2011 年 11 月 4 日 第 20 回経済同友会 中央日本地区会議 鼎談 要旨

2011 年 11 月 4 日
第 20 回経済同友会 中央日本地区会議 鼎談
テーマ : 「駿府~家康~静岡 温故創新(静岡)」
講 師 : 久能山東照宮宮司 落合偉洲氏
静岡県歴史研究家 黒澤 脩氏
大道芸ワールドカップチーフコーディネーター
要旨
甲賀雅章氏
○司会(市川照総務委員長)本日の鼎談をしていただく講師の紹介をする。
・落合宮司様
昭和 22 年生まれ 64 歳。昭和 50 年に神社本庁に奉職、平成 11 年久能山東照
宮権宮司、19 年同宮司に就任。平成 22 年 12 月、久能山東照宮が国宝に指定され、落合
宮司の情熱が国宝指定実現に大きく貢献した。
・黒澤脩様
昭和 21 年生まれ 65 歳、静岡市役所に就職、市制 100 周年、すんぷ博、葵博、
大御所四百年といった静岡市の大イベントを特命で担当。その後静岡県史編纂に従事、静
岡で最も有名な郷土歴史研究家。駿府城再建活動の第一人者。
・甲賀雅章様 昭和 26 年生まれの 60 歳。インテリア会社、ディスプレイ会社を経営。昭
和 60 年に広告宣伝並びにコンサルタント業を主とした会社を設立。平成 3 年ごろから大
道芸ワールドカップのもととなる会を当時の市長と手を組んでここまでやり遂げてきた。
今年大道芸ワールドカップは 20 周年を迎え、160 万人が集まりそのうち 60%が市外から
来るという大イベントを運営している。
本日の鼎談のコンセプトとしては、静岡市は気候風土、交通の便に恵まれ、古くは弥生時代
の登呂遺跡、また戦国時代には今川氏、家康公の居城として栄えた。幕末維新のときには江戸
城無血開城の舞台や、15 代将軍徳川慶喜公の蟄居の地となった。しかし現在の静岡市は、ただ
単に東京、名古屋、大阪の途中にある都市のイメージがあるので、政令市としてより一層の飛
躍を願い鼎談を企画した。
それではまず黒澤さん、静岡の紹介、家康、幕末維新、そして今取り組んでいる駿府城から
お話いただきたい。
○黒澤脩氏 学生時代 1 ドル 360 円のとき 1 年間アメリカ、メキシコ、カナダを放浪したことが
ある。そういうことを含めて何か変わっていかなければいけないと感じている。
「歴史をないがしろにする者は未来から見捨てられる」というアメリカの有名な格言を皆さ
んに紹介したい。
静岡にはたくさんの歴史遺産がある。まず登呂遺跡は昭和 18 年の戦争のさなか、工場建設
工事中に地面の下からいろいろなものが出てきて、毎日新聞が全国にそれを発信した。しかし
戦況が悪化する中で、そんなものを大事にして何になるのかと出土した遺物の一部を土工たち
が焼いてしまった。その中で心ある県立中央図書館の館長だった加藤忠雄先生が余ったものを
リヤカーに運び、県立図書館の講堂に一部保存しておいた。空襲を受けて外にあったものはほ
とんど焼けたが、コンクリートの建物にしまっておいたものだけが生き残った。
戦争後にGHQによって、日本は地面の中に隠されている先人たちの遺物をきちんと科学的、
学術的に研究すべきと指摘され、それまで日本には考古学会はなかったが、初めて登呂の発掘
から考古学が世に旗揚げをした。だから静岡は考古学発祥の地なのだ。登呂の水田、弥生時代
の住居跡、あるいはその復元家屋が教科書に取り上げられるようになったが、全くお金のない
時期に、戦後若い人たちが鉄砲を鍬に持ち替えて発掘に尽力した。今の考古学界にはその活動
に刺激されて考古学者になった人がかなりいる。
静岡は古代、奈良時代に非常に特筆すべきことがある。久能山東照宮がある場所は、実は久
能寺という駿河の比叡山と言われる大変大きな寺があった。その寺は駿河の仏教界をかなり牽
引して、いろいろな足跡を残している。
静岡には日本でも最古の駿河七観音の霊場があり、東大寺の創建にかかわる伝説なども残っ
ている。そういったものは実は静岡市民もあまり知らないと思う。静岡の私たちは歴史的な出
来事を土足で踏みつけているようなところがあるのだ。
静岡には奈良、平安の時代から久能寺に伝承された国宝久能寺経典があり、これは厳島の平
家納経、埼玉の慈光寺経とともに日本の三大装飾経である。他にも静岡にはかなり古い写経、
美しいお経道具がたくさんあり、そういうものを美術館に集め展示して活性を起こしたい。
皆さん御存じの聖一国師、京都の東福寺を建立したあの人物は実は静岡の出身だ。子どもの
ときに久能寺で修行してやがて(中国浙江省の)径山(きんざん)寺へ行って日本に臨済宗を
広めた。
それから 30 年余り遅れてでた大応国師という人物も静岡出身で、この方がいたがゆえに臨
済宗は全国展開ができた。京都にある一休寺酬恩庵の一休宗純も実は大応国師の弟子だ。
この時代はもう一度見直す必要があるのだが、静岡においては一番語らなければならないの
は今川時代だ。今川時代というのは足利将軍家の天下の副将軍として、232 年もこの静岡で当
時の日本を牽引するような新しいいろいろなことをやっている。
その中で特に今川了俊(貞世)という人物がおり、この人は武功第一の考え方から、武士道
というものを生み出した。
「今川状」などで武士の日常の行い、ちょうど禅宗で言う清規のよ
うな形で一日の行動規範をきちんと設定した。それは当時では珍しく、教養を身につけて歌も
歌える人間でなければならない。そういうことで今川家が武士道というものを世に照覧し、文
武両道、武士の道、武士としての教養といったものを広めた。しかもただ単に文武両道だけで
はなく知恵と勇気を持つこととした。文武兼備、智勇兼備というものを今川家が世に出し、そ
して今川家はその後 232 年ずっと守ってきてきた。
今川家は最後の今川氏真によって 232 年の歴史の終焉を迎えたが、その間全国の戦国大名に
多大な影響を与えた。例えば私たちが文章を書く時、決まりきった表現を使うがそういった書
札令というものは今川家から生まれたものだ。
今川氏親の時代には、当時の混乱した時代にせめて今川家の分国だけでもきちんとした自国
の経営をしようと、第 7 代の今川氏親が「今川仮名目録」という法律を自国内に公布してみず
からも拘束される。家康もけんか両成敗とかいろいろな当時の新機軸をそれによって打ち出し
た。今川仮名目録という法律の本はいま明治大学に現物が残っている。
今川家の行った分国の規定はやがて武田あるいはその後の織田信長、伊達の「塵芥集」など
に発展していった。
何よりも今川家が今私たちと同じ関係でつくっていたのが、はんこを使う習慣を建設したこ
とだ。
今川は氏真の時代に武田信玄に降伏するのだが、いずれにしても今川家は非常にいいものを
持っていた。徳川家康は 8 歳から 19 歳までそういう刺激を受けながら駿府で人質生活を送っ
た。今川家の中で培ったものが、やがて徳川幕府の中でも反映され、負けた今川家だが氏真を
徳川に呼び、氏真自身は公家(こうけ)という扱いをされなかったが、その次の子どもの代か
ら公家筆頭として徳川幕府の文教政策を一手に引き受けることになった。そういう重職に入り、
「今川状」という、何々今川という今川の名前がついた当時の往来物は教科書なのだ。
そういったものが全国に流布し、庄屋から庶民までずっと広がっていった。その流れが幅広
く日本の識字率を高め教育が一般庶民の中にも展開したのが、公家の今川家によって行われた
のだ。
次に明治に入りこの静岡は大変なことになった。例えば江戸にあった幕府の最高学問所、昌
平坂学問所が大政奉還によって駿府に来て静岡学問所となった。そのとき一緒に書物もかなり
