Newsletter VOL.55(PDF) - 神戸クロスカルチュラルセンター Kobe

神戸クロスカルチュラルセンター
VOL.55 JUN. 20, 2016
Toward a Global Society
〈特 集〉
― 地球市民社会への新たなる挑戦 ―
New Challenges to our Global Citizens' Society
―“難民・移民問題”と どう向き合うか ―
How should We respond to the Problems of Refugees and Migrants?
哀悼の念を捧げて: 東日本大震災と熊本地震の被災者の方々へ
Jerusalem: Damascus Gate Market
Photo by George Gibbons OBE
―1―
特集
地球市民社会への新たなる挑戦
―‘難民・移民’に どう向き合うか ―
2013年のランベドウーザ島難民船沈没事故以来、国内の紛争の戦火や迫害を避けるため国を出て
ヨーロッパへ逃れる途上で何千人もの人々が命を落としている。また国境さえ越えられず自国で避
難生活を送る‘国内避難民’を含めると、住む場所を奪われた人々は世界で5,950万人に達し、そ
のうち、1,440万人が‘難民’と認定されている。最大のグループはシリア難民の390万人で、全世
界の難民の60%はアフリカ諸国の出身者が占めている。
ドイツのメルケン首相はヨーロッパへの難民流入危機の解決策は‘庇護申請者をEUに配分するメ
カニズムを作るべきだ’と主張しているが、EU加盟国の間で大きな差があり実現性に乏しい現状で
ある。今回は世界の危機となりつつあるこの‘難民’のテーマに、多様な視点から取り組んでみた。
Refugees and My Home Country
Gerhard Lebherz,(Principal,)
Deutsche Schule Kobe/European School
Mr. Gerhard Lebherz
It was somehow naive to
expect that the challenge
of integrating almost 1
million people into society
would not cause friction
Throughout the history of mankind there have
and resistance. It took time
always been people who have fled home because
for the central government
of war or severe economic crisis. For example,
to realize that cities and
in the 19th century many European people left
communities were overburdened by their duty
their countries in the hopes of a better future in
to provide appropriate housing and services
America (North and South), and there they were
for the immediate needs of migrants. While
able to create new lives.
the government hesitated to provide better
Germany has a history of refugees. The
organization and support, resentment and
terror of Hitler’
s fascism led to many stateless
opposition grew rapidly. Initially it was taboo
people and in the aftermath Germany granted
to criticize in the government’
s failed efforts;
a constitutional right for asylum; Article 16a:
especially for those who welcomed and supported
“Persons persecuted on political grounds shall
the refugees, they were afraid that criticism could
have the right for asylum.”Never again would
lead to closed borders.
people persecuted on political grounds be denied
As always, a lack of transparency contributed to
entry to my home country. Internationally two
an atmosphere of distrust. During the New Year
instruments, the United Nations Convention and
celebrations there were incidents during which
the European Convention on Human Rights , were
migrant men approached women in criminal ways.
developed to prevent deportation of people who
Since police and politicians hesitated to openly
were in danger in their home countries.
speak about it and took too long revealing the
When the German government opened its
truth, the enthusiasm of many Germans turned
borders last year, I felt proud to be part of a
suddenly against current politics.
nation that had learned its lesson from history and
When I was a student, I went to Israel to help
was welcoming and comforting towards asylum
harvest apples in a Kibbuz. I felt uncomfortable
seekers. However, this atmosphere of welcoming
being German because of all the crime and terror
contributed to a fast growing number of migrants.
Germany brought to Europe in history. Only from
―2―
my generation did Germans start to break from
country, but I am losing trust in the government’
s
the past for a lighter future. Until recently, it
ability and power. I am not sure they have the
seemed that a united Europe was possible. Many
necessary answers and solutions for what might
countries were sharing the same currency and
be the greatest challenge Germany has faced
more were joining, setting a positive and peaceful
since World War II. I am also very worried about
example of development for other areas of the
a world with so many divided and conflicted
world. Yet this unity is dissolving quickly, and
interests. Concerned countries and people do not
national egotism and distance seems to be the
find together to prevent the killing of innocent
