「アフガニスタン 悲しみの肖像画: 911犠牲者の家族と米国

ホ ゚ ー ト レ イ ト
翻訳『アフガン悲しみの肖像画』解説
1
はじめに
2
「ピースフル・トゥモローズ」との出会い
3
なぜ『アフガン悲しみの肖像画』が必要だったのか
4
アフガンの人々は米国によるタリバン打倒を望んでいたか
5
米国のアフガン介入は「人道的」目標によるものだったのか
6
ソ連のアフガン介入は米国によって仕組まれた罠だった!?
7
「アフガン犠牲者基金」をどう捉え、どう考えたらよいのか
8
タリバンはビンラディンの引き渡しを拒否したのか
9
タリバンと米国政府、蜜月と敵対の日々
10
おわりに
ホ ゚ ー ト レ イ ト
<追記>参考文献および映像資料について
1
はじめに
本 書 は 、サ ン フ ラ ン シ ス コ を 拠 点 と す る 国 際 的 な 人 権 団 体 G l o b a l E x c h a n g e と
9・11事 件 に よ っ て 肉 親 を 失 っ た 遺 族 団 体 Peaceful Tomorrows が 発 行 し た 小 冊 子
AFGHAN PORTRAITS OF GRIEF: The Civilian / Innocent Victims of U. S. Bombing
in Afghanistan を 翻 訳 し た も の で す 。
この翻訳は初め岩間さんが翻訳して寺島研究室ホームページ「別館」の「平和
研究翻訳博物館」に掲載されていたものです。ホームページに掲載する際にも時
間が許す限り寺島が訳文の推敲をおこないましたが、今回の出版に当たって改め
て英文テクストと照合して訳文を練り直しました。したがって、もし誤訳がある
とすれば、その責任は全て寺島にあります。
2
「ピースフル・トゥモローズ」との出会い
と こ ろ で 、 こ の Peaceful Tomorrows に つ い て は 、 NHK BS-1 が 2002 年 12 月 22
日 (日 ) 22:00 - 23:30 に 、 ド キ ュ メ ン タ リ ー 『 ピ ー ス フ ル ・ ト ゥ モ ロ ー ズ : 9・11
テ ロ 、 戦 争 反 対 を 訴 え た 遺 族 た ち 』 を 放 映 し て 非 常 な 反 響 を 呼 び 、 NHK 総 合 テ レ
ビ で も 再 放 送 (2002/12/27 24:15-25:45) さ れ ま し た し 、 岩 波 書 店 か ら も 梶 原 寿
さ ん の 翻 訳 で『 わ れ ら の 悲 し み を 平 和 へ の 一 歩 に : 9・11 犠 牲 者 家 族 の 記 録 ディビッ
ト ゙ ・ ホ ゚ ト ー テ ィ と ピ ー ス フ ル ・ ト ゥ モ ロ ー ズ 』が 出 版 さ れ て い ま す の で 、御 存 知 の か た
も多いのではないかと思います。
こ の ピ ー ス フ ル ・ ト ゥ モ ロ ー ズ 「 平 和 な 明 日 を 求 め る 会 」 は 、 9・ 11 事 件 で 犠
牲 に な っ た 家 族 が 、ブ ッ シ ュ 大 統 領 が 報 復 戦 争 を 叫 ぶ 中 、
「報復や戦争ではなく平
和 的 な 解 決 を 模 索 ・ 提 案 す る 」と い う 一 点 で 合 意 ・ 結 束 し て 結 成 し た 団 体 で す 。発
足 当 初 は わ ず か 40 人 程 度 の 会 員 し か い ま せ ん で し た が 、 現 在 は ( 2004 年 7 月 )
で は 100 家 族 以 上 に も な り 、 そ の 支 持 者 も 2000 人 を 超 え る 団 体 に な っ て い ま す 。
上 記 の N H K ド キ ュ メ ン タ リ ー は 、「 こ の 思 想 的 背 景 も , 年 齢 も 家 族 構 成 も 異
なる多様な人びとが,
『 非 国 民 』と い う 非 難 を あ び せ ら れ た り 、放 火 や 手 紙 ・ 電 話
による脅迫を受けたり、困難な状況下で,時に迷い,時に論争し,また資金難に
あ え ぎ な が ら も ,い か に グ ル ー プ を 結 成 し ,ど の よ う な 活 動 を し て い っ た か 」,そ
の最初の 1 年半の試行錯誤を克明に綴った感動と希望のドキュメンタリーでした。
( ち な み に 、 こ の 作 品 は 「 第 29 回 放 送 文 化 基 金 、 テ レ ビ ド キ ュ メ ン タ リ ー 番
組 部 門 、 本 賞 」 を 受 賞 し て い ま す 。)
私はこのドキュメンタリーを総合学習や異文化理解(国際理解教育)の授業で
紹介していたのですが、そうこうしているうちに、岩間さんから「東京でピース
フル・トゥモローズの共同代表ポトーティさんの講演があるそうですから行きま
せ ん か 」と い う 誘 い を 受 け ま し た 。そ の 講 演 会 は 、2003 年 11 月 28 日 に 日 本 教 育
会 館 一 橋 ホ ー ル で 「 平 和 な 明 日 を ! ( P e a c e f u l T o m o r r o w s ! ): 北 東 ア ジ ア に 真 実 ・
和 解 ・ 平 和 を 」と 題 し て 開 催 さ れ た の で す が 、そ こ で 初 め て 梶 原 寿 さ ん に お 会 い し
たのでした。
私とピースフル・トゥモローズの関係はここで終わったのかと思っていたら、
また思いもかけない出会いが舞い込んできたのでした。というのは、岩間さんの
御苦労で明石書店から翻訳出版の出版が決まっただけでなく、上記の梶原さんか
ら「下記のようなスケジュールでピースフル・トゥモローズの一員を招いてコン
サートを開く企画を立てたのだが広島コンサートが急に開けなくなったので岐阜
市または岐阜大でコンサートを開いていただけないか」という依頼でした。
6 月 2 9 日 ( 火 )・ ・ ・ 東 京 コ ン サ ー ト ( ル ー テ ル 市 谷 セ ン タ ー )、
7 月 1 日 ( 木 )・ ・ ・ 中 部 学 院 大 学 コ ン サ ー ト ( 昼 間 )、
7 月 1 日 ( 木 )・ ・ ・ 名 古 屋 コ ン サ ー ト ( 夜 、 名 古 屋 Y W C A )、
7月2日、3日、4日の一日・・・広島コンサート、
7月5日・・・東京大学トークとコンサート
実を言うと梶原先生とは東京でお会いしたあと、もう一度お話しをする機会が
ありました。というのは名古屋アメリカ研究会の定例会が南山大学で開かれ、そ
こ で 梶 原 先 生 が 翻 訳 書『 わ れ ら の 悲 し み を 平 和 へ の 一 歩 に : 9・11 犠 牲 者 家 族 の 記
録 テ ゙ ィ ヒ ゙ ッ ト ゙ ・ ホ ゚ ト ー テ ィ と ピ ー ス フ ル ・ ト ゥ モ ロ ー ズ 』( 岩 波 書 店 ) を テ ー マ に 講 演 を さ
れるというので岩間先生と一緒に参加させてもらったからです。その際、ピース
フ ル・ト ゥ モ ロ ー ズ に つ い て だ け で な く 、
「 解 放 の 神 学 」な ど に つ い て も い ろ い ろ
質問させていただきました。
というのは、私はキング牧師の演説を教材にして講義・演習を組み立てていた
時期があり、そのころ調べた文献にキング研究者としての梶原先生のお名前があ
ったことを記憶していました。
( し か し 恥 ず か し い こ と に 、そ の 梶 原 先 生 が 隣 の 愛
知県在住であることを、ポトーティさんの講演を聞くために東京へ行くまで全く
知 り ま せ ん で し た 。)ま た チ ョ ム ス キ ー の 翻 訳 を 通 じ て「 解 放 の 神 学 」が 米 国 に よ
る 中 南 米 の 干 渉・侵 略 の 防 波 堤 に な っ て い る こ と を 知 っ て い ま し た の で 、
「解放の
神学」研究者としての梶原先生から、その方面のお話しもお聞きできるものと思
って出かけたのでした。
南 山 大 学 で は 、『 わ れ ら の 悲 し み を 平 和 へ の 一 歩 に 』 を 翻 訳 す る に 至 っ た 動 機
や 経 過 が 説 明 さ れ た あ と 、私 が 最 近 、講 義 で 使 っ た ド キ ュ メ ン タ リ ー ・ ビ デ オ『 ピ
ー ス フ ル ・ ト ゥ モ ロ ー ズ - 9・ 11 テ ロ 戦 争 反 対 を 訴 え た 遺 族 た ち 』 も 最 初 の 30
分 ほ ど が 紹 介 さ れ ま し た 。そ の 後 、休 憩 を は さ ん で 質 疑 応 答 に な り ま し た 。私 は 、
そ の 休 憩 時 間 に 拙 訳『 チ ョ ム ス キ ー 21 世 紀 の 帝 国 を 語 る 』(明 石 書 店 )を 梶 原 先 生
に謹呈し、質疑応答の時間でも色々なことを教えていただきました。私に突然の
電話があったのは、以上の経緯があったからだと思っています。
しかし、残念だったのは、梶原先生が岐阜公演として希望された 7 月2∼4日
は、既に私が国際平和学会に参加するため、日本を出ようとする日と全く重なっ
ていたことでした。そこで直ぐにお断りしようと思ったのですが、しかし念のた
め岩間さんの意向を訊ねてみようと思い立ちました。すると幸運なことに、ピア
ノの指導者でもあり演奏家を招いて何度もコンサートを企画したことのある岩間
さんの奥さんから「取り組んでもよい」との返事をいただきました。
こうして、クリスティナ・オルセン(および夫君のジョナサン・タインズ)の
岐阜公演が 7 月 2 日に実現したのでした。当日の講演に向けて、不在の私に代わ
ってセミナーの学生が舞台背景の横断幕や映像投射だけでなくチケット販売など
で活躍してくれました。通訳も私の講義を受けていたアメリカ帰りの学生が引き
受けてくれました。おかげでコンサートは盛況・好評のうちに終わったようで、
岩間さん御夫妻や学生たちにはただ感謝あるのみです。
学生たちは、講義のドキュメンタリー・ビデオで見た人物に直接、会えたこと
が感激だったようで、
「 こ の コ ン サ ー ト は 先 生 と 一 緒 に 参 加 し た か っ た 」と 言 っ て
くれて、思わず胸にこみ上げるものを感じました。私事になりますが、拙訳『チ
ョ ム ス キ ー 21 世 紀 の 帝 国 を 語 る 』の 下 訳 を し て い た だ い た だ け で な く 、出 版 に 至
までの細かな労を取っていただいたのも岩間さんでした。つくづく人間の出会い
の不思議さ・有り難さを感じています。
3
ホ ゚ ー ト レ イ ト
なぜ『アフガン悲しみの肖像画』が必要だったのか
さて以上で私とピースフル・トゥモローズの私的なかかわりを終え、以下でピ
ホ ゚ ー ト レ イ ト
ースフル・トゥモローズと『アフガン悲しみの肖像画』について若干の解説をし
ておきたいと思います。
本 書「 序 章 」に 書 い て あ る よ う に 、9 1 1 事 件 の 犠 牲 者 と そ の 家 族 は 世 界 中 の 人 々
から多くの同情と支援を受けました。数々の新聞特集、テレビ・ラジオの特別番
組、写真のコレクション、映像のドキュメンタリーが、その犠牲者と生存者の人
柄や人間性を描いてきました。とりわけ『ニューヨークタイムズ』の1年間も続
いた「悲しみの自画像」シリーズは、特に感動的なものでした。
これらの企画は犠牲者数千人の顔や声を描写することによって、一人一人の命
の 貴 さ を 訴 え 、そ の 攻 撃 の 恐 ろ し さ を 強 調 す る の に 役 立 ち ま し た 。こ れ ら の 特 集 、
特別番組、写真の展示、映像ドキュメンタリーを通じて、犠牲が実感を持つもの
となり、世界は共感をもってこの悲劇は受け止め、失われた命のそれぞれに対し
て深い敬意が払われました。
しかし、それとは著しく対照的に、米国主導の軍事作戦で命を失ったアフガニ
スタンの民間人は、ブッシュ政権によって実質的に認知されることはなく、また
米国のメディアもほとんど注目することはありませんでした。まれにそれについ
て 述 べ ら れ る こ と が あ っ て も 、そ れ ら の 男 女 や 子 ど も た ち は し ば し ば 集 合 的 に「 二
次的被害」として語られるだけでした。
それは彼らの人間性を否定する非人間的な用語です。その用語を繰り返して使
うことは、アフガニスタン人を人間として認めることを拒否するものです。だか
らこそ、ピースフル・トゥモローズの会員は「私たち遺族の名を利用して復讐戦
争に踏み切ることを止めてください」とアフガニスタン攻撃の遙か以前からブッ
シュ政権に対して強い抗議の意思表示をおこなってきたのでした。
し か し 御 承 知 の よ う に ブ ッ シ ュ 政 権 は 上 記 の よ う な 要 求 を 無 視 し て 2001年 10
