日時:2007年 9月 16日 主日2部説教

日時:2008年 6月 8日 主日 4部礼拝 説教
題名:信じようとしても信じられない時
説教:チョー・ヨンギ牧師
御言葉:マルコの福音書 9章 17~24節
「すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。『先生。口をきけなくする霊につ
かれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。その霊が息子にとりつくと、所
かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわば
らせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでし
た。』イエスは答えて言われた。『ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっ
しょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければ
ならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。』そこで、人々は
イエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひ
きつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。イエスはそ
の子の父親に尋ねられた。『この子がこんなになってから、どのくらいになります
か。』父親は言った。『幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火
の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわ
れんで、お助けください。』するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うの
か。信じる者には、どんなことでもできるのです。』するとすぐに、その子の父は叫
んで言った。『信じます。不信仰な私をお助けください。』」
<序論>
今日、私は皆さんと共に『信じようとしても信じられない時』どのようにするのか、
その御言葉を持って恵みを分かち合います。
聖徒たちの信仰とはものすごい謎解きです。ある時にははっきりと信じることができ、
ハレルヤ、もう信仰に到着したと思うのに、また他の時には疑いの波に巻き込まれて
ひどい心の中の葛藤を覚える時があります。信仰の葛藤は、すべての人が体験するの
です。しかも心配、憂い、苦しみが近づいてくる時、それを解決するために神様に祈
る時、応えられたようでもあり、応えられなかったようでもあり、神様が助けてくだ
さるようでもあり、助けてくださらないようでもあり、はっきりしない中で心の中に
葛藤を覚えるのです。
私が西大門(ソデムン)で牧会する時、金曜徹夜祈祷の時、ある大学の一人の大学生
が按手祈祷をする時に祈りを受けました。「イエスの御名で病の癒しを受けなさ
い。」「アーメン」そして癒された人は証しをしてくださいと言うと、立ち上がって
「私は胃潰瘍で苦しんでいるのですが、今日、礼拝に来て祈っていただいて癒されま
した。」と言うと「ああ、信じられない。」と言います。私の生涯の中で、その大学
生の叫び声が心の中に衝撃として残っています。本当にどれほど正直なことでしょう
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か。必ず治らなければならないのですが、治ったと信じなさいと言うと、信じれない
わけにはいかないので「信じることには信じます。」と言ったのですが、疑いが入っ
てきて信じれないので「ああ、信じれない。」と言いました。これが私たちすべての
人々の切羽詰った告白なのです。信じれるようでもあり、信じれないようでもあるの
で「信じます。ああ、信じれない。」これが今日読んだ聖書の御言葉の中で、おかし
くなった息子を連れて来た父親の告白なのです。イエス様が変貌の山で9人の弟子た
ちを連れて降りてくると、大きな討論が起きました。そこに一人の父親が走って来て
「主よ、私の息子にひどい悪霊がついて苦しんでいます。火の中や水の中に倒れて、
死にそうになったことが何度もあるのですが、弟子たちの所に連れて来ても治しても
らうことができませんでした。この息子を癒してください。」主が「ああ、不信仰な
世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであ
なたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」と嘆かれ「その子をわたし
のところに連れて来なさい。」と言われました。そこでイエスの所に連れてくると、
悪霊がその息子をひきつけさせたので、地面に倒れ、あわを吹きながらころげ回った
のです。それで主がその息子を見る時、その父親が「もし、おできになるものなら、
私たちをあわれんで、お助けください。」と言うと、主は「できるものなら、と言う
のか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われました。ですから
「主よ、信じます。ああ、信じれない。不信仰な私をお助けください。」どれほど正
直な言葉でしょうか。切羽詰った状態です。息子が悪霊にとりつかれてやつれていく
のに、良くならなければならないのに、主ができるものなら、と言うのか。信じる者
には、どんなことでもできるのですと言われたので、大きな負担になりませんか。信
じることには信じなければならないのに、「主よ、信じます。ああ、不信仰な私をお助
