学生たちの感想文から 学生たちは毎夜、一日のスケジュールを終えてから日記形式の感想文を書き、第3回訪日を記録した。 以下ではその一部を紹介する。 日付:5月26日(月)晴れ 1日目 大学名:清華大学 氏名:趙江濤 朝7時過ぎに起床。昨晩整理しきれずにいた荷物をまとめ、子猫と一緒に朝食を済ませた。9時10分に 学校を出発して保福寺から空港バスに乗った。道路がすいていたので、集合時間より1時間も早い10時 半に飛行場に着いた。飛行機に乗るのは今回が初めてだったが、面倒な飛行場での手続きもスムーズに いった。午後1時半、飛行機に乗り込み、午後2時に離陸した。機上からの眺めは格別で、雲の下の街や 道路の輪郭を見ていると、何か別世界にいるような気がした。2時間余りのフライトの後、大阪関西国際 空港に着いた。通関をすませ、夕食は「神座」というラーメン屋で日本のラーメンを食べた。とてもお いしかった。夕食後、リーガロイヤルホテル大阪に到着した。ガイドさんからこのホテルは胡総書記が 訪日した際に宿泊したホテルで、江沢民やクリントンも泊まったことがあるという説明があった。とて も雰囲気のあるホテルだ。夜、ホテルの周りを散歩し、コンビニに入って日本の日用雑貨のあれこれを 見た。 訪日初日の全般的な印象としては、道路は狭いが、非常に清潔で、人々がとても礼儀正しいという感 じを受けたが、それは外国人向けかも知れない。日中経済協会の渡辺さんは中国語が上手で、これから 日本での全行程に同行することになる。「名前は?」と聞かれ、「趙です」と苗字だけ答えると、彼は すぐに私の名前を続けた。また、挨拶の中で渡辺さんから四川大地震の犠牲者に1分間の黙祷を捧げよ うという提案があったが、これには大変感動した。彼のような日本人が中日友好を支えているのだと 思った。おそらく60歳は過ぎているかと思われる渡辺さんがいろいろと仕事をこなし、精一杯訪日団 の世話をして下さっている様子を見て一層の感動を覚えた。私たちに出来ることはまだまだたくさんあ る。はっきりとした意識を持ってもっと努力をしなければならないと思った。中日両国が仲良くしてい くために自分も努力していこうと思う。 今回の訪日ではいろいろなことを学びたい。 日付:5月26日(月)晴れ 1日目 大学名:北京外国語大学 氏名:張敏 生まれて初めて中国を離れて異国の地を踏んだ。日本は私にとっては馴染み深い国であると同時に、 よく知らない国でもある。馴染みが深いというのは、大学でずっと日本のことを研究しているからであ り、よく知らないというのは、文字になった既成の知識を学べば学ぶほど、日本が何か捉えどころのな いようなものに思えてくるからだ。 日本に着いた時、それまで想像していたような強い衝撃はなかったが、その瞬間の印象は次のような 形容詞で表すことができる。つまり、「静か、整然としている、謹厳、小さくて精巧」。 関西国際空港で列を作って並んでいた日本人は、人の邪魔にならないように話し声のトーンを落とし – 52 – てとても「静か」だった。大阪の街も「静か」だった。黄昏の中、まばらに灯る街灯はまるで居眠りを している人のように眠たげで、自動販売機と店の看板の明るさが際立っていた。7時過ぎの大阪の街はま るで静かに母の体内に宿る嬰児のように夜の海に沈み、吹く海風は大阪の呼吸のように感じられた。日 本に到着したのが夕刻だったために、昼間の賑わいはなかった。すべてのものが昼間の喧騒を捨てて生 まれたままの姿になって急速に夜の帳に包まれていった。「近代化」という言葉は間違いなく大阪の代名 詞だ。近代化と自然がこれほどまでに完璧な形で融合しあっているのは、大阪ひいては日本の都市の大 きな特徴だと言えるかも知れない。 街は自転車に乗り家路を急ぐスーツ姿のサラリーマンと早足に歩く歩行者ばかりが目立った。そのほ とんどが一人で、何人かでかたまって歩いている人たちは少なかった。これはみんなでワイワイやるこ とが好きな中国人と好対照だ。また、無表情に私たちを見やるバス停でバスを待つ人たちと、行き届い た温かいサービスを提供してくれた飛行機やレストラン、ホテルの従業員とを思わず比較してしまった が、両者には確かに際立った違いがあった。前者は私たちを「縁もゆかりもない赤の他人」と見なし、 日本人とは違う、理解しがたい者としてとらえ、後者は誰もが笑みをたたえ、プロ意識に徹したすばら しい仕事ぶりだった。 最後にラーメン店での呼び込みの声がなんとも威勢が良かったことも書いておこう。日本人の勤勉さ が充分見てとれた。「静」と「動」、「冷」と「熱」の対照が日本訪問第一日目で最も強く感じたこと だった。 日付:5月27日(火)晴れ 2日目 大学名:清華大学 氏名:王洪建 スケジュール盛りだくさんの一日が始まった。私たちは最初に村田製作所の本社を訪問した。セラ ミック電子部品の生産プロセスを見学し、「ムラタセイサク君」のすばらしいパフォーマンスを鑑賞し た。続いて京都の有名な清水寺を訪問し、その後、豊臣秀吉と正室ねねを祀る高台寺に行き、茶道のお 点前を見て本場の抹茶を味わった。最後に新幹線に乗って今日の最終目的地である浜松に到着した。 今日は次のようなことを考えさせられた。つまり、中国と日本の違いは単に時間的なものや技術的な ものではなく、むしろその考え方に大きな違いがあるということだ。中国には実行可能な理念が欠けて いるように思われる。今や中国企業も企業文化や経営理念について考えるようになっているが、真の意 味でそれらが機能しているケースは非常に少ない。それは文化や理念に問題があるのではなく、その実 行過程で諸々の問題が出てくるからである。問題が起こる原因としては次の二つがある。第一点は、従 業員の資質である。この問題を解決するには社会人全体の資質を高める必要があるが、企業による従業 員研修がより効果的で重要だ。一国の興亡が教育にかかっているのと同じように、企業の存亡にとって も教育が最も重要になる。国づくりと同じやり方で企業を創建していかなければ、恐らく奇跡は起こら ないと思う。二点目は、実行メカニズムである。表面的なことだけ言っていても意味がない。企業文化 や理念をどうやって従業員に浸透させ、より大きな価値を創造していくようなメカニズムを構築してい くことが何よりも重要になる。人間の潜在力は無限だ、とよく言われるが、それをどのように開発して いくかが大事になる。経営戦略や方針の決定だけでなく、従業員の創造力や仕事への闘志をかきたてる ようなメカニズムを構築し、そのメカニズムによって絶えず価値を創造していくことが企業のトップに は求められる。こうした意味で、村田製作所のようにその経営理念を明確に掲げ、毎朝それを唱和する – 53 – ことは、企業文化を従業員に根付かせるための良い方法かもしれない。 訪日団団員が最も興味を持ったのは「ムラタセイサク君」だった。村田製作所自身も「ムラタセイサ ク君」を使って会社の宣伝をし、影響力を強めたいと思っている。村田製作所の目標は端末機器分野で 伸びていくことだと思っていたが、いろいろと質問してみて、目標はたった一つ、つまり、唯一無二の 製品を作り出すことだということが分かった。こうした村田製作所の考え方は私たちも学ぶべきだと 思った。中国では、井戸を掘る人は多いが、ひとつの井戸をとことん掘り続ける人は非常に少ない。こ れは資源の浪費というばかりでなく、時間の無駄でもある。中国企業は製品の「生産」ではなく、製品 の「加工」を行っているのであり、こうした発展モデルでは世界の一流企業になることは難しいように 思われる。より多くの中国企業が日本企業に学び、人類のためにより多くの価値を創造することができ ればと思った。 日付:5月27日(火)晴れ 2日目 大学名:北京理工大学 氏名:李園 今日は京都府にある村田製作所の本社を見学した。まず、会社の概況が紹介され、その後いくつかの 生産現場と自転車型ロボットのパフォーマンスを見学した。 今日の見学を通して、村田製作所が主にコンデンサ分野でセラミックを原料とするさまざまな電子部 品を生産していることを知った。私たちが使っている携帯電話やテレビには数百個のコンデンサが組み 込まれているが、どの携帯電話にもムラタの製品が使われている可能性がある。