第2回 フランスから見た幕末維新期の横浜

横浜開港資料館・横浜都市発展記念館共催講座 ①:外国人居留地からみるハマの歴史
第2回 フランスから見た幕末維新期の横浜
松井 道昭
フランスから見た幕末維新期の横浜 1 — フランスの日本進出 —
1.日仏外交の始まり
安政 5 年 6 月 19 日(1858 年 7 月 29 日)
、日米修好通商条約が締結され、翌年 5 月 28
日には神奈川、長崎、箱館が開港した。フランスも遅ればせながらこれに加わる。グロ
(男爵)全権一行は安政 5 年 8 月 9 日、フランス艦3隻で下田に来航した。
幕府は、将軍家定の喪で騒然としている国内事情を勘案し、江戸からなるべく僻遠の
地での談判を望んだが、フランス艦は江戸湾の内部まで侵入する。8 月 12 日、同艦は本
牧沖に碇泊。翌 13 日には品川沖に到達し、翌日に外国奉行水野筑後守が乗船し、その艦
で折衝が始まった。その中に日本語のできる外国宣教会の神父メルメ・カションがいて
通訳をつとめた。
15 日、カションはグロ全権の秘書ド・コンタードと共に品川に上陸して、ナポレオン
三世の親書と全権の書簡(仏文と日本語訳文)を手渡した。20 日、グロ全権一行は芝の
真福寺に赴き旅装を解いた。翌 21 日、将軍の委任状を携えた水野筑後守ほか 5 名がグロ
全権と会見。すでに米英の前例があるゆえに折衝は順調に運ぶ。米英とは異なり、フラ
ンスとの間では和親条約を省略して一挙に修好通商条約が締結された。条約交換に際し
カタカナ訳文を添付しているところにも特徴が見いだせる。
1859 年 4 月、フランス政府は日本総領事にデュシェーヌ・ド・ベルクールを任命。ベ
ルクールはフランスの代表として清国に赴任した経験があり、その経歴を買われての抜
擢である。外交代表を兼ねたベルクールは 9 月 6 日、江戸の三田済海寺に宿泊する。9
月 22 日、条約の批准書が交換された。幕府(日本)とフランスの正式な外交関係がここ
に樹立されたが、日仏関係は初代総領事(のち公使)ド・ベルクールにも増して 2 代目
公使レオン・ロッシュの時代にいっそう緊密なものになった。ベルクールは対幕府、対
列強折衝の面において如才なき振る舞いにより事なきを得たが、次代ロッシュ赴任時に
大波乱を迎える。
ロッシュ公使は元治元(1864)年 3 月に来日し、カションを通訳官として登用。カシ
ョンが箱館滞在時代に日仏両国語の交換教授などで親交を深めた栗本鋤雲と横浜鎖港談
判の席上で再会したことで幕府とフランスの外交折衝は円滑に進むようになった。カシ
ョンはロッシュ公使の知恵袋ないし懐刀的存在として難しい対日外交をうまく捌いてい
った。たとえば、イギリス公使オールコックの提案である英仏米蘭四国連合艦隊の下関
砲撃への参加を求められたとき、ロッシュ公使はカションの意見を参酌してこれに参加
し、幕府の窮地を救うと同時に、イギリスの単独行動に楔を打ったのである。
ロッシュは 1809 年グルノーブルに生まれ、
大学を中退して父親の住むアルジェリアに
1
行き、アラブ語を修め、30 才にしてアフリカ派遣のフランス軍に入り通訳官として活躍
し 37 才で外交畑に転進。チュニス総領事の地位にあるとき、日本への転任命令を受けて
来日したのであり、時に 1864 年、以後 4 年間、幕末維新の激動期に江戸と横浜において
獅子奮迅の活躍を果たす。本国の基本方針に背くまでして親幕政策に入れ込むあまり、
中途で更迭される。
神奈川から横浜への開港場が変わり、そこに外国人居留地ができた事情については周
知と思われ、ここでは省く。横浜は日本人社会と人工的に隔離され、一種の孤島状態に
おかれた。港町として幕府が意図的につくりだした都市である。そこでは土着住民は追
放され( ⇒ 横浜元町へ)
、江戸その他から商人を移住させて住民とし、しかも日本人と
外国人の居住地をはっきり区分して雑居させず、役人(神奈川奉行所)の完全な統制下
においた。さらに、外部との往来をきびしく監視するために関門および番所を町の周辺
に設けた。とりわけ注目されるのは、横浜は東側の丘陵との間に運河(掘割)がつくら
れ、横浜の四面がすべて水で囲まれ、まさしく第二の出島となってしまったことだ。
ド・ベルクール公使は居留地の配分について英米露蘭仏5大国の居留地均分案を提議