new reality of Europe.
people and the destruction of homes and towns,
Living in Japan with more than 8000 miles
hospitals and schools in Syria.
between Germany and myself, I am confronted
If we are not taking action to stop war, then
with news daily from Germany about the migrants
it is our duty to help those people who are
in and around Europe. Although I feel mildly
trying to escape out of worlds of terror. It is a
unattached, at the same time I have growing
human crisis and I do not understand why so
worries about what impact this tremendous
few governments are offering their aid. We need
amount of migrants will have on my country
more countries to open their borders, to provide
and on the unity of Europe. I am afraid of the
sanctuary to refugees so they might make new
changes that will go through my country. You can
homes, temporary or permanent, to live their lives
already see some of the impact-- election turnouts
peacefully. I do not understand why Germany
have revealed radical right wing parties gaining
and Turkey have to provide homes for millions,
momentum.
while other countries debate about taking in mere
I was always positive and optimistic about my
hundreds of refugees.
和訳
難民と私の国ドイツ
た際、ドイツの過去の歴史における負のイメージのた
めドイツ人として、とても居心地の悪いものでした。
人類の歴史の歴史を通して戦争や経済危機から逃
我々世代のドイツ人は過去のイメージを打ち破り新し
れる多くの人々がいました。例えばより良い生活を
い未来を拓こうとしています。しかし、つい最近まで
求めてヨーロッパからアメリカへ人々は移住しまし
ポジティブで平和的と思われてきたEUの構想は各国
た。ドイツにも難民の歴史があります。ヒットラー
の利己的行為により素早く崩れ去ってしまうかも知れ
のファシズムを逃れようと多くの人々が国を失いま
ません。ヨーロッパの難民事情をチェックしています
した。その後、ドイツは法的権利を多くの難民に与
が、自国から800マイルも離れて、現地の人々より実
えてきました。政治的理由で迫害された人々がこの
感は乏しいと感じざるを得ません。押し寄せる難民の
国への入国を阻まれるべきではありません。ドイツ
うねりが各国にもたらすインパクトにより先鋭的な右
は自国の歴史から学び多くの難民の受け入れを決め
寄りの党の選挙での躍進に危惧も感じています。
たことに対して誇りに思っていますが、その結果あ
自分の国の現状に対し私は楽観論者ではあります
まりにも多くの難民の流入がありました。百万人も
が、第二次大戦以来ドイツがずっと直面してきた問題
の人々を受け入れて、摩擦や抵抗が起こらないと期
に対して解決法が未だ見いだせず、また、関係国が罪
待することは難しいことです。また、援助の手を差
なき人の殺戮や国家の崩壊を食い止めることが出来な
し伸べた受け入れ国の対応の不味さを批判すること
いことに憂慮しています。
も間違っています。しかし、政治家や警察は移民に
もし戦争を阻止することが出来ないなら、罪なき
関する事件や問題に関して口を閉ざす傾向にあり、
人々を助けることは我々の義務であり、もっと多くの
問題の透明性が見えないということでドイツ国民の
国が国境を開きこれらの人々が新しい国でつつがなく
怒りを買いました。
暮らせるよう援助すべきです。ドイツ、トルコは何
学生時代にボランティアとしてイスラエルに行っ
百万の人々の定住に手を貸さなければなりません。
―3―
特集
移民・難民問題をめぐるMy Opinion
大阪大学大学院 国際公共政策研究科M1 張 茜樺(チョウ センカ)
そもそも、「移民」と「難民」の
概念は異なるが、その形成原因と影
響の共通性もあると考えるので、同
時に論じていきたいと思う。すべて
問題解決策を考える際には、その問
題の発生原因に関する分析が不可欠
だと考える。移民・難民問題も例外
ではない。また、移民・難民問題
は、一言で言い切れない大きなテーマなので、その多様
性と複雑性もあり、解決するのも決して容易なことでは
ないだろう。本当に個人的な考えだが、人間は一般的に
住みにくいところから住みやすいところへ移動する傾向
があると思う。当然、ここで言う「住みやすさ」に関し
ては、ただ生活上の便利さだけではなく、政治・宗教・
資源等々とも関連していると考えられる。
2015年の欧州難民危機は世界中から注目されている。
NHKによると、2014年において日本で難民の申請をし
た人数は5000人に対して、難民と認定されたのは僅か11
人しかいなく、シリアからの難民認定は3人しかいな
かった。日本がさらに多くの難民を受け入れるべきだと
主張する声をよく耳にするが、一方、フランスやドイツ
でも反移民デモが行われていたのも事実である。シリア
難民が発生した直接の原因は紛争だといっても過言では
ないと思うが、紛争に至る原因は様々である。
「イスラ
エルVSイスラム教国家、スンニ派VSシーア派」のよう
な宗教衝突、資源問題により生じた経済・政治摩擦及び
地政学的変化等すべては中東紛争と繋がっているだろう。
上述のように、日本の難民認定が少ない。これについ
て、オンライン で調べたところ、主に以下のような三
つの理由が挙げられていた。①シリアのような紛争国か
ら日本まで、地理的に離れている;②東南アジア等の国
から仕事に来日した人の急増で、難民認定の手続きが遅
要約
世界の難民危機
元神戸大学大学院工学部博士課程 Chalumuri Ravi Sekhar(インド ニューデリー在住)
避難民に関するジュネーブ協定に
よれば、難民とは人種、宗教、国民
国家、特定の社会集団、政治的見解
により迫害を被ったため国外に出た
人々と定義されています。
2000年6月20日に創設された世
界難民の日は、イギリスでは国民の
祝日で、その理解を促進するため難
民の文化的貢献を祝う日でもあります。ヨーロッパでは
前例のないほどの難民流入で受入国は経済的危機に陥っ
ています。2008年に起こった危機はセルビアで始まり大
れ、パーセンテージも下がっている;③法務省による難
民の定義が古い(紛争から逃れてきたシリア難民は、厳
密には難民ではないという判断を法務省はしている)。
また、日本において難民の認定が少ないことについ
て、同研究科の先輩と同級生にインタビューしたとこ
ろ、上述の三つの理由以外に「現在の日本の経済状況も
影響しているのではないか」
「日本は自然災害が頻発する
国である点も難民の申請数に影響を与えているかもしれ
ない」という指摘があった。
さらに、「難民の中にテロリストがいるのではないか
という心配もあるが、これは難民認定とテロ対策は全く
別の問題である。」と考えている人もいた。しかし、私
は、「難民認定」と「テロ対策」の関連性は非常に強い
と思う。「難民の中にテロリストがいるかもしれない」
という心配は、今や現実に身の回りに存在しているし、
日本人の難民対策に対する態度にかなり影響を与えてい
ると見なされる。
近い将来日本が、「難民の受け入れを拡大すべきかど
うか」
「どのように、どの程度の難民を受け入れるべきか」
などの課題に関する議論が極めて重要であり、専門家に
よる経済・政治等の分析も必要だと思う。さらに受け入
れ後の課題についても考えなければならないことは多く
ある。
難民で入国する人は、日本語や文化、習慣の違いなど
で苦労すると思われるが、彼らを支援するための様々な
支援・施策が必要である。難民を受け入れた後「どのよ
うに彼らを支援していくのか?」「難民資格がなくなる
際には、どのような対策を取ったら良いのか」等一連の
課題も検討しなければならない。 一方、視点を変えて考えれば、限定の地域(例えば、