けください。」このような切羽詰った体験を私たちもするようになるのです。私たちが
神様の御前に出てきて信じようとする時、心の中に信じることができなければ、どう
すればよいでしょうか。
<本論>
1.思い煩いと心配は無駄であることを悟りなさい
第一番目に、深く考えてみなければならないことがあるのです。思い煩い、心配をし
ても無駄であるということを悟らなければならないのです。
信じれないからといって、思い煩い、心配をして問題が解決されれば良いのですが、
問題が解決されないからといって思い煩い、心配をしたとしても無駄であることを心
の中で深く悟らなければならないのです。心配したからといって背の低い人が尐しで
も背が高くなるわけでもなく、思い煩い心配したからといって黒い髪の毛を白髪にし
たり、白髪を黒くすることはできないのです。
マタイの福音書6章27節に「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分の
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いのちを尐しでも延ばすことができますか。」
5章36節に「あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、
白くも黒くもできないからです。」
私たちの力でできないことを思い煩い心配するからといって問題が解決するのではな
く、思い煩い心配することによって更に自分自身が破壊されるだけなのです。
思い煩いや心配が起きる状況の中で、何の影響力も発揮することができないというこ
と自身をはっきりと受けなければならないのです。「私は力でもすることができず、
努力でもすることのできない無能力者である。」思い煩うからといって尐しも影響力
が現されることのないことを知らなければならないのです。思い煩えば病気にだけか
かるのです。陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らすのです。心配をすれば
するほど骨を枯らすので肉が溶けていきます。思い煩いと心配は、途方もない病と苦
痛と軟弱さをもたらすのです。
Ⅱコリント7章10節にも「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔
い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」と語られたのです。
心配をすれば、霊肉に死が近づきます。骨も枯らし、肉も溶け、死が近づいてくるこ
とが思い煩いと心配なので、これは何の解決にもならず、反対に死が近づき、骨が枯
れ肉が溶けるの苦しみが近づくので、私たちは、思い煩いと心配を絶対にせずに、こ
れを神様の御前に委ねなければならないのです。主がおっしゃるには「 すべて、疲れ
た人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休
ませてあげます。」私たちが人生を生きながら、思い煩いや心配が近づいてこないよ
うにすることはできません。近づいてくるのです。思い煩いと心配が近づいてくる時、
誰かに委ねなければならないのです。荷物ですから。重い荷物を委ねなければなりま
せん。私が最近、若い人々を見ると、私たちの時代とは違います。私たちの時代には
荷物があれば妻に全て任せてしまいます。妻が荷物を頭に載せ手に持ち、夫はポケッ
トに手を突っ込んで付いてくるのですが、最近は、妻が全ての荷物を夫に任せて、夫
が汗をだらだら流しながら両手に荷物を持ち肩に掛けてくるのに、妻は日傘をさして
ついて来ます。実家の母がそれを見て「良い婿を貰った。私の婿は本当に良い人
だ。」と言いますが、姑は「なんとまあ、やれやれ、苦労して勉強させ妻をめとらせ
たのに、妻のためにあのような労働をしているとは、ああ、心配だ。気がかりだ。」
と言うのです。そのような時代になったのです。荷物を私が全て担うならば大変なの
で、人に任せることができるなら、人が引き受けてくれるならば良いのではないでし
ょうか。ところで私たちの荷物を誰が負ってくださいますか。神様の御子イエス様が
「あなたがたの荷物は私のところに持ってきなさい。私が負ってあげよう。」ですか
ら、イエスを信じる人が、どれほど人生が良くなったことでしょうか。私たちの大小
の荷物を負ってくださるという方がおられるのに、荷物を負うことを皆遠慮するのに、
イエス様は私が負ってあげるから私のところに来て任せなさいと言われるのです。し
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たがって主の御前にひざまずいて1時間でも2時間でも、主よ、お任せします。引き受
けてください。引き受けてください。私の心の中に平安がくる時までひっきりなしに
主に委ねます。ひっきりなしに委ねます。ひっきりなしに委ねます。複雑な言葉を使
わないでください。「主よ、私には負うことができません。引き受けてください。私
の力ではできません。引き受けてください。私は尐しも変化させることができません。
引き受けてください。」そのようにすれば、後には心に平安が臨み、主が重荷を引き
受けてくださるのです。
一石(イルソック)(訳注:本命の他に用いる名)イ・ヒソン先生の『貧乏学者、高
尚な人の一生』という本に、彼の90年間の生涯が記録されています。この本を見ると、
彼が子孫たちに口癖のように強調した人生の遺言として「いくらしても無駄である心
配事はするな。」という言葉を残しました。心配事をすることも運命だと語り、いく
ら心配をしても解決できない問題は心配するなと言ったのです。私たちは疲れや重荷、
心配のくびきを負って生きるのですが、これを全て脱ぎ捨てて生きなければならない
のです。なぜならば、イエス様が、だから、あすのための心配は無用です。あすのこ
とはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分ありますと語られたのです。そ
れゆえに、思い煩いと心配をイエス様の所に来て委ねなければならないのは、とにか
く無理にでも信じてみるのが良いのです。そうではありませんか。心配しても解決せ
ず、心配しても解決せず、だからといって自分自身で担うこともできず、自分自身の
代わりに担ってくれる人もいないので「もう主にお任せしてしまおう。自分の力では
どうすることもできない。生かしてくださるなら生きるし、死ぬなら死ぬのだ。」完
全に心に決めて主に委ねてしまわなければならないのです。
Ⅰペテロ5章7節に「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があな
たがたのことを心配してくださるからです。」と語られたのです。
委ねれば守り導いてくださるというのです。目には何も見えず、耳には何も聞こえず、
手に掴める物が何もなくても、主は約束をしてくださいました。主の約束は、目に見
え、耳に聞こえ、心の中で悟れるのではないでしょうか。約束の御言葉の上に、思い
煩いと心配を委ねることができるのです。
ピリピ4章6節から7節に「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげ
る祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれ
ば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエ
スにあって守ってくれます。」
見てください。思い煩いと心配を切に主に告げれば、心に平安が臨み、心の中の全て
の思いと考えを守ってくださるのです。平安が臨む時まで祈りなさい。引き受けてく
れる者がいる。主が必ず引き受けてくださる。本当に任せるのか、任せないのかを主
がご覧になられるので、あなたが切に祈って主にまことに委ねれば主が引き受けてく
ださり、その代わりに平安で私たちの心の中を満たしてくださるというのです。それ
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ゆえにイエスを信じる人が、どれほど大きな祝福であるのか言葉で言い表すことがで
きないのです。
ジョン・ウォルトンという人は、なるがままに人生を生きてきた人です。どんなこと
一つでも長い間集中することなしに、あちらこちらをのぞき込んで、放浪生活をし乞
食の生活をしたのです。そんな時、彼は偶然、教会に行って説教を聞き大きく感動し
たのです。ルカの福音書17章6節に「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があった
なら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになる
のです。」この御言葉を聞いて、彼は大きく感動しました。「わぁ、からし種一粒さ
えあれば、桑の木に根こそぎ海の中に植われと言われたのに、私にはできない。でき
ない。そうすることはできないと乞食の生活をする必要がないな。」そして、あちら
こちら友だちにお願いしてからし種一粒を得ました。それを小さいガラスの瓶に入れ
て胸に抱きました。それから朝起きてからし種を見て「これぐらいの信仰は私にある
のでないだろうか。」夜寝る前にもそれを出して見て「からし種ほどの信仰ぐらいは
私にあるのではないだろうか。」と言い、そして彼はそのからし種ほどの信仰がある
と考えた後、できる、なせばなる、してみようと言ったのです。「私がいくら信仰が
ないといっても、このからし種ほどの信仰があるではないか。だからできる、なせば
なる、してみよう」そして事業を始めたのですが、様々な試練や患難が近づくごとに
その瓶を見て「うん、これぐらいの信仰があるから、この患難も過ぎ去る。この問題
も解決される。信じます。」そして、おきあがりこぼしのように起き上がりました。
後には非常に成功して大金持ちになりました。イギリス女王の爵位まで授けられまし
た。そして71歳の時に引退し、その時に彼が「私が今日のこのようになったことは、
苦しいことが起きる度にからし種を見て、私にはからし種ほどの信仰があるから、問
題は解決され、神様の御業が起きると確信して、全ての難関に勝って、心の中に平安
を得て勝利することができた。」と言ったのです。信じる者には、どんなことでもで
きるのですと語られたのです。イエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。
信じる者には、どんなことでもできるのです。」ところで皆さん「ああ、私には信仰
がありません。」からし種を見てください。からし種・・・ どれほど小さいことでしょ
うか。私も、からし種によって大きな慰めを受けたのは、西大門(ソデムン)にいる
時、中東から来たある友達が、からし種を尐し持って来てくれて、あまりにもからし
種が小さいので、私が聖徒たちに見せてあげようと、早天祈祷会で聖書の上にそのか
らし種を乗せて見せたのですが、聖徒さんたちが列を作って聖書の上に載せてあるか
らし種を見るのですが、一人のお婆さんが近づいて「牧師先生、見えないのです
が。」更に近づいて見ても「それでも見えないのですが。」と言いながら、その息で
全部飛んでしまいました。どれほど腹が立ったことか、からし種を見せてあげたのに、
あまりにも近くに来て話すからその息で飛んでいってしまったのではないかと、その
後ろに並んでいた人も不平を言い、その時、聖霊が私に悟らせてくれました。「見な
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さい。お婆さんの息でも飛んでいってしまうからし種がどれほど小さいことか。それ