「技術を練磨し、科学 的管理を実践し、独自の製品を供給して、文化の発展に貢献し、信用の蓄積につとめ、会社の発展と協 力者の共栄をはかり、これをよろこび感謝する人びととともに運営する」というのがムラタの社是だ。 ムラタは自己イノベーション能力を頼りに、同業他社が着目していない分野を大事にしてセラミック の特徴を生かした独自の製品を供給している。企業管理の面では、信用を重んじ、製品品質を追求し、 原材料・設備・工程の各方面から生産効率を高めると同時に、同業他社との差別化を図り、自分で設備 を製造し、専門技術を開発することで企業としての繁栄を目指している。また、ユーザーのニーズにも 敏感で、「需要が市場を決定する」という考えの下で需要のあるところに工場を建設している。なお、ム ラタの従業員は毎朝就業前に社是を唱和し、企業文化の浸透を図っているが、この点からも企業の発展 が企業文化の発展と密接に関連し合っていることが分かる。 ムラタのイノベーション志向、科学的な管理手法、明確な企業文化に触れたことで、激しい競争に勝 ち抜くためにはイノベーションに関する自分なりの重点分野を持つこと、また、さまざまなレベルで科 学的管理と経営を行い、企業文化を浸透させ、しっかりした企業文化を頼りに企業を発展させていくこ との大切さを知った。ムラタは部品メーカーなので、消費者と直接係わるということはないが、ムラタ がその小さな部品で大きな成功を収め、内外に大きな市場を確保しているということも、「ディテール が成敗を決定する」ということを十分証明しているように思われる。こうした多くの成功者たちの自ら 進んで小さなことから始める、「大河は細流を択ばず」という精神をもっと学ぶべきだと思った。 日付:5月27日(火)晴れ 2日目 大学名:北京外国語大学 氏名:楊竹楠 村田製作所&京都観光 – 54 – 外国語大学の文科系学生の私は、日常生活で見慣れた携帯電話やカメラなどのデジタル商品の内部が どんな構造になっているのか、今まで一度も考えたことがなかったし、こうした便利なものがどうやっ て造られたのか考えたこともなかった。午前中、京都の村田製作所本社を訪問したが、そこで自分の科 学に対する理解がどんなに浅いものだったかが分かった。 村田製作所は訪日団一行を温かく迎えてくれた。会社の詳細についての説明を受け、部品の開発現場 を見学し、可愛い「ムラタセイサク君」という自転車型ロボットを見せてもらった。理系の訪日団メン バーは専門的な質問をしていたが、私はその意味が全く解らなかった。以前、先生が「言葉がしゃべれ るだけで専門知識がないのはダメだ」とよく言っていたが、その言葉の意味がやっと身にしみて分かっ たような気がした。また、村田製作所で日本の企業で働く人たちの中国では見たこともないような真摯 な仕事ぶりを目にした。午前中の村田製作所の見学を通してさまざまなことを経験し、視野を広げるこ とができた。 午後の観光は、頭はリラックスしたが、「肉体労働」と言えなくもなかった。時間がおしていたため に大急ぎで見学メニューをこなした。高台寺では茶道を体験したが、大学で習ったことがあったので、 特に目新しいということはなかった。私が点てたお茶は寺前さんに飲んでもらった。訪日団招待のお礼 の気持ちを表すことができてよかった。清水寺ではゆっくりと見学する時間がなかったのが残念だっ た。買いたいものがいろいろあったが、買えなかった。次に日本を訪問する機会があれば、もう一度清 水寺に行こうと心に決めた。 日付:5月28日(水)曇りのち小雨 3日目 大学名:清華大学 氏名:高丹妮 時間的にハードな慌しい一日が終わった。日本に対する理解がまた少し深まったような気がして本当 にうれしい。 今日の午前中はJA遠州中央園芸物流センターと静岡県農林技術研究所を見学した。両方とも農業関 連の企業と研究機関だ。見学を通して最も印象深かったのは、地元の若い人たちがほとんど農業関連の 仕事には就かずに第三次産業に従事しているということだった。この説明を聞いて中国のことが思い出 された。中国でもこれと似たような状況がある。中国では農民の多くが農地を棄てて都会に出稼ぎに出 ているが、欧米諸国ではかえって農業が歓迎されている。先進国では機械化された大規模農業により、 「農民」は骨の折れる労働から解放され、農作業にも科学技術が多用されているので、中国でも先進的 な農業技術が普及する頃には、農業も人気のある産業になっているかも知れない。 旭化成の工場見学は前から楽しみにしていた。なぜなら旭化成の扱っている分野が自分の専攻と関係 があるので、旭化成という企業の変遷やその研究開発の内容に関心があったからだ。今日、一番嬉し かったことは、自分も訪日団メンバーの役に立つことができるということが分かったことだ。日本に着 いたばかりの頃は、日本語ができないために、いつも仲間に助けてもらわなければならず、申し訳ない と思っていたが、それが今日の旭化成での技術説明では、自分の専門知識を活かして通訳を務める大学 の先輩を助けることができたのだ。膜を使った汚水処理の原理を他のメンバー、特に文科系の学生たち に分かりやすく説明してやることができた。最初は自分でも少し無鉄砲のような気がしたが、いざ原理 の技術的説明をしてみると、こうして他のメンバーの役に立つ機会の与えられたことが本当に嬉しかっ た。 – 55 – 旭化成を見学して世界をリードする日本の科学技術がどんなものなのかをはっきりと感じることがで きた。同社の汚水処理の原理は非常にシンプルで、誰でも簡単に思いつくような原理だが、この原理を 実際に応用するには、ろか膜の製造、粘着剤の使用、配管の設計、逆洗の方法など、解決しなければな らない問題が多々ある。原理を実践に移す時にはこれらの問題を避けて通ることはできず、それらがこ の原理を実践、普及させることができるかどうかを決める要素になる。旭化成はまさにこうした問題を 一つひとつ解決していったからこそ、汚水処理膜分野で大成功を収めることが出来たのだと思う。私は 清華大学の同窓生の間で言われている「行動は言葉に勝る」という言葉を想い出した。考えを行動に移 してこそ進歩があり、最終的には成功への道を歩むことができるのだと思う。 一日のスケジュールが終わった。今日の感想は、これまで感じていた日本人のライフスタイルや習慣 の違いといったものではなかった。今日は初めて中国と日本という二つの文化の似ているところに気づ き、多くの真理にはもともと国境などなく、最も大事なことは自分の本分を全うすることだということ が分かった。 5月28日(水)曇りのち小雨 3日目 大学名:天津大学 氏名:徐青竜 今日は静岡県JA遠州物流センターを訪問した。ここは政府と民間の中間的立場にあり、双方に対して サービスを行う特別な組織である。JA遠州物流センターは日本農業の長い歴史の中で形成された組織で あり、農産物の植え付けから販売に至る全ての面をカバーしている。しかも化学肥料会社とも関係があ り、農民の収穫物が速やかに商品として市場に販売される仕組みになっている。このシステムは比較的 成熟しており、中国のような農業大国もこうした手法を学ぶべきだと思った。次に農林技術研究所とそ の付属の農業大学校を見学した。研究所の研究員と農業大学校教員の長年の研究と実践によって一連の 農業を発展させるためのシステムが確立されていて、植え付けから栽培・施肥・防虫害・生態保護等の 各分野がうまく機能し合っている。このシステムで栽培されたメロンは味がよく、栄養豊富だが、市場 価格が非常に高い。また、10数年間かけて開発した新型温室ハウスによってコスト削減が可能になった ともいう。ただ、農業に従事する日本の若者がどんどん減っていることが少し気になった。今後、日本 の農業は大きな課題に直面するかも知れない。 午後は旭化成ケミカルズ株式会社の富士工場を見学した。同工場は富士市にあるので、富士山が見ら れるのではと期待したが、生憎と天気が悪くて見られなかった。とても残念だった。