日本国内)において、自然資源や就職チャンスなどの「資
源」には限りがあるため、上限なく移民・難民を受け入
れるのは不合理なことだと思うし、移民・難民を受け入
れるだけで、根本的に「移民・難民問題」が解決できる
とも言えないと考えている。したがって、移民・難民問
題を解決(緩和)する根本的な方法としては、やはり世
界の紛争や戦争をなくし人々が住み慣れたところで落ち
着いて暮らせるよう、平和な社会環境作りの夢に向けて
国際社会が繋がっていくことが不可欠だと思われる。
きな打撃となりました。一方中東の国々、シリア、イラ
ク、レバノンは大混乱に陥り、セルビア、モンテネク
ロ、ルーマニアで多くの民族的マイノリティ難民が生じ
ました。
インドは難民の歴史の国と言われるほど長い歴史を通
して難民流入がありました。
1951年の統計では7.23万の難民がインドからパキスタ
ンへ、7.249万人のヒンズー教徒やシーク教徒が西部地
方へ移動、5.3万人のイスラム教徒がインドからパキス
タンの西部パンジャブへ移動しました。
第14代ダライラマの足跡を辿り15万人のチベット難民
が過去50年間インドにやってきて、インド政府は彼らに
教育等、数々の利益を与え、国境沿いに難民キャンプも
設置されました。1979年のソビエット アフガン戦争の
際、スリランカのタミール人10万人がスリランカの軍事
政権の勃興でインドに逃れてきました。
―4―
6月20日は
「世界難民の日」
と知っていますか
元ジャーナリスト 的地 豊
6月20日が「世界難民の日」だということを、どれだ
けの人が知っているでしょうか。私も最近知ったばかり
です。2000年の国連総会で決議され、翌年から毎年6月
20日を「世界難民の日」として、国連難民高等弁務官事
務所(UNHCR)などが、世界各地でさまざまなイベン
トを開いて、難民への支援や難民問題の理解を呼びかけ
ているそうです。
これまでは、私が携わっているボーイスカウト活動の
中で、年1、2回、UNICEFや災害支援などの募金活動
をしたり、若干の寄付をすることで、少しは役に立つこ
とをしているという気になっていました。しかし、ここ
数年前からUNHCRやUNICEF、アムネスティなどの団
体で、難民支援を呼びかける活動を盛んに目にするよう
になりました。特に昨年から今年にかけては、シリアの
紛争が激しさを増すにつれ、難民が急増しているニュー
スが世界中のメディアやインターネットで毎日のよう
に流れ、シリアから約480万人が国外へ逃れたと聞きま
す。シリアだけでなくイラク、アフガニスタンなどアジ
アやアフリカからの難民も後を絶ちません。
ふるさとを逃れ、ヨーロッパめざして危険な旅を続
け、時には難民が定員を超えて乗船する小さなゴムボー
トが転覆し、尊い命を落とす悲劇も伝えられています。
生まれたばかりの赤ん坊を連れた家族、親と離れ離れ
になって一人で旅する幼子。UNHCRの支援対象者は約
5950万人(2014年)に上るといいます。故国に帰れず、
働く場を持てず、医療や食糧にも事欠くテントでの生
活、学校で学ぶこともできないでいる子供たち。そんな
悲惨な生活の映像が目に焼きついています。一方で、難
民を受け入れてきたヨーロッパ各地では、増える難民と
(ボーイスカウト活動に携わる筆者)
の間でさまざまな問題が生じ、受け入れを拒否する動き
も出てきて、世界的な問題になっています。平和な日本
で暮らす私たちに、難民といわれる人たちが、どんな思
いで生活しているのか、想像もできません。
私 は、 ス カ ウ ト 活 動 の 目 指 す「Creating a Better
World(より良い世界を創る)」と取り組むグループ
の仲間に入れていただき、地域社会への奉仕を通し、
UNICEFなどと連携して、平和や環境といった面にも世
界中のスカウトの力を結束していくことの大切さを知り
ました。
日本にも毎年多くの人が難民申請しているといわれて
います。2014年には約5000人が難民申請し、認定された
のは11人だったといいます。しかし、2010年に第3国定
住という制度ができ、これからはより多くの難民を受け
入れられるようになっていると聞きます。日本に定住で
きるようになった人たちが、第2の故郷として、日本で
当たり前の生活ができるよう支援をしていくことが望ま
れるかもしれません。難民問題解決へのひとつの道とし
て、募金活動とともに、日本へやってくる難民といわれ
る人たちの支援にも目を向けていきたいと考えています。
「 世 界 難 民 の 日 」 を 前 に、 ス カ ウ ト と し て 目 標 の
「Messengers of Peace」を実行したいです。
要約
今こそ難民に援助の手を
元神戸大学大学院経済学部修士課程 Maisara Putra(インドネシア ジャカルタ在住)
難民問題は、今や全ての国々に
とって極めて深刻なものとなってい
る。難民はやむなく自国の独裁的な
統治、経済・政権の不安定さから逃
れて、より良い生活を求めて他国に
移動する。受け入れる国は、不法に
増加していく外国人によって、財政
的・物質的損失をこうむることになる。経済状況の良い
国は、受け入れる余裕があるかもしれないが、貧しい発
展途上国にとって避難民の存在は、経済的に多くの混乱
―5―
をもたらすだろう。難民の受け入れを準備して待ってい
る国はないだろうが、流入する難民の数は、食物、衣
服、避難所等供給出来る枠を超えるかもしれない。しか
し、人間として我々は彼らの状況を見過ごすことは出来
ない。中には不法に我々の国を訪れ、恐らく社会的な問
題を生み出す彼らを強く非難する人々もいるだろう。だ
が、決して排除は解決にはならないのである。この難民
の危機に対処していく中心になるのは、国連高等弁務官
事務所であると思う。UNHCRは難民の援助、保護、交
渉と解決への役割を負う。難民を送り出す国と受け入れ
国との双方の協力が問題解決の鍵となるだろう。我々は
本来、人として民族・人種を差別することなく連帯する
ことが求められている。我々は、人種や国を選んで生ま
れてくることは出来ない。彼らは唯人間らしく生きたい
と願っているだけである。今こそ彼ら、難民に援助の手
を差し伸べるべき時ではないだろうか。
特集
戦後スリランカの国内避難民と今後の課題
神戸大学法学部 修士課程 Liyana Gamage Wasana(スリランカ)
Post Conflict Challenges of Sri Lanka: Resettlement of internally displaced pers
現在世界では難民、移民という課
題についてより広範に語られるよう
になった。今や、世界で難民又移民
がいない国家はほとんどないと言っ
てよいだろう。難民を生み出す主な
原因として内戦、気候変更による悪
影響、経済的な不安定などの要因が
挙げられる。スリランカでは1983年から2009年まで26年
間続いた内戦が数多くの難民を生み出したのである。そ
のなかの数多くは国内避難民になったが、インド、オー
ストラリア、カナダ、米国、ニュージーランド、デン
マーク、ノルウェーなどの外国へ避難した人数も少なく
ない。
26年間に渡って続いた内戦は数多くの人の命を奪い、
多数の国内避難民も生み出したが、特に闘争が激しく続
いていたスリランカの北側と東側から数多くの国内避難
民が出た。その上、発展途上国であるスリランカには内
戦で破壊された国の再発展や国民の生活を安定させるこ
とは大きな挑戦であった。でも幸いなことにスリランカ
はその挑戦にうまく対応し、スリランカ政府は経済回復
に注目しながら国内避難民を定住させるための努力も十
分に発揮し、一層速めている。
ヒンドゥ教の業務省のデータによるとスリランカ刑務
要約
My Experience 14th.January 2016
現神戸大学海事科学部 研究生 Ludfi Bowo Pratiwi(インドネシア出身)
シリアの紛争は、2011年3月発端
はダルアーという町で少年達が学校
の壁に反政府の落書きを書いたこと
から始まった。中東モニターによる
と、2015年にシリアで21000人が殺
されそのほとんどは民間人であると
いう。国際法、国際人道主義、人権
を無視した中で、家を失い国を追われる難民の数は、今
も刻々と増え続けているのである。
一方、フランス、インドネシア、トルコ、ベルギーで
は、ISに起因する悲惨なテロが次々と発生した。多くの
人々は、これらのテロが特別な宗教によって起きてい
る、と信じるだろう。しかし私は、世界中を震撼させて
戦争を拡大させていくように教える宗教など、どこにも
あるはずがない、と強く思う。これらの事件すべてが、
本当の宗教を持たないテロリストによって引き起こされ
所改革、リハビリテーション、再定住と政府は2015年9
月末までに国の東と北の地域の合計800,129人の国内避
難民を定住させている。これはスリランカにとって大き
な勝利である。それに内戦のため隣国のインドへ避難し
た6674人に近い難民も又自国に戻っている。これらの
データから見るとスリランカは国内避難民を定住させる
活動は積極的に行っている。しかし、まだ、安定した生
活を送ることが出来なくなって、キャンプで生活をした
り、友達や親戚などと一緒に暮らす人もいる。このよう
