に等しくなる。
A
B
C
A+C
B+C
0年
-100
-100
-100
-200
-200
1年
0
225
450
450
675
2年
550
0
0
550
0
NPV
354.55
104.55
309.09
663.64
413.64
IRR
134.5%
124.0%
350.0%
212.9%
237.5%
*なお、NPVの算定に当たっては、資本コストを 10%として計算している。
38
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
第7節
投資決定理論②
1.リアル・オプション
(B)
正味現在価値法には以下のような問題があることから、当初の意思決定を修正変更できる柔軟性や自由裁量
権がある場合に正味現在価値法を適用すると、誤った結論を導きだすおそれがある。以下では、このような柔
軟性や自由裁量権がプロジェクトに内在する場合のプロジェクトの評価について、正味現在価値法と比較しな
がら検討する。
ここで,リアル・オプションとは,投資意思決定において,投資した後に行われることが想定される延期,
撤退,変更,追加投資等といった経営の選択権をオプションの価値と捉えて,投資の評価を図ることをいう。
2.生産中止のオプションが内在する場合
(B)
リアル・オプションの具体例として、以下の設例を使って生産中止のオプションが内在する場合を説明して
いく。
今、6億円を投資して工場を建設すべきかどうかを検討中であるとする。話を簡単にするために、このプロ
ジェクトの命数を1期間とし、1期間後の当該企業の製品需要を1億個とする。ただし、販売単価は1期間後
の景気動向に左右され、好況時なら 80 円、不況時なら 50 円で販売できるものとする。なお、1個あたりの生
産費用は 60 円、好況・不況の生じる確率は共に 50%とし、このプロジェクトの割引率を 15%とする。
投資額
製品需要
6億円
1億個
販売単価
好況(50%)
80 円
不況(50%)
50 円
(1) 正味現在価値法
まず、正味現在価値法においては、1期間後のキャッシュ・フローの期待値を算定し、これを割り引くこと
となる。その結果、正味現在価値は以下のようにマイナスとなり、当該プロジェクトは棄却される。
NPV =
5億円(※)
− 6億円 = −1億6,521.
7万円
1.15
(※)
{(80 円-60 円)×1億個}×0.5+{(50 円-60 円)×1億個}×0.5=5億円
39
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
(2) 正味現在価値法の問題点
正味現在価値法では、いかなる場合であっても予定通りの計画遂行を評価の前提とし、
「採算に合わなければ
操業計画を中止できる」という企業の自由裁量を無視している。しかし、不況になれば「販売価格<製造単価」
となりモノを作れば作るほど赤字が膨らむので、現実には不況になった時点で生産活動の中止を決定すると考
えられる。
つまり、正味現在価値法においては投資はあらかじめ組み合わされた1セットの投資として想定され、状況
に応じて追加投資を取り止めたり、別の投資を行ったりといった分析を行うことができないという問題がある。
(3) オプションを考慮した意思決定
正味現在価値法には以上のような問題点があるため、生産活動を中止するというオプションを考慮してプロ
ジェクトの評価を行う必要がある。この場合、不況の場合には生産活動を中止するため、不況の場合のキャッ
シュ・フローがゼロとなり、正味現在価値は以下のようにプラスとなる。そこで、当該プロジェクトは採用す
べきとされる。
NPV =
40
10億円
− 6億円 = 2億6,956.
5万円
1.15
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
3.成長オプションが内在する場合
(B)
リアル・オプションの具体例として、以下の設例を使って成長オプションが内在する場合を説明していく。
今、新製品開発のために3年間にわたり毎年 1,000 万円の支出を要する研究開発プロジェクトを検討中であ
るとする。当該案件のNPVは明らかにマイナスであるから、それを単独で評価すれば確実に棄却される性質
をもつ。しかし、研究開発プロジェクトは、将来、その研究に基づいて商品化を行い、新製品として市場に出
せば企業に多大な利益をもたらす、といった成長可能性を秘めている。したがって、研究開発プロジェクトの
評価は、それを単独で行うのではなく、当該プロジェクトの実行によってもたらされる成長機会(成長オプショ
ン)の評価と併せて行う必要がある。
ここで、上記の研究開発が終了した第4年度に工場の建設(1億2千万円)がなされ、さらに、新製品が世に
出る5年目以降の経済状態について、以下の3つの経済状況が想定できるとする。
<状態A>
現在よりも好況になるケース(確率は 25%)で、第5年度以降は毎期 7,900 万円のCFが生じる。
<状態B>
現在と同じ水準で推移するケース(確率は 50%)で、第5年度以降は毎期 4,400 万円のCFが生じる。
<状態C>
現在よりも不況になるケース(確率は 25%)で、第 5 年度以降は毎期 2,500 万円のCFが生じる。
以上に基づき、当該研究開発プロジェクト等の正味現在価値を算定する場合(割引率は 10%)、第5年度以降
のCFの期待値等を算定すると以下のようになる。
(単位:万円)
①
②
③(②の現在価値)
第5年度以降
生起確率
投資額
生じる毎期の
CF
状態A(好況)
25%
状態B(現状維持)
50%
状態C(不況)
25%
期待値
0年度
研究開発
12,000
12,000
1年度
-1,000
2年度
-1,000
0
-1,000
-1,000
CF の現在価値
商業化の NPV
7,900
25,042
13,042
4,400
13,947
1,947
2,500
7,925
-4,075
4,800
15,215
3,215
3年度
4年度
5年度
6年度
7年度
8年度
-1,000
商業化
合計
第4年度における
③-①
-1,000
-12,000
4,800
4,800
4,800
4,800
-12,000
4,800
4,800
4,800
4,800
41
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
(1) 正味現在価値法