持ってきてそれが静岡の葵文庫の建設になり、横浜語学伝習所が持っていた蘭学の本など
2,000 冊以上をいま静岡県立図書館が所蔵している。
蕃書調所の関係者など旧江戸幕府の教養人、学者たちが大挙して静岡に来て、江戸幕府がか
つて行ったような、規模は小さくなったが、駿府学問所として明治政府に気を使いながら最先
端の教育をしたようだ。そのとき静岡では数多く書肆ができて天文学の軌道計算の本、特殊な
植物を育て恐慌に備えるかといったような大変貴重な書物が、一時だが駿府から世に流布され
た。
そのような静岡でまた忘れてはならないのが明治維新で疲弊した多くの旧幕臣で、旗本関係
者が江戸の田畑、土地、家を売って静岡に来た。そのとき何とかしてその人たちを食べさせて
いかなければならないということで、中村敬宇(正直)がヨーロッパやアメリカではみな自分
で働いて自分で食べているのだと、スマイルズの「Self Help」という本を「西国立志編」と
翻訳して出版して関係者に頒布した。
それは「学問ノスヽメ」に続く大ベストセラーになって、中村敬宇自身もここで学問を教え
るのだが、廃藩置県によって多くの人材が東京に移って行ってしまった。
東京帝国大学というのは静岡学問所と開成学校が一緒になってできたものだ。
徳川家康が大御所として静岡に居た時ときセバスチャン・ビスカイノという人が家康のとこ
ろに来て素晴らしい城であると書いている。私はいろいろ調べて駿府城は完璧に再現できると
いう状況までつかんでいる。そういうことも行い静岡のいいものを後世に出していきたいと思
っている。
○ 落合偉洲氏
久能山東照宮は昨年 12 月 4 日付で国宝に指定された。静岡では重要文化財の建
造物が 33 カ所あるが、今その中で唯一国宝に指定されたということだ。
例年久能山東照宮は、10 月の天気の良い平日には 500 人前後、土曜日で 800 人、日曜日で
1,000 人の参拝者がある。昨年 10 月 15 日の午後、文化審議会で国宝推薦の答申がだされてか
ら、10 月 16 日の土曜日には 1,800 人と倍増した。17 日の日曜日は大祭だったが 2,700 人、そ
れから毎日 1,000 人を超えてサンデー毎日が続いた。11 月の参拝者が 4 万 5,000 人だったので
1 日平均 1,500 人となっている。
静岡鉄道のロープウェイもモーターの取り替え工事が予定されていたが、今取り替えていた
らとんでもないことになると約半年延期して 6 月 27 日から 7 月 27 日の 1 カ月間に行った。平
成 20 年の参拝者は 29 万人で、今年は震災や台風などマイナス要因があったものの 32 万人数
えており、かなり増えている。
建物が国宝になったということだけでこんな効果があるのかと私自身がびっくりしている。
当然国宝になってしかるべき建物なのでその点はしっかりアピールをしてきたが、これは先輩
の先代宮司のころから積み上げてきたものが幸いにも私のときに花開いたと思っている。
久能山東照宮は明治 41 年 8 月 1 日、古社寺保存法によって本殿、拝殿、石の間を一括した
社殿が日光東照宮の社殿と一緒に特別保護建造物に指定された。昔は特別保護建造物イコール
国宝、保護建造物イコール重要文化財とされた。
その後昭和 4 年に国宝保存法ができ、昭和 25 年にそれまでの文化財保護に関する法律は一
切統廃合され文化財保護法ができた。それまでの国宝、重文はすべて重要文化財に一旦指定さ
れ、その中から改めて国宝が指定された。日光東照宮は昭和 26 年に早々と国宝になったが久
能山東照宮はそれに乗り遅れていたということで、何とかそのバスに乗りたいと努めてきた。
国宝とか重要文化財は有形文化財に限っており、有形文化財というのは建造物とそのほかを
ひっくるめて美術工芸品と言っている。静岡では建造物としては 33 カ所の重要文化財があり、
美術工芸品はどれだけ重要文化財なのか把握していないが国宝は 11 件ある。
それは久能山東照宮にある太刀真恒という太刀、MOA美術館にある野々村仁清作の茶壷な
どで、11 件のうち 5 件は刀剣類だ。建物としては静岡では近くに浅間神社とか臨済寺とか幾つ
か重要文化財に指定されている。
今回たくさんの人が参拝にお見えになって喜んでいるが、私は建物の素晴らしさだけをアピ
ールしていけばいいとは思っていない。徳川家康公という人物の素晴らしさをアピールしてい
くのが私の仕事だ。神社には主祭神として徳川家康公、両脇に豊臣秀吉公と織田信長公を相殿
としてまつられており、主祭神としての徳川家康公の生涯の中からいろいろなメッセージを伝
えていくことが私にとって一番大事な仕事だと思っている。
家康公は天文 11 年(1582 年)12 月 26 日に三河の岡崎城で生誕し、元和 2 年(1616 年)4
月 17 日に駿府城で 75 歳の生涯を閉じておられ、特に最後の 10 年は大御所として慶長 12 年
(1607 年)に江戸から静岡の地に移ってこられた。
そのときに約 1 万冊の書物を持ってみえたが、65 歳の大御所がこの静岡の地に 1 万冊の本を
持ってくると同時に林羅山という家庭教師を連れてみえた。家庭教師林羅山は若冠 26 歳。26
歳の家庭教師を連れて 65 歳の天下人が静岡に来てその講義を聞く。さらに家庭教師に対して 1
万冊の本の整理を命じていく。それが駿河文庫、先ほど黒澤さんも話された後に葵文庫という
形につながって今、静岡県立図書館に蓄えている。
家康公は戦国時代を経て戦争がない天下泰平の世の中をつくりたいと考えていたようだ。8
歳から 19 歳まで人質時代に臨済寺の雪斎和尚の教育を受け、その中で雪斎和尚は今は戦国時
代だが民百姓はこんな地獄絵のような修羅場を望んでいるわけではない、みんな極楽浄土のよ
うなところを望んでいる。それをつくるのが君の仕事だというようなことをいろいろ教えてい
たようだ。
やがてそういう教育が最終的に花開いたが、戦争が終わればすべてが平和になるわけではな
く、戦争が終わったら人間を教育しなければだめだと、人が人として人倫の道をわきまえなけ
れば世は乱れるもとになるということで、教育の重要性を説いた。家康公が大御所として最も
力を入れた政策は教育だ。教育をするためには本が必要だということで、慶長 12 年(1607 年)、
家臣を集めて印刷のための銅活字の鋳造を命じている。11 万 6,000 本ぐらいの銅活字を鋳造し
て、亡くなる前の年と亡くなる年にこれの印刷をしているが、教育をしていくことによって天
下泰平の道が開けていくということなのだ。
亡くなる前の元和元年には「大蔵一覧集」という経典の総目録をこの銅活字で印刷している
し、亡くなられた元和 2 年 1 月 19 日には家臣を集めて、次はこの本を印刷せよと指示したの
が「群書治要」という本だ。これは唐の魏徴という人が編纂したもので、中国の長い歴史時代
の中でさまざまな政治的な課題や地震、風水害、津波などいろんな事態に対して国王ないし帝
王たちがどのようの対応しどういう結果を出したか、後の世の手本になるようなものを集めて
47 冊にまとめた政治の教科書と言えるものだ。
印刷を命じて 3 カ月した 4 月 17 日に亡くなったから、5 月か 6 月ごろにそれが完成して、恐
らく各大名にすべて渡してその藩の政治の教科書させたのだろうと思う。静岡県立中央図書館
には「群書治要」も「大蔵一覧集」も残っているが、徳川家康公の実際の苦労というか新しい
