ダウンロード - 全国遺跡報告総覧

熊本県教育委員
一
二
第
・
告
報
査
調
財
化
文
県
本
熊
jレパ川
‘y
、修豚l
パ
委員会
本県教育
熊
|
1977年
口絵1
三彩鳥型水注 ( 2対)
緑利水注(l対)と緑キIh陰刻中上丹文水注( 1対)
三彩牡丹文瓶(1対)と緑粕瓶(1対)
口絵2
染付牡丹唐草文瓶( 1対) と青磁金子
玉取り獅子と狭(白磁製)
王位・3肉製盃( 3個)
口絵 3
浜の館遺跡空中写真
所
提
菩
家
7
時
且
⑬
空中写真
⑫
れ-:.:::::�)
城 平
阿蘇歴代墓所
⑪日福王寺
旧河床(元禄の頃付けかえ)
城平
畑 qgjfJ反
惟種
宝鑑印塔
城原
、
1 1 二、\
⑫
轟でと\
④ )
ハー城(山\⑫
⑫
1:
50,000
I
GO(jf"
同函説副ぷ以孟孟
第 1図
浜の館遺跡と周辺の関連遺跡
索引図
浜の館関連遺跡名
1 . 浜 の 館(現矢 部高校敷 地)
2. 福王寺(阿蘇家菩提所)
3. 阿蘇氏歴代墓所
4. 矢村神社
敷・寺 敷
5.
上屋 (桂屋林さ ん)
6 . 惟種宝匿印塔
7 .地蔵坂
8. 小一領神社
9. 御廟(阿蘇家歴代墓所)
伝・惟豊墓
10. 五老が滝
11. 男成神社
浜の館を守る中世城跡
津々良城
梅木城
寺尾城
市原城
猿渡城
小野 城
白小野城
城
池
愛藤寺城
囲
城
勝山城
笹原城
入佐城
中島城
ヨ. (不明)城
タ. 岩尾城
イ.
ロ.
ハ.
ニ.
ホ.
へ.
ト.
チ.
リ.
ヌ.
ル.
オ.
ワ.
カ.
※こ の 外、 欄外の 高森図幅 の
υL
1
(;:)0
清和村内に仏原城および飯
蓋城等が存在する。
200(1
孟孟忌ぷー一ーヰ
:;OC!C
回
正
恒
環
一
の
こ
、
が
す
ま
り
お
て
め
進
を
化
代
近
の
設
施
校
学
、
し
施
実
を
業
事
築
改
の
物
建
険
危
校
学
等
高
立
公
け
受
を
助
補
庫
来国
年
数
こ
こ
、
は
で
会
員
委
育
教
県
、
年
か
五
。
た
ら
か
し
ま
し
定
決
に
と
こ
る
す
手
着
に
築
改
面
全
で
画
計
年
八
四
、
め
た
い
し
激
が
化
朽
老
舎
校
造
木
も
校
学
等
高
部
矢
て
し
と
の
着
め
た
る
れ
ら
え
考
も
性
能
可
の
在
存
の
跡
遺
、
で
ろ
こ
と
る
え
跡
館
伝
の
浜
の
司
宮
大
蘇
阿
、
が
達
老
古
元
地
ら
か
昔
、
は
地
敷
校
学
等
高
部
矢
の
こ
、
が
と
ろ
こ
と
た
し
来ま
て
し
施
実
を
査
調
、
掘
発
る
亘
に
次
二
、
遺
構
の
存
在
が
確
認
さ
れ
た
た
め
、
以
後
文
化
課
が
予
備
、
次
一
工
以
前
に
試
掘
調
査
を
実
施
し
ま
し
た
。
そ
の
結
果
。
す
ま
り
あ
で
書
告
報
の
こ
、
が
の
た
め
と
ま
を
果
結
の
そ
、
が
題
で
は
な
く
、
両
者
が
矛
盾
す
、
関
係
者
の
聞
で
近
年
常に
問
題
に
さ
れ
る
と
こ
ろ
で
ご
ざ
い
ま
す
が
、
二
者
択
一
の
問
開
発
か
文
化
財
保
護
か
」
と
い
う
問
い
か
け
は
「
、
し
た
。
こ
の
結
果
発
て
ま
い
り
ま
こ
の
理
想
実
現
の
た
め
委
員
会
で
も
最
大
の
努
力
を
払
っ
か
と
思
わ
れ
ま
す
の
で
、
る
こ
と
な
く
進
め
ら
れ
る
こ
と
が
理
想
で
あ
ろ
う
、
過
日
完
了
す
る
調
に
進
み
、
報
告
書
の
刊
行
ま
で
に
こ
ぎ
つ
け
る
こ
と
が
学
で
き
ま
、
し
た
し
校
改
築
も
滞
り
な
く
進
捗
掘
調
査
お
よ
び
事
後
の
遺
物
整
理
も
順
し
。
た
し
ま
き
で
が
と
こ
一
発
掘
調
査
に
よ
っ
て
出
土
し
た
主
要
遺
物
二
点
は
、学
術
的
に
も
き
わ
め
て
高
い
価
値
を
有
す
る
た
め
、有
形
文
化
財
と
し
て
昭
和
五
O
年
三
月
二
四
日
県
指
定
と
し
、
引
続
昭
和
五O
年
五月
九
日
か
ら
六
日
間
市
内
き
の
デ
パ
ー
で
ト
「
元
冠
・
南
北
朝
き
・
浜
の
館
展
」
を
開
催
し
、
県
民
各
位
へ
の
一
般
公
聞
を
実
施
し
て
参
り
ま
し
た
。
、東
京
国
立
博
物
館
で
行
わ
れ
た「
日
本
出
土
の
中
国
陶
磁
展
」に
も
展
示
し
好
評
を
と
は
し
く
て
ま
指
し
し
た
定
ま
た
。
現
在
、
国
の
文
化
財
保
護
審
議
で
会
国
の
す
文
化
財
。
す
ま
り
あ
で
中
査
審
く
ベ
・お
よ
び
報
告
書
作
成
に
あ
た
っ
て
は
、
矢
学
部
校
高
当
等
局
の
協
力
を
は
じ
め
と
調
し
査
て
、
矢
町
教
育
委
員
会
、
同
町
文
化
財
保
護
委
員
会
な
ら
び
に
地
元
関
係
部
者
。
多
大
の
ご
協
力
と
ご
鞭
撞
を
賜
り
ま
し
た
。
こ
こ
に
厚
く
お
札
を
申
し
上
げ
方
々
か
ら
ま
す
の
三
月
三
年
二
五
和
昭
熊
本
県
教
育
長
林
文
日
序
言
本稿は、熊本県教育委員会が県立矢部高等学校の改築工事に伴う事前緊急調査と
して、昭和四八年一
O月から同五一
年まで断続的に二次に亘って実施した、熊本県
上益城郡矢部町城平所在の浜の館跡の調査報告書である。
本稿の執筆は、考古学部門については発掘および整理にあたった調査員がこれを
行い、関連部門についてはその各々の項目担当者が執筆し、その報告文の末尾にそ
れぞれの文責名を記した。
なお、報告書内の遺物写真については、白石厳に、また遺跡の旧状についての写
真は矢部高等学校から、また口絵写真に使用した浜の館跡の空中写真は、同校教頭
大西教哲氏から提供を受けた。
また、遺物処理の実測等については、文化課収蔵庫の諸氏の手を煩わし、図面ト
丸山武水の協力を得た。出土遺物中陶磁器類については、
江本直 ・
レスは高木正文・
林屋晴三両氏と熊本大
小山富士夫氏 (
故人)および東京国立博物館の長谷部楽爾 ・
学、松本雅明氏のご指導を受けた。
佐藤征子の助力を得た。
桑原憲彰が担当し、西町圭子・
報告書の編集は、隈昭志・
伊j
調
査
の
組
織
阿蘇品保夫 熊本市立高等学校教諭
熊本県教育庁文化課技師
熊本県教育庁文化課主幹
熊本県教育庁文化課調査員
調査責任者 田辺 哲夫 熊本県教育庁前文化課長
境 信三郎 熊本県教育庁文化課長
調査総務 隈 昭志 熊本県教育庁文化課文化財調査係長
指 導 助 言者
中世 文献
熊本大学法文学部教授
熊本大学教育学部助教授
熊本高等学校教諭
熊本大学工学部講師
この外、県文化財保護審議会委員の原口長之氏より遺跡全般について
の指導助言をいただいた。
調査 協力 者
ステレオカメラ)
高木 正文(
栄田 賀之・
写真撮 影 白石 厳・
同馬見原分校
発掘作業 県立矢部高等学校・
山鹿文化財を守る会
県立御船高等学校・
俊郎
松
本
学(
補
参
康裕(
矢部町文化財保護委員長
同 文化財保護委員
同 文化財保護委員
同 教育委員会
矢部町城平八五O
矢部町城平八七五
西 前
野 田
調査 事務 局
宗忠
一
美
地元 協力 者
田 野
賀章(
課 長)
敏
勝
(
技
術
係
長
)
主
良喜(
競(
技
平 中
見 島
辰
之
I栗券
崎
師幹
巽
浜
田
事佐
英利
松窪
本 田
敏男彰
村河
江 大 林 志
藤西
賀
文 教酸定
雄哲 一 光
中
村
定
喜
林
田
豊
治
設
課
達 野 原
武辰憲
安上桑
北 中 森工
野 村 山藤
一恒敬
隆 紀 雄一
施
Z
査
員
。
高 大
田 田
。 査
員 任
考
古
班
調 調
文
献
班
調
建
築
六章第 五章第 四章第 第章= 章第一 章第 章
括総 浜の 遺連関 献文か 次第ー 次第
承伝の 土の 跡査の 見ら 査 査
かに 蘇阿大 区n 区1
生 グ
てき 析分 司
の
教
哲
桑 大 志 蘇阿 桑 桑 桑
原津賀品原原原
序
( 館
出
調 調
調 た
な
しミ
た
)
j兵
ス
ラッ
'""
r品
食官
大
西
館
憲正定保憲憲憲
彰 己 光 夫彰 彰彰
報書£
浜の
館
執筆
覧
ヒ
長ョ
分
f!!
次
序
文
・
例
言
・
調
査
団
の
組
織
・
目
次
調
査
跡
)
1i
(
物
第 二次 調査 (E区)
他
四、 生
第 二章
そ
の
フじ
二、 発 見 さ れ た 遺 構 ::::
ji刷
)
的)
似)
第六章
第 五章
・
・
ij :
i-
・ i i-
-
浜の館 文献 一覧 ・お わり に・
:::ji:ji:問
括 (伝承 のな かに生きて いた浜 の館 )
・
:ij iij im
浜 の館出土 のスラ ツグ 分析 :
:
:
三、 阿 蘇 家 関 係 墓 地 等 ・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
:
・
・
・
・
・
・
:
・
・
・
・
・
・
・
・
・
:
・
・
・
・
・
・
・
・
2
・
:
・
2
・
・
・
・
・
附
:
・
・
・
・
・
・
・
二、 阿 蘇 家 の菩 提寺 :
・
一、
第 四章 関連遺跡の調査j・
・
:
・
・
2
・
・
:
・
・
2
・
・
2
・
・
2
・
・
:
・
・
:
・
z
z
・
・
:
・
・
:
・
・
:
:
:
・
・
2
・
・
・
・
・
・
2
・
・
・
m
二、 矢 部 浜 の館 の終 末・
・
:
・
・
:
・
・
:
・
・
:
・
・
:
・
・
・
・
・
・
:
・
・
:
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
:
・
・
:
・
・
:
・
・
:
・
・
・
・
・
・
:
・
・
・
倒
(87) Qm
の
一、 中 世 阿 蘇 大 宮 司 居館 の推移 :
第 三章
E
の
類
況
の
似)
側 �7) (17) 紛)
遺
類
器
器
復 概
蘇
大
宮
二、 遺
磁
j舌
陶
土石
(→
(コ
(→
出 家
土
b
み 遺
た
阿 物 屋
か
三、 地 形 と 伝 承 :
ji:
:
・・
ji :
館 をかこむ中世 の矢 部の村 々・
jijijiilijia
二、 庭
三、 埋
I
:
:
:
・
・
・
物・
(47)
一、 家
アじ
承
区
物
園
屋
査
遺
(コ
目
伝
地
形
復
の
の
内
館
館
次
調
納
第 一章
一
第
文
献
上
総
文
地
理
の
館 的
地 概 環 経
形 況 境 緯
浜
の
序
(三) (コ ( ) (コ (一)
辺周
(コ
出 出
土 土
遺 状
況
(→
発
|日 掘
地
形 区
--------------------------------------------AU司u
hu
uw
hu
-悦
i
-:j
--j
j
:
::
:ji
社
神
領
一
小
J
』
::
-:j
i
{
:品川明
-:::::::::
tT
臼1) 凹) ω) U5) U3) 出) 。0) 。0) (10)
本
章
一
、
第1図
第2図
第3図
第4図
第5図
第6図
第7図
第8図
第9図
第叩図
第日図
第ロ図
第臼図
第U図
第日図
:
第二棟根石の出土状況・
第二棟根石出土状況・
第一棟全景図・
m
2
・
・
:
・
・
:
・
・
・
・
・
・
:
・
・
・
・
2
・
・
2
・
・
:
・
・
:
・
・
・
・
・
・
第三棟根石出土状況・
第一棟礎石下の根石:
刻線 ・
:
:
jiimw
jiji-
第日図
第お図
第詑図
第幻図
第却図
第四図
第四図
胸
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
:
・
・
:
・
・
:
・
・
2
・
・
3
・
・
:
・
・
:
・
・
:
・
・
阿蘇氏埋納遺物の出土状況・
:
:
:
池底部出土備前大審 :
側
・
・
・
・
・
・
・
2
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
:
・
・
・
・
・
・
:
・
・
z
昭和初期頃の庭園部付近-
附
ji2):
:
:
泉水東西断面図(
1)・
泉水南北断面図(
折り込み
jiji:
:
庭園全体図と埋納遺物の出土位置・
庭園部と家屋部の境界石列・
泉水の北側汀線部・
附
:
:
:
:
iijiiiji東方よりみた庭園の一部:
:
:
:
間
:
ji:
第I区東拡張部 第一トレンチ北壁断面図・
第却図
第却図
第お図
第幻図
第部図
:
ji:
・
間
:
jijig
出土遺物実測図(白磁碗皿類):
側
:
jijijiji瓦質土器類)・
出土遺物実測図 (
制
:
:
:
jiji:
:
:
瓦質土器と妬器類)
出土遺物実測図 (
側
:
:
:
:
ji:
:
:
ji・
その他)
青白磁・
出土遺物実測図 (
青磁皿類):
:
出土遺物実測図 (
青磁碗類)ji出土遺物実測図 (
m
第担図
第お図
第盟国
第口図
四)
二彩牡 丹
三彩鳥 型水注 ・緑 軸水注 と緑 柚陰 刻牡丹 文水注 ・一
文瓶と緑柚瓶
染付牡丹 唐草 文瓶 と青 磁盆 子 ・白 磁玉 取り獅子 と摸 ・破 璃
)
l
(
浜の館遺跡空中写真
折り込み
ji:
i:
ji:
:
浜の館遺跡と周辺の関連遺跡:
地籍図による旧地形の復元
ω
jijjiji:
:
矢部高校裏に残る掘切のと土塁⑦・
浜の館遺構所在図
昨り込み
:
側
・
:
ji・
:
阿蘇文書にみられる中世の村々:
jiiji遺跡調査区画設定図
第一区遺物遺構出土状況
問
:
jiiji第一棟家屋における礎石の配置状況ji第一棟礎石の中心をとった
柱穴内の基礎石・
の
遺
構
状
況
次
側
:
:
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
ji:
・
・
iji社・
・
・
:
・
ji:
:
・
・
・
・
・
・
(19) (16) (1日 (14) ω
折
り
込
み
�O) ω) (46)
折
り
込
み
前以
刻
筆
と
跡、
牡
丹
文
水
注
目
跡
地
形
図
を
近
の
神
第
棟
図
製
部
浜
の
キす
緑
軸
陰
t市
1
亀附甲 轟)I日1
轟)1 す田
跡
矢
水
田
時
代
の
浜
の
館
遺
口
絵
口
絵
2
口
絵
3
出
・
石鍋 :
ji・
ji:
:
i i-
第 印図
第一棟家屋に伴なう壷・
・
・
:
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
:
・
・
2
・
・
2
・
・
:
・
・
2
・
・
:
・
・
:
・
・
:
・
・
:
旧
・
・
:
・
・
遺物 実測 図 (
染
第 沼図
A B・
つの文書の主要部 分比較表:
:
:
:
:
ji・
:
:
三文 書 おける料木 用材注 文表・
:
ji-
各文書における料木の比較表:
jijii:
iil
ji側
A B
項;
第9
第8
の
関連事
年
::
向υuv
鉄釘の規格・
・
・
:
・
・
:
・
・
・
・
・
・
:
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
:
・
・
:
・
・
2
・
・
B
・
・
:
・
・
2
:
:
:
:
:
・
・
・
・
:
・
・
・
・
・
・
:
・
・
・
心
ラ
ツ
表ス
グ
分
析
表
(
鉄
津
の
)
化
学
組
成
・
j
i
--j
i
--j
i
l
--:
附
表浜
館 表
第7表
第6表
第5表
第4表
第3表
第2表
第1表
山崎家に伝世する肩衝茶入・
三 の数 字 が墨 書 さ れ た 第 一棟 礎石 :j ij iji::山
E区遺構配置図
第 臼図
第 日図
区の層序 (第 一ト ン 北壁
出土鉄釘 (
一部)と鉄浮・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
:
・
・
:
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
m
)
・
・
・
前
鉄製 ・ の他 i出 遺物 実 測 (
:
:
ji:
j-
第 誕図
第 お図
第 指図
第 幻図
第 認図
底部に
柱と柱穴との間隙に石を詰めたもの・
巨大な
平石を敷き、間隙に石を詰めたもの・
三O咽)・
・
・
・
:
・
・
・
・
・
・
・
側
柱穴 (
直径 一
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
:
・
・
・
・
・
・
:
・
・
・
・
・
・
:
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
:
:
:
:
il:
:
:邸
E区における新旧二つの建物柱穴プラン
昭和初期のH区の状況
B棟北側に付属するA土拡jji:
ji・
:
:
:
jiji側
E区北側一帯の試掘状況・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
:
・
・
・
・
・
・
2
2
・
・
・
m
・
・
・
:
・
・
:
・
・
:
・
・
:
・
・
:
・
・
・
)
阿蘇神社楼門:
ji-
阿蘇氏歴代の菩提所(
福王寺)・
福王寺境内
)
の足手荒神・
福王寺裏手の墓地ji・
:
jijim
ji-
上屋敷桂林さん・
御廟:
惟種の宝僅印塔 ・
:
iji:
:
z
目
I区)
柱穴底部の根石の状況 (
第 お図
土 付
類
)j
m
土図
品
そ
)j
i
側
..........
・・・・・・:
:
・・・・・・・------m
)
円,t
- レチ) :
hu
u
C
-ニ
附
・
Cに 側
J
刷
第 羽図
第 剖図
第 剖図
第 必図
第 必図
第 制図
第 MM図
第 必図
出
第 幻図
第 特図
明治の地籍図上にみ れる浜の の規模:
jiji:
た多数の土師 質 器 (燈明皿
第却図
的) 的) 陥)
る
次
土
工
具
痕
i
AHU
'E
E品
(
附
・・・・・・・・・・・・側
・:
・・・・:
・・:
・・・・・:
織
組
鏡
微
顕
の
津
鉄
土
出
館
の
浜
-ω
土 土)
i
j
i
---j
し
ら
館 凶
52)
底
石
の
形
状
と
出
状
況
明 師
皿 質
油
煙 器
痕 口
径
覧
表 覧
表
残
表
燈土
土
み
�8)
折
り
柱
穴
第2図
浜の館遺跡地形図
(現矢部 高校敷地)
N
、凶W
AU
U
、山m
-AU
、治
、山い
AU
U
‘0
・Aup
、山
‘、uい
o
__
____��O m
章
調
査
の
経
緯
が 試 掘 調査 の 責 任 者 とし て派 遣 さ れ る こ とに な っ た 。
四 八 年 一 O 月五 日 1 六 日 、 現 場 に 県 文 化 課 、 和 久 田 建 設 、 矢 部
高 校 の 各 関 係 者 が 集ま り 、 運 動 場 の ほぼ 中央 部 の 基点 を 中心 とし て東
西 南 北に 幅一 m 、 長さ 六 m に及 ぶ四 つ の 試 掘 溝 を設 定 し た 。 各 試 掘 溝
に は 東 西 南 北 の 順に そ れ ぞ れ 陥 1 1 4 の 番 号 を 付 し た 。
各 試 掘 溝 を パ ック フ ォl で 約 二五 O叩 ま で 掘 り 下げ 各 試 掘 溝 断面 を・
精査 し た と こ ろ、 表 土下回 O 叩 の 所に 薄 い 帯 状 の 焼 土層 が 認 め ら れ た 。
こ の た め 、 こ の 焼 土層 が 著し く 認 め ら れ る 蜘 4 試 掘 溝に 平 行 し て幅 二
m 、 長 さ 九m の 肋 5 試 掘 溝 を 設 定 し 焼 土層 の 拡が り を 追 跡 し た 。
地元 で 語 り つ が れ 、 小字 名に も 存 在 を 裏 付 け る 地 名 が 残 っ てい る 。 し
れ る 菊花 を形 どっ た 金張 りの 小 金 具が 出土し た。 このため 、 山5試 掘 溝 を
完 形 の 土師 質燈 明皿 三個 を は じ め 、 洪武 通 賓や 太 万 等 の 装飾 具 と 思 わ
こ の 結 果 、 焼 土層 か ら 落 ち込 み が 確 認 さ れ 、 落 ち込 み の ひ とつ か ら
か し 、 こ の 地 域 は 過 去に 遺 物が 出 土し た こ とも な く 、 ま た 遺 物 の 散 布
以上二 日 の 試 掘 結 果 を ま とめ 、「浜 の 館 関 係 資 料」を作
-予備 調 査
成し 、 関係 者 に 配 布し 、文 化 課 長 お よ び 関 係 者 と善 後 策 を協 議し た 。
一 O 月八 日
礎 石の 根 石 と思 われ る 人頭 大 の 川石が 鈎状に ほぼ 等 間 隔 で現われた。
更に 西 側に 拡 張し 九m ×六m の 試 掘 溝 となし 、 掘 り 下げ た とこ ろ家 屋 の
試掘 調 査
期日 を 追 っ て 調 査 の 経 過 の 主 な る も の を 列 記し てい く こ とに す る 。
査 、 復 元 工 事 と足 か け 四 年に 亘 る 調 査 を 実 施 す る こ とに な る が 、 以下
この 試 掘 調査 を 契 機 とし て 、 以 後 予 備 調査 、 第一次 調査 、 第二 次 調
っ て ま ず 試 掘 を 行 い 、 遺 構 の 有 無 を 確 か め る こ と とな っ た 。
臨 時 も あ っ た が 、 文 化 課 長 の 田 辺 哲 夫 (現玉 名高 校 長 ) の 指 導に よ
の せま っ てい る 工 期 を 延 長 し て 発 掘 調査 す る こ とに つ い て は 、 若 干 の
も 見 ら れ ず 、い わ ゆ る 周 知 の 遺 跡 で は な か っ た 。 こ の た め 、 着 工 時 期
校 庭 が 阿 蘇 大 宮 司 の 居 館 とい わ れ る 浜 の 館 跡 地 で あ る とい う 伝 承 は 、
し て文 化 課 へ も た ら さ れ た の は 昭 和 四八 年 九 月 の 事 で あ っ た 。
県 立 矢 部 高 等 学 校 の 校 舎 改 築 工 事 の 実 施 が 、 教 育 庁 内 課 長会 議を 通
調査の動機
、
文 化 課 で は 遺 跡 の 重 要 性に 鑑 み 一O 月中旬 か ら 下旬 に か け て予 備 調
査 を 実 施 し た 。 調査 の 目 的 は 、こ の 遺 跡 が 果し て地 元 の 伝承 ど お り 阿
蘇 大 宮 司 の 居 館 「浜 の 館 」
跡 で あ る か ど う か を 確 認 す る こ とに あ っ た 。
二 五 m の 発 掘 区 域 を 設 定 、 表 土約 三O叩 を ブ ル ド ー ザー で 排 土し た 。
調 査 開 始 、 運 動 場 の 北半 分に 三 O m ×
の 余 裕 も な い の で 、 ま ず 校 舎 建 設 予 定地 の 旧運 動 場に 試 掘 溝 を 入 れ 遺
試 掘 調査 時 の 肋 5 試 掘 溝 周 辺 か ら 、 直 径 二五 個 程度 の 川石 と近 世末 の
昭 和 四 八 年一 O 月一 一 日
跡 の 有 無 を 確 め 今 後 の 対 策 を 立 てる こ とに な っ た 。文 化 課 か ら は 桑 原
四 八 年一 O 月 よ り 、 和 久 田 建 設 が 基 礎 工 事 を 開 始 す る 予 定 で 一 刻
(三)
1
序
(→
(ニコ
恥
恥
恥
恥
恥
陶磁器片若干が出土した。
一
O月一
四日 残土の処理と焼土層の拡がりを追跡した。
一
O月一
六
日 林科二年と生活科二年の助力を受けた。以後予備調
査の期間中、社会科の授業の一環として毎日、各科クラスが調査に参
加した。
なお、
星子悦郎、
竹馬修吉岡教諭からはとくに多大の援助を得た。
一
O月一
七
日 発掘区域の両端一帯 ( 団l師、イロハ)から腐蝕
の激しい銅銭が出土した。
唐代の閲元通賓と判明した。
一
O月一
U・
一
二日 日・
侃伺・
印の 「
リ」の各部分について精
密発掘を行った。出土遺物としては銅板破片、
鉄片等があった。
その他、明治の末頃まで旧運動場地区内に住んでいたという矢部町
白糸の野中氏にお出いただき、学校建設以前の地形等についての聞き
取りを行った。同時に大西教頭と水路の水取入口周辺を踏査した。ま
た、午前中に上益城郡内の教育委員会社会教育関係者一O数名の現地
見学があり、志賀、大西、桑原が説明した。午後は矢部高校馬見原分
校の竹馬教諭外生徒四名が調査に参加した。
夜は出土遺物 (
金属類)の水洗と破損部分の接着等を行った。
一
O月二三日 白!叩の 「
ト」の部分の精密発掘を行った。 侃
の「
リ」からは口宗通賓が出土、また大西教頭の御尽力で再び野中氏
兄弟から学校建設以前の旧地形についての聞き取りを行った。
一
O月二四日 白lmの 「
へ」の部分の精密発掘を行った。
へ」から青磁の大鉢高台部が出土した。
の「
一
O月二五日 県文化課より田辺課長以下関係者数名が視察。現場
で本日までの調査の概略を説明した。出土遺物等は校長室に展示した。
視察の後、今後の調査についての打ち合わせを行った。
70
No.
一O月二七
日 本日でA
7
回の予備調査を終了した。
以上一
0日間の予備調査の結果、遺構が良好な状態で存在すること
が明らかとなった。しかも、試掘段階で持った、恐らく運動場造成の
際完全に撹乱され、遺物は存在しても遺構は確認できないのではなか
ろうかという懸念に反して、今後の調査によって遺構の把握が可能で
あるという確信を得た。
出土遺物も、中 世遺跡より出土する普遍的な遺物は殆んど出土し、
青磁器類にいたっては、一般の遺跡では見られないような大型
とくに、
の皿が出土しており、遺跡が並々ならぬものであることが明らかとな
った。青磁器類は、明代のものが多いことなどからも天正一
四l一
五
年頃落去した浜の館のものに十中八、九間違いないという確信を持つ
にいたった。また、発掘調査と同時に行った地
形・ 地名の調査や、地
元に残る伝承等からも浜の館の実存を裏付ける予想外の成果が得られ
たので、校舎建設を若干延期して、第一
次調査を実施することにした。
次 調査
四 第一
阿蘇
当矢部高校運動場から発見された中世遺構が、
予備調査の結果、
浜の館」の遺構に間違いないという確信を持つにいた
大宮司の居
館 「
った。
そこで、予備調査によって得られた資料を元に課内で協議した結果、
遺構の保存状況も良好であり本格的発掘調査を実施すべきであるとの
た。
結論を得、施設課の協力を求め本格調査に踏み切ることとなっ
とくに施設課の校舎建築の年度計画に合わせ、四八年度の着工分であ
へI区)とし、四九年度
次 調査地区
る運動場部分の発掘調査を第一
とした。運動
且民)
次 調査地区(
着工部分である校舎所在部分を第二
--
2
場部分については、すでに着工期間にはいっており、期日の余裕がな
いため、発掘調査態勢も充分にとれないまま予備調査に引続いて十一
月一日から第一次調査に踏み切ることとなった。調査期聞は暫定的に
約一ヶ月とした。
昭和四八年一一
月一日 調査開始。発掘個所は、予備調査で表土を
はいだ三Om×二五mの区域である。二m×二mの南北に合わせた正
確な方眼を設定し、この方眼を基本にして諸国面を作成することにし
た。 (
第2図参照)
一一
月一
四日 恥臼lUの 「
イ」!?こ 部分の排土を行った。焼
土を丹念にはぎ取ったところ焼土中から茅の炭化物が出土した。また、
宋銭)が同所より出土した。
土師質土器片や明道元賓 (
六日 表土下約六O叩の所から、平らに敷き詰 められた拳
一一月一
大の磯群が約三mに百一
って出土した 。当時の遺構か、後世の田の畔か、
判明しなかった。土師片、青磁碗片が若干出土した。
一一月一七日 恥回!叩の「
イ」!?こ の範囲を約深さ二O叩に亘
って排土したが、撹乱が著しい。磯群と燈明皿片三個体分及び風化し
た法螺貝の芯の部分が出土した。
一一
月一
八日 恥冗l花の 「
イ」l 「
ニ」の部分の排土および、昨
日排土した部分の精密発掘を行った。用途不明の銅製品が出土した。
九時から一
O時まで矢部高校の文化祭で、発掘調査の報告も兼ねて浜
の館についての講演を行った。聴講者七OO名。
一一月一
!「
九日 恥冗!ηの「
チ」
の排土と、昨日排土部分の精
ホ」
密発掘を行った。方形の落ちこみや漆喰の詰った小穴の列が発見され
たが、旧建物の柱穴跡と思われる。鉄製角釘や文字不明の銅銭等が出
土した。
一一月二O日 恥冗l花の「
l「
の排土と精密発掘を実施。焼
ワ」
リ」
土、木炭類の散乱が多く見られ、また焼土内より銅銭も出土した。
A
7
日で、.
予備調査段階で設定した三Om×二五mの発掘区域の調査
を終了した。なお、既調査区の南側に調査区を拡張すべく、ブルトlザlで
排土中に三個の礎石と思われる石を漆喰の中より発見した。場所は恥印
l冗の「
i「
タ」
の部分で、焼土や木炭粒が多く見られる場所である。
ヨ」
一一月二四日 南側拡張部分に、南面した一
棟の礎石群が存在する
ことが確認できたので、ブルドーザーで表土をはぎとった跡の残土の
排土作業を進めた。山鹿文化財を守る会の協力により作業がいちじる
しく進み、
本日中には礎石群を覆っている焼土層の露出にまでこぎつけ
た。同調査区より滑石製石鍋、燈明皿片、鉄製角釘等が出土したが、
全般的に遺物の出土は少なかった。本日は調査の見学者が多かっ
た。
一
一月二五日 日曜日で作業員の集合が悪いため、遺物の平板への
記入を行った。なお、高岡教諭引率の七名の御船高校生徒が後で参加
したので、発掘作業もほぼ平日と同様に進めることができた。
「
レ」
ラ」
「
一一月二六日 恥日l初 ・
部分の発掘。本日で発掘予定地
内の表土はぎは全部終了した。また、昨日に引続いて隈・
高木により
礎石実測とステレオカメラによる燦群の撮影が行われた。
なお、今日は発掘現場横で矢部高校新築工事の起工式が行われたが、
その際県知事、県教育長へ遺跡の概略を説明した。
ワ」・「
一一月二八日 蜘日!「
レ」
l「
ラ」
の平板測量。この部分から
第一
棟の屋根材の萱の炭化したものが出土した。
月二九日 第一
一一
棟の床面の精密発掘。遺物は少なかったが、床
-3-
面から銭貨、
菱形の飾り金具、
燈明皿片、三彩の破片等が出土した。第
一
棟家屋は中央部に炉が設けられ、
遺物 の性格等から考えると対面所的
な性格が強いように思われる。第一
棟北側に一
Omほどうず高く盛上
った赤土は壁土の落ちたものと思われる。なかには炭化した親指大の
竹がほぼ完全な形で出土したが壁に使われた小舞竹であろう。
一二月 一
日 第一
棟西側部分の露出を行った。漆喰と焼け落ちた焼
土がうず高く積っていたが最下層より小離を敷きつめた、たたきの部
分が発見され、第一
棟は妻入りであったことが明らかとなった。
一
二月二日 昨日に引き続き第一
棟床面の精密発掘を行った。県文
化財専門委員原 口長之氏が来訪され、種々の指導をうけた。
→二月三日 第一
棟床面の清掃を行い、実測用の水糸を張った。清
掃の際、床の大引を支えるための束を立てたと推定される礎石の土拡
跡が確認され、この家屋が土座でなく、床を持つ家屋であったことが
確認された。文化課より、田辺課長、また熊大工学部の北野氏の来訪
を受け、助言を得た。
一二月二 一
日 第一次調査区の遺構全部の写真撮影を行った。
一二月 一
三日 第一
棟礎石が移転復元と決ったので記録保存の見地
から昨日に引続いて写真撮影を行った。また同時に恥刀lm「
ソ」
1
部分の精密発掘に着手した。
「
ラ」
一二月 一
八日 既発掘個所の遺物を平板に落し、取りあげを行った。
遺物出土層は表土下六八聞から七Omの所で、このレベルでの出土が
一
番多く見られた。また恥Ulm「
ホ」
l「
の個所で、礎石が失われ
イ」
恨石のみ残る、桁行四問、梁間
棟とほぼ同じレベルにある
二聞の第一
家屋跡が確認された。この家屋跡を第二棟と命名した。
一二月二O日 午前中は第一
棟の南側より出土した査の破片の散乱
状況を、午後は昨日確認された第二棟の根石の実測を行った。
一
二月二一日 第二棟とその周辺の写真撮影を行った。なわ、I区
サンエス技
の層序関係の方柱状の土層断面の硬化を保存科学研究会 (
研)に依頼していたが本日より係員三名で作業を開始した。
棟東側に、家屋等の遺構の存在を想定して、
四九年一
月七日 第一
東西了二Om×一
三mのトレンチを設定して深さ五Omまで掘り下げ
た。この結果、礎石の存在は認められなかったが、北壁面に種々の落
二個が出土し第
ち込みがあり、中から燈明皿三個、青銅製の飾り金旦
棟以前に何らかの掘立柱の家屋が存在したことが判明した。
一
棟の礎石移転のため各礎石の清掃を行い、各礎石に
月九日 第一
一
墨査を使い墨打ちをした。また、昨日設定したトレンチに直交させ南
北に同規模のトレンチを設定した。
イ」
の一以下の記号を記入し、礎
O日 第一棟の礎石全部に「
月一
一
石の撤去を始めた、根石を露出しその実測を行った。取りはずした礎
石は校門横まで運び穴に埋め、復元の日まで格納することにした。
棟西
月 一一日 全部の第 一棟礎石の格納を終了した。また第一
一
側のたたきの部分の実測を行った。この部分には礎石はないので相当
柱穴跡と見られる落ち込みが三ケ所あることが判
部分を精査した結果、
定間隔を
棟の礎石の撤去後、再び床面を削ったところ、一
った。第一
棟の桁行と平行して発見された。第一
持つ七つの落ちこみの列が第一
棟以前に建てられていた家屋の柱穴跡と思われる。
棟西側たたき部の砂利除去と落込み部の排土。
月 一二日 第一
一
棟北側の掘り下げと根石の露出と実測および取り
六日 第一
月一
一
--
4
あげと運搬を行い、第一
棟の礎石類全部の移転を完了した。
棟下部遺構および北側一帯の発掘を行った。ま た
七日 第一
月一
一
東側拡張部に設定した第一トレンチの断面実測を行った。
棟の北南部にある、二つの落ちこみの排土を行っ
八日 第一
月一
一
Bの落ちこみが円形で深
Aの落ちこみが深さ二二O佃で方形をなし、
たo
六O倒。伺のための穴か不明である。また、同じ個所に巨大な
さは一
板石が斜めになって埋っているのが発見された。
一月二二日 浜の館の周辺を巡っていたと推定される濠の有無を確
濠に直交するようにトレンチを設定し層序を調べた。
認するために、
棟北西部の発掘及び中央部排土。この北西部から
月二三日 第一
一
棟設置以前の家屋の根石と思われる。また、第
根石が出土したが第一
棟西側から長さ約一m余もある大型の礎石状の石が出土した。
一
棟北西部の清掃をした際、燈明
月二四日 写真撮影のため、第一
一
皿片をはじめ染付片、天目茶碗片などが出土し、銅製の飾り金具二個
も同所の排土の中より検出された。昨日の礎石状の石が周辺に存在す
ることも考えられるので、ボーリングをして探索したが発見できなか
った。県教育次長、施設課長補佐その他の視察があった。
月二五日 西北部の発掘を昨日に続いて進めた。また、礎石が後
一
世抜かれて他に転用された可能性も考えられるため大西教頭と周囲の
転用された疑いのある場所を踏査した。
一月二八日 西北部の発掘を続けた。ここは山裾に近く、遺構は存
在しないと考えていたが、やや大型の石が出土した。傾いた状態で落
ちこみの中心に位置しているので当館跡が田畑等に転用された際、邪
魔になるので埋め込まれたものと思われる。また、この一帯の地山は
黄色土であるが、後世の撹乱および落ちこみが多く、黄色土の残る箇
所は殆んど見られない。この石の根元から天目茶碗片が出土した。
一
月二九日 西北部の掘りさげを進め、遺物を平板に落した。午後
は雪のため、測量中止。降雪中の作業風景を八m
映画に収めた。
一
月三O日 ブルドーザーを使用してトレンチ・お
よび発掘区域の
部の埋立てを行った。またブルドーザーの点検整備を行った。
発掘を進めている西北部より七O×七Om程度の大石
が二個絡み合った状態で出土。庭園と推定していた所からの出土であ
るので至急学校側とも相談し、文化課へ連絡し課としての決定を待つ
ことにした。出土した石は青珪石で近くにはなく緑川付近から運んだ
ものと思われる。また第一
棟の西側の梁聞の礎石列に沿って列石が現
われた。南北にかけて走り、北端で西に折れ続くので、第一
棟以前の
建物の土留かまたは何らかの境界線とも思われる。
一一
月 一日 西北部列石の露出を続け、西北部から北側にかけての排
土の山を和
久 田建設の協力で移動した。また、大正期頃まで当地に在
住していた野中隆三氏にお出願って、
再 度地形の復元作業を行った。
二月二日 遺跡の西北部一帯にかけて出土した数々の大石や列石は、
浜の館に付属する庭園の庭石にほぼ間違いないことが判明したので、
この部分の発掘に全力を注ぐことにした。まず鈎状に走る列石の北側
にトレンチを設定し、この列石の性格を調べることにした。
月三日 庭園推定部の発掘を続けた。とくに恥1大石の根に直径一
一一
om程度の根石が用いられており、この付近から青磁大皿片、土師質
燈明皿片、鉄釘などが発見された。庭園と思われるので、原口長之氏
の指導助言を受けることにした。この結果、原口氏より 「
当時、禅宗
月
日
-5 -
系で造園された枯山水ではなく、池を持った庭園のように思われる。
数少ない貴重な遺構と思われるので作業員を大幅に増して調査を進め
たらどうか」という助言を得た。また文化課長からは電話で排土の処
理等については課より上野参事を派遣するので、一O日までにはこの
遺構が庭園かどうか判明するように、発掘に全力を注ぐようとの指示
を受けた。
第一
棟跡に幅一・
八Om
×一六mのトレンチを東西に設定し、五O
仰の深さに掘り下げ、先に発見された鈎状の列石がいかなる性格を有
するものであるかを追跡することにした。トレンチ北壁の層序は、こ
の列石を境に西側は黒色、白色土木炭片を含む五l六Omの落ちこみ
で東側は一
Om程度の腐植土をかぶった地山の黄色土で、この列石が
落ちこみと平坦部の境石として使用されていることが明らかになった。
一
一
月四日 庭園部の排土と精密発掘。排土が進むに従い、庭石と
思われる大石が次々と出土し、確認されたものだけでも九個に及んだ。
このため、順次恥li9 まで番号を付した。なお出土した大石につ
いては、矢部在住の鉱山技師、藤森忠二氏に岩石の調査を依頼した。
一
一
月六日 昨日鈎状の列石群が、
落ち込みと平坦部との境石であるこ
分
とが判った。
この西側の落ち込み部の拡 がりを知るためロ この部
m長さ五mのトレンチAとBを東西及び南北に設定し発掘を進
木炭
めた。この落ち込みは相当広範囲に拡がっており、焼土や粘土・
たしまりのない土が落ちこんでいることが判った。落ち込み
等を含ん、
のなかから銅製のつまみの付いた蓋が発見された。底部はかたい盤と
なっており、鉄分の沈澱が見られた。以上の結果から、この落ちこみ
は庭園内の泉水の跡である可能性がきわめて大となってきた。
幅
三月七日 A-B二つのトレンチ掘削により、落ち込み部分の拡が
りを把握できたため、本日から落ち込んだ土の排土にかかった。排土
中から陶器底部鉄釘等若干が出土。
併 行して昨日同様二O分の一の
図面の作成を進めた。午後は文化課長、大田施設課長ら、関係者一
行
の視察があった。なお、その際、充分調査を実施するため、調査期日
を二月二一
日まで延長し調査終了後はこれら庭石類を移転復元するこ
同もこれを了承した。
ととし、施設課その他関係者 一
月八日 庭園部西側一帯のブルドーザーによる排土跡の精密発掘
一
一
と清掃を行った。 既出土の恥2大石の位置する個所より以西は地
山の黄色土が徐々に高くなりながら続き、遺物の出土は見られない。
一
一
月一
三
日 泉水部分の排土を続けたが、排土中より鉄浮が二個出