旭化成は今回訪日 団を受け入れるに当たって、特別に東京から二人の中国語のできる社員を呼び寄せ通訳に当たらせてい たが、同社がいかに私たちの訪問を重視していたかが分かる。工場の主な生産工程と製品用途について の丁寧な説明があり、続いて生産現場と原料分析室を見学した。すべての工程が定められた基準によっ て厳しく管理され、最高品質の製品が生産されていた。 夜はみんが楽しみにしていた温泉を体験した。バスに1時間弱乗って伊豆長岡温泉に着いた。温泉のこ とは教科書やテレビを見て知っていたが、今日は実際に体験できるとあって期待は大いに高まった。畳 の部屋、色とりどりの浴衣、おいしい和食にみんな大喜びだった。大きな日本式の宴会場で私たちは一 人ずつ舞台に上って自己紹介をし、出し物を演じてお互いの理解を深めた。正に「八仙過海、各顕神通 (八仙海を過ぐるに各(おのおの)神通を顕わす)」という状況で、さまざまな出し物が演じられた。最後に 「歌唱祖国」を歌ってこの思い出深い宴会はお開きとなった。部屋に戻ってからも興奮冷めやらぬ者同士 – 56 – でゲームを始めた。可愛くて綺麗なお姉さんのような郭先生も一緒にゲームを楽しんだ。 日付:5月28日(水)曇りのち小雨 3日目 大学名:天津大学 氏名:張瑩 場所:JA園芸物流センター・静岡県農林技術研究所・旭化成富士工場・伊豆長岡温泉 今日はJAと農林技術研究所を見学して日本の農業の現状・特徴・組織について理解をすることができ た。農業協同組合という組織が印象的だった。組合という形を使ってそれまでばらばらだった農家を束 ね、価格を統一して販路を開拓する。また、分散していた資源を1箇所にまとめて組合として土壌試験 や新品種の開発・技術的問題を解決することで農産物の安全性と品質を高め、個別の農家では生産しに くいものを生産し、農家のリスクとコストを削減している。中国も合作社という形を採用していた時期 があったが、そうした組織によって現代農業の問題(技術・品種・生産量など)をどのように解決して いったらいいのか、また、このような協同組合をどのように政府・買付人・研究機関とを繋ぐ紐帯にし ていったらいいのか、静岡県のこうした実践は参考に値すると思った。 ハミ瓜・メロン・トマトなどの農産物の栽培と生産プロセスを見学し、新鮮なメロンを試食した。農 業生産面では、特に土壌条件が限られた中では、大規模ハウス・水耕栽培・接ぎ木などの技術の普及が 重要になる。 旭化成への訪問も大きな収穫だった。機密保持の観点からMF Hollow Fiber(精密ろ過膜中空繊維)の全 生産プロセスは見ることができなかったが、優れた企業の生産と経営について学ぶことができた。世界 有数の化学メーカーである旭化成の川下から川上を攻めていく発展モデルには大いに考えさせられた。 旭化成は自分の強みである化学工業製品の再加工と技術開発によって川上産業への参入機会を探り、市 場を開拓し、より多くの利益をあげることで企業価値と買収に対する抵抗力を高めているが、これは買 付商社や最終消費財メーカーとの競争における大きな成功だと言える。また、環境製品の開発では、 例えばろ過膜の汚水浄化分野における占有率を見れば、その社会的責任と営利目的を上手に結びつけ ていることが分かる。川上産業に向けての発展プロセスでは、時代の流れや消費者心理を正確に把握す ることが成功のカギとなる。例えば紡績業では、旭化成は自社の化学工業製品の特性を活かして服飾デ ザイン分野にも参入し、有名デザイナーやファッションショーとのタイアップによって流行をしかける など、これまでとは全く別の視点から紡績メーカーとしての発展を図っている。旭化成のこうした動き は、ある意味、多元化か単一化かという問題に対する回答であり、その市場の商機を掴む能力と自身の 市場ポジショニングの確かさが見て取れる。 夜の温泉は大満足の「ワンダフルタイム」であった。日本旅館に泊まり、浴衣を着て和風の夕食を食 べ、本物の日本文化を体験することができた。温かくて気持ちの良い温泉は養生には最適だ。静かに目 を閉じて露天風呂につかっていると、まさに極楽の気分がした。 日付:5月29日(木)曇りのち小雨 4日目 大学名:政法大学 氏名:宋志清 朝6時半に清華大学の学生に起こされた。さすがエリート大学の学生は精力的だ。起きてまずしたこと は、窓から富士山が見えるか確かめることだった。あいにくの天気で富士山は全く見えなかった。今日 は日本に来て初めての雨だったが、この雨は天気予報よりも少し遅れて降ったようだ。まったく間が悪 – 57 – く、富士山のすぐ近くまで来たというのにその姿を拝むことができず、このことが今回の伊豆旅行の心 残りとなった。でも温泉はすばらしく、景色も良かったのでまた是非来たいと思う。 今日はまず神奈川県にあるアサヒビールの工場へ行った。工場というのはどれも汚染まみれだと思っ ていたが、もしガイドさんが教えてくれなかったら、工場敷地に入っても公園の中にいるものと思い込 んでいたことだろう。バスから降りると、みんなその美しい風景をカメラに収めた。景色の美しさもさ ることながら、工場のどの工程も資源を合理的に活用し、世界一環境にやさしい工場の建設を目指して いた。ビール工場の生産現場を見学し、アサヒビールの生産プロセスを理解し、さまざまな省エネ排出 削減の具体的な方法を学んだが、みんな興味津々だった。ビールの瓶詰め工程と倉庫が高度に機械化さ れていた。特に保管倉庫では、無人車によって箱詰めされたビールの積み下ろしや搬送が行われていた が、数十台の車がまるで目が付いているかのように互いにぶつかることもなく、クルクルと動き回って いたのには驚いた。見学の後、新鮮なアサヒビールを試飲した。色もよく、口当たりも最高だった。2杯 飲んだ。首まで赤くなり、みんなに飲み過ぎだと思われてしまった。少し羽目を外しすぎたか‥‥。と もかくビールがおいしかった! 午後、訪日団一行は横浜の日本郵船歴史博物館を見学した。日本郵船歴史博物館は今度の日本訪問で は初めての人文科学系の博物館だった。野崎船長が日本郵船株式会社の変遷と関連づけて歴史の講義を してくれた。ベテラン船長が冒頭に言った「歴史を知ってこそ未来を創造することができる」という言 葉が印象的だった。1853年にペリーが日本に開国を迫った時、日本には旧式の帆船しかなく、蒸汽船 と対抗するには全くの力不足で、幕府は開国やむなしという判断を下した。その後、一時外国の船会社 によって日本の海運業が独占されたようだが、日本はずいぶん情けない思いをしたに違いない。官製の 「回槽会社」(日本郵船の前身)は最も状況の厳しい時に創設されたわけだが、同社は低価格戦略で競 合相手を退け、横浜から上海の航路を手中に収め、日本の海洋貿易の盟主になっていった。その後、日 本政府は競争させる目的で別の海運会社を支援することにしたが、熾烈な価格競争によって両社ともに 破産の危機に瀕することになった。1885年、日本政府はこの局面を打開するために、終に両社を合併し てNYK(日本郵船会社)を創建した。NYK は1937年までの間に日本国内の紡績工業の急速な発展と膨 大な原料需要を受けて、ヨーロッパ・アジア・オセアニア・北米への航路を開設し、一躍世界一流の海 運会社に成長していった。しかしながら、第二次大戦がNYKに悪夢となって襲いかかった。その保有船 舶の多くが軍に徴用され、NYKは日本の無条件降伏までに合計185隻の船と5312名の船員を失い、どん 底の状態にあった。ところが、NYKはその後間もなく奇跡的に復活することになる。朝鮮戦争が拡大す るにつれて、1951年から1952年にかけてそれまでの航路が次々と復活したのだ。1955年以降は日本経 済の高度成長に伴い、NYKは第二の春を迎えることになる。一方で規模の拡大を図りつつ、ユーザーの ニーズに合わせて特殊貨物専用船舶の建造を進め、先進技術を海運事業に導入することで世界経済の発 展に寄与した。例えばNYKが日本で初めて建造した大型コンテナ船は、その経済的かつ簡便、しかもス ピーディーな輸送方式がユーザーに大きな利益をもたらした。また、NYKはさまざまな対策を講じて財 務の多元化を進め、効果的に円高リスクを回避することでその世界的な競争力を維持し、コストの削減 を果たすと同時に、ユーザーの利益向上にも貢献した。