月 7 日 、遂 に ア フ ガ ニ ス タ ン へ の 攻 撃 を 開 始 し た の で し た 。1 0 月 か ら 1 2 月 半 ば ま で 、
米 国 と そ の 同 盟 国 の 飛 行 機 は 24時 間 体 制 で ア フ ガ ニ ス タ ン 上 空 を 飛 び 、 数 百 の 場
所を空爆しました。ほとんどの米国メディアは爆撃を落ち度のない精巧な武器の
使用として爆撃作戦を描いていました。
しかし軍事拠点だけが標的とされたはずなのに数多くの民間人集落や建物が
爆 撃 さ れ て い ま す 。と こ ろ が 、9 1 1 事 件 の 遺 族 に 対 し て は 、一 桁 に 至 る ま で 死 者 数
を発表しているのに、この爆撃によるアフガニスタン民間人の死傷者数がどれ位
の 数 に な る の か 、米 国 政 府 は 全 く 数 え よ う と し ま せ ん で し た し 、9 1 1 事 件 の 遺 族 一
人一人に対してあれほどの同情を寄せた米国メディアも、アフガニスタンの犠牲
者に対してはほとんど何の関心を示しませんでした。
ち な み に W T C ( ワ ー ル ド ・ ト レ ー ド ・ セ ン タ ー ) の 死 者 数 は 、 2841人 ( 2002
年 2月 12日 )と な っ て い ま す 。他 方 、ア フ ガ ニ ス タ ン の 死 者 数 に つ い て は 、ニ ュ ー
ハ ン プ シ ャ ー 大 学 の ヘ ロ ル ド 教 授 は ガ ー デ ィ ア ン 、タ イ ム 、ワ シ ン ト ン・ポ ス ト 、
ニ ュ ー ヨ ー ク ・ タ イ ム ズ な ど 各 紙 で 報 道 さ れ て い る も の を 詳 細 に 研 究 し 、 2001年
12月 初 め に 、 12月 6日 ま で の 民 間 人 の 最 低 死 者 数 を 3767人 と 発 表 し ま し た 。
[出 典 、 http://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/2003annual/topix1-2.pdf]
爆撃で他に多くの死者が出ているにもかかわらず、ここに報告されている数字
はあくまで報道関係者が確認したものに限られています。一家が全滅し、しかも
目 撃 者 が い な い 場 合 は 、報 道 関 係 者 も 確 認 し よ う が な い た め 、
「 犠 牲 者 多 数 」と の
み記載され、ヘロルド教授の統計から排除されています。これが「最低死者数」
とする理由です。
ヘ ロ ル ド 教 授 は 、 2002年 3月 に な っ て 、 重 複 を 排 し た 最 新 の 研 究 に 基 づ き 、 こ
の 数 字 を 3000− 3400と 修 正 し ま し た が 、 こ の 最 低 死 者 数 だ け で も W T C の 死 者 数
をはるかに越えています。この現状に心を痛め、国際的人権組織「グローバル・
エ ク ス チ ェ ン ジ 」は 、2 0 0 2 年 1 月 に 画 期 的 な 代 表 団 を ア フ ガ ニ ス タ ン へ 送 る こ と に
決めたのでした。
と い う の は「 グ ロ ー バ ル ・ エ ク ス チ ェ ン ジ 」は 従 来 か ら「 リ ア リ テ ィ ・ ツ ア ー 」
という「現実理解の旅」を企画し、参加者を中米のコーヒー栽培者と一緒に生活
させたり、アパルトヘイトを終わらせることに成功した南アの民衆と出会わせた
り、あるいは一片の土地のために闘っているメキシコの農民に出会わせたり、し
てきたからです。
要するに、「グローバル・エクスチェンジ」は「人々を自分の狭い枠の中から
連 れ 出 し 、他 の 世 界 に 住 む 人 々 の 存 在 を 知 ら せ 」「 人 か ら 人 へ の 絆 を つ く り 出 す 」
ことに献身してきたので、今度はアフガニスタンに参加者を送り出す旅を企画し
ようとしたのでした。そして、その白羽の矢が「ピースフル・トゥモローズ」に
当てられたというわけです。
こ の「 ピ ー ス フ ル ・ ト ゥ モ ロ ー ズ 」の 調 査 に よ っ て 、米 国 主 導 の 爆 撃 作 戦 で 2 0 0 1
年 1 0 月 7 日 か ら 2 0 0 2 年 の 1 月 ま で に 、少 な く と も 8 2 4 人 の ア フ ガ ニ ス タ ン の 民 間 人 が
殺害されたことが明らかにされました。しかし、この数字が小さすぎることは明
らかです。というのは、代表団は継続する爆撃地、タリバンの影響力が強く残っ
ている地域には行けなかったからです。
実 を い う と 、 私 ( 寺 島 ) 自 身 も 2003年 8月 21− 26日 の 約 1週 間 、 国 際 理 解 教 育 学
会主催のスタディ・ツアーに参加して、アフガニスタンを訪ねたことがあるので
すが、学校修復などの復興事業を見に行こうとしても、訪ねる地域の安全情報を
いちいち電話で確認してから出かけるという状況でした。タリバン政権が崩壊し
て2年近くになろうとしている時ですら、このような状態でしたから、まして代
表団が各地を訪れたときは、もっと危険だったはずです。
ですから、「ピースフル・トゥモローズ」代表団の使命は、アフガニスタン全
体 の 死 者 数 を 正 確 に 突 き 止 め る こ と で は な く 、8 2 4 人 の 民 間 人 の 死 亡 状 況 、家 族 に
与えた悲劇的な結末、犠牲者一人一人が生きていたときの喜びや夢・希望の物語
を 具 体 的 に 生 き 生 き と 伝 え る こ と に よ っ て 、 世 界 が 9.11犠 牲 者 の 家 族 に 差 し 伸 べ
た同情と援助がアフガニスタンの犠牲者にも差し伸べられるよう、その環境作り
をすることだったと思います。
本書「序論」でも述べられているように、「私たちが愛する者の死を経験する
時、悲しみは国籍や言語や人種や民族を区別しません。両親、子どもたち、夫た
ち、妻たち、兄弟姉妹、友人たちが、ニューヨークに住んでいようがカブールに
住んでいようが、彼らは苦しみ悲しむのです。この報告に詳細に語られている物
語は、罪のない人々の生命を敬い、生き残った人々の苦しみを受け入れる誠実な
願い・努力として提供されています。」そして、この意図は本書によって十分に
達せられているのではないでしょうか。
4
アフガンの人々は米国によるタリバン打倒を望んでいたか
しかし、この報告の「まえがき」や「序論」で気になる点が幾つかあります。
というのは、「アフガニスタンの人々は米国がタリバン政権を倒したことを喜ん
でいる」という記述からも分かるように、米国がアフガニスタンに軍事攻撃を加
えてタリバン政権を打倒したことを肯定的にとらえているように読み取れるから
で す 。も ち ろ ん タ リ バ ン 政 権 の 打 倒 を 喜 ん だ 人 た ち が い た こ と は 事 実 で し ょ う が 、
それを大多数のアフガニスタン人が望んでいたかは疑問だからです。
チ ョ ム ス キ ー は ス テ ィ ー ブ ン ・ R ・ シ ャ ロ ー ム と の イ ン タ ビ ュ ー( 2002 年 1 月
9で、
「 ア フ ガ ニ ス タ ン 人 の 多 く は 、爆 撃 と い う 方 法 で は な く 内 部 か ら の 力 で タ リ
バン政権を倒したいと望んでいた」ことを次のように説明しています。
それはさて置き、タリバン政権の排除に関するアフガン人たちの提案で実現
可能なものがあったのでしょうか。第一に問題にしなければならないのは、そ
のような提案はRAWA(アフガニスタン女性革命協会)だけではなかったこ
とです。
同じような提案は、米国のお気に入りである部族長アブドゥル・ハクによっ
てもなされました。彼ですら爆撃を非難し、それはタリバン政権を内側から崩
していく自分や他の人々の労力に害を成すものと主張し、米国は武力で世界を
動かしているのだと見せつけるためだけに爆撃をおこなったのだと告発しまし
た。
さらにもっと衝撃的なのは、去年の10月に行われた千人ものアフガニスタ
ン部族長会議(ロヤジルガ)でも同様の立場が承認されたことでした。その中
にはアフガニスタン国内から参加したものも亡命先から参加したものもいまし
た。
しかし、それは、その時たった一度だけしか報道されませんでした。ニュー
ヨ ー ク ・ タ イ ム ズ は こ の 会 議 を 、「 部 族 の 長 老 た ち や 、 イ ス ラ ム 学 者 た ち や 、 御
しがたい政治家たちや、もとゲリラ指揮官たちの間の、めったに見ることの無
い一体感を表していた」と評しました。
た し か に 一 体 感 の あ っ た 事 柄 も あ り ま し た し 、そ う で な い 事 柄 も あ り ま し た 。
しかし彼らは爆撃を非難することでは全員一致だったのです。そして会議の第
4週に入り、アフガニスタン女性革命協会やアブドゥル・ハクが提案したよう
な、タリバンを権力の座から引きおろす爆撃以外の方法を求めることを決めた
のです。
同じような状況判断は、パンカジ・ミシュラのようなアフガニスタンの専門
家 に よ っ て も 提 言 さ れ て い ま す 。 彼 は ニ ュ ー ヨ ー ク ・ リ ビ ュ ー 紙 ( 2002 年 1 月
1 7 日 、 記 事 を 書 い た の は 2001 年 12 月 20 日 ) で 、 過 去 の 出 来 事 を 振 り 返 っ て
上 記 と 同 じ よ う な 考 え を 述 べ て い ま す 。 [翻 訳 は 寺 島 に よ る 。 全 文 は
http://terasima.gooside.com/interview02jan.html を 参 照 。 ]
要するに、アフガニスタンの多くの指導者・知識人は米軍による爆撃を求めて
はいなかったのです。なぜなら爆撃が始まれば大量の難民が出ることは初めから
予想されていたことですし、その難民の多くが極寒の冬を迎えて餓死・凍死する
ことが予想されていたからです。また爆撃によって民間人に大量の死傷者が出る
こともコソボ紛争や湾岸戦争で証明済みでした。そして事態は予想どおりの進行
となりました。以下はその一例です。
1 週 間 以 上 前 に 配 給 さ れ た 食 糧 の 最 後 の 残 り を 食 べ な が ら 、5 人 の 子 ど も を つ れ
た ビ ビ・ガ ル は 、
「 空 が 私 の 屋 根 で 、地 面 が 私 の 床 だ 」と 述 べ た 。金 曜 日 の 朝 ( 1 2
月 7 日 )ビ ビ が 起 き る と 、 2 歳 に な る 息 子 の タ ヒ ル が 、 西 ア フ ガ ニ ス タ ン の 雨 の
中で冷たくこわばり、凍死していた。4 日後、文明のためのブッシュの戦争は、
カンダハル市の「解放」を祝った。そして、カンダハルの運命は、とびぬけて
悪徳の腐敗した将軍でおまけに小児愛者であるガル・アガの手に再びゆだねら
れることになったのである。そのとおり、新生アフガニスタンはアメリカの爆
弾とミサイルのピンセットに挟まれて生まれたのだ。何年もの間、アフガン市
民は、しばしば難民となったのだが、寒さと貧困と飢えと病によって無言で死
んでいった。結核が、飢えで弱った人々の間で広がっている。ペシャワールの
南 に あ る 広 大 な ジ ャ ロ ザ イ ・ キ ャ ン プ で は 、「 食 料 も な く 、 テ ン ト も な い 。 た だ
う ね る よ う な ビ ニ ー ル シ ー ト の 波 が あ る だ け だ 」。2 0 0 1 年 夏 に は 、ハ ザ ラ ジ ャ ー
トのやせた中央山岳地帯の数万の人々が、生き残るために草や葉を食べ、食糧
に昆虫さえ混ぜていると援助機関によって報告された。バドギス州周辺の山岳
地域は、とりわけ打撃が大きい。村々の半数は空っぽである。シア・サン村で
は最後の動物も食糧のために売り払われ、今では、家族は、食糧のために自分
の娘達を売ることに頼っている。今では、子どもたちは交換価値をもつものと
なっている。
上 記 の 記 述 は 、 先 に 紹 介 し た ヘ ロ ル ド 教 授 が 、 ホ ー ム ペ ー ジ CURSORで 公 開 し た
論 文「 瓦 礫 を つ く り 出 す も の : ア メ リ カ の 爆 撃 と ア フ ガ ン 難 民 の 危 機 」の 冒 頭 文 で
す ( 翻 訳 は 『 資 料 集 』、 原 文 は 、 h t t p : / / w w w . c u r s o r . o r g / s t o r i e s / r u b b l e . h t m )。 ア フ ガ ニ