この工場建設による商業化プロジェクトのみの正味現在価値を計算すると、当該プロジェクトが実行される
第4年度時点において 3,215 万円となる。しかし、商業化プロジェクトは、研究開発の実行によってはじめて
実行可能となる純粋補完的投資である。よって、研究開発及び商業化プロジェクトの両方を必ず行うという正
味現在価値法の暗黙の仮定の下で、これら2つの案件を採用した場合の正味現在価値を計算すると、以下のよ
うにマイナスとなることから、この研究開発ならびに商業化プロジェクトは棄却されることになる。
NPV =
− 1,000 − 1,000 − 1,000 3,215
+
+
+
≒ −290.(万円)
9
1.1
1.12
1.13
1.14
(2) 正味現在価値法の問題点
上記の正味現在価値法では、研究開発が終了し、工場を建設するかどうかを決定する段階で、
「もし新製品の
商業化が採算に合わなければ工場建設を断念する」といった柔軟性が無視されている点で妥当ではない。例え
ば、第5年度以降の経済状況が状態Aと状態Bの場合には、両者の価値が商業化に必要な投資額1億 2000 万円
を上回っていることから、工場の建設が推奨されるが、状態Cの下ではその価値が投資額を下回り、商業化が
採算に合わなくなるため、工場建設は見送られる。しかし、正味現在価値法ではそのような投資の柔軟性は無
視されているのである。
(3) オプションを考慮した意思決定
投資の柔軟性を考慮に入れて評価を行うと、不況の場合には工場建設は見送られるため、キャッシュ・フロ
ーはゼロとなる。よって、商業化プロジェクトによって生み出される期待キャッシュ・フローの第4年度時点
での価値合計は1億 3,234 万円となり、第4年度時点での正味現在価値は 3,215 万円ではなく、4,234 万円と
なる。この値を用いて、再度一連のプロジェクトの価値計算を行うと、以下に示すように、正味現在価値はプ
ラスになり、研究開発投資を実行することが望ましいと考えられる。
NPV =
− 1,000 − 1,000 − 1,000 4,234
+
+
+
≒ 405
(万円)
1.1
1.12
1.13
1.14
商業化プロジェクトをオプションとして考える場合(単位:万円)
生起確率
状態A(好況)
25%
状態B(現状維持)
50%
状態C(不況)
25%
期待値
42
第5年度以降生じ
第4年度におけ
る毎期の CF
る CF の現在価値
7,900
25,042
13,042
4,400
13,947
1,947
0
0
0
0
9,000
4,175
13,234
4,234
投資額
12,000
商業化のNPV
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
このような評価の背景には、
「新製品の商業化が採算に合わなければ工場建設を断念する」といった柔軟性が
織り込まれている。つまり、
「研究開発を行い、その後商業化を実行する」と暗黙的に仮定する正味現在価値法
に対して、当初の計画を修正する余地を織り込む形で評価を行っているのである。換言すれば、
「研究開発を行
い、その後商業化を実行する権利を得る」というプロジェクトの評価を行っているのである。
そして、-290.9 万円と 405 万円の差異、695.9 万円がまさに損失の発生を回避する選択肢を有することによ
り生じる価値であり、リアル・オプションの価値に相当する。
43
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
第8節
最適資本構成
企業価値は、フリーキャッシュフローを加重平均資本コストで割引くことで算定される。そのため、以下で
は、企業価値を最大化するためにどうすれば加重平均資本コストを最低化できるか、具体的には、ある投資案
の実行のために資本調達を行う場合、負債と資本をどのような比率で調達していくことが企業価値の最大化に
つながるのかを説明していく(ただし、以下では、資本構成の変更が企業価値に与える影響のみを検討するため
に、企業の投資は一定として説明していく)。
なお、特に、加重平均資本コストを最低にする、または企業価値を最大にする資本構成(負債と株主資本の比
率)は最適資本構成と呼ばれ、代表的な見解としては、以下のようなものがある。
見解名
最適資本構成の有無
伝統的見解
存在する
MM理論
存在しない
法人税を加味したMM理論
存在する
トレードオフモデル
存在する
1.伝統的見解
最適資本構成
負債を中程度利用。
-
負債 100%利用。
限界節税効果と限界期待倒産コ
ストの等しくなる点。
(A)
伝統的見解においては、以下の理由により、負債を中程度利用した場合に加重平均資本コストが最低となる
ため、最適資本構成が存在すると主張される。
(1) 負債利用度が小さい場合
この段階では負債利用に伴う株主のリスク負担(財務リスク等)は無視できるほど小さく、株主資本コストは
一定である。一方、債権者もこの程度の負債利用では貸倒は発生しないと考え、負債コストは一定に維持され
る。この結果、株主資本コスト
株主資本コストよりも
コストよりも割安
よりも割安な
割安な負債コスト
負債コストの
コストの割合が
割合が増加する
増加することから、加重平均資本コストは負
債利用度が高まるにつれて低下する。
(2) 負債利用度が中程度の場合
この段階においても、債権者にとっての貸倒リスクは変わらず負債コストは一定であると考える。しかし、
負債の増大につれて、財務リスクが増加することから、株主はより多くのリスクプレミアムを要求し、株主資
本コストは増加する。しかし、その上昇はわずかで低コストの負債の利点を食い尽くすほどではないため、加
重平均資本コストはさらに低下することになる。
44
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
(3) 負債利用度が高い場合
財務リスクがさらに大きくなることから、株主資本コストはさらに大きく増加する。さらに、債権者も貸倒
リスクの増加を認め、より多くのリスクプレミアムを要求するので負債コストも増加に転ずる。その結果、加
重平均資本コストは増加することになる。
2.MM理論
(A)
MM理論は、アメリカのモジリアーニとミラーが、1958 年の共同論文にて発表したものである。その当時の
標準的な考え方は、前述したように加重平均資本コストを最小化する、つまり企業価値を最大化させる最適資