日本郵船の隆盛と衰退はまさに日本近代史の縮 図であり、それには日本人の粘り強さと忍従、忍耐と忠誠、緻密な手作業、顧客のことをよく考えた経 営理念が反映されている。私たちもNYKのこうした長所を学ぶと同時に、中国の「今」が日本の「過去」に よく似ているという事実を認識する必要があるように思う。中国は極端な民族主義を警戒し、「上り調 子のときこそ頭を垂れて謙虚に」という精神で、冷静、誠実かつ友好的に大国への道を歩まなければな – 58 – らないと思う。 日付:5月29日(木)曇りのち小雨 4日目 大学名:北京理工大学 氏名:林思雯 お天道様はご機嫌斜めだった。今日は雨で気温がかなり下がったが、アサヒビール神奈川工場への訪 問でおいしいビールを飲んだおかげで頭からつま先まで温まった。 多くの日本企業がそうであるように、アサヒビールも環境にずいぶん配慮していた。きれいな解説嬢 が、アサヒビールの環境分野における貢献について自信を込めて説明してくれたのが印象的だった。環 境問題はまさに中国企業が真剣に取り組まなければならない重要課題だ。 午後は日本郵船氷川丸と日本郵船歴史博物館を見学した。京都の見学でも感じたことだが、こうした 歴史スポットは故宮のようにじっくりと味わうべきだと思う。ここでも時間の足りないのが悔やまれ た。 日本郵船の歴史は日本の歴史、戦後日本の復興の歴史を反映していた。いつも感じていたことだが、 日本人は生命力の非常に強い民族であり、日本人には強い向上心がある。そしてまさにそうした力こそ がどんな困難の中でも日本を前進させて来たのだと思った。 日付:5月29日(木)曇りのち小雨 4日目 大学名:天津大学 氏名:高超 今日は神奈川県にあるアサヒビール株式会社神奈川工場を訪問した。1階の展示ホールに昆虫や動植物 の展示があって少し奇妙に感じたが、会社紹介のビデオを見て、それが良質のビールを生産するために は自然との調和が大事だということを表していることが分かった。 生産ラインは完全に自動化され、無人管理が行われていた。生産過程で生じる全ての産出物が再生産 のため使われていた。二酸化炭素は次の工程で炭酸飲料の生産に使われ、酵母菌は新規の薬品や食品の 生産に利用されていた。こうした取組みは中国企業も見習わなければならないと思った。 午後は日本郵船氷川丸と日本郵船歴史博物館を見学した。西を目指して航海した明代の鄭和の船団が いかに巨大かつ先進的なものであったかを思うと同時に、日清戦争で惨敗を喫した清国軍を思い、「後れ た者が叩かれる」という真理を再認識した。 夜は日中経済協会の歓迎会に参加し、ホストファミリーになってくれる関誠さんに会った。初めは少 し緊張したが、関さんの優しい笑顔がすぐに私の緊張をほぐしてくれた。 日付:5月30日(金)小雨 5日目 大学名:北京理工大学 氏名:陸波 今日から東京での日程が始まった。朝、ホテルの40階で朝食を食べたときに赤坂の景色を楽しむこと ができた。林立するビル、縦横に交差する道路、忙しそうに歩く歩行者など、賑やかな都市の息吹が伝 わって来た。 三菱東京UFJ銀行と伊藤忠商事が今日の主な訪問先だが、昼食後の休憩時間を利用して秋葉原の免税店 にショッピングに行った。 – 59 – 三菱東京UFJ銀行と伊藤忠商事の両社は、それぞれ典型的な二つの異なる発展の道を歩んで来たと言え る。 三菱東京UFJ銀行がその成長過程で常に大手同士の提携を模索してきたのに対し、伊藤忠商事は典型的 な家族的企業である。先日見学した村田製作所のように、個人がある新興分野(麻布)で創業し、その 後市場を拡大して、ついには貿易および投資を手がける世界有数の巨大企業へと成長していった。 二つの分野の異なる企業の管理と経営理念について見てみると、日本企業の慎重さが至る所に見られ る。それは三菱東京UFJ銀行が今回のサブプライムローン危機を回避できたという事実や伊藤忠商事戦略 研究所所長の講義からも実感できた。これはおそらく民族、或いは国家の既成の思考方式と関係がある のかも知れない。日本企業、特に日本のビジネスマンは戦略的なイノベーション思考だけでなく、慎重 で細やかな思考をすることも可能だが、ある意味、これは経営理念の蓄積に他ならず、中国企業も見習 うべきだと思った。そうした理念があればこそ、企業はより強い競争力を身につけ、長期的な生命力を 維持することができるのだと思う。 見学終了後、訪日団一行は「龍府」という中国料理店で行われた伊藤忠商事中国室室長主催の夕食会 に参加した。6名の中国人社員が同席してくれたのでコミュニケーションがうまくいった。ここにも日本 側の細やかな配慮が感じられた。乾杯を重ね、とても和やかな雰囲気の夕食会だった。 伊藤忠商事の皆さんが雨の中を店の外まで出て見送ってくれたことが嬉しかった。 日付:5月30日(金)小雨 5日目 大学名:北京理工大学 氏名:藺娜 今日は忙しい一日だった。しとしとと雨の降る中、日本有数の大企業である三菱東京UFJ銀行と伊藤忠 商事を訪問した。 三菱東京UFJ銀行では職員の案内でディーリングルームと市場部門を見学したが、どの社員も自分の仕 事をテキパキこなしていた。毎日5000人前後の顧客に対応しているという。見学内容は経済分野の問題 が多かったが、この分野の知識があまりなく、理解できなかったことも多かったので、これについての コメントは控えたい。 伊藤忠商事の立派な大会議室が印象に残った。どう形容したらよいか‥‥。「豪華」というより 「堂々としている」という形容のほうが妥当で、ハイテク装備でまるで不思議な世界にいるような感じ がした。自分の見聞には限りがあるので中国にこのような会議室があるかどうかは知らないが、このよ うなハイテクかつシンプルで余裕のあるスタイルが中国人の生活や人々の考え方にも浸透すればいいな と思った。 夜の交歓会は中華料理だった。本場の中華料理とはちょっと違っていたが、とてもおいしかった。 テーブルの雰囲気もとても和やかで、伊藤忠商事の皆さんはとても友好的だった。丁重なもてなしで楽 しい夜を過ごすことができた。 日付:5月30日(金曜日)小雨 5日目 大学名:北京外国語大学 氏名:李宗金 日本に着いてから見学した企業は、どこでも中国人社員が訪日団をもてなしてくれたが、今回見学し た三菱東京UFJ銀行も例外ではなかった。北京外国語大学での留学経験のある糸井さんにも会うことがで – 60 – きた。どの企業も訪日団一行にいろいろと心を配ってくれていて、とてもありがたいと思った。三菱東 京UFJ銀行のスローガンは「Quality For You」で、その経営も高く評価されていた。2007年に「日経金融 新聞」が行った金融機関の好感度調査によれば、10項目のプラス評価項目中9項目で第1位に選ばれてい る。同行は安全性と防犯面でも非常に進んでいて、毎日の正常な営業を保障し、厳格な監督管理によっ て公正な運営が保証されていた。こうした昼夜兼行の三菱東京UFJ銀行の姿に、常に顧客に対し最高レベ ルの商品とサービスを提供するための努力を惜しまない精神を垣間見ることができた。 午後は経営モデルの独特な伊藤忠商事株式会社を見学した。同社の機能について説明することはなか なか難しいが、それは時間と空間の違いによって生じるリスクを利益に転化するための「リスク吸収 体」だと言える。だが、これはリスクの回避を主目的とする企業のそれとは異なるものである。総合商 社にあっては「リスクに挑まない企業に発展はない」ということになる。また、同社は人類の生存と未 来に関する分野でも責任を担い、環境・資源・食糧などの問題に取り組んでいる。 伊藤忠商事株式会社の中国人社員との交流では、彼たちに「自分が伊藤忠商事を代表している」とい う強い自覚があるのを感じた。 日付:5月31日(土)小雨 6日目 大学名:清華大学 氏名:翟翔 ホームステイの日だ。今日はおそらく最も収穫の多い1日になるだろう。 午前8時半に朝食をすませて部屋に戻り、そそくさと荷物を片付けて不安な気持ち抱えてホームステ イの準備をした。日中経済協会の円卓会議室に落ち着いた。