世の中をつくっていく理念というのはあまり紹介されていないという気がしている。
この東照宮には家康公自身が勉強された「和漢三才図会」という朝鮮半島で印刷された銅活
字の書物もある。自分で勉強して薬をつくって家臣に飲ませたりしており、学ぶということを
非常に大切にされて自分勝手にではなくきちんと専門家について学んでいる。何で学ぶかとい
うと世のため人のために役立つことを一生懸命学ぶ。今で言う実学の部類になると思う。
学ぶということは国内的には教養を重視し、対外的には平和貿易をしていこう、戦争をやる
のではなくお互いに平和交流していこうということだ。静岡に来た翌年には、フィリピンなど
へ手紙を出して平和交流を開始している。
1609 年、慶長 14 年にはフィリピンの提督が乗った船が千葉県の海で座礁して、乗員 370 人
のうち 57 人が溺死して 317 人が助かった。静岡に来たその一行に対して家康公は船を用意し
てメキシコに 317 人を送り届けた。その翌年に日本人が船を操縦して行ったのだが、1611 年に
セバスチャンがお礼として静岡に使いを出して、そのときスペイン国王が持っていた素晴らし
い時計を家康公にお礼として持ってきた。
その時計は今、久能山東照宮の博物館にあり、国の重要文化財になっている。私はこれを何
とか国宝にしたいと思っていろいろ頑張っているが、残念ながら日本には時計のことがわかっ
ている専門家があまりいないということで、今大英博物館等に連絡をとり時計の専門家に見せ
て評価していただこうといろいろとやっている。大英博物館には古い時計を研究する Horology
という学問が存在し、古い時計を中心とした市場ではとんでもない価格で時計が売買されてい
るということだ。
久能山東照宮のハンス・デ・エロバがつくった時計が世界に 3 台あり、久能山にあるものが
一番古く、その次にできたものが今スペインの国宝になり世界遺産になっている。3 番目のも
のは市場に出回って 3 億 6,000 万円で売買されている。この時代のものはもっと高く桁が違う
だろうと言われている。
徳川家康関係資料として 76 種類 180 点が東照宮の蔵に眠っているが、これにいよいよ目を
覚ましてもらい更に活躍してもらいたいと考えている。
○ 甲賀雅章氏 先ほど黒澤先生から「歴史をないがしろにする者は未来から見捨てられる」と
いう名言をいただいた。これは真実だと思うが、一方で「歴史にしがみつく者には未来は微笑
まない」もまた真理なのだ。
つまり歴史は非常に大事であり日本人はあまりにも過去の歴史をないがしろにし過ぎてい
る面があるが、ただ過去の成功体験とか過去の栄光的な歴史だけにしがみついていると新たな
未来というのは非常につくりづらくなるということができる。
この大道芸ワールドカップは 1992 年からスタートして 20 年の歴史がある。この歴史は我々
自身がつくってきた歴史だ。いわゆる書物に書かれた歴史ではなくて、我々自身がこの 20 年
間でつくってきた歴史だと解釈をしている。
マスメディアからこういう質問が必ずでる。
「今川の時代にも大道芸人は静岡にたくさんいたんでしょうね」「徳川の時代にも静岡には大
道芸人がいっぱいいたんでしょうね」 いや、僕はよくわからないと答えるしかないが、多く
のマスメディアは何かイベントを仕掛けるときに、どうしても歴史的な背景があることに安心
感を持つ。ほとんどの地方自治体がやっているような新しいイベントについても歴史的に裏づ
けをされたものをやりがちだ。
僕は文化というのは、その時代に起きて、それが数十年たって支持をされたときに文化にな
ると思っている。ですから我々は 1992 年から新たな歴史、あるいは新たな文化をつくればい
いのではないかという発想でこのフェスティバルをやっている。ですからマスメディアの方に
は何にも歴史的には根拠はございませんと話をしている。
なぜ大道芸ワールドカップというのは 1992 年からスタートしたかといえば、僕はまちづく
りにいろいろと関わってきたなかで持論がある。まちづくりにとって必要なものだが、その 1
つは「切れ者」だ。切れ者というのは何かの知識に対して造詣が深いこともそうだが、僕はあ
る意味センスだと思っている。特にこれはトップあるいはリーダーにすごく必要なことだ。
先ほどの田辺市長にそういうセンスがあるかどうかはまだわからないが、1992 年にスタート
をしたときにある非常に切れ者が静岡市にいた。時の市長だ。この切れ者というのは、別に彼
は文化芸術に対して造詣があったかというとむしろなかったほうかもしれない。ただ彼は非常
に大いなるセンスを持っていて、文化芸術というものがこれからの社会にとって必要であろう
ということに対する、すごい嗅覚を持っていた。
先ほどもあったが静岡市はずっと通過都市と言われていた。東京と関西圏の中間に位置して
なかなか静岡に降りてくれない。そういう中で静岡市もそのときの総合計画の一番のスローガ
ンは人が集まるまちづくりということで、とにかく静岡市に人を集めたいというのが行政の思
いだったわけだ。
こういった切れ者は行政だけではなくいろいろなところで必要なわけだが、もう 1 つ必要な
ものは「ばか者」だ。とにかくばかになって、何だかわからないけど、自分の得には何もなら
ないけど頑張ってしまおうという、このやからが町の活性化には絶対必要だ。それが僕だとは
言わないが、僕の周りにそういう人間がたくさん集まってきた。というか集めた。
そして更に必要なものが「よそ者」だ。よそ者というのは、もちろん外からの目というもの
も大事だし、もう 1 つは単に距離的によそという意味ではなくて、その分野とは違うよそ者、
これもすごく大事だと思う。例えば行政がまちづくりを検討する審議会をつくると、大体集ま
ってくるのはまちづくり研究家や学識経験者と呼ばれている人達だ。しかしこの人たち集まっ
ても何もいい町は起きない。僕の経験からいえばその中に門外漢が入ることによって多分町の
見方あるいは未来の見方が全く変わってくるのだ。
実は大道芸の前身の組織にもそういう人間がいた。例えば職業で言えばバーをやっている人、
花のデザインをやっている人など、今までまちづくりの審議会があってもまず呼ばれることの
ない人たちだ。ただ、静岡市に対して何か不満を持ち、もう少し静岡市を何とかしたいなとい
う思いだけは持っている人間たちが、実はその組織の中にたくさんいた。
そして「若者」も必要だ。若者はこれからの未来を考えるときに絶対的に必要だ。ところが
これも、僕も日本のいろいろな会議に呼ばれるが、例えば 30 年後の日本を考えよう、あるい
は 25 年後の静岡市を考えようとしたときに、そこに集められたメンバーはほとんどが僕より
も上の世の人だ。つまり 25 年後、その人たちはほとんど生きていない。悪い言い方をすれば
そういう方たちだけで町の未来を論議してもしょうがないということだ。
この大道芸の組織には若者たちがた。実は昔若かった人たち。僕なんかもそうなのだが当時
僕は 40 歳で、準備段階のときは 38 歳だったからまだ若かったわけだ。
そういう 4 つのものが非常にうまいタイミングで 1990 年ぐらいに静岡市には集まっていた。
そういったものが双発的にエネルギーを起こしてって、新たなそこから歴史が始まったという
のがストーリーなのだ。
では何ゆえに大道芸ワールドカップというイベントをしたのか。人が集まるまちづくりが市
の大きなスローガンになっていたが、その中に財政の策というものはほとんどなかった。その