に2015年9月末までに東と北の地域で定住できない国内
避難民の数は44,934人も残っている。
内戦が国全体の経済成長に悪影響を及ぼし、特に北と
東地域の企業、農業、インフラ、教育や健康医療施設に
も大きな打撃を与えた。国内避難民の問題も、ある程度
解決されているが、それらの地区に定住させた人々の生
活を安定させるためには、インフラ設備の改築が必要で
ある。インフラ整備の改築のためスリランカ政府は、主
なプログラムとして国の東地域を中心にして実施した
Negenahira Navodaya (2007年)(スリランカの東地域の
復興を目指して行われたプログラム)と北地域を中心に
行ったUthuru Wasanthaya(2009年)(北地域の復興を
目指して行われたプログラム) がある。内戦の悪影響を
受け国の労働力人口は特に東地域で減少している。その
ため、それらの地域の教育機関や技能開発に関する投資
を更に増加する必要がある。こうして戦後の国内避難民
の定住やインフラ設備の開発は進んでいるが、それと並
行して、住民の大多数を占めるシンハラ人と少数民族の
タミル人との間の和解を設立するために双方の代表者達
は更に積極的に取り組むべきで、それをどう築いていく
かを真剣に考えなければならない時が来ている。
ていて、彼らはお互いを対立させ非難させ合いたいだけ
であると考える。2016年1月14日、私の母国インドネ
シアのジャカルタで一つの事件が発生した。
私の家族は、丁度その現場近くに住んでいて、事件を
知った時は驚きと心配で混乱してしまった。幸い誰も犠
牲にならずに済んだが、人ごとと考えていてもいつ自分
が当事者になるかもしれないことを身をもって感じたの
である。そして難民の人々を思った。
悲惨なニュースは、今インターネットや新聞ですぐに
全世界に広がる。善良な心を持った人々は、傷を負った
人々や国に深い悲しみと同情の心を寄せる。そして、
人々を勇気づけるために物資の援助や手助けを申し出る。
我々日本に住むインドネシアの団体も、シリアの人々
が最も必要とするお金と衣服を送った。が、残念なこと
に難民が通過することにも制限を設け、自国を守ろうと
する動きは増してきている。しかし、2月27日よりシリ
アへの米ロ主導の一時停戦が発効してから2カ月が経と
うとしている。難民をどう対処していくか考えることは
当然肝要であるが、一人の難民もこれ以上増やさないた
めには、戦争を無くし平和を取り戻すことが先決であ
る。戦争は何も生み出さない。戦争の中では、誰もが唯
悲しく苦しいだけである。
―6―
震災5周年・神戸から東北へ
ボランティア通い 荒井 勣 NPO ひまわりの夢企画代表
小松 大祐 小松歯科クリニック院長
私は阪神淡路大震災で、地元のお
じさんボランティアとして活動をし
私が支援活動をするようになった
たことをきっかけに大きく人生観を
変えた一人である。5年前の3月、
駆り立てられるような気持で東北へ
車を走らせていた。気仙沼市の小泉
中学校避難所地区に友人が住んでい
た。小型トラックに救援物資を満載して、1千キロを超
える道のりを殆ど休むこともなく運転し続けた。避難所
に着くと、友人は避難所となった体育館で、地元のボラ
ンティアリーダーとして支える側に回っていた。「皆さ
きっかけは、21 年前の阪神淡路大
震災を体験したことだろう。当時の
私は、西区歯科医師会の役員をして
いたが、県から割り当てられた避難
所への支援をこなしていただけに過
ぎなかった。近くの公園には仮設住宅が建ち、西区は
1万人の被災者で膨れ上がった。仕事は忙しく、いわゆ
る震災特需だったが、これがもとで体を壊してしまっ
ん、聞いてください。この人は神戸から私達のために駆
けつけてくれたボランティアさんです。
」避難所に拍手
が沸き上がり、一瞬にして仲間として受け入れられたと
感じた。体育館には、津波で家を流された小泉地区の住
民 400 人が避難していた。すぐに活動が始まった。ライ
フラインが止まっていたので知恵を絞って風呂を作り、
洗濯機を回した。青空の下、校庭に張り巡らしたロープ
に掛けた洗濯物が風で踊った。
「おじさん凄い!この広
い三陸の避難所で洗濯しているのは、私達だけよ。」こ
の言葉は、
勲章をもらった功労者のように誇りに思えた。
長期の支援を覚悟したきっかけでもあった。他にも種々
の支援をしてきたが、気がつけば5年経ち東北には 32
回通い続けていた。
ここまでスムーズに活動出来たことに、思い当たるこ
とがあった。避難所の支援を始めて間もない頃、津波で
た。被災された方々を断るわけにはいかず、寝食を忘れ
海岸線の国道は通行止めで山道を通行していた。そこで
白馬に出会った。
だがその馬には手綱がなく角があった。
冬毛のカモシカである。とっさにカメラを構えると動物
図鑑の様な写真が撮れた。避難所で住民に「みんな見て。
が強くなっていった。その頃は、個人として社会活動団
て仕事を続けた。当時の神戸市歯科医師会は歯科治療が
出来る移動車があり西区にも来ていた。その移動車で歯
科診療をしていた若い女性歯科医から平成 23 年の東日
本大震災フォーラムで支援活動の体験談を聞くことがで
きた。自ら被災地に駆けつけ、活躍されていることを知
り感銘を受けた。それと同時に、自分が今まで取り組ん
できたことへの反省となった。5年前の3月 11 日の報
道で被災地の様子を見て、21 年前に自分が被災者に何
かやり残した思いがあった。兵庫県歯科医師会は同年7
月から5週間、宮城県で避難所への歯科衛生活動のため
に5名の歯科医師募集をしていて、申し込んだがかなわ
なかった。それなら自分で何とかしてやろうという思い
体に身を置いており、NPO 法人で活躍されている人か
らの誘いで、被災地へ送るための物資を集めて仕分けを
凄い写真や、
カモシカや!」その写真を見ながら皆が笑っ
た。
「そいつは、ここの住民や」「えっ、住民?」何かと
して配送する手伝いをするようになっていた。インター
ても恥ずかしく、カルチャーショックを受けた。大自然
の中、カモシカと共に暮らす地域に、阪神淡路大震災の
様な都市型の支援は通用しないと、自らの活動を地域に
合わせた。3月 11 日の第5回避難所同窓会は、仮設や
で様々の人達が手伝いに来ていた。報道を通してしか知
ネットを通じて沢山の物資が届き、若い人から年配者ま
り得ない被災地のことで気分も落ち込みがちであった
が、手伝いを通して何か出来るのではないかと感じた。
集団移転地から住民が集い、避難所生活を懐かしく語り
合った。南
三陸、石巻
思いは人それぞれだが、ボランティアとして集まってく
と回り神戸
に戻った
が、復興に
のではとの思いが湧いてきた。NPO の口利きで、8月
る人達に親しみを覚えた。NPO を通して被災地のこと
が分かるようになり、自分に出来ることで関わればよい
に被災地に赴き口腔保健活動に3年間に 10 回携わった。
はまだ長い
道程がある
と強く感じ
数々の失敗もあったが、被災地の人達は私を受け入れて
た。
いてください」と心に刻んでいる。
―7―
くださり心穏やかな人々と巡り会えたことで、教えを受
けた。「ありがとう、また会いに行きますから、待って
= 報告 =
Exhibition of Cross Cultural Works
2015年 7 月15日、16日、〈 グ ロ ー
バル市 民 社 会 の 明 日 を 拓 く た め に・
語り継ごう命の貴さを〉をテーマに原
田の森ギャラリーで行われました。ス
テージでは各国の民族舞踊や歌、会場
では国際色豊かな屋台が立ち、またハ
ンドクラフトの展示もあり、たくさん
の参加者でにぎわいました。
15日の出演者全員
世界の食べ物
フィリピンダンス
バリ音楽
琉球音楽
ロシアコーナー
ベトナム衣装
中山富美子氏
16日の出演者
―8―
世界を理解と友情でつなぐ輪に
世界の家庭料理 ~沖縄~
World Home Cooking ― Okinawa
[日 時] 2016年3月24日 11:00~13:30
[場 所] 加藤 弘美さん宅 神戸市西区井吹台東町2丁目西神南
[講 師] 加藤 弘美さん スイートサロン ローズマロー
(パン・洋菓子・シュガークラフト・沖縄料理・おもてなし料理教室主宰 )
加藤弘美さんは沖縄出身で、お料理はもちろんシュガークラフトでも多くの賞を取られています。加藤さん宅は地下鉄西神南
駅からすぐの便利なところにあります。室内に招かれて入ると、テーブルの上に美しいセッティングがなされていました。テー
ブルに目を奪われているうちに、早くもお料理教室がはじまりました。まず、パイナップルゼリーの作り方、次にゴーヤチャン
ブラーの作り方を教えてくださいました。その手順の素早さに驚きました。事前にご準備くださっていたお料理も数多くあっ
て、食べきれないほどでした。どれもこれも沖縄らしいお料理で舌鼓をうちました。ベランダからの景色やシュガークラフトの
作品などを見せていただいているうちにあっという間に時間が過ぎてしまいました。ゴーヤーが出回る季節になったら、教えて
いただいたように作ってみようと思っています。夏になるのが楽しみです。デザートのパイナップルゼリーは缶詰とゼラチンさ
えあればすぐできるそうです。
献 立
いただき
ま
す
!!