しばらくすると、ホストファミリーの人が 来て一人ずつ団員を連れて行った。これではまるで保護者の迎えを待つ幼稚園生のようだと冗談を言い 合った。きれいなお姉さんが高さんを引き取り、単身赴任中のオシャレな男性が趙江涛を迎えに来た ‥‥。こうした冗談を言い合っているうちにアルプス電気の二人が来た。山内和久さんと日本に来て長 い秦さんだった。山内さんが私のホストファミリーだ。山内さんは1995 年から1998 年にかけて中国ア ルプス電気無錫工場で働いた経験があり、中国語が出来る。山内さんは中国の歴史にも非常に詳しく、 何よりも中国が好きだということが分かった。こうして私は山内さんに引き取られることになった。 私は山内さんと秦さん、それに彼の「養子」の李園と一緒に近くの日枝神社を見学した。幸運にも伝 統的な日本式の結婚式を見たり、神社で飼育されている闘鶏を見ることができた。その後、4人は分か れ、私と山内さんは地下鉄に乗って浅草に行った。浅草には什刹海沿いの通りにあるような大きな雑貨 市場があり、日本的なものがあれこれ売られていた。山内さんによると、ここの品物はどれも中国製 で、値段が高いわりには品質が悪く、外国人(主に本土・香港・台湾からの中国人)向けに売られてい て、日本人はぶらぶらと眺めて歩くだけで買わないという。それが何だか分からなかったが、海苔がぐ るりと巻かれた食べ物を食べた。浅草は浅草寺が有名だ。この寺はとても大きく、中の装飾もきらびや かで、観音菩薩が祀られていたが、中国のそれとは違って大きな菩薩像は無く、祭壇の中央に「卍」の 字があった。浅草寺は日本でも有数の寺なので、日本人、中国人、東南アジアの人々が多数参拝してい た。私も100 円を出しておみくじを引いてみた。「吉」が出た。日本の神社仏閣は基本的に無料で、拝 観料をとるにしても、500円(中国の消費水準から言うと5元前後になるだろうか)などの非常に安い設 定になっている。中国の有名な寺院とは異なり、お布施をするかどうかは観光客や善男善女の自由意志 に任されていた。 – 61 – おいしい日本のラーメンを食べた後、地下鉄とJRを乗り継いで横浜に行った。日本の軌道交通の発達 ぶりが分かった。ほぼ30kmの距離にある2つの都市(人口1,200万人の日本最大の都市と400万人の日本 第二の都市)は10mほど歩いて1回乗り換えただけ(駅から出る必要はない)、30分以内で着いた。横浜 ではデパートをぶらつき、百万円もする陶磁器を見た。途中、本屋でTOFLEの 参考書を見た時はとても 親しみを感じた。『鄧小平秘録』や『中国墜落』といった本もあり、購入している人もいた。山内さん が「このような本は良くないので読む必要は無い、日本人も買ったり、読んだりすべきではない」と言っ てくれたので嬉しかった。 山内さんの家は横浜の郊外にあった。典型的な日本式の二階家で「ドラえもん」の野比のび太の家に似 ていたが、それよりも少し小さいかも知れない。山内さんは今年55歳、奥さんの日出美さんは今年52歳 で、3人の子供がいる。長男は外国で、次男は社会人になったばかり。三男は18歳で大学一年生で話が 合った。意外だったのは、山内さんと奥さんは漫画が好きだということだった。これは中国ではあまり 考えられないことだ。山内さんが一番好きな漫画は60 年代末に出版された水滸伝だという。彼は中国文 化が好きなので、『水滸伝』や『三国志』がとても好きだ。「日本はとても幸せな国で、昔からずっと模 範にすべき国を持っていた。中国から欧米諸国にいたるまで、日本には常に一人もしくは若干名の先生 がいた。一方、中国はずっと世界の中心であったために他人から学ぶという習慣が余りないので学ぶス ピードが遅い」という山内さんの言葉がとても印象的だった。山内さんの日本人としての謙虚さと中国理 解の深さに驚いた。私も歴史には興味があるので、山内さんとのおしゃべりはとても楽しかった。山内 さんと話した時間に比べると、二人の息子さんと話した時間はだいぶ短かった。もちろん言葉の問題も あった。私は日本語が解らないし、彼らは中国語が解らない、英語もほんの少しできるだけという状況 だった。 夜は家で焼肉を食べた。おいしかった。日本の家庭にはいろいろ便利なものが揃っていた。食器洗い 機、ユニットバス、ホットプレート等々。食後、一番いお風呂に入るように勧めてくれた。そのもてな しの心が嬉しかった。夜、山内さんは早い時間に休んだが、私は奥さんと下の息子さんとおしゃべりを していた。奥さんは英語ができたので、私たちは英語と筆談でそれぞれの故郷のこと、地理、クラシッ ク音楽や流行の音楽、「千と千尋の神隠し」や「ヒーロー」、菊の花(開封市花)からバラの花(横浜市 花)に至るまで、おしゃべりに花が咲いた。奥さんとの会話のほうが息子さんたちとのそれよりもずっ と多かった気がする。奥さんは私の故郷の伝統と現代が一緒になったような建築様式が非常に好きで、 後で楽しむために私の検索用の百度(baidu)のサイトを保存していた。深夜、私のために空けてくれた 部屋で気持ちのよい眠りについた。まるで中国にいるような気がした。 日付:5月31日(土)小雨 6日目 大学名:清華大学 氏名:趙斉 今日と明日はホームステイだ。ホストファミリーは住友商事の酒井さん一家だ。東京都内を一日ぶら ぶらした後、私たちは電車で茅ヶ崎市にある家に行った。 茅ヶ崎は東京からは結構な距離があり、電車に1時間余り乗らねばならなかったが、茅ヶ崎の人々の生 活レベルは東京のそれと何ら変わりなかった。町並みは小さいがとても清潔で、駅周辺の繁華街にはき れいなビルがあった。 繁華街の周りは2階から3階建ての建物が建ち並ぶ住宅街で、酒井家もその中にあった。日本人の一般 – 62 – 家庭を訪ねてみて初めて日本の優れた科学技術が国民生活の隅々まで応用されていることが分かった。 酒井家の建物はそれほど大きくはなかったが、3階までエレベータがついていた。バスタブは自動温度 調節と冷風機能があり、全ての操作ボタンがバスタブの中から届く位置にまとめて配置されていた。ま た、酒井さんの乗用車にはGPSカーナビが装備され、車の方向や位置が周囲の地図とともに随時表示さ れ、目的地を選択すれば自動的に誘導してくれる。科学技術が人々の日常生活を格段に快適なものにし てくれている。 こうした細部に日本の国力が現れていると思った。首都から多少離れていても首都と同じような生活 を送ることができるのだ。それに比べ、社会主義の初期段階にある中国は農村の生活の質と都市のそれ とには大きな差がある。今回のホームステイによって日本の生活の細部における質の高さを知ることが できた。これは今後私たち若い世代が国のために頑張るうえでの一つの方向性になるだろう。 日付:5月31日(土)小雨 6日目 大学名:中国政法大学 氏名:賈夢飛 仲間の前では落ち着いている振りをしても、心は不安と期待で一杯だった。不安と期待というのは表 裏一体の関係にあるのかも知れない。ある種の期待があれば、必然的にその期待が裏切られることを恐 れる不安が伴って現れる。この不安を消すことは出来ないし、ましてや期待を打ち消すことなど出来な い。 円卓のある会議室で仲間たちが次々とホストファミリーに引き取られていくのを見て、ますます複雑 な気持ちになってきた。この不安と期待がバランスを失った状態に陥ったとき、私のホストファミリー が終に来てくれた。 ホールを出るまでは緊張で何を話していいものか分からず、黙って彼女の後に従った。やっと一言二 言話が出来たとき、彼女が上野の美術館で開かれている「井上雄彦 最後の漫画展」に連れて行ってくれ るのを知りびっくりした。この展覧会のことは新聞やテレビで知っていたが、まさか自分が見に行ける とは思ってもみなかったので、何と形容していいのか分からないほど嬉しかった。 その後、歩いて浅草寺に行った。ここでは友だちや家族へのお土産に「招き猫」の小さな置物を買っ た。最後に、私の提案で2軒の本屋に寄ったが、残念ながら買いたいと思っていた本はなかった。家に着 くと、ホストファミリーのお父さんとお母さんが迎えてくれた。弟さんは今日は別の場所に泊まること になっており、23歳になる妹さんは仕事に出ていた。