帽 子 づ く り 一 筋 に

■随想
︵高 回︶
帽子づくり一筋に
市瀬文雄
●いちせ・ふみお
1928年伊賀良生まれ。予科
年帝国
練から国分航空隊にて終戦、帰
郷して飯田中学編入。
エにて兄 人の許、帽子制作を始
ホテル内コーライ帽子店アトリ
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める。また、市瀬文雄帽子教室
宅をアトリエに、「帽子教室」を開いて居ります。
入り、以来帽子づくり一筋に過ごしてきました。今も自
り、憧れの水道橋にあった大成第二中学(夜間)に入学
ました。ところが、九か月後でしたでしょうか、先生に
奥さんが伊賀良の方というので、さっそくお世話にな
ることになり、十六歳で上京し、歯科医の住込みとなり
も開設、後進指導に当たる。
帽子を作るのは、それぞれの方の頭に合わせて、大変
に手間暇のかかる作業です。皇族の方々の帽子制作も行
しました。
召集令状が来たため、私は、紹介されて他の歯科医に移
いましたが、何回も何回も手直しなどが必要でした。
果が囃し立てられており、当時、若者たちは愛国の志に
燃え、また予科練の服装に憧れ、命と引き換えにお国を
ころ、〝歯医者の書生(住込み)となって働き、夜間中学・
を第三希望まで書かされ、私は迷わず全て飛行兵と書き
私は海軍乙種飛行予科練習生に志願するために帰郷
し、村の同級生も数名試験を受けました。その折、兵科
守るという時代で、勉強どころではなかったのです。
夜間歯科専門学校に行けば歯科医になれる―〟との話が
高等小学校一年の三学期になり、私は家が貧しくて中
学には行かしてもらえないことを担任の先生に話したと
揺れ動いていた私の進む道
帰 宅 夕 食 後 に は よ く 先 生 の 足 を 揉 ま さ れ た も の で す。
二年の一学期が終わる頃には、ラジオで大本営発表と戦
ありました。
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おしゃれで個性的な帽子づくりを生涯続けてゆきたい
と思っています。
私は、伊賀良・大瀬木生まれ。飯田高校卒業後、上京
して二人の兄のアトリエに入り、高級婦人帽制作の道に
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随想
死してしまいました。
ました。他の人は第二、第三に回され、殆んどの人が戦
して子どもをおんぶした篠原トシ子さんという方が居ら
下さったのではないかと思います。また、そこには結婚
は米国の潜水艦による攻撃で危険なため、上海へ行けず、
能を失い、数日後には皆帰郷することになりました。私
三ヵ月ほど後に、
兵舎が姫城というところに建てられ、
そちらに移動しました。敗戦とともに、国分航空隊は機
れました。
鹿児島の国分航空隊に回されました。
うと思い、篠原さん宅を訪れたが留守でした。仕方なく
予科練の教育は、熊本県人吉の山中でした。六ヶ月の
教育期間を終え、上海に配属が決まったものの、その頃
戦いはいよいよ激しくなり、B が来襲して、飛行場、
近隣にも爆弾や焼夷弾が投下され、やがて、広島、長崎
メモと靴を残して駅に向かい、帰途につきました。
国分航空隊は機能を失い、残務整理に数日かかりまし
た。皆は故郷に帰ることになり、こうして帰郷、複雑な
ついに敗戦となったのです。
寄り、大声で市瀬さん、市瀬さんは居ませんか!と声を
「あのメモを見て、配給のお米を炊いておにぎりを作
り、急いで駅に駆けつけました。列車の各車両の窓に近
帰郷して数日後、篠原さんから手紙が届いたのです。
はせめてもの御礼にと隊から支給された靴を差し上げよ
に原子爆弾が落とされ、昭和二十年八月十五日、日本は
思いで両親に挨拶しました。私の希望はこの時全て音を
限りに叫びましたが、探し出すことができず、本当に悲
その後、桜島が噴火し、火山灰で覆われ作物が枯れて困
窮しているとの報に、
救援品を贈ったこともありました。
しかったのです……。
」と、私は胸を打たれました。
たてて崩れ去ってしまったのです。
人の縁、人情の絆を実感
国分航空隊では、二週間に一度外出が許されていまし
た。
国分の町に行く途中の道端にあったある家に「ちょっ
ど素晴らしい旅を体験させていただきました。
昭和四十九年八月には、ご招待を受けて私ども一家五
名が桜島を訪問、海水浴や霧島観光、車での桜島一周な
ませてくれたことがありました。
また、こんなこともありました。篠原さんのご長男が
東京で警察官をして居られて、ご夫婦が上京された折に
と休ませていただけませんか」とお願いしたら、快く休
そ の 頃 私 は 十 九 歳 で す。 そ の お 家 は 堀 ノ 内 さ ん と い
い、十七~八歳位の息子さんが居られたので、同情して
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飯田中学は新制飯田高校になりました。私は高校を卒
業して、牧師になりたいと思っていたものの、その道は
ことのない感動を覚え、クリスチャンになりました。
ぜひ鹿児島まで行きたいと頼み、グループホームに入ら
開けませんでした。
は、
私の家にも来ていただき楽しい時間を過ごしました。
れていた篠原さんと再会を喜び合いました。
上京後、帝国ホテル内にあったコーライ帽子店という
二人の兄のアトリエに入り、高級婦人帽子を習うことに
そして、私ども夫妻が長崎旅行の招待を受けた折には、
私の生涯で、人の縁、人情の絆を実感できたことを感
謝しています。