したが、英米に較べ居留民の少ないフランスが相対的に有利になるため、英米が頑強に
拒絶し、5国均分案は否決された。つまり、ここに当初からフランスの対日進出の出遅
れ感が表に出ている。
2.横浜居留地に残るフランスの痕跡
フランス波止場……山下町 10 番、現在のホテル=ニューグランドの前面に築造された。
供用開始は 1864 年 3 月。2 本の突堤から成り、それぞれの長さは海岸から 66
メートル、突堤と突堤の間は 100 メートル、フランス租借地の地先に当たる
ことから、おそらくフランスの要請により幕府が建造したものと思われる。
海軍兵舎兼物置所……居留地の安全性が気遣われるなかで仏軍の駐留を求めるフランス
の要請により、1863 年幕府によって谷戸橋際に貸与された施設である。その
背後に仏軍キャンプへと続く石段がある。因みに、頂上部分で今の「港の見
える丘公園」あたりに大規模な英軍キャンプがあった。
海軍病院…諸外国はそれぞれ固有の海軍病院を横浜に開設したが、フランスが最も早く、
領事館用地として取得した海岸 9 番(今のホテル=ニューグランドの所在地)
に 1864 年 6 月中にはすでに建設を始めている。
公使館……フランスはもともと東京三田の済海寺を公使館としてつかっていたが、江戸
があまりに不穏であるため横浜に引っ越した。最初は神奈川の甚行寺に仮の
公使館を置いた。1865 年、フランス人クリペの設計により 66 年に竣工。2 階
建て寄棟造りの屋根にベランダをもち、外壁は石張りの建物で洒落たデザイ
ンの鉄の門に囲まれている。場所は横浜弁天社の付近で、現在は横浜農林水
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産合同庁舎の所在地。翌年には領事館も隣に新築移転してきた。
領事館……1894(明治 27)年、フランス人建築家サルダの設計によりフランス山公園の
一角に建築された。1 階はレンガ、2階と3階は木造。関東大震災で倒壊焼失
し、領事館は東京に移設された。現在、遺構が残っている。
横浜製鉄所……1871 年に操業開始の横須賀製鉄所に先んじ、1865(慶応元)年に現在の JR
石川町駅の近くに建設された中規模の製鉄所。横須賀製鉄所は大規模な施設
で開業まで数年はかかる見込みだったからである。横浜製鉄所はのちに石川
島に移設され、現在の石川島播磨重工業の前身となる。製鉄所というが、実
質は艦船修理の施設である。
横浜仏蘭西語伝習所……小栗上野介(忠順)が 1865(元治2)年、弁天地の北隣、現在
の本町 6 丁目に開設した本邦初のフランス語学校。校長はメルメ=カション。
直接の目的は通訳の養成と横浜・横須賀製鉄所(のちの造船所)の技術伝習
に携わる人々のためのもの。
横浜三兵伝習所……1867(慶応3)年、陸軍奉行小栗忠順は幕府の陸軍を近代化、強化
するため、フランス軍事顧問団の指導を受けて三兵(歩兵・騎兵・砲兵)の
訓練をおこなった。場所は大田陣屋で現在の日の出1丁目、京急日の出町駅
前横である。だが、地理的に不便で手狭なことから半年ほどで江戸の駒場野
(現在の駒場)に移転。
山手ゲーテ座……居留民のための娯楽施設としての劇場はもともと本町通り 68 番にあっ
た。
「ゲーテ座」と言った(建造 1870 年)
。
「ゲーテ」とは仏語 Gaiété (楽
しみ)の意。手狭になったため、1885(明治 15)年に山手に新築の劇場に移
転した。著名な文士坪内逍遥、北村透谷、小山内薫らもしばしば観劇。関東
大震災で焼失。現在は跡地に岩崎博物館が建っており、ときどき芝居とコン
サートをおこなっている。
横浜天主堂……天主堂は 1862(文久 2)年 1 月にパリの外国宣教師会が居留地 60 番に建
立した。開港後最初のカトリック教会である。後に山手に移転し現在はカト
リック山手教会となった。中華街東門近くに旧堂跡地に石碑が建っている。
サン=モール学校……872(明治 5)年にサン=モール修道会士サン=マチルドは 4 人の修
道女を伴って横浜を訪れ、居留地同胞子女のためのサン=モール学校を創設。
また、日本の女子教育のため横浜紅蘭女学校を開校。のちに横浜双葉学園と
改称し現在にいたる。
ジェラール瓦工場……元町公園中央の低地部分プールのある辺り一帯は仏人実業家ジェ