1日のスケジュールを全てすませ、私は早々眠り についた。 日付:5月31日(土)小雨 6日目 大学名:天津大学 姓名:車雲飛 朝9時、日中経済協会に「肉親探し」に出かけた。いわゆる「肉親探し」とは、ホストファミリーの人 が来てそれぞれ一人づつ団員を自分の家に連れ帰って丸一日のホームステイさせるという意味だ。 「肉親探し」はとても賑やかだった。ホストファミリーが学生を引き取って行くたびに大きな拍手が 巻き起こった。私のホストファミリーは住友商事の保井正敏さんだった。日中経済協会の会議室に最後 の5名が残された時、保井さんがとうとう迎えに来てくれた。慌ててやって来たことが分かった。彼の家 は都心から少し離れた川崎市多摩区にあり、何度も乗り換えなければならないからだ。 – 63 – 保井さんに挨拶した後、まず喫茶店に入りいろいろとおしゃべりをしたが、お互いのことがずいぶん 分かったような気がした。次に浅草寺に行き、商店街で買い物をした。保井さんの家に行くのにJRと私 鉄を体験した。 夜は家で過ごした。2人の息子さんと将棋をした。とても面白かった。家族全員で温かくもてなしてく れて本当に自分の家にいるようだった。 日付:6月1日(日曜日)晴 7日目 大学名:清華大学 氏名:李婷 今日は後藤さん一家に連れられ東京国立博物館に行った。館内には日本の古代建築、日本人の模型や 文物が展示されていた。日本文化と中国文化は本当に良く似ているというのが最大の感想だった。文 学、建築、服飾、芸術、消火設備、糸より車に至るまで、どれも中国の古代と密接な関わりがある。 ケースに日本の古書が数冊展示されていたが、どれも漢字で書かれ、一見、中国書籍のようだったが、 どの展示品も日本で変化、発展していく中で徐々に日本的要素が加えられて最終的に日本独自のスタイ ルになっていた。中国は伝統文化の保存という点では日本に及ばず、中国では既に失われてしまった茶 道や和服が日本にしっかり根付いているということが残念に思えてならなかった。こうした文化の伝承 は日本に学ぶべきだと思う。 午後、秋葉原をぶらついた後、後藤さん一家が車でホテルに送ってくれた。1日半のホームステイはこ うして慌しく終了したが、後藤さん一家のホスピタリティは異国にいる私の心を何倍も温めてくれた。 最後にもう一度、後藤さん一家に「ありがとう」と言いたい。 日付:6月1日(日曜日)晴 7日目 大学名:北京理工大学 氏名:朴成浩 中国の大学生の代表として日本を訪問することができて本当に良かった。この数日、興奮と驚きの連 続だったが、今日はずっと切なく胸が痛んだ。ホストファミリーと別れなければならないからだ。 知り合ってまだ2日で、お互いよく知り合っているというわけではないが、なぜか別れたくなかった。 もっと彼らと一緒に生活をしたいと思った。これはホストファミリーの人たちがどんなに優しく私に接 してくれたかという証であり、日本人の中日友好に対する積極的な姿勢がよく分かった。中日両国間の 友好は一般国民から始めなければならないことを痛感した。私には日本で経験したことの全てを中国の 人々に伝える義務と責任がある。自分が感じたことをありのままに身近な友人たちに話すことで、より 多くの中国人、特に若い世代が中日友好に貢献していければと思う。 この2日間は私にとって忘れがたい思い出となった。ホストファミリーの菅納さん一家にもう一度心か ら感謝の言葉を伝えたい。 日付:6月1日(日)晴 7日目 大学名:北京外国語大学 氏名:孫維鉄 今日はホストファミリーの人が明治神宮と代々木公園に連れて行ってくれた。明治神宮ではちょうど 日本の伝統的な結婚式を見ることができた。和服に身を包んだ新郎新婦が祭壇に向かって礼をし、幸せ – 64 – な将来を祈っていた。本殿の前に中国四川大地震とミャンマーで発生したサイクロンの被災者のための 募金箱が置かれていた。とても嬉しかった。中国に「一方が災難に遇えば、八方で支援する」という言 葉がある。日本は中国や世界の自然災害に関心を寄せ、具体的に行動を起こしている。中国人は日本に 感謝しなければならないと思った。 両国は過去に不幸な歴史があったとはいえ、今では両国の元首が相互訪問し、戦略的友好関係にある ので、今後中日両国の交流は拡大を続け、両国の提携関係も一層密になり、中日両国の未来はさらに輝 かしいものになることを確信している 代々木はいつでも若者の街だ。ここではさまざまなタイプの日本人を見ることができる。その奇抜な 服装から日本の若者が追い求めるトレンドが分かる。多くの若者たちが路上で演奏していたが、それも スターになる近道だ。 流行の最先端と伝統の融合した大都会の息吹を感じた。代々木は日本の過去と現在、そして未来も展 望できる場所なのだ。 日付:6月1日(日曜日)晴 7日目 大学名:天津大学 姓名:畢柯敏 朝、目が覚めると、幸子さんがドアの向こうにいた。幸子さんとお母さんが朝食の準備をして客間の テーブルに並べていた。私は顔を洗い食事をした。まるで自分の家にいるような感じだった。日本の女 性は遅寝早起で家事や仕事をこなし、しかもやることが丁寧でしっかりしている。日本が抱える資源の 欠乏という問題を克服するために努力し続けてきた結果、日本民族はとても我慢強くなり、懸命に働く ことでより大きな富を創出するようになったのかも知れない。日本は夜11時頃に地下鉄が混み合う。と いうのも、夜11時が退勤のピークだからだ。日本の家庭は父親が朝早く仕事に出かけ、夜遅く帰宅する ために、子供が余り父親と顔を会わせないという。半数以上の女性が結婚後に主婦となるが、日本人は 懸命に働くことで世界第二位の経済大国としての地位を維持している。中国はなぜ自国の資源は総量と しては豊富だが、一人当たりの資源はごくわずかであるということを心に留め、その問題を解消するた めに科学技術の研究をしたり仕事の量を増やす努力をしないのだろうか。そうした努力をすれば、中国 経済が日本に追いつくのも、そんなに長い時間はかからないのではないかと思うのだが‥‥。 幸子さん一家と別れるとき、幸子さんのお母さんがピアノを弾いて「桜」の歌を歌ってくれた。ピア ノと歌はプロのようにはいかなかったけれど、お互いにホームステイプログラムが終わってしまう寂し さが増したような気がした。昨晩、プレゼントの交換をし合ったが、幸子さんの両親がまた2つの贈り物 をくれた。池田大作から送られたペンと本だった。「感謝」の2文字が私の心を満たした。 午後はお台場に行った。東京は一方が海に面しており、アメリカが日本に開港通商を迫ったときに日 本はここに砲台を設けたことから「台場」と呼ばれるようになったという。今の台場は従来のものより ずっと大きく、埋立てによって土地が造成され、人工海が造られている。フジテレビやレインボーブ リッジ、自由の女神があり、展望台に立つと美しい景色が一望できた。土地の狭さや資源の欠乏、高い 人口密度といった問題を克服して得た日本のこうした成果には驚かざるをえない。中国は国土が広いが 人口も世界最多だ。中国人も努力して日本の友人を驚かすような成果を挙げるようにしなくてはと思っ た。 – 65 – 日付:6月2日(月)曇り 8日目 大学名:中国政法大学 氏名:余韵 第1見学場所:本所防災館 本所防災館は元々の日程には無かったのだが、四川大地震の発生直後ということもあり、団員の提案 で急遽スケジュールに加えられた。半日だけの見学だったが、多くの収穫があった。 防災館全体のデザインと展示は非常に良く設計されていた。3D映画以外に暴風雨・地震・煙などの体 験館があった。地震館ではM7級の大地震を体験した。阪神大震災の最大級のマグニチュードを再現して いる。防災知識を十分学び、心の準備もできていたが、実験台の床が突然揺れ始めると、やはりパニッ クになってしまった。急いでテーブルの下にもぐって膝をすりむくところだった。 汶川大地震では、人々は心の準備も災害に対する知識も全く無いままにもっと大きな震度の地震に襲 われたのだから、どんなに慌てふためき、天災がいつ終わるのか不安でたまらなかったと思う。