一方で我々若者たちは、これからのまちづくりは過去のまちづくりにしがみついていたらでき
ないだろうと真剣に考えていた。
大道芸の前、直接的なきっかけになるのは、僕が青年会議所のメンバーとしてまちづくりの
大切さを学んだことだ。非常に景気もよい時代で海外現地調査、ヨーロッパ 2 週間とアメリカ
現地調査約 2 週間とか、そういうことをやっていた時代だったが、ただそれがすごくプラスに
なった。改めて観光客としてではなくまちづくりという視点でヨーロッパの町、あるいはアメ
リカの町を見たときに、明らかに日本のまちづくりは間違っているということに気がついた。
つまり昔はよく箱物行政という言葉があったように、どこの都市を見に行っても同じような
建物がどんどんできてしまい、例えば公共ホールなんていうのは 2,700 ぐらいあるわけだ。隣
の町に公共ホールがあったら我が町にないとこれは寂しいみたいな話だ。あるいは美術館とい
うものが、箱だけできてしまう。実際今の公共ホールというのはほとんどが貸し館だ。自主事
業をやっている館といってもその日数は年間で多分 10 日から 20 日ぐらいしかない。あと全部
貸し館というように世の中変わってしまうわけだ。
いわゆる物を所有するというまちづくりではなくて、もう少し違う観点からのまちづくりを
していかないと、本当の意味での豊かさは来ないだろうというのが、我々が 80 年代にヨーロ
ッパの町、あるいはアメリカの町から学んだことだ。そして日本のまちづくりには明らかに欠
けている点だということだ。
つまりそれは我々の生活と同じで、戦後我々はとにかく一生懸命に働いて経済的に豊かにな
り、社会的地位を得た。それによって金も得て、それを物に変換をすることによって豊かさを
享受していたわけだ。人よりもいい車、人よりも広い家、そういうふうにとにかくたくさんの
財を得て、それを物に還元をしていく。これはまさに我々の生活が同じであったように、まち
づくりも同じ手法をとっていた。そしてそれはだれもが疑問を持つことなくやってきたところ
だ。
ところがある時代から経済の陰りが見えてくる。あるいは日本の社会システムそのものに陰
りが見えてきて、昔と同じような価値観を持っていては、どうも将来的にハッピーにはなれな
いのではないか。今の若者たちは体でそれを本当に現実的に感じている。我々の世代を見て、
いい大学に入っていい会社へ入れば絶対ハッピーになれるんだという図式はもう既に崩れて
いる。
80 年代のバブル期のあたりからそういったものが見え始めてきた。そしてバブル経済がはじ
けたとたんに、今までの価値観がガラリと変わってくわけだ。昔は寄らば大樹の陰だったら大
丈夫だったにもかかわらず、銀行はつぶれる、大手ゼネコンはつぶれる。下手すれば公務員だ
って首を切られるという状況が今生まれている。
そのときに、経済であるとか、社会的地位であるとか物であるとか、そこにしがみついてい
て果たして本当の豊かさを得られるだろうか。多分これはノーだ。今そのギャップの中で若者
たちは非常に苦労をして、精神科に通う若者も非常に増えているというのは、全く見えないか
らだ。
その中で本当に豊かさって何だろうと思ったときに、僕はヨーロッパのまちづくりを見て、
まず文化あるいは芸術というものが非常にヨーロッパのまちづくりの中においては中心を担
っていることに気がついた。それが人々のアイデンティティーになっているが、日本のまちづ
くりにおいては明らかに欠けているということがそういう視察でわかった。
これからのまちづくりに必要なものは芸術文化を 1 つの軸にしないといけないだろうという
ことだ。
黒澤先生の話を聞いていると、静岡市は今川の時代、あるいは徳川の時代は非常に文化レベ
ルが高いところだったことが分かる。
現実論で行くと静岡市というのは箱物を使った舞台芸術とかコンサートのチケットは本当
に売れないところだ。売れなかったと言ったほうがいいかもしれない。今はだいぶ売れ始めて
いるが、なかなかそういう所へ足を運ばない市民だった。
だが歴史的に見ても静岡は文化度の高い都市だった。だからこれは静岡市民にある変なプラ
イド気質が邪魔をしている。そんな大きなプライドではなく非常に小さなプライドを持ってい
て、わざわざ自分がチケットを買ってわざわざ足を運んでわざわざ敷居をまたいでまで見てや
るかみたいなものを持っている。これがすごく邪魔をして、その上静岡市民は実はすごくシャ
イなのだ。僕を見てそう思わないかもしれないが、静岡市民の気質というのは、先ほどから話
があったように、乗らない、踊らない、何でもやめまいかという、まさにマイナスの 3 拍子が
そろった市民気質だということがずっと長い間言われてきた。
しかし一方で文化は必要であるし、しかも本来DNA的に文化度が高いはずだから、我々が
策を講じたのは見ざるを得ない状況、聞かざるを得ない状況をつくり上げていったら静岡市民
はどういう反応をするかということだった。それで青年会議所のときに大道芸ワールドカップ
の前身である静岡野外文化祭をやらせていただいた。
そういう実験をしたときに、今と同じで街中に例えばライブとか演劇とかコンテンポラリー
ダンスとか、さまざまな身体表現のものを全部解き放ったわけだ。それを見た静岡市民がどう
いう反応を示すか確かめた。そしたら意外と静岡市民は距離こそ遠巻きだがそこから離れない。
多分手法さえ変えていけば、静岡市民にも芸術文化の大切さというのが浸透していくだろうと
いうことで、それがだんだん転移してきて静岡市の思いを含めてもっと県外からも人の呼べる
まちづくりということで、大道芸ワールドカップが 1992 年にスタートをした。
○司会(市川氏)今日の 3 人の方々は静岡市の財産だと思っている。
先ほど 60 歳の人に 25 年後のことは聞くなという話があったが、あえて聞かせていただきたい。
この 3 人の方々はその道のリーダーだと思っており、そのリーダーの方々にあと 25 年後の町
はこんな町にしたい、そのためには自分はこんなことをするといったことを含めてお願いした
い。
○ 落合偉洲氏 25 年後、私は 90 歳ぐらいになっているはずだが、私は久能山の宮司で定年の
75 歳まであと 10 年ぐらいあり、その間にやりたいことが幾つかある。
それはやはりこの静岡の発展のために微力を尽くしていきたいということだが、今回国宝に
なった社殿の修理に約 10 億円かかっている。もちろん国庫補助その他があるが、約 2 億円不
足している。静岡市民の皆さん方を中心に募金をして半分の 1 億円は集まったが、皆さん方の
協力で多分完済できるだろうと思っている。
この久能山東照宮が存在することでたくさんの訪問者があり、心の満足を与えられるような
場所にすべく努力をしていきたいと思っている。
先ほど甲賀先生から文化芸術という話があったが、これはまさに肉体的な満足よりも心の豊
かさへの希求だと思う。それを応えるような場所が、観光地でもあるが宗教施設である東照宮
であると思っている。
まだ今の段階では、非常に交通アクセスが悪い。山の下までバスで来るにも 1 回乗り継ぎが
必要だ。日本平から静鉄ロープウェイで来るにしても、1 月 1 日 12,000 人の参拝客で満杯とな
りそれ以上は来られない状態だ
何とか静岡駅から山の下まで直通バスを増やしてもらいたい。観光地はバスとか電車で行き
やすいまちづくりをしていただかないとなかなか難しいと感じがしている。
最近国宝になっていろいろなところで講演を頼まれて行くが、生涯学習センターとか平均 75