ほどの信仰さえあればOKである。何か大きな山のような信仰を望んではならない。
からし種ほどの信仰をあなたは持っているのではないか。あるものを無いというから
問題なのであって、あるものをあると言うならば、あなたは信仰がある人である。」
ローマ12章3節を続けて言ってください。神様がそれぞれに信仰を量りに応じて分け与
えてくださったので、
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれ
でも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのお
のに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ロー
マ12:3)
したがって皆さんは信仰があるのに、絶えず無いと考えるのでそれが問題です。大き
な信仰を期待しないでください。主がいつ大きな信仰を持ちなさいと言われましたか。
からし種一粒ほどの信仰を持ちなさいと言われたのです。からし種は皆が持っている
それほどの信仰なのです。それを認めて、私にあると確信し立ち上がるならば、信仰
で祈り、神様に重荷を委ね、肯定的に積極的に生きることができます。皆さんの問題
は解決することができるのです。皆さんはことを成すことができます。なぜ、信じる
からなのです。聖書は何と言っていますか。あなたの信じたとおりになるように。あ
なたは信じているならその通りになるのに、なぜ患難に遭えば信仰を諦めてしまうの
ですか。皆さんは信仰の人です。隣の人に、あなたは信仰の人ですと言ってください。
ですから私たちをあまり軽く思ってはなりません。皆さんは安い存在ではありません。
信仰の人なのです。皆さんの前から大きな山が退くのです。神様の奇蹟が起きるので
す。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるので
す。」と言われたとおり、どんなことでもできる神様の恵みが皆さんに与えられるこ
とを信じてください。
2.心に背水の陣を敷きなさい
第二番目に、皆さんの心に背水の陣を敷かなければならないのです。
信じる時、何度も振り返ってはなりません。川を渡ったならば橋を燃やしてしまわな
ければならないのです。再び帰ることのできない皆さんの歩みを作らなければならな
いのです。信じたならば最後まで信じていかなければなりません。信じて駄目ならば
三十六計を差し出そう。信じて駄目ならば逃げよう。そうするなら神様は、あなたは
でたらめな信仰を持っていると言われるのです。最初から生きようが死のうが栄えよ
うが滅びようが、信じますと心に覚悟しなければならないのです。
ダニエル3章16節から18節にはシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの話があります。
ユダヤの青年たちなのにバビロンに行って捕虜となり、特別な教育を受けてバビロン
州の事務をつかさどらせられたのです。ネブカデネザル王がドラの平野に金の像を立
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て、諸民、諸国、諸国語の者たちに、奉献式の時に来て拝むようにしたのです。とこ
ろがシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはユダヤ人なので拝みませんでした。その
結果、大きな患難に遭うことになりました。告発され、ネブカデネザルの前に捉えら
れて行き、このように答えたのです。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブ
カデネザル王に言った。『私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はあ
りません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い
出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、も
しそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなた
が立てた金の像を拝むこともしません。』」
王が「この偶像を拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込み
焼き殺す。」「王よ、神様が生きておられるなら、いくら私たちを火の燃える炉に投
げ込んでも、私たちを救い出すことができます。もしそうでなくても私たちは拝みま
せん。」最初から背水の陣を敷いたのです。「もちろん神様が救い出してくださるこ
とを私たちは信じます。救い出してくださらなくても、私たちは偶像を拝みません。
死ねば死にましょう。」と言うので、ネブカデネザルが怒りに満ちて、火の燃える炉
にシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを投げ込んだ時、第四の人、神様の御子が現
れて火の勢力を滅ぼして彼らを救い出してくださったのです。このような信仰があれ
ば、今日も神様が現場に現れてくださるのです。今日、人々は信じても駄目ならば後
ろに逃げ、退くので、神様が喜ばれません。聖書にはもし、恐れ退くなら、わたしの
こころは彼を喜ばないと語られているのです。最初から退くことを神様がご存知なの
で「あなたが退くことを知っていて、私を試すのだな。そうするなら、私があなたを
喜ばないから、あなたに働かない。」と言われるのです。「大きくても小さくても、
私が一度祈れば死んでも信じます。」そのような覚悟で出て行けば、神様が責任を取
ってくださるのです。
