横浜を歩く

平成 23 年 1 月 19 日
雑誌光陵
校長原稿
横浜を歩く
校長
一
鈴木
俊裕
はじめに
横浜を歩き始めてもう何年になるだろうか。横浜博覧会 YES89(1989)の頃にはかなり
歩くようになっていたから、さらに四五年前頃からか。歩き始めたきっかけは、当時赴任し
ていた高校の近くに、直木賞で有名な、直木三十五が住んだ住居跡や菩提寺があり、これを
糸口に郷土と文学のかかわりを、授業で行ったことによる。また、出版社から「横浜の文学」
に関する原稿を依頼されたこともきっかけになっていると思う。それ以後も休みの日に、明
治から昭和にかけて横浜にゆかりのある大佛次郎、獅子文六、吉川英治、長谷川伸、山本周
五郎、有島武郎、中島敦といった作家やそれらの作品にかかわる、本牧、元町、横浜外国人
墓地、山下公園、馬車道、伊勢佐木町等を歩いた。かれこれ十年近く熱心にまわったように
思う。
明治期の地図を頼りに、あたかも点と点を結んで歩いていると、今はない古きよき横浜の
街並みやそこに生活した人々の面影が目の前に浮かんでくる。その瞬間が心地良い。この他
歩く楽しみは、時とともに変化する街並みを記録することや町の古老など人との新しい出会
いがあることだ。
特に、町の古老や郷土史家のお宅を訪ねたり、町の来歴や町にゆかりのある出来事を伺う
とこちらが予想した内容とおよそ違った、思いがけない話に時間の流れを忘れることもある。
彼らは決まって人が良い。町の昔話を懐かしそうに、遠い一点を見ながら話してくれる。例
えば、横浜ゆかりの作家である長谷川伸について、調べているとき、カステラ持参で、保土
ヶ谷区在住の池田氏を訪ねたことがあった。彼は、長谷川伸の知られざるエピソードや人柄
などのほか、私が想像した以上に詳しい話をしてくれた。さらに、菩提寺を訪ねたか。母方
の実家には行ってみたか等、自らが調べた資料を手に、熱っぽく語ってくださった。すでに
かなりのご高齢であったにもかかわらず、この資料は、まとまった形にしていずれ発表する
つもりだと伺ったときは、頭が下がった。
二 手彩色絵葉書
歩き始めて気付いたことがある。それは、今まで漠然と見ていた街並みがまるで別の町の
ように感じられるようになったことだ。と同時に、当時の人々の暮らしぶりや生活、建物を
中心とした町並みや郷土の自然に対しての興味が増していった。そんな中、西区藤棚にある
一心堂で横浜の風景を写した、古い絵葉書を見た。それは明治の横浜風景を写した絵葉書で、
今は埋め立てられた本牧を撮ったものだった。そこには関東大震災前の海岸風景が当時の
人々とともに映し出されていた。古ぼけてはいたが、カラー版で、このような景色がかつて
横浜にもあったのかという驚きで、横浜の街並みや人々の風景に魅せられていった。
その後、調べて分かったことだが、カラー版は、墨版(モノクロ版)を手本に手書きで絵
の具に着色したものであった。この絵葉書を「手彩色絵葉書」と呼ぶ。これは、安価であっ
たこともあり横浜土産として人気があった。余談だが、この作業は、当時の女子の内職で、
明治 39 年(1902)の記録によれば、1日 500 枚作って20銭ほどの収入を得たという。手
作業だから当然、一枚一枚出来が違っていて、同じ絵葉書を見ても、色使いが微妙に異なっ
ていたりはみ出していたりと別な味がある。それ以降古本市や古書店で時折発見し、そのた
びに徐々にではあるが手元に絵葉書がたまっていった。
手彩色絵葉書にみえる明治の横浜の町は、根岸などの自然や、英国やフランス、ロシア、
清国などの人々が行きかい商館や英語の看板が立ち並び、ヨーロッパと見紛うばかりの弁天
通。富竹亭など芝居小屋が多く見える馬車道、伊勢佐木町のオデオン座、シェークスピアが
多くかかった山手のゲーテ座。現在の桜木町にあった横浜停車場。また、海外との文化の窓
口として賑わった大桟橋。ここにはかの夏目漱石の留学に際し正岡子規が見送りに来た所だ。
森鴎外もここからドイツに渡り明治 21 年 9 月 8 日に帰国した。彼を追うように 9 月 12 日、
小説「舞姫」にも見えるエリスという女性が横浜にやって来た場所でもある。
この他、集まった絵葉書の中には思いもよらない建物が写っていることもある。その一つ
が横浜にあった水族館についてだ。絵葉書を頼りに当時の記録を調べると、明治 39 年 7 月
13 日、横浜羽衣町、弁天社境内に「横浜教育水族館」が開業したことが判った。7 月 16 日
には一万人を越える入場者が押し寄せたとある。新し物好きの横浜人とはいえ、なぜこんな
に押し寄せたのか気になって調べてみたが、はっきりした事は判らなかった。ただ、開業一
年前の明治 38 年 7 月 31 日に金沢沖でボート遊びを楽しんでいた二人の外国人女性が体長
30~40尺(約9m~13m)もある海蛇を発見し、これをきっかけに居住外国人による
探検隊が組織され調査が始まったことや、同年 8 月山下海水浴場で、海底透見艇二隻が就