歳というところが多い。話をすると、わしらも行きたいがどうやって行ったらいいかわからな
いと、行けない人が随分いる。久能山に限らず観光施設を軸にした交通アクセスの整備をすれ
ば、もっともっと県外の方も見えていただくよりいい形になっていくと思う。
それから田辺市長も観光を軸にしたまちづくりということを言っているが、文化財の特に建
物はしょっちゅう傷むので修理をしなければならない。文化財の保存修理を大きな産業の 1 つ
に位置づけてほしいと思っている。今、国の文化財の保存修理の予算がようやく 100 億円にな
ったが、イギリスは約 1 千百億円ぐらいある。イギリスではポンド高で苦しんだ時代があって、
そのときに職を失った人をどこに持っていったかというと文化財の保存修理に使い観光に力
を入れて、今イギリスの観光産業は全国の産業第 5 位になっている。
日本では重要文化財の建造物が 4 千 4、5 百件あるが、イギリスでは 60 万件くらいある。そ
ういうところにたくさんの人を呼び込んで本当に満足をして帰ってもらって、文化財を活用す
るということをイギリスでは積極的にやっているようだ。ある庭園はただ眺めていくだけでな
く、そこで結婚式に利用するなどの活用している。
文化財は保存だけでなくて活用することによって大きな意味があるということで、もっとも
っと静岡の多くの皆さんに理解をしていただいて、一緒に活用して心の豊かさを与えるような
都市になっていけばいいと考えている。
○ 黒澤脩氏 400 年前の日本で世界一大きな町は京都で人口 30 万人ぐらい、次が大阪・江戸が
16 万人、駿府が 12 万人だった。当時のパリ、ロンドン、マドリッドは大体 8 万人以下だった。
そういう中で徳川家康が駿府大御所時代を形成し、多くの海外使節がジパングの王様の居城
である駿府を表敬訪問した。世界の大航海時代というのは日本の周辺にある金銀島を目指した
金探しに始まったものだ。そういう中でイギリス、オランダ、スペイン、ポルトガルの人たち
が日本に来て、しかも大御所家康のときがそのピークだったが、そのときに、みんなびっくり
したようだ。
当時の日本の人口は 3,000 万人程度だったが、統治能力が非常にいい、法律がきちんと守ら
れている。東海道というものすごくきれいな道路が整備されていて、その中で一番大きな町が
駿河だった。そうすると、12 万のところに来た外国人が安倍川の水が町の中を縦横に流れて、
自動的に散水できる施設があったという当時の治水事業にびっくりしたようだ。当時の外国は、
汚物を 2 階、3 階から投げつけて下にいる豚が清掃をしている。だからフランスでは、パフュ
ームといって香水が考えられうんちを踏むのがいやだからハイヒール靴を履いていた。
そういうような中で来たイギリスのジョン・セーリスという人が、この駿府はものすごくき
れいな町で、火災を起こす危険がある鍛冶屋は郊外に、水を汚す恐れのある紺屋は川の下流の
方に設置している町は見たことがないと渡航記に書いている。
そこで、私は 25 年先には、世界の大航海時代の最後の場所だった駿府に大航海時代博物館
ができ、その中に東海道の駿河も入れて、規模は小さいが見事な天守閣がそびえ立っていた駿
府城をぜひ再現をして、駿府の伝統技術もやっているようことができる時代になってほしいと
思っている。
駿府城は非常に希有な城だ。大阪城、名古屋城などと違って、四隅の 4 つの櫓を渡り廊下で
つないでその中心に天守閣を据えつけた独特の形の城だった。
それをぜひ再現し、一番上の家康公が賓客を案内したところは例えば世界の富豪に 1 泊 50
万円ぐらいで泊めたらどうか。市民も泊まれるような場所もつくり、回廊には全国の小中高校
生の修学旅行に泊まってもらう。そして、静岡市もある程度補助して、久能山や臨済寺や吐月
峰柴屋寺、そういうところに来て、しかも南アルプスのほうにも足を運んでもらいたい。静岡
の農業はオランダ、イギリス、ドイツでやっているような農業のように関わってもらいたい。
そういうふうに、ただ単に博物館をつくるという考え方ではなく、新しい天守閣の利用を私は
夢見ている。
El Camino de Santiago というサンティアゴ街道という有名な巡礼のルートがある。その中
に、例えばレオンとか昔の王侯貴族の建物が残っていて、そういうところ今言ったようなパラ
ドールとして、世界の観光客が泊まっている。静岡や駿河に何かそういう意味で、400 年前の
喧噪がもう一度起こるような形を期待している。
○ 甲賀雅章氏
先ほどは 1992 年のスタートしたところまで話したので、20 年たってどうなった
かということを述べる。
乗らない、踊らないという静岡市民が、今 1,000 名近くがこのイベントを支えている。これ
は世界的に言っても非常に珍しいイベントだ。つまり企画から運営まで全部ボランティアが行
っている。海外の人は明らかにクレージーと言っている。なぜならばプロデューサーもディレ
クターもボランティアだからだ。いわゆる機械を扱う部分は業者が扱っているが基本的に物を
考えて運営していく人間は全部ボランティアだ。
これが 1 つの変化だ。乗らない、踊らないといっていた人たちが乗り始めている。そして町
に出ていくと顔をメイクしたいわゆる市民クラウンが静岡には 400 人いる。市民クラウンとい
うのは、大道芸カレッジを卒業した者だけが市民クラウンと認められている。認められた人だ
けが会期中にクラウンの格好をして、人々を喜ばすことができるという仕組みをつくった。乗
らない、踊らないと言われていた静岡市民に 400 人の市民クラウンがいるということだ。彼ら
はみずから化粧して、お客さんに対して、非常におもてなしをしているという、これも実はも
のすごく大きな変化だ。
そして、経済波及効果として 20 数億円と静岡経済研究所では算出をしているが、そういう
ような経済効果もある。つまり文化というものが 1 つの資源になったということだ。日本の場
合は、芸術文化は金食い虫だと言われているが、これは手法を変えれば芸術文化は明らかに経
済資源にもなり得るし、観光資源にもなり得る。これも大道芸で結構実証をされたことだ。
もう 1 つの活性化の目的であった芸術に対する理解度はどうかということだが、我々は毎年
実験的に新しいジャンルのものを入れ始めている。今年も実はコンテンポラリーダンスのチー
ムが路上で踊ったりしているが、静岡人はすごくちゃんとこれを注視している。これはフラン
スのアーティストがびっくりして、こんなに踊りやすいところはないというぐらいに静岡市民
の芸術に対する理解度はどんどんどんどんは上がっている。
どうして芸術文化が大事かということを少し話すと、先ほど心の豊かさあるいは生活の質の
高さを担っていくのが芸術だと話したが、なぜかといえば、芸術というのは多様性だからだ。
アーティストによって表現の仕方がものすごく違うし、メッセージも違う。それを享受できる
ということは、その人が何をどういうふうに表現しようとしているのかということを我々が考
えることなのだ。
もちろんある絵を見て、ある音楽を聞いて、あるパフォーマンスを見て、単純に感動すると
いうのも芸術のパワーだ。あるいは単純に笑えるというのも芸術のパワーだ。でもこれって何
を表現しているのだろうと考えるのも実は芸術の大きな力なのだ。要は、我々に思考を与えさ
せるということで、その先には多様性を我々が認め始めるということだ。
つまり日本というのは、今まで個性を認めてきていない。なるべく同じようなものになって