頻発す る余震に加え、暴風雨や飢餓感、次々に発生する二次災害によって気持ちがさらに落ち込んだに違いな い。 防災館を見学しているときに黄色の帽子を被り、制服を着た小学生をたくさん見かけたが、それは防 災館が体験方式とゲーム方式で設計されているからだということが分かった。災害時には最も負傷しや すい集団となる子供たちを教育する場合、学校や専門家の無味乾燥な講義にはあまり大きな効果は期待 できないが、このように楽しみながら学ぶという方式に体験方式を組み合わせた形であれば(中国でも 何回か防火についての授業を受けたことがあるが、実際に消火器に触れたのは今回が初めてだった)、 ずいぶん印象深いものとなるだろう。こうして日本の次世代は高い防災意識とサバイバルのための知識 を身につけていくことになる。 防災館の入口に置かれていた子象をしっかりと庇っている母象のモニュメントのように、本所防災館 は私たちに愛と人を護ってやることの大切さを教えてくれた。災害時には、こうした人を護るという気 持ちが親族や血縁の境界を越え、無限に拡大されるようにならなければならないと思った。大きな災害 時には大きな愛が生まれる。提唱すべきはまさにこうした無限の愛なのだ。 第2見学場所:一橋大学 一橋大学は日本有数の名門校であり、歴史ある大学の一つだ。明治維新後に留学経験のある開明的な 人々が資金を集め共同で設立したということもあり、一橋大学の建物はどれも西洋式だが、暖褐色の建 物の屋根に和式のトーテムがあったりと、日本独自の文化をベースにしたヨーロッパスタイルが体現さ れている。 図書館はとても静かだった。案内役の2人の中国人留学生は中国の高校を卒業した後に日本の大学に進 学したという。その上品で礼儀正しい立ち居振る舞いの中に経済・貿易を専攻する学生特有のやる気が 感じられた。 一橋大学独特の授業方式である「seminar」(ゼミ)は、欧米でいう「seminar」の本来的意味とは違っ て、学生協会というような意味合いが加えられている。同じゼミの学生同士で一緒に学び、授業の合間 には一緒に酒を飲んだり旅行に出たりもする。教授がゼミについて説明するときに、「今のゼミのメン バーが大学卒業後の同窓会に奥さんを連れて行けば、たとえ本人が亡くなったにしても、お葬式で誰が 誰だか判らないということにはならず、本当の意味の“生涯の友”になる」と笑いながら話していた。 今日はゼミ形式の授業を体験することができた。私が参加したのは神岡教授のゼミで、テーマは「アニ – 66 – メーション」だった。私たちは小さい頃から日本のアニメーションを見て育った世代で、「ドラえもん」か ら「スラムダンク」に至るまで、どれも少年時代の思い出の一部になっている。第3ゼミは早々に決められ たテーマに関する討論をすませ、あとは中日両国の違いについて話し始めた。驚いたことに、日本の大 学生は大学3年の時点で就職するか、大学院に進むかを決定し、学生の多くが就職先を決めているとい う。それに比べ、大学3年になってもまだ何も決めていない自分は少々後れているのかも知れない。 短い時間だったが、同年齢の人たちと一緒に話す中でいろいろと考えた。 ①言語はコミュニケーションのためのツールだ。機会があれば何ヵ国語をマスターしたい。日本 語ももっと練習しなければと思う。 ②日本の人々は中国に非常に興味を持っており、学生の多くが自発的に中国語を第2外国語とし て選択している。参加したゼミの中に8月に上海に実習に行くことになっている学生がいた。 彼とは中国人の気質などについて話したが、彼の質問を受けながら私も多くのことを学んだ。 日付:6月2日(月)曇り 8日目 大学名:中国政法大学 氏名:黄月瑩 今日は本所防災記念館を見学し、一橋大学の学生と交流した。本所防災記念館に入ってすぐの所に陳 列されていた防災用品に目をみはった。防災用品の種類がとても多く、家具の転倒落下防止器具から防 災備蓄食や水まであった。ガイドさんの話では、日本ではどの家でもこうした用具が使われ、防災備蓄 食などを一ヵ所にまとめて置いてあるという。日本は地震多発国であるため、地震の被害をいかに軽減 するかということでは経験豊富だ。中国汶川大地震の被害があれほど大きくなったのも、もちろん欠陥 建築という原因が大きいが、普段から震災に対する備えが全く無く、人々にサバイバルのための基本的 知識が欠けていたことも重要な原因の一つだと思う。今回、防災記念館を見学した重要な目的の一つは 日本の防災体制を理解することだった。 記念館の3階で煙、消火、地震、暴風雨などのさまざまな防災を体験した。どの体験をする時も説明係 の人が丁寧に正しい動作や行動の順序を教えてくれた。煙の中での避難は身体を屈め、鼻をしっかりと 覆うこと、消火器の使用方法、地震が発生した時には先ずテーブルの下にもぐり、ガスの元栓を閉める 等々、どの体験もとても役に立った。また、防災館では定期的に防災演習が行われ、防災館自体の見学 内容がすでに日本の防災体系の一部になっているということだが、中国もこうした防災システムの構築 について日本に学ばなければならないと思った。 午後の一橋大学の見学で最も驚いたのは、私たちと交流した学生の多くが中国語を勉強していること だった。そのうち二人が中国に実習に行くということだった。日本の大学生は中国に関心を持ち、友好 的だった。両国の今後の発展に希望を感じた。中日関係が私たちの世代の努力で更に推進されることを 心から願う。 日付:6月2日(月)曇り 8日目 大学名称:北京理工大学 氏名:劉璇 今日の日程は本所防災記念館の見学と一橋大学での交流だった。 日本は地震国であるため、早くから地震対策に取り組んで来た。幼稚園から大学に至るまで定期的に 地震避難訓練が行われ、自然災害が発生してもパニックに陥らず落ち着いて対応できるようにしてい – 67 – る。「もし中国で大きな地震が起こったら、自分もこのように落ち着いて行動できるだろうか? 他の 人たちはどうだろう?」と自分自身に問いかけてみた。 今日は地震の模擬訓練も行い、多くの地震に関する知識を学ぶことができた。今から思えば、「5.12」 四川大地震では、人々に自己防衛のための知識がなかったために多くの人が犠牲になったのだと思う。 あれは確かに悲痛な自然災害だったが、これからは「転ばぬ先の杖」を実践し、被害を最小限に減らす ことを学んでいかなければならない。 一橋大学での交流では次の二点が印象的だった。第一に、一橋大学の訪日団受け入れ係はこれまで見 学した企業の受け入れ係りと同じように親切で、全てに行き届いた配慮が見られたことと、同年代の 人々との気さくな交流を通じて自分の国に対する責任のようなものを以前にも増して感じたことだ。第 二に、一橋大学の教師と学生たちの言動からその校風に裏打ちされた自信と母校を思う気持ちと誇りが 感じられた点である。 心に感動がこみあげて来た。なぜだろう?それはこの日本という国が好きで、日本のことを大事に 思っているからだ。何をするのにも、何に対するにも、そうした強い「思い」がなければならないよう な気がする。そうした「思い」があって初めて何かを成し遂げることができるのだ。 日付:6月3日(火)曇りのち雨 9日目 大学名:北京外国語大学 氏名:樊沢玉 今日は雨だったが、みんな元気にスケジュールをこなした。 最初の見学場所は東京タワーだった。東京タワーは東京の一大シンボルで、そこからのすばらしい眺 めと美しい夜景で有名だ。残念なことに、今日は小雨が降っていたために視界がぼやけていたが、雨に 煙る静かな東京を満喫することができた。 次の目的地は中国大使館だった。大使館は私たちの「日本での家」だ。大使館では北京外国語大学の 大先輩である崔大使に会い、大使から中日関係と中日友好事業に関する話を聞くことができた。中でも 何を以って日本を先進国と呼ばしめるのかという問題で、大使が「発展は細部に宿る」と結論づけたの が印象的だった。確かに、日本人は細部をないがしろにしていないというのが、この9日間の日本滞在で 最も強く感じた点だ。トイレの内装から道路の整備まで、更には日本人の日常生活に浸透している他人 への気配りに至るまで細かい配慮が見てとれた。 