聖書を見ると、エステルの信仰告白も同じなのです。ペルシヤにいるユダヤ人が滅ぼ
されることになったのです。ハマンという国務総理が、ユダヤ人を滅ぼそうとする時、
ユダヤ人は生き延びる方法がありません。国務総理がユダヤ人を滅ぼすことを定め、
王の許可を得たのにどうすることができるでしょうか。ところがちょうどその時、王
妃がエステルだったのですが、エステルは自分の身分を隠したユダヤ人なのです。し
たがってその民族のために、神様に祈るだけではなく、王の所に行って訴えるように
その兄が彼女に懇請しました。しかしその当時の習慣では、王の召しなしに王宮の内
庭に入るなら死刑になるのです。いくら王の妻であったとしても王が呼ぶべきで、王
のお呼びなしに王の内庭に入るなら死刑になるのです。エステルがその兄にこのよう
に言いました。「私は三日間断食し祈って王のところへまいります。王が私を受け入
れてくださらないならば、死ななければならないのでしたら、死にます。王の召しが
ないので、私は死ななければならないのでしたら、死ぬという覚悟でまいります。」
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そのような覚悟をして、後ろに退かないという思いで入っていくと、王が座っている
王座に向かって内庭に入り、とても華やかな笑顔で微笑みながら王の前に立ったので、
王の心が奪われるほど愛らしいのです。それで金の笏を差し伸ばしました。王が手に
持っている杖が金の笏なのですが、その差し伸ばされた金の笏の先を触れば死刑を免
れるのです。エステルが行って金の笏を触りました。王が「エステル、どうして来た
のか。何がほしいのか。王国の半分でも、あなたにやれるのだが。」と言うので、全
てが解決されました。ですからエステルが王に事情を言って、ユダヤ民族が皆救い出
されたことがあるのです。死ななければならないのでしたら、死にますという覚悟で
出て行ったので、このようなことが起きたのであって、「私は死ぬことが怖くてでき
ません。」と言ったならば、このような御業が起きなかったのです。使徒パウロが福
音を伝える時にどのようにしましたか。彼は全小アジアを福音化したのですが、どの
ように答えたかというと、滅びるなら滅びるという覚悟を持って福音を伝えたのです。
ピリピ1章20節から21節に「それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、
どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬ
にも私の身によって、キリストがあがめられることです。私にとっては、生きること
はキリスト、死ぬことも益です。」
生きても良いし死んでも良い。私は自分の身を考えずに福音を証しする。生きるなら
イエスを伝道し、死ねば天国に行くから更に有益である。生きるなら伝道、死ねば天
国という崔子実(チェ・ジャシル)牧師先生のスローガンのようにそのような覚悟で
パウロが出て行ったので、天下がその前で変えられたのです。自分自身の身を良く考
えて、自分の命の安全と危機を考えて、都合が良ければ出て行き、都合が悪ければ後
ろに退くというそのような狡賢い考えで出て行っていたならば、世界は福音化されな
かったことでしょう。生きれば伝道、死ねば天国。生きても死んでも私の体でキリス
トが栄光を受け取られることを願う。そのような覚悟で出て行く前に、悪魔が一つの
道で入ってきても七つの道に逃げるしかないのです。したがって私たちも神様を信じ
る時、このような背水の陣を敷いて信じるべきであり、そうではなく狡賢く良い時に
は走って行き、難しい時には退き逃げるという考えを持って祈り、信じるので御業が
起きないのです。
3.神様の御言葉に集中しなさい
第三番目に、私たちが神様を信じる時、御言葉に集中しなければならないのです。
考えが散漫ならば何も成り立ちません。集中すべきです。私たちができるならば否定
的なことは見ずに、恐怖心を煽る事を見ずに、集中して神様の御言葉を見なければな
らないのです。軍隊でパラシュートに乗る訓練をする時、教官がいつも軍人たちに言
います。「下を見下ろすな。目がくらんで飛び降りれない。遠い山を見よ。飛行機の
中から遠い山を見て飛び降りよ。下を見れば不安になり恐ろしくなり、膝が震えて飛
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び降りれない。」と言うのです。不安と恐れが来るものを見てはならないのです。私
は昨年もスキーをしましたが、最も高い丘でスキーをしました。スキーをする時、一
つ気を付けなければならないことは、下を見てはなりません。下を見ると目がくらみ、
ぼうっとしてしまいます。ですから自分の足元だけを見なければなりません。自分の
足元だけを見るならば、自分の足元からは距離が近いではないでしょうか。足元だけ
を見て滑り降りる時「主よ、助けてください。主よ、助けてください。主よ、助けて
ください。」と降りて行くならば最後まで降りて行きます。しかし降りて行きながら、
あの下を見るならば「ああ、死にそうだ。あの渓谷をどのように降りて行くことがで
きるだろうか。」と言って足が震えて倒れてしまうのです。信仰生活も左右を見回し、
環境を見回し、恐れを見て、心が震えてはならないのです。御言葉に集中しなければ
ならないのです。
イザヤ41章10節に「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしが
あなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、
あなたを守る。」と語られたのです。
神様の御言葉を聞いて神様の御言葉に集中しなければならないのです。