ご 飯 じゅしい(炊込みご飯)
汁 物 アーサ汁(青海苔が入ったおすまし仕立の汁)
お か ず 肉(ラフティ)
魚(天ぷら)
ふかしターンム(田芋)
★ゴーヤチャンプルー 人参シリシリー モーイ豆腐
酢 の 物 モズク ミミガー(豚の耳の酢の物)
デサート ★パイナップルのゼリー サーターアンダギー ドリンク さんぴん茶 シイクァサードリンク
ゴーヤチャンブルー
〈材料〉4人分
ゴーヤー
木綿豆腐
スパム
卵
サラダ油
本出し
塩
醤油
1本
一丁
半分
2個
大さじ1
小さじ2
適宜
適宜
下処理
1.木綿豆腐はキッチンペーパーで水分を取り一
口大にカットする。
2.ゴーヤーは3ミリの厚さに切り、サット湯と
おしをする。
3.スパムは5ミリの厚さに切り2センチ幅に切る。
4.卵はザックリ溶きほぐす。
作り方
① フライパンサラダ油を熱して木綿豆腐を炒め、全面
に焼き色が付くまで炒めお皿に取る。
② ①のフライパンにサラダ油を足しゴーヤー、スパム
を加え炒め。①を戻し 砂糖、塩、醤油で味を整える。
③ 軽く解きほぐした卵を回し入れて、一呼吸置いて菜
箸でざくり混ぜる。
沖縄県の郷土料理のことで 琉球料理とも呼ばれるが、そ
の場合は琉球王朝時代の宮廷料理を示すことが多い。日本本
土とは異なり、四季の変化が比較的不明瞭なため、冷涼な気
候に適した食材(品種)が栽培・入手しにくい一方、亜熱帯
性の食材が多く見られる。使用される野菜類が本土とはやや
異なり、消費量日本一の干し椎茸を除けばキノコの使用も少
ない。また、亜熱帯に属するわりに香辛料はあまり使用され
ず、伝統的な味付けは、塩、味噌、鰹節や昆布を多用する日
本料理の範圍に収まるものである。海に囲まれた多島の県な
のに、魚料理があまり発達していないという特徴を持つ。
沖縄の伝統的な食文化には地理的に近い薩摩料理や福建系の
中華料理(台湾料理を含む)の影響が強い。沖縄の料理に欠
かせない昆布は北海道など沖縄県以外が産地で、その歴史
は素材に至るまで複雑なものとなっている、また気候や流通
的な理由で保存性に優れた乾麺、麩、海藻、と言った乾物、
塩漬けが多く、さらに、石炭質で稲作にはあまり適しない土
地柄のため戦前は上流階級以外は米ではなく、甘藷を主食と
―9―
し、第二次世界大戦後は しばらくは米軍の配給食に依存し
た食生活でポクランチョンミートや各種の缶詰めを定番化し
ていた。アメリカのハンバーガーチェンの進出は本土より早
く、県民はアメリカナイズされた食生活に馴染んでいった。
また、戦前の芋を食する食事習慣に変わって米や小麦を主食
とする食生活に変わっていき、タコライスなどの沖縄独特の
米料理も食べられるようになっていった。沖縄県では豚肉の
消費量が全国2位でベーコンやその他、豚の加工肉(ポーク
ランチョンミートなど)の消費量は全国1位である。また、
鰹節の消費量は日本一である。鰹節も日本本土とは異なり、
鰹節自体のサイズも異なり、水分含有量自体も通常の17%
~20%に対して沖縄向けの物は25% ~28%にも達することも
あって、相当に魚臭いものとなっている。沖縄料理で最もポ
ピラーな“沖縄そば”は明治以降に本土の一般的な食文化に
影響されて誕生した料理ではあるが、現在ては広く沖縄料理
として認識されている。
〈神戸クロスカルチュラルセンター〉
国際交流ツアー:バスツアー One Day Bus Trip
美濃焼の里“多治見”を訪ねて
2015年11月28日
ボランティア 荻野 陽子
ところ、とりわけ明治期には全国の杯生産の大部分を占
晴天に恵まれ、午前8時大阪駅前よりバスに乗り美濃
めるようになりました。美術館には1500点の杯が展示さ
焼のふるさと岐阜県多治見市へ向かって出発しました。
れており、中でも出征する兵士ひとりひとりのために
参加者は少人数のため小型のバスです。多治見市は近隣
作ったといわれる兵隊杯には兵士を送る親の思いが感じ
の可児市、土岐市とともに古くから良質の陶土にめぐま
られ感慨深いものでした。
れ、陶器の生産が盛んな土地です。安土桃山時代には瀬
次に「幸兵衛窯」を見学に。市街地から少しはなれた
戸黒、黄瀬戸、志野、織部、などの各茶陶を生み、江戸
丘の上にある200年の古窯ですが、持ち主は加藤幸兵衛
後期からは磁器も生産されており、美濃焼と総称されて
氏、ただいまは七代目。敷地内には代々の幸兵衛のやき
います。窯元を訪ねるのを楽しみに、まずは阪神高速道
もののほか、古陶磁資料館にはペルシア・中国・朝鮮の
路に乗ります。
陶器の展示もあります。広い陶房もあるのですが、作業
10時すぎ、多治見市郊外にある神言修道会の「多治見
を見学できないのが残念でした。「穴窯」と呼ばれる小
修道院」に立ち寄りました。緑の丘の上に建つこのカト
ぶりの登り窯は、資料館の座敷のほんの縁先に築いて
リックの修道院は、昭和5年、ドイツ人宣教師モールに
あるので興味深く拝見しました。
よって建てられ、大聖堂のドーム
また、特別展示室にはペルシアの
型天井に描かれるフレスコ画とス
ラスター釉を再現したことで有名
テンドグラスが荘厳で神秘的で見
な陶芸家、加藤卓男の作品が展示
るものを圧倒します。礼拝堂内も
してあります。ラスター釉はかざ
イエスの生涯を描いた数々の巨大
すと金色に光り作品が豪華です。
な絵で埋め尽くされており、堂内
昔、ぺルシアでは王以外、金を使
に入ると空気は冷んやりとしてし
うことが許されなかったので、民
ばらくいると寒さがしんしんと身
間でラスター釉が開発されたとい
にこたえ、修道士方の厳しい求道
ういきさつがあります。幸兵衛窯
生活もさぞやと思われることでし
の特徴はあざやかな色彩の絵付け
た。敷地内にはぶどう畑があり、
にあるようでした。釉薬そのもの
地下室で醸造されたワインを買う
永保寺散策
が美しいペルシアンブルーであっ
ことができます。売店に立ち寄る
たり緑であったり、なかなか現代的です。
とワイン入りのフルーツケーキもありました。
2時半、名刹「虎渓山 永保寺(えいほうじ)」へ。
11時半、料亭「松正」にて昼食。ひなびたところです
鎌倉時代末期1313年に創建され、開祖は無窓疎石、仏徳
が料亭とその木造の建物は古く明治時代にまでさかのぼ
禅師です。池に面した観音堂と開山堂は国宝だそうで、
り、お昼を頂いたお座敷や床の間などの造りもゆかし
檜皮葺の屋根のそりが特徴的でした。美しい池泉回遊式
く、思いがけず楽しませてもらいました。お昼のコース
庭園は夢窓国師の作で、春には桜の名所だそうですが、