本構成が存在するというものであった。しかし、モジリアーニとミラーは、この考え方とは逆に、最適資本構
成は存在しないというMM理論を主張した。
以下、MM理論の下では負債利用度の増加に伴って、加重平均資本コストはどのように変化するかについて
説明していく。
(1) MM理論の仮定 (完全資本市場の仮定)
MM理論は、以下に挙げるような様々な仮定を前提としている。
① 情報は完全で、取引費用は存在しない。
② 個人と企業は同一の利率で借入・貸出を行える。
③ 個人と企業の負債は無リスクであり、その利率は常にリスクフリーレートに等しい。
④ 事業内容が同じ企業のビジネスリスクは等しい。
⑤ 企業の将来の期待営業利益は毎期一定で、企業は全額配当政策をとる。
⑥ 法人税はない。
45
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
(2) MM理論
MM理論においては、以下のような理由により、加重平均資本コスト
加重平均資本コストを
コストを最低にする
最低にする資本構成
にする資本構成は
資本構成は存在しないこ
存在しないこ
とから、
とから、最適資本構成は
最適資本構成は存在しない
存在しないとする。
① MM理論の第一命題
資本構成は企業価値に影響を与えず、企業価値は将来の期待営業利益をその企業が属するリスククラス
固有の割引率で割引くことにより求められる。
② MM理論の第二命題
負債比率の増大に伴って、財務リスクが上昇し、株主資本コストは上昇する。その結果、加重平均資本
コストを引き下げるという負債利用の効果を相殺し、株主資本コストは加重平均資本コストを一定にする
ように上昇する。
③ MM理論の第三命題
加重平均資本コストは資本構成とは無関係で、常に一定であり、その企業が属するリスククラス固有の割
引率に等しい。
補 足
MM理論における資本コストの推移
(A)
MM理論について資本コスト別に詳しく説明していくと、以下のようになる。
① 株主資本コスト
負債利用度が増大するにつれて、財務リスクが増加することから、株主資本コストは増加する。よって、負債利用度の
増大は、加重平均資本コストを引き上げる作用があるといえる。
② 負債コスト
負債利用度がどの水準にあろうとも、負債は無リスクであるという仮定がある。このため、負債コストは負債利用度の
いかんに関わらず、リスクフリーレートで一定となる。よって、負債利用度が増大した場合、株主資本コストよりも資本
コストの低い負債コストが増加するため、加重平均資本コストを引き下げる作用があるといえる。
③ 加重平均資本コスト
負債利用度の増大に伴い、株主資本コストは加重平均資本コストを引き上げ、負債コストは加重平均資本コストを引き
下げる。その結果、両者の作用がちょうど相殺され、加重平均資本コストは一定になる。
46
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
参 考
MM理論における株主資本コスト(の上昇率)について
上記のように、投資家の裁定取引によって、資本構成のみが異なるU社とL社では企業価値が等しくならなければならない。
MM理論では、投資は一定であるとの前提をおいている以上、U社とL社ではキャッシュ・フローは同じであるため、企業価
値が等しくなるためには、U社とL社で加重平均資本コストが等しくならなければならない。
ここで、MM理論の仮定により、負債はリスクフリーレートで固定されているため、負債の利用度に関わらず加重平均資本
コストを一定にするためには、負債の利用度の増加に伴う加重平均資本コストの低下を相殺するように株主資本コストが上昇
していかなければならない。
つまり、MM理論における株主資本コストの上昇率は、
「投資家の裁定取引によりU社とL社の企業価値(加重平均資本
コスト)が等しくならなければならない」という考え方から一義的に導かれるのである。
補 足
裁定取引
(A)
MM理論が成立する理由として、投資家の裁定取引が挙げられる。例えば、理論株価が 1,000 だったとしよう。しかし、
実際の市場では、当該株式が 900 だった場合には、資金を 900 だけ借り入れて(利率 10%)当該株式を購入すれば、元手ゼ
ロで確実に利益を得ることができる。
株式の購入・売却
借入・返済(利率 10%)
損 益
現在
将来
-900
1,000
900
-990
0
10
このように、理論値からの
理論値からの乖離
からの乖離を
乖離を利用して
利用して、
して、リスク無
リスク無しに利益
しに利益を
利益を得る取引を
取引を裁定取引という。なお、投資家の裁定取引に
より、割安な資産は需要が増加し、割高な資産は需要が減少する結果、最終的には、ある資産は理論価格で均衡することとな
る。このように、ある1つの資産についてある1つの価格が決定されることを「一物一価の法則」という。
47
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
補 足
MM理論の第一命題の証明
(B)
MM理論の第1命題については、以下のような2つの企業を想定する。
1. 企業Uと企業Lの期待営業利益(フリーキャッシュフローと同額)は同じであり、またビジネスリスクは同一である。
2. 企業Lは社債を 1,000 発行しており、その利率は8%である。
3. 企業Uは負債はなく、すべて自己資本である。
4. 企業Uの株主資本コストは 15%である。
5. 両社は純利益について、全額配当政策を実施している。
企業U
企業L
社債の発行価額
0
1000
期待営業利益(FCFと等しい)
300
300
債権者に対するキャッシュ・フロー
0
80
株主に対するキャッシュ・フロー
300
220
① 企業Uの企業価値 > 企業Lの企業価値の場合
仮に、企業Uの企業価値が 2,100、企業Lの企業価値が 1,900(負債 1000、自己資本 900)であるとする。この状況下に
おいて、以下のような投資案を考えてみる。
投資案α
投資額
期待キャッシュ・フロー
210
30
投資額
期待キャッシュ・フロー
企業Lの株式を 10%購入
90
22
企業Lの社債を 10%購入
100
8
企業Uの株式を 10%購入
投資案β
この場合、投資案αと投資案βから獲得できる期待キャッシュ・フローは 30 で同じであるが、投資額については投資案
αは 210 で、投資案βは 190(90+100)であり、両案の投資額は異なることになる。これを踏まえると、投資家は企業Uの