土。鉄津は以前にも出土しており、屋敷内で小鍛冶に専念する職人が
存在したのではないかと考えてみた。午前中は雪溶けのため土が粘り、
排土 作業は困難をきわめた。
四日 庭園部西側の排土と泉水西側の汀線の確認と泉水内の
月一
一
一
落ちこみから出土した遺物を取りあげた。午後は二O分の一の図面取
りを続けた。銅が溶けて付着した石製の鍋底部片が出土した。
日 二O分の一の図面作成・お
五
二月一
よび写真撮影を済ませた後、
遺物の取り上げを行った。
二月一八日 遺物を取り上げた後、泉水内に落ちこんでいる人頭大
たところ、深さ印
の浮いた喋を除去した。泉水底面をジョレンで削っ
m程度の落ちこみが五つ確認できた。この落ちこみはほぼ等間隔で一
直線に並ぶので浜の館における一時期の家屋の掘立穴の跡であろうと
{八
思われる。これらの穴の壁には、
を掘った用具の跡が条痕となって
- 6 -
残っていたが、現在見られるような条痕ではないので古い時期の柱穴
であることが判る。
九日 庭園部の二O分の一の平面の実測はすべて終了。なお、
月一
一一
この遺構が泉水であったことを疑問視する人もいるが、底に沈む鉄分
の層が汀線部分で消えていることなどからもこの落ちこみ部分に水が
撮っていたことは明らかである。今日から和
久 田建設では、発掘終了
区域の埋立てを開始した。
月二O日 泉水の汀線部は殆んど残っていないが、泉水の東汀線
一一
の石組は比較的良く残っているので立面を二O分の一で実測した。
なお、庭園であるかどうか確証を得るため、矢部高校の大西教頭
の紹介で、矢部町畑に住む庭師の村山秀次氏 (
故人)に遺構を見ても
「
らった。その結果、
庭園跡で、見る位置は東側もしくは東南方向から
であろう。位置はそう変ってはいまいが倒れたり埋めこまれたものが
多い。なんといっても、泉水の真中に浮き石として使用された恥1の
大石は素晴しい」
という話であった。
とにかくもこの遺構を元に、村山
氏に庭園の復元図を書いてもらうことにした。なお、泉水への水の取
り入れ口は、北側の砂利の敷かれた部分にあったのでは、と推定され
る落ち込みも西の汀線に沿って存在するのが確認された。
一一
月一
二 日 庭園部全景の写真撮影を行った。また平面図で抜けて
いる点、不備な点の点検を行うと共に抜けている所の実測および補整
にあたった。なお、学校より借用していた測量用具等を返却し、他の
用具はすべて水洗いをした。
二月二二日 第一次調査終了。庭園部については、二月七日の現地
打合わせ会で校舎敷地の都合上、設計変更が不可能なため、移転復元
する旨、施設課との協議が済んでいた。このため早朝よりブルドlザ
ーで庭石の取り上げにかかった。取り上げた庭石類は新校舎竣工後中
庭に復元予定のため、校門右側の空地に運んだ。
なお、午後、庭園部に立ち庭石を取り除いた跡地をながめていた時、
数個の黒い落ちこみが取り除いた庭石の下に存在することに気付いた。
この落ちこみが何となく、気にかかったため、そのうちの一穴の排土
を行った結果、数十個の人頭大の喋の下から三彩焼の瓶が現われ、以
下二つの落ち込みより一
一
一
点にものぼる、
阿蘇氏が埋納したと思われる遺
物が相次いで出土した。
手速く完全露出し、
カラーで写真撮影をし、
二O
分の一の図面作成にかかった。一
次調査の終了は本日午後二時を予定
していたが、一
応出土遺物に対する処理を終え、予定どおり本日をも
って一
次調査のすべて終了することができた。なお、夜七時に文化課
長宅ヘ数々の貴重な遺物が出土した旨を電話で連絡した。
国 第二次 調査
昭和五O年九月二日、県教育庁施設課から文書で、県立矢部高校改
築工事に伴う第二次文化財調査を実施するよう調査依頼があった。発
掘調査面積は約二、ooodである。
九月二九日 教文第四二八号で発掘屈を文化庁に提出した。
一
O月二七日 文化庁から昭和五O年一O月二三日付け委保第五の
二三四一号で、発掘について許可の通知があった。
一一月70日 施錠設備のある現場小屋と女子便所を設置した。ま
たブルドーザーの点検 ・
作動を行った。また今後の調査について学校
側と打合せ等を行った。
発掘調査開始。南面して建つ長さ五Omの校舎跡に
月
日
--
7
れたが、比較的新しい時期のものが多い。これらの陶磁器片に混って
備前系の聾片、瓦質摺鉢片が見られるが、全般的に破片が小さく摩滅
していて遺構の破壊が古い時代に行われたことが判る。
一一月一七日l二七日 この間に東方から西方へ、旧校舎のコンク
リlト基礎に沿って発掘を進め、二七日には一
応この部分についての
発掘を終了した。この間柱穴の外に長径一
五O句 短径六五畑、深さ
一二Omの中世の墓堪かとも思われる落ち込み、また約二m間障で並
ぶ直径一OO佃、深さ一二O叩程度の落ち込みが四穴も現われ、掘立
の家屋等の遺構が、現在の玄関部分からその南側の泉水、前庭部分に
かけて存在することが明らかとなった。
またこの期間中に青磁碗片、備前饗胴部、土師質土器片等若干が
引続いて出土し遺構の存在を裏付けた。
一一月二八日 第一
校舎跡の発掘が終了したため、午前中は排土の
整理を行った。午後は遺構の略測と遺物の取り上げ、水洗等を行った。
一二月から第一校舎前庭部の発掘にかかるため、上野の応援で 「
弾正
さ 」周辺の表土をブルドーザーにより排土した。
一二月三日1一
O日 この期聞は「弾正さん」と呼ばれる現在百日
紅の老樹の繁る地域を中心に調査を進めた。「
弾正さん」は学校が建
設される以前まで地元民の信仰を集めていたらしく、江戸時代末の陶
磁器片を中心とした遺物が出土した。また巨大な樹根跡が、地山の黄
色土に喰いこんで確認されたが、これが肥後国誌や古老の話にある
「
弾正杉」
の株の跡にまちがいないと思われる。
周辺の発掘を終わり、柱穴等の
一二月一一日l二七日 「
弾正さん」
落ち込みが多数集中する前庭部の玄関から泉水部分にかけて発掘を進
叫
二m×二mの方眼を組み、東側より順次排土を開始した。また発掘調
査と併行して、昭和六年頃の旧校舎配置復元図の作成を地元の古老の
話を元にして進めた。
今回の調査地域の層序関係が判明した。
月一二日 本日の発掘で、
一一
その概略は次のとおりである。
表土下二八聞は黒色土と黄色土の混り合った土で、運動場造成の際
の盛土と思われる。矢部農林学校創設当時この部分は、校舎と寄宿舎
に固まれた運動場であった。第二層は校舎建設前の水目だった時代の
土で水田特有の灰色土で厚さは二Omを計る。この水田土の中から瓦
八mあり赤黄色土に黒色土が混
器片一片を採集した。第三層は厚さ一
っており、水田造成時の客土と思われる。
校舎建設前の旧地籍図に描かれる水田の畦もあらわれ、中
また、
世の遺構の存在を推定せしめる遺物類が若干認められた。この下の第
四層は純粋な黄色土となり、この黄色土がこの区域の地山となってい
,。
。
月一三日 発掘区域から一一個の落ち込みが発見された。うち
一一
三穴が直径五O畑、深さ七O佃程度のもので他は、直径二五畑、深さ
本日の落ち込み
うちひとつは樹根跡と思われる。
五O佃の小形の穴で、
の発見で、この区域に家屋の存在した可能性が強くなった。
月一四日 昨日に引続き不規則ながらもさらに一O穴ほど落ち
一一
込みを発見した。このなかの直径七五畑、深さ五O佃の穴には、その
底に敷石が施されており、これらの穴が住穴であることがさらに確実
となった。なお、この石は平らな石で平坦面を上に置かれていた。
一一月一四日 水田時代の灰色土のなかから近世陶磁器片が発見さ
- 8 一
ラ ン 確認 に 重 大 な 誤 謬を ま ね く 可 能 性 が あ る た め 、 こ の 撤 去に か か っ
ク リ ー ト を く ぐ っ て お り 、 こ の 基 礎 部 分 を 取 り 除か な い と 、 家 屋 の プ
め た 。 と く に 一 大 家 屋 跡 を 形 造 る 巨 大 な 柱 穴 列 が 、 第一 校 舎 基 礎 コ ン
地 山 の 黄 色 土とな っ て お り 、 同 様 の 結 果 し か 得 られ な か っ た 。
か っ た 。 ま た 定 時 制 の 校 舎 跡も 表 土下二 O 仰 を 排 土し た が 、 表 土下 は
の グ リ ッド を 四 箇 所に 設 定 し 掘 り 下げ た が 、 遺 物、 遺 構 共 に 存 在 し な
な お 、 第二 校 舎 と定 時 制 校 舎 の 聞 の 中 庭 部 分 に二 O O m ×二 O O m
一日 よ り 二 O 分 の 一 の 図 面作 成に か か っ た 。 こ
た が 、 破壊 す る の に 多大の 労 力 を 費 し た。
一
一月 一 日 l 一四 日
の 間 、 厳 寒 の な か とは い い な が ら 殆 ど 晴 天 に め ぐ ま れ 、作 業 は 順 調
一月 七 日 か ら 調 査 を 開 始 し た 。 矢 部
地方 特 有 の 厳 案、
に よ る 霜 柱 や 雪 等に よ り 、 前 庭 部 一 帯 が ぬ か る み とな
に 進 み 一 四 日 で 実 測 が 終 了 し た 。 ま た 、 この 期 間 中 の 三 日 に は 、 愛藤
昭和 五 一 年 一 月 七 日 l 一 O 日
り 歩 道 つ く り が 大 変 で あ る 。八 日 か ら 玄 関 部 分 下 に 現 わ れ た 落 ち込 み
寺 城 の 白黒 ・
ス ライ ド ・
八 酬 等に よ る 写 真 撮 影 を 行 っ た 。
実 測 終 了 の 後 、 各 住 穴 の 排 土中 か ら 出 土し た 遺 物類 の
取 り 上げ を 再 度 行 っ た 。 遺 物は ビ ニ ー ル 袋 で 約八 O 袋 とな っ た 。 ま た
二月 一 六 日
部 分 の 排 土に か か っ た 。 こ の 排 土に よ り 先 日 来 気 に な っ て い た 三 間 四
方 の 建 造 物 の 柱 穴 が 、 当 初 の 推 定 ど お り の プ ラ ン とな っ て 現 わ れ 始 め
た 。 な お 、 引 続 き 校 舎 西 側 の 基 礎 部 分 の 撤 去も 併 行 し て 進 め た 。
第一 ・
第二 校 舎 聞 の グリ ッド の 平 ・断 面 の 実 測 を 行 っ た 。
午 後 は 林 業 科 よ り レ ベ ル を 借 り 出 土し た 全柱 穴 の 深 さ を 測 定し た 。
一一月 一八 日
浜 の 館 の 周 辺 部 を 巡 っ てい た と 思われ る 空 堀 、 もし く
一月 一O 日 ま で の 作 業 で 一 応 四 つ の 時 期 に 亘 る 家 屋 の
重 な り が 判 明 し 、 各 々 の フ ラン の 把 握 が で き た の で 、 本 日 よ り 平 板 に
一月 一九日
一
に 手 間 取 り 、 平 板 に か か っ た の は 一O 時 過 、
ぎで あ っ た 。 ま た 、 雪 溶 け
深 さ 二 m の ト レ ン チ の 東 断 面 部 の 実 測 を 行 っ た 。 水 濠 の 存 在 は 確認 で
は 切り 立っ た土手の 状況を 把握する た め に 設 定 した 幅 一m 、 長 さ 一O m
調査 終 了 。
9
一 月一 三 日
よ る 一 O O 分 の 一図 面 の 作 成 に か か っ た 。な お 、昨日 の 大 雪 の 除雪 作 業
に よ り 道 路 が 痛 ん だ の で 管 理 棟 で あ る 第二 校 舎 へ の 通 路 に 砂 利 、 コ ン
き な か っ た が 、 空 堀 も し く は 窪地が 館 を と り か ご み 、 内 側 の 土 手は や
や 切り 立 て ら れ た 状 態 で あ っ た こ とが 、 実 測 に よ っ て ほ ぼ 確認 さ れ た 。
一一月一二 日 午 前 中 に 霜 柱 に よ っ て 浮 き 上っ た 土 の 排 除を 行 い 、 主
こ の 間 平 板 に よ る 図 面取 り を 進 め る と同 時 に 、
住 穴 の 落 ち込 み 部 分 の 発 見 に 全力 を あげ 、 調 査 区 域 内 に 存 在 す る 落 ち
な 柱 穴 の 縁 の 部 分 を 石 灰 で 縁 取 り し た 。午 後 は 前庭 部 の 松 の 木 か ら 遺
ブ ル ド ー ザー を 使 用 し て 発 掘 区 域 の 埋 め 立 て を行 っ た 。
込 み の 排 土 を 続 け た 。 とく に も っ と穴 が 存 在 す る と 思 わ れ る 基 礎 部
一
一月二 六 日
ま た 排 土 に よ り 埋 っ て い た 樹 木 類 を 掘 り 起 し 校 庭 の 整 地を 行 っ た 。
月 二三 日
一一
八 胴 等に よ り 行 っ た 。
ス ライド ・
構 全体 の 写真 撮 影 を 白黒 ・
植 土 の 排 土も 終 り 、 図 面 作 成に か か れ る ま で に こ ぎ つ け た 。
・
作 業 不 能 とな る 日 が 多 か っ た が 、 一 月い っ ぱ い で 柱 穴 内 に つ ま っ た 腐
ぎ 、 柱 穴 の 探 索 を 進 め た 。 こ の 期 聞 は 厳 寒 が 続 き 、 氷雨 や 大 雪 の た め
に 詰 め ら れ た ぐ り 石 も す べ て 排 除し 、 泉 水 の 底 部 の コ ン ク リ ー ト も は
一月 一 四 日 l 二二 日
ク リ ー ト 屑 片 を 入 れ 補修 し た 。
--
桑
原
憲
彰
遺
跡
の
環
境
、
北部は阿蘇郡、東部は清和村と接し、海抜一
、
000ml四五Omの
ゆるやかな斜面地で、新生代の阿蘇泥熔岩からなり、九州南部山地に
接している。南方ほど侵蝕がみられ幾多の議布と奇岩が多い。
北方は穏やかな起伏台地が続き、豊富な湧水があり古くから人々の
生活の場所になっていたことを裏付ける遺跡がみられる。矢部の集落
の大多数はこの部分に形成され、浜の館もこの台地上にある。
南部は、宮崎県、八代郡と境し、古生代の九州南部山地の稜線で三
四七二・
京丈山(一
八m)
七三八・
五m)国見岳 (一
五七七・
方山 (一
阿蘇泥熔岩地帯と緑川で接している。
等、急峻な地形が続き、
五m)
西南部は、御船、砥用と境し古生代、中世代の古い地層でかなり起
伏のはげしい地帯である。
土地理院発行の五
敷地に位置する。国
地形図御船四号図幅によれば、
万分の一
東地図縁から約O、五畑
、南地図縁から三、七叩の地点である。
館跡のある矢部町は東西一
六、三回、南北二
六回、面積二九、
六、八凶
である。
浜の館跡は熊本県上益城郡矢部町大字城平、現県立矢部高等学校の
遺跡の地理的概要
一
浜の館地形
nu
E噌E
浜の館存在当時の地形は、二度の改変によって昔日の面影を失い、
現在では人家がたちならび、矢部風土記にある水浜の地形もうかがう
ことができず、地名も忘却されてしまっている。
延宝1元禄の矢部惣庄屋)に
第一の地形改変は矢部勘右衛門重元 (
よって入佐井手(新井手)とよばれる用水路が完成し、館跡が水田に
なった時である。土塁を取り壊して水濠をうめたて、館の礎石もうめ
こまれ或は他に搬出されたのもこの時であろうと考えられる。
大正三)年に現
三(
九一
第二の地形の改変は、県立矢部高校が、一
大正二乙 年の寄宿
九二三 (
在地に校舎新築移転してからである。一
四)年の運動場造成、このたびの
昭和 一
九三九 (
舎、運動場造成、一
昭和四八)年からの校舎の全面改築
九七三 (
発掘の端緒となった一
により、館跡全域が矢部高校敷地として大幅な地形の改変を受けた。
館存在当時の地形を復元することは資料が乏しく困難であり、元禄
以後の改変は人力によるもので、それほど大きな変革はなく館の地形
初期の地籍図をもとに水田時代
が推定できると考えられるため、明治
の状態を復元することにした。
郎 の末孫と伝え、江戸時代下大川村の圧屋を代々勤め、第
野中孫二
九六一
一
大正元)年二月まで、その後⑬に移転し、
(
二 一
①に一
7図、
九
現
年まで居住し、第3図のムを耕作していた 野中隆三氏(
六)
二
昭和一
(
現矢部町樟留在住、
俊三氏 (
、
八代市在住、明治三三年二 月五日生)
明治三六 年四月二六日 生)兄 弟をはじめ、古老十教人に数回にわ
(ニ)
第3図
地籍図 によ る 旧地形の復元
O
免租地
水
路
道路
泌色・ 水路(元禄以後)
急
唱EA
唱・-
たり、地形、伝承を聞き取り、総合して、記憶ちがい等を訂正した。
⑦を水田当時の標準高として高低を復元すると、④は一O、一m、
@は一O、三mでこの部分はほとんど一
面であり、江戸期の水田造成
の際地ならしと盛土、一
四)年の運動場造成の際も一
昭和 一
九三九 (
面に盛土したもので、館存在当時の地形や遺物が残存していた部分で
部、庭園、三彩鳥型水注等が出土した
発掘によって館の礎石の一
あり、
地区である。
O、五m、@
@は一O、六m、⑧ 一
O、二m、@一O、三m、⑨ 一
が一O、六mで、この周辺部分
落
が
ち こんでおり水濠を埋立てて水田
にしたものであろうと考えられる。
三、六m、@
一、八m、⑨一二、七m、② 一
②は一O、八円 ③ 一
一四、五m、@は一五、四mでかなり高低差がはげしいが地割は大き
く、
いずれも一
、
oood以上である。この部分は、江戸期の水田造成、
一
九二三(
大正一三年)
九四三 (
昭和一七)年校舎
年の運動場造成、一
新築の際突出部は全て削りとられ、第二次発掘時に②部分から柱穴が
発見されたが、他の部分の地形は破壊され確認できなかった。
Omの傾斜地であり、
②は一
一
mの広範な平坦地に雑木、竹林
@は一一
で、矢村社と同高であったが、一九二 二(
大正二)年に矢部高の移転
新築に伴い約二m掘り下げて⑦の部分を埋めたてた。
⑦は一二、五mで土塁の残欠がみられ、②は二一、八m、⑦は一
五、
四mである。
のは⑦から矢村社の南下を通り②に続く道路で、深いところは五、四
四m位いの掘り割りで畳も簿暗く一人で通るのは恐しかったと古老達
は語って いる。
12
館存在当時の掘切りを道路として使用したものであるが、これも埋
立てられ、②の裏にそれを思わせる名残りがみられる。
四、二mで
館の南、西
⑦は、ほぼ同高で、一二、七mであり@は一
幅約二、七mの細長い小さな田が東西に続いていた。これは外堀の機
@ 一帯は外郭であったと考えられる。
能をもの水濠で、
③は水路よりやや低い平坦な水田が南の轟川に続いていた。
②、のは⑦の部分よりさらに落込み、轟川に接していた。
東西二二Om、南北一八Omの浜の館跡の地形は、四つの部分から
なっている。
東部分はほとんど
平坦で館存在当時の
状態がかなり残存し
ている地区である。
周辺部分は、水路
と落ちこみがあり水
濠跡または掘切り跡
と考えられる地区で
--
ある。
北中央部は南へ突
番高
出し、館跡で一
い地区である。
西側部分はかなり
高低差の大きい地区
へ
亀甲城)
で岩尾城(
矢部高校裏に残る堀切り⑥と土塁をう
第4図
の道が通じていた地区である。
地割、
③の柱穴からしでかなり重要な建
北中央、
西側部分には地形、
物があったと推定されるが、館内で最も地形の改変のはげしい地区で
もある。
館跡の水田は、すべて元禄井手(入佐井手)から、矢村社の参道を
横断した水路を利用し、館跡周囲をめぐる水路からの用水はなく、こ
の水路が、
館存在当時用水を目的としたものでなかワたことがわかる。
水田時代の地籍図の道路、周囲をめぐる水路のみを図上に記すと、
第3図にみられるように左右対称を示し、人為的な地割りが明らかで
館存在当時の地形が推定される。
地
形
と
伝
承
、
館周辺の地形復元
一
官U
唱E4
山門
口
成}
i男
(写
また渡辺質 (一七七二H安永三年1一
八四八U嘉永元年)
著の、
「
矢部風土記」に
「
大川の流れ北より入佐畑村を経て桐原のかなたに繰り轟の瀬となり、
南にめぐり下市小原の山野につたえ、千仰の滝をなせり五郎滝之なり。
岩尾の城頭より見下す所西に下馬尾の河流ありて其下千滝の落しあり。
其中間、大川までの地形水浜なるを以て居館の所浜の御殿、浜の御
所などと云へり。又御陣内庄の本とも云へり。 (
中略)
館跡は今、大川村の内松の尾と云へる所にて、前過鳥井門の跡汐に
門口、畑小路、連歌小路、倉屋敷などいへる所あり」
一
七八四(天明四)年の男成守寿
著 の「万世井手能流 (
矢部御惣庄
屋次第記)」に矢部勘右衛門重元(延宝l元禄の惣庄屋)の業績とし
て「裁川を堀切で水道を替して古川を回畠となし、入佐村の内にも川
を掘替て若干の団地を聞き、
戚は郷内所々に池を掘りて水を溜め、
田無
所も田となし山崩て畑となし(後略こ とある。
次に、浜の館関連遺跡、現存する小字名、地名、地形、古老十数人
の話を総合して館周辺地形の復元を試みた。
浜の館存在当時の周辺の地形がどのような状態にあったかを明らか
にすることは困難であるが
「障の内潰御所遮、漬ノ御殿トモ云、長福寺村障の
肥後国誌」に
「
内ト伝所ノ北高クシテ上へ平カ也是ヲ城ノ平ト云南ハ畑川ヲ隔テ岩尾
とあり
、
此川奮ハ北ニ廻リシヲ近世今ノ川筋ニ成ト云」
城遮ナリ (
(→
誌)
(郡
第4国2)矢部高校東北部 ( ④の裏)に残る水濠跡
発掘によって明らかになった突出した館跡から約三、六m低くなっ
帯が館の南面と西面に連なり外郭をなしていた。
た平坦な一
外郭から約て 五m低い地点には館の水濠から引いた幅二mの水路
が、外郭の周囲を廻り水濠の機能をはたしていた。
南には水路よりやや低い平坦地が轟川まで続き、その先には、切り
立った岩壁上に岩尾城が準えていた。館の西方は大きく蛇行した轟川
が外郭に接し、川ひとつ隔てて、亀の首のように長く突出した台地が
延び、館と岩尾城は一
帯の地形であった。
北方・お
よび西北方は台地がせまり、東方は轟川が館の外堀的機能を
持ち、台地が連なっ
ていた。
このように、城平、
城原、畑を含めた浜
亀甲
の館、岩尾城 (
帯は、議川と
一
台地にかこまれた自
然の要害であった。
現存する小字名
① 浜の館
②
上犬馬
出
丸
亀の甲
⑪
寺屋敷
⑮ 現小一
領社
福王寺
⑩ 矢村社
おたっちよさん
ロ1
慶蔵寺
上
@
7}(
4ニ、
Q
以上の現存する小字
名と関連遺跡につい
では、口絵3の下段
の空中写真説明の図
を参照のこと。
①l
⑮の番号は図上の番
号と同一である。
- 14 一
⑬
⑬
8下犬一馬場
伝えられている地名
三の丸
}1/
⑩
館より二、七m低い平坦地)
外郭 (
、
外郭より約一
路(
五m低く幅約二、七
水
⑮ 平坦(
路よりやや低い)
台地 ⑫
⑮ 台地
川原
、-'
⑮ 地 ⑮
|関|
⑫
⑬
亀甲附近の轟川跡
担 t暴
屋
⑬r---1 敷 ⑨
地
轟 形 ⑩ 小 | 連|
一 |遺|
御 領 閣i
I
廟 社 '---'
跡
⑫
跡
⑫
⑫
第6図
城
屋⑤ の
敷
丸
轟
口
本
丸
屋
桐 敷 ③
原
⑦⑥④
水固化 さ れた旧轟川河川敷
第5図
f
l
15-
引り
料
T
L
え
よM
いつ頃から 部
矢 高
校
敷
地
一
帯
を 松 の尾 と呼
んだ の かは 不明
る が、
松 の尾 の野 中
であ
と 人々 は
呼
ん
で
い
た
o
七 O 才以 上 の
人 しか知 ら ず
ー
一矢
印
土
J
風
の
記
松
」
の
尾 の 呼 名 が 忘 却さ
れ よう と L t }
一
一
← 日 刊 廿
、古 老 の 話を 総合 わ い 東西 一
二、 俊 三両 氏
と
、縁 が あ り、その
前 に 築 山が
あm
,
zd
りノ
が 植 え で あっ た
、/
ツツジ、
花等
。 柱は すべ て
八
寸
角
で
、
土 中 に 埋っ て おり 、
思 つT
KZ こ f 、
掘 立で と
一九 一二
(
大
正
元
)
年
二 月、移 転の際
解 体 する と 柱 の
当時 と し て も珍
し い建 築 様 式
で
でと めで あっ 七 。 E J
少な かっ た ので
ア 歴 穀は 損傷 が
解 体 後 貸 屋に し
た。
倉の 畜 舎は 明 治 η
の!
初
期
@
(
第
3
図
)に あっ た 三 軒
の火 災で 類 焼 し
移 転後 、 住宅
た。
跡
は
開
田
し
、
上
土を 五O 叩1 六O
叩⑮ (第3 図 )
れ地 上 げを した
。
そ
の
際
、
茶
碗の 破 片 等 が 出で
きた ので 、
柱 の 敷石 と
一諸 に 埋 めこん
だ。
のっ
語;
模 えと
入
大 正 の初 期 頃ま
では
一
面
の
田
で
、
人
家は た く 、桐原 ま
で 一望 の う ち に
見内 せと 。大 水 の
時
は
現
在
の
犬
川 町、畑 前 回 一
帯 が 水 びた し に な
野 中 家の伝 承
った。
+4F
旧制品
、 阿蘇 の野 中 村
の
出
身
で
戦
乱
で 阿蘇 没 落 後 ご
こに 住み つ いた 。
番
古 い 墓は 孫 二 郎
と
云
う
人
の
墓
だ と 子供の 頃か
G 盆、正月 の 墓
びに 祖母 から 聞
参 のた
か
さ
れ
て
い
た
。江
戸 時 代は 代 々 、
曽祖父 ま で 下大
庄 屋 を つ とめた 。
川 村の
祖父 は
城
平
村
村
会
議
員 、父 は 浜 町 村
村会議 員 、 郡 会
議員 を つ と めた こ
と が墓碑 銘に
ある 。
子2
免租地
道
水路
水路(元禄以後)
の
氏革ま
月い
のの
大が
栓 敷
O
⑩
苧館
長内
の
宮 川
匂
広
〈伝
浜の 館遺構所在
第7図
松(コ
①
釘下
は に
先
L 衣八
⑨
で
�L�
水田時代の浜の館遺跡
h
� �
⑮⑪
po
位置の
門
、4
:O
古
文
書
等
き
な
木
大
箱
に
三
つ
あ
っ
頃 板
た
が
、
当
時
明
は
治
関
初
心
期
が
な
く
。
た
っ
あ
、な
碑
転
の
の
移
時
焼
い
て
し
ま
。
っ
た
⑥土
塁
思
、
館
う
跡
に
の
主
要
な
土
地
の
大
半
が
野
中
有
氏
で
の
あ
所
り
住
宅
の
規
模 幅
竹
は
え
に
④
生
上
。
が
の
た
そ
い
て
て
っ
あ
が
盛
土
の
住
間
さ
高
一
、
問
一
等
か
阿
ら
蘇
推
定
し
て
、
家
没
落
後
も
館
臣
跡
に
河
居
蘇
住
家
し
の
で
た
家
あ
ろ の
。
る
れ
ら
残
え
考
と
欠
塁
土
で
き
続
ぅ
。
記
失
な
わ
れ
録
、
は
記憶
は
忘
却
さ
。 ⑦
で
れ
き
詳
ぬ
ら
の
か
が
に
残
念
で
あ
る
水
⑧湧
、
宅
氏
田
門
、
り
水
あ
が
水
な
湧
涼
清
ら
か
量
穴
横
た
れ
ら
掘
程
m
十
七
約
に
上
面
斜
は
⑦
門
田
氏
の
住
宅
が
あ
り
、
先
祖
は
武
、 が
士
。
と
他
云
う
こ
所
へ
転
出
と
後
だ
っ
た
水
用
、
水
料
。
飲
る
の
い
民
て
住
っ
賄
を
て
べ
す
の
の
域
地
の
こ
で
富
豊
開
国
し
た
。
れ
さ
用
利
ら
か
時
当
在
存
の
館
。
も
⑧
た
た
い
て
れ
さ
用
利
に
水
用
の
校
学
は
け
負
位
。
か
う
ろ
あ
、
門
田
野
宅
中
附
近 で
花
お
畑
か
る
、ぎ
す
良
が
所
場
は
⑥
ら
か
地
宅
氏
中
野
に
幸
不
て
し
け
負
住
ら
帯
を
お
花
畑
一
と
呼
ん
な
る
と
人
々
云
が
っ
て
門
の
跡
④土
塁
側
野
中
氏
宅
地
の
北
の
跡
が
あ
聞
い
と
っ
た
幅
一
間
っ
道
て
路
に
そ
。
た
い
て
が
盛
土
高
の
住
尺
三
さ
厚
⑩
の
水
路
に
さ
O
、
の
茶
に
上
の
そ
て
っ
あ
幅
二
m
、
一
、
、
m
二
あ
っ
た
。
木
が
植
え
で
m
長
さ
二
二
の
板
石
が
ら
残
欠
と
考
え
土
塁
か
け
ら
れ
て
い
た
。
枚
れ
る
。
こ
の
伝
承
の
門
の
跡
碑
板
矢
集
「
昔
拾
が
話
「
」
間
ほ
ど
高
の
さ
約
一
部
風
土
記
に
あ
る
鳥
」
⑤
第9図
矢村神社
第8図
②
③
井門か小門のことか不明である。
⑫弾正さん ⑬ お梅さん
多くの人々から弾正さんお梅さんの愛称で親しまれているが、伝承
はあいまいで不明である。「肥後国誌
」に「館跡ノ南ノ方ニ弾正杉ト
株
中略)此杉ヨリ西ノ方僅ノ竹林ノ中ニ梅一
株アリ (
云ル大木ノ杉一
アリ里俗ノ説ニ御梅殿ト云シ婦人ニテ阿蘇家ノ息女トモ又ハ待女也シ
トモ云テ不分明是其墓所也」
間半四方の基壇があり、墓石は
弾正さんは、二段の石積みをした一
なく杉の大木があったらしい。浮浪者が焚火したために枯れてしまっ
たと伝えられている。
杉が枯れた後百日紅が植えられ、
それが現在新築
された矢部高校の管理棟の前で毎年美しい花を咲かせている。
基壇は取り壊されている。
-お
梅さんは、梅の古木のそばに二段の石積みをした一
間半四方の基
壇上に高さ七O叩、方五O叩の洞に十二単衣をまとった女性の座像が
安置される。附近の住民は乳の出ない女性に効能があると現在でも参
詣が絶えない。位置は現在より約一間ほど北寄りであったが、昭和 一
七年の講堂新築の際現在地に移転した。
野中氏宅地
大正元)
年に移転、井戸を掘ると、茶碗のかけら等が出た。
一
九一
二(
杉の下
野中氏が耕作していた水田で、大きな杉の枝がはり出して日当りが
。大杉とは弾正杉のこ
野中氏の祖母の話)
悪く稲の収穫も少なかった(
とであろう。
礎
石
ぜ
ご
々j
出 土した礎石と同質の石が、土手下に数カ所ある。こ
発掘によって
れは径約一mのものである。館跡を水田にした時搬出したものであろ
叶ノ
。
》
金の鶏
毎年、
年の晩には鳴くといわれて
この場所には金の鶏が埋っており、
いた。
御前渡し
宝暦十二)年、畑川に新橋がかかるまで、徒歩で渡って
七六二 (
一
いた。大宮司も住来に利用したのでこの名がつけられたという。
竹林
約二O坪ほどの竹林がありその中に墓石があった。
土塁残欠
掘切りの入口で現在も土塁と思われるものが残っている。
水路および取水口
堰はコンクリートに改修されたが、以前はもっと高く、溺死したも
のが何人もいた。
取水口から恐しいように水が流れ込み、改修前の水路は現在よりも
広く、飛び越すことはできなかった。昔はもっと広く一聞から一
間半
位あったと聞いていた。
墓石
現在より一
J二mほ
ど低く、墓石があったが、地上げをした際墓石
も埋め込んだ。
円形の大石
掘切りのそばに円形の大石があり、夜鎧をつけた侍が出ておどすの
⑪
⑩
⑩
⑩
⑫
⑫
⑫
⑬
⑬
⑩
。
た
っ
か
な
い
は
者
る
通
で
。
た
い
て
れ
ば
呼
と
洗
手
御
は
池
、
れ
さ
用
利
て
し
と
水
料
飲
の
近
付
は
水
湧
。
た
し
に
田
で
ん
こ
め
埋
も
石
墓
た
っ
あ
に
く
近
国館を囲む中世の矢部の村々
の
世
集
の
落
域
地
部
矢
中
た
し
に
心
中
を
館
の
浜
っ
あ
に
況
状
よ
の
な
ど
う
が
、
が
る
あ
で
難
困
は
と
こ
る
か
す
に
ら
、
詳
を
か
た
」
書「
文
蘇
阿
郷
部
矢
後
肥
三
八
十
年
月
、
日
正
)
九
平
三
四(
一
五
文
注
村
元
」
宮
頃
永
応
注
頭
文
神
成
男
の
書「
文
成
男
年
)
四(
九
三
一
」
書
奉
世
水惟
二
田
年
十
丹
月
日
)
二
明
文
O(
七
四
一
書「
文
成
男
「
蘇
阿
棟
営
本
造
山
堂
蘇
書
文
阿
八
十
八
月
二
年
)
、
日
四
明
文
二(
七
四
一
「
」
「
」
」
「
国
後
誌
」
肥
考
通
蹟
事
考
古
写
記
日
足
料
別
地
る
え
と
名
み
に
城
古
に
あ
る
城
跡
城
、
を
伝
国
承
土
さ
地
れ
た
理
院
発
行
の
五
万
分
の
一
の
地
図
に
第
図
復
元
叩
し
た
の
が
で
あ
る
。
見
用
利
を
険
天
に
地
要
の
通
交
が
城
に
を
れ
こ
衛
防
を
め
た
る
浜
館
の
す
と
る
し
て
配
置
さ
れ
て
い
る
。
な
お
、
約
六
百
年
前
の
村
々
は
現
在
の
集
落
の
大
小
と
ほ
と
ん
ど
変
ら
ぬ
こ
と
。
る
察
高
貢
年
の
文
部
注
矢
村
郷
後
肥
が
れ
さ
に
て
推
っ
よ
阿
蘇
文
書
「
一
文
四
明
四
阿
蘇
山
七
)
本
二(
年
堂
造
八
営
月
二
棟
十
五
日
の
写
日
記
取
」
請
足
料
別
、
蘇
阿
、
ば
れ
よ
に
豊
、
軍
健
び
よ
・お
城
下
上
益
日
、
後
向
別
棟
の
一
の
部
十
百
九
貫
三
百
三
十
五
が
の
計
銭
合
内
の
そ
、
で
り
矢
文
あ
七
部
は
約
六
分
の
一
の
六
十
貫
四
百
七
十
文
を
納
め
て
い
る
。
甲
佐
が
二
十
二
貫
六
落
集
の
は
部
矢
と
る
べ
比
と
の
る
あ
で
文
十
百
十
八
が
貫
用
七
砥
、
文
三
十
六
百
り
な
か
も
位
。
っ
る
か
思
れ
高
わ
と
地
た
的
化
文
、
的
済
経
、
ち
も
を
模
規
な
当
相
)
哲
西教
大
(
⑮
湧水
⑮
池
。。
阿蘇文書にみられる中世の村々
第10図
N
�
1-イ一
fへ
!
lJ b,
\ \
ノー __c___ �手�.
矢百岨I'Jr静p3 校校舎
L
一ー
一
士i
出主
げ汁
I士土土
町
仁t-
苫て一で 予一面亘主一
豆註一パ長3iJ
十社一
j
Wl
El
1ι
0 510
F
50 m
o"l
嘱図
撞
聴
嗣
凶
園
部
側
国
ニ
掛
I
区
)
査(
調
次
章
、
第
家
屋
。 第 一棟 の発見位置と出土状況
次調査地区から
月から四九年二月まで実施した第一
昭和四八年一一
柱
また、
年代的なへだたりのある家屋跡が礎石群あるいは、根石のみ、
穴状と様相の異なった形で重なり合って発見された。発見された家屋
棟、第三棟、第三棟と番号を付し以下その各々に
跡には便宜的に第一
ついて述べることにする。
ハ門第 一次調査地区発見の家屋跡
一
ソ」までの範囲
ワ」J 「
発見場所は方画割付け番号の恥臼J花の 「
で、運動場表土下約四五mの深さの所である。ブルドーザーで表土と
旧水田粘土を剥ぎ取った後、残土を移殖ゴテで取り除くと赤い焼土層
が現われた。この焼土層と上部にのる黒色腐植土の境は竹箆を使用す
るまでもなく締麗に肌分れし、焼土面の露出を容易にせしめた。
焼土面の露出終了後、高所から眺めるといたるところにうず高く積
った崩れた壁土の山、漆喰、炭化した倒れたままの柱、竹材、なかに
は地面につき立ったまま炭化した竹など、さながら全焼した火事場が
そっくりそのまま埋没したといった状況である。焼け落ちた焼土の間
から数個の礎石が顔をのぞかせているが、焼土は厚いところで二01
三Om程も盛り上がっていた。
これらの焼土は第一
棟の長方形の建坪の全域を覆っていたが、特に
巾百
事積
雪?ず
? た
ど の
tf は
委 家
屋 屋
の
の 北
長 側
さし の
様喧
与fE
ぼ 1J
帯 J
状 品
三雰
厚
さ
が
約
二
O
囲て:
五
O
m
の
長
さ
一同
1ロl
焼土を除去した跡から出土した礎石群についての概略は次のとおり
である。
方眼の 臼lηの 「
ソ」の区域で発見された家屋跡は、当
ワ」J 「
館敷地内で発見された、数棟の家屋跡の中で唯一の礎石を持つ家屋跡
で、かつ一
番新しい時期の建築物の跡である。この礎石群を第一
棟家
屋跡と命名した。
恥
mw残された礎石の現状
に亘ってその堆積が見られた。また家屋東側梁間方向一
帯にはこれら
m長さ約五mの白色の漆喰と思われる土の堆積が
の焼土はなく、幅一
認められた。同様の白色土の堆積は、西側の家屋の末端部にも礎石列
にまつわりつくように幅五Omから一m
、長さ七・五Omの帯状の堆
積となって発見された。この東西両部分には漆喰状の白色土を使用し
た壁等の施設が存在していたのであろう。
cm 厚
く
出土した礎石の配列状況からこの家屋は桁行が七問、梁聞が四聞の
・三Om、梁間の全
長方形をなす二八坪の家屋で、桁行の全長が二二
長が八・六Omを計る。共に柱の芯から芯までの長きである。家の向
きは、桁行方向がN八六度Eでほぼ東西を指しているので、桁行面が
九O
南面する家屋であったことがわかる。一
聞の長さは、桁行で約一
倒、梁聞は四問中真中の二聞が共に二三Om、両端が二oomでそれ
ぞれ柱聞の数
値 が異っている。
この家屋の規模から考えると
使
、
用 された礎石数は全部で四O基存
在すべきであるが、実際には抜かれたり、原住置を移動していたりし
- 20 ー
第
する際に地面に掘りこんだ穴も根石を持たない礎石もあるので当初か
ら礎石が存在しなかったとするより、後世何らかの理由で失なわれた
と考える方がこの場合妥当であろう。
炉は直径二Ol三Om程度の安山岩ないしは凝灰岩等の石材で構成
(
註2)
されており、発見時には方形をなす基底部のみが残存していた。火災
の際に相当の損傷を受けたらしく使用石材が散
乱 していたが、浮いて
いるもの、動いていないものを丹念によりわけ、設置当時の形状を復
元した結果、この炉は一
七O叩×一
七O叩の正方形を成すものである
ことが判明した。基底部をなす石材には焼け石は少なかったが、周囲
に散乱する、炉の上部を形成していたと思われる浮いた石材には相当
火を受けたものが多かった。これらの石材は赤土にすさわらを混ぜて
練った壁土状の粘土をもって炉を形成していたらしくこの周辺に粘土
質の土の散乱が認められた。
遺物としては、用途不明の銅製品一
片が東側の炉の石組の根元から
出土した外は別に見られなかった。
次に家屋西側の妻の部分に四m×四mの方形のたたきの遺構が出土
した。周囲より僅かに高くなったこの範囲内にはこぶし大の水の摩擦
を受けた川石が全面に敷き詰められていた。この二層に亘って敷きつ
められた磯を取り除くと、その下には直径一pe
e-‘
二m程度の小砂利が敷
かれていた。
この砂利敷のたたき中央部の家屋寄りに、長径八四仰、短径三Om
この第一
棟家屋には炉と玄関たたき部の二つの付属物が設けられて
四 付属する炉とたたき
、A
」』O BUM--4''
て、失なわれているものが数基あった。発掘当時存在した礎石数は二
五基、明らかに移動していたと思われるもの二基、その後の精査で礎
石が失なわれ根石のみ残るもの四基、礎石を抜き取った跡と思われる
(
註1)
落ち込みが残るもの五基、不明のもの四基であった。
この四の二基に火に遇い赤く
一
のこと「
ロ」
現存する二五基のうち、「
焼けた痕跡が認められた。また柱の芯を取ったものであろうか、礎石
、「ホ」
ホ」の一
上面に十字の沈線を刻み込んだものが七基確認された。「
ハ」の八、「
の八の七基
イ」
ホ」
ロ」
の七、「
の八、 「
イ」
の六、「
の二、 「
Om程ずれた状態に二組の中心をとった
基の礎石上に一
であるが、一
十字の沈線が施されていた。墨つぼの糸を張って狂いを修正した際、
再び糸に沿って沈線を刻んだものであろう。
棟の桁行の方向とも梁間
しかし、これら二つの沈線は殆んど当第一
棟家屋の建築の際刻ま
の方向とも一致せず不規別であるのでこの第一
れたものではなかろう。恐らく他の家屋の礎石を転用したものと思わ
れる。礎石のなかに火に遇ったものが混るのもこれを裏付けるもので
0
みめ久ご7
また、礎石は殆んどその石の平坦面を上にし、下の方に礁などを入
部凸部
れ調整し、使用しているが、平坦面のない川石等については一
を打欠き、整形加工しているのが二の五を始めとする二、三の礎石に
見られる。礎石に使用されている石材は凝灰石と角のなくなった安山
岩が主となっている。
棟の場合礎石としては
もの四基については、この第一
註 1 不明の
非常に形状も小さく厚さも薄いものが混り、また現存する礎石を撤去
-21-
第t3圏
第一様家屋における礎石の配置状況
。柱穴
〔コ柱穴
仁議j
æ
ト 200cm
0
→ト
�
0 '
230cm
→←
D
O
。
。
G
鶴、
ぷぎ
任時。
200cm →
。
οd
o ο
o �T
寸←
a
D
190cm
⑧i
。
を?