の終わり近くに、米飯を半つぶしにして串に付け甘みそ
私たちの訪れたときは樹齢700年の大銀杏がみごとな金
を塗って炙った「五平餅」がでました。阪神間でも時折
色で石畳に落葉していました。
見られる食べ物ですが、このあたりの郷土料理と見え珍
6時30分大阪駅前帰着。楽しい旅でしたが、欲を言え
しく、一本でお腹がいっぱいになるようでした。
ば、見学だけでなく美濃焼の買い物ができるところにも
昼食後、市之倉の「さかづき美術館」へ。美濃の陶器
少し行きたかったと思います。
のうちでも市之倉は幕末・明治から昭和にかけて磁器の
生産が盛んとなり、精緻で高水準の杯や煎茶器を産んだ
多治見修道院
参加者一同
― 10 ―
〈神戸クロスカルチュラルセンター 2016年4月~2017年3月〉
ロシア
木製の金の塗り物
「ホフロマ」づくり
18世紀の初頭ルーシの時代、モスクワの東、ニジノノブゴロド地方のホフロマ
村に運ばれてきたイチゴや木の実の描かれた木製食器が他の地方へも広がって、
「ホフロマ塗り」として現在に至るまで愛されています。金色を基調に黒や赤、
時には緑を使って木製食器や家具に絵付けをされたホフロマ塗りはロシアの民族
絵画とも言えます。木製でありながら出来上がりの輝く金色の色は錫やアルミニ
ウムの粉を練って特別な漆を施し高温で熱するという技術によって生まれたもの
です。職人たちは皇帝が使う金の食器のような豪華さを出すために工夫を重ねま
した。ロシアだけでなく、19世紀後半には国内外の展覧会、1889年のパリ国際博
覧会でも高く評価されました。工程としてはまず乾燥させたシナノキを主とする木からそれぞれの形を作り、赤
茶色の特別な土を塗ることで素焼きの土器に似せる。それに亜麻仁油を塗りアルミニウムの粉を擦り込んだ後に
絵柄を描き、漆で2~3回塗ったものを120~130℃で焼く。漆の膜の表面は金色になり、このことから別名「黄金
のホフロマ」が誕生するわけです。材料はすべて人体に害の無いことが保証されているので、日常の食器として
使われます。ホフロマの美しさは、何といっても職人の手によって描かれる独特の絵柄で、古きルーシ時代の伝
統とその心を伝えて今に生きています。今回はロシア人のラリナ・ナターリアさんにホフロマの歴史や技法を実
演によって辿っていただき、その後、参加者の皆様にも挑戦していただき共に楽しんでみましょう。
Natalia Prusachik-Larina 氏
(ロシア生まれ。Far-Eastern Technical University( ウラジオストク ) で建築学を専攻し、ロシアの極東
地区で市の建築設計などに 5 年間建築家として従事、結婚後はウラヂオストクの小学校でロシアの伝統
的な絵画を、現在は日本でロシアの伝統文化や民芸、言語を教えている。
)
時間 10:15 ~ 12:15
4/12
5/10
6/14
7/12
9/13
10/11
11/8
12/13
1/10
2/14
3/14
〈神戸アジア交流プラザ グローバルセミナー 2016年3月12日(土)
〉
ムスリム女性の巻スカーフ
ヒジャブ
神戸大学 留学生
アディティアス ハニファ ファタティ
カルティカディア プロマタ
イスラム教徒の女性は、肌や髪を家族以外の男性に見られることが禁じられているため、12歳ぐらいになると
長いスカーフ
(ヒジャブ=アラビア語で何かを隠す意)を頭に巻く習慣があります。これは女性蔑視というより、
大切なものだから隠すという意味合いがあるようです。
ところがインドネシアはもともとヒンズー教、仏教が主流であったため、イスラム教は異端でヒジャブを被る
ことに強い偏見がありました。そのため1990年ごろまで学校を退学、職に就けないなどの差別を受けました。そ
の後国民の87%がイスラム教になり、1991年に政府も法律を改正しましたが、2010年ごろまでは若者にとってヒ
ジャブは年寄りが身につける古臭いものでした。ところが外国のファッションが流行りだ
すと、短いスカートのように肌の露出が目立つようになり、これを阻止するためにヒジャ
ブファッションが奨励されるようになりました。 2011年、ヒジャブが大ブレイク、ヒジャブを被る女性が激増しました。インドネシアで
はヒジャブのファッションリーダーになるべく、ヒジャブファッションショーを開催し、
有名人が個性豊かなヒジャブスタイルでインターネットにアップするようになりました。
今は宗教的な意味合いだけでなく、おしゃれとして流行しています。若者は色とりどり
のスカーフを何枚も持ち、洋服に合わせてコーデイネートを楽しんでいます。ヒジャブに
は様々な色、素材、デザイン、サイズ(正方形、長方形)があり、巻き方も各自が工夫を
凝らしています。ピンで留めるだけでなく、飾りをつけたり、盛ったりと個性的なものも
あります。ロングパンツやワンピースに合わせるカジュアルスタイルから、結婚式やパー
ティー用のゴージャスなスタイルもあります。説明の後、実演が行われました。
― 11 ―
神戸アジア交流プラザ
〈予告〉
読書サロンvol.5
2016年7月
連続テレビ小説 ‘あさが来た’の女主人公
― 小説 “ 土佐堀川 広岡浅子の生涯 ”―
潮出版社 古川智映子著
京都の豪商 油小路三井家の六代目 三井高益の娘として生まれた浅子が、1865年
(慶応元年)
、17才で大阪一の豪商 加島屋の広岡信五郎に嫁ぐところから物語は始まる。
幼い頃には商いの才覚に長けた三井家の祖先‘殊法大婦様’の血が流れていると
言われ育ち、結婚後は徳川幕府の崩壊と明治政府の設立という激動の時代に家業の
存亡をかけて、炭鉱事業、銀行設立、生命保険会社の創立へと浅子は邁進した。さ
らには、病を克服し、女性のための高等教育の普及にも力を尽くしていく。
激動の時代に生きた広岡浅子の生涯は、NHK連続テレビ小説「あさが来た」によっ
て、多くの人々の共感を得た。
ドラマの土台となった『小説 土佐堀川 広岡浅子の生涯』を題材にして、広岡
浅子の生涯から、当時のそして現在の女性の生き方について、共に考えていきたい
と思います。コーディネーターは前回の‘読書サロン’に続いて、関西学院大学法
学部 望月康恵教授です。どうぞお気軽にご参加ください。
時 間 2016年7月7日
(木)
・7月14日
(木)全2回
10:30a.m. ~12:30p.m. いずれか1回のご参加も歓迎します。
場 所 神戸アジア交流プラザ(シューズプラザ4F)
進 行 望月 康恵氏 (関西学院大学法学部教授)
2016年4月~6月
世界の‘わらべ歌’の旅に出かけませんか?