ス タ ン で は 1998年 か ら 酷 い 干 魃 が 続 き 人 々 は 飢 饉 で 苦 し ん で い ま し た 。 こ の 悲 惨
な 様 子 は 中 村 哲『 医 者 井 戸 を 掘 る ― ア フ ガ ン 旱 魃 と の 闘 い 』
( 石 風 社 、2 0 0 1 )、
『医
者 よ 信 念 は い ら な い ま ず 命 を 救 え ! ― ア フ ガ ニ ス タ ン で 井 戸 を 掘 る 』( 羊 土 社 、
2003) に 詳 述 さ れ て い ま す が 、 そ こ へ さ ら に 米 軍 の 爆 撃 が 降 っ て 湧 い た の で す 。
ですから、民衆がタリバンの悪政に苦しんでいたからといって、米軍による爆
撃を望んでいるものは、アフガニスタンには誰もいなかったと言って良いでしょ
う 。 ま た パ キ ス タ ン と ア フ ガ ニ ス タ ン で 20年 近 く も 医 療 活 動 を 続 け て き た 中 村 医
師の眼によると、それまでの汚職・腐敗にまみれた政権に比べれば、タリバン政
権 は 最 も 腐 敗 臭 の な い 政 権 だ っ た よ う で す 。 と い う の は 、 1979年 以 来 の ア フ ガ ニ
スタン戦争からソ連軍が撤退したあとも、軍閥同士が戦乱に明け暮れ、カブール
を制した政府も、汚職腐敗にまみれていたからです。
パキスタンのイスラム神学校から彗星のごとく登場し、大した武器も持たない
神学生集団(タリバン)が、軍閥を相手にして、瞬く間にアフガニスタンの大半
を制するようになったのは、パキスタン情報部による裏からの支えがあったとは
いえ、戦乱と腐敗政治に飽き飽きしていた民衆の支持があったからこそ、可能だ
ったと言えるわけです。タリバンによる人権侵害が広く宣伝されていますが、彼
らは古くから伝えられてきたイスラム法を忠実に遵守しただけであって、パキス
タンを支配してきた軍閥も、タリバンとほとんど変わらない統治スタイルをとっ
ていたことは、タリバン政府打倒を強く主張してきたRAWA(アフガニスタン
女性革命協会)も認めているとおりです。
それどころか、タリバン政権が打倒され、新しくカルザイ政権が誕生したにも
かかわらず、以前と同じように、軍閥が割拠し各地に内乱が雛発しているだけで
なく、せっかくタリバン政府が全面禁止した麻薬栽培も復活しつつあると言われ
ています。またカルザイ政権になったからといって、女性差別・人権侵害が改善
さ れ た わ け で は あ り ま せ ん 。こ れ で は 、
「 タ リ バ ン 政 権 時 代 が 、ま だ 治 安 も 安 定 し
ていた分だけマシであった」という意見が民衆(とりわけ多数派であるにもかか
わらず被支配者に転じたパシュトゥン人)の間から生まれてくるのも無理からぬ
ことでしょう。この状況を上記のRAWA(アフガニスタン女性革命協会)は次
のように述べています。
原 理 主 義 者 た ち を 排 除 し な け れ ば 人 権 擁 護 は 夢 、幻 に す ぎ な い 。こ の 一 年 間 、
世界はタリバンが崩壊し、反タリバン勢力、宗教的圧政を行ったタリバン政府
に反対する勢力がタリバンに取って代わる様を見てきた。
し か し 米 国 と そ の 同 盟 国 が タ リ バ ン よ り 血 生 臭 い 者 た ち 、人 権 に 敵 対 す る「 北
部同盟」の破壊者たちにアフガニスタンの権力を譲ってしまったのを見た時、
自由を愛するわれわれと世界中の人々のあらゆる希望と願望は、幻と絶望に変
わってしまった。
北 部 同 盟 は 1992 年 か ら 96 年 に か け て そ の 能 力 を 実 証 し て い る 。 ア フ ガ ニ ス
タン史上最も暗黒であったこの時代に北部同盟の聖戦士ギャングたちが行った
ことは残虐・悪行などという表現ではまったく不十分である。その悪行はロシ
ア (ソ 連 )の 侵 略 者 と 傀 儡 政 権 の 手 下 た ち の 時 代 、 爆 撃 ・ 血 塗 ら れ た 大 量 虐 殺 ・
息詰まる時代を人々に忘れさせてしまうようなものであった。
し た が っ て こ の 一 年 間 に こ の 国 に お い て 安 定 や 戦 争 の 終 結 、治 安 や 経 済 . 生 活
の再建
といった面で何らめざましい改善が見られなかったとしても驚くに値しない。
それどころか反対に国際社会も、職業的犯罪者集団が政府内で支配的な位置を
占めていること、それによって恐るべき人権侵害や女性への攻撃がおこなわれ
ていること、アフガニスタン中で今や宗教的民族的な違いに沿って亀裂が広が
り、軍閥による支配と宗教的圧政の気味の悪い影が依然として広がっている事
実に気づきつつある。
こ れ は 、R A W A が 2 0 0 2 年 1 2 月 1 0 日 の 国 際 人 権 デ ー に 発 し た 声 明 の 一 部 で す(『 ア
フ ガ ニ ス タ ン 女 性 の 闘 い 』 耕 文 社 、 2 0 0 3 : 1 2 7 − 8 )。 こ の 状 況 は 2 0 0 4 年 7 月 の 現
在でも基本的に変わってはいません。それどころか悪くなってすらいると中村哲
さんはNHKのインタビューで述べています。このインタビューは感動的なドキ
ュ メ ン タ リ ー 『 戦 乱 と 干 魃 の 大 地 か ら : 医 師 ・ 中 村 哲 、 ア フ ガ ニ ス タ ン の 20 年 』
( 総 合 テ レ ビ 7 月 1 7 日 放 映 )の 中 で お こ な わ れ た も の で す が 、そ の 中 で 中 村 さ ん
は「今はソ連撤退後の内乱状態に逆戻りしてしまった。日本で言えば徳川幕府以
前の戦国時代だ。麻薬栽培も全面復活し、今や世界の麻薬の7割がアフガニスタ
ン で 生 産 さ れ る に 至 っ て い る 。」 と 述 べ て い ま す 。
つまり、ピースフル・トゥモローズは本 書 の中 で「アフガニスタンの民 衆 はタリバン
打 倒 を喜 んでいる。」と言 っていますが、それを喜 んでいるのはカルザイ政 権 の実
権 を握 っている北 部 同 盟 、とりわけ将 軍 マスードを産 み出 し、カルザイ政 権 の要 職
をにぎっているタジク人 の人 たちだけではないかと思 います。私 がカブール政 府 の
女 性 省 や文 部 省 を訪 れたときも、部 屋 には必 ず故 マスード将 軍 の写 真 が飾 ってあ
りましたし、街 にも空 港 にも検 問 所 にも巨 大 なマスード将 軍 の写 真 が必 ず掲 げら
れていました。そしてタリバンの拠 点 がアフガン南 部 のカンダハルだったこと、そこは
あ
パシュトゥン人 の居 住 区 だったことで、今 では多 くのパシュトゥン人 が迫 害 に遭 って
いると言 います。
5
米国のアフガン介入は「人道的」目標によるものだったのか
もうひとつ本書で気になるのは、最後の章「米国政策立案者への提案」で、冒
頭提案として「将来的にどうすれば同じような犠牲者を避けることができるかを
調査すべきである」とある点です。この言い方ですと、将来また米国が他国に軍
事介入することを前提とした提案にも読み取れるからです。
しかし私たちがアフガニスタン援助を議論する際に注意すべきは、「今後の課
題として民間人犠牲者をいかに少なくするか」という方法論に問題を矮小化して
はならないという点だと思います。たとえ他国への軍事介入が「人道的」なもの
であったとしても、軍事介入そのものが多くの民間人を犠牲者と巻き込んでしま
うことは以上に見てきたとおりだからです。
そもそも、その国の政権を打ち立てるのも打倒するのもその国の人々の権利で
あり、例えば外国である米国がタリバンは非民主的だからといって、勝手に武力
で打倒することなど許されないことです。国際問題だから一見分かりにくいので
すが、たとえば私が家庭内では暴君であり、いつも妻や子どもに暴力をふるって
いるとします。これを見かねて隣の親父が家に乗り込んできて、私を殴り倒し、
けがをさせたり殺したりしたとします。
これは果たして法的に許されることでしょうか。また、これは果たして家族が
望んでいたことでしょうか。もし妻がどうしても夫の仕打ちに我慢できなければ
家庭裁判所など訴えるところは幾らでもありますし、どうしても我慢できなけれ
ば離婚という方法もあります。妻にしてみれば、「けがをさせてくれとか殺して
くれとかを頼んだ覚えはない」と言うかもしれません。しかし米国がイラクやア
フガニスタンで選んだ方法は、そのようなやり方だったのです。
もう一つ別の身近な例をあげてみます。たとえば、「江戸幕府のやっているこ
とが封建的非民主的だからという理由で米国が巨大軍艦を引き連れ日本に乗り込
んできて、封建君主(徳川慶喜)が退位を拒否すると武力で日本を制圧した」と
します。アフガニスタンは江戸幕府以前の群雄割拠する戦国時代と同じ状況です
から、信長が天下統一を目指して敵対者を次々と殺戮していったこと(比叡山焼
討など)を考えると、タリバンは信長に似ているとも考えられます。
[た だ し タ リ バ ン の 場 合 、 敵 は ほ と ん ど の 場 合 、 戦 わ ず し て 投 降 す る こ と が 多
かったといいますから、信長よりは殺戮度合いが少なかったと言えるかも知れま
せん。]
し か し 、こ の 織 田 信 長 や 徳 川 慶 喜 を「 独 裁 者 」「 封 建 的 非 民 主 的 」だ と 断 定 し 、
米国などの外国軍が乗り込んできて政権転覆を謀るという図式を考えれば、いか
に米国の行為が理不尽か良く分かると思います。明治維新の場合、幸いにも徳川
慶喜が自ら退位したので、薩長軍と幕府軍による国内の内乱状態が長引くことは
あ り ま せ ん で し た が 、 ア フ ガ ニ ス タ ン の 場 合 、 1979年 の ソ 連 軍 侵 攻 を 阻 止 す る と
いう名目で米国が介入し内乱が一層、拡大継続したのでした。
この間の事情をインドの著名な作家、アルダンディ・ロイは『ガーディアン』
2 0 0 1 年 9 月 2 9 日 号 に 寄 せ た 論 考 「“ 無 限 の 正 義 ” の 算 術 ( 2 ) 」 で 次 の よ う に 描 写 し
ています。少し長いのですが、説明に便利ですので引用させてもらいます。
1979年 に ソ 連 が ア フ ガ ニ ス タ ン に 侵 攻 し た 後 、 C I A と パ キ ス タ ン の 諜 報 機
関ISIは、CIAの歴史でも最大規模の秘密作戦を開始した。この作戦の目
的は、ソ連に抵抗するアフガン勢力を束ねて、抵抗活動をイスラムの聖戦ジハ
ードに拡大すること、そしてソ連内部のイスラム諸国を立ち上がらせ、ソ連の
共産主義体制に抵抗させ弱体化することにあった。
C I A は 長 年 の あ い だ 、 I S I を 通 じ て 、 40か 国 の イ ス ラ ム 諸 国 か ら 、 10万
人もの過激なムジャヒディン(聖戦士)たちを、アメリカの代理戦争を担う兵
士として集めてきた。この作成が開始された際には、アフガン戦争をソ連にと
ってのベトナム戦争にすることが目標とされていた。ムジャヒディンの下級兵
士たちは、自分たちの聖戦が実際はアメリカのために戦われていることを知ら
な か っ た 。( 皮 肉 な こ と に 、 ア メ リ カ も い ず れ 自 国 を 標 的 と し た 戦 争 の た め の 資
金 を 提 供 し て い た こ と を 知 ら な か っ た の だ が )。
し か し こ と は そ れ で は 終 わ ら な か っ た の で あ る 。 ソ 連 は 、 10年 間 の 過 酷 で 血
な ま ぐ さ い 戦 争 の 後 、 ア フ ガ ニ ス タ ン の 文 明 社 会 を 瓦 礫 に し て 、 1989年 に 撤 兵
した。そしてアフガニスタンでは内乱が猖獗を極めた。聖戦はチェチェンとコ
ソボに拡大し、いずれはカシミールにも拡がった。CIAは資金と兵器を注入
し続けたが、経費は巨額になり、ますます多額の資金が必要になった。
こ の 翻 訳 は 中 山 元 さ ん が 運 営 す る ホ ー ム ペ ー ジ『 哲 学 ク ロ ニ カ ル 』2 3 5 号( 2 0 0 1
年 12月 16日 ) に よ る も の で す が 、 ご 覧 の よ う に 、 C I A が パ キ ス タ ン の 情 報 組 織
ISIを通じてムジャヒディンと呼ばれる「聖戦士」を育て、それが後に「アル
カイダ」と呼ばれる組織の土台になったのでした。また彼らがタリバンと変わら
ぬイスラム原理主義者だったにもかかわらず、当時は米国によって「自由のため
に戦う」「聖戦士」と呼ばれていたこと、それを財政的に支えていたのがサウジ
アラビア王室であり、大富豪の息子ビンラディンだったことは今では良く知られ
ている事実です。
6
ソ連のアフガン介入は米国によって仕組まれた罠だった!?