O
O
O
O
G
C
~半ヲ�Z�
σ
ワ
匂
C
ν
Cコ
く�J
n
O
O
C
60
O
nL
円L
tf]
230cm
O
o
。 国D ð
3 4m
また、この方形の
砂利敷の部分の西側
三カ所に直径三五m
程度の黒色卑洛ち込
み跡が発見されたが
この砂利敷の部分の
周辺に立てられた柱
穴の跡であろうか、
恐らくこの部分を覆
う屋根を持つ建物が
存在したのであろう。
その建物が建築史で
いう中門の変形した
ものか、車留めなの
か、今後検討すべき
qJ
ワω
の安山岩質の石が存在した。「
の八の礎石芯部から西へ一
ハ」
mのとこ
ろで長径はほぼ南北の方向を指して置かれていた。石の厚さも三Om
以上あるが地表部には、僅かに顔をのぞかせているに過ぎない。表土
ハ」の八のレベルと同値を示している。上面
からの深さは四六仰で 「
直線に並
ハ」の柱列とほぼ一
部は加工され平坦面が形成されている。「
ぶので礎石としての役目を持つものであろうか。ただこの石のみたた
き部分にひとつだけ存在している点、何か特殊な用途を持つ石のよう
に思われる。なお重量も相当あり、大人二人で荷なわないと移動でき
ない。
第一棟床面に堆積する焼土(壁土)
第13図(3)
基礎部出土状況(西方より)
第一棟
第13図(2)
問題と思われるが入口部分の設備であった可能性は強い。
24
2
註
分に敷かれているので、全 般的には根石の置かれた箇所が右とか左と
かに偏っている場合が多い。
(第日図参照)
、
本来の根石の性格を考え使用されたものは、一
番西側の七の「イ」
八の「イ」
、
八の 「
ロ」
、
八の「ハ」
、
八の? こ 等の部分の礎石下の根石
のみであった。この 「
ハ」の礎石列にのみ本格的根石を使用している
理由について最初は特にこの
分部
に 桁や梁等、各方面の重力が集中す
るため力学的な処置と解釈していたが、発掘の進展に従い、この
「ハ」
行礎石列の部分が前時代に存在した深さ六Oi七O叩の泉水の真上に
かけて建てられていることが明らかとなった。
事実、池底内には、木炭、灰、焼土等が多量に落ち込んでおり、し
まりのない地盤状態であった。このため、礎石の沈下を恐れて、この
部分にのみ根石を使用したものであろう。
第 一棟 家屋の復元について
--
棟家屋に関して、完全に揃っていない礎石群と、その上に覆い
第一
かぶさる焼土類しか判定資料が残されていない現況から、その復元を
試みることは多分に危険を伴う作業であるが、これらの資料を元に焼
失前の家屋の復元を進めてみたい。
間取 り の復 元 (
平面 )
この家屋は、桁行七間梁間四聞の長方形
を呈する建物で、総建坪数は二八坪を数える。この二八坪のうち中央
聞のコの字形の縁となってい
部の一二坪が部屋にあてられ周囲は幅 一
たようである。一二坪の部屋の部分は中央に間ビきりが設けられてお
り、各六坪の二部屋に分けられていた らしい。また、西側の部屋の中
央部には炉が施設されており、矢部の厳寒時の暖房用としていたので
6司
この方形の集石群は発見当初竃と推定したが、後に当時の地
表面を精査した結果、礎石を抜いた跡の落ち込みおよび根石等が発
見
された。この礎石列は家屋中央部を桁行方向にEって走っているため
床下の大引を支えるための束受けの礎石と考えられ、土座でなく普通
の床を持つ家屋であることが判明した。この集石群が、もし竃であれ
ば床下に存在したことになり不都合となる。このため、この集石群の
中央空間部に長さ一
五O師、幅三Om、深さ二五仰の試掘溝を設定し
底部を精査した。この結果、木炭、灰、焼土等の焚火の跡は全く認め
られず竃ではないことが判明した。
礎石下の根石と掘り込みの状況
3)
(註
棟家屋には元来四O基の礎石が存在してい
先にも述べたように第一
たものと推定されるが、現在二五基しか残っていない。調査終了後将
来移転復元するため現存するすべての礎石を取り上げ別の場所に収納
したがその際、根石の有無とその掘り込み等について調査した。四O
基の礎石のうち根石の存在が認められたものが一
二 基に
九基、外の三
ついては認められなかった。また掘り込みは、浅いながらも殆どの礎
石下に見られたが、円に近い掘り込みで雑なものが多かった。
根石のある一
九基について見でみると、礎石の沈下を防ぐ根石本来
の目的のため使用されたと思われるものは僅か五J六基で、他は礎石
上面の平坦面を保つため、礎石の下に二、三個の栗石を敷いた程度の
もので巌密には根石と言い難いものである。特に礎石の厚さが薄い部
田
註4)
(
あ
ろ
う
。
家
屋
西
側
の
妻
の
方
向
に
、
四
m
×
四
の
川
m
の
を
方
砂
利
形
き
詰
め
た
敷
た
た
分
が
出
土
し
き
た
部
が
、
入
口
部
分
を
固
め
る
た
め
の
施
設
と
思
わ
れ
る
、
こ
の
部
分
の
四
隅
に
柱
穴
跡
が
認
め
ら
れ
る
の
で
あ
る
い
は
こ
の
部
分
に
は
掘
立
柱
か
ら
な
な
る
覆
簡
屋
状
の
建
物
が
存
在
し
て
い
た
便
も
の
と
考
え
ら
れ
る
。
こ
の
よ
う
な
諸
施
設
の
存
在
か
ら
こ
の
家
屋
の
入
口
は
西
側
に
あ
り
、
形
式
か
ら
い
う
と
妻
入
り
の
家
屋
で
あ
っ
た
よ
う
で
あ
る
。
家
屋
中
央
の
部
屋
の
部
分
に
は
、
畳
が
敷
か
れ
て
い
た
可
能
性
が
あ
り
得
る
。
さ
れ
て
い
た
礎
石
使
は
用
い
ず
れ
も
以
前
の
家
屋
に
使
用
さ
れ
て
い
た
も
の
の
転
用
で
あ
る
が
、
柱
の
芯
を
取
っ
た
十
文
字
の
沈
線
が
施
さ
れ
た
礎
石
が
数
個
も
あ
り
、
柱
間
の
寸
法
決
定
に
慎
重
を
期
し
て
い
る
態
度
が
窺
え
る
。
こ
れ
ら
の
礎
石
は
い
ず
れ
も
、
こ
の
第
一
棟
の
前
の
建
物
、
そ
れ
は
恐
ら
く
天
文
一
二年
以
後
に
建
て
ら
れ
た
矢
部
対
面
所
に
使
用
さ
れ
た
礎
石
と
考
え
ら
れ
る
が
、
そ
の
際
の
料
木
注
文
は
阿
蘇
文
書
の
な
か
に
残
っ
て
お
り
、
こ
れ
ら
の
料
木
の
寸
法
そ
の
他
か
ら
畳
の
使
用
を
推
察
せ
し
め
る
個
所
も
あ
る
の
で
そ
れ
以
後
に
建
立
さ
れ
た
と
思
わ
れ
る
こ
の
一
第棟
に
畳
が
使
用
さ
れ
て
い
た
可
能
性
は
充
分
考
え
ら
れ
る
こ
桁
か
ら
芯
ま
で
が
一
間
の
長
さ
は
柱
の
芯
行
で
一
九
O
m
あ
り
、
と
で
あ
る
。
こ
一
八
九
叩
)
と
一
の
数
値
は
現
在
の
畳
の
縦
の
長
さ
六
尺
三
寸(
致
し
、
か
つ
内
。
梁
間
の
一
聞
は
二
三
O
法
間
柱
法
を
と
っ
て
い
る
こ
と
が
判
る
m
で
二
聞
は
四
六
O
m
と
な
る
。
こ
の
間
に
六
尺
三
寸
×
三
尺
一
寸
五
分
の
畳
は
三
尺
一
寸
五
分
の
面
を
揃
え
て
五
枚
並
べ
る
こ
と
が
で
き
る
。
し
た
が
っ
て
、
現
在
の
畳
が
一
二
枚
敷
き
つ
め
ら
れ
る
広
さ
で
現
在
の
間
取
り
と
同
じ
で
あ
る
。
こ
の
家
屋
の
天
井
も
し
く
は
床
は
、
板
ぱ
り
で
ら
な
く
べ
笹
て
竹(
そ
の
女
竹
)
を
な
用
と
し
た
代
に
炭
の
土
大
指
親
て
っ
混
焼
た
っ
さ
ぶ
か
い
覆
に
上
石
礎
。
る
れ
ら
え
考
が
と
こ
屋 根 の部 分の復元
柱 間 装 置 の復元 (立面 )
化
壁
の
小
し
た
笹
竹
が
多
量
に
出
土
し
た
。
勿
論
こ
れ
ら
の
炭
化
竹
舞
竹
と
し
は
て
使
用
さ
れ
た
も
の
も
含
ま
れ
て
い
よ
う
、
そ
の
使
用
を
回
る
程
の
多
上
が
量
の
出
土
を
見
て
い
る
代
。
こ
れ
ら
の
竹
が
天
井
板
の
代
用
と
な
っ
た
の
か
床
板
の
用
で
と
し
て
使
用
さ
れ
た
の
か
出
土
判
定
況
か
ら
は
き
な
か
っ
た
。
は
状
礎
石
群
の
上
に
覆
い
か
ぶ
さ
っ
た
多
数
の
焼
壁
真
も
に
屋
家
の
こ
ら
か
等
喰
漆
白
、
や
竹
化
炭
た
っ
合
り
混
に
か
な
の
そ
と
土
の
部
分
が
存
在
し
た
こ
と
が
考
え
ら
れ
る
。
室
町
末
頃
の
農
家
に
見
ら
れ
た
と
い
小
舞
竹
と
し
て
使
も
の
で
な
く
、
親
指
大
の
笹
竹
を
う
木
の
枝
等
を
小
舞
と
し
た
小
舞
竹
が
炭
化
引
し
た
も
の
き
戸
の
上
の
小
壁
あ
た
り
の
用
し
て
い
る
。
恐
ら
く
で
あ
。
ろ
う
壁
以
外
の
部
分
は
引
戸
で
あ
っ
た
と
思
わ
れ
る
。
礎
石
は
一
間
毎
に
置
か
れ
て
か
い
る
の
で
指
物
の
使
用
が
な
い
、ぎ
り
一
間
ご
と
に
立
柱
が
存
在
し
て
い
た
と
考
え
な
け
れ
ば
な
ら
な
い
。
こ
の
間
に
は
、
一
間
ご
と
に
板
戸
が
立
て
ら
れ
て
い
た
。
る
れ
わ
思
と
一
聞
の
聞
に
は
間
柱
を
受
け
た
と
思
わ
れ
る
礎
石
等
が
存
在
し
な
い
の
で
、
二
枚
の
板
戸
が
立
て
ら
れ
引
き
違
い
に
な
っ
て
い
た
の
で
あ
ろ
う
。
い
わ
ゆ
る
、
一
間
引
き
違
い
の
三
本
溝
で
障
子
が
一
枚
付
い
て
い
る
形
式
で
あ
る
。
し
上
か
に
し
覆
、
い
礎
か
石
ぶ
さ
る
壁
土
の
量
が
引
き
違
い
板
戸
で
あ
っ
た
に
し
て
は
、
意
外
と
多
い
と
こ
ろ
か
ら
一
聞
の
半
分
が
袖
壁
と
な
る
三
尺
片
引
き
で
あ
っ
た
可
能
性
も
依
然
と
し
て
残
る
。
こ
の
第
一
棟
の
屋
根
は
、
焼
混
っ
土
て
に
束
に
な
っ
て
炭
化
し
た
萱
が
出
土
し
て
い
る
の
で
、
査
葺
だ
っ
た
ら
し
い
。
浜
の
館
の
敷
地
一
帯
で
瓦
片
の
出
土
を
見
る
場
所
は
な
い
の
で
館
内
に
存
在
し
た
付
属
の
建
物
で
瓦
葺
の
家
屋
は
存
在
し
な
か
っ
た
も
の
と
思
わ
れ
る
。
当
時
の
建
物
の
屋
根
材
と
蘇
文
書
使
用
が
考
え
ら
れ
る
が
、
桧
皮
や
こ
け
ら
等
の
て
阿
の
な
か
に
神
社
し
は
--
25
註3
社
殿
の
屋
根
材
と
す
る
桧
皮
を
周
防
の
東
大
寺
領
文
に
注
し
た
文
書
等
も
残
て
っ
い
る
の
で
付
属
の
建
物
の
な
か
に
あ
る
い
桧
は
皮
等
葺
の
建
物
が
存
在
し
た
こ
と
も
考
え
ら
れ
る
。
第
一
棟
の
屋
根
の
形
式
は
資
料
を
欠
く
の
で
断
定
で
き
な
い
が
、
萱
葺
と
い
う
制
度
が
あ
る
の
で
入
母
屋
造
で
あ
っ
た
と
思
当
わ
時
れ
の
る
形
。
式
か
ら
妻
の
棟
に
近
い
部
分
に
は
三
角
の
破
風
あ
た
り
が
設
け
ら
れ
て
い
た
可
能
性
も
充
分
考
え
ら
れ
る
。
肥
後
に
お
け
る
国
衆
ク
ラ
ス
の
武
部
士
は
の
、
館
従
の
来
家
方
屋
基
礎
形
の
柱
穴
を
掘
り
、
そ
れ
に
掘
立
柱
を
立
て
た
も
の
で
あ
っ
た
が
、
室
町
も
後
期
註4
期
)
に
な
基
る
と
礎
礎
に
石
持
を
屋
が
つ
家
出
て
現
く
し
る
。
(
戦
浜
の
館
一
第
国
な
ど
所
)
が
そ
れ
で
、
小
さ
礎
く
石
貧
は
弱
で
殆
棟
や
隈
部
館
の
第
一
棟(
対
面
穴
。
住
な
き
大
の
形
方
は
館
の
士
武
の
い
代
な
時
れ
倉
ら
鎌
見
は
用
使
の
石
根
ど
。
郡
小
川
町
の
典
小
野
あ
館
ろ
跡
は
そ
う
の
型
で
を
屋
持
、
が
つ
家
多
く
下
益
城
り
お
て
似
に
棟
一
第
館
の
浜
も
棟
一
第
館
部
隈
の
在
所
町
鹿
菊
郡
本
鹿
。
る
れ
わ
思
と
た
し
在
存
に
分
部
一安
は
口
入
制 家屋の建築年代!
表
が
面
上
石
礎
、
と
る
す
断
判
ら
か
果
結
掘
発
、
は
代
年
築
建
の
棟
一
第
の
こ
代
時
各
た
っ
合
り
な
重
る
け
お
に
館
の
浜
、
り
あ
に
ろ
こ
と
の
後
前
m
O
五
下
土
ρ0
つ'u
第 一棟礎石下の 根石
( 第 1区)
第 l 棟礎石の中心 を 取 っ た刻線
( 第 1区)
柱穴内の基礎石
( 第 1区)
家屋の基礎部
第14図
番新しい時期のものである。なお、第
の家屋のなかでは上層にあり一
一棟家屋の建築年代の上限としては、その床面にはりついて出土した
銭貨の初鋳年が目安となる。床面からは永楽、洪武通宝等一O数個の
出土があるがそれらの銭貨に混って朝鮮で鋳造された朝鮮通宝が発見
四二三年であるのでこの家屋がその年より後
された。ごの初鋳年は一
であることは当然で初鋳年から矢部の山中に伝来するまでやはり一定
五世紀後半以前ではあり
期間を経たであろうし、いかに早くみても一
日守
ちAEA
o
t
J
f
第 三棟根石出 土状況
円,d
q〆“
木炭片等火災の残屑等によって埋め立てられた前時代の泉水の上面に
建てられていたし、東側の第一
棟礎石を取り除いた後の黄色土には規
庭園に伴う時代
則的な方形もしくは円形の落ち込みが確認された。
の建物の柱穴跡と考えられる。
また第一棟に使用されていた礎石はやはり、前時代の礎石の転用で
あることに疑いないが、これらは天文二一
年の阿蘇文書に見られる矢
部対面所建築の際に使用された礎石と推定される。第一
棟は天文二二、
三年頃完成したこの矢部御対面所がその後戦火もしくは失火により焼
亡した後建立された建物である。阿蘇文書に料木割宛が残る、矢部御
第二棟根石出土状況
この第一
棟家屋の西側入口のたたき部分および梁行部分は、焼土や
I 区 出 土の礎 石 お よ び根石
第 一 棟全景図
年(
一
五
対
面
所
の
焼
の
は
天
正
一
四
亡
時
期
は
不
明
で
あ
る
が
、
考
え
ら
れ
る
の
浜
は
氏
蘇
の
頃
)
六
阿
八
、
時
の
こ
。
る
れ
ら
げ
あ
が
時
入
侵
後
肥
の
氏
津
島
浜
時
一
に
期
一
に
後
を
館
時
の
こ
、
が
の
る
丸
れ
自
が
の
の
臣
に
大
中
内
山
、
時
。
能
性
が
強
い
焼
亡
し
た
可
の
館
を
空
け
る
の
こ
で
、の
折
、
失
火
そ
の
他
に
よ
り
状
康
中
応
一
天
が
、
乱
州
後
戦
の
し
了
そ
終
が
伐
征
秀
臣
豊
の
年
五
一
正
九
の
吉
蘇
阿
し
国
入
が
氏
藤
蘇
阿
、
時
加
た
後
っ
の
保
そ
を
、
態
し
着
帰
に
館
の
浜
は
氏
現
地(
宮
て
O
二
も
氏
し
と
主
神
の
社
蘇
阿
け
受
を
料
祭
奉
の
社
神
の
石
O
O
神
急
応
に
期
時
り
移
に
)
町
の
宮
の
、
一
そ
が
る
な
に
と
こ
る
す
念
専
に
杷
祭
後
以
況
状
の
時
掘
発
れ
。
る
さ
立
れ
建
わ
に
思
的
も
と
た
っ
あ
で
棟
一
第
の
こ
が
の
た
で
か
ら
明
は
断
判
ら
の
か
た
げ
と
を
鷲
よ
に
災
火
が
屋
家
終
の
て
こ
っ
、
と
る
す
ら
え
考
と
う
そ
、
が
る
あ
ろ
あ
で
期
時
ぬ
藤
ら
加
か
、
遠
は
ら
期
か
時
の
国
入
氏
紀
も
一
七
世
れ
第
る
。一
の
結
果
棟
の
壁
小
舞
に
使
用
さ
れ
た
炭
化
竹
の
C
測
定
け
て
と
を
裏
付
初
頭
頃
と
出
て
お
り
、
焼
亡
時
期
で
あ
っ
た
こ
が
こ
の
前
後
す
る
い
る
。
ω 第 一棟 家屋の性格
家
を
分
部
の
間
土
や
の
屋
点
持
る
い
を
石
て
礎
っ
、
り
あ
も
坪
八
二
が
数
坪
総
持
ち
合
わ
同
敷
地
に
建
せ
て
い
な
い
点
な
ど
か
ら
こ
の
家
屋
が
浜
の
館
滅
亡
後
、
は
軒
て
ら
れ
た
な
い
。
当
時
の
農
家
一
般
農
民
の
家
屋
で
あ
っ
た
と
は
考
え
ら
れ
た
き
等
も
低
く
は
西
側
の
部
分
に
た
閉
鎖
的
構
造
の
家
屋
が
多
い
が
、
こ
の
家
屋
分
る
。
こ
の
よ
う
に
入
口
部
の
大
々
的
入
口
の
施
設
を
持
ち
妻
入
り
と
な
っ
て
い
が
く
も
の
と
は
り
正
統
な
書
院
座
敷
の
系
統
を
引
開
放
的
色
彩
を
持
つ
家
屋
は
や
思
わ
れ
、
を
持
当
時
の
言
葉
で
い
う
晴
の
場
」
で
あ
り
、
対
面
所
的
性
格
な
ら「
つ
建
物
殆
は
で
あ
家
っ
農
た
の
ろ
近
う
付
と
の
る
考
こ
。
え
在
ら
現
れ
、
り
ま
つ
ん
ど
家
入
口
て
こ
の
屋
は
平
妻
八
入
と
の
な
形
っ
式
を
は
取
い
る
が
っ
て
い
る
こ
第 二棟
家
屋
跡
よ
り
日
用
器
片
の
出
土
と
、
他
の
箇
所
に
較
べ
が
少
な
い
こ
と
、
ま
た
雑
て
お
り
、
こ
の
家
屋
の
壁
の
上
塗
り
礎
石
を
覆
う
焼
土
の
な
か
に
白
漆
喰
が
混
っ
実
ど
の
諸
が
こ
の
こ
と
を
使
用
さ
れ
て
い
た
ら
し
い
こ
と
な
に
石
灰
付
け
事
が
裏
て
わ
思
に
う
よ
る
い
。
る
れ
ω 第 一棟 家屋と同時代の遺構
礎
石
を
有
す
る
第
一
家
屋
以
上
棟
に
、
区
の
調
査
区
内
に
礎
石
を
失
一
っ
た
一
つ
の
家
屋
が
同
レ
ベ
ル
か
発
ら
見
さ
れ
た
。
こ
れ
ら
家
の
屋
跡
は
、
幸
い
礎
石
下
こ
る
す
握
把
を
ン
ラ
プ
な
か
ま
大
、
め
た
た
い
て
し
存
残
が
石
根
た
れ
さ
用
使
に
側
西
、
棟
二
第
を
構
遺
の
り
寄
東
北
の
内
区
査
調
、
下
以
。
た
っ
な
と
能
可
が
と
同
と
棟
一
第
に
共
。
る
す
と
と
こ
る
す
称
呼
と
棟
三
第
を
構
遺
の
土
出
分
部
央
中
。
る
あ
で
の
し期
新
番
時
の
一
い
も
は
で
中
の
構
遺
館
の
浜
、
で
跡
の
屋
家
の
代
時
第
一
次
調
査
開
始
当
初
に
礁
発
最
見
さ
れ
た
。
初
、
人
頭
大
の
が
小
集
を
な
合
し
出
代
土
し
た
た
め
、
水
田
時
に
埋
め
込
ん
だ
も
の
と
思
わ
れ
た
が
、
発
掘
が
進
行
磯
つ
様
す
る
に
の
れ
集
、
合
の
同
が
相
次
い
で
発
見
さ
れ
、
相
互
間
に
一
定
の
則
性
が
認
規
め
ら
れ
を
る
の
、
で
発
掘
区
域
全
掘
拡
し
大
た
し
。
こ
の
行
結
果
、
桁
四
問
聞
、
の
向
梁
間
二
を
指
在
が
す
棟
南
一
方
北
棟
が
存
し
た
こ
と
が
確れ
認
た
さ
。
と
る
す
元
復
を
棟
二
第
の
こ
く
し
わ
く
に
ら
さ
、
ら
か
置
配
の
石
根
た
れ
さ
残
。
る
な
と
り
お
と
の
下
以
と
行
桁
、
え
は
ぞ
で
か
間
を
m
梁
O
五
二
が
聞
梁
側
、
O
二
一
は
聞
柱
の
行
桁
桁
、
と
る
す
元
復
を
物
建
の
の
こ
ら
ら
れ
か
こ
値
。
数
る
異
が
値
数
の
聞
柱
が
行
を
向
方
北
で
聞
建
す
指
で
聞
二
が
南
ぼ
四
ほ
が
棟
m
の
五
、聞
m
梁
O
四
・
八
o
六
ス
ナ
イ
マ
り
よ
)
点
原
土(
表
は
さ
高
の
石
根
。
る
れ
わ
思
と
た
っ
あ
で
物
。
う
ろ
あ
で
位
m
O
四
ス
ナ
マ
イ
は
面
上
石
礎
、
で
の
る
あ
で
後
前
m
- 28 -
第二樟
第1 6図
根石の 出土状況
場
曾
C事
験
O
ぞう
Q
ち ら
向)
併
O
謀議 。
o
- 29 -
、,eι'la
J
.
E
e
h
,
­
,
,,
、
,,f,‘‘
O[
((}fj)
d
1m
第二棟では、礎石の存在するのは皆無、根石が一
O箇所、根石の抜
かれた跡だけのもの二箇所で計一二箇所を数える。家屋内部には礎石
の跡が認められないので
、 床の存在した可能性は薄い。根石は直径二
om
前後のものが多く、火に焼けているものや加工のあるもの等が認
められる。家屋内に遺物の存在は認められず、南側の家屋外に九片の
土師質土器片と須恵片、および瓦質土器片若干が散乱していただけで
あった。
屋外の遺構としては、家屋西側に桁行に沿って幅五Omの溝状の黒
色土の落ち込みが認められたが、雨水の排水溝と思われる。この落ち
込みは北端で東へ鈎状に曲るが、その先は明確でない。あるいは家屋
全体を取り巻いていたのかも知れない。第二棟の東側には長さ約七m
の東側喋群が走っているが、土塁等の基底部かとも思われる。屋根は
瓦片が見当らないので
、 寄棟造りの萱葺だったのであろう。
さて、この建物の性格であるが、殆ど遺物を伴っていない点、床
が存在しないこと、建物五桁行が南面していないこと等から、この第
二棟は家屋ではなく倉庫もしくは物置といった性格のものではなかっ
たかと推定される。
」
の建物跡は予備調査の際発見されたもので、やはり第
二棟と同様根石のみで礎石は失われていた。発見されたのは、発掘区
域の西側中央部分で後で出土した庭園部の北側一
帯にあたる。
根石群が南から北へ走り、北端で西へ鈎状に曲ったいわば建物の東
側および北側の一
部が残っているだけで、南側・お
よび西側の基礎部の
遺構はすでに失われていた。残された根石群からこの建物を復元する
と、第二棟と同様南北に長いプランを有する建物である。残された根
第
棟
、梁 聞が二四O
石から住聞の数値を計測してみると、桁行が二四O畑
仰で桁行、梁 間共に同数値を示している。方向、その他も第二棟と同
様である。
なお、予備調査の際、この建物跡から三
つ巴文を口縁部に有する瓦
質の火舎片や、天目茶碗片等が、金属類としては渡金の痕の残る銅製
の太万の鞘部残欠や、飾り金具として使用されたと思われる波金痕の
残る菊花を形取った銅板等が出土している。
なお、遺構の破壊が激しく前述以外の根石、その他はすでに失われ
現況からは床を持つ
建物であったのか、もしくは土座であったのか把
握できない。しかし建物跡の北側に小礁を打ち堅めたたたき部分が存
在したことなどから、この建物の入口部分は北側にあり、妻入りであ
ったことが判った。以上のように、遺物の伴出や入口たたき部分の施
設が残ることなどから推察すると、この棟が人が住む家屋であったこ
とが考えられる。
遺構の大半が失なわれているため、プランを明瞭に把握できないが
桁行四問、梁間二聞の第二棟とほぼ同規模の建物が復元される。
前後で角だっ
なお北側に残るたたき部を形成する小磯は、直径四m
m程度に、ぎっしりと敷き詰められ、かた
た山石である。この小離が四2
められている。これらの礁のたたき部分は、この外に少し、ずれてもう
一
箇所認められた。おそらく第三棟が一
度建て替えられたことを物語
る遺構であろうか。
東西ニつの磯群について 表土下回Omのレベルで発掘区の北側
と東側に二つの蝶群が発見された。マイナス四Omのレベルは、第一
棟から第三棟までの家屋跡が存在する面であり、東西二つの磯群もこ
-30 一
第16図( 2 )
東 ・ 西両醸 群 実測図
宅2
�
ρ唱
2d8舗がす
.
えア時議きが浜O解O
F
。昨
区
ホ
東側l喋 群実測 図
O
J
験務
命
。ο
0
4q
d
偲
為
安
心
0
3
0
0
〉
袋
内
ぽ
待
遇
印
い
〉
A
J
3
ρ
コ
30
0
qu
0
ζ
川
d
絞
ら
や
当
日
y
民
o
a
安
齢
憎
い
や
将
機
略
も
o
N
iI4「+|
西側喋群実測 図 (57-60 →二 区)
1
-圃-.---
2m
�一一』圃圃圃ζ二二1・圃・Eご二二三二一一一一±てこ二二二二 二二二ニコ
群
磯
側
西
群
礎
側
東
ゲ
し
か
も
喋
群
の
走
る
れ
ら
の
各
棟
と
何
ら
か
の
関
係
の
あ
る
遺
構
と
思
わ
れ
る
。
塁
土
、
は
い
る
あ
で
の
る
い
て
し
土
出
で
況
状
な
う
よ
む
囲
を
跡
屋
家
、
が
向
方
の
た
い
て
っ
な
連
は
群
礁
の
つ
二
。来
る
元
れ
ら
え
考
も
と
か
欠
残
の
部
底
基
の
オ
レ
テ
ス
上
場
立
の
存
保
録
記
、
が
い
な
は
手
め
決
な
実
確
の
代
時
。
う
ろ
あ
で
。
た
っ
行
を
成
作
面
図
る
よ
に
ラ
メ
カ
O
六
六
が
長
全
は
群
礁
側
西
る
な
径
ら
直
か
礁
の
後
前
m
O
一
残
の
の
も
た
を
い
て
で
び
延
へ
部
東
来
欠
従
。
る
い
て
し
な
m
O
五
幅
、
状
仰
帯
る
い
て
の
そ
、
が
び
延
へ
向
方
方
東
ら
が
な
き
傾
に
北
や
や
は
。
る
れ
わ
思
と
分
喋
で
遺
う
伴
に
群
礎
の
こ
。
う
ろ
の
あ
た
い
て
し
続
末
側
接
へ
東
、
群
来
元
は
端
土
。
い
な
れ
ら
出
み
の
は
物
全
。
る
あ
で
列
群
る
な
ら
か
磯
の
様
同
と
群
磯
側
西
り
は
や
喋
m
延
て
っ
か
向
に
北
ぼ
ほ
、
し
な
を
状
帯
程
の
佃
度
五
六
均
平
が
幅
・
七
約
が
長
も
た
っ
な
に
期
時
同
、
で
様
同
と
群
側
西
は
等
幅
、
方
び
並
の
礁
。
る
い
て
び
喋
遺
に
他
、
で
み
の
た
れ
ら
見
が
点
数
片
器
土
質
師
土
に
聞
の
群
喋
。
う
ろ
あ
で
の
。
い
な
は
土
出
の
物
制 第一調査区における第一棟以前の遺構
ス
マ
イ
ナ
ス
用
材
の
炭
化
物
の
カ
ー
ボ
ン
測
定
結
果
は
、
三
五
O
プ
ラ
第
一
棟
に
位
置
長
一
五
年
)
時
期
を
一
六
一
O
年(
慶
七
を
示
し
、
第
一
棟
の
焼
亡
頃
O
で
ら
実
え
考
が
成
落
の
館
の
浜
に
頃
年
六
八
五
的
一
史
は
歴
。
る
い
て
事
な
け
づ
ス
ナ
イ
マ
ス
ラ
プ
も
果
結
定
、測
が
る
れ
ら
え
考
が
亡
焼
の
館
に
後
前
の
そ
れ
。
る
い
を
期
て
し
時
の
示
こ
七
ぼ
ほ
り
あ
が
差
誤
容
許
の
年
O
し
在
存
に
区
I
に
前
以
類
屋
家
た
し
亡
焼
に
期
時
の
こ
は
構
遺
う
扱
取
で
こ
こ
家
て
各
の
、
種
は
遺
し
と
構
以
の
前
下
一
棟
第
の
こ
。
る
す
と
て
い
つ
に
分
た
種
三
に
イ
タ
の
類
更
は
て
い
つ
に
跡
穴
柱
が
る
れ
ら
げ
が
部
園
庭
と
跡
穴
柱
あ
屋
第 一棟 以 前 の 礎 石を 持 つ家 屋
に
分
け
ら
れ
プ
る
。
A
タ
イ
プ
は
弥
生
時
の
代
住
居
跡
の
柱
穴
に
見
ら
れ
る
よ
う
な
、
直
径
二
O
側
、
深
さ
五
o
m
程
度
の
柱
穴
で
あ
る
。
こ
の
柱
穴
に
は
、
柱
と
穴
の
壁
と
の
間
隙
に
石
を
詰
め
た
場
合
が
多
い
。
タ
イ
プ
は
B
、
直
径
四
O
J
五
O
m
深
で
さ
が
四
O
m
程
度
の
規
模
を
持
つ
柱
穴
で
、
あ
ま
り
深
く
な
い
底
部
に
平
坦
面
を
持
つ
石
が
置
い
て
あ
る
。
柱
穴
に
よ
っ
て
は
平
石
の
替
り
に
底
部
に
人
頭
大
の
J
川
石
を
四
五
個
雑
然
と
置
い
て
あ
る
場
合
も
あ
る
。
こ
の
タ
イ
プ
は
、
礎
石
を
持
つ
家
屋
の
基
礎
部
を
そ
の
ま
ま
穴
を
掘
り
埋
め
こ
ん
だ
と
い
っ
た
形
式
の
も
の
で
あ
る
。
タ
イ
プ
は
、
直
径
C
が
五
O
J
一
o
o
m
前
後
で
、
円
円
、
、
長
穴
方
形
楕
と
の
形
状
に
定
型
が
な
く
掘
ら
れ
敷
石
等
を
持
た
な
い
け
は
一
定
の
が
、
柱
聞
に
だ
寸
法
を
持
つ
と
い
う
形
式
の
も
の
で
あ
る
。
で
あ
る
。
を
有
す
る
形
式
こ
の
三
つ
の
タ
イ
プ
以
外
は
、
基
礎
部
に
礎
石
こ
の
三
つ
の
タ
イ
プ
が
、
そ
れ
ぞ
れ
各
時
期
を
特
徴
事つ
け
る
も
の
か
、
同
時
期
に
併
行
す
る
も
の
で
あ
る
か
、
か
な
ら
ず
し
も
明
確
で
は
な
い
。
し
か
し
第
一
棟
以
前
の
遺
構
で
あ
る
こ
と
は
明
ら
か
で
あ
る
の
で
、
以
下
そ
の
各
々
に
つ
い
て
述
い
べ
く
て
。
第
一
棟
以
が
前
、
に
礎
石
を
持
つ
家
屋
こ
の
地
に
存
在
し
た
こ
と
は
明
ら
か
で
あ
柱
る
。
第
一
棟
に
使
用
さ
れ
た
礎
石
に
の
芯
を
と
っ
た
十
文
字
の
刻
線
が
幾
重
に
も
刻
ま
れ
、
ま
た
そ
れ
が
、ず
れ
て
お
り
第
一
棟
建
設
の
際
に
刻
ま
れ
た
刻
ら
か
で
あ
る
。
さ
ら
に
第
線
で
な
い
こ
と
は
明
一
棟
と
第
二
棟
の
聞
の
空
ど
掘
り
進
め
た
と
こ
ろ
、
同
様
の
間
部
を
約
二
O
m
ほ
や
や
大
型
の
礎
石
二
個
が
出
土
し
た
。
当
初
、
元
位
置
を
保
っ
て
い
査
の
最
終
調
査
を
進
め
た
が
、
調
る
と
考
え
段
階
に
な
っ
て
こ
の
礎
石
を
取
り
上
げ
た
際
、
裏
側
に
や
は
り
柱
の
芯
を
取
っ
た
十
文
- 32 一
� � � � � w w @ � � M �
イ
ロ
.
'"
.ノ 、
ト
官
e
"
チ
ヌ
ヲ
o
d
Jレ
・
..・
tド
。や . 。
..
。宅 �
|
タ
N
{
-フ
パ
。
CJ
も町
。 rc,c? 。
|智
•
-・,t
。
F
<
\‘・ 、に,ノeJ
a
ピゲ
、
d
0 0。
す師団
.
1
日
•
c"h.
。
旬
'-'c,- .ー
I
,
� ,、
t
)'0 第一棟た た き 部 J
紙!o
->t
降 \.6T I'�
事j 。 毛 PM日巴W.・ Y一:: ! .
OC
と
企.
,_...
c-::
、..;y
4L
t
..
.
t" 守 ‘
ëf"。
B
e
o
�
白昼
@ T
1
ρ 語島
O
円、
q語 ・ dìJ
。
。
.8CJ.
宅:r
昔。 品 。。 0 ・'"
cb 、 :
01
。。
•
事e. !
。 9・
d唾。 a
�_o
。
。
.
。
ヨ
丸/
1.
•
ジ
。
カ
.
n
。
t
.
。
。
ワ
ナ
唱ず
。
。。 。
。 t
。
。 IJ
・・
もF司、
。
�"
。
。
ネ
.
,
Cコ
。
C b
。
く フタ側冒
q
ツ
"8
d回明暗
西側襟群
J\
ソ
。
� 思童夢陣�
ホ
レ
'
Z -b
H4a一
J- V
・ー 一 ー ー.晶・aー ・ ・: 議
骨E1
‘、ー・ー ー. 場 ,-'-'-' -・・・R司』・『司-- 句、 ・-圃圃ー咽 _.y'.--':ー:_�- 't宗五,;Fイ・
。
I
p
、.
θ
t>
〆
-"" 〆
‘明
理瞳
ー ι --
- -ー ・ -ー'-'-.
徳島
日l もも。『ま
�日 いF胡 &
2F ・
OE
1i 守
!'ll
i
._ __._Cl..
主安土
ø"
1 tI
E2
・
員l
一 ・L� ._ . 令
o
X曹
。
Ii
l
O
66
67
68
69
D
�
.
- ゆ
O
。。
r、
.A
事
。
唱
.
.
1/) " 1'
..
ー。
n
、
、
'::
.、、
•
.
.、、,、‘
.
白D J,,,、
[
E
.
•
AA
t、fd
.
土師質土器片
ム
青磁 白磁器片
.
須恵 ・ 瓦質 土器
" 鉄釘
×
、ft
弥 生 ・ 銭貨
p
v 礎石 (移)
a
A
A
. . ..
a lてy・
企 -
.
O.東�側磯群p
4 青護士 時IT
.'
A•
Â
a
/・、1I
C
A 手
M gヨ
.'
第 1 区遺物遺構出 土状況
.
b.o f,F/ 庁官三・ :
�
原点 (表土面) より-60咽の個所
凡例
第12図
a恥
Iや • .,
:
72
e
00
A
<:e
、2・
•
。
持
71
・a Iì。も 、也,、e 。
/J.
O
'.
・
70
A
、 傍G
O
ー 、 。、ー ,.. I ._ - ・_.__..--戸"、ノー一一�-;.-;:�ç J 句、防-(t-..O
-'_. -' パOー\守OQ:jJド ? � て5" �.,.
F hJ卜τ
九、
石
h一概
長。Fx
もi
.Q蝿 白-但 . a‘ I ー
�"c ミ手 í1;'� r〆f竺 _._ -c .・-9 。
事
。
伊
n
】.s。 。。•�.<f. ド0 ρ
にコ
o:
q
(J
A
. 、
l"
cf.�'.:
.
,, "
A
E平一
い) 1
'
' ..
.
宅f
申
v
ム
1,
@
|
。
'
. 1骨畢
.
白 内。
唱 ・ ()
.
- ・. 1
t
/l
�
丸戸J
σ
O
。
師x ab Ad .e。ehcb
銭 手 .・
由 。 aSJ
|
一 一割
邑.m,Aq0Mo qe
。
.
O
、J
.
A
':"/l
宣7 、
A
♂ 。。
山
. ・
. ・.,
•
縮尺 1
礎石 (移)
ら 3問 。
旬 、、J
。
‘
.p'
。 。
。 ロ
ß
A
(')
It吊ラ
o 0
e
。
。O
) CSì
C粗
o忽
J釘
•
I
ー
G
l ロ
。
。
のιゐ
。
。
q
c'>
o
o
1
c
U0o . -z-E・
o
.
o
o
事t.�
♀ 。�
。 。。
'
.'.・ .
o o ' 険 、 宮:1'0
Q
0
'ù
D
..A
. ・ ・ ・..
A
�
T
。ロ、 o -._.-'Dt�
"
\;6
E・.
0ロv
- i
よ。
�
0
<:;<
。
百草 詳
þに\;
a
o
D
ぎ
o
.
@。
O
。
2 0 0
6 m
VI .
。
。
"
4
2
c
D
聾の躍 世 吻
q<:)〆�
c
..
b
..
.'
:
'.
.:
..
る
あ
で
用
転
の
石
礎
の
屋
家
の
こ
、
が
石
礎
の
棟
一
第
、
れ
さ
見
発
が
線
刻
の
字
発
が
物
遺
の
数
多
、
ら
か
辺
周
石
礎
る
い
て
動
移
の
こ
。
た
れ
し
さ
認
確
が
と
こ
遺
の
ニ
だ
た
。
た
っ
か
わ
全
が
と
こ
る
で
あ
の
も
の
期
盛
館
の
浜
、
が
た
れ
さ
見
た
る
い
て
れ
て
の
い
さ
構
つ
な
遺
が
に
壊
全
破
完
、
は
に
模
規
の
屋
家
う
伴
を
物
。
で
た
っ
か
な
き
握
把
め
い
た
後
、
第
一
棟
下
部
の
柱
穴
を
有
す
る
家
屋第
一
棟
の
礎
石
を
取
り
除
さ
ら
に
一
O
m
ほ
ど
掘
り
下
げ
た
結
果
、
東
西
一
に直
線
上
に
走
る
六
個
の
穴
の
棟
の
真
下
列
を
発
見
し
た
。
こ
の
穴
の
列
が
発
見
さ
れ
た
の
は
、
第
一
棟
家
屋
の
は
な
い
。
と
混
り
一
定
で
の
部
分
に
あ
た
る
。
形
状
は
楕
円
、
長
方
形
、
そ
の
他
楕
円
の
長
径
は
一
三
O
O
短
m
、
m
、
短
径
が
七
O
m
、
長
方
形
で
は
長
軸
が
九
れ
と
前
後
が
五
O
側
、
深
さ
五
軸
O
m
位
の
穴
で
あ
る
。
列
を
な
す
他
の
穴
も
そ
の
代
時
前
、
で
の
つ
持
を
の
を
疋
二
る
性
、
い
に
則
て
規
聞
柱
。
値
数
し
る
示
す
。
る
と
れ
い
わ
な
思
い
違
間
に
列
穴
柱
る
と
約
一
九
こ
れ
ら
の
柱
穴
の
柱
聞
を
知
る
べ
く
穴
の
芯
か
ら
芯
を
追
っ
て
み
七
m
で
、
全
柱
穴
の
芯
を
と
る
こ
は
と
が
一
九
で
七
き
る
m
の
で
、
柱
聞
桁
行
の
前
後
だ
っ
た
の
で
あ
ろ
う
、
。
梁
る
が
、
期
日
に
お
わ
れ
全
柱
穴
の
探
査
が
で
き
ず
、
不
充
分
の
き
わ
み
で
あ
で
あ
っ
た
と
は
第
一
棟
と
同
様
七
聞
間
部
分
の
柱
穴
と
考
え
併
わ
せ
る
桁
と
、行
わ
れ
る
。
思
わ
れ
る
。
梁
聞
は
明
確
で
な
い
が
、
や
は
り
四
間
程
度
だ
っ
た
と
思
梁
が
異
な
っ
間
の
全
長
は
七
五
O
m
で
あ
る
が
、
桁
行
と
異
な
り
各
柱
聞
で
数
値
て
い
る
よ
う
な
の
で
、
は
っ
き
り
し
た
こ
と
は
判
ら
な
い
。
鉄
釘
こ
の
家
屋
床
枚
、
等
面
か
ら
銭
貨
数
は
瓦
質
土
器
片
多
茶
碗
片
、
と
天
目
数
の
出
土
が
見
ら
れ
た
。
以
上
の
結
果
、
第
一
棟
三
と
五
ほ
O
ぼ
m
同
北
様
方
の
建
物
が
同
所
よ
り
に
その 他 の 柱 穴遺 構
ず
れ
て
存
在
し
て
い
た
こ
と
が
判
っ
た
。
し
対
に
の
た
っ
あ
で
物
建
る
す
有
を
石
礎
が
棟
一
第
、
は
点
る
な
異
と
棟
一
第
こ
。
う
ろ
あ
で
点
う
い
と
た
っ
あ
で
立
掘
つ
持
を
穴
は
部
礎
基
の
屋
家
の
こ
、
て
。
と
し
て
把
握
で
き
よ
う
れ
は
時
代
差
に
よ
る
特
色
た
し
土
出
が
跡
穴
柱
な
う
よ
の
こ
り
よ
部
下
棟
一
第
確
の
無
有
の
穴
柱
、
し
定
設
を
チ
ン
レ
ト
の
東
棟
一
第
に
つ
ら
さ
三
に
、
め
た
側
ほ
m
O
五
さ
深
チ
ン
レ
ト
一
O
二
幅
は
三
で
一
さ
長
、
一
第
。
だ
い
急
を
認
、
m
m
穴
柱
の
形
円
楕
は
く
し
も
円
の
度
程
m
O
七
J
O
五
径
直
、
果
結
た
げ
下
り
掘
ど
一
二
、
が
い
な
認
き
確
で
言
を
断
で
の
る
い
て
れ
ら
限
が
分
部
掘
試
。
た
し
個
八
。
る
れ
わ
思
と
穴
柱
の
屋
家
、
つ
持
を
隔
間
の
後
前
m
o
に
番
号
を
付
し
た
が
、
そ
の
ほ
ぼ
全
部
の
穴
こ
れ
ら
の
柱
穴
に
は
、
西
か
ら
順
形
ら
か
5
恥
、
完
個
一
ら
か
4
恥
に
特
。
た
れ
ら
め
認
が
土
出
の
器
土
質
師
土
に
土
出
の
片
破
の
分
四
個
り
五
は
や
も
ら
か
、
炭
木
と
片
破
の
分
個
四
一l
一
一
l
7
肋
肋
7
か
ら
片
の
見
に
、
。
用
は
破
余
不
明
ら
れ
た
外
の
鉄
で
製
い
品
た
。
が
落
込
ん
が
し
と
皿
明
、
燈
は
ど
ん
と
ほ
の
器
土
質
師
土
る
す
土
出
か
ら
内
穴
柱
の
ら
れ
こ
し
供
に
皿
飲
て
し
と
器
雑
用
日
、
で
皿
の
型
小
の
後
前
叩
七
径
口
た
れ
さ
作
製
て
の
叩
O
二
一
径
直
で
区
査
E
第
た
し
調
年
後
は
れ
こ
。
い
な
れ
ら
め
認
は
の
も
た
が
実
事
た
い
て
れ
ら
め
納
が
皿
明
燈
の
様
同
と
れ
こ
、
に
々
各
の
内
穴
柱
の
型
大
、
れ
わ
行
式
儀
の
か
が
ら
何
、
際
の
上
棟
の
屋
家
、
が
た
解
け
が
謎
の
こ
れ
さ
認
確
ろ
あ
で
の
も
た
れ
ら
め
的
納
識
に
意
穴
が
皿
つ
つ
の
こ
と
に
ひ
柱
の
時
と
の
ひ
そ
。
AJ
わ
れ
チ
の
北
壁
に
こ
の
こ
と
は
、
第
レ
一
トン
た
地
層
断
面
か
ら
も
窺
い
知
現
る
こ
と
が
で
き
る
。
表
土(
運
動
場
)
面
か
ら
五
O
m
ま
で
は
運
動
場
造
成
の
際
赤
土
が
の
っ
て
い
る
が
、
こ
の
下
か
ら
の
層
序
は
黒
の
盛
土
で
、
山
よ
り
削
っ
た
--
33
黒
、
は
み
込
黒
り
、
切
の
穴
柱
ら
、
れ
土
黄
の
山
色
地
士
色
こ
褐
。
く
続
と
土
色
と
こ
る
あ
で
穴
柱
の
物
ら
か
面
上
層
土
色
や
建
、
の
り
期
お
時
い
て
っ
古
始
り
は
明
で
あ
る
。
白
は
掘
試
と
チ
ン
レ
ト
三
第
、
チ
南
ン
て
い
レ
ト
続
二
程
き
第
引
の
O
一
約
に
北
m
、
れ
ら
み
が
み
込
ち
落
な
き
大
に
け
部
続
を
端
南
第
し
か
チ
し
ン
。
レ
た
ト
二
は
に
な
れ
ら
め
認
は
穴
柱
で
け
燈
の
だ
形
た
し
完
土
、
皿
出
が
耳
の
個
質
三
師
皿
土
明
側
北
の
そ
て
し
と
端
南
、
を
は
り
屋
た
あ
家
め
チ
た
ン
レ
の
こ
ト
一
。
た
第
っ
か
一
帯
に
建
て
ら
れ
て
い
た
も
の
で
あ
ろ
う
。
式
形
各
た
げ
掲
に
先
、
も
で
ン
ラ
ま
い
プ
な
の
き
屋
で
家
認
に
確
外
は
の
上
以
せ
察
推
を
続
存
の
館
の
浜
る
I
が
E
穴
に
柱
の
月
年
い
永
り
わ
て
し
在
散
に
内
区
正
大
は
で
内
区
集
I
、
す
は
中
の
る
柱
跡
く
穴
多
が
の
ら
る
れ
こ
め
に
し
特
、
が
野
。
る
あ
で
帯
一
部
東
北
う
い
と
た
い
て
れ
ら
て
建
が
敷
屋
の
氏
中
野
で
ま
年
初
中
地
、が
の
柱
頃
の
期
寸
八
中
方
で
造
建
戸
江
は
敷
の
屋
氏
の
こ
中
、
ば
れ
よ
に
話
の
プ
イ
タ
B
く
ら
そ
お
。
う
い
と
た
っ
あ
で
屋
家
の
式
立
掘
た
い
て
れ
ら
め
埋
に
っ
あ
屋
で
物
建
た
び
帯
を
響
影
の
接
家
直
館
の
の
浜
を
穴
柱
、
り
あ
で
屋
家
つ
持
氏
西
大
、
は
て
い
つ
に
氏
中
野
。
い
な
し
存
現
ら
れ
が
わ
思
な
と
た
念
残
、
が
る
に
れ
ず
い
、
が
る
す
略
省
は
ら
で
こ
こ
で
の
る
い
て
れ
し
わ
く
で
べ
項
述
前
く
が
部
の
こ
、
は
と
こ
た
い
て
し
在
存
が
分
部
る
な
と
心
所
中
場
の
の
こ
よ
せ
館
に
い
て
れ
さ
乱
撹
ど
ほ
い
な
き
で
認
確
が
序
層
の
来
本
り
が
よ
層
に
地
の
等
分
穴
柱
も
明
ら
か
で
あ
る
。
る
こ
と
か
ら
推
し
て
州ハ門矢部の対面所について
手
片
仁
園
小
所
面
対
御
部
矢
「
に
)
二
二
け
蘇
わ
阿
家
書
文
古
本
日
大
書(
文
対
に
営
造
所
面
。
る
あ
が
書
文
の
銘
年
一
二
文
符
天
切
?
付
?
仰
と
被
」
第
次
之
の
一
唯
る
知
を
法
寸
の
材
や
用
模
規
の
料
物
の
建
の
て
し
時
当
関
、
で
文
注
の
木
対
文
献
る
上
。
の
な
資
お
面
料
、
で
矢
あ
部
御
所
が
し
浜
の
館
内
の
対
面
所
を
指
い
る
こ
と
は
疑
問
の
余
地
は
な
い
事
実
で
あ
ろ
う
。
て
た
だ
、
こ
の
文
書
の
原
本
は
、
天
保
年
間
の
阿
蘇
焼
失
し
家
の
火
災
に
よ
っ
て
て
お
り
、
現
存
す
る
文
書
は
火
災
以
前
に
筆
写
し
た
も
の
寝
で『
阿
蘇
文
書
二
三
』
の
冊
子
の
な
か
に
収
載
さ
れ
て
い
る
。
『
阿
蘇
文
二
書
三
寓第
』
に
は
、
こ
の
外
に
単
に
「
御
対
面
所
切
符
次
第
」
と
外
題
の
あ
る
対
面
所
造
営
の
料
木
の
五
注
文
写
l
五
(
『
阿
蘇
家
文
二
書
上第
ほ
競
』
)
と
ま
た
別
ぽ
に
同
様
、
の
内
容
を
持
つ
「
御
対
面
所
切
符
次
第
」
の
二
つ
に
の
文
書
が
収
め
ら
れ
て
い
る
。
後
つ
の
書
二
に
の
文つ
い
て
は
共
に
、
校
註
者
阿蘇
対
よ
り
頭
註
に
「
阿
蘇
社
面
所
社
造
営
対
料
木
切
符
次
第
寓
と
」
記
さ
れ
、
所
面
対
の
社
蘇
阿
は
に
か
な
の
書
文
、
が
る
い
て
れ
さ
と
切符
木
料
営
造
の
所
面
と
い
う
記
載
は
一
箇
所
も
見
ら
れ
な
い
。
校
註
者
が
当
然
阿
蘇
社
の
対
面
所
と
考
便
宣
上
、
こ
の
え
詰
三
通
り
の
を
付
し
た
の
で
あ
ろ
う
。
文
書
に
A
、
B
、
C
の
記
号
を
付
し
、
そ
れ
ぞ
れ
を
較
し
て
み
比
る
と
第
一
表
の
と
お
り
と
な
る
。
次
に
文
書
と
し
て
の
形
態
か
ら
考
え
る
と
、
A
文
書
は
御
対
面
所
切
符
次
第
の
外
題
お
よ
び
天
文
一
四
年
の
年
号
が
付
さ
れ
、
ま
た
文
書
末
に
は
中
司
権
大
宮
司
外
二
名
の
連
署
を
持
ち
一
応
文
書
と
し
て
の
形
態
を
保
っ
て
い
る
。
と
こ
ろ
が
B
の
文
書
は
、
御
対
面
所
切
符
次
第
の
題
名
は
持
つ
も
の
の
、
年
号
や
文
書
末
の
連
署
は
持
っ
て
い
な
い
。
こ
の
た
め
B
文
書
は
察
す
る
と
こ
ろ
、
A
文
書
の
起
案
の
際
の
草
稿
か
、
も
し
く
は
写
し
が
他
の
A
や
C
の
文
書
と
混
り
合
っ
て
天
保
以
前
の
書
写
の
際
、
一
文
書
と
し
て
扱
わ
れ
あ
た
か
も
あ
る
時
期
の
取
独
立
し
た
文
書
の
様
相
を
呈
し
た
の
で
は
な
か
ろ
う
か
と
思
わ
れ
る
。
B
に
お
け
る
注
文
料
木
は
の
、
料
A
木
の
約
半
こ
分
の
分
量
の
み
で
は
、
A
で
に
見
ら
れ
る
規
模
の
家
屋
は
到
底
構
築
で
き
な
い
。
第
- 34 -
55
60 61 62 63 6.