株式を売却し、企業Lの株式と社債に投資するという裁定取引を行うと考えられることから、需要の低い企業Uの企業価
値は低下し、需要の高い企業Lの企業価値は上昇することになる。
そして、このような動きは両社の企業価値が等しくなるまで続くのである。
② 企業Uの企業価値<企業Lの企業価値の場合
ここで、企業Uの企業価値が 1,900、企業Lの企業価値が 2,100(負債 1,000、自己資本 1,100)であるとする。この状況下
においては、以下のような投資案が裁定取引の対象となりうる。
投資案α
企業Uの株式を 10%購入
期待キャッシュ・フロー
190
30
企業Lの社債の 10%相当額を借入
-100
-8
投資案β
投資額
期待キャッシュ・フロー
110
22
企業Lの株式を 10%購入
48
投資額
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
この場合、投資案αと投資案βから獲得できる期待キャッシュ・フローは 22 で同じであるが、投資額について投資案α
は 90(190-100)であるが、投資案βは 110 であり、両案の投資額は異なることになる。これを踏まえると、投資家は借入
と企業Uの株式の購入を行い、企業Lの株式を売却するという裁定取引を行うと考えられることから、需要の高い企業Uの
企業価値は上昇し、需要の低い企業Lの企業価値は低下することになる。このような動きは両社の企業価値が等しくなるま
で続くのである。
③ 企業価値の算定
上記より、U社とL社の企業価値は等しくなることから、U社の企業価値を算定することで、L社の企業価値も算定する
ことができる。まず、U社については、全額自己資本の企業なので、株主資本コストが加重平均資本コストとなる。よって、
営業利益を株主資本コストで割り引くことで、企業価値が算定される。
U社:300/0.15=2,000
そして、当該U社の企業価値とL社の企業価値が等しくなることから、L社の企業価値も 2,000 となるのである。よって、
ここに、
「資本構成は企業価値に影響を与えず、企業価値は企業の将来の期待営業利益をその企業が属するリスククラス固
有の割引率で割り引くことにより求められる」というMM理論の第1命題が成り立つのである。
つまり、たとえ両社の企業価値が異なっていたとしても、投資家の
投資家の裁定取引により
裁定取引により最終的
により最終的には
最終的には両社
には両社の
両社の企業価値は
企業価値は等しくな
る。これにより、完全資本市場の下では、企業価値は資本構成の影響を受けないと結論付けることができる。
参 考
リスククラス固有の割引率
MM理論の第一命題では、企業価値を算定する際の割引率として「リスククラス固有の」という言葉を使っている。
この言葉のもつ意味合いを説明していくと、上記のように、MM理論において企業価値に影響を与えるのは、企業の採用し
ている投資(ビジネス)の内容であり、将来キャッシュ・フローも割引率も投資(ビジネス)の内容に依存して一義的に定まる。
そのため、企業のリスクというものは、企業が行っている投資(ビジネス)の持つビジネスリスクであり、投資案がどのよ
うなリスククラスに属するか(どれくらいのリスクがあるのか)によって決まるものである。よって、MM理論では、企業価
値を算定する際の割引率として、「リスククラス固有の」という言葉を使っているのである。
補 足
MM理論の第二命題の証明
(C)
負債コスト k d 、その企業が属するリスククラス固有の割引率 k * 、負債 D 、自己資本 E 、純利益 Y 、営業利益 X 、企
業価値 V とすると、
Y X − k d D k*V − k d D k*(E + D ) − k d D
=
=
=
E
E
E
E
D
= k* + k* − k d
E
ke =
(
)
以上の結果から、株主資本コストは負債比率の関数となり、負債比率が増加するとそれに比例して株主資本コストが上昇す
るのである。
49
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
3.法人税を考慮したMM理論
(A)
MM理論は「完全資本市場」というものを想定していたが、これについては、多くの批判が寄せられた。そ
こで、モジリアーニとミラーは「法人税が存在しない」という仮定を緩和することによって、自らの理論を修
正した。以下では、法人税を考慮したMM理論の内容について説明していく。
(1) 節税効果
法人税を考慮した場合、負債には「節税効果」があるといわれる。例えば、以下の設例をみてほしい。
U社は全額自己資本であり、L社は利率4%の負債を 3,000 だけ利用している。また、法人税は 40%である。
U 社
L 社
営業利益
800
800
支払利息(①)
0
税引前純利益
800
680
法人税
320
272
税引後純利益(②)
480
債権者と株主へのC/F
(①+②)
480
債権者
株主
120
408
528
上の例において、U社とL社の「債権者と株主へのC/F」を見てほしい。両者を比べると、L社の方がU
社に比べて 48 だけ大きくなっているが、この違いは何故、生じているのであろうか。
これは、L社は負債を利用していることから、支払利息が損金に算入され、その分法人税として社外流出す
る金額が減少していることに起因する。具体的には、U社とL社の法人税の金額を比べてみると、L社の方が
48 だけ法人税が少なくなっているのがわかるが、これにより「債権者と株主へのC/F」はL社の方が 48 だ
け大きくなるのである。
このように、法人税を考慮した場合には、負債を利用することにより法人税額が減少した分だけ、より多く
のキャッシュ・フローが得られることになるのである。
50
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
ここで、特に負債利用により支払利息が損金に算入される分だけ法人税額が減少するという効果を節税効果
というが、この節税効果は、負債額 D 、法人税率 t 、負債の利率 r とすると、以下のように表すことができ、
法人税を考慮した場合には、負債利用により、毎期 t
r D だけ多くのキャッシュ・フローが発生することにな
るのである。
節税効果= t
補 足
r D
法人税を考慮した場合の加重平均資本コスト
(A)