航し、横浜港内の海底15尺(約4.5m)を照らし出し、今まで見ることが出来なかった世
界を見ることが出来たことなど、海への関心の高まりが関係しているのではないかと思われ
る。
その他、手彩色絵葉書は、外国人の土産としても手軽に日本の自然や丁髷や和服姿などの
風俗が安価で手軽に送れるものとして重宝されたようだ。明治 42 年(1909)、横浜開港五
十年記念の頃、絵葉書がブームとなっていた。
しかし、横浜を描いた手彩色絵葉書は、大正12年(1923)の関東大震災でその多くが灰燼
帰した頃を境に姿を消していく。確かに復興計画によって、当時の面影も戻り、昭和 10 年
(1935)の復興記念横浜大博覧会の頃にはかなり街並みが戻ったが、それから 10 年後、昭
和 20 年(1945)の横浜大空襲で再び廃墟と化した。古きよき横浜とともに姿を消した。
三 横浜と文学
横浜は、安政 6 年(1859)6 月 2 日の開港後、一攫千金を狙う欧米貿易商人が海産物や
椎茸、絹などの貿易を求めて集まって急速に発展した町だ。また日本各地からも体制が変わ
り行き場をなくした人々も将来の夢をかなえようと横浜に殺到した。
しかし大きな期待と夢を持ってやってきた多くの人々の思いは実現しなかった。山本周五
郎(西前小学校卒業)や長谷川伸(吉田小学校 2 年中退)の親も一攫千金を夢見て横浜に
やってきた。予想に反して事業は失敗し、その結果として生活の貧しさから、学校にも行か
ず、幼くして働かねばならなかった。山本周五郎(本名清水三十六 1903 年生まれ)につ
いて言えば、明治 44 年(1911)、父親の事業の失敗と莫大な借金を抱え、絹関係の仕事を求
めて横浜にやって来た。周五郎は西前小学校を卒業した。この小学校で、後年「終生の恩人」
と呼ぶ永野先生に出会う。この小学校は、和田七々吉校長が作文教育を重視していたことも
あり、文学に関心を抱くきっかけになったと思われる。小学校卒業後、力はあるものの、経
済的理由で上級学校に進学できず、家計を助けるために東京の山本周五郎商店に住み込みで
奉公に出た。この店の主人が山本周五郎と言い、店員たちが将来困らぬようにと夜間の大原
簿記学校や正則英語学校に通わせてくれた。主人の周五郎も小説などに関心の高い人であっ
たようだ。主人の周五郎は彼の才能を見抜き、全員が寝静まった後も灯火をつけて勉強する
ことを許したとある。彼のペンネームはこの主人の名前に由来する。戦後、中区間門の旅館
を仕事場として、昭和 42 年(1967)亡くなるまで横浜を離れず作品を書き続けた。長谷川
伸も吉川英治も生活の辛い境遇の中で、自らの目指すものを見つけて作家としての地位を確
立した。彼らの作品には、異国情緒あふれる開港場や居留地等を題材とした小説が見受けら
れるが、登場する人々は、正義感と好奇心が強く、ちょっとおせっかいであったりするが、
常に社会から疎外された者の権力への抵抗や町の片隅で懸命に生きようとしている者たち
に対する温かいまなざしがある。大佛次郎の「鞍馬天狗」についても幕府・権力に対して戦
うものとして描かれているが、弱気を助け強気をくじくだけでなく、筋が通らなければ勤皇
方にも抵抗する姿勢が底辺に流れている。初期の大衆小説は当初、読んで楽しく面白い物で
げらげら笑ったり、スカッとするストーリーでしかなかったが、次第に深化し内的なものを
備え、我々に生き方や生きがいを気付かせてくれる、我々が生きる上でなくてはならないも
のを与えてくれるようになっていった。
四
横浜気質
最近、歩きながら、横浜らしさとは何なのか、また横浜という風土が私に与えたものは何
かを考えることがある。
明治時代の草創の頃から、横浜は港を中心に異文化の交差点として異国情緒あり、最先端
の文明ありと今の銀座や新宿のように様々な風俗が交差する町であった。
このことは、開国によって生じた外国との関わりなどを含め、今までの伝統、慣習やしき
たりなど、伝統や古い殻に閉じこもっていては何も解決できない、常に過去にとらわれるこ
となく前を向かって、新しい発想で物を生み出していくことによって未来を生み出してきた
ことと深く関係するように思われる。
世界から、そして日本中から集まってきたよそ者ばかりの集団によって、既成の概念では
解決できない町、そういったものから、開放性、進取の精神、先見性という三つの力が生ま
れ、横浜という今まで日本になかった新しい風土を作り上げていったのではないかと思って
いる。
今まで暮らしてきた横浜について振り返ってみても、これらの力は意識せずとも、あたか
も DNA に組み込まれているように自分の中にしっかりとあるように思われる。
これからも、私自身を含めて、横浜という町全体にこの力が発揮され、明治期の横浜人が
格闘し、克服してきたように、現在の我々が今まで経験したことのない荒波を乗り越えて進
んでいけたらと思う。
そして新しい文化の発信基地として、次代をリードする町に発展することを期待して、こ
れからも新しい出会いと発見を求めて、歩いて行こうと思っている。