第一棟以前の遺構状況 (庭園部 と 家屋柱穴跡)
第1 7圏
56
57
司〆
ヌ
58
59
庭園部 (残存)
Yレ
ワ
ソ
ツ
ネ
65 66 67 68 69 70 71 72
/\
\J
N
}
�
ーー一 一 C,ー"_ ,0..1 00
場 一一 -' 一 一
と
一
υ
L同E h
一
一
一
O ト一一一 汽 レ一一一
一
a
,
ー
_
.
�
民
O
ー -f-'で1
}
‘.ιC
拡回
;5.1
ふ
L
F守、.
ト 短長
P
随
当込 。
n
ο
凸
てL
D
gb
←
前時代の 家屋柱穴跡
司J,
CIh
。
←、
ーO
ーーーーー'"
トー一
一ーー一一一
第 1 ト レ ンチ
- γ♂ ラ 〈三ヲ- ε - 令 一 - �
家屋柱穴跡
�
弘ど
時2
n
O
5
了 、~
ト レ ンチ
L 一ーーー-
町三三
1O m
縮尺 1 : 200
第18圏
ー」主
ゼー一
、y
第一区東拡張部 第一トレン チ北壁断面図
、ν
",
-一
赤色土 (運動場造成の際の盛土)
上氏j
ι一一一一ー
赤色土
三一
'"
、b
、レ
oL一一一一ー
、b
100佃
200咽
ー
同
(古) と 記入の あ る 落 ち こ み は古 く 、 白色粘土混 り
の 土 か寝込ん で お り 、 燈明皿の 出 土 が見 ら れ る 。 規
則 的 に 並 ん で い る の で古い 時期の柱穴 と 思 わ れ る 。
燈= 土師質燈明皿
第 1 表 A . B ・ Cの三つの文書の主要部分比較表
記号
文 書 名 ( 外題 )
冒 頭 の 地 区 わ り
文書末尾の 記載部分
以上
南坂梨五十町 ・ 大山 五 町
A
御対面所切符次第
紗四町 ・ 外二丹田 水六町
日
中司 権大宮司能憲花押
六 反 参分
!
中司三太夫 宗 豊 岡
南坂梨五十町 ・ 浄土寺五町
御対面所切符次第
月
天文十四年 乙巴 十 月 廿 日
中司
B
年
九
祝経治 同
な し
記載な し
以上
天文廿一年 壬 子 九 月 吉 日
秒四町合而六十四町之内
丹田 水六町六反別昏二
書分相浅五十七町四段之分
矢
C
部
手被仰付切符之次第
小関江片 手 被仰付
御対面所小閥仁片
天文廿一年九 月 吉 日
中司 権大宮 司 能憲花押
中司二大夫 宗 豊 岡
中司 八 祝
付
が
名
題
と
」
第
次
之
符
切
付
仰
被
手
片
仁
の
園
C
小
所
面
対
御
部
矢
は
書
文
の
た
い
て
っ
な
と
」
第
次
符
切
所
面
対
御
「
に
単
は
で
書
文
の
B
・
A
の
先
、
き
れ
て
い
る
。
っ
き
り
場
所
が
明
示
さ
が
、
こ
こ
で
は
じ
め
て
矢
部
御
対
面
所
と
は
割
宛
対
象
地
区
は
題
に
記
載
が
あ
る
と
お
り
、
小
国
に
し
て
の
注
文
の
み
対
で
、
料
木
の
項
目
は
四
一
項
目
か
ら
な
っ
て
い
る
。
文
書
の
末
端
は
「
以
上
」
と
な
っ
て
お
九
月
吉
日
り
と
、
あ
天
一
り
年
文
、
壬
廿
子
中
司
権
大
宮
司
能
憲
外
二
名
の
連
著
が
見
ら
れ
、
こ
ま
の
と
文
ま
書
っ
た
も
一
応
一
個
の
文
書
の
形
態
を
と
っ
て
い
る
。
と
こ
ろ
が
同
こ
様
の
文
こ
の
書
文
も
B
と
書
に
記
載
さ
れ
た
料
木
の
み
構
で
築
の
家
は
屋
不
自
の
到
然
底
で
A
あ
の
り
料
、
第 2 表 各文書における料木 の 比較表
記号
A
B
C
経 治 同
料
木
の
規
格 ( 冒頭 )
っき ノ木
自庸 考
各部落 へ の
1 . 柱方六寸 、 長 サ ー 丈 四尺、 数 三 本
注文柱数
1 . 扉柱方五 寸 、 長 サー 丈二 尺五寸 、 数 五 本
合計 21本
1 . 柱方六寸 、 長 さ 一文四尺、 数二本
各部落 へ の
注文柱数
合計12本
1. ひ さ し 柱方五す 、 長 さ ー 丈二尺、 数 三本
1 . 柱方六 寸 、 長 さ ー丈四尺、 数 八本
注文柱数
1 . 縁 の 柱方五 寸 、 長 さ ー丈二尺 、 数 十 本
合計 8 本
例 え ば各部落へ注文 し た 柱の 数 を 各文 書 ご と に 合計 し 比較す る と 、
A ( 21本 ) : B + C ( 20本 ) と な り ほ ぼ同数 に 近 く な る 。
-36
木
の
半
分
に
し
か
満
た
な
い
。
こ
の
た
め
こ
の
文
書
も
小
国
の
分
の
み
残
し
て
、
る
。
は
散
逸
し
て
い
る
の
で
は
な
か
ろ
う
か
と
疑
わ
し
め
る
も
の
が
あ
他
る
す
味
吟
を
言
文
う
い
と
・」
:
付
仰
被
手
片
仁
国
小
・
:
る「
あ
に
、
目
た
項
ま
に
国
小
を
)
分
部
る
あ
手(
片
の
内
の
文
注
木
料
た
け
付
仰
に
付
区
仰
地
他
、
と
と
、
小
国
の
外
に
れ
た
と
い
う
意
味
に
取
れ
こ
る
。の
意
味
に
文
意
を
と
る
け
ら
他
地
区
に
仰
付
け
ら
れ
た
地
域
が
あ
る
こ
と
に
な
る
の
こ
で
、の
事
実
を
精
査
す
割
注
宛
プ
ー
ル
グ
、
落
に
書
文
の
へ
部
通
各
三
た
の
れ
C
さ
載
B
記
・
A
く
べ
文
し
た
料
木
の
合
計
数
の
別
紙
一
覧
表
を
作
成
し
て
み
た
の
量
を
合
計
す
る
と
、
対
こ
の
一
覧
表
に
現
わ
れ
た
主
要
用
木
の
各
地
区
割
宛
数
面
所
を
建
築
す
る
た
め
の
料
木
の
総
量
が
で
て
く
る
の
で
A
の
文
書
に
つ
各
い
て
の
頭
出
し
て
み
た
。
A
の
文
書
は
先
に
も
述
べ
た
よ
う
に
、
文
字
料
木
の
総
計
を
一
応
文
書
と
し
て
の
形
態
を
と
っ
て
の
外
題
、
文
末
の
三
名
の
中
司
の
連
著
等
初
お
り
、
欠
落
部
分
は
認
め
ら
れ
な
い
、
の
でA
文
書
に
あ
ら
わ
れ
た
料
木
の
数
量
い
引
は
を
で
図
計
訳
設
た
確
正
必
。
の
た
所
し
面
定
対
仮
社
と
蘇
阿
を
な
材
用
要
屋
の
建
築
は
な
い
が
、
概
算
す
る
と
こ
こ
に
注
文
さ
れ
た
用
材
で
充
分
一
家
可
能
。
る
あ
で
ら
か
だ
の
書
文
C
B
、
と
所
面
対
る
れ
さ
築
構
て
っ
よ
に
量
材
用
の
書
文
A
所
面
対
そ
に
更
は
異
差
の
量
数
の
材
用
、
も
て
し
と
た
っ
あ
が
異
差
に
仮
上
模
規
の
そ
と
し
示
し
い
て
。
る
さ
を
象
現
る
上
回
を
れ
量
は
、
A
文
書
が
二
一
本
、
B
文
書
が
一
二
本
、
の
各
文
書
に
現
わ
れ
た
立
柱
数
異
差
、
に
り
ま
り
あ
は
お
で
と
八
て
の
C
っ
と
本
一
な
二
の
A
と
本
八
が
書
文
C
程
間
三
×
間
一
が
大
き
過
、ぎ
る
。
C
の
立
住
八
本
で
は
二
間
×
二
聞
の
建
物
が
、
い
し
わ
さ
ふ
て
し
と
所
対
面
の
氏
阿蘇
て
し
た
は
、
ず
き
で
定
想
し
か
屋
家
の
度
規
。
模
か
ど
う
か
疑
問
が
残
る
巧i
qJ
ま
た
、
こ
の
庇
柱
の
寸
法
に
つ
い
て
比
較
し
て
み
る
と
、
A
文
書
で
高
五
寸
、
長
さ
一
丈
二
尺
五
寸
で
あ
る
が
B
・
C
両
文
書
は
方
五
寸
、
長
さ
一
丈
二
尺
と
な
て
い
も
つ
に
梁
た
ま
。
る
い
て
っ
な
と
一
同
が
格
規
は
書
文
C
と
B
、
り
お
て
っ
て
っ
な
と
分
五
尺
三
尋
六
さ
長
、
寸
八
さ
高
、
寸
七
さ
厚
、
は
で
格
規
の
書
文
A
っ
な
と
寸
五
尺
四
尋
六
さ
長
、
寸
八
さ
高
、
寸
七
さ
厚
は
で
書
文
C
・
B
が
る
い
。
る
あ
が
異
差
の
尺
一
約
は
に
聞
の
と
書
文
C
・
B
と
書
文
A
り
お
て
ら
何
、
く
多
が
点
通
共
に
E
は
に
聞
の
と
書
文
C
と
書
文
B
ら
か
実
事
の
こ
、
木
料
各
な
要
主
の
書
文
両
C
・
B
に
ら
さ
。
る
れ
ら
知
が
と
こ
る
あ
が
係
関
の
か
合
を
計
す
そ
る
れ
と
ぞ
れ
、
A
文
書
用
材
数
量
分
と
ほ
ぼ
等
し
く
な
る
。
こ
の
事
実
か
ら
推
B
文
察
書
す
に
場
る
所
の
と
記
、
載
は
な
い
が
、
C
文
書
と
同
じ
く
矢
部
の
御
対
面
所
切
符
次
第
の
一
部
分
で
あ
る
こ
と
は
間
違
い
な
い
。
こ
の
こ
と
は
」
C
文
書
矢
の「
部
御
対
面
所
小
園
仁
片
手
被
仰
付
切
符
之
次
第
の
小
国
仁
片
手
仰
付
の
文
言
で
も
知
る
こ
と
が
で
き
る
。
矢
部
の
対
面
所
建
築
の
際
の
必
要
用
材
の
総
量
の
片
手
を
小
国
へ
仰
付
け
た
の
で
あ
っ
て
、
別
の
片
手
は
他
に
存
在
す
る
こ
と
に
な
り
、
そ
れ
が
B
文
書
の
御
対
面
所
切
符
次
第
で
あ
る
と
思
わ
れ
る
。
っ
灼ノ
B
C
文
、
書
は
矢
部
対
面
所(
浜
の
館
)
用
材
注
文
と
し
て
同
一
文
書
で
あ
宇品
っ
た
も
の
が
伝
来
の
途
中
で
二
つ
に
さ
分
割れ
た
も
の
で
あ
る
。
ま
た
、
A
文
書
は
本
来
独
立
し
て
い
た
も
の
で
、
や
は
り
阿
蘇
社
対
面
所
造
営
の
際
の
文
書
で
あ
ろ
う
。
A
文
書
と
C
文
は
書
と
の
記
銘
年
代
七
年
し
か
離
れ
て
お
ら
ず
同
じ
対
面
所
の
造
営
時
の
文
書
と
は
考
え
ら
れ
な
い
か
ら
で
あ
る
。
(
桑
原憲
彰
)
B
仮
番 注文用 材 名
柱
書 ( 御対面所切符 次 第 )
使用単位 ( 丈 ・ 尋 ・ 尺 ・ 寸 ・ 分 )
亨ロ7
l
文
用
材
規
格
梨野梨品津野
南 上
北 阿
坂 i皮 坂 蘇
古 手 竹 湯
合 小
字
計 図
原 j甫
C
文
書 ( 矢 部御 対 面 所 )
B+C
方六寸
長 さ ー丈 四 尺
2
2 1 2
2 1 2
2
12 1 8
方五寸
長 さ ー丈 二 尺
3
3 1 3
3 1 3
3
18 1 10
28
掌
口七寸
長 さ 五 ひ ろ 三尺
2
1 1 1
1 1 1
2
8 1 8
16
4
か い 物
口 六寸
長 さ 囚 ひ ろ 四尺
1 1 1
1 1 1
4 1 2
6
5
梁
1 1 1
6 1 4
1 í2
13 1 !
7
10
20
32
2
ひさ し桂
3
合
6
ぬ
き
7 ゑ んの抜
9
8
さすかも い
大
床
あ っ き 七寸 高 さ J\寸 長 き 六尋四尺五寸
1
1 1 1
高 き 五寸 厚 さ 二寸 五分 長 さ 四尋五寸
3 1 2
1 1 3
2 1 3
3 1 3
2 1 2
1 1 2
2 1 2
21 2
丁
高 さ 四寸 厚 さ 二寸 長 さ 四 い ろ 五寸 2
丁 丁
高 さ 五寸 五分 厚 き 四寸 五 分 長 さ 八円 2
方六寸
長 さ 四 ひ ろ 五寸
10
小かへ板
ひ ろ さ ー尺二寸 庫 さ 八分 長 さ 六尺五寸
11
登
居
そ り の か た 九寸 お の か た 六
寸 厚 さ 五寸 長 さ
いろ
2
3 1 3
l
1 1 1
7 1 7
7 1 7
1 1 1
7
2
1 1 1
1 1 1
1
16
丁
8
5 1 2
7
42 16
1 1 1
7 1 2
12
備
合計
考
20
ひ さ し 柱 は 縁の 柱
!- I百1 予定
20
24
7
9
9
58
13
な げ し
方五寸
長 さ 四尋 五 寸
l
1 1 1
1 1 1
2
7 1 5
12
一 士四尺( 阿 ) 肱 本 ( 上 )
14
な げ し
方五寸
長 さ 一大四尺
2
3
3 1 3
3
14 1 5
1
か ゃあ い の 木 ( 北坂 )
方四寸
長 さ 四尋五す
1
1 1 1
1 1 1
2
7 1 3
10
三ま
1
2 1 2
4
板間の板
15 ゑ ん の な げ し
い
16
17
角
木
む な の か た 高 さ 九す
た 六寸 あ j掌 さ 五寸
尾のか
l
18
37
19
肱
木
方五寸
長 さ 三尺五寸
3 1 2
3 1 3
20
肱木の桁
方五寸
長 さ 四尋五す
5
1 1 1
1 1 1
縁の 大床
方四寸五分
2
2 1 2
2 1 2
な る 木
あ っ き 一寸 む な の か た 悶寸
三寸 五分
五分 台のかた一
16
16 16
16 16 1 16
26 う ら が わ の 板 厚 さ 一寸 五 分 贋 さ 四寸 長 さ 四尋
1 1 1
1 1 1
27
2
2 1 2
2 1 2
2
12
5 1 5
5 1 5
5
31 30
1 1 1 1 1
6 1 3
1 1 2
10 4
14
20 1 1
21
3 1 3
3 1 3
23 14
15
1
10 1 5
15
2
12
20
小国 の 分 は 長 さ 3 尋
と な っている。
21
22
長 さ 七尺五寸
8
23
24
25
う だっ ぬ き
厚 さ ー寸 八 分 長 さ 囚尋ー尺 廃 さ 四寸
28 垂木の う ら 板 あ っ き 六分 虞 さ ー尺二寸 長 さ 七尺五寸 5 1 1
29
板居 の 木
長 さ 四尋五寸
l
1 1 1
30 同板居 の 木
方四寸
長 さ ー丈四尺五寸
2
1 1 1
ゑ ん の板居
方三寸
長 さ 四尋五寸
3 1 2
3 1 3
31
32
2 1 1
1 1 1
口百
円d
方四す
2 1 1
3 1 3
3
91
96 50
�
5
3
149 さ す 鴨居(北坂 ) 指鴨居 ( 上 )
14
15
9
61
あ っ き 三す ー 丈 五寸
垂木
第
仮
3 A ・ B ・ C三 におけ る 用
A
表
文書
料木
文
使 用 単 位 (大 ・ 尋 ・ 尺 ・ 寸 ・ 分)
番 注文 用 材 名
用
号
l
2
3
4
屍
柱
合
材
規
格
掌
か い 物
震
製グ
与 野 梨 j掌 品 野
丹
田 中
蘇
31 1
2 1 1
1 1 2
2 1 2
2 1 3
21
5 1 1
口 七 寸 ・ 長 さ 五 い 3 二尺
2
1 1 1
1 1 1
2 1 2
口 六寸 ・ 長 さ 四 尋 四 尺
l
1 1 1
1 1 1
1 1 1
方 五 寸 ・ 長 さ ー 丈二尺五寸
抜
高 さ 五寸 ・ あ っ き 二寸 五分 ・ 長 さ 四尋五寸
3 1 1
7
抜
高 さ 五寸 ・ 厚 さ 二寸五分 ・ 長 さ 一大四尺
2
高 さ 五寸 五 分
長 さ 八尺五寸
10 抜 あ ひ の 板
ひ ろ さ ー大二寸 ・ 厚 さ 八分 ・ 長 さ 六尺五寸
6
11
萱
そ り の 方 九寸 ・ を の 方 高 さ 六
厚 さ 六寸 ・ 長 さ 四 尋 四 尺 五寸
,
12
茅悶之木
13
14
1 1 1
2 1 2
29
2
16
申 1 1 1
箇 箇
1
10
2 1 2
2
2
17
2 1 1
2 1 3
2
13
l、
1 1 2
2 1 2
1 1 1
2
2 1 2
1
3
1
申 1 1 1
l、
厚 き 四寸五分
方六寸 ・ 長 さ 四尋 五寸
9
d口h
。 。
。 。 。
1 1 2 2 1 3 3 1 3 3 1 3 3
6
さすかも ひ
竹
料
材
言十
あ っ き 七寸 ・ 高 き J\寸 ・ 長 さ 六尋三尺五寸 1
8
阿 手 井 上 湯
上 北 古
坂 宇
i皮
Jレ
梁
5
赤野
( 外題 ・ 御 対 面 所切符次 第 )
手 原 浦
方六寸 ・ 長 さ ー 丈四 尺
柱
書
材注文 表
ちょう
3 1 2
1 1 1
24
3
1 1 1
1 1 1
1 1 1
9
3 1 3
4 1 4
5 1 4
4 1 4
31
且
1
1 1 1
1 1 1
1 1 1
方五寸 ・ 長 さ 一大四尺五寸
1
1 1 1
1 1 1
1 1 1
1 1 1
な げ し
方 五 寸 ・ 長 さ 四尋 五寸
2
1 1 1
1 1 1
2 1 2
1 1 2 1 2
15
な け し
方五寸 ・ 長 さ 一大四尺
2
1 1 2
2 1 1
1 1 1
1 1 1 1 1
13
方 四 寸 ・ 長 さ 四尋 五寸
2
1 1 1
1 1 1
1 1 1
1 1 1 1 1
11
1 1 1 1 1
5
大
床
居
15 縁 の な け し
18 縁の抜晶 ひの板
六む寸な の・ー昼か2た 担
高 さ辻
九寸
三量・尾
主三の玄か四たN2
19
ひ ち 木
方 五 寸 ・ 長 さ 一 大一尺
2
20
こ見けた
方 五 寸 ・ 長 さ 四尋ー尺
1
21
こみけた
方 五 寸 ・ 長 さ 三尋
1
l
1
22
縁 の 大床
方五寸 ・ 長 さ 八 尺
5
3 1 3
3 1 3
23
縁 の 抜
高 さ 四寸 ・ あ っ き 二寸 ・ 長 さ 四尋五寸 3
24
同
高 さ 凹寸 ・ あ っ き 二寸 ・ 長 さ 一大四尺五寸
251
t;: る 木
16
岡なげし
17
屯 み 木
方 四 す ・ 長 さ 一大四尺五寸
贋 さ ー尺二寸 ・ あ っ き 八分長 さ 六尺五寸
1
1
9
4
3 1 3
25
1 1 1
1 1 1
4 1 1
1 1 1 1 1
14
1
1
3
1 1 1 1 1
1 1 2
5
8
1 1 1
1 1 1
3 1 3
1 1 1
3 1 2
2 1 1
3 1 3
1 1 1
3 1 3 1 3
1 1 1
32
1 1 1
12
1
2 1 2
16
厚 さ 三寸 ・ む な の かた 四 寸 五分 ・ 尾の 方
20
15 1 15 15 1 16 16 1 16 16 1 16 16
16 1
26 う ら か は の木 あ っ き ー寸 五 分 ・ ひ ろ さ 囲寸 ・ 長 さ 囚尋
3
1 1 1
1 1 1
2 1 1
3
8
1
2 1 1
1 1 1 1 2
6 1 6
5 1 6
1
1 1 1
3
2 1 1
27 う た っ柱 の ぬ き
厚き
一
寸 五分 ・
贋 さ 四寸
・ 長 さ 四尋
2 8 た る 木の う ら 板 厚 さ 六分 ・ 粛 さ ー尺二寸 ・ 長 さ ヒ尺五寸
の木
29 い た ゐ の 木
30 岡 い た ゐ
1 31 縁 の い た ゐ
32 同 縁 の 桜井
方 四 寸 ・ 長 さ 四尋 五寸
方 四 寸 ・ 長 さ 一 大四尺五寸
2 1 2
8
3
抜
2 1 2
1 1 1
8
1 1 2
121
16
1
12
6 1 6
6 1 6 1 6
61
1 1 1
1 1 1
1 1 1 1 1
10
2 1 2
2 1 2
2 1 1 1 2
19
方 三 寸 ・ 長 さ 四尋 五 す
3 1 1
1 1 1
1 1 1
2 1 2
1 1 2 1 2
17
方 三 寸 ・ 長 さ ー丈 凶 尺 丘寸
4
2 1 2
21 2
1 1 2
3 1 3
3
24
- 39 一
考
ひ ひ き u主 と あ る も の
8
ちょう ちょう
2 1 3
f緒
すみ ぎ
仮
番 注文 用 材 名
文
書 ( !卸対 面 所切符 次 第 )
用
材
規
C 文 詩 ( 矢 部御対面所)
梨 野 梨 品 i幸 野
使 用 単 位 ( 丈 ・ 尋 ・ 尺 ・ 寸 ・ 分) 南 上 北 阿 古 手
坂 j皮 坂 蘇 字
号
33
B
志、 ゆ 木
口 五す
昭島
厚 さ 三寸 廃 さ 六寸
絡
長 さ 六尋 四 尺
1
竹 湯
合 小
原 j甫
計 国
2 1 2
l
BtC
合 2
4
{椅
込桁 ( 上 )
考
(湯)
34
35
36
37
38
居
か す がい
長 さ 六尺五寸
う っ た で 四寸 折内七寸 か
す が い の せ い 厚 さ 五 分腐 六 分
39 け た付 か や い の 釘 長 さ 六寸
40
41 う ら が わ の 釘 長 さ 二寸
42
50 1 50
切 切 50
3∞ 100
400
40 40 切 40 40 40
350
20 1 20
20 1 20 20
� ω
6 1 6
3 1 6
33 11
ふ き 板
6
長 さ 一寸 五 分
2ω 加 古田
方五寸
2
長 さ 六 尺 ( 五寸 )
厚 さ 六分 廃 さ }尺二寸 長 さ 六尺五寸
1 1 1
l
枚 枚
3 1 3
3
垂 木 釘
長 さ 三寸 五 分
40
う だっ板
方五寸
長 さ ー丈
l
3 1 3
っ か 往
方五寸
長 さ ー丈一尺
2
l
主Ifし く ぎ ( 6 .t )
小釘 ( 6 、n
同 け た
け
た
プ'JIi.寸
長 さ 三尋
四寸五分
長 さ 問尋ー尺
つ ま けた
口 四寸 五 分
む 舗の 木
口 四寸
長 さ 三尋三尺
(4日
40 40 50 40
3 1 3
3 1 3
1.ω。
44
18
18
3
18
18
ぉ。 IDO
9
7
3
2
2
2
50
50
50
1 1 1
l
1
1
2 1 2
2
長 さ 四尋ー尺
4
三枚
350 縁之板 井 ( 上波 ) 板 居 ( 上 )
7 1 2
1 1 1
敷 居 鴨 居之
(阿)
板(上波)
虞 さ ー尺
3
40
板井 の 本 ( 古 ) 板居の 木 ( 上 )
160
7
枚 枚 枚
3 1 3
120 40
5 1 2
枚 枚 枚
枚 枚
3
6
耳目 2∞ 2ω
厚 さ 八 分 虞 さ ー尺 長 さ 六尺
板
4
50
2日
寄
2 1 2
281
長 さ 三寸 五分
柱
33
221 60
44
釘
1
』
26 7
33 1 33 25 1 35 35 35
40
46
4 1 4
25
長 さ 三寸
45 ゑ ん の な げ U T 長 さ ( 三 寸 )
2 1 4
1
43 板 居 の く ぎ
な げし く ぎ
4 1 4
4
方五寸
長 さ 三尋
4
3
3
4
4
2 1 1
3
( 上波 )
10
10 縁 の 小巾 I 板 と 同 じ 分
同 か ゃ い の 木 高 さ 六寸 厚 さ 五寸 長 さ 四尋ー尺
1
l
口 四 寸 五分
3
3
J
7
縁の小かへ板
おも けた
書士
庚 さ ー尺二寸 厚 き 八分 量 さ 六尺五 ー
長 さ 四尋一尺
居
7
- 40 一
A
仮
文
書 ( 外題 ・ 御対面所切符 次 第 )
要
撃
与野梨津 品野
番 注文 用 材 名
使 用 単位 ( 丈 ・ 尋 ・ 尺 ・ 寸 ・ 分)
33
志 ゆ 木
ロ 五寸
長 さ 六尋 四 尺
34
長
口 四寸
長 さ 四尋ー尺
2
方四寸
長 さ 四尋五寸
2
用
号
木
35 木 取 な け し
材
規
格
36 志 き か も ひ あ っ き 三寸二分 ひ ろ さ 六寸 長 さ 六尺五寸
37
38
福 き 板
かす がい
3レ
折内 七寸
裏板の釘
長 さ 二寸 五 分
48
縁 の 桁
た か さ 四寸 あ っ き 二寸 長 喜 一尋四尺五寸
桁
高 さ 五寸
1 1 1
10
2 1 2
2
20
1 1 1
l
加。
100
1
1 5 1 1 5 1 5 1 23 23 23 23 1 23 23
20 20 1 20 33 33 33 33 33 33
130 1001 130 150 150 150 ISl 150 ISl
65 65 1 65 68 68 68 68 68 68
⑫
6 1 6
6 1 6
7 1 6
10
5 1 5
5 1 6
6
50
20 20 1 20 23 25 n 23 23 23
10 1 2
1 1 1
1
1 1 2
晶 っ き 二寸 五 分 長 さ 四尺
51 桁 あ い の 板 ひ ろ さ ー尺二寸 品 っ き 八分 長 さ 六尺五寸
3
52 縁の桁 あ ひの板 ひ ろ さ ー尺三寸 あ っ き ^骨 量 き 六尺五寸
2
上波 野 の 分 に つ
6 1 6
6 1 6
②
6
230
209
301
Mω
70 3
67
自由
72
41
湯浦の23は 6 で は な い か ?
240
2
1
5
上竹原の 2 は寸 法 遣 い か ?
3
2
IIIIIIIIIIII II
( 活字 の 都合で変体仮 名 は 仮 名 に 改 め た 。 ま た 、 備 考欄 内 の (
--
て は寸
4
20 1 20 20 1 24 23 1 23 24 1 24 M
49 う た っ 柱 の く き あ っ き 一寸 五 分 ひ ろ さ 四寸 長 さ 囚尋五寸
50
1 1 1
2 1 2
長 さ 一寸 五 分
47
26
1 1 2
42 た る き 裏板の く き
長 さ 一寸 五 分
1 1 1
2
3 1 2
1 1 1
43
45 縁 の な け し の釘 長 さ 三寸
1 1 1
3 1 2
43 が 5 5 と い て る 法
寸 分 在っ い 。
長 さ 二寸
長 さ 三寸 五 分
3 1 3
考
4
41 裏 か は の 釘
長 さ 三寸
3 1 3
倫
4 1 4
ひ ろ さ ー尺 あ っ き 八 分 長 さ 六尺五寸 5
う っ た て 四寸
1 1 1
d言口h十
4 1 5
26
46 往 ょ せ の く き
4
手 原 j甫
4 1 4
40 聞 か や井の釘 長 さ 四 寸
44 な け し の 釘
1 1 1
田 中
6 ① 4 1 4
28
板井の釘
材
料
l
39 け た 付茅 品 ひの釘 長 さ 六寸
43
上 北 古 赤 里子 阿 手 井 上 湯
波
竹
坂 字 丹
霊草
) は 地区名 で あ る 。 )
庭
付 発見の動機
、
園
礎
石
第
一
棟
の
群
の
撤
去
の
後
、
更
に
落
ち
込
み
の
有
を
探
る
べ
く
床
面
の
無
か
ら
北
へ
走
る
、
削
平
を
実
施
し
て
い
た
際
、
西
側
入
口
部
分
の
礎
石
横
に
、
小
南
列
石
群
の
存
在
を
確
認
し
た
。
こ
の
た
め
、
こ
の
小
列
石
群
の
周
囲
を
掘
り
拡
め
た
と
こ
ろ
石
の
埋
没
部
分
は
更
に
ひ
ろ
が
り
、
ま
た
こ
の
列
石
を
境
に
し
て
西
側
一
帯
に
多
量
の
焼
土
、
木
炭
粒
、
灰
等
が
混
入
し
て
い
る
大
規
模
な
落
込
み
部
分
が
存
在
す
る
こ
と
が
こ
判
明
し
た
こ
。
の
帯
一
の
地
山
は
明
る
い
黄
色
土
で
ち
落
み
は
判
然
と
し
て
い
る
た
め
、
こ
の
落
ち
込
み
の
拡
が
り
を
追
跡
す
る
と
同
時
に
落
ち
込
ん
で
い
る
焼
土
類
の
排
土
に
着
手
し
た
。
。 出土した庭園の現況と規模
庭
園
部
が
発
見
さ
れ
た
所
は
、
旧
運
動
場
の
北
西
部
分
に
あ
た
り
旧
、
木
造
校
場
定
時
制
校
。
舎
)
舎(
の
あ
っ
た
斜
面
を
利
用
し
て
造
園
さ
れ
て
い
た
丘
陵
の
末
端
の
面
斜
の
諸
に
庭
石
を
配
し
、
緩
斜
面
が
平
部
に
る
移
部
分
々
坦
に
泉
水
を
掘
。
り
、
北
側
崖
下
の
湧
水
引
を
い
た
小
規
模
の
庭
園
で
あ
る
発
掘
終
了
後
、
庭
園
規
模
を
ほ
ぼ
掴
む
こ
と
が
で
き
た
が
、
当
庭
園
が
浜
の
の
終
罵
時
の
遺
構
で
な
く
で
そ
あ
れ
り
以
、
前
更
の
に
そ
の
後
、
畑
館
地
、
水
も
の
田
、
宅
地
、
校
地
と
幾
多
の
変
遷
を
経
て
い
る
た
め
保
存
状
況
は
良
好
と
は
い
え
る
い
て
し
存
残
に
か
僅
が
分
部
線
汀
の
側
北
び
よ
・お
、
部
一
の
側
東
の
水
泉
、
ず
田
開
、
く
な
少
は
の
も
る
い
て
っ
保
を
置
位
元
も
石
庭
の
型
大
。
た
っ
あ
で
度
程
れ
さ
倒
、
り
た
れ
ま
込
め
埋
り
掘
を
穴
に
山
地
、
か
め
た
た
っ
な
に
鹿
邪
、
際
の
。
た
か
多
が
の
も
る
い
て
し
り
た
っ
掘
り
込
ま
れ
て
い
た
こ
地
と
、
山
建
深
の
物
し
く
か
し
な
が
ら
泉
水
自
体
が
等
が
幸
い
し
近
い
場
所
に
存
在
し
と
た
こ等
敷
地
と
な
り
に
く
い
山
の
斜
面
部
に
幸
現
そ
の
一
部
が
存
し
て
い
た
こ
と
は
運
で
あ
っ
た
。
た
だ
し
、
て
東
側
の
一
部
と
南
側
一
帯
は
平
坦
部
分
が
多
く
、
建
物
の
敷
地
と
何
度
も
使
用
さ
い
れ
る
て
た
め
も
破
壊
の
度
合
が
激
し
く
、
泉
水
の
汀
跡
線
の
痕
完
全
認
め
ら
れ
ずに
哩
滅
し
て
い
た
。
さ
て
、
発
見
さ
は
ど
れ
の
た
程
庭
度
園
の
の
規
模
も
の
だ
っ
た
の
で
あ
ろ
か
。
う
普
通
庭
園
の
場
合
地
続
き
場
の
裏
合
山
等
を
借
景
と
し
て
庭
園
の
一
部
と
み
な
す
が
多
い
の
で
、
庭
園
の
範
囲
を
決
定
る
す
こ
と
は
か
む
し
ず
い
。
の
し
庭
か
し
こ
園
の
場
合
た
比
先
に
も
述
べ
た
よ
う
に
、
山
の
斜
面
と
そ
の
末
端
に
泉
水
を
掘
っ
較
的
面
積
も
狭
い
小
規
模
な
庭
園
で
あ
っ
た
と
思
わ
れ
る
。
室
町
期
の
館
等
に
付
属
す
る
庭
園
は
比
較
的
小
規
模
な
も
の
が
多
い
が
、
こ
れ
は
一
般
的
風
潮
の
よ
う
思
わ
れ
る
。
に
き
さ
泉
は
水
東
の
西
大
に
一
一
m
七
O
m
、
南
北
は
南
側
部
分
汀
線
が
消
滅
し
て
い
た
た
め
実
数
は
不
明
で
あ
る
が
、
推
定
で
は
約
二
ハ
m
程
度
深
さ
は
当
時
の
地
表
面
か
ら
約
五
O
m
程
度
に
の
は
泉
水
で
あ
っ
た
と
思
わ
れ
る
。
泉
水
の
北
側
長
さ
三
m
深
さ
三
O
m
程
度
水
の
の
構
状
の
窪
み
が
あ
る
の
で
こ
こ
が
崖
下
の
湯
い
て
き
た
水
の
取
入
口
で
あ
っ
た
引
よ
う
に
思
わ
れ
る
。
排
水
口
は
南
側
に
存
在
東
西
に
し
た
ら
し
く
そ
の
南
側
に
に
設
定
し
た
掘
溝
坑
の
中
央
部
走
に
北
か
ら
南
る
溝
、
お
よ
び
溝
に
付
属
す
る
と
思
確
わ
認
れ
さ
る
れ
切
て
石
い
片
る
が
の
で
こ
れ
が
泉
水
の
排
水
溝
で
あ
っ
た
と
思
わ
れ
排
水
溝
は
館
前
面
を
東
か
ら
西
へ
る
。
走
る
濠
へ
流
れ
こ
ん
で
い
た
の
で
あ
ろ
う
。
泉
水
部
は
、
地
山
の
黄
色
土
を
深
さ
五
O
叩
程
度
に
掘
り
下
げ
そ
の
周
辺
部
に
こ
の
汀
線
部
を
て
い
る
。
連
て
汀
線
部
や
や
小
ぷ
り
の
石
を
配
続
し
て
形
成
し
し
築
方
法
で
あ
る
。
構
箇
所
は
東
汀
線
の
一
部
の
保
は
て
良
好
な
存
状
況
が
き
わ
め
- 42 一
一
ものと考えられる。また、泉水の北側の汀線部と北側列石との聞には
山砂が二m程度の厚さに敷き詰められていたが浜砂利を意味するもの
であろうか。
調査最終日に二一
点にものぼる阿蘇家の宝物を出土した落ち込みも
この泉水北側の畔の部分に存在し、また泉水の周辺部分には大小さま
ざまの落ち込みが認められたが、これらは穴の底の部分が不定形とな
そらく泉水周辺には緑なす松の
っているので樹根の跡と思われる。・お
大木等が枝をはっていたのであろう。
庭園部 と 家屋部の境界 石列
東方 よ り 見 た庭 園 の 一部
- 43 一
安定性のある亀甲状の石を池底部に伏せその上に石を立て隣の石との
部目詰めが施されていたr
間隙を少くして漆喰状の白粘土で一
汀線部の構築状況は第包図の二のとおりである。東側汀線部の外
はすぐ近くまで家屋がせまっていたと見え黄色の地山が続き庭石等の
散乱は一片も見られなかった。この東側の汀線を形成する列石は、中
途で汀線と分かれ北ヘ五mほど延びこの部分から西へほぼ直角に曲が
り、やや粗になりながら続き北側の仕切りとなっている。この列石の
外側にもやはり関連する庭石片の散乱は見られないので、このL字形
種の仕切りの役目を持つ
をなす列石はやはり家屋部と庭園を隔する一
庭園部 石組の状況
第19 図
泉 水 の 北側 汀線部
塩
配
日 庭園の石材と石組
庭園を形成する石材は種々の石が混り合っており一
定ではない。大
きさも大小さまざまであるが、全般的に見ると汀線を形成する石は小
さく、庭石として珍重されるような石は少ない。
庭石に使用する目的で集められたと考えられる大型の石は七個程し
か存在しないが、この程度の石材では庭園を構成するには柳か数が少
なく、後世持去られたものが相当数にのぼると考えられる。現存する
これらの大型の石は作庭の際の造園者の石の見立てとその配置により
石の価値が左右されるとはいうものの全般的に面白味が小なく庭石と
して第一級のものとはいえない。このような状況から判断するとやは
り、現存する石は取り残しと見た方が妥当であろう。小型の石は、す
ぐ横の轟川より採集して来たと思われる角のとれたいわゆる川石 (
安
山岩)と呼ばれるものが多く、これも庭石としては不適当であろう。
庭石として使用された大型の石については、便宜上番号を付し矢部
在住の鉱山技師藤森忠二氏 (
七O才)に調査をお願いした。その結果
を組めたのが第4表である。
これらの庭石として使用された岩石は安山岩質の付近に見られる
一
た類のものではない。
しかし恥7から恥9
般的な石で奇岩珍石といっ
までの庭石は である。珪石には青珪石と赤珪石とがあり、赤珪石
は一
般に丹波石と呼ばれている。こ の庭園に使用されているのは青珪
樟留)の二系統が
石でこの付近での産地は清和村と矢部町の内大臣 (
ある。共に矢部浜町からは相当の距離があり多大の労力を費してここ
まで運んだもので、庭石の目的を持って使用されていることは疑いな
い。これらの庭石として使用された巨石は、現存するものより失なわ
2}
(註
れた分量の方が多いと思われ、また現存する庭石はほとんど原位置を
移動しているので正確な石組の復元は不可能と思われる。
特に立て石が
倒されている状況が顕著に認められる。
しかし、恥1と恥7の石組は原形を保っていると推定される。恥ー
の庭石は長軸が一
三七m、短 軸が八八側、高さが約九Omの座りのよ
い長方形の安山岩で泉水のほぼ中央東寄りの箇
に
所
安 定よく据えられ
ていた。石の下部は若干黄色土層に埋められ直径三l四Om程度の石
が根堅めとして二l三個敷かれていた。この種の庭石を造園上浮き石
と呼んでおり庭園の要となる個所である。
註1
註2
珪石は日仏を多く含み比重は水の三、六倍で風化に強く水
に摩滅すれば最適の庭石として珍重される石である。耐火
性があり液化 (
シリコニウム)して物に塗れば不燃性とな
る。ただ、庭師のいう山石、河石という範噂で分類すれば
山石となり石の稜線等に摩滅が見られない。
矢部在住の庭師である村山秀次氏 (
故人)に発掘後の遺構
を見て貰ったがその談話は左記のとおりである。
この遺構が庭園であることは間違いなかろう。東側もし
「
くは東南の方向から眺める座観式の庭園と思う。庭石類
については位置はともかく倒れたり方向の変っているもの
が多い。なお、浮き石として蜘1の巨石は最高であろう。
また、水の取入口は北側の砂利を敷いてある場所付近では
なかろうか。この庭園に樹木が植わっていればまた変った
」
感ピを受けるだろう。
- 44 -
第20図
No. 8
m
O
( A お よ び B 土壌 )
zd
No. 9
庭園全体図 と 埋納遺物 の 出 土位置
No. 7
‘
一
一耕
\
・
'•
.
.
Z
--=トー一一一­
泉水部
No. l
0
0
汀線
U
1..lc;::〉
。
信る
第2 1 図
泉水南北断面 図
(1)
市町玉
泉水廃棄後の土績
第2 1 図
也事哩�明アτ
o
2m
泉水廃棄後の 土按
泉水東西断面図
(2)
2 m
l
O
第4表 庭 石 の 形 状 と 出 土状 況
名
称
No.
1
No.
2
No.
3
No.
石 の 形 状 ( 上面 部 の み )
,
長軸
130cm
短軸
85cm
岩
安山鹿
考
備
質
泉 水 内 の捨 石 、 天端 が平 ら 、 庭 石 と し て 好適
原位置
97佃 X "
85佃
"
汀線の 石 と 思 わ れ る が移動 し て い る
""
137cm X "
90叩
"
斜 に倒 れ て い る
4
""
100cm X "
65cm
"
庭 石 と し て 好適 ・ 原位置で あ る か倒 れ て い る
No.
5
""
100叩 X "
65cm
"
黒の斑 点混 り ( 電気石 )倒 れ て い て 庭 石 の 役 を 果 し て い な い
No.
6
""
100cm X "
65cm
"
倒れ て い る
No.
7
""
125cm X "
80cm
No.
8
70cm X "
58佃
"
青 白 珪 石 ( 白 珪 石 に 青混 り ) 原 位 置 で な く 移 動 し て い る
Nv.
9
87cm X "
55cm
"
育法石
,
石
育法 石 ・ 原位置
Fhd
Aq
""
法
"
( 鉱 山技 師
"
藤森忠二 ( 70 才 ) に よ る )
四 泉水内に落ち込んでいた遺物
まず泉水と推定される大規模な落ち込みの範囲を確認するため、ほ
Omの試掘溝を南北に設定
ぽ中央部と推定される箇所に幅二m長さ一
し掘りさげた。その結果試掘溝北側寄りにトレンチを横切る三個の連
なった石塊を発見した。この三個の石を境に北側はほとんど撹乱され
ない地山の黄色土が拡がり、石より南側は落ち込みとなっていること
が判明した。落ち込んでいるのは焼土、白粘土、木竹炭粒等でこれら
が約四Omの深さまでしまりのない状態で堆積していた。その下はヘ
ドロ状の白粘土層が一
O叩程 堆積し最下部には鉄分の沈澱が見られ、
この下に泉水の汀線
の外側に見られた地
山の黄色土が現われ
た。この池底部まで
の深さは汀線列石上
面よりほぼ六Omほ
どである。これら池
への落ち込みは焼土
(
壁土)白粘土、木
竹炭粒を主体とする
が、そのなかに種々
の遺物の混入が見ら
れる。
日用雑器類として
は、燈明皿として使
第 一様時代
復 元 し た 結果器高66. 5cm D 縁
5cm、 肩 部 の 最 大幅56
仰 を 数 え る 大愛で あ る 。 水饗 と
し て 使用 さ れ た も ので あ ろ う 。
黒色土
山
lO<km
--
d
46
部内径31.