負債には、上記の節税効果があることから、法人税を考慮した場合の加重平均資本コストは以下のようになる。なお、負
債 D 、自己資本 E 、株主資本コスト k e 、負債コスト k d 、法人税率 t とすると、以下のように表すことができる。
WACC =
設 例
E
D
ke +
k d (1 − t )
D+E
D+E
法人税を考慮した場合の加重平均資本コスト
税率 40%、株主資本コス 13.6%、負債コスト4%、株主資本:負債=5:5の企業の加重平均資本コストを求めなさい。
税引後加重平均資本コスト:0.5×13.6+0.5×4×(1-0.4)=8
(2) 法人税を考慮した場合の企業価値
上記のように、法人税が存在する場合、負債を利用している企業は負債を利用していない企業に比べて、毎
期節税効果分だけ多くのキャッシュ・フローが発生する。そこで、法人税が存在する場合、当該節税効果の現
在価値がわかれば、当該節税効果の現在価値を、負債を利用していない企業の企業価値に足すことで、負債を
利用している企業の企業価値を算定できるといえる。
ここで、節税効果は、負債の利用により発生したものであるといえる以上、現在価値の算定にあたっては、
負債の
負債の利率を
利率を割引率として
割引率として使用
として使用する。そのため、企業価値 VU 、負債額 D 、法人税率 t とすると、負債を利用し
ている企業の企業価値 VL は以下のように表される。
VL = VU + tD
51
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
設 例
節税効果と企業価値
(A)
50 頁の
【例】
において、
U社の株主資本コストが 10%であったとする。
この場合、
U社の企業価値は、
4,800 となる
(480/0.1)
。
次に、L社の企業価値はどうだろうか。これについては、U社に比べて、L社は毎期 80 だけ多くのキャッシュ・フローが
発生する(節税効果)ことから、当該キャッシュ・フローの現在価値をU社の企業価値に足せばよいこととなる。
ここで、節税効果の割引率として負債の利率を使うと、節税効果の現在価値は以下のようになる。
節税効果の現在価値: 0.4 × 0.04 × 3,000 = 1,200
0.04
よって、L社の企業価値は 6,000(4,800+1,200)となる。
(3) 法人税を考慮したMM理論
法人税を考慮したMM理論とは、当初のMM理論に法人税を考慮するという形で修正されたものである。具
体的には、法人税を考慮することにより、以下のような結論が導かれる。
① 第1命題
負債の節税効果が
節税効果が働くことにより、負債を利用することによって、節税効果の
節税効果の現在価値分だけ
現在価値分だけ、
だけ、企業価値
は増加する
増加する。
する。つまり、資本構成は企業価値に影響を与える。
② 第2命題
負債比率の増大に伴って財務リスクは上昇する。しかし、法人税として社外流出する金額が増加し、株主
に帰属するキャッシュ・フローが減少するため、株主資本コストの上昇率は緩和される。
③ 第3命題
負債の節税効果を考慮すると、負債利用により法人税を節約できる分、
、負債比率を
負債比率を高めれば高
めれば高めるほど加
めるほど加
重平均資本コスト
重平均資本コストは
コストは低下していく。
つまり、節税効果を考慮すると、完全資本市場の下でも資本構成と企業価値は無関係ではなくなり、企業価
値は負債利用度に
負債利用度に比例して
比例して上昇
して上昇すると
上昇すると考
すると考えられるのである。このように、法人税を考慮したMM理論では、負
債を最大限利用するとき、最適資本構成が達成される。つまり、加重平均資本コストを最低にする最適資本構
成は負債 100%の状態という、極端な結論が得られるのである。
52
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
設 例
法人税を考慮したMM理論の第2命題
A社は税引前純利益(全額配当)が 100、株価が 1,000 である。A社の自己資本コストは何%か、法人税が無い場合と法人
税がある場合に分けて、算定しなさい。
・法人税がない場合: 100÷1,000=0.1
・法人税がある場合:(100×0.6)÷1,000=0.06
補 足
法人税を考慮したMM理論の第一命題の証明
(C)
これについては、まず、以下のような単純な損益計算書を想定する。
営
利
業
利
益
子
税 引 前 純 利 益
税
金
税 引 後 純 利 益
(X )
(I = k d D )
(Y = X − kd D )
(tY )
((1 − t )Y )
ここで、負債を利用しないU社の資本提供者全体へのキャッシュ・フローを ( X U ) 、負債を利用するL社の資本提供者全
体へのキャッシュ・フローを ( X L ) とすると、両者は以下のように表すことができる。
X U = (1 − t )X
X L = (1 − t )Y + I
= (1 − t )( X − I ) + I
= (1 − t )X + tI
= (1 − t )X + tk d D
両社の資本提供者全体へのキャッシュ・フローを比較すると、 (tk d D ) だけL社の方が大きくなっているが、これが負債の
節税効果となる。また、企業価値は基本的には税引後営業利益を資本コストで割り引くことで求められることから、U社の
企業価値は以下のようになる。
VU =
(1 − t )X
ke
53
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
また、L社の場合、 (1 − t )X に対しては k e で、 tk d D に対しては負債の利用により発生しているものである以上、 k d で
割り引くことが適切であるため、L社の企業価値は以下のようになる。
VL =
(1 − t )X
ke
+
tk d D
kd
= VU + tD
つまり、負債を利用しているL社の方がU社と比較して、tD(節税効果の現在価値)だけ企業価値が大きくなるのである。
補 足
法人税を考慮したMM理論の第二命題の証明 (C)
法人税を考慮した場合の k e は、法人税を考慮しない場合と同様に、株主の期待キャッシュ・フローを自己資本で除すこ
とにより求められる。ここで、法人税を考慮する場合の株主の期待キャッシュ・フローは、営業利益から支払利息を控除し、
*