ヘブル10章35節にも「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それ
は大きな報いをもたらすものなのです。」と語られたのです。
ペテロが水の上を歩いていてどうして溺れそうになりましたか。彼らは夜の湖を渡ろ
うとする時、風と波に非常に悩まされていると、イエス様が水の上を歩いて来られま
した。真っ暗な真夜中に風が吹き波が打ち、白い物体が浮かんだり沈んだりしながら
近づいてくるので、幽霊が現れたと言ったのです。船乗りたちの間では、波打つ海に
幽霊が見えると舟が沈むというジンクスがあったのです。もう舟が沈むと思って、弟
子たちが皆、恐ろしさのあまり叫び声を上げた時、イエス様が「わたしだ。恐れるこ
とはない。」と言われるのでペテロが「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上
を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」私はペテロを尊敬します。私
ならばそう言えません。その真っ暗な夜、波が打ち風が吹くのに、主ではなく本当に
幽霊だったならば、水の中に溺れ死んでしまうに違いありません。それにもかかわら
ずペテロは勇敢なのです。信仰というのは冒険なので勇敢でなければならないのです。
創造的な勇気を持って出て行かなければならないのです。恐れを治め、環境に勝つこ
とができる勇気がなければならないのです。そうするとイエス様が「来なさい。」と
言われました。ペテロはイエス様を見上げて、水の上に飛び出しました。そうすると
水が氷のように固まりました。ペテロが一歩一歩水の上を歩いていきます。イエス様
を見上げてその御言葉を覚えて、集中して行く時は、水の上を歩いて行きました。そ
うするうちに突然、風が吹いてきてしぶきが顔にかかってきたので、波を見て真っ暗
な海を見ました。服の裾が風に翻るのを見ました。そうすると心の中に恐怖心が生ま
れたのです。イエス様の影も形も見えなくなり、風と波を見て「人がどうして水の上
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を歩くのか。これは私の何かの間違いだ。もう死ぬ。」恐怖心が臨むやいなや水に沈
みかけたのです。水に沈みながら「主よ。私は死にそうです。助けてください。」イ
エス様が来てペテロをつかんで「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と救い出して
くださったのです。疑いを持てば水に溺れます。疑わずにいようとするなら、主を集
中的に見つめて、御言葉を見つめなければならないのです。この世で私たちが生きる
間、疑える環境がいつも近づいてくるのです。風と波がひっきりなしに近づいてきま
す。数え切れないほど風が吹き、波が打ち「おまえはもう死んだ。おまえは滅びた。
おまえはできない。」そのような暗示が心の中に絶えず近づいてきます。そのような
ことを見つめて、それに耳を傾けて集中すれば、疑いが入ってきて不安と恐れが入っ
てくれば狼狽するのです。
私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったから
だとヨブは言ったのです。
皆さんが、恐れたりおびえるならば、その対象が皆さんに近づいてくることになるの
です。聖書には、恐れには刑罰が伴っているからと語られているのです。恐れるなら
ば、その代価として刑罰が伴い、恐れるそのことが起きるのです。貧しさを恐れるな
ら貧しさが近づき、病を恐れるなら病が近づき、敵を恐れるなら敵に負けるのです。
強く大胆に信仰で出て行けば、全ての事に勝つことができるのです。したがって恐れ
はいつも私たちの周囲に近づくのです。風と波のように、悪魔は皆さんの所に来てさ
さやき、脅迫、恐喝をして、環境を見るようにし、心の中に恐怖をもたらし、理性を
失わせ、恐れに捉えさせ、ぶるぶる震えるようにするのです。これが悪魔の方法なの
です。その度に神様の御言葉を覚え、神様を見上げ、イエス様に頼らなければならな
いのです。そうるすならば恐れは離れ去り、皆さんが信仰の力で立つことができるの
です。神様の約束に集中しなければならないのです。
民数記23章19節に「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔
いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し
遂げられないだろうか。」
人は嘘つきであり、あまりにも嘘をたくさんつき、偽りを言うので、神様も嘘つきで
あると私たちが誤解するのです。確かに私たちが幼い子どもの頃から今まで、嘘を何
万回聞き、何万回も言ってきました。人はほとんど皆嘘つきで、また嘘をつくのです。
ですから神様を信じても「ああ、嘘をついている。神様が本当の話をされない。」ま
た悪魔が来て「神様は嘘だ。信じるな。」と誘うのです。しかし神様は人ではないの
で、偽りがなく、人の子ではないので、悔いることがないのです。神様はまことなの
です。真理なのです。したがって神様の御言葉に集中しなければならないのです。天
地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。
全部が成就されると語られたのです。御言葉を私たちが受け入れて黙想し、御言葉の
上に立たなければならないのです。
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箴言4章23節を見ると、いつも御言葉を覚えなさいと語られたのです。「力の限り、見
張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」
心をどのように見守るのですか。御言葉を考えながら、心を守ることができるのです。