しかし、ここでは述べられていないもう一つの事実があります。それは、ロイ
の論考では「ソ連がアフガニスタンに侵攻した後」にCIAが動き出したことに
なっていますが、
「 ア フ ガ ン 戦 争 を ソ 連 に と っ て の ベ ト ナ ム 戦 争 に す る 」こ と を 目
おび
標として、ソ連をアフガニスタンに誘き出したのは、実は米国自身だったという
ことです。それはカーター元大統領の国家安全保障問題特別担当補佐官だったジ
ノ ビ エ フ ・ ブ レ ジ ン ス キ ー が『 ラ ・ ヌ ー ヴ ェ ル ・ オ ブ ゼ ル ヴ ァ チ ュ ー ル 』紙( 仏 、
1998 年 1 月 15∼ 21 日 ) の イ ン タ ビ ュ ー に 答 え て 次 の よ う に 言 っ て い る こ と か ら
も明らかです。
ブレジンスキー:ええ。公式発表では、CIAのムジャヒディンへの資金援
助 を 開 始 し た の は 1980 年 、 つ ま り ソ 連 軍 が 1979 年 12 月 24 日 に ア フ ガ ニ ス タ
ンを侵略した後となっている。しかし、今まで極秘だったが、実際はまったく
逆だ。カーター大統領が、カブールのソ連寄りの政権への対抗勢力に秘密の資
金 援 助 を 行 う 指 令 に 始 め て サ イ ン し た の は 、1 9 7 9 年 7 月 3 日 の こ と だ 。そ の 日 、
わたしは大統領へ手紙を書いて、この資金援助はソ連の軍事介入を誘発するだ
ろうと説明した。
Q : ソ 連 の 軍 事 介 入 と い う リ ス ク を 犯 し て も 、こ の 秘 密 行 動 を 支 持 し た の で す
ね。もしかしたら、ソ連の戦争参入を自ら望んで、挑発したのでは?
ブ レ ジ ン ス キ ー : そ う い う 訳 で は な い で は な い 。我 々 は 、ソ 連 を 軍 事 介 入 に 追
い込んだのではない。軍事介入の確率が高まることを知りながら、そうしたに
過ぎない。
Q : ソ 連 が 、軍 事 介 入 は ア メ リ カ の ア フ ガ ニ ス タ ン へ の 秘 密 工 作 と 戦 う た め に
正当であると明言した時、だれもその言い分を信じなかった。しかし、それは
基 本 的 に 真 実 を 含 ん で い た の で す ね 。今 、何 か 後 悔 す る と こ ろ は な い の で す か ?
ブレジンスキー:何を後悔しろと?秘密作戦はすばらしいアイディアだった。
結果として、ソ連をアフガンの罠へと引き寄せたのだ。それを後悔しろと?ソ
連が公式に国境線を越えた日に、私はカーター大統領へ、こう手紙を書いた。
「 今 、 ソ 連 に 彼 ら の ベ ト ナ ム 戦 争 を 始 め さ せ る チ ャ ン ス を 得 ま し た 。」 事 実 、 そ
れ か ら ほ ぼ 1 0 年 に 渡 っ て 、モ ス ク ワ は 自 国 の 政 府 の 手 に 負 え な い 戦 争 を 遂 行 し
なければならなくなった。対立はソ連帝国を混乱におとしいれ、最終的に崩壊
をもたらした。
この翻訳は加藤哲郎氏(一橋大学)が運営するホームページ「イマジン」に載
せられていたもので、黒田真理子訳となっています。翻訳の元となった英文は
"Killing Hope: US Military and CIA Interventions Since World War II", "Rogue
State: A Guide to the World's Only Superpower" を 著 し た William Blum が フ
ランス語から翻訳したもので、上記の本の一部は、以下のサイトで読むことがで
き ま す 。 [http://members.aol.com/superogue/homepage.htm]
このブレジンスキーのインタビューから分かるように、ソ連が、軍事介入はア
メリカのアフガニスタンへの秘密工作と戦うために正当であると明言した時、当
時は誰もその言い分を信じなかったのですが、
「 イ ラ ン ・ コ ン ト ラ 事 件 」の よ う に
イラン・イラク戦争の当時、一方でフセインを支援してイランと戦わせながら他
方でイランに武器輸出をするという作戦が米国議会で暴露されている現在では、
誰もその信憑性を疑う人はいないのではないでしょうか。
こ の こ と を 裏 付 け る も う 一 つ の 事 実 と し て 、 NHK が 放 映 し た ド キ ュ メ ン タ リ ー
番 組 『 2 正 面 作 戦 ( ス パ イ ゲ ー ム 3 )』 が あ り ま す 。 こ の ド キ ュ メ ン タ リ ー で は 、
元 CIA 要 員 が 次 の 事 実 を 得 意 げ に 語 っ て い ま す 。
(1)アメリカがイギリスと協力してアフガン・ゲリラを育てたこと、ゲリラの
訓練はアフガンと地形がよく似たイギリスの地が選ばれ、彼らはそこで訓練を受
けたこと。
(2)その目的はソ連をアフガニスタンに引きずり込みベトナム戦争の二の舞を
ソ連に演じさせること、ソ連の勢力をアフガンに集中させ、その隙に東欧諸国の
反体制グループに反乱を起こさせること、ただし、反体制グループへの援助(資
金 そ の 他 ) が CIA か ら の も の で あ る こ と を さ と ら れ な い よ う に す る こ と
(3)ソ連を疲弊させるためには、アフガン・ゲリラにソ連軍に負けない程度の
武器と資金を援助すること、つまり、戦争を長引かせることだけを目的とする援
助だったこと。
この最後の点が最も重要だと私には思われます。米英のアフガン・ゲリラへの
援助は、彼らの戦いが正義だからではなく、ソ連を疲弊させることだけが目的だ
ったという点です。つまり、戦いが長引けば長引くほど米英にとっては「良い」
戦いなのです。だから、アフガン・ゲリラがソ連軍を簡単に打ち負かしても困る
し、ソ連軍に簡単に打ち負かされても困るのです。
要するにソ連が崩壊し東欧の社会主義体制転覆が成功すれば良いのであって、
米英にとってはアフガニスタンがどうなろうと知ったことではなかったのです。
アフガニスタンの兵士がどれだけ死のうが、民衆にどれだけの難民が生まれよう
が、彼らにとっては関心がなかったのです。そのことを上記の映像はよく示して
いました。また、だからこそソ連軍が撤退すると米国はアフガニスタンに全く関
心を失い、アフガニスタンが軍閥同士の長い内戦に突入していっても、米国はそ
れを放置したままだったのです。
こ う し て 、 9 月 11 日 の テ ロ 以 前 に も 、 300 万 人 の ア フ ガ ン 難 民 が 、 国 境 沿 い の
難民キャンプでテント暮らしをしていましたが、この難民キャンプで育った若者
の中から後のタリバンが育成されたことは先述のとおりです。先に紹介したアル
ダンディ・ロイによれば、CIAがアフガニスタンに介入する以前は、パキスタ
ン の 農 村 に は ご く 小 規 模 な ア ヘ ン 市 場 し か あ り ま せ ん で し た 。し か し 1 9 7 9 年 か ら
1 9 8 5 年 に か け て 、そ れ ま で い な か っ た ヘ ロ イ ン 中 毒 者 が 1 5 0 万 人 に も 膨 れ 上 が っ
ていました。
このような深刻な麻薬の広がりは、パキスタン情報部ISIがCIAの援助を
受けて、アフガニスタン全土に、数百のヘロイン工場を設立したからです。CI
Aが介入してから二年以内に、パキスタンとアフガニスタンの国境地帯は、世界
最大のヘロイン産地となり、アメリカの路上で売られるヘロインの最大の供給源
となりました。そして千億から二千億ドルもの年間収益は、ムジャヒディン兵士
の 訓 練 と 軍 備 の た め に 利 用 さ れ た の で し た( 上 記 の ロ イ に よ る )。と こ ろ が 、こ の
「 ア フ ガ ン ・ ト ラ ッ プ ( 罠 )」 を 許 可 し た カ ー タ ー が 「 人 権 大 統 領 」 と 呼 ば れ 、 ノ
ーベル平和賞を受けているのですから皮肉な話です。
これに反して、タリバンはイスラムの教えを忠実に実行する集団ですから酒も
麻薬も厳格に禁止しました。ところが主流メデイアの報道は、タリバン政権が麻
薬を大量に生産し、それを財源にしてテロを支援しているというのが一般的でし
た。そしてタリバン政権が打倒されてから再び麻薬栽培が復活し、パキスタンと
ア フ ガ ニ ス タ ン の 国 境 地 帯 は 、再 び 世 界 最 大 の ヘ ロ イ ン 産 地 と な っ て い る こ と は 、
既に紹介したNHKインタビューで、中村哲さんが述べているとおりです。つま
り、米国が軍事力でタリバン政権を崩壊させた後もアフガンの事態は一向に良く
なっていないのです。
ですから、ピースフル・トゥモローズが本書で米国がタリバン政権を倒したこ
とをアフガン民衆は歓迎していると述べていますが、多分これは大きな誤解に基
づくものです。これはピースフル・トゥモローズが調査に訪れた地域が、主とし
て北部同盟とりわけマスード派が米軍の援助を受けて治安を維持している行政区
に限られていたことと大きく関係しているものと思われます。しかしアフガニス
タ ン の 人 口 多 数 派 は タ リ バ ン を 産 み 出 し た パ シ ュ ト ゥ ン 人( 約 43% )で 、彼 ら が
国土面積の過半数を占めていますから、ピースフル・トゥモローズがアフガニス
タン民衆の真の声をきくことは難しかったのではないでしょうか。
[私 が ア フ ガ ニ ス タ ン を 訪 れ た と き も 訪 問 可 能 な 地 区 は マ ス ー ド 派 が 支 配 す る タ
ジ ク 人 ( 約 24% ) の 地 域 に 限 ら れ て い ま し た 。 ]
7
「アフガン犠牲者基金」をどう捉え、どう考えたらよいのか
さて本書を著したピースフル・トゥモローズの見解について若干の疑問とその
理由を述べてきたのですが、もうひとつだけ本書について解説しておきたいこと
が あ り ま す 。そ れ は 彼 ら が「 米 国 政 策 立 案 者 へ の 提 案 」の 2 番 目 に 提 起 し て い る「 ア
フガニスタン犠牲者基金」についてです。
この基金について彼らは、「米国政府は米国主導の爆撃で危害を加えられた民
間人を援助するため、『アフガニスタン犠牲者基金』をつくるべきである。生存
者の必要を満たすためには、2000万ドルの基金でおそらく十分だろう。」と
提案しています。
このような提案をする根拠のひとつは、本書「結論」によれば、このような援
助には先例があるだけでなく、
「 2002年 6 月 に グ ロ ー バ ル・エ ク ス チ ェ ン ジ が 委 託
し 、ズ グ ビ ー ・ イ ン タ ー ナ シ ョ ナ ル Zogby International に よ っ て 行 わ れ た 世 論
調 査 の 結 果 で は 、 69% の 米 国 人 が 戦 争 中 に 傷 つ け ら れ た ア フ ガ ニ ス タ ン 民 間 人 に