さらに法人税を控除したものとなることから、負債コスト k d 、加重平均資本コスト k
、負債 D 、自己資本 E 、純利益 Y 、
営業利益 X 、企業価値 V とすると、株主資本コスト ke は以下のように表すことができる。
ke =
( X − kd D )(1 − t )
E
X (1 − t ) − k d D(1 − t )
=
E
・・・①
ここで、 X (1 − t ) は、以下のように表すことができる。
X (1 − t ) = VU k *
= (VL − tD )k *
= VL k * − tDk *
= (E + D )k * − tDk *
= k * E + k * D (1 − t ) ・・・②
②の式を①の式に代入すると、
k * E + k * D(1 − t ) − k d D(1 − t )
E
k * E + k * − k d D(1 − t )
=
E
D
*
*
= k + k − k d (1 − t ) ・・・③
E
ke =
(
(
)
)
*
*
これは、法人税を考慮しない場合の株主資本コスト( k = ( k − k d )
D
)と比べても、資本構成と資本コストの基本的関
E
係に違いはないが、その増加率は (1 − t ) だけ緩和されていることがわかる。
つまり、法人税を考慮しない場合には株主に帰属するキャッシュ・フローは大きいと株主は判断するため、企業に対する期
待収益率は高くなるが、法人税を考慮する場合には、社外流出の金額が大きくなる以上、株主に帰属するキャッシュ・フロー
は少ないと株主は判断するため、法人税を考慮しない場合と比べて企業に対する期待収益率は低くなるのである。
54
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
補 足
WACC =
法人税を考慮したMM理論の第三命題の証明 (C)
E
D
ke +
k d (1 − t ) に、③式を代入することにより、
D+E
D+E
tD 

WACC = k * 1 − ( )  と表すことができるため、節税効果(の現在価値)が、WACCを低めるように作用していること
V 

がわかる。
(4) MM理論の問題点
MM理論及び法人税を考慮したMM理論の問題点は以下のように表せる。
① 裁定取引の限界
MM理論は裁定取引により、将来の期待営業利益が等しいのならば、負債利用の有無に関わらず企業価値
現実の
市場では
では取引
取引コスト
コストが
発生する
する等
理由により
により、
裁定取引が
有効に
が一定になると考えているが、現実
の市場
では
取引
コスト
が発生
する
等の理由
により
、裁定取引
が有効
に機
能するとは限
するとは限らない。
② 過度の負債利用の妥当性
MM理論は、貸倒れがないものと考えているが、現実の市場では債務過多になると貸倒れが起こってしま
う。また、法人税を考慮したMM理論によると負債導入により企業価値が上昇すると考えられているが、実
際には節税効果が働くのは黒字企業のみであり、また損金算入できる範囲についても無限ではない。
4.トレードオフモデル
(A)
法人税を考慮したMM理論においては、負債を最大限に利用することが最適資本構成であると主張された。
しかし、負債利用度が増加すると、企業が契約上の債務を履行できなくなる確率が高くなり、極端な場合には
倒産に至ることもある。そのため、倒産の可能性を考慮した場合には、負債の増加には倒産というデメリット
もあることから、当該デメリットの発生しない範囲で負債を利用することが最適資本構成であるとされる。
(1) 期待倒産コスト
企業が倒産した場合には、以下のようなコストが発生することから、当該コスト分だけ、企業価値は減少す
ることとなる。
直接的なコスト
間接的なコスト
倒産手続の過程で生じる、弁護士・管財人費用等の諸費用。
倒産が更生の形をとる場合のイメージダウンによる売上高の減少、信用の低下によ
る取引条件の悪化等。
55
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
しかし、上記のコストは実際に倒産してから発生することから、倒産の可能性があるだけで、上記のコスト
を直ちに認識することはできない。そこで、用いられるのが「期待倒産コスト」という概念である。つまり、
上記の倒産コストに「倒産する確率」を乗じることで、倒産コストを企業価値に織り込もうとするのである。
具体的には、負債の利用度が高まれば「倒産する確率」が増加し、期待倒産コストが増加することから、将
来キャッシュ・フローの減少をもたらし、企業価値を減少させると考えるのである。
(2) 節税効果と期待倒産コストのトレードオフモデル
負債利用度を高めていくと、節税効果により企業価値は上昇するが、ある一点
ある一点を
一点を超えると期待倒産
えると期待倒産コスト
期待倒産コストの
コストの
上昇による
上昇による企業価値
による企業価値の
企業価値の減少が
減少が節税効果による
節税効果による企業価値
による企業価値の
企業価値の上昇分を
上昇分を上回り
上回り、企業価値は
企業価値は減少していくことになる。
つまり、期待倒産コスト
期待倒産コストを
コストを考慮すると
考慮すると最適資本構成
すると最適資本構成が
最適資本構成が存在する
存在するという結論が導かれる。
(3) トレードオフモデルの結論
(D) 、負債 D 、税率 t 、負債を利用していない企業の企業価値V
期待倒産コストの現在価値 Q
U
とすると、ト
レードオフモデルにおいて、負債を利用している企業の企業価値 VL は、以下のように表される。
VL = VU + tD − Q(D )
上式は、節税効果による企業価値の増加分が期待倒産コストの発生による企業価値の低下分を超過しない範
囲内で、節税効果を最大限に活かした点であり、限界節税効果と
限界節税効果と限界期待倒産コスト
限界期待倒産コストが
コストが等しい点
しい点が、最適資本
構成であることを意味している。
56
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
設 例
トレードオフモデル
法人税率 40% 、負債利用額を B 、倒産の期待コスト(の現在価値) Q = 0.00125 B 2 とすると、下記の表から負債を 160
だけ利用することが最適であることがわかる。
57
第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