御言葉は揺さぶられないのです。御言葉を離れれば皆さんの心が揺さぶられるのです。
そしていつも心の中に夢を描いてください。
ピリピ2章13節に「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、
事を行わせてくださるのです。」
願いは夢で変化するのです。家を願えば家を夢見ることになり、海に行くことを願え
ば海を心に夢見るようになり、車を買うことを願えば車を夢見るようになるのです。
心にいつも神様の約束の御言葉が成ることを夢見てください。神様が私を捉えてくだ
さり、助けてくださり、恵みをくださることを心の中に夢見ることが、本当に神様の
御言葉に硬く立つことなのです。
エペソ3章20節に「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思
うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、」神様が私たちと共におら
れると語られているので、求めることや考えることよりも豊かに満たしてくださると
いうのです。御言葉を信じ、夢見ていれば、不可能が可能になるのです。
かなり以前にリリアン・ディクスンという女性が、彼女の夫と共に台湾に宣教するこ
とに決めてアメリカを離れました。彼ら夫婦は、台湾で台湾政府の社会事業の管理人
と宣教について相談しました。すると担当者は彼らの話を聞く前から、過去にいくつ
かの宣教団体が全て失敗したことを例に挙げながら「無条件、台湾では駄目です。台
湾ではキリスト教の福音を証ししても受け入れません。失敗します。アメリカにお帰
りください。あなたがたがここでキリスト教を伝えるということは、本当に不可能な
ことです。私たち台湾の人々には、私たちの宗教が別にあるので、ここで宣教する必
要がありません。不可能なのでお帰りください。」するとリリアン・ディクスン夫人
は立ち上がって窓側に行き海に向かって指差しました。「あそこの海が見えますか。
台湾の人々を助け、イエス・キリストを伝えることのできる方法はいくらでもあります。
あたかもあの海水を一杯ずつバケツで汲むことのように大変なことであるかもしれま
せんが、不可能ではありません。海水を汲む思いで私たちは福音を伝えるでしょ
う。」そうするとその夫が傍らで「あなた、立ち上がって早く福音を伝えに行きまし
ょう。相談する必要はありません。」彼らは神様が送られたという確信を持って、信
仰と夢を持ちました。いくらできないと言っても、台湾に福音を伝えることができる
という夢を持って、台湾で50年余り宣教の働きをしたのですが、学校と病院、教会な
どを5千ヶ所も作ったのです。できないということができたのです。信じて夢を持った
結果、夢の通りになったのです。皆さんが信じて夢を見るならば、その夢見たとおり
になるのです。環境を見るならば夢を見ることができません。環境を見るならば、恐
れが臨んで、全ての夢を放棄することになります。何も目に見えなくても、何も耳に
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聞こえなくても、私の目の前の道が真っ暗闇で暗くても、信じて夢を見てください。
夢が皆さんの運命と環境を変える奇蹟をもたらすのです。神様の約束を掴んで夢見、
進み出て行く時、このように驚くほどの御業が起きるのです。
マタイの福音書15章28節で、異邦人の信仰についてイエス様は「ああ、あなたの信仰
はりっぱです。その願いどおりになるように。」と言われたのです。神様の約束に集
中し、考え、夢見て信じて宣言する時、驚くべき御業が起きるのです。
私たちは心の中に一度信じれば信仰を堅く掴んで揺れてはならないのです。「すると
イエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでも
できるのです。』」(マルコ9:23)
できる、できないと言うな。信じる者にはどんなことでもできる。信じないからでき
ないのであって、信じるならできるというのです。信仰がないと思わないでください。
私が以前にも話したように、からし種一粒ほどの信仰はあります。私も近い内に、か
らし種一粒を小さなガラスの瓶に入れて、ポケットに入れて持ち歩くつもりです。私
が50年間、牧会しましたが、今も悪魔が来て、できない。おまえの信仰は弱い。本当
に信じるのか。疑いが起こることがあるのです。そのからし種ほどの信仰はあり、そ
してからし種を見て、私はこれ程の信仰はある。これ程の信仰さえあれば充分だ。更
に大きな信仰は必要ない。そのようにするためにそうしようと思います。皆さんも必
要ならば、からし種一つを得て瓶に入れて持ち歩いてください。それを見て信仰を得
るようになられることをお願いします。
マルコの福音書11章24節にも「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは
何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と語ら
れたのです。
ビリー・グラハム牧師が集会を導く時、ある人がこういう質問をしました。「牧師先生
は、将来について多くの説教をしたのですが、牧師先生、牧師先生の将来を知ってい
ますか。」それでビリー・グラハム牧師が答えました。「私は私の将来にどのようなこ
とが起きるか全く分かりません。」「それなのにどうして世界が、歴史がどのように
なるか将来のことをそのように大胆に語られるのですか。」「私は私の将来のことに
ついては分からなくても、将来を捉えておられるそのお方を知っているのです。神様
が私の将来を左右されるのですが、神様が私の御父であることを知っています。した
がって心配せず委ねています。」皆さん、私たちの将来のことは、神様の御手にある