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ラールが船舶給水業を営んでいた場所である。そこの湧き水を簡易水道で港
の桟橋まで引き、外国船に飲料水として売った。ジェラールは西洋瓦の製造
もおこなった。水販売は 1868 年ごろ、瓦製造は 1873 年ごろとみられている。
当時の人々はこれら施設を「ジェラール水屋敷」と呼んだ。
横浜瓦斯会社……請われて来日したアンリ・ペルグランは 1871(明治 4)年、横浜瓦斯
会社お雇いの技師となり、伊勢山下石炭蔵(現在の花咲町の本町小学校付近
に工場を建設し、ガス管の埋設を進め、1872 年 9 月に大江橋から馬車道、本
町通りにかけて日本初のガス灯を点灯させた。提灯がなければ夜道は怖い、
真っ暗な時代、あまりの明るさに人々はびっくりし、開業したばかりの鉄道
に乗って東京から見物客が訪れるほどだった。
ビゴーの「トバエ」…1860 年パリ生まれのジョルジュ・ビゴーは 1882(明治 15)年 1 月
に来日し、陸軍士官学校の画学教師となった。
「トバエ」は 1887 年から 89 年
に欠けて月 2 回刊行。ビゴーは東京在住だが、発行所を横浜海岸 5 番のクラブ=
ホテルとした。これは横浜の居留民を主要な読者としたことのほかに、領事裁
判権により保護されていた表現の自由を享受するためだったと考えられる。
横浜に限らず、もう少し視野を拡げて日仏文化交流について概観しておく。
・日本近代法の父、ギュスターヴ・ボワソナード
・生野・別子・山ヶ野の鉱山でのフランス人技師 24 名
・新橋~上野間の鉄道馬車
・カイコ病研究 北里柴三郎を研究生として受け入れたパストゥール研究所
・富岡製糸場…ポール・ブリュナ
・灯台(品川、観音崎、野島崎、城ヶ島)
・造船技師養成
・第二次軍事顧問団による陸軍士官学校創設
・火薬製造
・飛行機(複葉機、単葉機、水上飛行機)
・日野自動車(ルノー)
以上から読み取れることは以下のとおり。すなわち、フランスの日本進出は単に貿易
を目的するにとどまらず、殖産興業のためのインフラ整備、布教活動、軍事技術、文化
事業において傑出している点である。他列強が日本を薪水補給地ないしは交易相手とし
てしか見ていないのと対照的である。
3.日本の近代化に貢献したはずのフランスの影が薄い理由
(1)敵の味方は敵
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薩・長・土・肥など西南雄藩の後ろ盾となって陰日向に支えてきたイギリスに対し、
幕府の支持力としてフランスがいた。明治維新は西南雄藩が中心となってイギリスと組
んで倒幕に成功したのちに誕生した政府であり、同政府は旧幕府を後援したフランスの
影響を殺ぐ必要があった。極東での英仏代理戦争という言い方は正確ではないにしても、
多分にその色合いはあった。だから、フランスの影は薄い、否、薄くされたのである。
(2)アヘン戦争の余波=日本側に極度の恐英病
ペリー来航直前に当時の幕府は、交渉関係のあったオランダ筋からアジアをめぐる列
強進出の実態とくにアヘン戦争の結果を知り、
「イギリス怖し」の感情に囚われていた。
日米修好通商条約交渉が難航したとき、ハリスがハッタリをかます。本来ならば、日
本開国・開港のイニシアティヴをとったアメリカこそが開港後も中心的役割を果たすは
ずだったが、本国が内乱状態(南北戦争)になり、しばらくは国際舞台から退く。かく
て開国・開港のイニシアティヴは英・仏にとって代わることになった。
(3)幕府のフランス認識=崇敬
幕府は英露に対し極度の警戒心を懐いたが、不思議なほどにフランスに対してはそう
いった感情をもたない。それどころか親近感をもつ。以下は、箱館奉行のフランス難破
船への通告である。
「フランスはあらゆる国々のなかで礼儀正しい国であります。それゆえ、あなた方はわが国の法に背
くようなことは何も企てはしまいと確信しております。…フランスとは条約を締結しておりません。
しかしながら、フランスのために人道主義の法に照らしてわれわれの法を黙らせましょう。――あな
た方に不足している食糧・水・薪はわれわれの世話で供給して差し上げましょう。疲労した乗組員は
陸に上がってもよろしい…。
」
(
『イリュストラシオン』紙 1855 年 8 月Ⅰ日号)
