自己紹介文 - パール歯科クリニック

自己紹介文
助廣
都祈(すけひろ
とき)
私、平成 24 年 4 月に入社しました助廣都祈のプロフィールを簡単ではあります
が、紹介していきます。
<幼少期>
このころは、どこかに出かけると、一人で勝手にうろうろする癖があったらし
く、迷子になって祖父に怒られたような記憶が残っています。今は逆にこのこ
ろの教訓を活かしてか、道を覚えるのは得意な方だと思います。おそらく 5 歳
くらいだったと思いますが、父の仕事の関係で家族そろって、ヨーロッパにあ
るベルギーという所に数年住んでいました。今でも時々帰りたいと思えるほど、
自分の幼少期の思い出の大半を占めています。
<小学校>
小学校の頃は、とにかく自転車でどこかに遊びに行くことが多かったと思いま
す。どこまで遠くに自転車で遊びに行くことができるかということが自分の中
で一種のステータスみたいなものになっていました。自転車で福岡から祖父の
家があった佐賀県の伊万里まで行こうとしたのを覚えています。(確か 60 キロ
くらい走って断念しました。)そのほかにも、クワガタなどの虫取りをしたり、
野球をしたり、バスケットをしたりしていました。熊本にも友達と夏に何回か
キャンプをしに来たことを覚えています。
<中学校>
中学校は家から近くの梅林中学校というところに通いました。部活は当時流行
っていたスラムダンクという漫画の影響からバスケット部に入っていました。3
年に上がった時には受験と部活の両立が難しかったですが、3 年間部活を辞めず
にいられたのは今でも誇りに思っています。あとは、高校受験のために塾に通
っていましたが、この時に出会った塾の先生の教えもあり、成績が上がったの
はもちろんですが、頑張ることの大事さを教えていただき、結果が出た時の喜
びや、結果が出なかったときどうすればいいのかというのを学び、それは今で
も活きています。
<高校>
高校は大濠高校というところに通いました。高校受験では公立の高校を第一希
望で受けましたが残念ながら落ちてしまったので大濠高校に通うことになりま
した。高校時代は行く大学によって今後の人生が大きく左右されるということ、
あと 3 年で自分の人生が大きく左右されてしまうという焦り、高校受験に失敗
した悔しさなどがあって、自分ではあまり遊んでいたイメージがありません。
とはいっても勉強だけをしていたかというと、そうではなく、ただ大学に行け
ればいいくらいの感じだったので、あまり効率的なことはできていなかったと
思います。ただ、このとき仲が良かった友達は、今は各地にバラバラにはなり、
連絡を取ることもあまり多くはありませんが、酒を飲みながら朝まで本音を語
り合えるような仲で、今もこれからも大事な仲間です。
<予備校>
大学受験に失敗してしまったので予備校に行くことになりました。予備校には 2
年間行きました。成績が伴っていなかったのもありますが、自分の中で将来像
が描けてなかった(選択できなかった)ので、とても苦労しました。最初の 1 年は
そんな感じで終わってしまいました。ただ、小学校のころに虫歯があって行っ
た歯医者さんのかっこいいイメージやあこがれがあったこと、もちろん他にも
理由はありましたが、浪人生活 2 年目に歯学部の受験をして、受かった大学か
ら北海道医療大学に進学することを決めました。
<大学>
大学に入ってからは、途中でやめてはしまいましたが、準硬式野球をしていま
した。とくに思い出に残っているのは登院実習でこの時一緒に頑張った友達は
今でも大変仲のいい友達です。私生活では、夏は車でドライブしたり、仲間内
で野球をしたり、酒を飲んだりとても活発でしたが、冬は、冬道を歩いていて
転倒して怪我をしたことがトラウマになってしまって、冬はひきこもるか酒を
飲むという不健康の極みみたいな生活をしていました。勉強の方は、昔から物
を作るのが好きだったこともあり、補綴系の実習が好きでした。
<研修医~現在>
出身大学である北海道医療大学で 8 か月、ここパール歯科クリニックで 4 か月
の研修をしました。研修では歯周治療を中心とした治療、言い換えると歯科医
師が患者様を治す治療ではなく、患者様の持つ生体本来の治癒能力に働きかけ
る治療を目指し、歯周病専門医資格を持った先生のご指導を受けました。今年 4
月からは日本歯周病学会、日本口腔インプラント学会に所属し両学会の専門医
資格取得と、これから学び得ていくこと臨床の現場に還元していくことを目標
に、平成 24 年 4 月医療法人社団エステティックラインパール歯科・矯正歯科ク
リニックに入社、現在に至ります。