校長通信 No. 16 (H27、 11.27) 人生の選択(1)(The Choice of Life

新潟県立新潟翠江高等学校
校長通信 No. 16 (H27、 11.27)
萩野
俊哉(はぎの・しゅんや)
寒風すさぶこの黒埼の地。いよいよ冬を迎えようとしています。寒く、暗い冬。鈍色の空。しか
し、深い雪に埋もれ、寒い冬をじっと耐えて、いずれ来たりくる春に向けて私たちは「力」を蓄えま
す。「冬来たりなば春遠からじ」(If Winter comes、 can Spring be far behind?)。満開の花を
心に秘め、淡々とそして着実に「力」を蓄える。冬を、春を迎える「力」としましょう。
人生の選択(1)(The Choice
Choice of Life (1))
(1))
ロバート・フロスト(アメリカ)が晩年に書いた詩に、「行かなかった径(みち)」とい
う作品があります。
二つの径が紅葉の森で岐(わか)れていた。
両方を行くことはできず、一人の旅人であることを残念に思ったので、
私は久しく立って 目の届く限り、一方を見下ろしていると、
その先は下生えのなかに曲がっていた。
そこで同じように美しい他方を選んだのだが、
おそらく草茂く踏みつけていなかったので
いっそう資格があると思った。
もちろん、その点については、通行者が両方を同じように踏みつけて
いたのだが。
そして、その朝は、両方とも同じように踏みつけていない木の葉を被
っていた。
おお、私は前者を他日のために残しておいた!
だが、径はうねりくねることを知っているので
ここまで戻れるかどうか疑った。
私はこのことを、溜息をつきながら幾年か経ってどこかで語るだろう。
二つの径が紅葉の森で岐れていた。
そして私は人足の繁くない方を選んだ。
そして、それがすっかり異なった結果を生んだ。
簡単に言えば、
「二つの人生の道を前にして、人が進んでいないほうを採った。もう1つ
別の道は、人生のまた別の時点で歩むことにしようと考えていたが、結局できなかった。
そして、私が選んだ道を採ったことが大きな違いを生むことになった」という内容の詩で
す。さて、これを読んで諸君はどのような感想を持つでしょうか。
「自分の採った道や人生
を後悔している」と解釈するかもしれませんね。しかし、それは逆なのです。
「採らなかっ
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新潟県立新潟翠江高等学校
た道に進んでいたら、自分はどうなっていただろう」と、想像をめぐらせることができる
のは、すなわち、自分の採った道を精一杯生きてきたという自負があるからなのです。こ
の詩はよくある「自分の歩んだ道」というような文章よりはるかに雄弁に、自分の選択を
肯定しているものだと思います。
私達はよく、嫌なことがあった時や打ちひしがれた時、
「他の学校に行っていたらなあ…」
とか「他の仕事についていればなあ…」と後悔することがあります。フロストだって、人
生の途中で何度もそう思ったでしょう。しかし、その時点で選択を悔やんで投げやりにな
るのではなく、採った道を懸命に歩んでいいものにしようとしてこそ、採らなかった道で
得られたであろうものより多くの実りを得ることができるのではないでしょうか。選んだ
道で後ろを振り返らず努力していれば、いつかはその道が選ばなかった道と合流するかも
しれません。たとえそうでなくとも、人生の後半になって、フロストのように、採らなか
った道を思いやりつつ、自分の歩んだ道を肯定することができるなら、その選択は間違っ
てはいなかったと言えるでしょう。(「人生の選択(2)」(次号)へ続く)
今日の一言
人間は努めている限りは 迷うに決まったものだ。
(ゲーテ『ファウスト』より)
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努めてやまざる者は 救われる。