池 底部出土の 備前 大豊富
用された小型の土師質土器や備前の大曹、金属製品としては鉄角釘六
ま
本、銅銭一
O数枚、万子の鞘部、
銅製査の蓋部つまみ等が出土した。
た、直径一
Om前後の鉄浮二個も池底部近くから発見された。
自給土帯
第23図
白粘土帯
灰色土 (水田土)
泉水底部
黄色土
O
黄色土
Oと
盤
岩
昭和初期頃の 庭園部付近
第2掴
第23図 ( 2 ) 泉水中央部の 方型土拡
埋
納
遺
物
現矢部高校敷地は、校舎建設の際に大幅な地貌の改変を受けたと思
われるが、遺物の散乱は殆ど見られない。長い調査期間中度々敷地
内を歩き回ったにもかかわらず、火鉢の口縁部と思われる瓦質の焼 物
片採集したのみであった。こ のように遺物の散乱が見られない
片を一
ために当遺跡が遺跡台帳にも記載されず、いわゆる周知の遺跡として
認められなかったのであろう。
った発掘調査においては、
次調査と、過去四度に百一
試掘・
予備・一
当遺跡より多数の遺物の出土を見た。紙面の都合上その一
部をここで
御紹介した
浜の館の場合出土遺物は二つに大別される。ひとつは生活の過程に
、
。
Lミ
-お
いて無意図のうちに遺跡となって残ったもの、他方は意図的に埋納
された遺物である。前者は家屋床下面等に散乱する陶磁器片類で、他
は二つの穴から出土した阿蘇家の埋納した一
一一点にものぼる宝物類で
ある。この二つの性格の異なる出土遺物について、その概略を以下に
述べることとする。
ここで扱う遺物は、昭和四九年二月二二日浜の館庭園跡地の泉水の
北西汀線の付近で (
グリッド番号日lワと臼lオ)発見された二つ
の落ち込み内から出土した埋納遺物についてである。これら二つの落
点にものぼるが、これらは生活遺
込みから出土した遺物は全部で二一
物が偶然に層となって地下に埋没したものではなく、明らかにある意
図を持って埋納されたものである。このことは、遺物の埋納されてい
た落ち込みの状況からも明白である。
埋納者は、浜の館の当主である阿蘇大宮司であり、時期は、浜の館
が島津氏の侵入によって落去する一
五八四年 (
天正二 一
年)前後であ
ろうと推定している。出土した遺物は、すべて当時では宝物として扱
われたものが大半で、中国から輸入された外来の陶磁器を主とする。
出土した品目は、第一
土壌より
金
黄
延 板一
個、白磁小置物二個、破
璃製坂三個、第二土壊から三彩鳥型水注二対・
対・
緑
三彩牡丹文瓶一
対が出土し総数二 一
対・
緑軸水注一
緑軸陰刻牡丹文水注一
粕瓶一
対・
点を数える。これらの遺物は、浜の館の家屋跡より出土する青磁染付
(
青花)等の日用雑器と異なり、実用性の乏しい軟陶を主体とした焼
物である。このような焼物がどのような意図を持って阿蘇大宮司の館
跡に埋納されたものであるか明らかでない。しかしその多くは、若干
の大小の差を持つ同一器型のものが 組み合わされ一
対をなし、しかも
埋納施設を作って納められている点からすると、ある特別の意図を持
って地下に埋められたことは確かであろう。
とくに鳥型水注等は、
今日でも南方のボルネオ島では伝世して祭器と
して用いられているという報告もあるので、あるいは阿蘇氏が大宮司
としての祭杷を司どる用具として使用されたことも当然
ら
考
れ
え ると
ころである。とにかくも実用性のとぼしい交駈焼の水注が脆弱な美し
さゆえ珍重され、特殊な目的のために使用されたことは事実のようで
ある。
い
緑軸といった、
今回の調査結果は、このような中国明時代の三軸・
わゆる日本で交祉と呼んでいる軟陶の製作時期を考える目安ともなり、
またこの出土例にもみられるように交祉焼の特殊な使用法が看取され
る点貴重な資料となろう。
- 47 -
一
( 第二土横)
込み
( 第 一土壌)
ハ門
出
土
状
況
一
二点にものぼる遺物を出土した二つの土績は、庭園の泉水部北の
汀線に治って位置していた。この部分は東側に泉水の水口が入り込ん
でいるため、複雑な汀線を描いている。こ の汀線が形造る半島状の突
出部分の根元に、人頭大の群石が構成する円形の集石群が二ケ所に亘
第担図参照)
って認められた。(
この二つのやや楕円をなす集石が土墳の上部を形成する遺構である。
下部遺構の土嬢が発見された後で、南寄りのものを第一
土壌、北側寄
りのものを第二土壌と命名した。
第一
土壌の集石は東西に一二五師、南北に九Omのやや楕円をなし
ており、その中央部には使用された痕跡のある土師質の燈明皿が一
個
置かれていた。第二土壌の集石は東西に一
六O側、南北に一一
Omで
この集石もや益楕円状を呈している。この二つの集石の周辺には、一
面に粒の荒い砂と小石が敷き詰められていた。
この人頭大の川石を取り除くと、その下にほJ円形をなす二つの土
墳が現れた。この土墳についての概略は次のとおりである。
第一
土墳 土墳
は東西 に一
五五倒、南北一
五OmでほJ円形を呈し
ている。落込みの西壁の一
部には柱穴跡と思われる直径四五仰の落込
みが重なり合って存在する。土壌の深さは、掘込みの始まる地山の黄
色土上面より五五mで比較的浅い穴であるが、当時の表土面から底部
までの深さは七Om程度であったろうと思われる。この土壌内には腐
植土と思われる黒色土が落ち込んでいた。
この第一土壌の上面にはやはり人頭大の川石が遺物を覆いかぶせる
ような状態で並べられていた。出土遺物は、先にも述べたとおり黄金
- 48 一
第 2 土墳 か ら 出 土 し た 三彩烏型水注
第24図(2)
阿蘇 氏埋納遺物 の 出土状況
第4 図
-ーι
同規模である。
出土遺物は、鳥型水注を含めた二ハ
点の三彩類であるが、これらの
遺物はほJ土壌の南東部分にかたまって出土した円遺物の置かれた場
omほど上にあがったところで、ほとんどが地
所は、穴の底部より一
圧等のため倒れた状況を示していた。しかし埋納時は整然と並べられ
ていたものと思われる。このような出土状況から、元来木箱等に納め
て埋納したことも考えられる。
土壌に見られたものと同様の人頭大の川石
これらの遺物類は、第一
土壊に比べるとこれらの覆い石群が、
第一
土
で上面を覆われていたが、
墳の中程まで下っているので、あるいは木箱等の空聞が潰れて覆い石
が下った結果なのかも知れない。遺物・
覆石等の外・
土壌内は黒色土
木炭等の混入は認められな
が詰っていた。第 一
土績に見られた焼土・
かった。
∞
出
土
遺
物
二点にものぼる埋納遺物を出土した
第二の二つの土境より一
第一・
五八六年 (
四年)前後に島津軍の侵入により落去
天正一
浜の館は、一
したことが知られるが、このことはとりもなおさずこれら交祉三彩と
呼ばれる明代後半の軟陶の製作年代の下限が、ほJおさえられる資料
ともなり得ることを意味する。
また、遠くインドネシアやフィリピン等で伝世品として祭杷に使用
される鳥型水注と同型のものが、祭杷を司る阿蘇大宮司の館跡から出
土した点からすると、当時の大宮司の司る祭杷が、南方の祭杷習俗と
脈通ピるものがあったと考えられる。
一
個体としての出土は、
東南アジア
もしくは一
これら交祉三彩の破片、
- 49 一
個、白磁製小置物二個、破瑠製部三個等で、阿蘇氏が大宮司職
延板一
としての祭杷を司る際の祭杷用具と推定されるものばかりである。土
壌内には焼土木炭の混入が認められたが、とくに覆石の東側には、木
焼土
炭と焼土が、西側には焼土が多量に検出された。これらの木炭・
も祭杷の際に生じたものかも知れない。
離れた所に、第二土墳
OOm
土績より北東部へ約一
第二土境 第一
O
五師、南北に一
土壌と同様穴の直径は東西に一一
が存在する。第一
土墳と
三伽でほJ円形をなしている。地山からの深さも四七聞で第一
録紬陰刻牡丹文水注
第25図
や東アジアの各地で発見例が報告されているが、このように一カ所か
ら一
O数点がまとまって出土した例はない。このため各焼物の共伴関
係が把握できる有力な遺物である。(
口絵l・2参照)
このような観点から、県の教育委員会では出土仁た翌年の昭和五O
年三月二四日に有形文化財として、出土した二一
点を一
括県指定とし
た。なお五一
年に到って文化庁も資料としての価値に注目し、国の工
芸品として指定するため遺物調査に技官を派遣し、現物を文化庁へ運
び、五二年現在、国の文化財保護審議委員会に諮問中である。
以下、この二一
点の出土遺物の各々についてその概略を述べること
とする。
三彩鳥型水注
第二土境より四個出土した。胎土の厚さが0・
四佃前後と薄いので
一
個だけを除いて他の三個は、大なり小なりの破損を被っていた。こ
れらの破損は埋納時に生じたものではなく、埋納後永い年月と土地の
変遷による土庄の変化等に生
よビ
りたも のと思われる。この四個の水
注は、それぞれ僅かではあるが大小の差があり、対になっていたもの
であろう。
水注としての構造は単純で、背中の部分に液体を差す部分があり、
やや頭部を持ちあげた鳥の喋噛の部分に孔が通っており、ここが注口
部となっている。水注とは呼ぶものの恐らく酒等を差したものであろ
う。インドネシアでは結婚式にこの水注が使われるというが明らかで
はない。この水注は鳥型をなしているが、水鳥をモデルとしたもので
羽根の文様から見ると、鴨であろうと思われる。恐らく水に浮ぷ鴨を
モチーフとして鳥型水注を構成したのであろう。また各水鳥の首の部
分には、親鳥の翼によって鹿護される雛鳥の頭が造り出されており、
可憐な感ビを漂わせている。
従来、この鳥型水注はインドネシアやフィリピンよ
り 出土している
が、日本の年代の確実な遺跡から出土したのは、今回が初例である。
伝世品としては、この浜の館出土のものと寸分かわらない鳥型水注が
東京博物館に永年の手あかと汚れで黒く媒けて存在する。
これらの三彩はインドシナで製作されたものか、中国で製作された
ものか明らかでないので、交駈三彩スタイルとでも呼んだ方が妥当か
とも思われる。なおこの三彩類は、素地
に化粧 がけがなされている。
製作年代は一
六世紀前半頃と推定される。
これら四個の鳥型水注は、それぞれ若干ではあるが大きさ、形態や
施軸が異なっているので以下番号を付し、それぞれの特徴について述べ
ることとする。
烏型水注1 下部に黄色の軸が僅かに見られる程度で、全体が露相
一
色でもって施軸されているので、正 確には緑軸烏型水注と呼ぶべき
であろう。
高さ一四・
六師
、長さ一
七・
三側、幅九・
五mあり、四個のうち背
高が一
番高く、唯一の完形品である。注口部分橡噛がやや上向きにな
っている。
烏型水注2 白の化粧がけをした後、緑・
黒・
黄の三色の紬を施し
ている。喰鳴を緑・
黒とこまめにぬり分
緑・
雛の峻鳴を黒、羽を黄・
けている。高さ三了九m・
長さ一
八・
九側、幅八・
七仰
を数え一
番
小型である。注口部となる喋噴は水平につけられている。破損して出
土した。
- 50 ー
烏型水注S これも2と同様白の化粧がけを施した後、茶と緑の二
彩をもってぬり分けている。頭と羽の部分に緑を配して、喋噛および
羽の一
部を茶色となしている。前者と異なる点は、雛鳥の足が付いて
いることや、首が短かくなり頭の喋噛部分が下向きになっている点な
どであろう。また、胴の部分が極端に薄くなっているので破損が著る
しい。背の高さ二ニ・二側、長さ二0・
0側、幅八・
八mを数える。
黄・
黒の三色が施軸される。
型烏水注4 白の化粧がけの上に、緑 ・
黒の三色でぬりわけて
緑・
頭部を緑、除噴の部分を黒とし、羽を黄・
いる。しかし、羽の上での各色のぬりわけの意図がはっきりせず、各
色の区切りが染んで雑然としている。目の部分にはわずかに窪みがつ
けられているが、色を付けるのを忘れたと見え、緑 一
色で塗りつぶし
てしまっている。親鳥の橡噛は下向きかげんに付けられている。前者
と同様、雛の足が、親鳥の羽の下からのぞいている。背高が=了九
長さが一
九・五側、幅九・一仰を数える。
m・
瓶
文
丹
牡
彩
三
対をなすものであろう。
第二土壌より二個出土しているが、一
部破片が失なわれている。共
は完形であるが他方は、破損しており一
に緑と茶色の二彩からなり、緑軸を地に茶色の牡丹が大きく二カ所に
描かれている。牡丹を表わす茶色は箆による無造作な沈線により縁取
られているが、茶色を沈線をこえて外へはみ出したり、緑軸が入り込
んだりしているのがいかにも自然で素朴な美を感じることができる。
用途は瓶なのでA
7
でいう徳利のような役目をもつものであろう。以下
二個の杜丹文瓶の各々について略述する。
この瓶は高きが一五側、口径四・
九側、胴径九・
Om
牡 丹文 瓶 1
方
で徳利型をなしており、完形で出土した。地肌となる緑軸には濃淡の
むらが若干見られ、それがかえって民芸品的な雰囲気を醸し出してい
る。瓦の頚部には牡丹の花弁を装飾化した反花状の文様が施されてい
瓶
柚
緑
この水注も第二土壌より二個出土した。やはり一
対をなすものと思
われるが、同型でありながら一
方には胴部いっぱいに僅書きによる陰
刻の牡丹文が描かれるが、他方にはそれがない。このため片方は、緑
軸水注と呼ぶべきものであろうが、対をなしているのでこの項で述べ
ることとする。施軸は先にも述べたように緑軸一
色である。この種の
注
水
文
丹
牡
刻
陰
紬
緑
色で仕上げた緑軸瓶が第二土
社丹文瓶と同型の瓶に、全面を緑軸一
墳より完形で二個出土した。やはり化粧がけをした上に緑軸を施して
いる。
五・
六側、口 径五・一側、胴径九・
O仰
を数える。
緑軸瓶1 高さ一
肩部に、窯に入れた際他の焼物と接触して付いた長さ一・二伽
程の傷
が残っている。
五・
六畑、口径五・一側、胴径九・一仰あり、1
緑柚瓶2 高さ一
の緑軸瓶よりやや小型となっており1の瓶と対をなすものであろう。
FD
O側、胴径八
四・
六側、口径五・
粧 丹文 瓶 2 この瓶は高さが一
八仰で1の瓶よりも若干小型になっている。数個の破片となって出土
1の瓶に比べると
したが、
頭部と胴部の二カ所の破片が不足している。
緑軸 ・
褐軸共に若干濃くなっており、胴部いっぱいに描かれた文様は
1の瓶に描かれる文様と殆んど同ピ箆書きによる社丹の花である。
る
器形を持つものは別名三彩手付陶とも呼ばれ、これらの破片は昭和一
三年頃沖縄県の首里城より出土している。一
般には南蛮手と総称され
るもののひとつで、製作年代は一五世紀末頃と推定される。元来蓋が
付いていたと思われるが現存しない。
三・
四師、長さ一
六・二師、幅
緑軸 陰刻牡 丹文水 注 1 高さが一
0・
omを計り、中心となる瓶に取手と注口部がついた水差しである。
一
O数片の破片となって出土した。緑柑は濃く施されており表面には
光沢がある。
水注とま・
ったく同型であるが、高さ一
緑柚 陰刻牡 丹文水 注 2 ーの
一
一
了三畑、長さ一
五・
二m、幅一
0・
三仰でーよりやや小型となって
いるのでやはり一
対をなすものであろう。ーに見られた胴部の陰刻の
牡丹文は見られない。器形全体に緑軸が施されているが、施軸が薄く
下地の白の化粧がけがすけて見え、全般的に白けて光沢の
い
な
仕 上が
りとなっている。また、注目部がなだらかな曲線を描かず急激に折れ
外反するところなど1の水注と異なる点であろう。完形品として出土
した。
注
水
柚
緑
同ピく第二土壌より出土した一
対をなす水注である。瓶に長く沓曲
する注口部と飾り取手を付けたスマートな水差しで、ベルシア等の金
属製の水注をおもわせるエキゾチックな器形をなしている。曲線を描
く取手は下端部が水注の肩部に、上端部が袋状口縁部に固定されるが、
その突端は更に鈎状の飾りとなって延び、水注の頭部中央に取り付け
られている。こ の取手の形状はさながら人の耳形に類似している。
口縁部は袋状をなしているが、装飾を兼ねると同時に、液体を差す
際、上部になるに従い頭部が細くなっているので、液体が急にあふれ
ることのないようにとの配慮によるものであろう。袋状口縁の内部に
は、黒灰色の膜状のものがはりついている。元々漆が塗付されていた
ものか、内容物が付着したものか明らかでない。器形全体に縁軸が施
されている。線刻等による文様等は見られない。
緑 軸水 注 1 高さ一
八・
四側、長さ一
五・二m、幅一
0・
七聞で、
頭部・
注口部・
取手部等出っぱった部分が折れた状態で出土した。全
体に施された緑軸は濃緑でガラス質の光沢を持つ。
一 般にいう三彩の
緑軸とは一
寸感じが異なるので、製品としては矢敗作に類するもので
あろう。注口部・
肩部等および胴の一
部に、窯内で他の製品と接触し
てついた痕が残っている。
水注は高さが一
七・
七畑
、長さ一
四・
七聞、幅
緑柚水 注 2 この
一・
Omでlの水注と同型をなすものである。注口部が付恨の部分よ
り折れているのみで、出土時の破損部分は少なかった。器形全体に緑
柑が施されているが、ーの水注に較べると光沢のない明るいザラザラ
した感ピの緑色で、これが製作者が望んだ緑軸の色であろうと考えら
れる。
瓶
文
草
唐
丹
牡
付
染
この染付瓶もやはり第二土壌の中より二個の出土を見た。器形は、
先の徳利状の緑軸瓶と異なり胴部のふくらみが異常に大きく、直径の
最大値を示す箇所が高台から近い部分に置かれている。このため全体
的に見ると安定した観はあるが、一
方シャープさは感じられない。胴
部で最大に張出した後外郭線は、ゆるやかな斜線でもって肩部を形造
りながら頚部で束ねられた後、ラッパ状に聞いて口縁部を形造ってい
- 52 -
る。二個とも胴部および肩部にかけて、暗い藍色で唐草文が描かれる。
部
胴部と肩部、頚部の境は、各々大小二本の線で区切られ、胴部と肩
には唐草文が、頭部では内部が藍色でぬりつぶされた剣先蓮弁と呼ば
れる文様が縦に描かれている。この線は口縁部直下に一
本、高台部に
本施されている。
一
これらの唐草文のデザインは、荒っぽく表面的写しの気分が強く、
特に頚部の剣先蓮弁などにはオリジナル的なものが見られない。焼も
あまく、景徳鎮のものではないようである。中国の南部あたりで一
六
世紀前半頃焼かれたものと推定される。中国南部関係の陶磁器を研究
する上での資料的価値は高いと思われる。
四・一m、口径五・
染付瓶1 高さ一
三m、胴部が一
0・
九m
を数
える。肌面のガラス質の部分に無数の小ひびが走っている。完形品と
して出土した。
四・
四聞、口径五・
六側、胴部
0一
・
九m で、
染付瓶2 高さが一
数値は瓶1と殆ど変らない。胴部を巡る唐草文の一部が、明るい青
色を呈しているが、この色が染付の理想の色と思われる。口縁部に二
カ所庇が見られるが発掘時の不注意によるものである。
蓋物)
青磁童子 (
他の遺物は殆ど対をなしていた が、この盆子は単独で出土した。
0・
六側、蓋部の高
金子は蓋部と身部から構成されている。全高が一
七仰である。身部は高さ
、口径九・一倒、最大径一一・
さが四・
cm
八仰
を計る。身部の底
が七・
O側、口径一
0・
四畑
、最大径が一一・
部には高台が設けられているが、削り出しの高台であるため外見だけ
では判りにくい。この高台の部分には軸が施されていない。また蓋部
阿
部は、口はげが見られる。
と接する身の口民
文様は蓋部のつまみの周辺に箆によると思われる円が認められるほ
か、身部の肩の部分を流水文が巡り、これに平行して胴部を二条の線
が櫛目状になって巡っている。また胴部から底部にかけては、0・
七
四程度の間隔で縦線が底部に向って無造作に施されている。
これらの線は胎土
に箆で描かれたものと思われるが、この上から施
糊されているため、沈線のなかに軸が詰まり肌面に文様の凹凸は表れ
ない。しかし軸の薄厚が色の濃淡となって施された文様を、僅かに浮
き立たせている。
この盆子の色から判断すれば、青磁というよりむしろ青白磁に近い
ものである。基本は宋風であるが明時代のものと思われる。
五世紀末から一六世紀初め頃にかけて中国で焼かれたものであろう。
一
黄
金
延
板
第一
土壌より出土した。重さ一
09で三枚の延板の組合せより構成
される。内部にある折り曲げられた延板に直交して、帯状にかけられ
た掛け金の役目を持つ延板をはずすと、左右末端が交互に折り曲げ重
ねられた延板が現れる。この延板の内部には、さらに次の折り曲げら
れた延板が包み込まれている。この一
番内部に包み込まれている延板
の折り曲げられた両末端を伸すと、全長は八・
四畑
、幅は一・
五五聞
を数える。両末二・
五聞は内に折り曲げられ、内部に納められた物が
露出しないように工夫されている。
この黄金延板の組合せは、竹の皮で包んだにぎり飯の包み方と酷似
している。一
番内部の包みには何も存在しなかったので、すでに腐植
したものと思われる。ただ僅かじ和紙の繊維と思われるものが付着し
--
53
ていたので、あるいは、何らかの文字の書かれた紙、が納められていた
のかも知れない。
この黄金延板の包みが、何を意味するものか明らかでないが、日常
生活の必需品でなく何か特別の意味を持つものであることは確かであ
破
る。第二土壌より供伴して出土した遺物は、白磁製の唐獅子や猿・
璃の部など祭杷に関連すると推定されるものばかりである。また猿は
その背中に線香を立てるためと思われる筒を背おっているところなど
から、この黄金延板は阿蘇大宮司等が神事を司った時に杷った御正体
であろうと推定される。恐らく、内部に納められていたものは、紙に
書かれた護符あたりではなかったろうか。
白磁製小置物
白磁製小置物として、唐獅子および猿の二つが第一
土壌内より出土
した。特に唐獅子の方は明時代の万暦様式の狛犬に酷似している。こ
の手のものは一
般に無地のものが多い。焼物の外に白色や青白色のガ
ラス製品も見られる。浜の館の落去間近い一六世紀の後半頃、中国の
福建省付近の窯で焼かれた製品であろうと思われる。
唐獅子 高さ九・六側、最大幅六・
五側、台座の奥行三・
二佃で小
型の白磁製の唐獅子の置物である。台座の上に玉と戯れる獅子の姿を
造り出したものであるが、作りは形式化され平板的で迫力はない。目
鼻孔は針状のもので突いた穴をもってこれにあてている。一
種の置物
として製作されたものであろうが、置物とした以外に沖縄等にみられ
るように魔除けとしたものかも知れない。万暦の狛犬等に相通じると
ころもあるが、全般的に見ると、造りは正面から見ることを意図して
製作されており、側面および裏面は極度に簡略化されている。獅子の
足や台座の角等には、ヘラで胎土を荒くそいだ跡が残るがあるいは大
量生産品であったのかも知れない。
濃
(ば
く
)
高さ八側、最大横幅八聞、台座の奥行三聞で唐獅子の
置物より若干小型の白磁製の置物である。やh青味がかった白磁で、
鼻の部分を見ると豚のようであるが尻尾が豚と異なっているので、東
南アジアに生息し夢を喰うといわれる摸ではないかと思われる。
先の唐獅子と異なる点は、台座にのせられた獲がその背に簡を背負
っている点であろう。この筒が何らかの物を立てる用途をなすもので
あることは疑いないが、筒のなかに施された穴が直径0・
七側
、深さ
は、先が極端に細くなっている部分まで加えて一・一m程度のもので
あることも考え併わせると立てたものも限定されてくるであろう。筆
立てもしくは、線香立てとしたものであろうか、台座部分の装飾の施
し方から考えると、この置物も正面から見るようにつくられており、
獲の鼻の部分が左側にくるように工夫されている。
なお、先の唐獅子が頭を右側に向くように製作されていることも考
え併せると、前から見るためには向って左側に唐獅子、右側に猿とい
う配置となり、やはり何らかの祭壇を飾るため左右に置かれた置物で
はなかったかとも考えられる。
破
瑠
製
杯
第一
土嬢より三個出土した。三個のうち一個は完形品で、他の二個
九仰の
は破損と腐蝕が著しい
一
一
。一
個ともに口径は八・
三側、高さ一・
ガラス製の杯で、全面腐蝕のため乳灰色となり真珠と同様の光沢を帯
び、ガラスとしての透明部分は殆ど見られない。掌に乗せるとずっ
しりと重量感があり、中国の玉杯を努髭とさせる。恐らく中国でいう
- 54 -
玉杯もこのような破瑠製の杯ではなかったかと思われる。
底部には線刻による文様が見られるが、龍を彫ったもののようであ
る。強い光線に透して見ると、この線刻をさらに克明に眺めることが
できる。杯の底部に沿って円状に回っているので、高松塚等に見られ
る青竜を形取ったものとも思われる。もしそうであれば、青竜は五
行思想で東または春にあてられるものであるので、大変おめでたい文
め でたい数字といわれ
様を持つ杯ということになる。また三は普から
組で出土している点がこれを裏付けるも
ており、今度の場合、三個一
のかも知れない。この杯の素材となるガラスは、酸化鉛と炭酸カリの
複塩からなる鉛ガラスと思われる。
白磁小置物 と破瑠製I不
第25図(2)
一番手 前 の 黄金延板 は祭紀 の 際 の 御正体で あ
っ た と 思 わ れ る 。 3 枚の延板の組合 わ せ か ら
な り 重 さ は約lOg あ る 。
遺
物
生
活
生活遺物としての出土品目を大別すると、土師質土器、須恵質土器
鉄製品、
青磁 ・白磁・
瓦質土器、陶磁器 (
、妬器、金属製品 (
染付)
石鍋・
、石製品 (
銅製品)
硯・
砥石)
、炭化物(
、
竹炭・
萱炭化物)
木炭・
猷骨・
貝殻類 (
ほら貝)等の項目に分類できる。
ハ門陶 磁 器 類
戦国末の天正年間まで存在し、遺跡としては中世では一
番新しい時
期のものであるためか、陶磁器類の出土は多い。完形品は見られない
が青磁・
白磁・
染付とほとんど当時の製品は出揃っている。生活遺構
番数多く出土するのは青磁 (
内より一
碗)
碗・皿類)で、次に白磁 (
摺鉢)
、
火鉢・
碗・皿)
、瓦質土器(
碗・皿)などが続き、陶器 (
染付 (
妬器 (
大型翠 ・
大型査)も相当量出土をみる。
磁
土師質土器についで多く出土したのが陶磁器類では青磁片である。
遺跡全域から出土しているが、特に集中していたのは第一
棟の北側一
帯と北東部である。北東部から青磁大皿片が数多く出土し、調査員を
驚嘆させた。この区域に館の厨房的性格をもっ建物が存在していたこ
とは明らかである。出土する青磁は主として明代末頃の竜泉窯で焼か
れたものが多いが、それ以前の南宋や元時代の青磁も若干出土してい
る。器形からみると碗が多いが、日用雑器として使用されていたため
か、すべて小破片となって出土し完形は一個も見られなかった。取り
上げられた青磁片は五OO点余にものぼるが、紙面の都合もありここ
では主なるもののみを掲げたい。
--
55
四
青
青磁器片では青磁碗の占める割合が一
番多い。試掘調査から第二次
調査にいたる聞に発掘した碗の破片は口縁部のみでも一OO点前後を
数える。勿論この破片は殆ど別個体のもので同一
個体のものは含ま
れない。碗類は文字通り日常茶飯時に用いられていたためか、完形品
の出土は一
点もみられず、殆ど三 m×三 m程度の小破片となってお
り、器形を完全に復元できるものはなかった。
ただ器に施された文様については①無文の物⑦語造りの蓮弁の描か
れるもの③口縁部直下に口縁と平行して波状の文様を描き、その下に
縦に沈線を施したもの④口縁部直下に平行して一
条ないし二条の線が
巡るもの⑤幅一m程度の縦の窪みを持って文様とするもの⑥口縁部に
直下に幅一・
五l二・
Om
幅で長方形の入組文 (
雷文)が帯状に走る
ものなど六種類ほどに大別できる。
出土する青磁碗を時代別にみた場合、当遺跡が戦国末の天正一
四年
(一五八六)まで存続し、かつ阿蘇氏が肥後武士団の棟梁として繁栄
をきわめた時期が天正年間であるため、出土する青磁等の製作年代も
ほJ明代の後半と考えられるものが多い。出土するほとんどの青磁類
が、暗緑色をなしガラス分が多くギラギラ光る、俗に七官青磁と呼ば
れるものが主流をなす。ただこの中に混じって、龍泉窯の南宋頃のわ
が国で砧青磁と呼ばれるものや、元代の粕色が黄緑色をなすものなど
も若干見られる。また製作地不明の破片も多い。
まず、南宋代の碗片としては、第お図のーから9があげられる。
ーの碗は庭園の下層部から出土した碗で、古い時期のものであるこ
とを物語っている。軸色は美しい粉青色をなし、胴部には鏑造りの蓮
碗
類
弁が施されている。蓮弁の幅は細く先端は尖っており、笹葉状に近い。
後世の蓮弁に比べると、彫が深いためか蓮弁が際立っており、全 体的
に鋭さが漂う。そして蓮弁は腰部まで整然と施される。口縁部は外に
向って反り、外面直下ではやや厚めで折返し状を呈する。内面に文様
は見られないが、
見込部近くに二条の線が僅かにうねるのが認められる。
同様のことが2・3・4・5・6の各碗の破片についてもいえる。
般に砧青磁と呼ばれているも
7・8も南宋時代のもので、我国では一
のである。庭園の泉水部内の落ち込みから出土した。器形は、口縁が
あまり外に聞かず肩部分に張りをもたせ、やや内写気味に厚手の口縁
部を形成する碗である。外面胴部に施される文様は、先と異なり、上
下に走る幅一・一mの窪みによって、先端の丸い蓮弁状の文様を形造
っている。この文様は鈍い鋪状の線により隣接する文様と区別されて
いる。胎土はいずれも白色を呈する。
棟床面より出
この外、やはり南宋代のものと思われるものに、第一
般に珠光青磁
土した9の碗がある。内面に櫛目文を施したもので、一
もあろう
五叩
八四で高さが七・
八・
と呼ばれるものである。口径が一
かと推定される。薄づくりで平形の大茶碗である。軸は透明質の淡暗
黄色をなし、胎土には僅かに鉄分が見られる。
この碗の場合、口唇部が折返されず外へ水平に尖っているのが特徴
といえる。外面胴部に施文は見られない。
元代のものとしては、暗褐色をなす碗の口縁部が二1三片認められ
た。他に破片も若干あるが全体で占める割合は少ない。
軸色は異去っていてもすべて、
以上の外、 叩l泣までの碗は施文・
明代の漸江省竜泉窯の製品と考えられる。内には朽葉色をなすものも
- 56 -
7M
M
,
U
第26図 出土遺物実測図 ( 青磁碗類)
711 0 7
比ι
l
U
J
'�
Fr
\ I ノ
\-1
/
:ささ71
.-;j
\; 千 二丑
〆
v
' O}
丈 1 7
J 62U ) \ イ ロ :
J
\ \;671
\ 脱場
ハ 宵 j明 EjJ
\
Uぺ
〆
ノ 切 屯 Pイ咽
J 即 日lJ 0 71
- 57 一
みられるが酸化したものであろうomluまでの青磁は、いずれも灰
色がかった緑色の施軸がかけられ、内外共に軸に小ひびが走り施文は
見られない。器肉は三・
om
前後と薄く、胎土は黒色である。口縁部
が直下で急激に外へ反り返るのを特色とする。
Uの破片は、淡い緑色に白い灰状の噴出物が肌面に浮かび上ってい
るが、窯変したものであろうか。口縁部が厚く、口唇部もまろやかな
楕円を描いている。先年調査した竹崎城からも同様の青磁片が出土し
ているので、この破片も一
五OO年前後のものと思われる。
日もmluと同様器肉が薄い。軸色は淡暗黄色でガラス質のギラギ
ラした施柑がみられる。内面に劃花文・
外面には箆による無造作な縦
線が施されている。一
見すると珠光青磁に酷似しているが、やはり明
代の竜泉窯の製品であろう。
日の碗も胎土が灰色であることと、外面が無文であることを除いて
は、日と同様のものである。口から辺までは、第一
棟よりさらに下部
の 柱穴を持つ建物の床面および泉水内から出土した碗の破片である。
このため、第一
棟床面出土の青磁より若干古い時期のものと思われる。
これら一
連の碗の口縁部直下外面には、幅一・
五仰の聞に沈線による
入組文が帯状に巡らされている。
直線を主体とした迷路状の入組文(
雷
文)
は、
箆による沈線で描かれるため軸が流れ込み、凸凹の少いやわら
かな仕上げとなっている。わが国の中世の火舎口縁等に普遍的に見ら
れる菊花文と同様、当時の中国人に好まれた文様なのであろう。
施柑は美しい淡緑色で、胎土は白色をなし焼きも良い。明代でも後
半のものであろう。
Mは庭園泉水部の東汀線石の基底部より出土した破片で、復元すれ
ば錆造りの連弁を外面胴部にもつ口径の大きい椀となる。この時期に
なると蓮弁も幅が広く、先端部も尖りが少なくなり、全体的に鋭さを
欠き、平板的となってくる。また蓮弁も腰部近くでは消えてしまうo
m-幻の文様を持つ碗類にも同様の傾向が見られる。
却の鏑造りの連弁の文様がさらに変化したのが、お等に見られる文
様をもっ碗類であろうと思われる。この碗になると鏑はなくなり、箆
による幅一・
五m
前後の沈線が約0・五m程度の間隔で無造作に上か
ら下へ施されている。口縁部直下には蓮弁の先端部の尖りを象徴する
と思われる鋸歯状の沈線が巡っているが、売の上下に走る、沈線とセッ
トさせて蓮弁の意味を持たせているのであろう。内面に文様は見られ
となり施軸の厚さも薄くなっている。器型
ない。軸色も暗緑色(
草色)
は、高台上の腰部から丸く内琴しながら立上がり、外へ聞かず内へま
す る。この文
とまるようにして、や がてやや厚ぼったい口縁部を形成
様と器型をもっ青磁碗は、戦国末期頃の城跡等から発見されるので、
明代でも後半の竜泉窯の製品とみでほぼ間違いなかろう。
お・初等の口縁部破片についても同様のことがいえる。なおこの碗
の外面腰部・
内面見込部には、茶渋状汚れが付着しており永年の使用
を思わせる。
却も碗の口縁部破片であるが、軸色はおと同様の暗緑色をなし、施
軸が薄くなり肌にはギラギラしたガラス質の光沢が強く見られる。口
縁部直下にはげからnの口縁部にみられた雷文が施されているが、
この碗になると口縁部を巡る上下二つの線の引き方も粗雑となり、そ
のなかに描かれていた雷文も箆による長さ二l三仰の単なる三本の
引掻線に変り、その意図を留めるだけとなっている。この文様部分に
--
58
窯内で付着したと思われる石英粒等が軸に数か所付着し、肌面の庇と
なっているが、いかにも下手物といった感じを強くうける。
この外に、製作地不明の末期碗片が数点あるが省略した。先にも述
べたように当遺跡の主流をなすものは、明代後半の龍泉窯の製品で、
番多い。
五世紀後半から一六世紀にかけてのものが一
製作年代は一
これらの出土した碗類には、永年の使用による茶渋状の汚れが付着
れく
る。 に、南宋代の砧青磁片には内外共に黒
しているものが見らと
い汚れがついており、伝世期間の長さを想像させて興味深い。
青磁大皿l 三つの破片となって出土したが、口緑、胴、高台部共に
揃っており復元可能であるため図上で復元した。皿の口径は三四m、
般の中世遺構からの出土はほとんど見られない豪華
五仰で一
深さ六・
色は暗緑色をなし了 五聞の厚さの施軸が認められ
な大型の皿である。
る。軸は高台の畳付部および外底部にまで及ぶ。胎土は白に近い灰白
色である。
文様は僅かに口縁部内側を唐草の退化したと思われる箆書きの文様
がと、ぎれとぎれにかすかに走っているのみで他には内外共に見られな
する胴部には胎土に菊の花弁状の窪みが縦に施さ
ぃ。皿の内部の内沓守
れて器の内部を回っている。阿蘇氏であればごそ持ち得た大皿であろ
ぅ。明代のものと思われる。
この外同形の大皿の高台部破片が出土しているが、色は明るい緑色
を呈している。製作後火に遭っており、破砕面に煤が付き二次的な施
破片は弓状の割れ口を呈しており、
相当高温の
軸の溶解が認められる。
皿類
ハヨ
FD
火の影響を受けたことが知られる。他に三l四個体分の同形大皿の破
片が見られる。
青磁大皿口縁2部(
破片)口径が四五m以上もあり胴部の厚さも一
、
六m
前後あるので1のものより更に大型の皿と思われる。口唇部にゆ
るやかにうねる波状の凹凸が施されている。
色は黄味がかった淡い緑色を呈して 五酬の厚さの施軸が見られる。
胎土は白色である。文様はないが胴部の内外に幅三・
Omの窪みが縦
に走り飾りとなっている。窪みの部分は窯内で軸薬が変化したのが緑
が消えクリーム色状を呈し、盛り上り突出した部分のみが淡い緑色と
して残っている。出土地点は泉水底部近くであるので他の大皿より更
に古い時期のものと思われる。
青磁大皿口縁部3 (
破片) 図上復元による口径は約三四?のり、ー
と同様の大型の皿である。
外に向って聞きながら-立
上っ
た胴部は口縁部
近くで稜線を描いて折れわずかに傾斜を持ちながら水平方向に向って
延び幅二・
五m程度の帯状の口縁を形造る。内外の胴部および帯状を
なす口縁部には箆でかすかに描かれた流れるような唐草文が全体に大
きくうねっている。施軸は明るい緑色を呈している。なお高台部はな
いが器高は六l七仰であったと推定される。
青磁大皿口縁部4 (
破片) 器形その他はほとんど3と同様と思われ
る。異なる点はほぼ水平に近い状況で外へ聞く口縁の口唇部に長さ約
五m間隔の波状の飾りが付いていることと、内外の胴部に約二仰
三・
程度のわずかな窪みが縦に飾りとして施されていること位いであろう。
施軸の色、文様共に3と変るところはない。
青磁大皿口縁部5 (
破片) この大皿の器形も基本的には3と同様と
第27園 出土遺物実測図 ( 青磁皿類)
2
3 一 ー一一
←一一一
_
\\子、
一 一一一ート--M-- ". '
1 十一…下宮司
4
七づ 戸
ア
幅72J ;f
n
て
�
i
にて
:j
y
-60
v ?
7
y
O
?ク
5
1o 咽
思われるが、口唇部にゆるやかな波状の飾りが施されている。軸色は
暗緑色を呈し文様は見られないが内面には幅一m程度のわずかな窪み
が縦に施されている。器面全体の軸に間隔の粗なひびが走っている。
青磁大皿口縁部6 (
破片) 図上復元すれば口径二七・
om程度の中
型の皿である。4・5の大皿と同様口唇部には波状の飾りが施されて
いるが異なっている点は、波上の盛上った頂上部が曲線を描く部分と
稜線を描く部分と交互に口唇部を巡っているということがあげられる。
この口唇部の内側直下にはこの波状の飾りと平行して箆で描かれた
同様の文様が口縁部を巡っている。器内外に唐草文等の文様は見られ
ないが、3・4と同様胴部の内側には一m前後の窪みが飾りとして縦
に走っている。
車
問
磁大皿口縁部7 (
破片) この皿は図上復元では口径二五l六mの
中型の皿となる。口唇部その他は5と同様であるが、異なる点は他に
見られるような口縁部での水平方向への立上りの変化が見られない。
このため高台から立上った胴部はそのまま外へ向って内琴しながら立
ち上がり直ちに口縁部を形成している。口縁部を除いては軸色、文様
等まったく5の大皿と同様である。
青磁大皿口縁部8 (
破片) 図上では口径が二五仰程度の中皿が復元
できる。1の大皿と同様の器形で立上った胴部は口縁部直下のところ
で稜線をえがいて外に折れ帯状の口縁を形成する。軸は暗緑色である。
中皿口縁部9 (
破片) 六片の破片からなるが復元すれば口径が二四
側、器高は四・
五m程度の中皿と思われる。器形は内習しながら外へ
向って立上り胴部を成し、口縁部間近で軽く外反し厚ぼったい口縁部
を形成する。色は白けた暗緑色で器形に文様は認められない。全体の
唱'ム
nb
軸薬上にひびが走っている。
破片) 胎土の厚さも0・
中皿口縁部叩 (
四五mと薄く口径が約二O
m程度の中皿である。高台より内寧しながら外へ向って立上った胴部
は口縁部近くで稜線を作って外へ折れ、内写する段をもって口縁部と
なる。軸色は白けた暗緑色といった感じでどちらかといえば青白磁に
近い。
小皿口縁部日 (
破片) 口縁部の直径が約一
五m程度の小皿である。
この皿も胴部で内雪し、口縁部近くで外へ急にそね口縁部を形成する。
胴部断面はいわゆるゆるやかなS字形を描く。紬薬は光沢のないザラ
ザラした感じの緑色である。接合できない二片の同様の特徴を備えた
口縁部があるが同一
個体のものと思われる。
以上の外青磁大皿の底部と思われる高台付が五l六個出土している。
大皿底部1 (
破片)高台部の直径が一
六m、底部の厚さが一・
七m
外
あり、
部での高さが一・二m
かなりの大皿の高台部と思われる。
畳付部
および底裏面部中央にも施糊されている。口縁部の2や3の大皿の高
台部をなすものと思われる。二次的な火に遇い柚薬の溶解が認められ、
煤の付着が見られる。色は淡い緑色を呈する。
破片) 高台部の直径が九・
六側、高さが外側で0・
中皿底部2 (
五
五m
あり底部の厚さが一・
あり形式だけの高台である。
m
畳付部断面は
やや丸味をおび施軸されている。軸色は暗緑色を呈する。中型の皿の
底部であろう。
中皿底部3 (
破片) 高台の畳付部での直径が八・
七畑、高台の高さ
が外部で0・
七側、
底部の厚が一・
五m
を数える。
高台の畳付部外側は
箆で角をそそいでおり畳付部は僅か二m程度で施軸はない。底部にも
施粕は見られない。胴部分での胎土の厚さは0・
四m程度で胎土は白
灰色を呈する。柑色は白けた暗緑色である。
中皿底部
(
破
4
片)
七聞で高さが外部で一・一m
高台の直径が六・
底部の厚さが一・一倒ある。軸色は暗緑色で畳付部にも柚がかかるが
底部裏面には見られない。畳付部には窯入の際針金等で器を支えたと
思われるさびの跡、が残る。
中皿底部5 (
破片) 高台の直径が七側、高さが外部で一m、底部の
を数える。色は朽葉色であるが僅かに緑色も見られる。
厚さが 一、五仰
内側底部に大きな圏界線が描かれ、胴部への立上りがゆるやかなので
やはり器形は皿と思われる。
大皿底部6 (
破片) 高台部の破片が小さいので直径は不明であるが、
大型の皿の高台と思われる。外部からの高台の高さは一・一m、底部
の厚さは一・一仰
を数える。色は緑色で畳付部には施粕が見られない。
文様はなく胎土は白色を呈する。
以上の外に大皿の底部と思われる破片が数個出土している。
青白磁金子 出土したのは半壊した蓋の部分である。復元すれば
口径が約五倒、深さが一仰の小型の盆子である。蓋の表面には盆子に
みられる特有の蓮弁状の凹凸が七個施され、その中心部には蓮子状の
小突起八個が付いている。表面には青白色の施柑が見られるが、口縁
部の一
部と口唇部および裏面にはそれがない。
超小型であり、器形は江戸末から明治頃に見られた紅皿に似ている
ので、用途は、薬品もしくは化粧用薬物を収めたものと思われる。製
作は南宋時代に景徳鎮の窯で製作されたものと推定される。
青白磁小査蓋片 第一
棟床下より出土した。出土したのは小査の
蓋部の一
部で、復元すると直径が一一・
八畑、高さが二・
二聞でつま
みを入れても三m程度の器高を有する蓋である。胎土は白色で表面に
は施粕がみられるが裏面にはない。青磁というより、青白磁と呼ぶベ
きものであろう。明代の焼物で一五世紀から一
六世紀にかけて製作さ
れたものと思われる。
陶器類
円4
no
天目茶碗 全体の三分の一程の出土であるが、口縁部から高台部
まで続き一片の破片であるので、石膏で復元を試みた。この碗は、口
径が一0・
八側、器高が六・一畑
、高台の直径が三・
四町、高台の高
さが三仰と、どちらかといえば小型の茶碗に属する。腰から高台にか
けての二仰
を除いては、器全体の内外に、ガラス質の光沢に富む暗褐
色のいわゆる天目軸がかけられている。特に腰部の軸際のなだれの部
三m程度の厚さになっている。この軸
分では、黒褐色粕がたまり0・
際に若干薄柿色の軸が残るので、下軸を施した上に暗褐色の上軸が施
されたのであろう。この柑際より下は、白色の素土が現われている。
胎土もまた白色である。この天目もやはり、室町末頃瀬戸か美濃で焼
かれた和物と思われる。
天目茶碗片 口縁部四片、底部一
片の計四個体分の破片が出土し
ている。出土地点は、浜の館第一
棟床面およびその周辺である。その
うち一
片は南宋の頃、福建省の建窯あたりで焼かれた。
片は瀬戸天目であろうと思われる。この唐物と推定されるものは、表
面に褐色の膜がかかったようになり、天目特有の光沢のある漆黒褐色
の出色が見られない。また、口縁部等の柚が光沢を失っており永年の
使用を思わせる。
裕
一
Qd
第28図 出土遺物実測図 ( 青白磁 ・ そ の他)
寸〆
\ 7ー ペ
\ - - -1 1
~
ビ
m
7 \ 26
Lj j 、ョォ
』三ご三三吉
大5�二:
29
- 63 ー
胎土は四片のうち二片が粒の荒い臼色で、他の二片は灰色・お
よび薄
赤色を呈している。胎土の白い和物とみられる天目は、調子が荒っぽ
く建窯タイプではない。型は中国の姿を忠実に写しているが、瀬戸か
美濃で焼かれた可能性が強い。おそらく天文から天正頃にかけて製作
されたものであろう。
棟の床面より出土した。同
唐物茶入 底部のみであるが二片第一
一
個体のものであったので接合できた。図上復元すると、高さが約九
五聞で茶入としては小型の部類に属する。腰か
側、桐部の直径が五・
ら畳付部にかけて曲線を描き、いわゆる丸底手になっている。底の直
径は二・
五mで茶入の底としては小さい。底は糸切となっている。
全体に白けた茶褐色を帯びる地軸がかけられているが、腰の部分に
素地を残さないでほとんど底近くまで軸がかけられている。この軸の
上にさらに白色のなだれ軸、がかけられていたらしく、底部近くに二つ
の臼いなだれが認められる。
胎土は薄赤色を帯びており、粒子が小さく焼きも硬く、胴部の厚さ
と比較的薄くなっている。器形、施軸その他か
Om
五ml二・
は一・
ら見て、元もしくは明代頃、中国で焼かれた渡来品と思われる。ただ
下手っぽいところもあるので瀬戸の上物の可能性も残される。
妬器類 ・その他
番新しい時期の第一棟に伴う査で、第一
中型壷 浜の館内では一
棟の
棟床面と同レベルの当時の表土面から出土した。出土箇所は第一
箇所に集中していた。口縁部
南側にあたる侃jネの部分で、破片は一
が失われて全体の身丈は不明であるが、約四五仰の高さを持つ小型の
査であろう。底部は曲線をもって外に向って立上り、底部より二七m
。
の胴部で最大幅約四四倒
を示し、
後曲線を描いて肩部を形成し口縁をも
ってこの曲線はまとめられる。口縁部は損われているが立上り部分が
前後の口縁が付いていたと推定で
僅かに残っているので、直径一四m
きる。
胎土は白けた小豆色をなし胎土内に黒色の一m前後の砂が意識的に
混入されている。器形には暗緑色の軸が全体に施されているが、胎土
に含まれる黒砂の部分だけは軸がはじけて軸面に小さなあばたをつく
り、これが一
種独得の色調を醸し出している。底部から六m
位までは
柑がかけられておらず、素地が露出しているが、緑色をなす軸のたれ
てが見られる。内外共に同様の施軸が見られる。
底部の直径は約二Omで、外側から見ると平底状に見えるが、底部
中央部では一・一mの高さまで内部にむかつてそり上っている。
底部から外に向かって立上る腰部断面には、腰部を巡る六条ほどの
帯状の窪みが見られるが、製作時の輪積みの跡と思われる。また肩部
には二条にEって帯状の窪みの跡が見られる。上段が六ケ所、九m
下
った下段には七カ所認められるので、二回に亘って窯入れが行われた
のであろうか。軸色は異なるが、形状、その他から古唐津もしくは古
唐津の影響を受けた焼物と思われる。製作年代は一
六世紀後半から一
七世紀初頭頃と推定される。
備前風大嚢 浜の館庭園部の泉水内の落ち込みと共に池底から一
括破片として出土した。復元した結果、器高六六・
、口縁部内径
五畑
を数える大要である。費全体はいわ
、肩部の最大幅五六仰
五畑
二二 ・
ゆる備前風の茶褐色を示し、施軸は見られない。肩部には黄灰色のか
び状をした自然軸が見られる。器面全体に箆による器面調整の痕がみ
--
64
l)
(註
られる。腰部ではなであげており胴部から一部にかけては、横なでを
主としている。輪積みによって器形を形成したと思われるが、整形が
完全になされておらず、器面全体に凹凸が残っている。胎土内には、
0・
五m
前後の小石が相当量混入しており、これが焼成時にはじけて
小石を中心とする放射状のひび割れを器面全体に残し、備前特有の地
肌を呈している。口縁部は、一伽
幅ほどの頭部を経た後、折返し口縁
を形成し、口唇部に到る。折返し口縁の断面は、内側でほぼ直立し、
外側はかまぼこ状に半円を描き頚部に続いている。
(註
2)
製作年代は、この破片の出土が泉水底部から出土し、二次的な煤の
付着が
認
め
ら
れ
ることや、第 一
棟建築以前の遺構に伴うものであるこ
となどから、一
六世紀前半頃備前で焼かれたものと推定される。
この曹は、水饗として使用されたものであろう。
三彩類
三彩小査 -区の北東部の青磁大皿等と同一
場所より出土した。
出土したのは、小査の口縁部から一
屑部にかけての三分の一
位で、胴部
・お
よび腰部は失われている。復元すれば器高が約一
O側
、口縁部直径
が五・
七聞で約一聞の直立した口縁部を持つ、おそらく高台を備え肩
部にはりのある小査であったろうと思われる。
胎土は土師と同様ム赤
褐色を呈するが、きめが細かく日本で採収した
土ではなかろう。口縁部の立上る際から、長さ一・
O八側
、幅0・
五
聞の四六の花弁状の造り出しが口縁部を取り巻いている。この花弁状
の造り出しは、菊の花弁にも似ているのであるいは菊座と呼ばれる飾
りかも知れない。胴部には、白磁盆子に見られるような中高になった
O一側程度の花弁状の飾りが上下に走っている。口唇部から三
幅一・
五m下の鯛部には製作の際、胴部と口縁部とを別々につくり、
ぎ合せた継ぎ目の線が胴部に沿って水平方向に認められる。
これらの半円状に造り出された飾りの上には、化粧がけしたと思わ
れる白色軸の跡、が残っている。この上にさらに鮮かなスカイブルlの
ガラス質の多い軸がかけられている。また口唇部から口縁部にかけて
は紫色の軸がかけられているが、外側から見ると口縁部をまわる一
本
の線となってながめられる。
この小壷も低温で焼かれた焼物で、第二土壌より一
括出土した他の
三彩同様、交祉焼であろう。ただ先のものより上物と思われるが、製
作時期等はやはり一六世紀前半頃であろう。
な
瓦質土器
緑軸陶片 長さ三・
三側
、幅一・
八仰の小片であるが、黄緑の軸
がかかっている。器物ではなく、何か物を形造った置物の破片と思わ
れる。第一
棟の床面に貼り付いた状態で出土した。当遺跡より出土し
た唯一の緑柑陶片で、時代・お
よび製作地は不明である。
緑柚陶類
ーコ
-区・
E区等全調査区より出土した瓦質土器片は、約三OO片にも
のぼっている。このうち、補修により接着できる部分も出て来て、現
在二OO片ほどの大破片になっているが、完形品は一
個もなく石膏復
元できるほどの破片のものも見られない。
これらの破片を器形別に分類
すると、火鉢と摺鉢がその大部分を占め、この外若干費、こね鉢の破
片が含まれている。この破片は、基本的には低温で焼いた瓦質の土器
片であるが、焼き方によって胎土が須恵質になっているもの、瓦質の
- 65 一
な
お
nL
定しない。色も須恵
もの、土師質に近く変質しているものなどあり一
器の色をもつものや灰色のもの黒色のもの檀色のものと変化が多い。
七個体分ある。器形は一
般に見られるよう
火鉢 口縁部のみで一
前後の火鉢が殆どで、一
個だけ背丈の低く、
な高さ四Om、口径四五佃
胴が極端に張り出した盟状のものが混っていた。
なおこれらの底部は平底となっており、三足の付くのが多いようで
ある。火鉢の口縁部には全国の中世瓦器に普遍的に見られる種々の文
様がみられる。当遺跡出土の瓦質土器の口縁部の文様も細分すれば数
多くなるが、主なる系統は七種に大別されるようである。
条の突帯が巡るのみで、
は 部直下に一
口縁
山 口縁部に折返し、もしく
無文)
無文のもの。(
口縁部折返しと肩部を巡る突帯の聞に、右三つ巴文が二個一
組と
なって数カ所に陰刻されたもの。(
右陰三つ巴文)
口縁部に菊花文が施されているもの。(
菊花文)
口縁部に円もしくは菊花を芯に、周囲を八角形の沈線で囲った文
(3
(4)
口縁部に×印を重らせて陰刻したもの (
菱垣を表したものか)
口縁部に正方形を小から大まで四重に陰刻したもので、その四角
には対角線が×印状に施されているもの。(一
種の雷文か)
川 口縁部に花弁、もしくは草葉を図案化した文様が施されたもの。
草花文)
(
間 口縁部を巡る二条の突端の聞に横幅0・
三m程度の沈線を縦に、
こないし三、もしくは四本を一
組として束ね、口縁部を巡るもの。
口縁部が破片の場合、口唇部はほとんど水平にカットされたものが
様
が
施
さ
れ
る
も
の
6) (5)
、 この口唇部の状況をもって胴部の張りを知ることができる。
多いので
その横断面が円の場合と器の円周
また脚部は、
四個出土しているが、
に沿って横長くなっている場合が見られる。時期の差か、 作者の好
みによるものか不明である。四個のうちの一つには、脚部の付根の両
端に沈線による右渦巻きが装飾として施されている。
摺鉢 出土破片は、全部で一五個体分ほどであった。火 鉢と同様、
土師質の各傾向を帯びたものに分れる。摺鉢およびこ
瓦質・
須恵質・
個見られる。須
ね鉢の破片と思われるが、片口となっているものが一
恵質のものは、摺鉢としての機能を果し得ょうが、焼きの悪い土師質
のものは果してその機能を果し得たものであろうか。しかし土師質の
胎土のもろい摺鉢にも、内側の底部から立上りに移り変る角の部分に
摺鉢の溝が消滅する程の摩滅がみられる。この部分は極端に薄くなっ
ているのでこの摩滅が破損の原因となったのであろう。
これらの使用痕は底部より立上る部分にのみ集中し、鉢全体には及
の摺
んでいない。この変換部分は、角をなして折れ曲るものと、現代
鉢同様なだらかな曲線をなすものと二種の形式が認められる。
前後で底
出土した摺鉢の平均的な器形は、器高一一側、口径二七m
番多い。
部一二1三m程度のものが一
この外備前特有の様相を呈する摺鉢片が二片出土している。口縁部
の折返しの状況等からやはり室町末頃備前で焼かれた摺鉢と思われる。
以上の摺鉢の外に同様の瓦質土器の口縁が五個体分ある。このうち
前後のたらい状の器である。
五m
前後、器高が一
四個は口径が四七m
これらも底には三足を持つ器であろう。摺鉢と同様、口縁部直下に菊
花等の文様が施され、二条の三角状の突帯が巡っている。胴部の形状
--
66
7
TU8
第29 図
出 土遺物実測図 (瓦質 土器 と 妬器類)
一 -i 三J
4
14
司i
ro
一円ハυv
--
68
pi勺
1!主;Tiーとd
之ア ペ;マ
一日
D3 l
J
/
〉
弓
げ
'
品
目
予
一一致
9
H\
、
栄
一三
1
一一九
一一百
円剥二
/
J
r
c
一
一~
な
ご
ー一
だ
一ゆ
一
ヨ
一
へ
l\よいしvdw
k
J
:
;
!