いこう、均一性というものが、日本のある意味でのすごい評価だったし、教育の評価にもなっ
ている。でももうそういう時代は終わった。これからは多分それぞれのアイデンティティーで
あるとか、表現であるとか、個性であるという、多様性が認められていかないと、日本の社会
はこれ以上よくならない。その意味において、芸術は非常に重要だと思っている。
だから 25 年後という話をすれば、ここは本当に国際的な都市であって、しかも芸術文化が
根づいている。そして、市民の一人一人にイマジネーションとクリエイティビティー(創造性)
があるような、実はこれは僕らが 20 年前に立てた大道芸のビジョンと何も変わっていない。
国際的芸術文化創造都市というのが、当時我々が描いたビジョンなのだ。だから、我々は大道
芸によってこの 4 日間で 300 万人の人を集めようなんて思ってはいないし、それが成功だとい
うふうにも言われたくない。
むしろこれを長く続けることによって、静岡市民みんながそういう芸術に対する理解度を深
めて、あるいはみずからがイマジネーションとクリエ-ションの力をどんどん伸ばしていく。
これからの社会にとって必要なそういう創造性というものが、静岡市民は、例えば日本で一番
創造性が高い市、そういうふうな都市を僕は 20 年前に目指してきた。
そして、もう 1 つこういう言葉を使っていた。先ほど落合さんが単に見せるのではなくて、
心の満足を持ち帰ってもらいたいとお話した。まさにそうことで、観る光る観光都市という時
代は終わったと思っている。20 年前に我々がつくった感幸都市の文字というのは、幸せを感じ
る都市なのだ。それで感幸都市で、観る光るではない。つまりその場所にいることによって、
すごく心の豊かさだとか、幸せ感を感じる都市、そういう感幸都市のあり方があるだろう。
それは先ほど言った国宝も単に見るのではなく、そこに行くあるいはそれを使うことによっ
て心の豊かさが得られるというような国宝の見せ方や使い方がありえる。そういう意味での感
幸都市ということが、多分これから大きなテーマになってくるだろう。僕が静岡市に求めるの
はそういう姿だ。
そのためには市民が変わらないといけない。ただ建物があればいいわけではなくて、町へ降
りた途端に、ここの市民何かすごく温かいよとか、何か 3 日間滞在してものすごくいい気持ち
で帰れたとか。この大道芸の 4 日間だけはそうなっている。海外から来たアーティストが、も
のすごくコンパクトで美しい町だが、それ以上に静岡が好きなのは静岡人のホスピタリティー
度の高さだと言っている。我々静岡市民はそれを考えたことがなかった。ホスピタリティー度
の高い都市かどうかなんて考えたことなかったわけだが、少なくとも海外のアーティストが滞
在している間はどうもそういうふうになっているようだ。そういうふうに、少しずつ変わって
きている。
それともう 1 つは、市民の創造性とかホスピタリティー度の高さも大切だが、一方で市民が
リスクを持つことだ。これが日本人に最大に欠けているところだ。全部政府の責任、政治の責
任、あるいは企業の責任。でもそうではなくて個人にも責任と言うリスクがあるはずだ。自分
の市民としてのリスクを感じない限りは、多分行政が何をやってもうまくいかないということ
になる。市民がリスクを持ち始めると、実はいろいろな規制が緩和できてくる。
今回一番ギャップを感じたのは、コンテンポラリーダンスのチーム。彼らはフランスでは表
(おもて)3 部作というのをつくっている。街路灯、バスストップ、明かりという 3 部作で、
つまりバスストップの前で踊り車道を挟んで観客が見ている。静岡では危険性があると許可が
出ない。横断歩道という作品はフランスでは当たり前にやっている。もちろん赤信号のときに
は横断歩道に出ていかないし、青信号で人が通っているときに完璧に時間を計算して演じて何
のトラブルも起きていないが、静岡では許可が出ない。
つまり行政とか警察はリスクを回避したいので、最大限の安全策を打つ。それによってそう
いう芸術的表現も拒否されるということだ。そこが変わらないといけないと思っている。
○司会(市川氏)これからがまさに鼎談に入り、お三方で自由にお話をしていただきたい。
○ 黒澤修氏
甲賀さんからお話があったように、本当に大事なのはよそと違う差別化をきちん
とその地域で考えて、あそこに行けばこういうものがあると形のまちづくりがものすごく重要
だと思う。例えば 400 年前の駿府の町というのは、日本全国のモデルとなった大御所の町だ。
それが江戸に移って、江戸が寛永のころから拡大していくのだが、銀座も静岡から移って東京
にできた。そういう意味で 400 年前の地図が今も静岡では使える。そういうことをもっとクロ
ーズアップすることができないかなと思っている。
○ 甲賀雅章氏 逆に聞きたいのは、何でそれだけすごい歴史を静岡市が持っているのに大事に
しないのだろうか。
○ 黒澤脩氏 1 つには行政も我々市民も含めて反省なのだが、静岡市は政令指定都市でありなが
ら博物館を持っていない。そういう意味で静岡というのは努力が足りない。何がどうなってい
くのかというポリシーがないと思う。市民も含めて今博物館をつくり、それを次に世代に残す
ということが元気がでるパワーにもなるし大事なことだと思っている。
○ 甲賀雅章氏 それが大事なのはすごくわかるが、今まで静岡市というのは歴史をまさにない
がしろにしてきたその原因がわからない。
それは違う言い方をすれば、まちづくりは全部が同じではなくていいと思っている。つまり
その町、都市に合った町の仕方というのがあって、あるいは国に合った町がある。僕はあると
き思ったのは、静岡市民には歴史を守っていく必要性がないのではないか、ということだ。
○ 黒澤脩氏
静岡には「駿府ウェイブ」という、市民の皆さんが静岡を案内する会がある。ま
た歴史楽会という組織は静岡の街中を歩いて昔はこうだったなどという形で動いているし、博
物館をつくるという活動もやっている。そういう我々の活動が行政や市会議員のレベルにどう
届いているのか、その辺をもっと詰めていかなければと思っている。
○ 落合偉洲氏
私も静岡市民はどうしてもう少し一生懸命にならないのかと感じている。やは
り静岡は全体的に見て豊かなところなのだという気がする。
私は宮崎県出身で、どちらかと言うと全国的には貧しい県なので、戦前からほかの県に追い
つくためにはどうしたらいいかと考えていた人がいた。
宮﨑交通の岩切さんは観光で生きていくしかないと、南洋の木を植えるなど懸命に努力して
昭和 30 年代の新婚旅行のメッカとして花開いた。文化財と言えば、高千穂神社の社殿がよう
やく 1 件だけ重要文化財に指定されただけで、あとは何もない。それでも観光客を呼んでこよ
うと、「太陽と緑の国、宮崎」をキャッチフレーズにしてアピールした。太陽と緑というのは
どこにでもあるのですが。
静岡にはそういう必死さがないような気がして非常に不思議だ。結論的には豊か過ぎるのか
なとしか私には感じられない。でも、もっと豊かになれるし、もっと豊かになってお金が回っ
てきて、それを今度ほかのところに分配してあげる。困っているところに持っていってあげる
ともっと心が豊かになるのではないかと考えている。
○ 甲賀雅章氏
豊か過ぎるというのは確かにあるかもしれない。静岡は食材もすごく新鮮な山
の幸海の幸がとれるのだが、そういうところには料理文化が育たない。食べ物が豊か過ぎて、
静岡料理って何があるだろうか。
静岡おでん?そこへ行ってしまって、結局静岡料理というものは育たない。食材はこんなに