子どもの歌の中でも「童謡」が大人によって作られたものを指すのに対して、主とし
て子ども自身が、“まりつき”、“なわとび”、“鬼遊び”など口伝えに歌い継いできた歌
を遊び仲間などによって伝承してきた歌を“わらべ歌”と総称しています。日本の「は
ないちもんめ」や「通りゃんせ」は私たちの子ども時代にも親しまれてきましたが、
「ロ
ンドン橋」や「ハンプティ ダンプティ」などの世界のわらべ歌も日本で有名です。
今回はアジアを中心とする世界3ヶ国のわらべ歌をそれぞれの国の留学生が講師と
なって指導してくれます。
日 時: 午後1:00 ~ 1:40
■場 所:神戸市立細田児童館 TEL& FAX:078-612-3797 〒653-0835 神戸市長田区細田町7-1-30 [email protected]
■受 講 料:無料 ― 子どもさんだけでも、大人だけでも、1回だけでも参加できます ―
■対 象:4才~8才ぐらいの子ども、大人(就学前のお子さんは大人の人と参加してください)
〈日 程〉
〈国 名〉
4/23( 土 )
べトナム
5/14( 土 )
イラン
6/18( 土 )
ミャンマー
〈講 師 名〉
Nguyen Thi Phuong Thanh
グェン ティ フォン タイン
(神戸大学大学院)
Farkhondeh Mirzakhalili Nahid
ミールザッハリリ・ファールホンデ・ナヒド
( 翻訳者・語学教師 ( 英語・ペルシャ語 )
Thet Thiri Zaw( 高松チリ )
テット・ティリ・ゾー
(国立ヤンゴン大学卒業)
■定 員:20名 (申し込み児童優先 定員になり次第締め切ります。)
■申込方法:細田児童館に申し込んでください。
TEL・ FAX: 078-612-3797 か メール[email protected]
― 12 ―
<留学生を送る会> 2016/3/20 ポートピアホテル
住めば都 Sumeba Miyako; Home is Where Your Heart is
岸本家に敬意を表して
Teaching English at Bandung Institute of Technology Language Center in Indonesia
Osi Wikusnara(Indonesia)
I landed in Kansai International Airport in the afternoon
of 30th September 2014. I fell in love instantly with its high
speed Free-Wi-Fi. Initially, I didn’
t want to study abroad in
Japan. It was my father who encouraged me to leave my
job as an English teacher in an Indonesian private school
and joined the Teacher Training program offered by Japan
Ministry of Education and Technology for 18 months.
Before arriving in this land of the rising sun, I enrolled
myself in a Japanese Language course for a month in my
hometown. Studying Japanese Language twice a week,
of course, didn’
t give me enough foundation of everyday
Japanese. One of my efforts in learning Japanese language
was to be friends with few Japanese wives in Indonesia. I
met them once a week and pushed myself to get used to
their Japanese accent and intonation. I wanted to absorb
as much Japanese Language as possible. I was so nervous
going to Japan without speaking the language.
A part of the Teacher Training program was to learn
Japanese Language for the first six months upon my
arrival. I was assigned to study with Kobe University
International Student Center (KISC). Lessons started right
away, I had class five days a week. At the university new
international students’orientation, I found the information
about Host Family program. Despite the very fact that my
Japanese Language competence was low, I immediately
applied online and filled in some questions. I believed that
my Japanese speaking skill would improve when I got the
opportunity to force myself practicing the language with
the host family.
The day came for me to meet my host family. At the
opening ceremony, I remember how super nervous I was
because everyone spoke in Japanese. I was matched with
岸本 Kishimoto family. One of their daughters is married
to an Indonesian, which makes Mrs. Kishimoto speaks
some Bahasa Indonesia. Mr. Kishimoto speaks some English,
and I speak few Japanese; everybody speaks a little bit of
everything! To me it seems that the universal language of
love has made this relationship possible!
After living in Japan for quite some time, I still didn’
t
own a cell phone. The means of communication between
要約
住めば都
インドネシア・英語教師 Osi Wikusnara
気が進まない私に日本の文部科学省のプラグラムに参加す
るよう勧めたのは父だった。2014年9月30日来日、神戸大学
留学生センターでこのホストファミリープログラムを知り、
ホストファミリーの岸本さんに出会う。片言の日本語、イン
ドネシア語、英語が飛び交い、お互いを想い合う気持ちが私
たちを結びつけた。最初、携帯電話も持っていない中、初め
― 13 ―
Kishimoto family and I was through e-mails or letters. It
wasn’
t convenient but we managed to set time for my
first home visit. It was scary to travel from Sannomiya to
Seishin-Chuo station when you didn’
t speak Japanese well
and didn’
t have a cell phone. I was so relieved and happy
to see Mrs. Kishimoto’
s smile at the end of my subway
journey! The time spent at the Kishimoto’
s residence was
always wonderful! They introduced me to a variety of
Japanese food; they taught me manner of using chopsticks.
I was also brought to a local Bon Odori where I tried many
kinds of Japanese children festival games. I loved walking
to Co-op supa with Mrs. Kishimoto, this was our motherdaughter time to bond and understand each other’
s
culture. Kishimoto family also attended the events where
I performed Indonesian dances. They also came to cheer
for me when I joined yosakoi summer festival. Apart from
that, I was also warmly welcomed by the Kishimoto’
s older
daughter and her family. For once, I felt like I belonged to
a family. I had a warm home full of love to go back to after
studying hard five days a week.
For a year and a half, I was well taken care of by my
host family. I thought I had a more concrete purpose in
learning Japanese language. I tried as often as I could to
use Japanese Language whenever I was with them; and
paid much attention in listening to understand what they
said. In my defense, the interaction with my host family
was the real exam of my Japanese Language course. One
day, my terrific sensei taught me a Japanese saying 住めば
都“sumeba miyako,”meaning that the best place to live
is where you are. Funny life is that I did not want to go to
Japan at first, but
now I call it home.
To be eternally