F
h
w
一一へd
と
?
!
fi
E
L
ヘ\
、 ノヘ
11
J
\
mHuqMμ
メ
ー
ー
一一
/
/一
「//
'/ノC
Iti
--: /
d'
'r
,,F
…ぺ7h
Jr
//
2
/
/3
4
i
i
1
1
5
ー
とiλ1
JR
6
///
7
第30園 出土遺物実測図 (瓦質土器)
して外に聞き口縁を形成するもの、
としては、底部からわずかに内密守
立上りから大きく外に聞き口縁直下で立上りが急になり、口縁部を形
成するもの等に分けられる。共に物洗い、洗顔等に使用されたものと
思われる。
この外口径が四三m
前後の曹の口縁部が出土している。瓦質という
より須恵質に近い焼きで内部は黒色、外部は灰色をなし外側の器面全
八伽
方の 格子目が幾重にもたたき付けられている。胴部の
角
体に0・
張りが激しいので全体的な器形は、背の低い胴部の極端にはり出した
費であったと思われる。水曹として使用されたものであろう。
須恵器および須恵質土器 発掘区域の全域に亘って二五片の須恵器
片の出土を見た。査や費片が多いが、裏面に青海波等のたたき文が見
られる純然たる須恵器は少なく、たたき目のない破片が多い。器形は
外に杯蓋部、査口縁部等が見られる。
この外、
底が直底で立上りが二m程度の須恵質の盤も見られるが、
須
恵器・
須恵質土器共に比較的新しい時期のものが多い。
費がかなり大型で重量
註 1 製作地は備前と思われるが、この
もあるし矢部の山中まで運ぶために相当の労力を用した
であろうことを考える時、未発見ではあるが地元に備前
系の焼物を製作する地窯が存在したことも考えられる。
註 2 福井県一
乗谷の朝倉氏家臣の館では警の胴部を地中に埋
めこみ水費として使用している。
土師質土器 遺跡内のいたる所から多量の出土を見るのが土師質
土器である。その殆ど破片であるが、数度に亘る調査期間中出土し
た破片は、四六m×六二m×一
九仰の農業用の収穫箱に三個分はあり、
F
調査後の建設工事中にも相当量の破片が出土しているので、その総量
は莫大なものと思われる。収納したこれらの破片を復元すれば、おそ
以上の器
らく数千個にものぼると思われるが、整理の都合上三分の一
身を残すもの二OO個を選び出し復元を試みた。
これらの破片はすべて皿型の土器で、他の器形を有するものは殆
ど見られない。土師質土器の分類については種々の方法があろうが、
製作法、製品の用途を知るためにこの二OO個の土師質皿について口
刻みで一園田まで
径で分類してみた。分類の目盛りは、六伽から五醐
とし、その各々の数値に近い箇所にその個数を記入した。ただ、口径
の計測については復元時や計測箇所による誤差、中間数値を示すもの
の四捨五入等により若干の誤差はまぬがれないと思われるが、大方の
傾向は把握できよう。
八mの皿であるが、
第5表によると、最大の口径 有するのは二二・
大き いので、他 の皿と性格を異
てけ
これは器形が他と比べるとずば抜
にするものと思われる。このため、これを除くと浜の館出土の土師質
五mまでの聞に納まると考えてよいだ
土器の口径は、六mから一二・
ろう。六仰の口径しか持たない四個の皿は、深さも浅く、燈明皿にも
飲食にも不適であり、その用途は不明である。しかし、四個のうち一
個は耳皿であるので、あるいは他もこれに類似する用途を持つ器であ
った可能性がある。
特大と極小の口径を持つものを除くと、好んで製作された口径は、
01一一聞であることがわかる。このため
、大皿で一
小皿で七l八畑
器の形は、ほぽ大と小の二種で用途を達し得たようである。
このうち燈明皿として使用されたと思われる油煙痕の残る器が、二
- 69 ー
1 か所
極小 口 径 の皿
iロ』
14
7. 0 "
26
8
4
1
10. 0 "
14
1
9. 5 "
4
5
"
6
"
7
"
8
"
00個中二七個認められる。これらの皿は第1表で見られるとおり、
口径が七!八聞の小皿に集中している。また、欠損部分の多い皿の場
合、油煙痕の部分が失なわれていることも考えられるので、燈明皿と
して使用された皿は、この表よりさらに増加するものと思われる。
径が大きくなるにつれ、油煙痕の付着するものは減少してくるので、
大皿は、日用雑器として飲食に供せられたものであろう。大皿にも油
煙痕の付くものが三個みられるが、これらは共に形状がいびつになっ
ているものや、焼成が悪く地肌がはげてざらざらしている物等、飲食
用として、不適当なものが燈明皿に転用されている。
これらの燈明皿として使用されたものには、油煙痕がみられるが、
一
個体に残る油煙痕の数は第6表のとおりである。
この数も一
回の使用
により一
箇所油煙痕がつくと仮定しての計算であるが、実際同ピ箇所
で燈芯を引き上げ使用した場合もあろうし、数え方にも問題があるの
で、この数が即、使用回数とは限らないが、比較的、使用回数が少な
かったことが推察される。しかも破損していない燈明皿も相当出土し
ているところから、廃棄される理由は破損とは別に、例えば、内部の
燈油の染み出し等にあったのではないかと思われる。
その他、燈明皿や雑器として使用した以外に、特殊な器形をなす皿
の両端を内に折り曲げた土師質の皿がある。口径六仰の小型の皿で、
一
般に耳皿と呼ばれるものであるが、従来箸置きであろうと考えられ
ている。同形をなすものが、同時期の朝倉居館跡からも出土している。
- 70 ー
内 1 個 は耳皿
5
6. 0 "
27
200個
計
合
27
8
6. 5 "
3
3
8. 5 "
1
35
31
10 か所以上
計
9. 0 "
7
8. 0 "
"
29
"
7. 5 "
9
1
10. 5 "
4
1
25
"
1
11. 5 砂
11. 0 "
3
l
4
4
1
1
12. 0 "
6
12. 5 砂
"
5
13 . 5 砂
13. 0 "
2
i由短痕の あ る も の
数
油 煙 痕 数
9
考
備
個
口径数値
1
特
( 特大殊口な径、ものの皿か }
土師質土器 口径一 覧 表
個 数
13. 8cm
第5表
燈明皿i由煙痕一覧表
第6表
口
1 て斗グ
ト _.�
- ----;!)
l
- .7
\
\
!
ド ;d h斗:こず;
/
1f
l: ::: ::平フ :
し二二J二J;JJ 」人lJ
\��グ
27 寸 m \�
U7 σ 7
:二弓:主主3;:?: :
,? 1\J ll G J H
2 X4M :ぃ JJ
U 1U
\ 17 1 3 勺 7 よ | :•-;;;1 '"\.. ' 1 ' .7
\�弓
〆 3竺と
... -
s〔し1 〆 ぞ-L〆
て1
/
1 5 ℃玉ヲ s\.�l / 3 》ミ〆
.:7 \�d
\
\ j二写グ て
一 J
11cm 巳 ;;J
弓'
斗45三角
.7
てフ ヌ
青磁に次いで相当量の白磁片の出土を見た。器形から分類すると碗
および小皿斤で占められているが、なかには大皿や湯呑みと思われる
竹筒状の器形をなすもの、波状口縁の鉢状の器形をなすもの等も若干
含まれる。時代は明代の白磁が多く、南宋代のものも2、3片見られ
確自
れる。庭園部の恥3巨石周辺より出土しており、一
五世紀後半頃のも
のと推定されるが製作地等は不明である。また李朝白磁片も一
O数点
発見された。
この外、白磁と呼ぶにはふさわしくないが、白軸を塗布した低温で
焼かれた陶器片や、ぬの越しした胎土を持ち白軸を塗布した土師質
の器類が出土している。産地等は不明であるが共に館内で祭杷に使用
されたものであろう。
ηL
司t
青磁、白磁に比べると染付の出土は少ないが、約四O片ほどの出土
がある。完形品は少ない。その殆どが、 碗および皿等日用雑器一片が
多い。時代での区分では、明代末ごろのものが最も多く、清代初期も
のや、元代の染付も若干認められる。
元代の染付は第一
棟西側の下部遺構床面より出土したもので、これ
は第一
棟時代以前の家屋の柱穴に伴なうものである。第沼図の1およ
瓶の肩部で同一
ているが、
個体の破片と
び2で長さ五佃前後の破片となっ
思われる。外面の胴から肩部にかけてやや青味がかった自の素地に黒
ずんだ車色で文様が描かれている。上下二か所に走る二条の線の聞に
渦巻き文が連続して巡っているようであるが、破片のために何の文様
かはっきりしない。
しかし地肌の色と黒ずんだ藍色の文様は、
元代の染
付の持つ特有の感じをよく表している。内面は口縁から肩部にかけ施
軸が認められるが胴部には見られない。この二片の外、皿の底部片が
出土しているが文様は不明である。
明代の染付は第認図の3i日まで(
8を除く)
の破片でこれらは明代
の後半頃景徳鎮で製作されたものと思われる。肌が灰白色がかつてお
染
付
(青
花
)
ーは、口径一
五1二ハ佃
前後と思われる碗の高台部である。南宋代
のもので福建で焼かれた白磁であろう。胎土は白で腰部および高台部
を残すのみである。 内部には一
面に小貫入が認められる。高台部裏
面に 「
子母」もしくは 「
子女」の墨書が見られるが、浜の館内で書き
込まれたものであろう。子母用という意味で使用者を限定したものか、
神事を司る際の役職名であるのかわからない。
2は、口縁部に幅 一・
四佃程度の折返しの付く口径一
五i一
占
ハ側
程
度の碗であろう。314の白磁片も口径二ハm
前後の薄手の碗である。
4は全体的に器肉が0・二冊と薄〈、独得の様相を呈する碗で内外の
肌面に粉状の黒点が見られる。
以下、
肌面が白灰色および白麦色を帯びる碗皿類が多いが全般的に器
肉が薄いものが多い。口縁端を折返した厚手の碗はこの白磁碗のみで、
他は高台が高く器肉は薄く口縁端付近がいちりるしく外反する碗類が
多い。これらは明代の後半民窯で焼かれた雑器類で常用器として多量
に輸入されたものの一
部と思われる。
また、口径一一・
三m
高さ二・
三仰の割高台をな十小皿二個が見ら
れる。胎土は荒く、淡黄色に近い。器面はガラス分のない白紬がザラ
ザラした器肌に施されているが、恐らく生がけした軸であろうと思わ
る
会う 、 盛3 \〈ヨλ;JJJ
湾 、 一?ー �-"71
h y z y マ ヌ ト 十\
LbY
苅 .0 D
17
也品牛三豆ク
一J
口
-
B
- 73 -
、S7l v 川 〆
ヌ
26
10 咽
b
り、描かれる文様の藍色は槌色したように淡い色調を帯びる。皿の破
片が多い。
第辺図の白から却に
清代初期の染付片も五1六片出土している。
該当するものでやはり碗皿等の日常雑器類の破片が主なものである。
素地はやや青昧がかった澄んだ白色をなし藍色が明代のものにくらべ
明るく鮮かになっている。皿等に見られる文様は前代の唐草の文様を
踏襲したものもある。小まめな斑点状の意味のはっきりしない文様が
多くなり、口縁部や、高台部等の内外には好んで数条の線が巡らされ
れている。製作地ははっきりしないが恐らく広東省か福建省付近で焼
かれたものではなかろうか。
五醐と
特に8と加は共に碗の口縁部であるが、器肉の厚さも二・
薄くなり色も白に近くなめらかで、光沢を帯びた肌合となっている。
鯛部に施された文様も消え口縁部の内外および見込部を巡る圏界線だ
けとなっている。これらは清代でも更に時代の下る染付と思われる。
製作地は不明である。
鉄製 品
鉄釘当遺跡より約六五本の出土を見ている。遺跡全体から出土が
棟床面、第二棟の下部遺構部分、庭園泉水部落ち込
見られるが、第一
み内等からは特に集中して発見された。
出土個所が過去、水田として代用されたためか全般的に腐蝕が激し
い。釘の長さと出土本数は下表のとおりであるが、腐蝕等により折れ
たり曲ったりしている部分も含まれるので若干の誤差はあろう。出土
番多いのは一
寸五分から二寸程の釘である。
した釘で一
これらの鉄釘はすべて断面が四角形を呈する角釘で頴の部分はほぼ
直角に打ち曲げられ
たとめの部分が施さ
れている。
釘の規格から考え
棟家屋跡か
ると第一
ら出土した一
O数本
の釘は二寸前後のも
のが多く、四寸釘は
第一
棟下部より発見
された前時代の柱穴
家屋に伴なうもので
ある。四寸釘はすべ
て中途で折れ曲った
状態で出土した。こ
れは長さが四寸、頭
部直下の断面が一m
角もある大型の釘であるので使用の際折れ曲がる
からであろう。
この外、長さ五・
一
二m
幅三・
五m
厚さ四仰の用途不明の鉄片や長ぎ
四仰の万子片、また第一
棟家屋からは短万万身が出土している。他に
用途不明の鉄棒や鉄浮三個がI区より発見されている。
4
2寸5分
3
"
2寸
"
1寸5分
"
1寸5分
"
1寸2分
銅 製 品 および 飾 り金 具
釘
予備調査の際にI区から太万の鯉口部分の金貝・お
よび菊花文を形取
った金具が出土したP
鯉口部は幅が三・六側
、長さが二m程度の残欠である。菊花文は直
- 74 -
17
"
角
21 片 判定の つ か な い も の
ワ
,ア
6
9
5
内2折
本 は破片
全
部 れ曲 っ て い る 。
4寸
考
備
数
称
長 さ
名
鉄釘の規格
第7表
一V2
日
第33図 j柱穴 7 ・ 柱穴41 のふ た つ 1
1の餅宰 は E 区出土の も の 。ノ
rmt
i
司・・v
全
面
に
鉄
津
状
の
付
着
が
認
め
ら
れ
奇ν
5 .3
溶
し
た
容
器
も
し
く
は
ら
か
の
鋳
型
三個×一・
七叩ほどの破片となって出土した。硯の
石製硯片 七・
右側手前の角の部分である。一般に見られる長方形の硯の破片と思わ
れるが、時代その他については不明である。
石鍋 浜の館の泉水内の落ちごみ内から焼土に混って三点の石鍋の
破片が採集された。いずれも滑石製の石鍋である。
第沼図の却は一一・
七佃の破片となっており、帯状突起が造り出されている。
四四×五・
九佃で底
部分は0・
二六のもっとも薄い
図おも同様の破片である。
第mM
部に近い個所であろうと思われる。三点とも厚さ、色調など異なるの
で別個体の破片であろう。帯状突起は肩部に設けられており、室町期
に多く見られる土製羽釜等に類似した形態を持つ石鍋であろう。再加
工は行われていない。
何
径二・一仰の円形をなすもので中心部に0・
六×0・
四mの長方形の
孔が有り、この部分から放射状に花弁が手彫りされている。太万の飾
り金具として使用されたものと思われる。共に銅の素地に金を張った
もので緑舗の間より金張りの一部がのぞいている。この外、長さ八・
八畑、幅0・
四個の棒状の銅製品の残欠が出土したが、雄官
片であろう
か、また金張りの銅製容器片や摘みのついた銅製の容器の蓋片が、庭
園池底部より出土している。また第一
棟北側からは銅製の奔が発見さ
れた。元は金張りであったらしく渡金の跡が僅かに見られる。
耳描きが付いており、他方は欠損しているが、全般的に古い型式を持
つ奔である。
倒防開問
言く 詰を 部4 鱒騨師 伊"'-­
不
明
で
あ
る。
銅製品としては洪武銭、永楽銭を始めとする。銅銭三O数枚
この外、
が出土している。
その他の
遺物
黒色土器 高台部の直径が六・
三個の、内部のみが黒色を呈する碗
の高台部が一個出土している。畳付部は幅0・
四佃の平坦部分をつく
肉 は薄い。平安時代後期頃
り外部へ反る。胴部にやや丸味が見られ器
の製作と見られ、直接浜の館に伴なう遺物ではないようである。
三個程度と推定される。口
陶質仏花器 口縁部径が五咽、器高が一
縁部および肩部の一部を残す陶器片が出土した。口縁部は折返し状を
なし、肩部で五個程度外へはり出し、やや底部に向つですぼまりなが
二叩幅の頭部から肩部へ控え目に装飾を兼
ら竹筒状を形成する。二・
ねた耳状のつまみが左右対称に付属している。肌面には黒褐色の鉄柑
が施されている。仏花器もしくは花瓶として使用されたものであろう。
九叩の破片であるが、元々は腕状
鉄津の付着した土器片 厚さ0・
- 75 -
組・・崎臨
の
土
器
で
め
つ
た
と
思
わ
れ
る
三
緑
鋪
も
見
ら
れ
る
の
で
破 あ
片 る
が い
と
も
考
え
ら
れ
る
が、
方
第34図
出土遺物 (鉄製品 と 銅製品 の 一部)
3
z
z
@
5
4
f
�
�
�
図
�
� �
O
縮尺 1
盆==1
: 20
5 cm
25
23
ζ�
po
弓d
�
�
�
四
却①- り
@
Gl
22
-8
6
柱穴底部の根石の状況 ( 1 区)
IfN
第35図
集石遺構 と 円 型土墳
第35図(2 )
(庭園部所在 )
1. 平面図
-A
A-
2. 断面図
A' -
白粘土 に覆 わ れ た 部分
第 一線所在面 (-60)
白 粘 土 層
自 粘 土 層
黄色土層 (地山)
o
黒色土層 (地lul
1m
I 区 の層序 (第一 ト レ ン チ北壁)
第36図
①
­
ーーーー一一ーー止-一一一
=
安ン(に←
J\一三④-一一 一一一一一
一一一一一
一一~一一ァーへγf一一一一 4一一ー一一一一
。 一ー~一一一�
〈三ごご
./一一一一}ーー一一一←
(ー示4λャ←
一「ー
!⑤
/(
\- 一 一 一 - 3- E 辰五ぇ.
ぺ---グ
- -- 」イ
-;:==-
i
i ⑥..
�
1 m③
;k
ゴ
三うへ:
(通勤場 造成工砂)
② 灰 色 土 ( 水 田 土)
③ 混合土層 (黒 ・ 黄 ・ 灰色)
④⑤
焼土木炭層
白 粘土混合土層
⑥ 黄色土 (地山)
三三三三三
- 77 一
(
E
区
)
一次
調
査
発
掘
区
の
概
況
章
、
第
ハ門旧地形の復元
浜の館の遺跡は、地形上から見ても現在の矢部高校の敷地とほぼ重
なり合った範囲で存在していたと考えられるが、四八年から四九年に
かけて実施した一
次調査区域とは二OO咽程の段差があり、この段差
部分の石垣によって現在も校舎部分と運動場部分とはっきり区画され
ているため、それに従い遺跡も運動場部分をI区、校舎部分をE区と
区別して調査を進めて来た。今回の調査はE区の校舎部分についての
発掘調査である。
この部分の地形については、矢部農林学校の建設以前の地形と現況
では相当の地形の変貌が予想されるので、周辺に住む古老達の話の聞
き取り調査を行 い、学校建設以前の地形の復元を行った。幸いな事
に学校建設以前の地形は、明治初年の地形図上に残っているのでこれ
を元に作業を進めたが、この件については大西教哲氏の詳細な地形の
考証が別項で述べられているので参照されたい。
さて、これらの旧地形の復元図によれば、現在矢部高校の校舎の並
ぶ地区は裏手の矢村神社の存在する丘陵の斜面が北から南にのびてお
り、現在の第二校舎・お
よび定時制校舎部分は、この斜面部分を削平し
平坦部を造成しながら校舎を建設してきている。このことは、現校舎
建設以前の矢部農林学校時代の校舎配置を写した卒業アルバムの写真
口百
句i
でもはっきり確認できる。この事実からH区にお
い て遺構の存在が予
想され得るのは、第一校舎敷地部分から玄関、泉水等を含めた前庭部
のみだけということになる。
このため第一校舎敷地をも含めた前庭部にグリッドを設定し、調査
の鍬を入れることにした。ただこの第一校舎は管理棟となっており、
玄関テラス部分・
その他とコンクリートを打った部分が多く、
泉水・
仮に遺構が存在しても相当の破壊をこうむっていることが考えられた
が、この部分が、周囲民家より一
段高くなった部分であり、すぐ土手
の下を昔日旧道が東西に走っていたことや、昔から民間信仰の対象と
なっている弾正さん
と呼ばれる五輪の塔
の散乱していた箇所
そ
の存在等があり 、
れらの事実を総合し
てこの部分をE区の
発掘区域とした。
第一
校舎跡の東側
部分からほぼ二m間
隔で発掘を開始した
が、E区の層序関係
は別図のとおりであ
第一層は、黄色土
と黒色土が混り合つ
る
柱穴に残 る工具痕
第37図
第
耕
一一戸
刊
。
〆
、JO
えノ(
\
心
mw
o
/
ノ/
〆
/O
国
初
第
N
ifHUri-i
第二区遺構配置図
f
/
コ
正》
ゅ b肝戸3 b
J
v MW V
E
OD
oo
vhJ
l
l
l
I
R
巾再三:暗唱
. -Jー ; ; 1177!Jr1 \<.y αc'b.
J 一一?J3 m D on QJJici OO
2
J
i
iJ
、 ヅ
0
第一
�も
。
O
W
ο おO
-(J) 均 三 j mo:
v
跡
礎
基
部
関
舎玄
酬
ν
g
tむ O�O
o よ JchO ぷN A Q品川I( (
�
\[/
30
x oc
O
ミ。
��l
\ 01 命t::)
。
W' Y マ tbo o Q…
ぷRX dJ1
1r-' V
、d
o
鳴門(;-;s5I e判
rn9 f�注桝ヤィσ V
� ri .'Q' .•T�. ' ;5 �.ij�����;�Oi θ 。 ー も Og
r《 ( ;oii O げ
U oEt�JMD
G ;v
l
i
a
J
J
J
ト
�. ..
íì
0
W 白 :t ;
\
コ
0
《
O
久J
〆
?。 。
O
O
φ cb
o必
命。
O GL
&
o
O
υ
A
f\13 叫
_
拡 \ _. -
州\
λ切
Ft7 1
�
ð
11
(。
O E ?
よ『
、'"旬、
O
U, プ 1:::- \
戸、~
ふ-Ji
。
O つ .0 の
む 《合
も
弾正 さ ん ( き る すべ り の木)
q門主
O 1
2
3m
ることを物語っている。H区で遺物の少ないのは、第四層の地山であ
る黄色土上にのっていた遺物包含層が、元禄期頃に行われたと推定
される水田造成の際に飛ばされてしまった結果だと思われる。
このように度々の地形の変還を経ているため、遺構の存在は不可能
かと絶望しかけたが、館の設置時にも小規模な削平が行われ、地山の
部が当時表土として露出していたためか、もしくは家屋の掘立柱の
一
住穴を異常に深く掘りさげたのが幸いしたためか、第四層の黄色土に
際立った黒色で柱穴が確認され、当時の家屋のプランの復元に可能な
遺構を把握することができた。
これらの柱穴群は地山の黄色土にくっきりと深く掘りこまれている
ため、古い時代の住居跡と異なり、柱穴を見落したり、判定に苦しむ
って掘り込まれた住穴のほぼ全部を確認す
こともなく、過去数回に百一
ることができた。このため、以後重なり合った家屋のプランの把握が
完全になされることになった。またこの住穴群から、この場所に少な
って家屋の建て替えが成されていることも確実となっ
くとも三回に百一
当時の遺物も、柱穴の掘り込み部周縁や、柱穴内部に残っており、
遺構の年代判定がより可能となった。
なお発掘の結果、黄色土の地山は高校の北側の第二校舎および定時
制校舎では、すでに表土として現われており、ま た第一校舎の西側一
帯でも表土となっており、校舎周辺部を除きE区で遺構が存在するの
は、第一校舎前庭部のみであることが判明した。
一 79 -
た土で厚さが二八佃ある。旧校舎時代の運動場部分にあたり、運動場
造成の際の盛土と思われる。第二層は、水田に見られる灰色の粘土状
を呈する水田土で厚さが二Omある。この地域が水田となっていた時
代の土と思われる。この水田土のなかから瓦器片一
片がはじめて検出
された。
また、この面の発掘を進めていくうち、地籍図に見られる水田時代
の睦が現われ、地籍図の位置と現地形での住置が始めて確認された。
第三層は、やはり赤黄色・
黒色土混りの土で、前時代の客土と思われ
る。
この層が一
八叩程続いた下にはこの一帯に拡がる地山の明るい黄色
土が第四層として横たわっている。
これら四つの層は、この箇所の土地利用の変遷を年代的に物語って
いる。第一
層の黄・
黒色土混りの土は、旧校舎建設の際の土地造成を
物語っているし、第二層はそれ以前の水田として使用されていた時代
を示している。第三層は畑地から水田へと地目が変遷された時の土地
造成を示している。この時期は、・お
そらく浜の館が遺棄された時期か
らほど遠からぬ江戸時代の中期あたりと思われる。このことは第三層
に含まれる陶磁片が物語っている。
元禄期の畑地から水田への転換時には、水をはる関係上相当大々的
な地形の改変がなされたであろうし、この浜の館跡地が周辺より高地
となっている点などから、周辺にはりめぐらされた用水路の完成と相
侠って成されたものと思われる。
遺物の出土状況をI区とE区で比較すると、E区における出土は
きわめて少ない。このことは、現矢部高校の校地の主要部をなすふた
つの平坦部の形成がI区では埋立て、E区では削平によりなされてい
た。
(II区)
巨 大 な 柱穴 ( 直径13ûcm)
発
見
さ
れ
た
遺
構
形の改変が行われているのは明らかである。おそらく、この一段高く
なった箇所にも何らかの建物の存在が考えられるが睡滅してしまって
不明である。
発掘の結果、前庭部より発見された遺構の主なものは、大小さまざ
まの住穴と、二つの長方形をなす土拡、それに付随する小溝などがあ
る。以下順を追ってこれらの遺構について述べていくことにする。
底部 に 平 石 を 敷 き 、 間 隙 に 石 を 詰 め た も の
(II区)
今回の調査対象地のE区では約五OO穴ほど
柱穴は大小さまざまで、
- 80 -
^
、
家
E区で遺構が存在したのは、第一
校舎の玄関部ちよび、前庭部を中
心とした一帯で、第一校舎と第二校舎の聞の中庭に近くなると、地山
である黄色土が 表土にせまり第二校舎では表面化している。この中庭
の東方一
帯は、地元古老の話によると周辺より約一間ほど高くなった
水田が存在していたといい、こ の水田の範囲は旧地籍図によっても確
認することができる。このため、中庭一帯が学校設置の際に大幅な地
(u区)
柱 と 柱穴 と の 間 隙 に 石 を 詰 め た も の
柱..."