人道的支援をすべきだと考えている。」という点でした。
しかし当然のことながらブッシュ政権はこの提案を拒否しました。それにたい
して彼らは「結論」で次のように反論しています。
こ の 政 府 の 抵 抗 は 近 視 眼 的 な も の で あ る 。米 国 の 安 全 は 、大 き く は 世 界 の 他 の
地 域 、特 に イ ス ラ ム 世 界 の 人 々 に よ っ て 、ど の よ う に 私 た ち が 理 解 さ れ る の か に
よ っ て 決 ま る 。誤 っ て 傷 つ け ら れ た ア フ ガ ニ ス タ ン 民 間 人 に 援 助 を 与 え な い こ と
に よ っ て 、私 た ち が 他 の 国 々 の 人 々 の 命 を ほ と ん ど 考 慮 し て い な い と い う 認 識 を
米 国 政 府 は 育 て て し ま っ て い る 。こ の こ と は 世 界 の 憤 慨 に 火 を つ け 、米 国 人 を 危
険にさらすことになる。
この主張は、それなりに正しいものです。というのは米国政府が「テロに対す
る戦争」をアフガニスタンだけでなくイラクにまで拡大することによって、米国
のみならず世界の安全は拡大するどころか逆に縮小し、いっそう危険が高まって
きたとするのが一般的見解だからです。
しかし、ここで気になるのは、この基金が「援助」であって「賠償」ではない
という点です。なぜならアフガニスタンへの攻撃がアフガン民衆の望むものであ
り、国際法上も認められるものだったのであれば、民間人の犠牲は不慮の災害で
あり、米国は責任を取って「賠償」する必要はありません。それは「援助」で済
みます。
では米国の攻撃が違法なものであり、アフガニスタン民衆の望むものでなかっ
た ら ど う で し ょ う か 。 彼 ら は 「 援 助 」 で は な く 正 式 な 「 謝 罪 」 と 「 補 償 」「 賠 償 」
を要求するのではないでしょうか。それは、アジア太平洋戦争の中で日本軍によ
っ て 「 従 軍 慰 安 婦 」( 正 し く は 「 戦 時 性 奴 隷 」) に さ れ た 人 た ち に 対 す る 個 人 補 償
問題にも、よく表れているとおりです。
日本では「アジア女性基金」という民間基金が設立され、この基金で「従軍慰
安婦」の「個人補償」をおこなおうとしたのですが、多くの元「慰安婦」がこれ
を拒否しました。韓国政府もこれに拒否を表明し、当面は韓国政府が高齢で生活
苦 に 喘 い で い る「 援 助 金 」を 出 す こ と に し ま し た が 、こ れ は 彼 ら の 求 め る も の が 、
政 府 資 金 に よ る「 正 式 な 個 人 補 償 」で あ っ て 、民 間 資 金 に よ る「 単 な る 生 活 援 助 」
ではない、という彼らの意思表明だったのではないでしょうか。
他方、米国では、アジア太平洋戦争の中で在米の日系アメリカ人の多くが、そ
の7割がアメリカ生まれの二世で市民権を持っていたにもかかわらず、アメリカ
各地の強制収容所に隔離され、砂漠と極寒の中で厳しい被監視生活を送らなけれ
ばなりませんでした。家財道具や財産のほとんどを居住地に残したまま、強制的
に収容所へと移住させられたのです。同じ敵性外国人だったドイツ系やイタリア
系のアメリカ人には、このような仕打ちはありませんでしたから、これは明らか
な人種差別でした。
1988年 8 月 10日 、 レ ー ガ ン 大 統 領 は 「 1988年 市 民 の 自 由 法 ( 通 称 、 日 系 ア メ リ
カ 人 補 償 法 )」に 署 名 し 、米 国 政 府 は 初 め て 公 式 に 日 系 ア メ リ カ 人 に 謝 罪 し 、署 名
した日に生存している被強制収容者全員に対してそれぞれ2万ドルの補償金を支
払いました。同時に、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、日系アメリカ人の強
制 収 容 所 体 験 を 全 米 の 学 校 で 教 え る た め 、1 2 億 5 千 万 ド ル の 教 育 基 金 が 設 立 さ れ た
の で し た 。( 詳 し く は [ h t t p : / / w w w . j a n m . o r g / j p n / n r c _ j p / n r c _ j p . h t m l ] 「 全 米 日 系 人 博 物
館」を参照)
こ の よ う な 個 人 補 償 が 可 能 に な っ た の は 、 日 系 ア メ リ カ 人 が 、 1960年 代 か ら 盛
んになった公民権運動(黒人解放運動)に励まされ、粘り強い運動を続けた結果
ですが、もしこのようなことが可能ならば、同じことがアフガニスタン民衆に対
してもおこなわれなければなりませんし、日本政府も同じことを韓国・朝鮮人に
たいしておこなわなければならないはずです。だとすると、問題なのは米国政府
がアフガニスタンに対しておこなった戦争行為が果たして国際法に照らして正当
だったかどうかということになります。以下、この点に関して項を改めて検証し
てみたいと思います。
8
タリバンはビンラディンの引き渡しを拒否していたのか
そ も そ も 米 国 政 府 が タ リ バ ン 政 権 の 打 倒 を 叫 び 始 め た の は 、 「 911テ ロ 」 は ビ
ンラディンと彼に指導される組織「アルカイダ」によるもので、それをタリバン
かくま
政 権 が 匿 っ て い て 、か れ ら を 米 国 政 府 に 引 き 渡 そ う と し な い か ら 、と い う も の で
し た 。 し か し 残 念 な が ら 、「 9 1 1 テ ロ 」 が ビ ン ラ デ ィ ン に よ る も の だ と す る 明 確 な
いま
証拠は未だに示されていません。
チ ョ ム ス キ ー も 2001年 10月 18日 の M I T ( マ サ チ ュ ー セ ッ ツ 工 科 大 学 ) に お け
る講演で、あのような攻撃を企画する集団は、FBIやCIAのスパイが入り込
んでくることを警戒し、お互いがお互いを知らないように組織されているので、
「ビンラディンが自分は関係していないと主張しても、それは完全にあり得るこ
とだ」と述べています。
しかしブッシュ政権は、ビンラディンが犯人だという証拠を提示しないまま、
タリバン政権にビンラディンの引き渡しを要求しました。そして、それを拒否し
たからアフガニスタンを爆撃せざるをえなかったのだというように一般のメディ
ア で は 報 道 さ れ て き ま し た 。し か し チ ョ ム ス キ ー が Z N e t の イ ン タ ビ ュ ー( 2 0 0 2 年 1
月 22日 ) で も 述 べ て い る よ う に 、 タ リ バ ン 政 権 は 「 証 拠 を 提 示 す れ ば 、 裁 判 を 受
けさせるために、ビンラディンを第三国に引き渡す」ことを表明していたのでし
た。それにもかかわらず米国政府はアフガニスタン爆撃に踏み切りました。
一歩譲って、ビンラディンが犯人であったとしても、そもそも国内法であれ国
際法であれ、証拠の提示もなしに、被疑者を警察や国際裁判所に引き渡すことは
ありえないことです。まして、犯人を引き渡さないからといって、その国を爆撃
することは許されるはずがありません。それどころか、米国は証拠がある犯人で
さえ相手国の要求を拒否して引き渡していません。これでは「ダブル・スタンダ
ード」(二重基準)と言われても仕方がないでしょう。その具体例を再び先のチ
ョムスキー・インタビューから紹介しておきます。
[ZNet の イ ン タ ビ ュ ー 原 文 は 、 http://www.zmag.org/shalom0122.htm を 参 照 ]
チョムスキーは、米国内には引渡しを免れ保護されている犯罪者がたくさんい
る の だ か ら 、米 国 政 府 の 論 理 に 従 え ば 、そ れ ら の 犯 人 の 引 渡 し を 要 求 し て い る 国 々
は、疑いのある人達を殺したり逮捕したりするために、引渡しを拒否しているア
メリカを爆撃しても良いことになると述べ、その第1の例としてニカラグアをあ
げています。というのは、国際司法裁判所の判決やそれを支持する安全保障理事
会の決議によっても、上記の犯罪者が有罪であることは議論の余地はないにもか
かわらず、米国は上記の決議に拒否権を発動しているからです。
上記ニカラグアの場合、テロ行為で告発されている人たちは米国の指導者でし
た 。 と い う の は 、 1980年 代 に ニ カ ラ グ ア が 米 国 に よ る 暴 力 的 攻 撃 を 受 け 、 何 万 と
い う 人 々 が 死 に 国 土 が 荒 廃 し た と き 、ニ カ ラ グ ア は 国 際 司 法 裁 判 所・国 連 安 保 理 ・
国連総会に提訴し、どちらでも圧倒的多数の賛成を得ましたが、米国は攻撃をエ
スカレートさせることによって、これらの判決・決議に応えたのでした。では、
より重要度の低い事例、つまり米国指導者ではなく、むしろ米国によって匿われ
ている民間人が罪を犯した場合はどうだったのでしょうか。チョムスキーはその
例としてハイチの場合をあげています。
米国はエマニュエル・コンスタンツの引渡しを拒否し続けています。コンス
タンツはハイチの軍事政権下で1990年代初期に行われた何千人ものの残酷
な殺戮を遂行した準軍事部隊の指揮者です。そして、この軍事政権をブッシュ
(現大統領の父親)とクリントン政権が、表向きは援助していないといいなが
ら実は援助していました。
コンスタンツの有罪は疑う余地がありません。彼はハイチの法廷で不在のま
ま判決を受けました。選挙によって選ばれた政府は繰り返し米国に彼を送還す
る よ う 求 め て い ま す 。2001 年 、9 月 30 日 の 軍 事 ク ー デ タ ー の 記 念 日 に も 再 び 求
めています。この要求は拒否されていますが、多分それは、コンスタンツが、
テロ行為を行っている間の、米国政府とのつながりについて、何を暴露するか
わからないという懸念からでしょう。その懸念は小さいものではありません。
なぜなら、他の残虐行為はいろいろありますが、この場合は、人口比でいえ
ば、それはまるでイラクのような外国が、数十万の人々を殺戮した米国内のテ
ロリスト勢力を援助するようなものだからです。しかし引渡しの要求は単に拒
絶されただけではなく、無視され、報道されることもほとんどありませんでし
た。タリバンに匿われた容疑者たちによって何千人もの米国人が殺されたこと
へ の 激 し い 怒 り の 真 っ 只 中 で 。( ハ イ チ が 再 度 の 引 渡 し を 要 求 し た 2 0 0 1 年 、 9
月 3 0 日 と い う 日 付 を 考 え て み て く だ さ い 。)
では、ハイチは「戦争に代わる真に平和的な代替案」を持っていなかった、
だ か ら 戦 争 に 訴 え て も 良 か っ た の だ と 結 論 付 け て も い い の で し ょ う か 。そ し て 、