grateful for my
time in Japan is an
understatement. I
am missing it every
day. I really hope I
could go home one
day日本へ帰りたい !
て岸本さん宅を訪問した時の緊張は忘れられない。でも笑顔
で迎えてくれ、色々な日本食でもてなしてくれた。夏祭りで
盆踊りや、ゲームを楽しんだり、近所に買い物に行ったり。
母娘のような時間がお互いの絆や理解を深めたと思う。娘さ
ん家族にも暖かく迎えられ、まるで本当に家族の一員になっ
たようだった。ホストファミリーとの交流で日本語を話すこ
とが私の日本語の実地試験のようなものだった。住めば都と
いう日本のことわざ通り、望んで来たわけではない日本が私
の故郷になった。日本での日々は感謝しきれない。寂しく、
そしてまたいつか日本に帰りたい。
神戸市長杯バイリンガルスピーチコンテスト 第36回 実施報道
恒例の年間最大のイベントとして継続してきた”神戸
市長杯バイリンガルコンテスト“の第36回を11月15日に
開催し、300人近い聴衆を迎えて盛況のうちに終えるこ
とができました。全国規模で12ケ国45人の予選応募者
(14才~66才)が集まりました。今年は地球社会共通の
課題である「地球市民社会の明日を拓くために―語り継
ごう命の尊さを!―」をテーマとして多様な視点から取
り組まれた感動的なスピーチが多く、関心の高いプログ
ラムとなりました。コンテスト、審査、審査時間中には
琉球の音楽とバリ舞踊、授賞式で幕を閉じました。45人
全員の日本人の英語力は抜群に優れていて遜色がなく、
内容だけが受賞を決める要因となりました。昨年も一昨
年に続いて若者の活躍が目覚ましく「特賞」「銅賞」「敢
闘賞」の三つの賞を獲得しました。特賞の栄誉に輝いた
のは国際学校の17歳の女子高校生でした。グローバル化
の加速化する国際社会でテロや殺人が公然と行われるよ
うになり日常生活でも近親や友人間の殺人、高齢者やひ
とり暮しの若者たちの孤独死、子供たちの間の“いじ
め”や“DV”など命を脅かす犯罪が増加する現実があ
ります。しかし、命を大切にする気持ちは人々を繋ぎま
す。彼女は平和で安全な地球市民社会の明日を拓くため
に“命の尊さ”を次世代に語り継いでいくことこそ求め
られていることを強く訴えました。昨年はこうした若者
たちに交じって、高校の英語教師、翻訳家、主婦の成人
たちも活躍が目覚ましく、印象深い多様な魅力を与えて
くれるコンテストとして盛り上がりました
コンテスタント全員
命は繋がっている Passed on and passing on
(優勝者)
マリストブラザースインターナショナルスクール12年 デルミン桃子ヨハンナ
私の高祖母、すなわち祖母の祖母は私
が小学校1年生の時に98歳で寿命を全う
して亡くなりました。当時私は自分に高
祖母がいることが当たり前だと思ってい
ましたが、年を重ねていくにつれ、そう
ではないらしいことに気づいてきまし
デルミン桃子ヨハンナ た。私はいまだに自分以外で高祖母に
会ったことがあるという人に出会ったこ
とがありません。高祖母に会えたこと、また曾祖母、祖
父母がまだ生きていることもすごく恵まれたことだとつ
くづく思います。愛媛県の松山に住んでいた高祖母には
数回しか会えませんでしたが、高祖母が落ち着いていて
優しかったことは覚えています。高祖母はいつも私達が
行くと起き上がって迎えてくれました。高祖母の枕元に
は覚えておきたいカタカナの単語が並べてある紙がおい
てあり、その家で飼っていた犬「リッキー」の下には外
国人である私の父の名が書いてありました。
そんな高祖母の娘である、現在88歳の曾祖母も私は大
好きです。手紙のやりとりは小さい頃からよくしていま
すし、曾祖母を訪ねた時はお手玉を教えてもらったりし
ています。また、クリスチャンである曾祖母は習字の
先生として500人あまりの弟子がいたほど字が綺麗なの
で、人の為によく聖書の言葉を紙に書いていました。そ
してその紙に挿絵をするのは私の役目でした。また、曾
祖母が80歳だった時に、曾祖母がなんとサッカーを一緒
にしてくれたのも楽しい思い出です。
高祖母、曾祖母はもちろんのこと、祖母や母とも様々
な思い出があり、皆私の大好きな家族です。高祖母、曾
祖母、祖母、母、そして私は、それぞれ生きている時代
も生活している環境も違います。それでも私は母に、母
は祖母に、祖母は曾祖母に、曾祖母は高祖母に、少しず
つ似ているところがあります。そしてそれは、命が受け
継がれていっているからだと思います。この世に子ども
がいないという人は多くいるかもしれません。しかし、
親なくして産まれた人は誰一人として存在しません。そ
れが自分を育てている親かどうかは別として、人は自分
ひとりで生まれてくることはできないのです。私の命
も、高祖母から、曾祖母、祖母、母、と順に受け継がれ
てきたものです。そして高祖母の命もまた、その母、祖
母、と私の知らないもっともっと前に存在していた人た
ちから受け継がれたものです。小さい子どもは、成長し
て次の世代へ命を受け継いでいきます。もしも将来娘が
生まれたら、高祖母や曽祖母の話を通して命がどれだけ
素敵なものかを伝えていきたいです。(日本語一部略)
My great great-grandmother Haruko, yes, my grandmother’s grandmother, who passed away at the age of 98
when I was in 1st grade. At that time, I thought that it was nothing extraordinary for people to meet their great
great-grandmother, but as I grew older I realized that it was actually something really rare. I do not know anybody
else besides me who has met their great great-grandmother. I am very blessed that I was able to spend time with
my great great-grandmother .and that my great-grandmother and my grandparents on both sides are still alive.
Although I couldn’t see gramma Haruko so often I remember that she was calm and very kind. Whenever we
went to visit her, she got out of her bed and welcomed us. (英語 後略)
― 14 ―
4月14日午後9時26分頃、熊本県内を震源とする地震があり、県内
の益城町で震度7.0、熊本市や玉名市などで震度6弱を記録しました。
国内で震度7を観測したのは、2011年3月の東日本大震災以来です。熊
本城など多くの建物や家が壊れました。多数の人が亡くなり、けが人
も多く発生しています。その後も1000回を超える余震のために避難生
活が長引くと共に心身的に被害を受けています。
このたびの地震により被災された皆様に慎んでお見舞いを申し上げると同時に、
一日も早い復興をお祈りしております。
Emergency Fund Raising for the
熊本地震災害緊急支援 募金箱
2016 Kumamoto Earthquake
第37回 神戸市長杯 ANNUAL MAYOR’
S CUP COMPETITION
英語と日本語によるスピーチコンテスト(予告)
Bilingual Speech Contest
テーマ:地球市民社会への新たなる挑戦
— 難民・移民問題と どう向き合うか —
Theme: New Challenges to our Global Citizens’Society
― How Should we Respond to the Problems of Refugees and Migrants? ―
日 時:2016年11月20日
(日) 1:00~5:00p.m.
会 場:神戸(外国人)クラブ (神戸市中央区北野町)
形 式:日本語と英語を合わせて計10分間
出場資格:国籍は問わない。年齢は16歳(高校生)以上
応募方法:申込書(神戸クロスカルチュラルセンターに請求)の上、日本語と英語(各5分)合わせて10分間
のスピーチを録音したCD、カセットテープと共に英文または日本文の原稿を同センターまで郵送、ま
たは持参のこと 10月22日
(土)必着
予 選:原稿と録音されたものをもとに、約10名の決勝参加者を選びます。審査基準は主張内容に重点をお
きます。母国語が日本語でも英語でもない参加者には最高3点までのハンディキャップが加えられます。
詳細は神戸クロスカルチュラルセンター(078-646-8127)までお問い合わせ下さい。
神戸クロスカルチュラルセンター 多言語センター語学教室スケジュール
多言語センターでは、主に大学院レベルの留学生講師によるクラスを開講しています。他では学べない言語クラスも
ありますので、是非お気軽にお問い合わせください。(事務所電話 078-646-8127 水・日曜日は休館 )
言 語
曜日・時間
講 師
言 語
曜日・時間
スペイン語
㈪ 10:00~11:30
Martinez Yarased
ポルトガル語
㈪ 10:30~12:00
ナンシー 伊藤
中国語
㈪ 15:00~16:30
高 慧
韓国語
㈫ 14:30~16:00
河 昇 彬
トルコ語
㈪ 10:00~11:30
Beyza Bozkurt
ベトナム語初級
㈭ 10:15~11:45
Nguyen Thi Phuong Thanh
ペルシャ語
㈭ 14:00~15:30
Farkhondeh Mirzakhalili Nahid
ベトナム語入門
㈮ 10:15~11:45
Nguyen Minh Chau
ロシア語
㈮ 13:00~14:30
Bogoudina Natalia
ネパール語
㈮ 13:30~15:00
Khadka Hari Ram
クメール語
㈯ 10:30~12:00
Som Ratana
タイ語
㈯ 10:30~12:00
Luangpituksa Chonnikarn
台湾語入門
㈯ 13:30~15:00
黄柏瀧
シンハラ語
㈮ 15:00~16:30
Liyana Wasana
インドネシア語 ㈪ 13:30~15:00
― 15 ―
講 師
Adetias Fatati
〈日本庭園 相楽園〉
李 庚 画
ANY CONTRIBUTION WELCOME!!
あなたの記事、ご意見をお寄せください。
With 800 letters in Japanese or
300 words in English
Kobe Cross Cultural Center
Kobe Cross Cultural Center
Publisher : Mitsuo Miyata
Editorial Staff
神戸クロスカルチュラルセンター
発行所 〒653-0835 神戸市長田区細田町7-1-9
Tel (078) 646-8127 Fax (078) 646-7200
E-mail [email protected]
ホームページ http://kobeccc.com http://blog.goo.ne.jp/kccckap
― 16 ―
Asako Ito
Ikuko Nakai
Kathy Nakamura
Yoshiko Takase
Yoko Tomisaka
Toshiko Ueda
Asaka Yoshida