第9節
配当政策
配当政策とは、利益を株主への配当支払と内部留保とにどう配分するかを決定することである。本節では、
どのような配当を行えば企業価値を最大化できるのかについて、説明していく。
1.配当に関する用語説明
配当性向とは、税引後利益から配当にまわされる金額の割合のことである。配当性向が高い
配当性向
ということは、それだけ内部留保される割合が低くなることを意味する。
配当利回り
補 足
(B)
配当利回りとは、1株当たり配当金を市場株価で割ったものである。配当を投資収入とした
場合の収益率を意味する。
配当の種類
(C)
企業が配当として株主に支払う形態は現金配当だけではない。その形態には以下に挙げるように、現金配当のほかに、株式
分割や自己株式取得が挙げられる。
① 株式分割
株式分割とは、1株を複数の株式に分割することであり、株主は保有株式数が比例的に増加することになる。株式分割
は、株価が急上昇している成長企業にみられることが多く、これは株価を低く抑えることにより、株式の売買を活性化さ
せる狙いがある。また株式分割後に1株当たり配当が変更されないことが多く、そのときは実質的な増配となる。
② 自己株式取得
自己株式の取得が行われると、一部の既存株主は自己の所有している株式を企業に提供し、その対価として現金を受け
取ることになる。このため、自己株式取得は、一部の株主に対して現金を分配するという側面があり、この意味で現金配
当の一形態ともいわれる(詳細は後節にて)。
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第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
2.伝統的配当政策論
(B)
後述するMMの配当無関連性命題より前の配当に関する理論をまとめて、伝統的配当政策論と呼ぶ。伝統的
配当政策論に共通する大きな特徴は、株価を最大化する最適な配当政策が存在すると主張する点である。ここ
では、伝統的配当政策論の中で典型的なゴードン(M.J.Gordon)の理論(ゴードン・モデル)を取り上げて検討し
てみる。
(1) ゴードン・モデル
ゴードンは、以下のような企業を想定する。
① 企業は自己資本のみを利用している。
② 各期の利益のうち、一定割合(留保率)bが毎期留保され、再投資に向けられる。
③ 留保利益以外はすべてその期に配当される。
④ 再投資の利益率はrで、常に一定である。
⑤ 株主資本コストはkで、常に一定である。
⑥ 税金は存在しない。
⑦ 初期投資からは毎期一定の利益 E が生じる。
ここで、各期の利益、留保利益、配当額は以下の表のようになる。
期間
1
2
3
利益
E
= E (1 + rb )
留保利益
bE
bE (1 + rb )
bE (1 + rb )
配当額
(1 − b )E
(1 − b )E (1 + rb)
(1 − b )E (1 + rb )2
t
E + rbE + rbE (1 + rb )
E + rbE
= E (1 + rb )
2
2
E (1 + rb )
t −1
bE (1 + rb )
t −1
(1 − b )E (1 + rb)t −1
この表から、留保利益は毎期 rb の率で増加し、配当額に関しても毎期 rb の率で増加していることがわか
る。ここで、配当割引モデルの考え方に従えば、株価(自己資本の価値)は以下のように表すことができる。
P=
(1 − b )E
k − rb
… ①
この式により、ゴードン・モデルにおける株価は、利益水準 E 、配当性向 (1 − b) 、再投資利益率 r 、及び
資本コスト k により決まることが理解できる。
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第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
(2) ゴードン・モデルにおける配当政策
ここで、ゴードン・モデルにおける配当政策について考えてみよう。配当政策と株価への影響は、①式を操
作することによって求められる。今、配当性向 (1 − b) 、再投資利益率 r 、資本コスト k の変化がそれぞれお互
いに影響しないと仮定すれば、①式を微分することによって b (内部留保)の変化が株価へ及ぼす影響度を知
ることができる。①式を微分すると、以下のようになる。
dP E (r − k )
=
db (k − rb )2
… ②
②式により、 r と k の大小関係によって株価への影響が変化することが分かる(下図参照)。
① r<kの場合(投資利益率<資本コスト)
再投資利益率が資本コストよりも小さく、利益を不利な投資に向け企業を衰退させていく場合であり、 b
(内部留保)が高くなるにつれて、株価は下落することになる。つまりこの場合、利益を留保し、それを再
投資すると投資家は損失を被ってしまうため、全額配当が最適配当政策となる。
② r>kの場合(投資利益率>資本コスト)
再投資利益率が資本コストよりも大きく、利益を有利な投資に向け企業を成長させている場合であり、 b
(内部留保)が高くなるにつれて株価は上昇することになる。そのため、利益は配当せずに、投資に充てる
ことが望ましい。なお、②式より k>rb が条件となるので、 b が k/r に限りなく近づく点が最適配当政策と
なる。
③ r=kの場合(投資利益率=資本コスト)
この場合、 b が変化しても株価には影響はない。つまり、配当政策は株価とは無関係となる。
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第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
(3) ゴードン・モデルの問題点
ゴードン・モデルの最大の問題点は、モデルの仮定が適切でなかったことである。つまり、このモデルに
おいては、配当政策と投資政策とが明確に区別されていないのである。投資のための資金はすべて利益から
調達するという仮定を設定していることから、配当政策と投資政策とは表裏一体となって、配当を増加させ
れば投資が減少し、配当を減少させれば投資が増加することになる。したがって、表面的には配当の影響を
分析したようにみえるが、実は投資の効果が大きく影響しているのである。
3.MMの配当無関連性命題