① アメリカと和親条約が結ばれた以上、イギリスやフランスとの条約締結も近いと
いう認識が幕府にあったため、それまでは国交がなかったフランスを手厚く待遇。
日本進出に出遅れたフランスは幕府とほとんど摩擦を起こすことがなく、それゆ
えに、フランスの存在が目立たなかったのだ。
② 長期に亘る日蘭交易を通じ幕府はヨーロッパの軍事・外交関係に関する詳しい情
報をもっていた。
「文化の国フランス」という評判に特別の敬意を懐いていた。
4.フランスはなぜ日本に関心をもったか
(1)1850 年代と 60 年代はまだ帝国主義段階ではなく、フランスも植民地への関心は薄
かった。フランスが植民地獲得に向け本腰を入れるのは 1880 年代からである。フランス
は人口が長く停滞しており、人口圧から海外進出を図る必然性に乏しかった。
(2)フランスの極東への関心は通商とキリスト教布教のためのものである。
1844 年 3 月、1846 年 6 月に仏艦が琉球を訪れ通商と布教を要求⇒拒絶
5
1855 年 11 月、仏艦再訪し琉球政府との間に和親条約を締結し、3人の聖職者を残
置し帰る。このうち 2 人は対日通訳官を兼職する。
[注]
「フランスはロシアのように他国を征服するのではなく、アメリカ合衆国のように商売するのでもな
く、イギリスのように植民もしない。そうではなく、フランスは聖フランシスコ・ザビエルの偉業を
引き継ぎ、血の海の中にあれほど気高く失われたカトリックの栄光を、ふたたび取り戻す宣教師団の
祖国となることで満足すべきなのだ。この事業のために身を捧げる勇気ある働き手たちの心構えはで
きている。
」
(
『イリュストラシオン』紙 1856 年 1 月 19 日号)
(3)人脈:カトリック擁護者=皇帝ナポレオン三世 (ウジェニー皇后)⇒ 外相ドリュ
アン・ド・リュイス ⇒ ロッシュ公使
(4)自他ともに認める「文化と技術の先進国フランス」
「われわれはあらゆる文明化された国民のうちで、フランス人こそは好みと性格からいって日本人が
最も相性がよいと感じる国民なのだという確信を得た。知的で活動的、勤勉かつ勇敢で活力があり、
子どものように陽気で悪賢くて軽妙、礼儀正しく親切な日本人は世界の中でも有数の、最もフランス
人と似たところのある国民である。
」
(
『イリュストラシオン』1857 年 5 月 9 日号)
5.レオン・ロッシュとフランス外交 — 特に英国との関連において —
(1)フランスの対日進出が遅れた理由
フランスはインドシナ支配で手一杯で、そこを植民地化するために清国との関係の安
泰化を図る必要があった。
(2)フランス外交の基本戦略:ウィーン体制打破 & 対英協調
ウィーン体制は「暴れん坊」フランスに手枷足枷を嵌めた ⇒ 外交自主権の回復とい
う宿願がフランスにのこった。
ルイ=ナポレオンの大統領当選(後に帝政を再開しナポレオン三世となる)は国民の期
待の反映 ⇒ ナポレオン一世失敗の反省から独走を憚り、英仏協調を旨とする。
(3) 対日外交の始まり
クリミア戦争(1853~56)とアロー号事件(1856)は仏英蜜月状態の象徴。対日外交
のリハーサルとしてのアロー戦争と、それに続く天津・北京条約(1860)から仏英両国
の本当の狙いを読みとることができる[注]…cf. 薩英戦争(1863)
、馬関戦争(1864)
[注]天津条約の中身はこうだ。①公使の北京駐在の承認、②キリスト教布教の承認、③商船の内地河川
航行の自由、 ④英仏に償金を払う、⑤不法条文⇒仇教運動:
「神父先頭に立ち、砲艦これに次ぐ」
清国という大きな“獲物”
(人口比で日本の 10 倍)の影に隠れ、日本は見逃された。
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フランスから見た幕末維新期の横浜 Ⅱ — 「80 日間の世界一周」—
1.ジュール・ヴェルヌ「80 日間世界一周」
(1)ストーリー
80 日間で世界一周できるかどうか、友人たちと 2 万ポンドの賭けをしてロンドンを後
にした英国紳士フィリアス・フォッグ卿 [注:フォッグは霧の意] は、下男パスパルトゥー
[注:パスパルトゥーはマスターキーの意] を引き連れて地球西回り進路をとる。時に 1872 年
10 月 2 日。だが、この旅行は波乱万丈の展開となる。パリ、マルセーユ、スエズ、ボン