いっぱいあるのだが、その豊かさが逆に違うものを邪魔しているところがあるように思う。
○ 久保田隆氏(静岡経済同友会会員
㈱浮月 代表取締役) 京都や金沢は別にしてほかの都市
に本当にあるかといえばない。それから静岡おでんは、なかなか大したものであると思う。
○ 黒澤脩氏 私は高校のときまでは、榛原の片田舎で自転車とリヤカーが通ってまわりはお茶
とミカンと田畑という所で育った。そういうところから静岡に遊びに来て、バスが珍しくてず
っとそれに乗っていたことがある。その時見た浅間神社や駿府城の内堀などの原風景が静岡の
歴史文化研究に駆り立てるきっかけだった。子どものときにそういう経験をきちんとさせるこ
とが非常に重要なのだ。
○ 落合偉洲氏
文化財を基軸にした教育ということがあり得ると思う。学校の先生たちが郷土
の文化財を見て自分で学んで子どもたちに教育し、具体的な郷土愛を教えていくことは非常に
大事だと思う。
ドイツの博物館へ行ったとき子どもたちが遠足に来て、その学校の先生が説明していた。博
物館の学芸員は学校の先生を教育して、先生がその講義のなかからドイツ博物館の何をどうや
って伝えるかを考えて生徒に伝えている。
東照宮の博物館にも学校の人がいっぱい来るが、ワーッと来て何もしないで見て、一言も言
わずにワーッと帰っていく。私は頼まれもしないのにつかまえて、例えば司馬温公の甕割り由
来を説明して家康公からのメッセージだと話すことがあるが、本当は学校の先生にしてほしい
ことだ。道徳教育というのは具体的な話をすることによって成果が上がる。文化財はそのいい
材料だと私は思っている。
○ 甲賀雅章氏
僕は静岡市の教育基本計画の作成に携わったことがある。そのころからフィン
ランド・メソッドにすごく興味があって、なぜフィンランドの学力度は世界で 1 位、2 位をい
つも争っているのだろう。日本はこれだけ詰め込み教育をしているのに、世界の学力でいえば
そんなに高いところに位置していない。フィンランドは何が違うのかと思ってフィンランドへ
行った。
たまたまフィンランドに 30 年住んで大学で教えている日本人の方に聞いたら、教えること
が根本的に違う。フィンランドの中学では〇×式の試験なんてあり得ない。あるいは選択肢を
示して答えさせる試験なんかあり得ないそうだ。
つまり彼らが中学のときに何をやるかというと、全部論文形式だ。小中学校から教えること
は 3 つ・・・①今何が問題なのかということを発見する力を養わせる。②その問題の解決策を
考える力。③それを人に伝えるコミュニケーション能力。
それを中学までに徹底的に教え込む。当然塾はない。夏休みも長く、明らかに学習している
時間は日本人に比べたらものすごく少ない。でもそれだけの考える力をものすごくつくってい
るということだ。
教育基本計画を作成した時もう 1 つおもしろいと思ったのは、社会問題を解決するデザイン
をやっている 19 歳の若者が社会問題を学習していく中で、モンスターペアレントの存在が社
会の問題だと指摘し、彼らは真剣にそれを考えている。つまり学校教育の問題もあるが、実は
親の問題がすごく大きくて、モンスターペアレントのクレームが学校の教育現場を混乱させて
可哀そうだと言っている。これはすごく大きな問題だ。
○ 黒澤脩氏
図書館教育はイギリスが一番進んでいる。妊娠したときからおなかの中の子ども
に本を読んであげたり音楽を聴かせたりお話を聞かせたる活動をおこなっておりそれをブッ
クスタートという。
誕生後はいろいろなお話を聞かせるストーリーテリングを大体 3 歳までは徹底的に行う。そ
れで子どもに集中力ができる。同時に音楽でも言語でも、それを覚えていくのはその時期が非
常に重要だからだ。私は静岡の小学校でも先生が地元の歴史、静岡の歴史、あるいは文化財の
ことなど話してあげれば、感じ方が大人になって変わってくると思う。
○ 落合偉洲氏
東照宮博物館には家康公関係の資料や実際に使われた眼鏡、鉛筆、かばん、時
計など 76 種類、180 点ほどある。そのほかのものも含めて全体で 1,200 点ほど宝物がある。私
自身博物館の館長を務めているがまだ数点しか見ていない。文化財が眠っているような状況だ。
だから静岡市民に声をかけて文化財に目を覚まさせて、その文化財が語りかけていくという
ことを強く意識しながらやっている。
最近はパワーポイントを使って宝物の紹介を行っているが、残念ながらそういうものを見せ
てほしいと言うのはほとんど 70 歳以上の人だけで、もう少し若い人たちに伝えていければ良
いなと思っている。
「そんなのがあったの、初めて見た」と言う人が随分多いし、中には久能山に行ったことが
ないという人もかなりいると肌で感じている。もっともっと久能山をアピールしていきたいと
思っている。
○ 甲賀雅章氏 何か異質なものをつなぎ役に持ってくると、歴史は違う見え方がしてくる可能
性がある。そういうときに芸術とか違う要素、異質なものというのがすごいつなぎ役になると
思っている。
僕の原点はフランスのアヴィニョン市レストランだ。人口 8 万人ぐらいだが、1 カ月間フェ
スティバルをやる時だけ 30 万人の都市になる。そのフェスティバルは 60 年以上やっていて戦
後間もなくスタートしている。8 万人都市が 30 万になっても宿泊所はないし、新しいホールな
んか 1 個もない。どこでやっているかといえばそれこそ国宝級の昔の教会寺院だったり王宮だ
ったりとか、そういったところでパフォーマンスが行われている。
一番遠いところは市内からシャトルバスで 30 分以上、そこから歩いて山に登るようなとこ
ろもある。
だから久能山東照宮のところで、そこでしか見られないパフォーミングアーツが行われてい
るとか、あるいは浅間神社の境内で行われているというような、何か異質なものをつなぎ役に
持ってくと、歴史は違う見え方がしてくる可能性があると思う。
今までの行政では歴史のことは何課、文化のことは何課というように全部縦型の組織だ。大
道芸は市でいえば所管は文化振興ではなく観光課だ。そういう縦割り組織がもう少し横軸でつ
なげて静岡の歴史を活性化するために芸術がどうかかわるのかというやり方もあると思う。
○ 黒澤脩氏
博物館の学芸員というのは病院で言えば医者であり、その地域の歴史、文化、芸
術などあらゆるものをいろいろなレベルでレクチャーをしたり資料をつくったり、そういうよ
うな形で頑張っているところは、お祭りが元気だったり博物館へ大勢人が来るのだ。そういう
意味で、まず静岡市は創造する大事な役割の学芸員がいないというのは恥ずかしいことだ、こ
ういうことを申し上げるのは大きな問題があるからだ。
ものすごくアンテナの高い人に、例えば給料がもし 30 万円だったらあと 10 万円ぐらい加算
してトレードする、今、博物館関係ではそういう動きが出ている。静岡も早く地面の下の発掘
だけではなくて、ぜひ地上にあるいろいろな民俗芸能も含めて、そういう豊かなものを市民に
伝達自由で情報を与え、行政はそれをギャラリートークとしてやってくれる仕掛けも必要だと
思う。
○ 清水義博氏(金沢経済同友会 理事
㈱ジェスクホリウチ会長)
まず今日来てよかったと思う。1 つは今川氏の歴史が 234 年も続いたということは全く知ら
なかった。大変すみませんという感じで、なぜ取り上げられなかったのかと思っている。
自分のところの前田利家は、例えば大河ドラマで取り上げてもらうには市をあげてNHKに
陳情しなければ実現できないが、徳川家康や今川義元は歴史ドラマには必ずどこかのところで