一
←)
発見 さ れた 各種の柱穴
第39図
屋
発見されたが、その柱穴の構成する家屋の個々により規格が異なって
いる。しかし平均すれば直径三五側、深さ七Om前後 (
地山面より)
のものが一
般的である。現在図上で新旧六つの家屋の柱穴が重なり合
って存在しているのが判明している。新しい順にA・B・C-D-E
等の符号をつけて呼べば、B棟の柱穴は殆どが直径一
OO 畑
、深さ一
二Oα程度の巨大な柱穴である。これらの巨大な柱穴は別としても、
先にのベた一般的な柱穴は深さが地山に掘り込まれた分だけでも七O
佃もあり、排土するにも困難を極めた。これらの柱穴の壁には親指大
の小溝が縦に二m程度の間隔をもって残っているので山芋掘りに似た
第訂図参照)
特殊な用具を使って掘ったものであろう。(
なお、これらの柱穴の掘り込み部分に直径一
五m大前後の礁
Ol一
が詰められているのが相当数確認されたが、これは柱と柱穴との間隙
にかませたあ
石ろ
で う。これらの石の存在により、使用された柱が掘
られた住穴より若干小さかったことが判るし、また当時の表土が現地
山の黄色土面よりやや高い所に存在したことも推定できる。またこれ
らの喋とは別に住穴の底部に平坦面を持つ石が敷かれているのが数例
見られたが、これは柱の沈むのを防ぐための工夫といえよう。この例
は新しく掘った穴が旧住穴と重なった箇所に見られる。また大きさの
等しい柱穴が落花生状に重なり合って一間ごしに続いているのがある
が、これらは新旧二つの家屋の柱 穴が重なり合ったものと考えるより
床下の根太受け等に利用された同一家屋の柱穴と考えた方がよさそう
な例である。
これらの柱穴内に詰っている土は、黒褐色を帯びた腐植土であった。
おそらく掘立住の腐植したものであろうが、木柱の根部の残存は認め
られなかった。
以上のように、E区においては掘立桂を納めるための柱穴だけで、
礎石は存在しなかった。浜の館における家屋の基礎部についての主
流をなすものはやはり掘立であり、-区で見られた礎石を使用するも
のは異例のものであったのかも知れない。しかしE区の建物群が阿蘇
大宮司の神殿であり、-区の礎石を持つ家屋が居館であったと考えれ
ば、神事を司どるE区の建物群が伊勢神宮と同様、掘立であった可能
性もあり得ることである。
81
各棟の
プラン
A棟柱穴プラン 校門部分から見て第一校舎玄関のすぐ西側から発
見された家屋跡で住穴跡から復元すると三間四方の正方形をなす建物
である。各柱聞が一
六omで一辺の長さが四二Omを数える。建物の
各面は、東西南北の方向にほぼ一致し一二本の立柱から構成される建
物である。柱穴の深さは九Om前後で西側の肋2と4の柱穴底部には
敷石の設備が見られる。この三間四面の内外には小柱穴跡が見られる
が、この建物に直接関係あると思われるものは認められない。従って、
この建物は一二本の立住からなる建物ということになり、その特殊な
プランから一
般の家屋とは到底考えられない。・お
そらく、館内に存在
した大宮司が祭杷を司った神殿関係の建物ではなかろうか。一見すれ
ば近世に見られる観音像等を安置する小堂宇の感ピがするが、遺構に
伴って出土する遺物は中世に見られるものばかりである。
なおCの測定では四四Oプラス・マイナス七五U(
四三Oプラス・
マイナス七五U)となり、西暦一
五一
O年という結果がでている。
--
第二区 に お け る 新旧二つの建物柱穴 プラ ン
第40図
ま
み
B棟柱穴プラン B棟を構成する柱穴跡は三三個ある。すべて立柱
跡と思われるが、この柱穴を元に、この建物のプランを復元すると、
たこ
桁行七問、梁間四聞の長方形の平の部分を南面させる建物であっ
とが判る。一
梁間共に二OO仰を数える。いずれ
聞の柱聞は、桁行・
も柱の芯から芯までの数値であるが、現在も用いられている本間用の
聞を取り、他の各々の
一間とほぼ等しい。桁行、梁間共に同数値の一
住聞を同数値としていることは、畳等の縦横自由な敷替えを可能なら
しめており、このことから内法柱間法の採用が考えられる。
この建物の総坪数は二八坪であり、-区で調査した礎石を持つ第一
よび北
棟とほぼ同様の規模の建物である。三聞からなっているが西・お
側は縁であったと思われる。
この建物の主要部分を構成するのは先に見られたA建物と同様のプ
ランを持つ三間四方の部分である。この部分の柱穴はきわめて大きく
深さが一二O仰を計る巨大な穴である。柱穴の底部
直径が一oom・
は、地山の黄色土をうがち、黄色土に小磯の混り始める個所にまで達
している。この事実から、相当巨大な柱が立並んでいたことが推定さ
れ得るが、これ程巨大な立柱を必要とする建物は知伺なる性格を帯び
たものであったろうか。
この三間四方の正方形の部分はこの建物のなかでは西側寄りに設け
られており、東にはこの部分に付属して二
つ の部屋が設けられている。
西から北側にかけてはこの三間四方の方形の部分を取巻くように、鈎
状に縁が巡っている。この周辺を巡る柱穴列は方形部分の柱穴よりや
や小規模となり、直径が七02別後、深さが八Om程度となっている0
そらく、阿蘇文書等にあるひさし柱ゃ、軒柱と呼ばれる柱が立てら
・お
- 82 一
れていたものであろう。出入口は間取りの状況から考えると東側の妻
の部分にあったと思われ、-区の第一
棟と同様奏入りであったと思わ
れる。瓦が出土しないところから、屋根は萱葺もしくは桧皮葺だった
のであろう。
なお、この建物は先のA棟とやや方向にぶれを持って重なり合って
いるが、A・B二つの柱穴の重なり合っている部分が一か所あるため
この箇所について精査した。この結果、Bの住穴にA住穴が掘込まれ
ており、B柱穴の跡には地盤が軟弱なため、改めて小磯等が投入され
ている事実が判明した。このことから、B棟が何らかの理由により減
失した後、A棟がB
棟に見られた付属の
二聞を消失し、三間
四方の主要部のみに
なりながらほとんど
位置も変らずB棟の
上に重なって再建さ
れたことが解る。た
だ、再建されたA棟
はB棟と同ピ三間四
方のプランをとりな
がら一聞の長さが二
ら一六Om
com-か
へと短かくなってお
り、之のため、全般
昭和初期頃 の第二区の状況
第41 図
的にB棟より小規模となって引き継がれている。
小規模になりながらも三間四方のきわめて特殊な間取りを引き継ぎ
しかも、ほぽ同じ場所に重なり合って再建されている点などから考え
ると、この建物は何かきわめて伝統的な役割を担うものであったこと
そらく、阿蘇大宮司が館内で神事を司る建物の
が推察され得る0・お
ひとつだったのではなかろうか。なお、Cの測定では五二Oプラスマ
イナス八O (
五一Oプラスマイナス七五)という結果が出たが、これ
は西暦 一四三O年にあたる。
C建物柱穴プラン B棟の柱穴プランの東半分に重なり合って存
推定)の南北に長い建物である。二O本
在した桁行三問、梁間三間 (
本は不明)から構成される建物で桁行の中聞が二OOmで
内一
の住 (
Om、梁聞の全長は五三Omで住聞ははっきりしない。ただ、
全長が一
東側の桁行に沿って六つの柱穴が走っているが、この柱列の柱聞は一
四omで桁行の住間より短くなっている。おそらく、この部分は縁の
板張り部分であったのかも知れない。
その他の家屋 以上にかかげた他にもこのE区には、多数の住穴か
ら構成される新旧の家屋が数棟重なり合って存在するのが確認された。
家屋のプランがほぼつかめるのがこの他に少なくとも三棟は存在して
いる。なお、今回の調査においては住穴の落ちこみが地山の黄色土に
掘り込まれており、柱穴の確認が比較的容易にできたため、掘られた
柱穴の見落しは発掘区域内においてはほとんど考えられない。また、
実測図作成に充分の時間をかけ精密を期したことから、今
二O分の一
後の図面上での家屋復元が充分に可能である。これらの理由により、
その各々についての記述は省略する。なお柱穴プランの実測図は第却
- 83 ー
{註 )1
。
い
た
れ
さ
照
参
で
図
の
た
い
お
て
げ
掲
に
行
す
の
確
れ
認
た
さ
家
屋
と
の
プ
の
し
特
ラ
て
ン
は
、
色
に
平
屋
の
各
々
家
棟
る
両
端
持
つ
列
行
こ
を
す
と
る
、
平
に
一
五
O
な
一
七
い
し
度
の
O
幅
m
程
の
柱
張
は
り
板
の
縁
は
も
廊
し
下
く
部
分
で
あ
ろ
う
と
げ
ら
れ
る
。
こ
の
住
列
聞
が
あ
つ
の
ら
が
る
れ
見
。
こ
う
の
な
よ
の
棟
施
に
こ
設
、
だ
H
け
区
で
も
三
れ
思
る
わ
が
法
る
手
れ
る
わ
れ
ら
見
に
般
一
思
に
と
屋
家
の
豪
土
世
中
は
造
構
の
屋
家
方
形
を
、
長
な
す
土
穴
以
外
に
区
の
柱
る
ら
れ
、
見
掘
込
り
み
に
地E
A
土
弾
正
ん
さ
の
西
発
見
側
さ
で
培
が
こ
ひ
か
と
所
あ
。
る
つ
は
他
は
北
側
B
で
棟
、
た
。
れ
A
西
の
棟
B
は
埴
土
置
位
に
角
の
側
北
と
側
軒
の
棟
B
で
の
も
る
す
住
列
に
ほ
ぼ
平
行
し
て
の
る
い
て
れ
ま
込
り
掘
で
、
属
す
B
る
棟
に
付
わ
思
と
た
っ
あ
で
構
遺
れ
る
の
土
地
こ
は
東
。
西
に
三
O
O
北
に
m
南
一
m
O
九
約
さ
深
、
O
三
る
す
呈
を
形
方
長
の
仰
み
込
り
掘
の
そ
、
で
穴
さ
形
整
に
麗
締
は
面
の
は
に
部
内
れ
。
る
い
て
白
い
灰
状
の
土
が
詰
ま
B 棟北側に付属す る A 土地
期2図
(註 )2
っ
て
お
り
、
土
砿
上
面
東
寄
り
の
箇
た
。
所
に
青
磁
の
大
皿
の
底
部
二
片
が
出
土
し
落
ち
込
み
の
内
部
に
は
か
壁
け
面
て
か
ら
底
部
白
色
土
が
U
字
状
に
約
三
O
m
の
厚
さ
で
落
ち
こ
み
、
そ
の
上
に
あ
ん
こ
状
に
四
O
m
程
に
E
っ
て
黒
色
の
白
土
ピ
り
が
の
の
土
り
、
そ
の
混
上
を
灰
色
土
が
約
二
O
m
の
厚
さ
で
覆
っ
て
い
た
。
遺
物
は
先
に
も
述
べ
た
よ
う
に
上
面
の
灰
色
土
の
な
か
に
明
代
の
青
磁
皿
の
高
台
部
が
見
ら
れ
る
程
度
で
、
内
部
か
ら
は
何
も
検
出
さ
れ
な
か
っ
た
。
た
だ
、
底
部
に
近
い
部
分
に
人
頭
大
の
礁
が
固
ま
っ
て
置
か
れ
て
い
た
。
こ
の
巨
大
な
穴
が
何
の
意
図
を
持
っ
て
掘
ら
れ
た
の
か
、
A
7
の
と
こ
ろ
不
明
で
あ
る
。
し
か
し
、
こ
の
土
坊
の
周
辺
穴
に
が
見
ら
れ
る
こ
柱
と
と
、
土
紘
の
北
東
角
の
部
分
に
溝
が
取
り
付
け
ら
れ
て
い
る
点
か
ら
、
水
に
関
係
す
る
遺
構
の
よ
う
土
に
思
わ
れ
る
。
こ
の
拡
に
流
れ
こ
む
溝
も
、
地
山
の
黄
色
土
に
わ
に
ず
そ
か
の
底
部
と
思
わ
れ
る
く
ぼ
み
が
残
り
、
黒
い
腐
植
土
と
思
わ
れ
る
土
が
認
め
ら
れ
る
だ
け
で
そ
の
全
貌
は
明
ら
か
に
し
得
な
い
。
土
城
周
囲
に
見
ら
れ
る
小
型
の
柱
穴
は
こ
の
土
城
を
お
お
う
覆
屋
の
柱
穴
跡
で
あ
ろ
う
。
土
地
の
底
部
は
、
地
山
の
黄
色
土
を
つ
き
ぬ
け
て
粘
土
に
小
石
の
混
じ
る
か
た
い
岩
盤
状
の
地
層
ま
で
達
し
て
お
り
、
降
B
雨
が
あ
れ
ば
水
を
湛
え
る
の
で
、
棟
あ
に
る
付
い
属
は
し
た
水
屋
の
か
跡
と
も
考
え
ら
れ
る
。
梁
間
行
桁
は
七
棟
第
館
の
部
隈
一
在
所
の
町
鹿
菊
本
郡
1鹿
註
し
。
る
え
数
個
六
九
を
一
が
屋
家
間
に聞
の
一
共
聞
で
五
値
数
聞
せ
が
の
一
屋
と
咽
O
六
一
に
共
は
端
両
家
の
し
か
い
強
。
る
ぶ
こ
す
能
が
可
性
た
っ
で
あ
縁
り
な
く
ま
等
め
た
い
る
す
洗
を
物
き
引
水を
る
2矢
辺
れ
周
ら
部
見
で
註
。
場
い
洗
屋
末
粗
た
し
を
け
が
小
な
の
正
る
百
日
紅
の
西
方
六
m
の
老
場
樹
所
さ
ん
と
呼
ば
れ
B
土
で
発
見
城弾
- 84 ー
された土地で、東西に二三O側、南北に九五仰の長方形を呈する土地
である。深さは最深部で地山面より八五聞を数える。長軸の方向は南
北で、これはA土培と同様であるが、全般的にA土拡よりやや小規模
となっている。
段の階段が設けられており、
東側に一
底部
土域内部には西側に三段、
の中央部には南北に二Om程度の浅い小溝が掘られている。落ち込ん
でいる土は全部排土して内部を精査したが、何らの遺物の出土も見ら
れなかった。このため、この土地の時代判定は困難であるが、戦時中、
防空濠を掘った記憶もなく、前校舎時代に掘られた可能性のある塵捨
て場とも考えられないところから、やはり、浜の館当時に掘られた土
地と思われる。何の意図のもとに掘られたものかは明らかでない。
弾正杉跡 E区の発掘区域内には、幾多の重なり合った柱穴群の合
聞を縫って大小多教の樹根跡発見された。新旧、大小、深浅とその樹
根跡はさまざまであるが、そのなかで直径四mの巨大な樹根跡が、弾
正さんと呼ばれる百日紅の老樹から北へ五五Omの場所から発見され
た。この樹根跡の東半分は幅 一m深さ約七四mの半円状の窪みとなっ
ており、このなかには江戸時代の陶磁器片を含む黒褐色土が落ちこん
でいた。また、直径四mをなす樹幹跡から周辺に向って延びる小根跡
が確認された。円形をなす樹幹直下には根跡はあまり見られず、周囲
に延びる小根跡が多く見られた。
昔日この場所に巨木がおい繁っていた
のであろう。
この大木については肥後国誌に次のような記載がみられる。
演ノ館
「
弾正杉ト云ル大木ノ杉ノ株アリ、里俗阿蘇弾正殿ノ古墳
迩ノ南ノ方ニ
也ト云碑石ナシ何レト比ト云事不知l以下略」今回の調査によって確
認された樹根跡は肥後国誌に云う弾正杉の跡と思われる。出土遺物等
から、江戸時代末頃まで弾正さんの名称で信仰の対象となっていたも
のであろう。
。 出 土遺 物
E区はI区と異な り削平により現地形を形成しているので、造成時
に遺物包含層がカットされてしまっており、当時、窪地をなしていた
場所や住穴内に落ち込んでいた遺物のみが残存していた。このため、
遺物の出土量はI区にくらべ少なかったが、-区とほぼ同様の遺物の
出土を見ることができた。
遺物で一
番多いのが土師質土器、次いで瓦質土器、陶磁器片で外、
鉄釘・
鉄浮・
銅銭等の出土があった。
燈明皿・お
よび日用雑器として使用された土師質土器片は、整理後の
現在でも一
O五片の多くを数える。床に散乱する破片は、口径が一
o
m前後の土師質皿のなかでは大型の部類に属するものが多いので、日
用雑器として使用されたものであろう。土師質土器としては、この外
に柱穴のなかから出土した小型の皿がある。特に方型のプランをなす
A棟の直径一二O側、深さ一oomの巨大な一二個の各柱穴から燈明
皿として使用されたと思われる小型の土師質皿が出土した。自然に落
ち込んだものでなく、意図的に納められたものであることは、例外な
く各柱穴から出土することや、完型でほぼ上向きに埋納されているこ
と等からも明らかである。おそらく、家屋の棟上の際に何らかの儀式
が取り行われたものと思われる。一昨年調査したI区の東拡張部の各
- 85 ー
ら
も
同
様
の
皿
が
出
土
し
て
い
る
柱
穴
か
に
皿
を
納
め
る
こ
と
一
は
の
柱
で
、穴
矢
部
地
方
で
行
わ
れ
た
一
六
世
紀
頃
礼
だ
っ
た
の
で
あ
ろ
う
。
種
の
建
築
儀
え
る
。
そ
の
内
訳
は
、
碗
破
片
青
業
磁
終
片
は
接
着
作了
の
現
一
在八
片
を
数
が
一
二
片
一
二
個
体
分
、
大
皿
破
片
が
四
片
四
個
体
分
、
A
晶
子
の
身
部
破
片
が
一
片
で
あ
る
。
碗
は
南
宋
代
の
折
江
の
も
の
と
思
わ
れ
る
碗
片
を
除
い
て
、
他
は
全
っ
た
も
の
と
し
部
明
代
後
半
の
竜
泉
窯
の
も
の
で
あ
る
。
は
、
見
込
み
部
分
て
変
に
施
軸
の
認
め
ら
れ
な
い
班
が
あ
る
。
こ
の
見
込
み
部
分
に
は
杜
丹
も
し
く
は
唐
刻
さ
れ
て
い
る
。
故
意
に
紬
が
施
さ
れ
な
か
っ
た
の
か
偶
然
な
の
草
の
文
様
、が
陰
か
判
ら
な
い
。
同
様
の
文
様
が
瓦
質
火
舎
口
縁
部
等
に
施
文
さ
れ
て
い
る
が
、
こ
れ
ら
中
国
青
磁
の
文
様
を
写
し
た
も
の
で
あ
ろ
う
。
大
皿
は
二
個
体
分
あ
る
。
区
か
ら
出
土
し
た
大
皿
と
同
様
の
を
持
つ
も
器
形
ぶ
の
跡
の
で
あ
る
。
高
台
で
畳
施
付
糊
部
まさ
れ
て
お
り
、
高
台
部
各
所
に
赤
し
が
見
ら
れ
る
。
高
台
部
は
き
わ
を
立
て
ず
、
胴
部
か
ら
な
だ
ら
か
に
形
成
さ
れ
る
の
で
そ
の
存
在
が
外
部
か
ら
は
あ
ま
り
目
立
た
な
い
。
か
ら
の
立
上
り
が
口
縁
部
直
下
で
逆
く
の
字
状
中
皿
が
一
個
体
分
あ
る
。
胴
部
は
に
は
箆
に
よ
る
縦
線
が
密
に
施
さ
れ
て
い
る
。
小
皿
を
呈
す
る
も
、
の
で内
部
m
部
が
外
へ
大
き
く
反
り
返
る
の
程
度
の
高
台
の
付
く
も
の
で
、
口
縁
口
径
一
三
。
る
い
て
っ
走
が
に
び
面
軸
ひ
ず
れ
ら
見
は
文
施
に
も
と
外
内
。
る
す
と
色
特
を
小
。
る
れ
わ
思
と
品
製
の
窯
泉
竜
代
明
に
共
皿
小
・
皿
大
m
一
高
程
器
、
師
O
一
径
口
五
。
る
あ
が
片
子
金
は
て
し
と
磁
白
青
他
の
そ
認
が
軸
施
は
に
び
部
よ
口
合
の
と
部
蓋
・お
分
部
り
上
で
部
身
子
金
の
度
立
・
部
底
、
め
ら
れ
な
い
。
m
出
が
。
部
た
台
し
高
土
の
碗
び
よ
片
・お
小
の
度
程
、
は
五
一
て
径
し
口
と
磁
白
明
、
片
二
片
台
高
器
陶
る
あ
の
軸
施
、
片
二
が
片
碗
た
っ
か
か
の
粕
白
灰
、
た
ま
PO
OB
代
の
染
付
碗
高
台
部
一
片
、
そ
の
他
穴
が
周
柱
辺
よ
り
出
土
し
て
い
る
。
天
目
茶
碗
片
。
の
は
二
片
出
土
し
た
胎
土
は
一
破
方
は
白
色
、
他
は
方
灰
色
を
な
す
が
共
に
国
産
品
で
あ
ろ
う
。
側
m
、
器
高
、
は
て
し
口
径
一
五
と
六
前
後
で
平
底
と
推
定
さ
れ
る
器
土
質
瓦
焼
物
が
発
見
さ
れ
た
。
何
か
の
容
器
と
し
て
使
用
し
た
も
の
で
あ
ろ
う
。
そ
の
他
口
縁
部
に
五
弁
の
花
文
と
二
条
の
突
帯
を
持
つ
警
の
口
縁
部
や
、
三
本
の
突
帯
を
、
火
鉢
の
破
片
が
二
個
体
分
ほ
ど
あ
持
つ
円
筒
状
の
褐
色
を
帯
び
た
素
焼
の
破
片
λv
。
そ
の
外
、
摺
鉢
片
が
五
片
出
土
し
た
。
備
前
風
摺
鉢
片
が
須
恵
一
個
質
体
摺
、
、
は
備
。
る
い
て
っ
な
と
体
個
二
が
鉢
片
摺
鉢
の
問
風
質
瓦
前
、
体
個
二
が
片
鉢
部
を
、
口
縁
部
が
内
へ
く
の
字
状
に
折
れ
曲
る
独
特
の
口
縁
が
る
あ
で
片
部
縁
口
際
の
成
焼
に
面
肌
、
り
お
で
ん
含
く
多
を
英
石
小
は
に
内
土
胎
る
。
い
て
っ
造
形
る
。
は
じ
け
た
跡
が
見
ら
れ
備
は
部
縁
口
。
た
し
土
出
が
片
婆
の
七
一
た
え
備
を
色
特
の
前
備
に
外
以
鉢
摺
況
状
の
し
返
折
の
こ
で
上
面
断
。
る
い
て
っ
な
と
縁
口
し
返
折
い
厚
部
の
有
特
前
。
う
ろ
あ
の
で
も
た
れ
さ
用
使
て
し
と
警
水
。
る
さ
れ
察
観
く
よ
が
し
土
出
が
個
一
具
金
状
環
銅
と
個
三
具
金
り
飾
の
製
銅
す
な
を
形
製
品菱
れ
さ
定
推
と
m
五
・
二
長
全
が
る
い
て
に
し
共
個
損
三
欠
は
部
具
一
金
形
菱
。
た
長
全
は
具
金
状
環
。
る
さ
打
に
状
凸
凹
。
い
が
る
て
様
文
れ
の
状
花
は
に
面
表
出
っ
尖
が
端
先
で
の
も
た
し
と
状
環
げ
曲
、
り
り
折
あ
を
叩
金
一
針
が
の
本
一
七
・
径
直
の
環
。
る
れ
わ
た
思
し
と
用
の
使
で
も
ん
こ
ち
打
に
の
も
の
質
木
、
り
お
て
度
は
調
く
し
も
鎧
。
る
い
て
れ
さ
着
は
装
が
金
け
受
は
に
部
0
根
の
環
で
仰
五
・
れ
さ
出
検
三
l
枚
二
が
銭
銅
、
は
て
し
と
品
製
銅
。
る
れ
金
わ
り
思
飾
の
と
品
具
。
い
な
き
で
読
判
は
字
文
。
く
た
し
激
が
蝕
腐
2oar.
一包
ごの外 、
ぴ糸、
錦
片
・
が出土
LJ
七
I。符
-ミ
貼
岬
が
融問
宅
が
句
の
3
品峨
1
円状の
J
L
4
t
ぐ
,
。
。中央郭
厨辺部
緑鋳を帯
は欠落
ごTf
府され
iI
Lで
S
山
J
引
の
々
3
も
0
突
t
、投
の であ
起 の跡 が
44
4、
5
出
d弓
金の
荷3
幾製品
J a dpしで貨
鉄憎伸二旬 、府
j議
J
N
M
不
こ
明
細
銭片 一
井柱 片
のd
館、
濠J
ト
い方が
鉄釘齢制
'
46
~
出
本
土
が
七
L
出
E
こ g、
Kので
土L で
J
Jも
住へ
いえ出
八七 か
柱 穴羽
一
d
向
l
h
ら
地
話
土
、
ら出土L
L
E
JK
左大 辛口
2:
cい方が四
こ ・ミ
~
仰
と
左
Pめ
右
ヲ90鉄
で
栴財産 f
片は
j b奨 を 50
都
請
を
で
と
発
奇
の
で
、
紡
り
べ
7
鎖
骨苧
主
仔2 去
費
犬
と
ま
2
?
ぐ
f
会
一
了
、4
2
23
J
f
儲
で
よ
h
j
善
点
あ
で
zdo
吋
用
へ
謀議
J
L
ピ
越
コ
-eo
h
士
、;吋
幅d
A
ノ
弾
正
彰
つ
正
彰
と
L
?
L
恥
持
れ
持
マ
遺
F
-お
よ
び
宕
季
こ
O
批判
ω
か
i
2
!
七
で
傾
一
であ
え刷 話
ヘ
桑
原
意彰
」
-@
や
は
り
助り
具, 金
思
わ
れ
直
径
cm
樫
度
晦
(f白 書写こ
校舎 j
り長Js'
Jl
五で、
摩ð
さ
cm
O
1
L
え叫
が
、
、戸 L。換 釘 +
趨諾す
也
ス
出
れ ば宜
~寸
I、
I
釘
E
の
多
が
ぎ
を
殺
品と
持
つ
本
検
も忠わ 弓
出 さ・
1E :
れ
身
〈
wLて
〈L4す
地土は
は第 ミ こ
少をぐ、
ぺで
角
厨参
釘
収 土 のJF
で
照」
腐騒 が
、
撤L ぃ
の株 跡
。
発足 会
落
れ
氏
ち
、
F
込
E
。
みが
除
ー3
問仏
乃は赤
と、近
趨告 や
白告
世掬
の
磁
趨
掃
片
邑
をか け 、
約 二O
撃 の胎
片ほど
土に暗
腹部 に葉
片撃
黄
駒
が
田
色
を
主
i
や
:
を
J
白
、ち
司
脅す 碗
と
を つ? =
it〆
の高台郵
ぐは灰
ーし答。
挙
が
発
に
近世中期
J容
SL。
《磁器 件
£? ( て土佐 の書m つT
かG愛か
染品川
(
ご・
1
当
1
と£ 第 二
L
44
け でのも
校舎
ので、弾
の
二OO 句
物 と忠われ 否
のグリ yf
。
,
Z
Lふ
だご 一
か
っ
首所
と
H制校舎
。姑川
の J 句×
崎 造成
跡か
O
Z5
の療 の
とは
t
参照 )
造
駒
物
平
の
に
泊 土は
kz
d
り 失わ
男、
れy
られを
を色
tuの
なさ 、
と
思
われ 否
。
(
i -〆4M
築 山知
図
む
ま
で
科 L で・そ
のグリ yf
6hソMPE I
ι
fに耐空
tx硲
ペ
認
句
さ
O
れ
々
の謙 が実
でぞ の
。
議 の底部
如何様や性格
に句 コ
が種 か
寺ピ コ
泊
、。
に
倫
建
h
m
L
すJ
'
Q
は不明 で
Eげ
Fで
e
え
み えωの
。
(j:
五
cm
と
�rn
車fl.聖母傍俄曾
早 口留日 間 一こ陶っ て糊
的ー
区 !;J:j極
- 87 _
口口口口
肌 32?? L造物色 神
l可趨区
�
僚
tIi校舎 A
量奇包 土
1地 山
50cm
2.
目 … 目白
全般的l'、 、
の地
S奇 穂百E 土
4匂n
もす
F
。旬
j
(fB定時前
身舎 j
1・ a可鋸'[g
S賢 台 土
30cm
奇Fの島市』密状泥
~
2
( 品市銅線み
A a[g
IZ:ftfß1J
ぬ2 :tt童書箱席
10,町 基事専量点
第 43,飽
μ
第
三
章文
献
上
か
ら
み
た
阿
蘇
大
宮
司
館
中
世
阿蘇
大
宮
司
居
館
の
推
移
日
続
註 (4 )
融取
含
め
畠
を
て
最
も
も
強
固
な
私
権
の
と
地
し
て
検
注
の
免
除
は
通
例
で
あ
っ
た
。
一
一
世
紀
の
中
頃
発
せ
ら
れ
た
寛
徳
の
荘
園
整
理
令
は
、
開
拓
に
よ
っ
て
生
U
た
耕
地
の
荘
園
寄
進
化
を
防
ぐ
た
め
に
、
国
衛
に
直
結
し
た
別
納
方
式
を
と
る
別
名
制
を
認
め
た
と
云
わ
れ
る
。
こ
れ
ら
別
名
で
は
雑
役
が
免
除
さ
れ
、
そ
の
行
政
官
に
任
じ
ら
れ
た
の
は
、
開
拓
を
主
導
し
た
在
地
の
有
力
者
で
あ
っ
た
。
阿
蘇
惟次
古
が
の
屋
敷
を
で
往
あ
る
と
い
う
南
主
郷
張
は
、
同
阿
蘇
氏
に
よ
る
郷
の
開
発
が
行
わ
れ
て
来
た
と
い
う
実
績
が
存
在
し
て
い
た
こ
と
を
示
し
て
い
る
が
、
一
方
、
建
久
段
階
で
は
同
郷
が
阿
蘇
社
領
公
郷
と
し
て
組
織
の
中
政
に
佐
置
し
行
て
い
て
、
特
彼
に
の
私
的
権
利
は
認
め
ら
れ
て
い
な
か
っ
た
こ
と
を
は
示
し
て
い
る
。
惟
次
実
績
を
具
体
そ
的
の
な
権
利
と
し
て
認
め
ら
れ
る
こ
と
を
求
納
め
と
、
い
う
形
別
で
領
家
に
対
す
る
直
納
権
を
得
た
が
、
又
、
こ
の
こ
と
は
南
郷
に
お
け
る
彼
の
荘
園
制
的
支
配
権
の
確
認
で
も
あ
っ
た
と
き
守
え
よ
う
。
さ
て
、
こ
の
史
料
は
惟次
が
南
郷
に
居
住
し
て
い
た
こ
と
を
直
接
示
で
す
も
の
は
な
惟
い
。
し
か
し
、
次
は
北
条
義
時
の
下
文
に
よ
れ
ば「
南
郷」
と
さ
れ
て
い
る
。
北
条
氏
は
阿
蘇
社
領
の
預
地
頭
職
で
あ
所
っ
兼
た
と
み
ら
れ
る
か
ら
、
惟
次
の
地
位
は
そ
の
下
の
小
地
頭
で
あ
っ
た
も
の
で
あ
ろ
う
。
鎮
西
に
お
け
る
東
国
下
り
の
惣
地
頭
に
対
し
て
、
在
地
の
本
領
主
ら
は
小
地
頭
さ
と
れ
し
て
て
把
握
い
る
こ
と
、
更
に
、
こ
れ
に
さ
か
の
ぼ
際
っ
て
源
合
戦
し
に
、
菊
池
に
与
同
し
平
て
平
氏
に
背
い
た
鎮
西
の
豪
族
の
中
に
惟
次
の
父
大
の
宮
惟
泰
が「
司
南
」
郷
と
『
吾
妻
鏡
』
に
記
さ
れ
惟
て
い
る
。
こ
れ
ら
の
こ
と
泰
か
・
ら
惟
次
の
親
子
が
南
郷
谷
に
本
拠
を
か
ま
え
て
い
た
こ
と
は
、
ま
ず
推
。
測
さ
れ
る
で
あ
ろ
う
現
在
の
南
郷
は
南
郷
谷
と
い
う
広
域
の
呼
称
と
な
っ
て
い
る
が
、
本
来
は
南
郷
谷
内
の
本
郷
と
し
て
、
ご
く
狭
い
地
域
す
を
も
の
で
あ
っ
た
ら
し
い
。
そ
れ
は
、
指
多
分
火
口
丘
南
麓
の
白
川
右
岸
火
口
原
し
中
た
央
も
部
の
の
か
開
ら
拓
を
中
心
と
- 88 -
、
阿
蘇
社
の
大
宮
司
職
が
何
「
時
惟
頃
」
成
立
し
、
又
、
を
「
通
宇
字
と
し
」
て
、
治
を
称
る
す
氏(
い
わ
ゆ
る
阿
蘇
氏
)
に
独
占
さ
れ
て
行
っ
た
で
あ
ろ
う
過
程
に
つ
い
て
明
ら
か
に
で
き
な
い
が
、
本
来
大
宮
司
職
に
任
期
が
存
在
し
て
い
た
痕
跡
は
鎌
倉
初
期
の
史
料
か
ら
も
う
か
が
わ。
こ
の
大
宮
司
職
を
得
て
い
た
、
い
わ
ゆ
る
阿
蘇
氏
惣
領
家
は
、
少
く
と
も
平
安
時
代
末
に
は
神
社
の
鎮
座
す
る
北
部
阿
蘇
谷
で
郷
は
な
く
、
火
口
原
南
部
の
南
谷
に
居
住
し
、
鎌
倉
時
代
に
は
火
口
原
や
外
輪
山
山
麓
に
開
発
し
た
村
々
を
、
相
伝
の
所
領
と
し
て
北
条
氏
か
ら
堵
さ
れ
て
い
る
。
北
条
得
安
宗
家
は
、
鎌
倉
時
代
は
じ
め
よ
、び
り
阿
蘇
本
社
領
及
甲
佐
、
・
健
軍
・
郡
浦
の
末
社
領
の
し
地
、
頭
職
を
有
預
所
職
も
有
し
て
い
た
こ
と
が
明
ら
か
で
あ
る
が
、
こ
れ
ら
は
源
平
争
乱
に
よ
る
平
氏
与
力
勢
の
没
官
分
で
は
な
か
っ
た
か
と
思
わ
れ
る
。
力
建
久
六(
一
一
九
五
)
年
、
北
時
時
政
は
阿
蘇
社
司
・
神
え
宮
ら
に
下
文
を
与
て
、
可
早
為
別
納
究
済
所
当
物
南
郷
事
惟
右
郷
、
阿
蘇
太
郎
次
依
古
、
令
屋
申
敷
往
之
由
納」
為
別
と
、
阿
蘇
惟
次
の
南
郷
は
阿
蘇
氏
往
古
の
屋
敷
で
あ
る
と
い
う
申
出
を
認
め
、
別
納
の
地
と
し
て
沙
こ
汰
と
に
を
任
指
せ
示
る
し
て
い
る
。
墾
彼
田
永
の
世
私
財
法
施
行
以
来
、
新
た
に
聞
か
れ
た
耕
地
に
は
私
権
が
発
生
し
た
が
、
屋
敷
と
は
ま
さ
に
開
拓
の
拠
点
で
あ
り
、
土
居
の
内
の
耕
地
は
勿
論
、
そ
の
周
辺
の
門
田
・
門
一
ー--,
散
寄
発
展
し
た
も
の
で
あ
ろ
う
と
思
わ
れ
る
が
、
落
で
云
え
集
ば
、
火
口
丘
南
麓
と
火
口
原
の
接
点
に
お
け
る
松
本
・
中
村
か
ら
吉
田
に
か
け
て
の
線
上
の
地
で
は
な
か
た
か
と
想
っ
像
さ
れ
る
。
つ
ま
り
、
こ
の
地
が
現
在
の
南
郷
谷
で
は
一
番
最
初
に
聞
か
て
、
れ
和
代
名
抄
』
の
郷
『
に
り
新
し
い
郷
立
が
成
し
た
際
に
現
蘇
、
谷
側
阿
の
東
・
西
・
北
郷
に
対
し
て
、
南
郷
と
し
て
設
定
さ
れ
た
と
考
え
ら
れ
、
こ
こ
を
中
に
、
心
現
南
郷
谷
及
び
周
辺
の
開
発
が
進
め
ら
れ
た
も
の
で
あ
ろ
う
。
そ
し
て
、
そ
の
開
発
に
阿
蘇
大
宮
司
家
が
関
係
し
て
い
た
で
あ
ろ
う
こ
と
は
考
え
ら
れ
る
と
で
こ
ろ
あ
る
。
さ
て
、
時
代
は
降
る
が
元
弘
の
変(
一
コ
ヲ
二
年
)
に
お
い
て
、
楠
木
正
成
の
千
早
城
攻
め
に
参
障
の
途
中
、
備
後
輔
の
樟
で
護
良
親
王
の
令
旨
を
得
た
大
宮
司
惟
直
や
そ
の
義
理
の
兄
弟
と
み
ら
れ
る
澄
ら
は
、
帰
国
し
て
日
向
の
鞍
岡
に
楯
惟
寵
っ
て
探
題
の
討
伐
軍
規
矩
高
政
勢
と
戦
っ
て
い
る
こ
と
が『
正
慶
離そ
の
他
に
み
ら
れ
る
が
、
こ
の
中
に
大
宮
司
館
の
こ
と
が
記
さ
れ
て
い
る
。
「
廿
七
日
自
規
矩
殿
早
馬
到
来
頚
一
持
来
、
去
廿
五
日
大
宮
司
館
ニ
攻
寄
之
圏
付
火
終
以
不
焼
、
鷹
ニ
シ
テ
守
護
之
間
恐
退
畢
、
固
テ
召
取
案
内
者
被
寄
之
慮
、
大
宮
司
領
阿
蘇
内
在
家
等
ヲ
焼
梯
鞍
岡
山
ニ
引
篭
、
其
道
レ
間
ニ
ス
、
コ
へ
、
ハ
ネ
キ
ヤ
ウ
、
マ
メ
ア
シ
此
等
難
所
也
、
日
向
道
ヨ
リ
揚
手
ノ
案
内
者
ヲ
被
申
之
問
、
仰
日
向
国
柴
原
・
桑
内
二
人
ニ
仰
日
テ
進
案
内
者
、
同
彼
等
下
人
下
向
云
々
、
城
内
勢
兵
五
十
余
人
、
以
上
ノ
勢
五
百
人
計
也
、
其
外
隠
レ
村
ヲ
大
宮
司
知
行
之
問
、
其
所
ニ
引
退
ナ
ハ
不
可
被
打
之
由
披
露
之
」
正
慶
二(
一
三
三
三
)
年
三
月
一
三
日
菊
池
武
時
が
探
題
館
に
討
入
っ
て
戦
死
し
た
後
、
探
題
側
で
は
同
日
菊
池
城
に
討
差
手
向
を
け
た
が
、
阿
蘇
大
宮
司
も
菊
池
氏
に
与
力
と
聞
え
る
と
、
二
ハ
日
規
矩
高
政
を
将
と
し
て
ら
肥
を
後
国
御
家
人
率
い
さ
せ
て
阿
蘇
へ
向
わ
せ
た
。
二
五
日
大
宮
館
司
に
攻
い
寄
が
せ
あ
、
小
競
合
版
記
っ
た
の
で
あ
ろ
う(
頚
一
つ
送
っ
て
い
る
)
。
し
か
し
、
大
宮
司
館
に
火
を
か
け
よ
う
と
し
た
け
れ
ど
焼
け
な
か
っ
攻
た
寄
の
せ
で
た
、
と
こ
一
ろ
日
一退
、
い
て
改
め
て
大
宮
司
は
領
内
の
所
々
を
焼
払
い
鞍
岡
山
に
楯
龍
っ
た
と
い
う
の
で
あ
る
。
鞍
岡
と
い
う
と
、
外
輪
山
西
南
麓
の
日
向
境
で
、
阿
蘇
南
郷
谷
か
ら
も
相
当
な
距
離
が
あ
る
が
、
一
つ
に
は
鎌
倉
期
の
阿
蘇
社
領
に
は
北
条
氏
の
地
頭
代
の
在
駐
の
可
能
性
が
あ
り
、
南
郷
に
お
い
て
は
大
白
宮
司
私
領
を
分
断
す
る
川
形
・
で
色
、
吉
田
・
見
・
山
鳥
の
四
ケ
村
地
頭
職
が
北
条
領
と
な
り
、
領
家
源
定
房
の
子
孫
に
避
進
さ
れ
て
い
る
も
の
の
、
代
官
職
は
北
条
氏
方
の
手
に
あ
っ
た
と
み
ら
れ
る
の
で
、
南
郷
内
の
防
禦
に
不
利
で
あ
る
こ
と
、
又
寄
手
の
到
達
に
出
来
る
だ
け
時
日
を
か
け
さ
せ
よ
う
と
い
う
作
戦
で
あ
っ
た
と
み
ら
れ
る
。
こ
れ
ら
の
条
件
か
ら
推
測
す
る
に
、
は
大
宮
司
館
惟
泰
・
次
以
来
鎌
倉
末
の
段
階
に
も
、
の
南
郷
の
地
に
存
続
し
て
惟
い
た
も
の
と
考
え
ら
れ
る
。
阿
蘇
谷
側
に
は
、
鎌
倉
後
半
以
来
、
北
の
小
国
郷
に
北
条
氏
の
勢
力
が
根
付
い
て
い
て
、
更
に
動
き
に
く
い
条
件
下
に
あ
っ
た
と
考
え
ら
れ
る
。
尊
氏
方(
北
建
武
政
権
が
く
ず
れ
て
、
足
利
朝
)
と
後
醍
醐
天
皇
方(
南
朝
)
の
争
い
の
初
期
、
菊
池
武
敏
と
共
に
尊
氏
の
九
州
西
下
を
迎
え
撃
っ
て
多
々
良
浜
惟
の
戦
に
敗
れ
た
直
大
兄
宮
弟
司
が
、
帰
途
肥
前
で
討
死
す
る
と
、
尊
氏
の
要
請
に
応
ピ
て
、
一
族
が
坂
梨
孫
熊
丸
を
大
宮
司
に
擁
立
し
て
い
た
こ
時
期
が。
の
間
、
中
央
に
出
兵
し
て
後
醍
醐
天
皇
方
と
し
て
戦
っ
惟
て
い
た
父
の
前
大
宮
司
時
は
、
帰
国
し
た
後
は
南
郷
城
に
あ
っ
て
阿
蘇
谷
・
南
郷
谷
を
抑
え
て
い
た
北
朝
方
の
坂
梨
孫
熊
丸
方
の
勢
力
の
及
ん
で
い
な
い
地
に
本
拠
を
求
め
た
も
の
と
思
わ
れ
る
が
、
そ
の
拠
り
ど
こ
ろ
と
っ
なた
も
の
は
、
阿
蘇
社
の
末
社
と
な
っ
て
い
た
肥
後
国
二
宮
の
甲
佐
社
で
あ
っ
た
。
現
在
上
益
城
郡
甲
佐
町
に
座
鎮
す
る
同
社
は
、
主
神
を
甲
佐
大
明
神
と
称
し
、
--
89
註 (8 )
註
(7)
註 (叩 )
位
(9)
で
子
の
命
龍
盤
健
く
じ
同
、
健
の
神
主
社
蘇
阿
と
る
あ
で
子
の
命
龍
盤
が
る
れ
さ
母
異
は
と
)
神
明
大
造
国
(
命
玉
の
人
惟
宮
の
祖
の
氏
蘇
阿
一
十
る
れ
さ
と
父
瓶
速
で
弟
、
命
龍
盤
健
は
に
神
二
第
。
る
れ
ら
い
け
て
付
置
佐
に
図
系
神
う
い
と
る
あ
と
宮
明
下
を
殿
社
麓
山
、
し
称
と
神
宮
上
大
を
浦
巌
郡
佐
に
甲
神
、
三
り
祭
を
第
、
び
呼
御
の
辺
周
地
社
坊
は
寺
領
社
。
る
は
に
れ
上
ら
山
み
と
た
っ
あ
も
の
徒
衆
北
小
内
郷
を
野
・
富
・
勾
中
心
と
し
て
、
小
北
・
砥
用
・
堅
志
田
・
津
々
良
・
守
川
の
る
な
と
社
末
の
社
海
・
川
小
蘇
南
阿
・
が
社
佐
甲
。
た
い
て
し
有
を
ど
な
東
含
を
神
明
大
浦
郡
に
平
、
は
祭
、
が
う
ろ
期
あ
後
で
も
と
代
こ
時
の
安
神
末
、
期
郡
浦
社
を
末
社
と
し
て
い
と
か
ら
、
阿
蘇
社
の
末
社
化
す
る
以
前
に
宇
土
郡
む
こ
か
っ
た
も
の
と
思
わ
れ
る
。
同
社
が
肥
後
国
第
二
宮
と
し
て
の
勢
力
の
小
さ
く
な
た
こ
と
ら
れ
、
本
来
甲
は
、
神
系
図
に
お
け
る
主
神
の
立
場
、
社
領
の
規
模
に
み
佐
巌
の
山
岳
神
仰
に
発
す
る
寮
杷
様
式
を
有
し
、
同
様
に
阿
蘇
山
の
山
岳
神
に
仰
を
惟
時
は
前
発
す
る
阿
蘇
社
と
対
等
の
勢
力
を
有
し
て
い
た
の
で
あ
っ
こ
た
。れ
ろ
と
し
た
も
扶
植
大
宮
司
の
権
威
で
益
城
地
域
に
自
己
す
る
拠
り
ど
こ
の
勢
を
力
の
と
思
わ
れ
る
。
時
惟
、
は
」
内
の
障
「
の
村
)
イ
ト
内(
豊
永
国
手
後
佐
肥
甲
『
郡
城
益
』
誌
の
形
方
の
余
ル
ト
ー
館
メ
0
0
二
に
地
平
の
上
山
、
し
が
有
る
を
い
承
て
伝
の
跡
郭
の
遺
構
が
残
っ
て
い
る
。
惟
、
も
て
い
つ
に
澄
る
れ
ら
み
と
婿
女
の
時
惟
浜
た
っ
良
々
残
多
生
、
で
又
戦
の
た
い
て
し
有
を
拠
本
に
域
流
川
緑
い
近
に
初(
佐
四
平
甲
正
で
ま
頃
年
一
)
六
三
。
る
れ
さ
測
推
ら
か
の
動
行
彼
の
ど
な
の と惟
」
状
忠
軍
澄
か
良
い
恵
「
な
は
で
ろ
わ
、
加
ず
に
せ
い
と
う
争
の
朝
両
北
南
極
積
に
し
的
だ
は
た
国
時
帰
惟
、
の
後
)
二
五
三
一
(
七
平
正
。
た
っ
あ
も
と
こ
た
じ
の
生
方
を
朝
係
南
関
立
と
対
澄
も
惟
。
る
れ
ら
み
が
述
記
な
う
よ
の
次
に
の
記
年
日
下
殿
以
」
蘇
宮
阿
「
選
営
造
等
註 (ロ )
註 (U )
nu
nE
「
其
時
の
さ
い
も
く
ハ
こ
こ
れ
み
お
の
き
中
こ
た
れ
か
す
い
な
ニ
よ
て
河
よ
り
た
の
領
内
ニ
か
つ
か
つ
あ
ま
た
で
る
こ
。
れ
是
お
き
の
御
さ
」
い
そ
く
な
り
。
こ
の
史
料
は
甲
佐
社
司
の
筆
写
す
る
と
こ
ろ
で
あ
り
、
内
容
か
ら
み
て
阿
蘇
本
社
で
は
な
く
、
甲
佐
社
の
遷
宮
等
の
記
録
で
あ
る
が
の
、
と
こ
き
惟
澄
」
と「
こ
「
れ
お
き
」
の
不
和
に
よ
っ
て
河
よ
り
こ
な
た
の
領
内
に
材
木
を
賦
課
し
た
と
い
う
の
で
あ
る
。
正
平
の
段
階
で
澄
と
の
対
立
関
係
を
生
ピ
得
る
惟
と
す
れ
時
ば
の
惟
み
で
あ
り
、
本
来
、
川
の
こ
な
た
も
対
岸
も「
こ
れ
お
き
」
の
沙
汰
す
る
と
こ
ろ
で
め
っ
た
と
い
う
な
ら
、
「
こ
れ
お
き
」
が
惟
澄
の
支
配
権
を
も
包
摂
し
て
い
る
わ
け
で
、
「
こ
れ
お
き
」
と
は「
惟
時
」
の
あ
や
ま
り
で
あ
る
と
考
え
ざ
る
を
得
な
い
。
従
っ
て
正
平
七
年
段
階
で
は
、
緑
川
右
岸(
甲
佐
社
側
かり
言
わ
せ
る
と
「
こ
な
た
」
)
を
惟
時
が
支
配
し
、
左
岸
は
惟
時
が
支
配
し
て
い
た
と
推
測
さ
れ
る
わ
け
で
、
豊
内
村
の
祉
「
陳
の
内
」
の
惟
時
館
の
伝
承
は
、
充
値
分
検
す
討
る
に
と
言
え
よ
「ノ
。
惨
文
、
矢
部
に
も
惟
時
が
居
住
し
て
い
た
こ
と
も
考
え
ら
れ
る
。
矢
部
は『
倭
名
抄
』
の
益
城
郡
八
郷
の
う
ち
に
「
宅
部
郷
」
と
り
さ
と
れ
る
も
の
が
そ
の
は
じ
ま
な
る
も
の
か
と
考
え
ら
れ
る
。
天
養
元(
肥
後
一
国
一
四
四
)
年
高
野
山
文
書「
司
解
写
」
と
み
ら
れ
る
前
欠
・
後
欠
文
書
の
中
に
、
「
(
前
略
)
日
中
押
園
貢
御
所
後
野
、
部
山
専
当
近
包
御
宿
甘
所
葛
、
之
運
取
貢
了
直
令
殺
」
害
近
包
身
と
野
部
山
専
当
か
ら
貢
上
さ
る
べ
き
甘
葛
が
広
実
に
よ
り
強
奪
さ
れ
て
い
る
こ
と
が
知
ら
れ
る
。
倭
名
抄
的
郷
体
制
崩
壊
後
、
収
取
対
象
は
人
よ
り
土
地
に
変
り
、
境
界
を
明
域
的
ま
と
ま
か
に
し
た
郷
の
発
生
と
共
に
、
山
・
浦
・
島
等
、
そ
の
地
な
生
に
の
そ
う
と
よ
り
る
れ
ら
す と
取
収
が
を
式
物
方
産
る
生
た
っ
合
に
件
条
産
甲
佐
社
へ
小
北
・
砥
っ
こ
た
。の
広
実
の
子
孫
と
み
ら
れ
る
木
原
兼
実
も
、
後
年
註 (日 )
註
(M)
註 (日 )
註 (問 )
註 (凶 )
註 (印 )
註 {口 )
註 (初 )
所
が
物
産
生
る
す
物
と
貢
当
心
中
を
山
も
部
矢
、
が
る
い
て
し
進
寄
を
山
両
の
用
う
い
と
」
山
部
野
た「
し
定
固
を
域
地
に
的
体
具
、
が
制
体
る
れ
さ
取
収
て
し
と
ほ
は
郡
蘇
阿
は
に
半
後
紀
世
一
一
期
後
平
。