ベイ、カルカッタ、シンガポール、香港、横浜、サンフランシスコ、ニューヨーク。
次々襲いかかる危険に対し、英知の限りを尽くし、あらゆる乗り物(汽船、帆船、列
車、象、帆かけトロッコ、ソリ)を駆使した主人公らは、全篇に溢れるエキゾチズムの
中を突っ走る。主人公フォッグを追いかける逮捕状が電信で香港まで送られてくるとい
う設定もおもしろい。しかも、中身は賭博、サスペンス、殉死の企て、アヘン窟、アメ
リカン野郎、
インディアン襲撃など、
なんでもありの舞台設定で読者の心を休ませない。
(2)詩情
ヴェルヌの作品に漂うものは独特の詩情である。それは個人的・家族的な葛藤ではな
く、大自然との格闘に秘術を尽くす凄絶な努力のうちにある。ヴェルヌの作品はおしな
べて科学を駆使しての詩編と評すことができる。その詩は生死を賭けての究極の疾走で
ある。ヴェルヌ作品の主人公はいつどこでも猛烈なテンポで走り、内省よりも行動を優
先する。さながらギリシアの叙事詩の英雄たちを彷彿とさせるものがある。
(3)新しい時間の観念
作品の賭けの中身は 80 日間で世界一周できるかどうかだった。すなわち、問われてい
るのは量的時間、科学の力を借りてできるだけ速く動くことだ。以前においてはとうて
い問題になりようのないタイム競争である。フォッグは分刻みの厳密なスケジュールを
組んで旅行を試みるが、この速度の邪魔をするのは天変地異、下男パスパルトゥーの失
敗、尾行刑事フィックスの妨害、麗しき未亡人の殉死事件との遭遇である。
(4)近代のスーパーヒーロー
フォッグは英国紳士を絵に描いたような人物で、冷静寡黙にして自失茫然と無縁の超
人である。現世人間の能力を超えた理想の人物を想定し、そこに人間性の進化の頂上を
見ようとする 19 世紀の理想主義のひとコマを見ることができる。
彼の作品が児童のみな
らず民衆一般から大いに歓迎された理由もここにある。
だが、フォッグは血も涙もない怪物ではない。勇猛果敢または氷のような冷徹さの下
に温かいヒューマニズムを秘めている。インド亜大陸を横断中に殉死の生贄となろうと
する若い女性を凶暴な現地人の手から救いだしイギリスに連れ帰る。最後に彼女と結婚
する。また、下男の失敗を責めることは一度としてなく、窮地に陥った下男を救うべく、
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自らの危険を顧みず出かけるなど、義侠心と温かみを内奥部に秘めながら、それを表面
には出さない。アメリカ西部劇に登場するスーパーヒーローの生き写しでもある。
(4)英仏協調路線の予兆
超人がイギリス人、下男がフランス人という取りあわせもおもしろい。英・仏・独は
もともと仲が悪い。それまでの劇作において3国人の組み合わせで、そのうちのいずれ
か 1 人がヒーローで、他2者がバイプレイヤーという配役はまずありえない。つまり、
3国民が同時にヒーローとなることはあっても、残り 2 人をバイプレイヤーに追いやる
のではあまりにも独善的であり、作品の欧米規模での販売実績や劇作化の興行のことを
考えると、こうした国家的利害を露出させた配役にするのは考えものだった。
そうしたなかで、ジュール・ヴェルヌは主役を永年のライバルのイギリス人にあてが
い、バイプレイヤーを同胞中から選り抜いた。発刊年が 1873 年ということを考えると、
普仏戦争で独仏が激突し、敗北を喫したフランス側の著者として主人公役をドイツ人に
与えることは考えにくい。この戦争で終始一貫し中立を守り抜き、終盤にはフランスに
同情を示したイギリス人に主人公役をあてがった。ヴェルヌの英国びいき、ないしはコ
スモポリタンであることを考慮しても、この配役はまったくの偶然とは考えにくい。
英仏協調のイデオロギーは 19 世紀中葉以降、
第二次世界大戦までずっと続く思潮であ
り、
「80 日間世界一周」もその一環をなす作品といえよう。すでに世界トップの座から
滑り落ちたフランスの謙遜と受け止めてもよいかもしれないし、英国に伍すことによっ
てフランスのナショナルな存在感を世界にアピールしようとしたとも受けとめられる。
2.描かれた横浜居留地
前置きが長くなったのでさっそく「80 日間世界一周」で描かれた横浜の項をみてみよ
う。時は 1872 年 11 月 13 日、ロンドンを発って 33 日めである。速いと言えば速い!