ハイチは米国と対等に戦争を行う能力が無いので、他の手段、おそらく生物兵
器や建物の爆破、小型の核兵器などに訴える以外に手段をもたないのだと、結
論付けてもいいものでしょうか。
(ひょっとすると小型の核兵器は米国内に密輸
入 で き る か も し れ な い か ら で す 。)
誰もこの事例や、似たようなもっと極端な事例でも、こんな結論を受け入れ
ることは無いでしょう。だとすれば、私たちがいま現在問題にしている事例の
結論、すなわち「アメリカはアフガニスタンを爆撃する以外に平和的代替案を
持たなかった」とする結論を受け入れるべきでしょうか。相手を攻撃する場合
は Y E S で 自 分 が 攻 撃 さ れ る 場 合 は N O だ と す れ ば 、そ れ は 原 則 か ら の 明 白 な 逸 脱
です。
同じような事例として日本政府はペルーの元大統領フジモリを抱えています。
フ ジ モ リ が 政 権 に あ っ た 10年 間 ( 1990− 2000) を 通 じ て 、 ペ ル ー で は 拷 問 や 虐 待
が横行し、何百人もの人びとが「失踪」したり、超法規的に処刑されたりしまし
た。ペルーの武装部隊のメンバーが、現在人権侵害などの罪で起訴され拘禁され
ていますが、ペルー政府の要求にもかかわらず、フジモリは未だ日本政府に匿わ
れ、裁判所に出頭していません。もし米国政府の論理にしたがえば、ペルー政府
は日本を爆撃して良いことになります。
国 際 人 権 団 体 と し て 有 名 な ア ム ネ ス テ ィ ・ イ ン タ ー ナ シ ョ ナ ル は 、 2003年 07月
30日 に 、
「 ア ル ベ ル ト・フ ジ モ リ 氏 を 裁 き の 場 に き ち ん と 出 さ せ る よ う 協 力 す れ ば 、
日本は真実と正義を覆い隠す免責の連鎖を断ち切ることに貢献することになる。
それをしないならば、加害者の責任が追及されないということを示し、将来のさ
ら な る 人 権 侵 害 に 手 を 貸 す こ と に な る 。」と 強 調 し ま し た 。日 本 政 府 は 、米 英 の ア
フ ガ ニ ス タ ン 攻 撃 を 支 持 し て 、自 衛 隊 の イ ー ジ ス 艦 を イ ン ド 洋 に 派 遣 し ま し た が 、
アムネスティの要求にはどう答えるのでしょうか。
[ア ム ネ ス テ ィ に つ い て は 、 http://www.incl.ne.jp/ktrs/aijapan/2003/0307300.htm
を参照]
以上で、アフガニスタン攻撃の正当性についての検証を、ほぼ終えたつもりで
すが、あと一つだけ残っている問題があります。それはイラク攻撃が国連安保理
の了承を得られなかったのに反して、アフガニスタンの場合は、米英の攻撃に対
し て 安 保 理 決 議 が 了 承 を 与 え て い る か の よ う な 印 象 が あ る こ と で す 。 確 か に 911
テ ロ 攻 撃 に 関 し て は 、 安 保 理 決 議 1368と 決 議 1373が あ り ま す 。 し か し 、 こ の 決 議
うた
1373は テ ロ 資 金 対 策 を 謳 っ た も の で 、 ア フ ガ ニ ス タ ン に 対 す る 武 力 行 使 を 承 認 し
たものではありません。
で は 911テ ロ の 翌 日 に 採 択 さ れ た 決 議 1368は ど う で し ょ う か 。実 は 、こ れ も 、米
英 に ア フ ガ ニ ス タ ン へ の 武 力 行 使 を 認 め て は い ま せ ん 。 確 か に 決 議 1368第 5 項 で
「テロリストの攻撃に対処するためにあらゆる必要な措置をとる」ことを表明し
て い ま す が 、 そ の 主 語 は 安 保 理 で あ っ て 加 盟 国 で は あ り ま せ ん 。 ま た 国 連 憲 章 51
条 で は 、緊 急 の 場 合 、自 衛 権 の 行 使 と し て 武 力 を 用 い る こ と を 認 め て い ま す が「 復
讐行為」や「先制攻撃」としての武力は認めていないからです。したがってタリ
バン政権が米国に対して今まさに軍事攻撃を加えつつあるという状況がない以上、
米 国 が 自 衛 権 を 行 使 で き る は ず も あ り ま せ ん 。 [詳 し く は 、 参 考 文 献 の 比 屋 定 康
治 ( 2003: 17− 22) を 参 照 ]
9
タリバンは元もと米国政府と仲が悪かったのか
このように見てくると、本書の「まえがき」で「タリバンとアルカイダが米国
に協力することを拒み」と述べられていますが、この点も若干の問題があること
が分かります。というのは既に述べたとおり、タリバン政権は攻撃が始まる前に
「証拠があればオサマ・ビン・ラディンを引き渡してもよい。」と言っていたか
らです。しかし、米国政府はこれを相手にせず戦争を始めました。
また一般のメディアでは米国とタリバンは最初から犬猿の仲であったかのよ
うに報じられていますが、調べてみると、フセインと米国政府の関係と同じよう
に、タリバンと米国政府の間にも蜜月時代があったことが分かってきました。そ
の 間 の 事 情 を マ イ ケ ル ・ ム ー ア は 著 書 『 お い 、 ブ ッ シ ュ 、 世 界 を 返 せ 』( ア ー テ ィ
ス ト ・ ハ ウ ス 、 2003: 49− 60) で 次 の よ う な 事 実 を 報 告 し て い ま す 。
( 1 )1997 年 12 月 、タ リ バ ン の 代 表 は 、ブ ッ シ ュ Jr. が 知 事 だ っ た と き 、テ
キ サ ス 州 に 招 か れ た 。彼 ら は 、大 手 石 油 ガ ス 会 社〈 ユ ノ カ ル 〉が ト ル ク メ ニ ス
タンからタリバン支配下のアフガニスタンを通り抜けてパキスタンまで引き
た が っ て い た 天 然 ガ ス の パ イ プ ラ イ ン に つ い て 話 し 合 う た め 、〈 ユ ノ カ ル 〉 の
経営者に会いにきた。
( 2 )タ リ バ ン の 代 表 は ま ず テ キ サ ス 州 シ ュ ガ ー ラ ン ド で 何 日 か 過 ご し た 。石
油 業 界 人 た ち は 彼 ら を 五 つ 星 の ホ テ ル に 泊 ま ら せ 、 動 物 園 や ら NASA の ス ペ ー
ス ・ セ ン タ ー や ら に 案 内 し た 。彼 ら は 、テ キ サ ス の あ と 、ワ シ ン ト ン に ぶ ら り
と立ち寄って、カール・インダーファース南アジア担当国務次官補に会った。
それから彼らはネブラスカ州のオマハへ行った。ネブラスカ大学ではその後、
アフガン人にパイプライン敷設の技術を教える特別訓練プログラムを開講し
た。費用はすべて〈ユノカル〉持ちだった。
( 3 )ア フ ガ ニ ス タ ン 経 由 の パ イ プ ラ イ ン を〈 ユ ノ カ ル 〉が 構 想 し た と き 、エ
ネ ル ギ ー 商 社〈 エ ン ロ ン 〉は す で に 、ウ ズ ベ キ ス タ ン 、ト ル ク メ ニ ス タ ン で の
天 然 ガ ス 開 発 に 向 け て も 精 力 的 に 動 い て い た 。こ の 時 点 で 、テ キ サ ス 州 知 事 だ
ったブッシュは、
〈 エ ン ロ ン 〉の た め に ウ ズ ベ キ ス タ ン 大 使 と 会 っ た 。
〈エンロ
ン 〉の 会 長 ケ ニ ス ・ レ イ は 、こ の 会 見 に 先 だ っ て「 知 事 と サ フ ァ エ フ 大 使 の 会
見 が 実 り 多 い も の と な り 、テ キ サ ス と ウ ズ ベ キ ス タ ン の あ い だ に 友 好 関 係 が 築
かれるであろうことを確信しております。敬具、ケン」との手紙を送った。
( 4 ) 1998年 5月 に 、 タ リ バ ン の 代 表 二 人 が 、 ク リ ン ト ン 政 権 下 の 国 務 省 に 接
待 さ れ て 、バ ッ ド ラ ン ズ 国 立 公 園 、ク レ イ ジ ー ・ ホ ー ス 記 念 館 、フ ォ ー ド 元 大
統 領 の 生 誕 地 、ラ シ ュ モ ア 山 な ど を 見 物 し た 。世 界 最 後 の 石 油 と 天 然 ガ ス の 未
開発の宝庫とみなされている地域で儲けようとする企業を助けたのはクリン
ト ン 政 権 だ け は な い 。 ヘ ン リ ー ・ キ ッ シ ン ジ ャ ー も 、レ ー ガ ン 政 権 で 国 務 長 官
を つ と め た ア レ ク サ ン ダ ー ・ ヘ イ グ も 喜 ん で 手 を 貸 そ う と し た 。そ れ に も ち ろ
ん 、現 在 の 副 大 統 領 デ ィ ッ ク ・ チ ェ イ ニ ー が い る 。チ ェ イ ニ ー は 当 時 、大 手 エ
ネルギー関連会社〈ハリバートン〉の最高経営責任者だった。
( 5 ) 2 0 0 0 年 、 ブ ッ シ ュ 政 権 が 発 足 し て ひ と 月 た た な い う ち に 、タ リ バ ン が ド
ア を ノ ッ ク し て き た 。も と〈 ユ ノ カ ル 〉の 顧 問 だ っ た ザ ル メ イ・ハ リ ル ザ ド は 、
コ ン ド リ ー ザ ・ ラ イ ス 補 佐 官 率 い る 国 家 安 全 保 障 会 議 の メ ン バ ー と な り 、テ キ
サスで〈ユノカル〉とタリバンが協議した食事会に出席した。
( 6 )対 米 関 係 改 善 の 地 な ら し の た め 、タ リ バ ン は 米 国 の " 対 麻 薬 戦 争 " に 参 加
し 、ケ シ の 栽 培 を 全 面 的 に 禁 止 し た 。国 際 機 関 の 代 表 が 視 察 を し 、畑 か ら ケ シ
が 消 え た と 宣 言 す る や 、 米 国 は 即 座 に あ の 荒 廃 し た 国 へ の "人 道 "支 援 と し て
4300 万 ド ル を 供 与 し た 。
( 7 )2 0 0 1 年 の 夏 、複 数 の 報 道 に よ れ ば 、ブ ッ シ ュ 政 権 の 代 表 は タ リ バ ン の 代
表 と 会 見 し た り 、 タ リ バ ン に メ ッ セ ー ジ を 送 っ た り し た 。 話 し 合 い は 9・ 11の
直前まで続いた。でも、パイプラインの話はまとまらなかった。
( 8 ) 2001年 10月 7日 、 米 国 は ア フ ガ ニ ス タ ン に 襲 い か か っ て タ リ バ ン と ア ル
カ イ ダ の 上 に 爆 弾 を 落 と し た 。ア メ リ カ が 据 え た 新 生 ア フ ガ ン の 指 導 者 は 、も
と〈ユノカル〉の顧問ハミド・カルザイ、そしてアフガン特使になったのは、
も と〈 ユ ノ カ ル 〉の 顧 問 だ っ た 国 家 安 全 保 障 会 議 メ ン バ ー 、ザ ル メ イ ・ ハ リ ル
ザドだった。