出てくるわけだ。その辺でありながらいかに自分が今川時代を知らないと思い知らされた。今
川が出て来るときは大概公家の格好をして桶狭間でやられるところで、武士道とか文武両道と
か、その辺のところを今川がスタートしたということ自体知らなかった。逆に言えば静岡の人
に今川をもっとアピールしていただかないと困る。自分らはどちらかというと今川自体の人間
像を誤解していたのだと思う。
静岡の方がシャイだというのにはびっくりした。実は僕は雪国なので決して人前に出てくる
と言うことはあまりないのだが、こちらのほうは太陽がさんさんと出ている感じだし、まちづ
くりについても大道芸が仕掛けられて 20 年も続いたという。この辺からすると自分から外に
出ていってコミュニケーションして活発に動いて、まちづくりに関しては本当に長けていると
いう感じがする。この辺は足らなかったとおっしゃるということ自体が初めて聞いたことだ。
静岡の方と例えばどこかの宴席で一緒になったとき、一番しゃべらないのは金沢の人間で少
し酒が入ったらしゃべり始める。最初にガンガン圧倒的にしゃべるのは大阪の人だと思うが、
静岡の人が内気だとは聞いてびっくりした。どちらかというとアピールが足らないのかなと思
った。
今日静岡に初めて降りた。浜松には来たことがあり、駅に降りるとヤマハだったり駅の中に
浜松の展示があって浜松に来たというのが降りた瞬間わかるが、静岡の駅では一切そんなこと
は感じることができなかった。降りて何を食べようかというときに、前にこちらに来たことの
ある専務理事から最初に出たのが静岡おでんだが、ここで食べるわけにいかないかなという感
じで、その辺が若干もったいないと思う。ここに来て何をしたらいいのか知らないまま降りて、
何もできないまま会場に入ってしまった。これはやはりもったいない気がした。
どんな形でディスカッションできるかわからないけど、いろいろな素材をお持ちなので、そ
のことを生かす企画が足りないような気がする。静岡では小学校の副読本などに郷土の偉人を
紹介し先生が教えるということはないのだろうか。
○ 黒澤脩氏
静岡市の教育委員会で副読本はつくっている。いっときは非常に洗練された良い
ものができたのだが、教育委員会の指導主事が変わると中身が変わっていって残念なところが
ある。
○ 清水義博氏
甲賀さんからよそ者、ばか者の話があったが、歴史的な事項にばかみたいにア
ピールしたいという市民がおられるのではないか。指導主事が副読本を作るということ自体方
法論としては適切ではないと思う。本当に今川のことだったら書きたくてしょうがないばか者
が静岡市内にいっぱいおられるような気もする。
○ 黒澤脩氏
いろいろな審議会ではその行政の担当者がメンバーを選んで市長に推薦して決ま
る。市長が勉強していれば別の人をというやり取りもあろうかと思うが、残念ながら選ぶ段階
で変えていかないとだめだ。
○ 池浦捷行氏(浜松協議会 副代表幹事
㈱不二 代表取締役社長)
徳川家康が 8 歳から 19 歳まで今川の人質時代として駿府で過ごしたが、浜松城で 27 歳から
45 歳まで 17 年間の多感な時代を過ごした。
浜松市長は松下政経塾 1 期生で、今回田辺市長がやはり松下政経塾出身。都市間競争ではな
くて都市間協調だと浜松の市長は言うが、それぞれが文化と歴史を持っていてもう少し駿河、
浜松、遠州、それから三河、こういった広域で徳川家康を見ていく必要があるのではないか。
我々は中部という経済圏の中で共通する歴史観というか歴史的な資産を持っている。
そういうことで、例えば駿府城に家康が移った 45 歳のときには、もう三河、遠州、駿河、
甲斐、越後の 5 カ国の領主をやっている。家康自身相当力を持っていたわけで、そういう中か
ら江戸幕府を立ち上げて最後は駿府に隠居というストーリー性はすばらしいものがある。そう
いう意味では浜松時代の家康は三方原合戦で負けたとか歴史ドラマになるようないいイメー
ジはない。
浜松の鈴木康友市長も家康はそういうことでアピールできないなとか言っていたが、そんな
ことはなくて、あれだけの人だからできれば静岡、浜松、岡崎などいろいろ力を合わせられた
らいいなと思っている。
○ 黒澤脩氏
マイケル・アームストロングという人が「アメリカ人の見た徳川家康」という本
を書いて、アメリカが合衆国になる 170 年ぐらい前に徳川家康はユナイテッド・ステーツ・オ
ブ・ジャパンをつくった。しかもアメリカのジェファーソン等がアメリカ一国をまとめるのは
法律が必要だと言った 170 年以上前に、日本では禁中並公家諸法度、武家諸法度、諸宗寺院法
度など、日本は家康の時代にすごい統治を行っていると指摘した。
それともう 1 点特徴的なことは、アメリカはリンカーン時代に南北戦争をやった。そのとき、
もし南北が分裂したら昔のインディアンの時代に帰ってしまう。それと同じことを徳川家康は
1600 年、慶長 5 年に関ヶ原の合戦で勝利し戦国の乱世を治めた。
そういうことが日本の歴史には正しく出ていない。彼はもし徳川家康がアメリカ人だったら、
過去にさかのぼってノーベル平和賞をお願いするだろう。それだけの人物だということを言っ
ていた。
○ 落合偉洲氏
国宝になった東照宮の拝殿で最近結婚式が増えてきている。今からお嫁さんを
もらう方があったらぜひ御一報ください。神楽殿というところに畳を敷いて、巫女さんに静岡
のおいしい駿河路というお抹茶を提供して重要文化財、国宝の建物を活用している。また最近
蔵の中から火縄銃が 11 丁出てきたので、ただ遠くから見るだけでなく実際手に持って火縄銃
の重さを体感してもらう企画をして、もう少し文化財と皆さんを結びつけていくように今後と
も心がけていきたいと思っている。
○ 甲賀雅章氏 今日、大道芸は 8 時半ころまでやっているので、懇親会のあと時間が許す限り
ぜひともまず体感をしてお帰りいただきたい。
最後にもう 1 点だけ、数字についてお話したい。国家予算の中で文化予算がどのくらいの割
合を占めているかということだが、日本は 0.1%、金額で 1,018 億円。ちなみにフランス、人
口 6,500 万人で日本の半分ぐらいだが、0.86%、4,360 億円。
最近驚くべきは韓国で人口 4,800 万人しかいないが、韓国は今 0.8%を文化予算に出してい
る。その数字は日本よりも 150 億円以上多い予算が文化に充てられている。そしてデザイン教
育が国策として小学校からスタートした。デザインによって文化を次の韓国のアイデンティテ
ィーにしようと彼らは進めているということだ。
そのようなことを考えると全部を平均的に満足させるのが今までの日本の政治だったかも
しれないが、これからの地方自治というのは何かプライオリティーをつけていかないと無理だ
と思う。静岡が、あるいは金沢がどこに一番の優先順位をつけていくかということが多分問わ
れる時代ではないかというように思う。
○ 黒澤脩氏
私からは駿府城の天守閣というものを、日本のシンボルとして広く展開していき
たいと思うので、ご協力、ご賛同をよろしくお願いしたい。
○司会(市川氏)本日は静岡の財産である 3 人の方々に鼎談をしていただいた。これをもって終
了とするが、最後に私が感じたことを一言だけ言わせていただければ、サンクトペテルブルグ現
代美術展に行ってきた。幼稚園の子どもが本物の絵の前で、寝転んでクレヨンで写生をしていた。
日本ではなかなかできないなということで感動したのは覚えている。本日はまことにありがとう
ございました。