ここは太平洋の重要な寄港地で、北米、シナ、日本、マライ諸島の旅客や郵便物
を運ぶすべての汽船が寄港する。横浜は日本帝国の第二の首都である広大な都会江
戸から少し離れたところにあり、おなじ名の湾にのぞんでいる。江戸はむかし宗教
的権威をもたない皇帝、すなわち将軍がいたころの将軍の居城で、神々の子孫であ
る宗教的な皇帝ミカドの住む大都市と対立していた。
カーナティック号は横浜の桟橋に横づけになった。港の防波堤や税関の倉庫が近
くにあり、各国の船がおびただしく碇泊していた。
パスパルトゥーは太陽の子孫たちの住む、この興味ある土地へ、なんの感激もな
く上陸した。彼には偶然を道案内にして、足の向くまま街路を歩いてみるよりほか
はなかった。まず歩いていったのは、まったくヨーロッパ的な町で、ベランダで飾
られた低い家が立ちならび、ベランダの下には洒落た柱が続いていた。そして、街
路あり、広場あり、ドックあり、倉庫あり、通商条約の岬から川までひろがってい
た。香港やカルカッタと同様に、アメリカ人、イギリス人、シナ人、オランダ人な
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どあらゆる人種がいりまじり、いずれも売ったり買ったりの商人だった。その中へ
紛れこんだフランス人はまるでホッテントットの国へでもきたように異邦人であっ
た。
…[中略]…
横浜の土着民の区画は弁天町とよばれる。それはこの近くの島々に祀ってある海
の女神の名である。そこには、松や杉の立派な並木道や、奇妙な構造の神聖な門や、
竹や葦に埋もれた橋があった。また何百年を経たもの悲しげな広大な杉の林に覆わ
れた寺があり、その奥で仏教の僧侶や儒教の信徒がつつましく暮らしていた。果て
しなく続く道路には真っ赤の頬をした子供たちが遊んでおり、この国の衝立から切
り抜いたような背の低い男たちが脚の短い犬や怠惰でひどく甘ったれる黄色い猫な
どの間で戯れていた。
道路は、てんやわんやにごったがえし、人の往来が絶えなかった。単調な太鼓を
叩きながら行列をつくって行く坊主、漆を塗った、尖った帽子を被り、腰に 2 本の
刀を差した役人、すなわち税関や警察の官吏、白い縞の入った木綿の服を着、撃発
銃を担いだ兵隊、絹の胴着に鎖帷子を着たミカドの衛兵、その他いろいろの身分の
軍人、というのも、日本では軍人という職業が、シナで軽蔑されているのと反対に、
大いに尊敬されているからだ。それから、喜捨を求める僧侶、長い衣を着た巡礼、
普通の市民。市民は艶のある黒檀のような髪をし、頭が大きく、胴が長く、背はあ
まり高くなく、顔色は濃い銅色からつやのない白色まで。シナ人のように黄色いの
はない。その点で日本人はシナ人と本質的に違っている。最後に、馬車や輿や馬や
荷車や幌を張った手押し車や漆塗りの「ノリモン」
[注:人力車のこと]や竹で作られ
た、軟らかい感じの「カゴ」の行き交う中を、あまりきれいでない女たちが、布の
靴や藁のサンダルや細工をした木の下駄を履いた小さな足でちょこちょこ歩いてい
た。その女たちは眼が細く、胸が薄く、当時の流行で歯を黒く染めていた。しかし、
国民的な服であるキモノを優美に着こなしていた。それは絹の飾紐で前をあわせた
一種の部屋着で、後ろで結んだ幅の広い帯が途方もなく花のように開いていた。―
―最近のパリの婦人は、このような帯を日本の女たちから借りたようだ。
…[中略]…
パスパルトゥーはこの国の店には羊や山羊や豚がまったくないことに気がついた。
また、牛はもっぱら農耕用として使われるので、牛を殺すのは神聖の冒涜だと思わ
れていることを知っていたから、日本では肉にありつけないと結論した。
・・・
夜が来た。パスパルトゥーは日本人の住む町へ戻って、雑多な色の提灯を連ねた
街路を彷徨った。そして、軽業師の群れがすばらしい体操をしているのや、易者が
風に吹かれながら天眼鏡のまわりに人を集めているのを眺めた。沖合を見ると漁夫
の焚く漁火が点々と光っていた。松脂を燃して、魚を集めているのだ。
しまいに、街が淋しくなってきた。群衆がいなくなると、役人の巡視が始まった。
これらの役人は立派な服装をして、従者を何人も従え、まるで大使のようだった。
そういう仰々しい行列に出会うたびに、
「ほら、おいでなさった! 日本の大使がヨ
ーロッパへご出発だよ!」と戯れにつぶやいた。
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引用はここまでにしよう。ヴェルヌによる居留地横浜の描写はほとんどこれに尽きる
のだ。パスパルトゥーは主人フォッグ、同行のアウーダ未亡人(インドでむりに殉死に
追い込まれんとした時フォッグらによって救出される)
、そして、フォッグを銀行強盗犯
と睨んで追いまわす刑事フィックスといっしょに 11 月 14 日にはサンフランシスコへ旅