なりました。私は八人兄弟の四男。二人の兄というのは、
次男の廣夫と三男の静雄です。静雄はパリで高級注文帽
津平牧師に迎えられました。先生から「これからは学問
すめられ、竜丘基督伝道館へ行きました。そこで高橋三
だが、その頃、母に強く勧められて、竜丘村の伯母の
家に行くと、伯母から「さあ教会へ行きましょう」とす
ました。
対を押し切って、父の職業である家具大工の修業を始め
しろ学業より職業を身につけた方がよいと決断、母の反
学を始めました。しかし、なかなか成績が上がらず、む
故郷に復員した後、私は十一月に飯田中学への編入学
が許され、四歳歳下の弟と同級生となって通学、再び勉
翼を占めていました。
縁で飯田近辺の人たちが、日本の帽子づくりの大きな一
ベルモード帽子店で第一人者として居られました。その
くりの店ベルモードを創業し、同じく飯沼出身で飯田中
当時の日本における帽子づくりは、上郷出身の人が多
かったのです。特に上郷村出身の筒井光康氏が、帽子づ
今年の三月、死去してしまいました。八十九歳でした。
ムで、日本で本格的にオートモードの製作販売。しかし、
皇室の帽子制作デザイナー
が大切だから、続けなさい」と励まされ、私は再び学校
高等小学校を卒業すると、
兄・市瀬静雄(平田暁夫)は、
十四歳で東京・銀座の帽子店に見習いとして入り、戦後
子の技術を学び、帰国して「平田暁夫」というペンネー
へ行くことを決意しました。
ケード内の店で、アメリカ進駐軍の将校夫人達も来てよ
に独立しました。兄たちのアトリエは、帝国ホテルアー
学を昭和五年に卒業した岡田全弘さんという方が、麹町
昭和二十一年一月、不思議なご縁でキリスト教会に出
合い、こんな清い世界があったのか!と今まで味わった
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随想
繊細な技術が要求される帽子
微妙な曲線が帽子の表情を
つくり出す
皇族の方の帽子も多い
く売れていました。しかし兄は、フランスの婦人帽子専
門誌『シャポー』という雑誌を見て、
「日本の帽子づくりではパリに到底及ばない。日本に
居ては駄目だ……」
と 三 十 七 歳 の 時 に パ リ に 渡 り、 フ ラ ン ス で 第 一 人 者
だったジャン・バルテ師について三年間修業しました。
そして日本に帰り、麻布にアトリエ
『オート・モード平田』
を開設したのです。私もそこへ合流し、兄が習得した技
術を習い、「帽子教室」を任されました。その時、私は
四十三歳でした。
兄 の オ ー ト モ ー ド 技 術 は、評 価 が 高く、日 本 の 婦 人 帽
子界でトップの存在となりました。さらに、その技術を逆
にパリに持っていき、パリとは違う日本の帽子制作技術
の高さ、繊細なユニークさが高く評価されるようになっ
ていきました。
昭和四十年にパリから帰国し、その翌年には、皇后さ
まの洋服デザイナーを務めていた芦田淳さんの紹介で、
今の皇后様・美智子妃殿下の帽子制作を依頼され、その
後専属の帽子制作デザイナーとなりました。他の皇族方
の帽子制作も含めて、私も兄とともに制作を受け持ちま
独創的かつエレガントなデザインは、三宅一生さん、
した。
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川久保玲さ
掛けていただ
子制作の声も
ショーでの帽
ファッション
デザイナーの
要望を聞き、共に考え、糸口を探すこととしています。
に「必要な知恵と力をお与えください」と祈り、生徒の
三回と第二月曜。プロの生徒さんたちと共に、まず神様
宅でアトリエ教室を開いています。教室は月四回、土曜
私は、兄・暁夫とともに三十年、帽子づくりの道一筋
に歩んで来ましたが、退社後は独立して、東久留米の自
〝限りなき追求とその喜びに感謝〟
きました。
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方法です。また、重い木型ではなく、重ね合わせてコン
をモットーにして帽子の制作に意欲を燃やしています。
日本橋三越本店などで「市瀬文雄創作帽子展」を数回
開きました。現在も、
〝限りなき追求とその喜びに感謝〟
ています。
生徒たちは、来るたびに新しいアイデアが貰えるので、
目を輝かせながら、東京近郊や名古屋からも参加して来
クラウン型の制作を研究開発中です。
パクトに収納できることとか、ドーナツ型にして被って
育っています。
ん。
時に最も相応しいものを製作していかなくてはなりませ
帽子制作も、時代とともに変化しています。時代の流
れ、ファッションの動向、色や生地の柄や形など、その
さが出ているようです。
私の帽子は、もともとが高級注文婦人帽でしたので、
普通は硬い感じの男の帽子制作でも、私の場合は柔らか
みることの出来るものを独自で考案しました。現在は、
りに裏打をして油性塗料を塗り、耐水性あるものにする
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私は平成十年『アトリエ市瀬』を設立、「市瀬文雄帽
子教室」も継承し、後進の指導を続けています。
一方、後進の育成にも力を注ぎました。私どもの帽子
教室には日本各地から三十年ほどの間に三千人が学び、
特に喜ばれたのは、傾斜角度のパターン 度から 度
のつばを作り、厚ボール紙で型を作り、ボンドで二重張
んら有名服装
ん、森英恵さ
時代とともにデザインも大きく変化する
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