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私が考える国際協力・国際理解
愛知県立千種高等学校
2年
加舎
のぞみ
私の周りには「帰国」と呼ばれる帰国子女が大勢いる。もちろん全員海外生活の経験が
あるので、国際協力とまでは言わなくとも、国際理解についての実感や理解は深いのでは
ないのだろうか。そう思っていたのだが、最近帰国生の一部の人達の話を聞いて疑問を抱
くようになった。話の内容が身勝手で、矛盾しているような印象を受けたのだ。これが国
際 交 流 を 肌 身 で 体 験 し て き た 人 達 の 見 解 だ と い う の な ら 、国 際 理 解 と は 一 体 何 な の だ ろ う 。
そしてその先にある国際協力とは、一体何をすべきだというのだろう、と考えた。
例 え ば 帰 国 子 女 で も 米 国 に 住 ん で い た 人 が 多 い が 、彼 ら の 一 部 は 米 国 の こ と を 話 す と き 、
その国のことを完全に理解しているかのように話をする。具体的に言えば、食べ物が安く
美味しかったとか、田舎で空気がきれいだった、人が皆優しかったなど、とにかく褒め倒
すのだ。最終的には、米国に「帰りたい」と言い出したりする。
しかしその一方で、英語の話を持ち出した場合、これを全否定したりもする。
「英語はもうたくさん。英語なんて嫌い」こう言って、英語圏には住みたくないような素
振りを見せたりする。中には、英語なんて消えれば良いと言う人さえいる。
彼らの言った事を単純に要約するとこうなる。言葉に尽くせない程米国を本当に理解し
ていて、そこへ「帰りたい」くらい好きで、でも英語はもう嫌だ。
時と場合によって国に対する見解を変えるので明らかに話が矛盾している。実は私自身
も帰国子女なので昔を懐かしむ気持ちも分からなくないが、国についてあまりにも身勝手
な理解のし方をしていると思った。無論これは一例で、帰国子女が全員こうであるわけで
はないし、また、米国からの帰国生に限ったことではない。しかし、この様な発言がよく
耳に入り、私に国際理解の意味についてもう一度考えさせたのは事実だ。
では「本当の」国際理解とは何なのだろう。私達が、様々な国々の事をきちんと理解す
るには何が重要になってくるのだろう。
先ほどの帰国生の発言を受けて、当たり前のような事だが私はこう考えた。自分勝手な
好き嫌いに振り回されないよう、物事を自分から切り離して考え、客観的な立場から国を
見ること。また、良い点も悪い点も全て考慮に入れて総合的な理解をすること。この二つ
を 心 が け る 事 で 、浮 き 沈 み の 激 し く 矛 盾 を 生 じ る 様 な 見 解 を な く す こ と が 出 来 る と 考 え た 。
そして、これらが私達一人一人の、本当の国際理解に繋がると思った。
それでは、個人が世界の国々を理解するというレベルではなく、世界の国々が互いに理
解しあうという意味での「本当の」国際理解とは何なのだろう。
ここでもう一度原点に戻って考えてみたい。そもそも、自分でない他人を本当に、ある
いは完全に理解するのは可能なのだろうか。例えば、友人が恋人に振られて嘆いていたと
して「分かるよ、その気持ち」と言った場合、本当に分かっているのだろうか。仲が良く
ても、付き合いが長くても、その現場に居合わせたとしても、自分はその友人ではない。
「その気持ち」がどの気持ちなのか、分かるのは本人だけだ。まして、友人の全てを完全
に理解する事は不可能と言えるだろう。
そして今問題となっているのは気持ちでも人でもなく、スケールの桁違いに大きい世界
の国同士なのだ。そこで完全な理解が出来るわけがない。
世界の国々の相互の理解、という意味での「本当の」国際理解とは何なのか。結論とし
て は 、そ ん な 物 は 存 在 し な い 。不 可 能 だ か ら だ 。と こ ろ が 、従 っ て 国 際 協 力 も 無 理 な の か 、
と言ったらそれは違う。
完全な国際理解が不可能だとしても、各国の相互理解をそれに近づける事は可能だ。そ
れが即ち、個人レベルでの客観的・総合的な理解を心がける事だと思う。
主観的に物事を見ていれば、相互の理解は難しい。けれど、客観的に物事を見ようとし
たら事は変わってくる。各国が主観的視点から離れ、第三者的視点を目標としたら、皆同
じ物を目指しているわけだから世界の国々の世界に対する理解は限りなく近づくのではな
いだろうか。そして全く同じ理解の仕方は出来なくとも、近づけば重なる部分も出てくる
はずだ。つまり、国際協力のための必須条件である、国々の共通の基盤が見い出せるかも
しれない。それが完璧でなくとも、国際理解は国際協力の始まりとなるのだ。私自身、改
めてそう思った。
私は国際理解・国際協力について、まだ抽象的な考えしか確立できていない。けれど協
力は理解の上に成り立つ事を今再認識した。そして何事においても、理解はまず多くの人
に個人のレベルで広まらなければ始まらない。私はまず、それぞれの国を客観的な冒を通
して理解し、受け入れていくことから始めたいと思う。