立つ。ゆえに、横浜滞在はまる 2 日しかないのだ。
わずかこれだけの描写であるが、かなりリアリティをもって居留地横浜のようすが描
かれている。そして、短いながら当時のフランス人――というよりヨーロッパ人――の
平均的な日本観が端的に示されている。以下、節を改めてこれについて述べてみよう。
3.ヴェルヌの居留地描写に含まれる幾つかの問題
(1)ヴェルヌは横浜を訪れていない — 情報源はエメ・アンベール『幕末日本図絵』と
1867 年の第 2 回パリ万博での日本館見物
実をいうと、ヴェルヌは居留地横浜を観ていない。だいいち、日本を訪れていない。
にもかかわらず、リアリティ溢れる描写ができたのは、彼の日本知識にある。タネ本は
スイス人のエメ・アンベール Aimé Humbert 作『幕末日本図絵』
(雄松堂出版)である。
この書物には詳細な風物描写があると同時に、
ふんだんに図版が組まれている。
そして、
当時のフランスで著名な挿絵入り新聞『イリュストラシオン』をヴェルヌは愛読してい
るようだ。パスパルトゥーが歩きまわった居留地横浜の情景はアンベールの記述と瓜二
つである。
特に感化されたのは前者である。アンベールの日本旅行は 1863 年 4 月のことで、ヴェ
ルヌの『80 日間世界一周』出版のちょうど 10 年前である。アンベールは日瑞修好通商
条約締結のためスイス時計業組合を代表して来日。彼は長崎・京都・鎌倉など日本各地
のようす、特に詳しいのが江戸の町を鉛筆と手帳を携えて巡り歩き、鮮やかに町のよう
すを描いた。床屋・本屋・武道場などの情景や武家屋敷の佇まいはおろか、刑場のよう
す(処刑描写)まで細かく描いている。
ヴェルヌが日本を『80 日間世界一周』でとりあげたのは、すでに彼の中に日本情報が
蓄積され、日本への関心が強かったせいと思われる。日本へのイメージを膨らませたの
は、1867 年春におこなわれた第2回パリ万博への日本の正式参加により、文物をその眼
で確かめ、種々の実演の目撃したおかげである。
横浜に上陸したものの、カネもなく食い詰めたパスパルトゥーに横浜の曲芸団に参加
させたのも、ヴェルヌがパリ万博におけるサーカスの実演を見ていたからだ。この万博
は徳川慶喜の弟の昭武が将軍の名代としてパリに赴いたとき、曲芸師一座(松井源水、
浜錠定吉)もこれに参加していたのである。松井は駒まわし、浜錠は曲芸を事とした。
この二人に関する記述は当時の新聞にも細かく掲載されているのだ。
パスパルトゥーが茶屋へ赴くシーンが出てくるが、それというのも、パリ万博で好評
を博した茶屋での仕種をヴェルヌが見ているからだ。
(2)シナと日本の違いの認識
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「日本では軍人という職業が、シナで軽蔑されているのと反対に、大いに尊敬されて
いる」というくだりが目に付く。ヴェルヌは香港に行ったことさえなく、事情に通じて
いるわけではないが、それでもこの違いを書いたのはアンベールの「幕末日本図絵」の、
それを暗示する部分から学んでいるからだ。
日本女性の描写は率直である。
「その女たちは眼が細く、胸が薄く、当時の流行で歯を
黒く染めていた。
」この部分にもアンベールの影響が認められるが、ヴェルヌはそう評価
したあとすぐにこう述べる。
「国民的な服であるキモノを優美に着こなしていた。それは絹の飾紐で前をあわせた
一種の部屋着で、後ろで結んだ幅の広い帯が途方もなく花のように開いていた。——最
近のパリの婦人は、このような帯を日本の女たちから借りたようだ。
」
この部分はアンベールの記述にはない。それは、かの万博での柳橋の芸者 3 人(すみ、
さと、かね)が清水卯三郎に連れられ、日本茶屋で接待役を勤めたとき目撃したらしい。
「80 日間世界一周」の香港でパスパルトゥーはアヘン窟に入り、件の刑事フィリアス
に騙されアヘンを吸わされて倒れてしまう
(結果、
主人フォッグらと暫時別れてしまう)
が、日本では酒やキセルタバコは出てきてもアヘンは登場しない。
(3)経由地に日本が選ばれた理由
ヴェルヌは、
「80 日間世界一周」の経由地としてなぜ日本(横浜)を選んだのだろう
か。彼に知識があることはむろんである。また地理学的に太平洋を横断するための出航
地として避けられなかったことも確実だろう。地理学的理由に拘ると、スエズやボンベ
イ、カルカッタやシンガポールの描写がサラッと済まされている。サンフランシスコで
は事件が起きるためやや詳しいが、それでも街の情景描写はたいしたことない。ニュー
ヨークの描写も出航のシーンだけである。その点で香港と横浜は別格の扱いになる。香
港はイギリスの植民地として、中国への進出の足場として重要な役割があり、それだけ
に無視できなかったであろう。