( 9 ) 2002 年 12 月 27 日 、 ト ル ク メ ニ ス タ ン 、 ア フ ガ ニ ス タ ン 、 パ キ ス タ ン
の三国はパイプラインの建設に関する合意書に調印した。
上記のムーア報告が事実だとすれば、本書の「まえがき」で「タリバンとアル
カイダが米国に協力することを拒み」と述べられていたことが、ますます事実か
ら遠いということになります。また私が先に「タリバンはイスラム教の教えに忠
実だったから麻薬栽培を禁止した」と書いたのも、一面の真実しか伝えていない
ことになります。
10
おわりに
このように詳細に検討すると、ピースフル・トゥモローズ「平和な明日を求め
る会」がグローバル・イクチェンジの援助のもとに作成した本報告書は、幾つか
の欠点があることが分かります。しかし、この報告書の欠点は、多くの支持を集
めるための、この報告集の作成者のしたたかさ、あるいは戦術なのかもしれませ
ん。
というのは、「結論」のところで述べられていたように、保守的な共和党の議
員の中にまで「アフガニスタン犠牲者基金」を支持する声が出てきていることか
ら考え合わせると、会のメンバーは、自分たちの肉親の死をアフガニスタンやイ
ラク攻撃の口実に使うなと強く主張し、保守層からも支持を集めようとした結果
が、あの文面になったとも考えられるからです。
もちろん、「補償」を「援助」に格下するなど、節を曲げてまでして保守層を
取り込む必要はない、正しい主張を取り下げるべきではないという意見もあると
思います。しかし戦前の日本を思わせるほどの厳しい言論統制(自己規制?)、
少しでも戦争批判をくちにすれば「非国民」扱いされる雰囲気の中で、肉親を殺
された人が敢えて異を唱えたその勇気は、ただ感服するのみです。
米国は、日本と並んで、発展した資本主義国の中で唯一「死刑」を合法化して
いる国です。つまり、「やられたらやり返せ」を道徳的原理にしているといって
よ い 国 な の で す 。 そ の よ う な 雰 囲 気 が 蔓 延 す る 社 会 で 、「 報 復 」 で は な く 「 補 償 」
や「援助」を呼びかけることは、普通のひとにとっても大きな勇気を要すること
で し た 。ま し て 、9 1 1 テ ロ で 殺 さ れ た 他 の 家 族 に と っ て ピ ー ス フ ル ・ ト ゥ モ ロ ー ズ
の行為は、正に「裏切り行為」と映ったのではないでしょうか。
しかし、白人による残虐きわまりないアパルトヘイト=黒人差別が荒れ狂った
南 ア で も 、ネ ル ソ ン ・ マ ン デ ラ が 獄 中 か ら 解 放 さ れ 、大 統 領 に な っ た と き に 呼 び か
けたのは、「真実和解委員会」の設立であって「報復」ではありませんでした。
これはインドネシア軍とその手先になった民兵によって多くの家族を殺された東
ティモールの新政府が、独立を勝ち取ったときに取った態度でもありました。と
ころが最も自由と民主主義が発達しているとされる米国で、大統領が声高に叫ん
だのが無実な人への「復讐」だったのです。
だからこそ、ピースフル・トゥモローズによる活動と、その活動の結果として
の、本書のような報告書は、もっともっと皆に知ってもらう価値があると思うの
で す 。 こ の 会 の 活 動 家 で 、 9.11で 兄 を 失 く し た デ イ ビ ッ ド ・ ポ ト ー テ ィ さ ん は 、
著 書 『 わ れ ら の 悲 し み を 平 和 へ の 一 歩 に 』( 原 題 S e p t e m b e r 1 1 t h F a m i l i e s f o r
Peaceful Tomorrows: Turning Our Grief into Action for Peace) の 中 ( p.184)
で、この『アフガニスタン悲しみの肖像画』の報告書は米国内ではほとんど注目
されなかったとあります。だからこそ、私はこの報告書に日本や世界の人々がも
っと目を向けてほしいと思ったのです。
<追記>参考文献および映像資料について
最後に、本文中では全てを明記しませんでしたが、私がこの解説を書くにあた
って参考にした文献を以下に列挙し、その一部について簡単なコメントを付けて
おきます。この文献を参考にして、私の解説の不備な点をおぎなっていただける
有り難いと思います。
というのはアフガニスタン戦争に関しては、「誤爆」の問題、グアンタナモ基
地における「捕虜」の扱い、クラスター爆弾や劣化ウラン弾などの「使用兵器」
の問題など、まだまだ解説しておきたいことは山積しているのですが、それを書
き出すと分量的にも膨大になり、『アフガニスタン悲しみの肖像画』の解説では
なくアフガン戦争論になってしまう気もするからです。
文献資料
アフガニスタン国際戦犯民衆法廷実行委員会
2 0 0 3『 ア フ ガ ニ ス タ ン 国 際 戦 犯 民 衆 法 廷
ICTA公 聴 会 記 録 』 第 7集 、 耕 文 社
アフガニスタン国際戦犯民衆法廷実行委員会
2 0 0 3『 ア フ ガ ニ ス タ ン 国 際 戦 犯 民 衆 法 廷
ICTA 公 聴 会 記 録 』 第 8 集 、 耕 文 社
アフガニスタン国際戦犯民衆法廷実行委員会
2 0 0 3『 ア フ ガ ニ ス タ ン 国 際 戦 犯 民 衆 法 廷
ICTA 公 聴 会 記 録 』 第 9 集 、 耕 文 社
アフガニスタン国際戦犯民衆法廷実行委員会
2 0 0 4『 ア フ ガ ニ ス タ ン 国 際 戦 犯 民 衆 法 廷
ICTA 公 聴 会 記 録 』 第 10 集 、 耕 文 社
アフガニスタン国際戦犯民衆法廷実行委員会
RAWA: ア フ ガ ニ ス タ ン 女 性 の 闘 い 』 耕 文 社
2003『 ア フ ガ ニ ス タ ン 女 性 革 命 協 会
アフガニスタン国際戦犯民衆法廷実行委員会
2004『 ア フ ガ ニ ス タ ン 女 性 革 命 協 会
RAWA 声 な き も の 声 』 耕 文 社
<アフガニスタン唯一のフェニミズム運動団体の眼を通して見たアフガンの実状報
告 。王 政 復 古 = 立 憲 君 主 制 を 目 指 し て い る と こ ろ が 気 に な り ま す が 主 張 は 大 い に 参 考
になります。>
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局
2 0 0 2 、翻 訳 資 料 集『 ア メ
リ カ は ア フ ガ ニ ス タ ン で 何 人 の 人 々 を 殺 し た の か ! ? ア メ リ カ の 無 法 な 戦 争 、戦 争 犯
罪、そして戦争レイシズム』阪南中央病院労働組合
< い わ ゆ る「 ピ ン ポ イ ン ト 攻 撃 」の 実 態 な る も の が ど の よ う な も の か 、ま た 罪 な き 民
間人が毎日どれだけ殺されているのかをヘロルド教授が詳細に研究し報告したもの
です。このようなことを研究している米国人の存在が感動的です。>
板 垣 雄 三 ( 編 ) 2 0 0 2 『「 対 テ ロ 戦 争 」 と イ ス ラ ム 世 界 』 岩 波 新 書
加藤周一
2002『 暴 力 の 連 鎖 を 超 え て 』 岩 波 ブ ッ ク レ ッ ト
加藤周一
2004
『 私 た ち の 希 望 は ど こ に あ る か ー 今 な す べ き こ と 』か も が わ ブ ッ ク レ
ット
鎌田慧・監修
2003
『 戦 争 を 起 こ さ な い た め の 20 の 法 則 』 ポ プ ラ 社
三 枝 義 浩 漫 画『 汚 れ た 弾 丸 , ア フ ガ ニ ス タ ン で 起 こ っ た こ と ― 劣 化 ウ ラ ン 弾 に 苦 し む イ
ラ ク の 人 々 :「 不 屈 の 医 師 」 中 村 哲 物 語 』 講 談 社
< 漫 画 で す が 、ア フ ガ ニ ス タ ン の 苦 難 の 歴 史 と 中 村 哲 さ ん の 2 0 年 に も わ た る 苦 闘 が
良く分かります。>
酒井啓子
2004
『イラク、戦争と占領』岩波新書
高 橋 奈 緒 子 ほ か ( 1999) 東 チ モ ー ル : 奪 わ れ た 独 立 ・ 自 由 へ の 闘 い 、 明 石 書 店
田中宇
2001
『タリバン』
光文社
田中宇
2002
『 仕 組 ま れ た 911』
中村哲
2001『 医 者 井 戸 を 掘 る ― ア フ ガ ン 旱 魃 と の 闘 い 』 石 風 社
中村哲
2002『 ほ ん と う の ア フ ガ ニ ス タ ン : 18 年 間 「 た た か う 平 和 主 義 」 を 貫 い て き
PHP 出 版 社
た医師の現場報告』光文社
中村哲
2003『 医 者 よ 信 念 は い ら な い 先 ず 命 を 救 え !― ア フ ガ ニ ス タ ン で 井 戸 を 掘 る 』
羊土社
中村哲&ペシャワール会
2 0 0 4 『 空 爆 と “ 復 興 ”: ア フ ガ ン 最 前 線 報 告 』 石 風 社
< 上 記 2 冊( 2002,2003)は 写 真 が ふ ん だ ん に 入 っ て い る の で 、中 村 哲 さ ん の 仕 事 と
ア フ ガ ニ ス タ ン の 実 態 を 知 り た い 人 は 、こ の 本 か ら 読 み 始 め る の が 良 い か も 知 れ ま せ
ん。>
西谷修ほか
広瀬隆
2002
『徹底討論:アメリカは何故ねらわれたのか』岩波ブックレット
2001『 ア メ リ カ の 巨 大 軍 需 産 業 』 集 英 社
< 米 国 の 軍 需 産 業 が ど の よ う に 成 長 し て き た か が 詳 し く( 過 ぎ る ? )述 べ ら れ て い ま
す。>
比屋定泰治
2 0 0 3 「 米 英 軍 に よ る ア フ ガ ニ ス タ ン 攻 撃 の 合 法 性 」『 I C T A 公 聴 会 記 録 』 第
8 集
< 国 連 憲 章 7 条 、 51 条 に 照 ら し て ア フ ガ ニ ス タ ン 攻 撃 の 合 法 性 を 丁 寧 に 検 証 し て い
るので大いに参考になります。>
藤田久一
1995『 戦 争 犯 罪 と は 何 か 』 岩 波 新 書
藤原帰一
2002『 テ ロ 後 : 世 界 は ど う 変 わ っ た か 』
藤原帰一
2 0 0 3 『「 正 し い 戦 争 」 は 本 当 に あ る の か 』 ロ ッ キ ン オ ン
松井英介
2 0 0 3 「 国 際 法 違 反 の 『 劣 化 ウ ラ ン 弾 』 の 人 体 へ の 影 響 」『 I C T A 公 聴 会 記 録 』
岩波新書
第 9 集
< 劣 化 ウ ラ ン 弾 の 人 体 へ の 影 響 を 放 射 線 医 学 者 の 立 場 か ら 詳 細 に 検 証 し て い ま す 。公
聴 会 で の 証 言 レ ジ ュ メ な の で す が 、写 真 が 豊 富 に 盛 り 込 ま れ て い て 分 か り や す い の が
特徴です。>
森 考 一 ( 1996) 宗 教 か ら よ む ア メ リ カ 、 講 談 社