ゴードン・モデルに対する批判は投資政策と配当政策を区別していないことに向けられ、この点を明確に取
り込んだのが、以下のMMの配当無関連性命題である。モジリアーニとミラーは、企業の投資を一定と仮定し
た場合、配当政策は企業価値に影響を与えないと主張した。
(1) 仮定
(B)
MMの配当無関連性命題においては、最適資本構成の議論と同様に、企業の投資政策は一定であることを前
提としている。これは、配当政策の違いが投資政策に影響を及ぼすと、配当政策だけの影響を分離して調べる
ことができないからである。さらに、MM理論においては、以下のような仮定(完全資本市場の仮定)が設定
されている。
① 税金が存在しない
現実には、配当や株式の売却益には課税がされる(税率は異なる)が、そのような課税は行われない。
② 取引コストが存在しない
現実には、株式の売買や配当の受取には手数料がかかるが、そのような取引コストは存在しない。
③ 情報の完全性
すべての投資家が情報を自由に入手することができるので、投資家間および経営者と投資家との間に情報
格差が存在しない。
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第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
(2) MMの配当無関連性命題
(A)
配当無関連性命題とは、完全資本市場では、投資政策を一定とした場合、配当政策は企業価値に影響を与え
ないという命題である。
企業の将来の投資を一定と仮定すると、配当を行った場合には同額の増資を行うことにより、また、配当を
行わなかった場合には内部留保により、当該投資を行うことになる。ここで、投資額を増資、内部留保のどち
らによって調達した場合でも同じ投資案に投資している限り同じキャッシュ・フローを得ることになるが、こ
のキャッシュ・フローの割引現在価値こそが企業価値である以上、結局どちらにしても同じ企業価値になり、
配当政策は企業価値に影響を与えないと主張した。
(3) 配当と株主の富(株主価値)
(A)
配当無関連性命題は「完全資本市場では配当政策は株主の富に影響を与えない」とも解釈できる。
配当を増加することは内部留保の減少を意味し、株価(1株当たり純資産)は下落することになる。つまり、
旧株主にとってインカムゲインの
インカムゲインの増加はその
増加はその分
はその分のキャピタルゲインの
キャピタルゲインの低下とちょうど
低下とちょうど相殺
とちょうど相殺される
相殺されるため、
ため、配当政
株主の
影響を
といえる。そして、株主の富が変わらないのであれば、株主にとって配当は無
策は株主
の富に影響
を与えないといえる
差別といえ、配当は企業価値に影響を与えないということができる。
補 足
自家製配当(ホームメード配当)
(A)
MM理論では、投資家は「自家製配当の形成能力」をもち、それゆえ自ら望む配当をどのようにも実現できるので、投資家
にとって、企業の配当政策はどのようなものでも構わないと捉える。
ここで、
「自家製配当の形成能力」とは、配当が希望水準以下であれば、投資家は望む現金収入を獲得するために、保有株
式の一部を売却することができるし、逆に配当が希望水準以上であれば、余分の配当を当該企業の株式の追加購入にあてるこ
とができる、ということである。つまり、企業がいかなる配当政策を実施しようとも投資家は希望する配当を自らの手で実現
できるのである。
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第2章 コーポレート・ファイナンス (サンプル)
設 例
MMの配当無関連性命題
A社が保有する資産は、現金 100 と固定資産 400 であり、発行済み株式総数は 10、また、負債は利用しておらず、全額自
己資本のみからなるとする。今、A社は手元資金 100 を用いて将来キャッシュ・フローの現在価値が 120 である投資案を実行
しようとしている場合を想定して、
現金 100 を配当した場合と、配当しなかった場合の相違について比較していくことにする。
① 配当しない場合(手元資金で投資を行った場合)
企業が手元資金 100 を用いて新規プロジェクトを実施した場合、企業は現金配当を見送り、投資資金 100 を内部調達し
たことになる。企業価値は固定資産の価値 400 とプロジェクトのキャッシュ・フローの現在価値 120 を合わせた 520 にな
る。企業の発行済株式総数は 10 株だから、新規プロジェクトを実施すると株価は 520/10=52 となる。また、この場合の
株主の富は、インカムゲインがないため、キャピタルゲインである株価のみとなり、52 となる。
② 全額配当した場合(100 だけ新株を発行した場合)
A社が手元資金を全額配当した場合、投資資金が不足することになるため、投資資金 100 だけ外部から調達すること
になる。ここで、A社は投資資金 100 を調達するため、新たに株式をN株発行するとしよう。この場合、新たに株主とな
る投資家は、企業価値が 520 になることを見込んで投資を行う(情報の完全性)ことから、株価(発行価格)Pは以下の
ようになる。
P=
520 …①
(10 + N )
さらに、A社は株価PでN株発行することで投資資金 100 を調達することから、以下の式が成り立つ。
PN = 100 …②
よって、①式と②式を連立することにより、P=42、N=2.4 となることから、発行済株式総数は 12.4 株となり、株
価は、520/12.4=42 となる。また、この場合の株主の富は、インカムゲインである配当 10 と、キャピタルゲインである
株価 42 を合計することにより、52 となる。
以上をまとめると、以下の表のようになり、企業価値及び株主の富に変化はないことがわかる。これは、投資政策が一
定である以上、配当政策に関係なく、同一のキャッシュ・フローが得られるが、当該キャッシュ・フローの現在価値こそが
企業価値である以上、企業価値に変化はないのである。また、株主の富は、インカムゲインとキャピタルゲインの合計とし
て表されるが、配当を増加させると、内部留保が減少し、株価は下落することになる。よって、旧株主にとってインカムゲ
インの増加はその分のキャピタルゲインの低下とちょうど相殺されるため、配当政策は株主の富に影響を与えないのである。
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