ために、神様に委ねて信じてください。信じてください。信じ、夢を見てください。
将来は神様が保障してくださるのです。未来が皆さんの力で捉えることができるので
はないのです。神様が捉えてくださるということを知らなければならないのです。そ
して皆さんが信じ、心の中で考え、夢見たことを口でいつも肯定的に語ってください。
否定的に語るならば、国が滅び、個人も滅びます。韓国社会は、あまりにも否定的な
言葉を好みます。肯定的な言葉を語ろうとしないのです。テレビを見てください。ほ
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とんどの言葉は否定的な言葉なのです。私たちの日常生活もいつも個人、家庭、生活、
子ども、事業や隣人について否定的な言葉を語るのです。それで盗まれ、殺され、滅
ぼされるのです。何を見ても肯定的に見て、肯定的に語ることが、私たちに祝福をも
たらすのです。肯定的な言葉を声に出して数百回、数千回告白してください。
ヨシュア1章8節を見ると「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを
口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうた
めである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからで
ある。」
どのようにすれば、私の人生が繁栄し栄えるようになりますか。繁栄することを願わ
ない人がどこにいますか。栄えることを願わない人がどこにいますか。繁栄と栄える
ことは、信じて夢見て語ることについてくるのです。皆さんが信じ、それがなされる
ことを夢見、唇で語らなければならないのです。目には何も見えず、耳には何も聞こ
えず、手に掴むものがなくても、肯定的で積極的で、創造的に語らなければならない
のです。できるものなら、と言うのか。できないと言うならば、できないのです。信
じる者には、どんなことでもできるのです。私にできる。私にはできる。なせばなる。
事は成る。勝利する。成功する。積極的に肯定的に語る皆さんとなるようにお願いし
ます。韓国のことわざに「泣いてみて笑ってみると、笑うほうが良い。」という言葉
があります。否定的に語って良いことが何がありますか。悪魔に先手を与えて、盗み
殺し滅ぼすようにさせる道しかないのではないでしょうか。肯定的な言葉を語れば、
神様の聖霊がそれを通して来られて、暗闇に光を、死からいのちに、無秩序から秩序
に、切望から希望にしてくださる御業を注いでくださろうということですか。できま
す。変化が臨むのです。奇蹟が近づいてくるのです。たましいに幸いを得ているよう
にすべての点でも幸いを得、また健康でいのちを得て、豊かに得るようになるのです。
環境がいくら暗くて荒れ果てていても、それは環境にすぎないのです。私たちは環境
に引っ張られて生きるのではなく、神様と共に生きるのです。環境が私たちを助けて
生きるのではなく、神様が私たちを助けてくださって生きるのです。環境の手を掴ん
で生きるのではなく、神様の手を掴んで生きるのです。環境は風が吹き、波が打ちま
すが、風を正面から受けても波の上を歩いていくことができるのは、神様を見上げて
神様の御言葉を信じ、神様の恵みを夢見て、神様の御言葉を唇で告白していくならば、
皆さんの生活の中に驚くべき奇蹟の御業が現されるようになるのです。
<結論>
思い煩いと心配、不安と恐怖が台風のように吹き荒れる時、私たちの心は海の波のよ
うに荒れ狂い、手の施しようもないほど揺れます。その時、私たちを救ってくださる
神様を探し信じなければならないのです。信仰だけが皆さんの未来を開く神様の力に
なるのです。そしてその信仰は、イエスを信じる時、神様が各人にプレゼントとして
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くださるのです。皆さんは、全てがからし種ほどの信仰を持っているのです。それだ
けで充分です。それがあれば、桑の木も根こそぎ海の中に植わり、大きな山も退くの
です。奇蹟が起きるのです。神様の御業が現れるのです。皆さんは敗北者ではありま
せん。退く者ではありません。勝利者であり、栄光を勝ち取る神様の勇士たちなので
す。皆さんが持っているからし種ほどの信仰は、ダビデが手にした石投げの石なので
す。ゴリアテがいくら背が高く、青銅のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろい
をつけ、足には青銅のすね当てを付けていても、ダビデの石投げの石一つで倒れたの
です。環境がいくらぞっとして恐ろしくても、石投げ石ほどのからし種の信仰の前に
倒れるのです。続けて言ってください。信じればできる。私は信仰を持っている。信
じます。
<祈り>
天にまします我が父なる神様、思い煩いと心配、不安と恐怖が絶えず私たちに打ち寄
せてくるのです。これを防備することができる道は、神様を見上げて信じる道しかな
いのです。信仰で思い煩いと心配、不安と恐怖の波を退けて、風を退けて、その上を
踏んで渡って行く私たちとなるように助けてくださり、溺れて彷徨う私たちにならな
いようにしてください。神様が私たちを暗闇の勢力から救い出し、その愛の御子の国
に移してくださったことを感謝します。救われました。聖霊様を迎え入れています。
信仰を持っています。御言葉をプレゼントとしていただきました。信じます。肯定的
に考えます。夢見ます。肯定的に語ります。私たちを捉えてくださり、私たちの内に
御働きくださって奇蹟を行ってください。イエス様の御名でお祈りいたします。アー
メン
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