< ブ ッ シ ュ の 支 持 基 盤 の 一 つ で あ る キ リ ス ト 教 原 理 主 義 の 実 態 が 良 く 分 か り ま す 。米
国がアラブ諸国に劣らない原理主義の国であることを知って驚かれる読者も多いで
しょう。>
森住卓
2 0 0 2『 イ ラ ク ・ 湾 岸 戦 争 の 子 ど も た ち ー 劣 化 ウ ラ ン 弾 は 何 を も た ら し た か 』 高
文研
< ア フ ガ ニ ス タ ン で も 劣 化 ウ ラ ン 弾 が 使 わ れ た と 言 わ れ て い ま す が 、そ の 実 態 が ど の
ようなものかを、この写真集と解説でまざまざと知ることができます。>
オ ー パ ビ ー 、チ ャ ー ル ズ・M( 國 弘 正 雄 )
1 9 9 7『 地 球 憲 法 第 9 条 』 講 談 社 イ ン タ ー ナ
ショナル
< 米 国 人 の 中 に も「 9 条 の 会 」と い う 組 織 が 広 ま り つ つ あ る こ と を 本 書 で 初 め て 知 り
ました。>
ク ラ ー ク 、 ラ ム ゼ イ ( 中 平 信 也 ) 1 9 9 4『 ラ ム ゼ ー ・ ク ラ ー ク の 湾 岸 戦 争 、 い ま 戦 争 は こ
うして作られる』地湧社
< ベ ト ナ ム 戦 争 の 時 代 に 、ジ ョ ン ソ ン 政 権 の 法 務 長 官 を 勤 め た ク ラ ー ク が 、湾 岸 戦 争
が 米 国 に よ っ て い か に 仕 組 ま れ た 戦 争 で あ っ た か を 詳 細 に 調 査 し 記 録 し た も の 。湾 岸
戦争国際戦犯民衆法廷の報告を兼ねていて、読むものを圧倒させます。>
チ ョ ム ス キ ー 、 ノ ー ム ( 益 岡 賢 ) 1 9 9 4『 ア メ リ カ が 本 当 に 望 ん で い る こ と 』 現 代 企 画 室
チ ョ ム ス キ ー 、 ノ ー ム ( 山 崎 淳 ) 2001『 911: ア メ リ カ に 報 復 す る 資 格 は な い 』 文 芸 春
秋
チ ョ ム ス キ ー 、 ノ ー ム ( 塚 田 幸 三 ) 2 0 0 2 『「 な ら ず 者 国 家 」 と 新 た な 戦 争 』 荒 竹 出 版
チ ョ ム ス キ ー 、 ノ ー ム ( 益 岡 賢 ) 2002『 ア メ リ カ の 「 人 道 的 」 軍 事 主 義 』 現 代 企 画 室
チ ョ ム ス キ ー 、 ノ ー ム ( 山 崎 淳 ) 2002『 金 儲 け が す べ て な の か 』 文 藝 春 秋
チ ョ ム ス キ ー 、 ノ ー ム ( 田 桐 正 彦 ) 2002『 チ ョ ム ス キ ー 世 界 を 語 る 』 ト ラ ン ス ビ ュ ー
チ ョ ム ス キ ー 、ノ ー ム
2 0 0 3( 藤 田 真 利 子 )
『 グ ロ ー バ リ ズ ム は 世 界 を 破 壊 す る :プ ロ パ
ガンダと民意』明石書店
チ ョ ム ス キ ー 、 ノ ー ム ( 海 輪 由 香 子 ほ か ) 2 0 0 3『 テ ロ の 帝 国 ア メ リ カ : 海 賊 と 帝 王 』 明
石書店
チョムスキー、ノーム
チ ョ ム ス キ ー 、ノ ー ム
2 0 0 3 ( 鈴 木 主 税 )『 メ デ ィ ア ・ コ ン ト ロ ー ル 』 集 英 社 新 書
2 0 0 4( 寺 島 隆 吉 )
『 チ ョ ム ス キ ー 21 世 紀 の 帝 国 ア メ リ カ を 語 る 』
明石書店
< チ ョ ム ス キ ー の 言 語 学 以 外 の 本 で 主 要 な も の を 上 記 に 並 べ て み ま し た 。最 低 ど れ か
1 冊 は 読 ん で み て 欲 し い の で す が 、入 門 と し て は『 ア メ リ カ が 本 当 に 望 ん で い る こ と 』
がページ数も多くないので良いかも知れません。>
デ リ ン ジ ャ ー 、 D ( 吉 川 勇 一 ) 1 9 9 7 『「 ア メ リ カ 」 が 知 ら な い ア メ リ カ 』 藤 原 書 店
< 公 民 権 運 動 、ベ ト ナ ム 反 戦 運 動 な ど に 一 生 を 捧 げ た デ リ ン ジ ャ ー の 自 伝 で す 。ア メ
リカにはチョムスキー以外にもこのような人がいるからこそ自由と民主主義が守ら
れているのだということを実感させてくれる本です。>
パ ラ ス ト 、 グ レ ッ グ ( 貝 塚 泉 ) 2003『 金 で 買 え る ア メ リ カ 民 主 主 義 』 角 川 書 店
< 大 統 領 選 挙 の フ ロ リ ダ に お け る 投 票 さ わ ぎ の 実 態 な ど 、ア メ リ カ 民 主 主 義 の 裏 舞 台
が 緻 密 な 調 査 と 豊 富 な 資 料 に 裏 付 け ら れ て 暴 露 さ れ て い て 、思 わ ず 米 国 と は ど ん な 国
なのかと考え込んでしまいます。>
ブ リ オ デ ィ 、 ダ ン ( 徳 川 家 広 ) 2 0 0 4『 戦 争 で 儲 け る 人 た ち : ブ ッ シ ュ を 支 え る カ ー ラ イ
ル・グループ』幻冬社
< 米 国 大 統 領 や 高 官 の 天 下 り 先 と し て の 巨 大 投 資 会 社 カ ー ラ イ ル の 実 態 が NHK ド キ
ュ メ ン タ リ ー で 放 映 さ れ 、見 る 人 に 背 筋 の 寒 く な る 思 い を い だ か せ ま し た が 、映 像 で
は知ることのできなかった詳細を本書で知ることができます。>
ブ ル ム 、 ウ ィ リ ア ム ( 益 岡 賢 ) 2004『 ア メ リ カ の 国 家 犯 罪 全 書 』 作 品 社
< 米 国 が CIA を 通 じ て 、 各 国 政 府 の 転 覆 、 要 人 の 暗 殺 な ど 、 様 々 な 手 段 を 駆 使 し て 、
自 国 の 利 益 を 追 求 し て き た 歴 史 は 、NHK ド キ ュ メ ン タ リ ー『 CIA 秘 め ら れ た 真 実 』
( BS
プ ラ イ ム タ イ ム 、3 回 シ リ − ズ )で 放 映 さ れ 、大 き な 反 響 を 呼 び ま し た が 、そ の 詳 細
を本書で改めて確認できます。>
マ ル マ ウ バ フ 、 モ フ セ ン ( 武 井 み ゆ き 他 ) 2 0 0 1『 ア フ ガ ニ ス タ ン の 仏 像 は 破 壊 さ れ た の
ではない、恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』現代企画室
< ア フ ガ ニ ス タ ン の 巨 大 仏 像 が タ リ バ ン に よ っ て 破 壊 さ れ 、世 界 に 衝 撃 を 与 え ま し た
が 、こ の 破 壊 が 本 当 は 何 を 意 味 し て い た の か 、本 書 に よ っ て 初 め て 知 る こ と が で き ま
した。>
ム ー ア 、 マ イ ケ ル ( 松 田 和 也 ) 2002『 ア ホ で マ ヌ ケ な ア メ リ カ 白 人 』 柏 書 房 、
ム ー ア 、 マ イ ケ ル ( 黒 原 敏 行 ) 2 0 0 3『 お い ブ ッ シ ュ 、 世 界 を 返 せ ! 』 ア ー テ ィ ス ト ・ ハ
ウス、
ム ー ア 、 マ イ ケ ル ( 松 田 和 也 ) 2004『 ア ホ の 壁 in USA』 柏 書 房
<最近、ドキュメンタリー映画で様々な賞を獲得したムーアが、実は単なる映画監
督ではなく、並々ならぬ研究者であることを上記の本によって知ることができるで
しょう。>
モ レ リ 、 ア ン ヌ ( 永 田 千 奈 ) 2002『 戦 争 プ ロ パ ガ ン ダ 、 10 の 法 則 』 草 思 社
ラミス、ダグラス
2003『 な ぜ ア メ リ カ は こ ん な に 戦 争 を す る の か 』 晶 文 社
リ バ ー ズ ビ ッ ト 、 ウ ィ リ ア ム & ス コ ッ ト ・ リ ッ タ ー ( 星 川 淳 ) 2 0 0 2『 イ ラ ク 戦 争 ― 元 国
連 大 量 破 壊 兵 器 査 察 官 ス コ ッ ト ・ リ ッ タ ー の 証 言 、ブ ッ シ ュ が 隠 し た い 真 実 』合 同 出
版
< 直 接 、ア フ ガ ン 戦 争 に 関 係 す る も の で は あ り ま せ ん が 、戦 争 と は こ の よ う に し て 作
ら れ る も の で あ る こ と を 本 書 に よ っ て 知 る こ と が で き ま す 。本 書 で 報 告 さ れ て い る 事
実 は NHK ド キ ュ メ ン タ リ ー 『 ア メ リ カ と イ ラ ク 、 蜜 月 と 敵 対 の 20 年 』 で も 紹 介 さ れ
ています。>
映像資料
『 CIA 秘 め ら れ た 真 実 』 第 1 − 3 集 ( NHK: BS プ ラ イ ム タ イ ム )
< 特 に 第 1 集「 暗 殺 工 作 」は 、米 国 の 血 な ま ぐ さ い 歴 史 が 赤 裸 々 に 語 ら れ 、チ ョ ム ス
キーのテロ国家論を裏付けてくれます。>
『 チ ョ ム ス キ ー 911、 Power and Terror』 ジ ェ ネ オ ン エ ン タ テ イ ン メ ン ト
2002
DVD
< チ ョ ム ス キ ー の 講 演 や イ ン タ ビ ュ ー を 巧 み に 編 集 し た も の で す が 、素 朴 な 語 り 口 な
の に 、い つ の 間 に か 聴 衆 を 引 き つ け て 放 さ な い 、チ ョ ム ス キ ー の 秘 密 を 、こ の 映 像 か
ら知ることができます。もちろん米国の矛盾の真相・深層も。>
『 セ プ テ ン バ ー 11』 フ ラ ン ス 映 画
2002
DVD
< 世 界 を 震 撼 さ せ た 911 事 件 を テ ー マ に 、 世 界 各 国 か ら 11 人 の 著 名 な 映 画 監 督 が 結
集 し て 、「 1 1 分 9 秒 1 フ レ ー ム 」 の 長 さ で 、 事 件 の 事 実 と 真 実 を あ ぶ り 出 そ う と し た
意 欲 作 。 私 は こ の 中 で も 「 CIA に 後 押 し さ れ て ピ ノ チ ェ ト 将 軍 が 起 こ し た 1973 年 9
月 11 の チ リ の ク ー デ タ 」 の 映 像 が 特 に 衝 撃 的 で し た 。 あ の ク ー デ タ で 殺 さ れ 拷 問 さ
れ た 人 の 数 は 「 9 11」 の 衝 撃 を 吹 き 飛 ば す ほ ど の も の で し た 。 >
まだまだ紹介したい文献や映像資料があるのですが、出版締め切りが迫ってい
ますので、この程度で切り上げざるを得ません。この文献紹介が、いまだに続く
アフガニスタンやイラクの戦乱を少しでも早く終結させることに、ささやかなり
と も 貢 献 で き る こ と を 願 っ て 結 び と し た い と 思 い ま す 。( 2 0 0 4 年 7 月 2 6 日 、 寺
島隆吉)