最後に東京ディズニーランドに行った。2日間のホームステイの時に、ディズニーランドには「3大マ ウンテン」があるから絶対乗るようにと言われていたので、入園後は組織的かつ計画的に行動を開始し た。時間が限られていてディズニーのすべてを楽しむことはできなかったが、「3大マウンテン」はすべ てクリアーした。園内の楽しい雰囲気も充分味わい、とても有意義だった。また機会があれば、ディズ ニーランドに行って楽しい歌や踊りと音楽の中で童心にもどってみたい。 日付:6月3日(火)曇りのち雨 9日目 大学名:北京外国語大学 氏名:周睿 ディズニーランドはとても面白かった。エキサイティングな乗り物はすべて乗った。もう一度乗ろう としたが、なんと「調整中」だった。残念!でも、たくさんのキャラクターを見ることができた。特に 「トゥモローランド」は先進的なものばかりでビックリした。技術のことはよく解らないが、すごい – 68 – 技術が使われているのだと思う。一番恥ずかしかったのは朴さんと私が集合時間時間「ぎりぎり」で慌て てバスに戻った時だ。とても焦ったが、実は私たちが一番早くバスに戻ったことが判って少しホッとし た。訪日に当たって大学からは必ず集合時間の10分か15分間前に集まるようにと言われていたが、みん なちっとも守らないので本当にいやになってしまう。何とかならないものか‥‥。 午前中は大使館に行った。崔大使が大学の先輩だということが分かりとても嬉しかった。大使はとて もやさしくて優秀な人だと思った。大使との会見の中で、ある団員が中日関係について触れ、両国は もっと交流し、心の扉を開いて歴史問題を話し合うべきだと言っていた。歴史問題をただ蒸し返してば かりいてはダメで、胡主席が早稲田大学の講演で言っていたように、ことさらに歴史問題を取り上げる のではなく、むしろ中日の青年交流とアジアの振興を考えていくべきだと思う。中国の根本的な立場と いうものは揺るがせにはできないが、日本人と見れば「戦争」だ、「歴史」だと言うのはどうかと思っ た。 明日はもう帰国だ。とても名残惜しい。みんなとワイワイやれて本当に楽しかった。渡辺さん、ガイ ドの呂さん、ありがとう。団長と郭先生、ありがとう。それとずっと私たちの写真を撮ってくれたカメ ラマン。本当に名残惜しい。明日は泣いてしまうかも‥‥。 日付:6月3日(火)曇りのち雨 9日目 大学名:天津大学 氏名:徐鋭 午前中、東京タワーに行き、東京を一望した。東京タワーはエッフェル塔をまねて造られたので形は とても似ているが、東京タワーは新型鋼材を使っている関係でエッフェル塔の1/3の重量しかない。東 京のビルは高さがまちまちで密集していて、空いている土地はほとんどない。東京タワー見学の後、私 たちは「家」に行った。「家」とは中国駐日本大使館のことだ。大使館の近くに法輪功と書いたものを 手にしている人が2、3人いた。これにはみんな憤慨すると同時に、異国での外交活動の難しさが分かっ た。崔天凱大使自ら玄関に出て迎えてくれたのが本当に嬉しかった。大使館では、各校の代表が日本で の見聞や感想及び中日関係について自分の意見を述べた。大使は我が校(天津大学)の代表の発言に賛 同してくれた。二度も私たちの発表した意見について触れ、十分に肯定してくれた。最後に、崔大使は 中日両国の民間レベルの友好についていくつか感動的な話をしてくれた。中でも長野でのオリンピック 聖火リレーの時に、地元住民が日本ではお祝い事がある時に食べるという紅白の餅を作って居合わせた 中国人留学生に配って聖火リレーを祝ってくれたという話が印象的だった。崔大使は最後に「隣人は選ぶ ことができない。友好的な付き合いをすることこそが両国人民にとって最も有利な選択であり、若い世 代がもっと理解し合ってほしい。相手を本当に理解して初めて両者の関係は良くなる」という言葉で締め くくった。天津大学の代表が崔大使に北洋大学堂の金属製しおりを贈った時、崔大使が「しっかり勉強し なさい。」と言ってくれた。大使館訪問を以って訪日学習のほとんどの日程が終わったが、日本側が帰国 前にリラックスできるようにと東京ディズニーランドで遊ぶ時間を用意してくれていた。小雨が降って いたが、その雨のおかげで入園者が普段よりだいぶ少なく、みんな思う存分楽しむことができた。 日付:6月4日(水)晴 10日目 大学名:中国政法大学 氏名:尚寛 短い日本訪問の旅が今日で終わる。中国に戻る飛行機の中で、私は日本での楽しかったあれこれを思 – 69 – い出し、帰国後、友だちにどのように日本のことを伝えたらいいか、日本で学んだことをどのように生 活の中に活かしていったらいいものか考えていた。日本は美しく、開放的で清潔で、秩序のある国だっ た。いろいろな意味で中国の手本になる国だと思った。日本で見聞したこと――バスは並んで待つ、公 共の場所では静かにする、家庭ゴミを適切に処理する等々を友だちに伝えようと思う。もちろん一人の 力には限りがあるが、自分の回りの人たちだけにでもこうしたことを言い続けることで、少しでも人に やさしいソフトな環境づくりができるのだと思う。 10日間という短い日本訪問で正しく日本の各方面を理解することはやはり難しく、自分の日本理解も その多くが表面的なものだと思う。今回の訪問では、日本の企業や大学、それに一般の人々の熱烈な歓 迎を受けた。誰もが中日友好を希望し、両国の相互理解の促進に尽力している人たちだった。が、同時 に、日本には中国に対し悪意のある発言をする政治家やジャーナリストが一部存在し、彼らは中日間で 反駁しあうような感情を扇動し、中国のことを嫌っていることも事実である。中日友好を考える時、た だきれいな花や笑顔だけを見ているだけではダメだと思う。中日関係は今後も常に順風万帆ではあり得 ない。またいつか日本を訪れ、もっと深く日本のことを理解したいと思う。 日付:6月4日(水)晴 10日目 大学名:中国政法大学 氏名:蔡果 今日は日本を離れる日だが、名残惜しくて朝から落ち着かなかった。お昼にまたホストファミリーの お父さんに会ってホストファミリーの人たちの手紙やみんなで写した写真をもらった。団員の仲間が私 とホストファミリーの人たちを見て本当の家族のようだと言ったが、その通りだ。今の二人をはたから 見れば、どう見てもお父さんと一緒にいるということになるだろう。私はお父さんにもっと何か言いた かったし、彼も何か言いたげだった。私たちはありったけの思いを込めて長い長い握手をした。お父さ んは握手の後に写真を撮ると、人込みの中に消えていった。また午後会社に戻るために‥‥。 空港に向かう途中、渡辺さんがいつものように微笑みを浮かべながら別れの挨拶をしてくれた。この 10日間で渡辺さんは私たち訪日団全員の最も親しい日本の友人になっていた。こんなに善良で優しい渡 辺さんとも別れるのだと思うと、何だか切なくなってきた。空港では何度も後ろを振り返り、渡辺さん が見えなくなるまで手を振り続けた。 飛行機がゆっくりと離陸した。日本とその青々と茂った緑に包まれた大地がだんだん遠ざかって行 く。私の席は窓際でなかった。何とか身を乗り出してこの初対面の、私にすばらしい思い出を残しえく れた国を最後にもう一度見たかったのだが、結局、他の乗客の背中と窓しか見ることができなかった。 ちょっと残念だったが、よく考えてみれば、まさにこれこそが普通の中国の大学生である私にとっての 日本のイメージではないかと思った。私たちは日本で最高のもてなしを受け、当然のことながら日本に は好感を覚えたが、出会いの時間はあまりにも短く、私たちの知らない日本がまだまだあるのだ。自分 が今回の旅で「日本通」になったなどとはとても言えないが、今回の旅は少なくとも私にとって相互理 解の可能性を確信させてくれた旅だった。国と国との相互理解は人間同士の理解ほど容易ではない。し かし渡辺さんのような中国に友好的な人々がいて、そして私たちのように日本に感動した大学生がいる 限り、友情の松明は必ずや次の世代に受け継がれ、ますます明るく燃え盛っていくことだろう。 – 70 –
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