横浜ではなぜか。パスパルトゥーにこの街の散策までさせているのだ。関心度が破格
に高いのだ。つまり、ヴェルヌにとって、鎖国から開国へと大きく転換期を迎えた日本
の政治的・社会的状況を考慮するとき、きわめて興味深い土地であったと思われる。特
にフランスは幕府と深く結びついて日本進出のためにさまざまな対日政策を施したのだ
が、幕府瓦解後も、明治政府は富岡製糸工場にフランス人のポール・ブリュナを迎えた
り、横須賀軍港の建設をレオンス・ヴエルニーに任せたりなど、明治日本の近代化のう
えで重要な位置づけを与えているのである。そのほかに幕末維新を通じて軍事顧問団を
派遣して軍事技術の指南までおこなっている。これが後の陸軍士官学校となる。
フランスにおけるこうした日本ラッシュが日本文化の急激なフランス流入を伴いなが
らフランス人の興味と想像力を掻きたてたものと思われる。ヴェルヌは「80 日間世界一
周」で新興近代国家日本を登場させることで、科学の進歩による時間への挑戦にひと役
担わせたかったのであろう。つまり、ヴェルヌがペンを執ったとき、時ならぬ日本ブー
ムが沸き起こっていたのだ。すでに絵画の分野での印象派が旗揚げを果たしていたし、
文物一般についての興味を惹いていた。また、日本庭園について 1873 年ウィーン万博で
絶大な人気を博した。
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「80 日間世界一周」で香港・横浜間を 6 日間で航行している。10 月中旬、そこに遅れ
ばせながらの台風も登場させている。当時の船舶を使って 6 日間で渡るのは難しいが、
台風を追い風とすればまったくの不可能ではないレベルの速さだ。ヴェルヌはどこかの
汽船会社の運航スケジュールにもとづいて6日という数字を弾いているはずだ。そこを
厳密に詮索しても酷というものだろう。ヴェルヌ作品はSFの一種であるからだ。
むろん、ヴェルヌが未踏の地をこれだけ綿密かつ正確に描いている点を賞賛すべきで
ある。それはアンベールの作品を精読し、克明に検証しているからこそできたのだが、
そこには実際に見ていないことからくるハンディキャップを逆手に取って想像力を逞し
くし、自由に描写できるという利点もある。
4.おわりに
幕末維新期に日本を訪れ、日誌に書きとめた西洋人は数多くいて、それを基礎に西洋
人の日本理解が進むのだが、不思議なことに、彼らが最初に日本の土を踏む居留地横浜
について克明に描いた者は多くない。つまり、西洋人はエキゾチックなものに憧れるこ
とはあっても、疑似ヨーロッパ的で人工的な街にあまり興味を懐かない。それは今日で
もそうである。横浜についての記述はけっして多くない。彼らは奈良や京都、そして江
戸、棚田が不規則な形で続くいかにも日本的な田園風景に魅力を感じるのだ。
しかし、居留地としてのエキゾチズムはやはり今の横浜に残る。この独特でハイカラ
な雰囲気を求めて地方出身者や対極の東京人は横浜を訪れる。特に山下公園に代表され
る、1.5キロメートルも続く海沿い公園は日本の、否、世界にも珍しい。しかし、こ
のハイカラな公園が関東大震災で排出された瓦礫の捨て場であったことを知る人は少な
い。横浜は日本の成長に合わせもよう替えを幾たびか経験している。生糸積出港、重化
学工業港、大空襲と港湾設備接収、戦後復興の核・・・。
横浜は生糸貿易などで外国と結びついていたのではない。この港から多くの日本人が
西洋諸国に憧憬と希望を懐いて船出していったことは忘れてはなるまい。多くの俊才た
ちが留学や研修のためこの港を後にした。そして、ハワイ、中南米へ移民として日本を
離れた人たちも数多い。
「舶来もの」という言葉があるが、それは「優れたハイカラなも
の」と同義である。目新しい便利なものはまずこの港から日本に陸揚げされ、ここで最
初の顧客に出会うのである。よって、西洋風の生活様式はまずこの横浜に根を下ろすの
だ。クリーニング、郵便、鉄道、鉄橋、ガス灯、煉瓦、水道、下水道、学校、キリスト
教、教会堂、そしてスポーツなどもここが最初である。
日仏文化交流の痕跡は横浜山手にも神奈川にも今なお残っている。横浜の街を歩くと
西洋が浮かび上がってくる。フランスが見える。そんな西洋、フランスに多くの日本人
が憧れたが、一方で西洋人、フランス人がジャポニズムの実物に出会った場所が横浜で
あり、鎌倉であり、金沢八景である。この日本文化と西洋文化の一大接触の地として横
浜は独特の雰囲気を漂わせる街である。街路、舗石、マンホール、墓地、遊歩道、公園、
ガス灯、都市装飾において自由奔放なアソビの精神が見られる街はこの横浜以外には見
られない。ここにも西洋およびフランスとの接触の面影が残っているといえよう。
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