る
あ
で
の
た
い
て
安
れ
さ
成
形
で
形
領
社
が
堺
至
四
社
蘇
阿
、
も
で
裁
勅
の
弘
元
、
れ
ら
め
認
て
し
と
領
社
が
郡
一
ぼ
矢
、
り
が
拡
ヘ
部
平
の
城
益
は
領
社
佐
甲
、
が
る
い
て
れ
さ
認
確
再
て
し
と
域
坦
こ
す
出
見
に
前
以
代
時
朝
北
南
を
跡
痕
た
っ
あ
で
領
社
の
社
蘇
、
阿
社
佐
甲
が
部
、
せ
寄
押
に
山
部
矢
は
澄
惟
、
月
六
年
)
七
三
三
一
二(
元
延
。
い
な
き
で
は
と
て
べ
述
と
た
っ
取
討
を
人
百
数
下
上
、
し
落
追
を
衛
兵
郎
四
平
の
代
顕
頼
守
前
越
が
部
矢
た
っ
あ
に
下
配
支
の
氏
他
方
家
武
は
に
期
初
朝
北
南
、
ら
か
ろ
こ
と
る
い
。
る
き
で
が
と
こ
る
す
と
と
こ
の
頃
の
こ
は
の
た
っ
入
に
下
配
支
の
氏
阿蘇
方
朝
南
興
国
四(
一
三
四
三
)
年
惟
時
が
武
家
方
と
な
っ
た
時
、
惟
澄
は
矢
部
城
を
押
取
っ
た
と「
恵
良
惟
澄
軍
忠
状
」
の
中
で
述
べ
て
い
る
こ
と
か
ら
、
こ
の
時
、
矢
部
征
年
)
五
四
三
六二
国
興
。
る
あ
も
性
能
可
た
い
て
っ
な
と
城
居
の
時
惟
が
城
と
そ
の
惟
共
に
「
矢
部
山
事
、
為
料
所
如
元
被
知
行
者
」
西
府
は
澄
に
砥
用
山
と
共
実
名
に
下
配
支
の
氏
蘇
阿
が
部
矢
て
し
に
う
よ
の
こ
。
る
い
て
し
認
承
を
行
知
る
当
に
孫
外
宮
が
大
惟時
年
司
)
O
五
三
一
五(
平
正
惟
、
き
い
て
れ
ら
え
加
に
共
と
領
社
ケ
四
の
浦
郡
・
佐
甲
・
軍
健
・
蘇
阿
、
て
し
と
子
嫡
を
村
惟
子
長
の
澄
職
頭
地
郷
井
佐
大
後
豊
・
分
領
惣
郡
座
下
前
筑
を
・
保
守
津
・
用
砥
・
部
矢
、
に
り
領
社
ケ
四
、
も
に
状
譲
の
へ
村
惟
ら
か
澄
惟
く
じ
同
、
ま
じ
は
に
の
た
っ
ず
ゆ
を
」
事
神
は「
領
社
、
て
い
お
に
状
同
、
が
る
い
て
れ
さ
記
が
山
部
矢
で
ん
並
と
き
べ
す
行
知
て
し
致
を
」
忠
軍
は「
領
所
の
外
其
、
し
と
先
を
」
造
修
「
に
ら
専
戦
の
乱期
内
、
く
な
で
の
も
る
す
来
由
に
領
社
来
本
が
山
部
矢
、
べ
と
述
る
あ
で
を
示
し
て
い
る
。
こ
の
矢
功
に
よ
っ
て
獲
得
・
承
認
さ
れ
た
所
領
に
属
す
る
こ
と
注
文
に
見
ら
れ
部
の
中
に
郷
・
村
が
現
わ
れ
る
の
は
正
平
九(
一
三
五
四
)
年
の
問
守E4
nHd
る
と
こ
ろ
で
あ
る
が
、
そ
の
内
容
は
団
地
の
坪
付
や
斗
代
で
は
な
く
、
各
郷
村
mv,
銭
納
で
示
さ
れ
て
い
る
と
こ
ろ
か
ら
、
畠
地
や
山
の
生
産
物
を
主
と
す
る
も
の
で
あ
っ
た
伝
統
が
続
い
て
い
る
も
の
と
み
る
こ
と
が
で
き
る
。
外
惟
時
前
述
の
知
く
は
孫
惟
村
を
嫡
子
と
し
て
そ
の
跡
を
ゆ
ず
っ
た
が
、
彼
の
一
族
の
勢
望
は
父
死
後
、
の
惟
澄
に
あ
っ
宮
た
司
の
職
で
が
、
認
自
然
惟
澄
の
大
め
ら
れ
、
北
朝
方
の
惟
村
は
永
く
山
中
に
潜
居
せ
ざ
る
を
得
。
な
か
っ
た
従
っ
て
、
惟
澄
惟
時
が
の
惟
死
後
、
甲
佐
豊
時
内
か
矢
部
に
移
り
の
、
地
位
を
継
承
し
た
可
惟
時
能
性
も
考
の
え
ら
れ
る
。
す
で
に
、
惟
澄
在
世
中
に
、
の
働
き
に
よ
っ
て
南
郷
城
を
本
拠
と
し
て
い
た
坂
梨
孫
熊
丸
ら
北
朝
大
宮
司
勢
力
は
滅
さ
れ
て
い
る
の
で
、
鎌
倉
の
末
ま
で
の
阿
蘇
氏
の
本
貫
の
地
で
あ
っ
た
南
郷
を
含
め
て
谷
、
阿
蘇
・
上
益
城
両
郡
は
大
宮
司
の
支
配
下
に
あ
惟
り
惟
時
、
澄
も
も
再
び
南
郷
を
本
拠
と
す
れ
ば
で
き
た
の
で
あ
る
が
、
彼
ら
が
南
郷
を
本
拠
と
し
た
ら
し
い
形
跡
は
み
ら
れ
い
。
力静
矢
部
の
地
は
上
益
城
郡
山
中
に
あ
っ
て
広
い
耕
地
に
は
恵
ま
れ
て
い
な
い
が
、
阿
蘇
郡
と
益
城
郡
の
中
間
に
あ
り
、
他
勢
力
の
侵
入
の
困
難
な
地
で
あ
る
の
み
な
ら
ず
、
後
中
央
部
や
南
部
へ
肥
の
進
出
も
可
能
で
あ
り
、
日
向
・
豊
後
に
も
近
く
、
九
州
諸
方
へ
の
連
絡
の
を
有
し
便
て
い
る
と
い
う
利
点
に
よ
る
と
こ
ろ
が
大
き
か
っ
で
ろ
た
あ
。
う
惟
澄
は
一
九(
正
平
一
三
六
四
)
年
、
日
頃
代
官
に
遣
、
後
継
者
し
と
目
し
て
い
た
惟
惟澄
武
が
、
病
中
を
残
し
て
菊
池
ら
南
朝
方
の
加
勢
に
参
陣
し
た
こ
と
を
づ。
怒
り
、
北
朝
方
に
属
し
て
い
た
惟
村
に
大
宮
司
職
を
ゆ
ず
惟
村
は
、
「
阿
蘇
東
殿
」
と
呼
ば
れ
、
前
述
の
如
く
、
永
く
北
朝
方
と
し
て
父
惟
澄
と
は
別
れ
て
山
中
に
潜
居
し
て
い
た
が
、
こ
れ
に
よ
っ
て
惟
澄
の
遺
跡
を
継
い
で
矢
部
又
は
甲
佐
に
居
住
す
る
よ
う
に
な
っ
た
も
の
と
思
一
わ
方
れ
る
征
。
西
府
か
ら
大
宮
司
に
任
註
{詑)
註
(お)
註
(お)
じ
ら
れ
た
惟
武
は
、
正
平
二
四(
一
三
六
九
)
年
兄
惟
村
が
伝
来
の
文
書
を
渡
さ
な
い
と
征
西
府
に
訴
え
)
、
惟
村
は
所
有
(
し
紛
な
失
い
と
称
し
、
近
隣
の
領
主
名
和
顕
興(
八
代
)
と
宇
土
道
光(
宇
土
)
に
対
し
、
征
西
府
か
ら
実
否
を
た
ず
ね
ら
れ
て
い
る
が
、
彼
ら
が
惟
村
の
近
隣
の
領
主
と
す
る
な
ら
、
惟
村
は
益
城
郡
の
矢
部
か
甲
佐
に
館
を
か
ま
え
て
い
た
可
能
性
が
強
い
。
康
安
二(
一
三
六
二
)
年
と
み
ら
れ
る
斯
波
氏
経
書
状
で
は
、
矢
部
・
支
知(
砥
用
)
・鞍
岡
の
者
共
が
武
家
方(
惟
村
)
の
味
方
を
し
て
い
る
と
述
べ
て
い
る
し
、
康
暦
元(
一
三
七
九
)
年
と
み
ら
れ
る
今
川
了
俊
書
状
は
、
菊
池
城
に
悉
く
宮
方
が
集
り
、
惟
武
の
子
惟
政
の
ふ
し
め
し
く
し
候
て
、
菊
池
ニ
も「
(
略
)
あ
そ
の
南
郷
も
あ
る
ほ
と
の
せ
い
の
加
リ
候
な
る
問
、
南
郷
辺
の
事
を
も
、
そ
れ
よ
り
御
せ
い
つ
か
ひ
候
ハ
\か
た
士
ら
き
い
た
み
候
へ
く
候
か
と
存
候(
略
)
」
と
、
惟
政
が
南
郷
の
ほ
と
ん
ど
の
武
を
動
員
し
て
菊
池
簡
城
に
加
わ
っ
た
の
で
、
A
7
南
郷
へ
兵
を
送
れ
ば
、
惟
武
方
は
谷
郷
南
が
拠
本
の
政
惟
は
と
こ
の
こ
べ
述
と
う
ろ
あ
で
い
き
大
が
撃
る
打
い
て
。
こ
と
を
示
し
て
い
る
が
、
の
本
拠
が
矢
部
、
文
は
甲
佐
に
あ
っ
た
に
あ
惟
り
、村
く
て
引
継
が
れ
て
行
そ
れ
は
、
そ
の
ま
ま
惟
村
系
孫
、
の
惟
武
系
の
子本
拠
と
し
の
で
あ
る
。
惟
村
の
あ
と
は
惟
郷
、
・
惟
忠
と
続
き
、
惟
武
の
あ
と
は
、
惟
惟
歳
政
、
惟
兼
惟
家
と
続
く
。
南
北
朝
合
一
以
後
、
惟
郷
と
惟
兼
は
大
宮
司
職
を
争
っ
て
武
力
を
も
辞
さ
ぬ
情
勢
と
な
っ
た
の
で
、
九
州
探
題
の
仲
介
に
よ
り
幕
府
の
裁
定
に
ゆ
だ
ね
ら
れ
、
結
果
と
し
て
は
澄
、
惟
村
の
譲
状
を
有
し
て
い
る
惟
郷
が
、
惟
時
、
惟
惟
の
方
一
更
に
北
朝
方
忠
節
を
強
調
し
て
幕
府
か
ら
大
宮
司
と
認
め
ら
れ
る
が
、
村
惟
甲
は
え
抑
を
社
、
蘇
阿
、び
及
郡
蘇
阿
が
彼
、
は
の
た
得
れ
し
こ
抗
が
対
兼
に
惟
方
に
朝
共
南
、
・は
て
し
対
に
は
兼
に
更
、
り
あ
で
実
現
う
知
い
み
と
の
行
社
佐
か
し
、
り
あ
援
が
の
護
に
陽
に
陰
の
氏
池
菊
る
よ
に
縁
因
い
た
て
し
動
行
て
し
と
註 (お )
(お)
註
註
(訂)
(犯)
註
(却)
註
)
カ
(借
円L
nヨ
も
、
そ
の
菊
池
氏
が
守
護
で
あ
っ
た
と
い
う
肥
後
国
の
特
殊
事
情
と
も
関
係
が
深
惟兼
が「
水
口
城
」
を
本
城
と
し
て
い
た
こ
と
が
わ
か
る
が
、
同
城
ぃ
。
こ
の
間
と
城
る
」
あ
に
口
は『
村
水
木
「
松
の
郷
南
、
ば
れ
よ
に
』
祉
志
統
一
郡
国
が
城
惟
郷
・
は
兼
惟
年
間
に
呼
ば
れ
て
い
る
。
以
後
、
宝
一
徳
(
四
四
九
l
一
四
五
三
)
彼
ら
、
て
っ
惟
惟
え
迎
に
子
養
が
歳
の
そ
、
こ
し
る
睦
れ
和
ら
と
子
な
父
に
忠
と
り
変
は
で
と
こ
い
る
に
大
宮
郷
司
職
が
継
承
さ
す
れ
る
南
が
、
と
も
拠
れ
本
づ
を
は
な
か
っ
た
。
惟
惟村
は
見
出
せ
郷
は
矢
部
ま
に
え
館
を
かて
い
た
と
い
う
史
料
の
子
の
一
方
惟
い
る
。
歳
の
二
通
の
書
状
は
次
の
よ
う
に
述
べ
て
な
い
。
阿
蘇
返
御
り
よ
菅
、
泳
ハ
候
用
借
御
文
ん
わ
く
十
時
候
越
御
様
方
公
ニ
後
豊
)
略
(
「
あ
る
へ
く
候
」
」
談
申
へ
様
方
公
、
も
物
神
御
候
惜
御
、
時
候
出
御
へ
州
豊
様
上
大
)
略
(
「
こ
れ
ら
か
が
ら
公
方
、
惟
様
と
称
す
る
の
は
養
父
と
な
っ
た
大
宮
司
惟
忠
で
歳
あ
り
、
見
な
さ
ざ
る
を
得
な
い
。
そ
の
惟
郷
は
豊
州
へ
大
上
様
と
は
そ
の
父
惟
郷
と
そ
、
が
た
し
用
借
文
貫
十
ち
う
の
物
神
の
蓄
備
て
上
し
山
と
蘇
阿
料
営
時
造
く
行
れ
は「
菅
」
か
ら
返
却
す
る
と
い
う
の
で
あ
る
。
惟
て
け
受
を
れ
こ
は
陣
状
小
田
で
室
い
長
次
事
万
太
大
彼
)
略
(
、
に
め
た
舞
振
御
候
出
御
へ
後
豊
り
よ
菅
様
上
古
)
之
略
(
「
、
候
隠
其
無
、
事
候
召
被
ニ
貫
十
様
上
、
問
候
然
仰
可
被
請
由
御
之
ニ
文
貫
十
(
略
)
矢
部
辺
面
多
分
存
知
之
事
候
」
々
惟
で
か
明
が
と
こ
た
い
で
ん
住
に
菅
は
)
郷
様(
上
古
、
り
よ
れ
こ
、
べ
述
と
こ
、
と
忠
こ
惟
た
し
出
請
で
文
貫
十
が
)
様(
上
た
を
い
刀
置
太
に
大
質
、
り
あ
惟
忠
と
菅
、
ら
か
る
あ
で
の
う
い
と
る
い
て
っ
知
を
は
と
々
こ
れ
人
の
の
部
矢
ら
年
)
五
七
四
一
七(
明
文
。
る
え
言
と
る
あ
で
地
の
別
は
と
部
矢
る
い
で
ん
住
の
註
{羽)
阿蘇山本堂造営料足日記」によれば、「
の「
公方様」(
惟議カ)
、「
野部
惟忠)
古上様」(
公方様」(
惟郷)と呼ばれ、ある時期には菅の惟郷
、「
詮
{担)
の館、矢部の惟忠の館、南郷の惟兼・
惟歳の館が併立していたと考え
られる。
文明六 (一
四七四)年とみられる 「
小陣惟長奉書」は阿蘇山本堂造
営料足の保管について、
程当国雑説時分候問、御神物事南郷公
即山上ニ可有御登せ処、A
7
「
方様よりすけ方へ御あつけあるへき由、一日被仰候、此料足も定
而可為同前候問、(
略)
、適御域共候問、佐渡方へ御あつけ候て、
世上無為ニも候者、定造営あるへく候」
菅」は世上の争乱の折も、南郷や
と述べている。これによっても 「
矢部よりも安心できる要害堅固の地にあることが推測され、館と共に
と呼ばれている故に惟郷の城もあった
城も存在していたこと、「
御城」
肥後国誌』
『
佐渡氏が城番として管理していることがわかる。
とみられ、
笈石・
大薮・
中尾・
皿木・
によれば、上益城郡矢部手永菅村は、園・
地図にこ
大平の小村を含み、五万分の一
竹の谷・
白谷・
鳥原・
上菅・
れら地名を確認することができる。この地は背後に矢筈撤、内大臣山、
天主山に至る山地を負い、緑川上流の左岸に治って存在し、対岸北東
へ直線距離にして四キロメートル強の地点にある矢部とは独立した環
屋形ノ
境を形成している。この村にも 「園村」なる地名の小村、又 「
小松内大臣重盛の館祉の伝承を
という地名を有する社地があって、
原」
を有しているとされているが、これらのいずれかが実は惟郷の館城を指
しているものであろうと想像される。
惟忠は子供に恵まれなかったので、従来対立関係にあった惟兼の子
註
{担)
住
{お
)
{沼)
話
(惜同d
註
『捻d
睦
惟歳を宝徳三 (一
四五二 年養子に迎えたのではあったが、このこと
は、阿蘇社管領を称して実質的 に阿蘇郡を抑えていた惟兼系の支配権
をとり込んで、阿蘇 ・
益城両郡の
一円領主権を獲得するという政治的
効果をもたらし、惟忠の居館矢部の地は全大宮司領の政治的中心とし
てその地位を高めたと考えられる。以後大宮司職が埠直系の惟歳・惟
家と伝えられでも、なお健在な惟忠が政治的実権を保持し、矢部の政
治的重要性は低下していない。文明一
五 (一
四八三)年まで惟家の大
宮司としての行動が推測さるれが、文明一
六 (一
四八四)年には惟忠
は「
今度弓矢我々無誤候慮、重朝・惟歳・惟家より不快候」と、守護
菊池重朝と同盟した惟歳 ・惟方との武力対立を述べているが、この間
に惟忠の大宮司再任が行われたものであろう。結果は文明一
七 (一
四
八五)年幕の平の合戦で惟歳・
惟家方は破れるが、同年中に惟忠も病
ったものと思われる。惟憲は系図によれば
死し、惟憲が大宮司と・な
「
宮子
惟乗」と記され、文明 (一
四六九1一四八七)長享 (一
四八七
惟憲」・「
惟乗」の署名
連の権大宮司家文書などに 「
l一四八九)の一
例があるので、後年惟乗と改めたものであろi。又 『
新撰事蹟通考』
系図は惟識の子で惟忠の後嗣となったと説明している。し かし、惟歳
・惟家の没落、惟忠の死去は、結果的に南朝系・
北朝系大宮司の対立
を解消し、又、その前段階としての妥協の産物であった大宮司職と家
督の分化をも解消したことになり、惟憲は再び家督と大宮司の地位を
甲佐・
一
身に継承し、阿蘇 ・
健軍・
郡浦四社の支配権と、阿蘇・
益城
両郡の在地領主らの統率者としての地位を併せ持つことになった。明
応七 (一
四九八)年、阿蘇谷における阿蘇社の社務執行者である中司
によって作製された 「
野部御侍御番次第」によると、阿蘇谷の在地領
- 93 一
培
問
(ω)
柱
殻
(位)
部社家をも含めて一
主らは、一
七番に編成されて野部館に詰めること
が義務付けられている。このことは阿蘇大宮司による両郡の在地領主
の封建的結合が組職化されていること、又、その中心が矢部に所在し
惟憲の矢部館が大宮司館として定着し
ていることを確認でき、惟忠・
て来ていることを察することができる。
惟憲の子が惟長と惟豊である。惟長の文献上の初見は、文亀元 (一
五O一)年、将軍の御内書白日
に応ずると答えた請文に「
従四位惟長」
註 (訂 )
と署名している。菊池能運の死後、一
族から菊池宗家は継いだ政権と
菊池氏治下の城北の諸侍の一
五O五)
部との対立が生じ、永正二 (一
年九月、彼らは惟長の指南を求め、隈府の政隆との絶縁を明かにした
起請文を送 。惟長はこれを受けて、大友 ・
相良との連けい、菊池
註 (羽 )
治下の諸侍の一
味誘いかけを指示しているが、その働きかけは成功し
たとみられ、同年一二月には城・
隈部・
赤星ら老臣層をはじめとした
城北の諸侍八四人は起請文を送り、
(
略)
当国之事、惟長様可有御格護之由、各申定候、於自今以後、
「
無二心野心之儀、順逆可奉窓外無蝕儀候 (
略)
」
と、政隆に代って惟長を守護職に推戴することを申入れている。こ
れによって惟長は出兵し、政隆を追って隈府を占領していたとみられ
註 (姐 )
るが、永正三 (一五O六)年段階ではまだ惟長の名で宛行状が出され
ている。彼が武経と改めて菊池氏を継ぐベく、大宮司職を弟の惟豊に
ゆずるのは永正四 (一五O七)年も末のことであったようで、「
武経」
惟長様守
と署名する書状の端に阿蘇山衆徒年行事豪宣が注記して、「
護ニ御成候て、永正四年d十二月十三日隈部へ御社参候 (
略)
」 と述
註 (必 )
べていること、
惟豊加冠状に永正五(一五O八)
年の例がみられるから、
註(必)
(叫)
註
正式の大宮司の継承は永正四年の後半の時点であったのであろう。
惟長のあとを継いだ惟豊が矢部の館に居住していたことは、大友親治
永正五年同七月廿三日、於矢部到来、大友
同義長の書状写の奥に 「
・
註 (伍 )
同宿安養寺」とある例をはりめとし
殿之状、御使小国満願寺喜多坊・
て、多くの例を挙げることができる。ただ、菊池氏を継いで守護職を
武経)は、その地位に永くとどまり得、ず、隈府を捨てて、
得た惟長 (
時矢部館を占
阿蘇に帰り、大宮司の地位に復さんと、 惟豊を追って一
阿蘇氏の動向には、
拠していたものの如くである。能運死後の菊池氏・
隣国豊後をはじめ北九州に領域をのばしはじめた戦国大名大友氏の影
響を無視できぬが、菊池の三老臣家をはじめとする諸国衆らの独自の
領主化の方向と能運以来の菊池氏本宗としての領主制の指向、諸侍の
統率とが、政隆の場合も、武経の場合も矢敗したわけで、又、これを
助長する形で大友氏の働きかけが考えられる。惟長に追われた惟豊は、
日向国臼杵郡鞍岡にのがれ、この地の領主らを頼り、甲斐親宣の助力
を得て矢部を回復することになる。この地は高知尾庄に属するとみら
れ、同庄の在地領主らは南北朝期より阿蘇氏との関係が認められ、文
四八ご 年の記請文によれば、三田井附近の領主らは大宮
三 (一
明一
司の支配下に忠節を誓っている。鞍岡の場合も元弘の変で阿蘇氏が楯
武経)
龍った由緒を持ち、惟豊を助けたものと思われる。この惟長 (
惟前父子の矢部攻略、惟豊の鞍岡潜居から矢部回復前後の争いは永
・
八)年ま
五一
七l一
五一
四l一
五 (一
五一二)年頃より同一
正九 (一
での事件とみられ、その後、惟前は矢部をのがれて益城郡堅志田城を
格護して、同地を中心とする緑川左岸地域に影響を与えていたが、天
五四三)年堅志田を陥され、相良氏を頼り、その後、その
文一二 (一
- 94 ー
城
匙
(円引)
子
惟
賢
は
薩
摩
の
島
津
氏
を
頼
っ
た
。
以
後
、
惟
豊
は
大
・
永
天
文
・
享
と
禄
長
期
に
わ
た
っ
て
大
宮
司
の
地
位
に
あ
り
、
天
文
)
一
年
に
三(
は「
一
五
正
三
四
位
四
」
、
同
一
八(
一
五
四
九
)
年
に
」
を
朝
廷
か
ら
は「
授
け
従
ら
二
れ
住
て
い
る
が
、
こ
れ
ら
勅
使
を
迎
え
た
の
も
で
あ
っ
た
矢
と
部
み
ら
の
館
れ
る
。
『
八
代
日
記
』
の
記
事
の
中
か
ら
関
係
部
分
を
。
る
あ
で
り
通
の
次
と
る
げ
挙
間
「
矢
部
ヨ
リ
年
頭
祝
義
と
し
て
中
遣
」
(
天
文
一
五
・
五
・
二
四
)
候
「
矢
部
ヨ
リ
な
つ
れ
石
方
小
河
知
行
」
(
天
文
一
五
・
八
・
二
四
)
「
入
国
没
畑
落
候
市
醐
、
矢
部
ノ
コ
ト
ク
落
候
嗣
咽
刊
腕
」
(
天
文
一
九
・
三
・
二
)
「
矢
部
惟
豊
岩
尾
城
火
事
」
(
天
文
一
二・
三
・
五
)
「
矢
部
ニ
長
福
寺
被
遣
候
、
廿
七
日
ニ
帰
宅
、
阿
そ
殿
・
相
良
殿
和
融
之
儀
」
(
弘
治
二
・
正
・
一
八
)
「
矢
部
・
宇
土
ヨ
リ
八
代
ニ
両
使
、
始
テ
被
着
候
」
(
弘
治
二
・
六
・
二
ハ
)
氏
こ
れ
に
よ
っ
の
て
本
阿
蘇
拠
が
矢
部
で
あ
る
こ
と
が
、
相
良
氏
側
の
史
料
か
ら
も
確
認
で
き
る
が
、
特
に
惟
豊
の
本
城
で
あ
る
岩
尾
城
の
存
在
を
当
時
の
記
録
か
ら
こ
確
と
認
は
で
重
き
要
る
で
あ
る
。
こ
れ
は
惟
豊
の
館
が
当
然
そ
の
近
所
に
す
る
存
在こ
と
を
示
す
も
と
の
し
て
、
浜
の
館
が
惟
豊
の
館
で
あ
っ
た
と
み
て
よ
い
史
料
と
し
て
意
味
が
あ
る
か
ら
で
あ
る
。
そ
の
後
大
宮
司
は
惟
豊
の
子
惟
将
が
が
継
、
ぐ
天
正
一
一
(
一
五
八
三
)
年
に
去
弟
惟
種
が
死
継
し
承
、
す
る
も
の
の
翌
一
二(
一
五
八
四
)
年
に
死
去
、
そ
の
子
惟
光
が
幼
け
少
に
て
跡
を
た
う
。
こ
の
間
に
島
津
氏
の
圧
迫
が
加
わ
っ
て
下
益
領
を
郡
失
の
所
い
、
阿
蘇
勢
力
を
支
え
て
い
た
甲斐
宗
運
が
天
正
一
三(
一
五
八
五
)
年
に
死
去
す
る
と
、
更
に
隈
座
・
御
船
・
木
山
な
ど
を
失
っ
た
。
し
か
し
、
こ
の
間
阿
蘇
氏
の
本
拠
が
矢
部
か
ら
移
さ
れ
た
こ
と
を
示
す
気
配
は
史
料
の
上
で
FHM
Qd
五
人
質
部
矢
「
、
も
に
中
の
』
記
日
兼
覚
井
土
『
の
方
津
島
、
し
い
な
ら
当
見
は
、
に
う
よ
う
い
と
」
上
参
守
和
大
斐
甲
、
部
矢
従
「
、
」
候
遣
へ
部
矢
状
書
即
「
、
」
人
し
と
心
中
的
治
政
の
力
勢
蘇
阿
が
部
矢
、
で
ま
月
九
年
)
四
四
五
一
三(
一
正
天
あ
で
か
明
は
。
と
る
こ
る
い
て
し
能
機
て
、
南
北
朝
期
の
惟
時
の
時
に
そ
の
阿
蘇
大
宮
司
館
と
し
て
の
矢
部
館
は
、
以
上
可
た
し
在
存
に
部
矢
も
館
の
村
惟
・
澄
惟
く
続
、
き
で
が
と
こ
る
め
認
を
性
能
可
能
性
が
大
き
い
。
惟
郷
は
菅
に
館
を
か
ま
え
て
い
た
こ
と
は
明
ら
か
で
あ
り
、
一
・
室
町
南
朝
系
大
宮
司
は
南
北
朝
方
惟
武
・
惟
政
・
惟
兼
・
惟
歳
・
惟
家
と
続
く
期
を
通
ピ
て
南
郷
を
本
拠
と
し
て
い
た
。
(
矢
部
)
に
館
を
か
ま
惟
郷
の
子
の
惟
忠
が
、
文
献
の
上
で
、
明
ら
か
に
野
部
、
え
て
い
た
こ
と
が
確
認
さ
れ
る
初
例
で
あ
る
。
こ
の
矢
部
の
館
は
宝
徳
年
間
一
{
四
四
九
l
一
四
五
二
)
の
惟
兼
と
の
和
平
に
よ
り
、
阿
蘇
・
益
城
両
郡
を
は
じ
め
政
治
中
的
と
す
蘇
る
大
統
一
さ
れ
た
阿宮
司
支
配
勢
力
圏
の
心
と
し
て
の
位
置
を
占
め
る
こ
と
に
な
る
。
但
し
、
こ
の
惟
忠
の
館
が
発
掘
の
浜
の
館
が
ど
う
か
と
い
う
こ
と
は
文
献
上
明
か
に
す
る
こ
と
は
で
き
な
い
。
惟
忠
の
あ
と
、
惟
憲
・
惟
長
・
惟
豊
と
続
く
が
、
特
に
惟
豊
の
本
城
が
岩
尾
域
で
あ
る
と
い
う『
八
代
日
記
』
の
記
述
か
ら
す
れ
ば
、
こ
の
岩
尾
城
と
結
び
付
く
館
は
、
浜
の
館
で
あ
る
と
比
定
す
る
こ
と
が
自
最
然
も
な
理
解
で
あ
る
と
言
わ
ね
ば
な
ら
な
い
。
以
後
、
惟
将
・
惟
種
・
惟
光
と
続
く
聞
に
、
館
の
移
動
を
示
す
史
料
は
見
当
ら
な
い
の
で
、
少
く
と
も
惟
豊
を
含
め
た
四
代
の
大
宮
司
の
館
は
浜
の
館
を
動
い
て
い
な
い
こ
と
は
確
実
で
あ
ろ
う
し
、
又
そ
の
よ
う
な
条
件
は
兄
の
惟
長
の
代
ま
で
認
め
ら
れ
で
も
よ
い
し
、
更
に
は
惟
憲
・
惟
忠
の
代
ま
で
さ
か
の
ぼ
れ
る
の
で
は
な
い
か
と
考
え
る
と
こ
ろ
で
あ
る
。
矢
部
浜
の
館
の
終
末
、
材
開
起
(日明)
阿
蘇
大
宮
司
の
最
祉
後
の
館
で
あ
っ
た
矢
部
の
浜
の
館
館
跡
の
発
掘
の
結
果
、
の
家
屋
数
棟
分
の
火
災
に
よ
る
倒
壊
の
状
態
が
推
定
さ
焼
れ
失
て
し
い
る、
た
板
こ
と
は
明
ら
か
で
あ
る
。
又
二
O
余
点
に
及
ぶ
舶
載
の
陶
磁
等
器
や
金
の
延
が
池
の
脇
の
穴
か
ら
ま
と
ま
っ
て
、
ほ
ぽ
完
型
で
出
土
し
た
こ
と
は
、
貴
重
品
の
火
急
の
隠
と
く
を
思
わ
せ
る
も
の
が
あ
り
、
平
常
時
に
お
け
る
失
火
と
は
考
え
が
。
い
な
ら
な
ば
ね
わ
言
と
い
た
浜
の
館
の
終
末
こ
の
矢
部
の
と
そ
の
時
期
を
直
接
語
る
史
料
は
、
阿
蘇
文
書
を
は
じ
め
、
知
ら
れ
て
い
る
中
世
文
書
の
中
か
ら
は
何
ら
見
出
す
こ
と
は
で
き
な
い
。
従
っ
て
、
そ
の
史
実
に
せ
ま
る
た
め
の
史
実
を
確
認
す
る
と
い
う
間
接
的
な
方
法
か
こ
ら
、の
間
題
を
考
え
ね
ば
な
ら
な
い
。
そ
の
た
め
の
第
一
の
史
料
は
、
当
時
の
動
向
を
当
時
記
録
し
た
も
の
と
し
て
の『
上
井
覚
兼
日
記
』
で
あ
り
、
も
う
一
つ
は
、
後
代
の
記
録
の
う
ち
、
浜
の
館
に
関
す
る
記
録
を
含
む
最
も
古
い
も
の
が
『
拾
集
昔
語
』
で
あ
る
。
前
者
は
島
津
義
久
の
老
者
衆
の
一
人
で
あ
り
、
日
向
国
の
守
護
代
と
し
て
派
遣
さ
れ
て
い
た
島
津
家
久
の
補
佐
役
で
あ
っ
た
宮
崎
城
主
の
土
井
覚
兼
が
、
義
久
の
肥
後
経
略
の
中
で
、
度
々
動
員
さ
れ
、
日
向
の
諸
勢
を
指
揮
し
て
肥
後
・
肥
前
・
筑
前
に
出
兵
し
、
或
は
鹿
児
島
で
枢
機
に
参
画
し
た
こ
と
日
の
)
む
含
を
欠
中
年(
)
六
八
五
一
四(
一
1
)
四
七
五
一
二(
正
天
む
含
を
文
後
肥
『
、
方
一
。
る
れ
わ
が
か
う
が
係
関
の
と
氏
蘇
阿
に
聞
の
そ
、
り
あ
で
記
の
察
玄
辺
渡
司
甲
社
郡
の
城
益
上
、
は
川
早
佐
献
』
語
普
集
拾
『
の
収
所
』
書
業
一
)
四
四(
一
徳
七
正
、
れ
生
に
年
二
)
三
六
一
九(
彼
永
。
寛
る
は
あ
で
録
記
に
め
た
の
孫
六
子
一
、
年
五(
)
二
禄
元
九
は
録
記
の
生
で
こ
、
ま
で
年
人
た
き
司
宮
大
地
在
阿蘇
の
は
容
内
。
る
下
あ
治
で
の
も
先
た
め
と
ま
を
伝
所
の
来
以
祖
一
po
nヨ
国
と
、
大
宮
領
主(
早
川
城
主
)
で
あ
っ
た
先
祖
の
勲
功
を
周
辺
の
諸
司
の
支
配
日
老
古
蘇
阿
と
立
成
の
頃
じ
閉
、
て
い
る『
て
れ
し
録
ら
み
記
に
共
と
向
動
の
衆
阿
記
』
が
失
わ
れ
、
引
用
部
分
等
に
そ
の
片
鱗
を
残
し
て
い
る
に
過
、ぎ
ぬ
現
在
、
蘇
・
益
城
に
お
け
る
大
宮
司
支
配
下
の
様
子
を
伝
え
る
ま
と
ま
っ
た
史
料
と
い
う
考
こ
と
が
で
き
よ
従
う
っ
。
て「
新
撰
事
蹟
」
通
の
編
年
通
史
篇
、
及
び
系
図
、
又
、
『
肥
後
国
、
誌
』『
古
城
考
』
の
考
証
の
材
料
と
し
て
使
用
さ
れ
る
の
で
あ
る
が
、
そ
の
内
容
は
彼
と
は
一
世
代
を
・お
い
た
祖
父
の
し
、
伝
承
時
代
の
こ
と
に
属
釈
な
理
解
も
あ
と
彼
の
解
に
つ
、
い
て明
ら
か
に
誤
っ
て
い
る
部
分
や
、
一
面
的
。
い
な
ら
な
ば
ね
れ
さ
用
利
て
し
味
吟
応
一
で
の
る
、
種
公
迄
益
城
之
内
矢
部
に
被
阿
蘇
之
大
宮
「
中
古
以
来
司
惟
玄
察
は
、
同
書
一
。
る
い
て
べ
述
に
う
よ
の
次
で
中
の
」
事
付
之
に
々
館
在
御
遊
色
、
中
尾
城
は
御
要
心
能
域
と
御
座
、
候
雨従
阿
蘇
被
成
御
座
候
市
「
彼
岩
之
御
種
公
も
彼
御
地
へ
被
成
御
座
候
、
夫
故
に
御
家
老
古
よ
り
天
正
の
年
中
迄
惟
辺
に
御
陣
之
内
と
も
、
衆
替
る
替
る
に
御
城
番
被
勤
候
市
、
神
主
公
は
御
城
彼
浜
の
御
殿
と
も
、
浜
の
御
所
、
浜
の
御
屋
形
共
候
所
に
被
遊
御
在
館
て
被
成
御
座
候
」
乱
令
制
其
侭
其
世
早
御
成
被
、
館
在
御
遊
被
に
所
彼
に
通
之
古
迄
公
種
惟
「
国
候
ゆ
ゑ
、
彼
域
も
天
正
中
つ
比
致
落
去
候
」
に
末
終
の
そ
、
が
る
き
で
認
確
が
在
存
の
館
の
浜
に
中
の
承
伝
の
期
前
戸
江
と
光
公
、
惟
種
公
後
室
併
惟
か
か
わ
る
記
述
と
み
ら
れ
る
も
の
は
、
同
書
二
の
「
惟
れ
て
い
る
。
善
公
を
隠
し
奉
る
事
」
の
中
に
次
の
よ
う
に
述
べ
ら
外
其
、
故
候
伏
帰
令
江
摩
薩
に
発
初
氏
水
田
仁
氏
斐
甲
臣
家
御
の
蘇
阿
、
一
「
候
座
御
成
被
江
所
御
の
浜
達
御
若
て
両
に
室
前
後
同
の
も
公
れ
種
つ
い
下
惟
来
元
、
て
と
候
元
心
無
、
及
不
、
し
に
は
と
申
て
先
は
を
他
人
て
家
分
当
御
(下
図
)
金
石
の
御
家
人
に
南
郷
・
矢
部
・
両
高
森
・
男
成
・
早
川
の
城
主
兄
渡
辺
、 つ
弟
い
て
検
討
を
加
え
て
い
る
が
、
一
応
阿
蘇
家
の
帰
伏
を
求
め
る
方
向
で
名
和
氏
甲
佐
・
中
山
・
の
田
上
、
砥
用
上
島
の
田
上
、
北
里
下
城
・
坂
梨
・
西
・
北 を
通
ヒ
て
働
き
か
け
、
阿
蘇
氏
を
代
表
す
る
甲
斐
宗
運
も
応
じ
た
の
で
和
平
と
な
迫
、
此
人
々
一
同
に
申
談
候
は
、
御
後
室
は
小
宰
相
と
云
大
女
臆
と
能
き
隠 っ
た
が
、
こ
の
時
、
宗
運
は
和
平
条
件
に
海
東
・
小
川
・
網
田
・
郡
浦
の
返
還
問
居
の
在
所
へ
供
奉
仕
、
御
心
安
可
被
成
御
座
候
、
御
代
々
の
御
文
・
論
旨
・ 題
を
持
出
し
て
い
る
と
こ
ろ
か
ら
、
一
O
年
一
一
月
段
階
で
、
従
来
阿
蘇
勢
力
の
御
宝
物
は
男
成
明
神
の
御
宝
殿
に
奉
隠
、
一
大
夫
守
護
可
仕
候
、
其
内
論
旨 圏
内
に
あ
っ
た
こ
れ
ら
の
地
域
は
、
す
で
に
島
こ
津
と
方
が
に
明
移
ら
っ
て
い
る
・
口
宣
文
書
は
坂
梨
氏
背
負
可
申
候
、
此
外
の
御
宝
物
は
浜
の
御
所
江
し か
人
で
あ
る
。
こ
の
島
樟
と
の
和
平
も
同
一
一
(
九
一
五
月
八
に
は
三
不
)
安
定
年
ら
さ
る
穴
蔵
有
之
候
に
隠
風
置
、
迫
、
井
手
両
頭
在
番
仕
、
与
御
母
子
様
共 な
状
態
を
示
し
、
島
樟
勢
の
堅
志
田
城
攻
撃
が
行
わ
れ
た
が
落
城
せ
ず
、
一
方
花
に
被
成
御
上
京
と
申
ふ
ら
し
、
鳥
居
之
大
門
を
た
て
、
小
門
を
聞
き
、
注
連 の
山
城
が
築
城
さ
れ
て
島
樟
方
の
前
線
拠
点
と
な
っ
た
も
の
の
、
再
び
和
平
、
休
を
引
廻
し
、
諸
人
出
入
令
禁
制
可
罷
有
候
、
御
両
若
君
へ
は
坂
梨
氏
孫
太
郎態
と
な
戦
の
状 っ
た
。
同
一
二(
一
五
八
四
)
年
は
島
津
氏
が
肥
後
北
部
の
攻
略
西
源
兵
衛
、
渡
辺
軍
兵
衛
此
三
人
供
奉
仕
、
砥
用
矢
部
境
の
奥
田
丸
の
深
山 を
進
め
て
い
て
、
一
応
平
穏
で
あ
っ
た
が
、
一
二
月
に
至
っ
て
、
「
三
船
・
隈
座
御
(
略
)
」
幽
谷
へ
忍
ひ
隠
れ
守
仕
、
時
分
を
待
可
申
旨
申
合
、
弓
箭
之
事
」
が
問
題
と
な
っ
て
い
る
も
の
の
実
動
に
は
至
っ
て
い
な
い
よ
う
で
あ
老
即
ち
、
玄
察
は
島
津
の
侵
攻
に
よ
っ
て
臣
の
甲
斐
・
仁
田
水
が
薩
摩
に
帰
伏 る
。
こ
の
間
、
阿
蘇
氏
内
部
で
は
一
一
年
に
惟
将
の
死
、
二
一年
に
は
そ
の
跡
を
し
た
の
で
、
大
官自同
兄
弟
が
浜
の
館
に
あ
っ
て
は
危
い
と
す
る
諸
氏
が
す
す
め
て
、 嗣
い
だ
弟
の
惟
種
の
死
に
よ
り
、
そ
の
子
惟
光
が
幼
児
で
大
宮
司
と
な
る
と
い
う
館
を
捨
て
て
目
丸
の
山
中
に
隠
れ
の
た
と
あ
述
る
べ
が
て
、
い
る
わ
け
で 館
焼
亡 不
運
を
生
じ
て
い
た
が
、
更
に
同
一
三(
一
五
八
五
)
年
七
月
に
は
阿
蘇
勢
力
を
い
て
は
何
ら
触
れ
る
と
こ
ろ
は
な
い
。
に
つ
斐
一
手
に
ま
と
め
て
い
た
甲
宗
運
が
死
去
し
、
島
津
氏
》阿蘇
方
と
の
合
戦
が
行
島
津
義
久
は
天
正
八(
一
五
八
O
)
年
宇
土
半
島
の
阿蘇
方
矢
崎
城
攻
略
に
は わ
れ
た
。
こ
の
原
因
を「
拾
集
普
語
」
は「
益
城
郡
小
熊
野
花
の
山
城
根
本
弁
落
ビ
ま
り
、
翌
九(
五
八
二年
水
俣
を
攻
撃
し
て
相
良
義
陽
を
降
し
一
、
芦
北
郡 去
之
事
」
で
は
、
宗
連
の
死
後
、
阿
蘇
方
の
花
の
山
攻
撃
が
そ
の
理
由
で
あ
る
よ
を
入
手
、
更
に
義
陽
を
阿
蘇
攻
撃
に
て
向
、
わ
し
め彼
が
打
死
す
る
と
天
正
一
O う
に
記
し
て
い
る
が
、
『
上
井
覚
兼
日
記
』
に
お
け
る
同
城
落
城
は
八
月
で
あ
り
、
は
嗣
子
忠
房
に
は
球
磨
の
み
(
一
五
八
二
)
年
に
与
え
て
八
代
を
も
領
し
、
弟 そ
を
れ
以
前
の
七
月
一
六
日
、
宗
運
の
死
去
が
確
認
さ
れ
た
段階
で
、
就
夫
従
阿
蘇
「
義
弘
を
守
護
代
と
し
た
。
以
後
八
代
を
根
拠
地
と
し
て
島
津
氏
の
肥
後
経
略
、
海 家
成
も
申
来
候
、
又
者
宇
土
殿
取
を
以
隈
庄
可
遠
差
慮
出
之
由
申
候
へ
共
、
御
共
路
か
ら
の
肥
前
進
出
が
活
発
と
な
り
、
こ
こ
に
阿
蘇
氏
は
直
接
島
津
勢
力
と
接
触 被
成
事
候
て
未
落
着
候
」
と
、
す
で
に
宗
運
死
去
前
後
に
お
い
て
事
件
は
生
じ
て
す
る
こ
と
に
な
っ
た
。
い
る
。
こ
れ
に
は
、
多
分
宗
運
晩
年
に
途
絶
え
て
い
た
大
友
、
阿
蘇
と
の
連
け
い
『
上
井
覚
兼
日
記
』
に
よ
れ
ば
、
同
一
O
年
一
一
月
、
八
代
に
集
合
し
た
島
樟 が
復
活
し
た
こ
と
か
ら
生
じ
た
問
題
で
あ
ろ
う
か
と
推
測
さ
れ
る
。
八
月
の
花
の
勢
は
、
肥
後
中
央
部
の
経
略
、
堅
肥
前
志
有
田
馬
攻
の
撃
渡
に 山
海
の
件
と
共
に
、
城
落
城
・
の
一
方
、
島
津
氏
は
、
甲
佐
城
・
竪
志
田
城
萩
の
尾
城
・
木
山
城
津
・
- 97 -
(柏
原
有閑
){逆瀬
豊
前
)
落
、
守
城
城
さ
を
せ
庄
城
・
田
、
代
城
そ
は
れ
降
以
隈
後
伏
か
の
問
、
の
し
、
甲斐
て し
一
は
親
O
御
乗
船
月
一
城
一
月
、
ま
を
で
捨
て
『
上
井
覚
兼
日
記
』
に
は
退
却
し
た
の
で
、
益
城
郡
平
野
部
に
お
け
る
阿
蘇
勢
力
は
閏
八
月
の
う
蘇
ち
方
の
に
動
ほ
き
と阿
は
日
記
に
述
べ
ら
れ
て
い
な
い
。
一
O
月
。
覚
兼
は
肥
後
を
は
な
ん
ど
島
葎
の
勢
力
下
に
入
っ
た
。
れ
て
日
向
宮
崎
に
帰
陣
し
て
い
る
の
で
、
肥
後
に
お
け
る
小
さ
な
動
き
が
記
さ
れ
し
か
し
、
未
だ
矢
部
ぬ
は
島
と
か
津
こ
っ
ろ
方
た
の
で
で
あ
勢
力
あ
り
の
ろ
、
閏
及
う
八
と
ぱ
い
月
う
こ
と
も
考
え
ら
れ
る
が
、
一
応
小
康
状
態
に
あ
っ
た
一な
考
え
て
よ
い
九
日
に
は
矢
部
に
使
僧
が
遣
わ
さ
れ
て
和
平
と
な
り
、
本
営
と
な
っ
た
で
あ
ろ
う
。
と
こ
ろ
が
一
一
御
船
城
にと
一
月
も
下
旬
に
な
る
と
、
日
向
国
に
属
斐
る
が
、
阿
蘇
と
子
弟
が
質
人
と
し
て
送
ら
親
英
は
誓
書
を
提
出
し
た
。す
は
阿
境
を
接
れ
、
甲
し
て
蘇
方
の
重
臣
の
い
か
る
ら
、
高
知
日
向
尾
守
護
代
の
補
佐
役
で
る
覚
兼
へ
も
た
ら
さ
れ
た
の
は
、
次
い
で
九
月
に
は
親
英
船
が
御に
来
城
し
て
官
途
を
懇
望
し
、
仁
田
水
阿
蘇
家
中
で
南
郷
方
も
阿
蘇あ
高
森
の
城
主
の
高
森
惟
直
坦
老が
大
友
方
と
な
っ
た
と
い
家
う
情
蘇
阿
報
る
い
て
で
し
あ
と
圏
平
力
っ
城
益
勢
た
、
ど
を
な
。
部
る
す
続
城
来
い
て
て
し
と
一
者
二
使
月
殿
二
五
日
の
記
事
は
阿
蘇
森
高
手
替
之
様
子
ハ
、
稲
富
新
介
・
仁
臣
、
奉
行
衆
は
和
平
を
推
進
す
る
方
向
を
み
せ
た
の
に
対
し
、
渡
辺
玄
察
の
言
う
、「
田
水
・
村
上
を
城
へ
呼
入
、
仁
水
ハ
生
害
さ
せ
、
村
山
は
類
親
に
で
候
つ
る
問
高
森
・
坂
梨
・
田
上
・
西
・
北
迫
・
渡
辺
ら
は
、
こ
れ
に
批
判
的
で
あ
っ
た
の
で 田
生
捕
、
新
介
も
生
害
さ
せ
す
る
校
量
に
て
候
つ
れ
共
、
何
分
に
て
は
候
な
哉
落
、
か
彼
延
候
方
ろ
候
へ
由
被
う
也
」
か
。
、
島
津
方
の
稲
富
新
介
と
阿
蘇
方
の
奉
、と
し
対
に
英
親
守
和
大
斐
甲
た
い
向
出
行
人
と
み
ら
れ
る
仁
田
水
・
村
山
が
に
営
本
勢
津
島
の
二
城
月
船
九
御
、
日
五
翻
意
を
う
な
が
し
、
島
津
方
に
つ
な
、ぎ
と
め
る
べ
く
人
質
の
交
渉
を
含
め
て
高
森
は
方
津
島
で
出
向
い
た
と
こ
ろ
、
村
山
は
捕
え
ら
れ
、
仁
田
水
は
殺
さ
れ
、
稲
富
は
殺
さ
蘇
阿
よま
方
諸
頃
、
然
唯
、
候
綜
之
誼
静
、
参
被
下
幕
、
成
御
被
家
談
熟
度
今
「
る
と
こ
ろ
を
、
危
う
く
逃
げ
の
び
た
と
い
う
の
で
あ
る
。
ハれ
殿
蘇
阿
者
然
、
候
中
へ
最
堺
策
国
計
小
方
統
諸
義
、
、
者
居
候
来
申
り
被
の
あ
と
、
翌
天
正
一
四(
一
五
八
六
)
年
正
月
二
八
日
の
記
事
は
者 こ
節
、
此
問
候
得
聞
と
家
稚
幼
蘇
阿
の
で
ま
下
知
英
親
悉
、
候
得
聞
と
仁
之
儀
之
様
に
候
、
然
ニ
能
「
先
日
彼
手
の
衆
、
野
尻
方
館
へ
被
指
越
候
処
ニ
、
難
八
城
へ
碇
親
英
勘
忍
被
成
侯
可
然
候
」
分
、
畳
柏
I
周
・
逆高
知
尾
へ
拙
者
遺
候
、
其
衆
見
次
故
、
無
何
事
、
大
後 時
豊
、
が
英
親
甲
る
い
て
し
か
動
を
家
蘇
阿
に
的
質
実
て
っ
代
斐
に
光
惟
、
と
」
也
共
為
由
之
立
打
被
可
々
近
、
果
如
打
衆
可
方
森
高
、
也
礼
候
帰
被
船
三
。 口
た
っ
ま
し
て
れ
さ
送
押
て
れ
さ
戒
警
を
と
こ
る
ず
応
に
け
か
き
働
の
統
義
友
大
の
攻
を
館
尻
野
の
境
納
国
新
が
た
衆
い
口
て
大
っ
る
当
い
に
率
の
番
城
元
船
忠
豊 御
日
O
三
月
同
、
は
嘗
重
京亮
右
の
弟
の
英
親
、
と
る
わ
伝
に
方
蘇
阿
が
報
の
こ
し
た
の
で
、
し
て
後
詰
た
時
、
日
向
国
側
か
ら
覚
兼
が
輩
下
の
地
頭
衆
を
派
遣
状め
な
定
安
不
て
め
わ
き
は
中
家
蘇
阿
て
っ
よ
に
れ
こ
。
た
し
去
退
へ
尻
野
の
境
後
内
う
い
と
た
い
着
が
状
礼
る
す
対
に
と
こ
た
き
で
が
と
こ
る
す
陣
帰
へ
船
御
事
無
態
に
対
す
る
と
な
り
、臣
・
奉
行
衆
の
薩
摩
帰
伏
批
判
的
な
立
場
が
台
頭
し
た
老
あ
で
と
こ
の
後
以
旬
中
月
、
正
は
い
件
早
事
り
の
よ
記
日
上
八
、
二
で
の
事
記
も
の
と
攻
考
撃
え
を
ら
れ
、
大
友
方
と
結
ん
氏
で
薩
摩
受
の
け
た
高
や
、
惟
森
光容
の
弟
の
英
親
斐
甲
た
べ
は
尻
野
。
述
る
も
れ
に
わ
前
思
、
と
く
た
近
っ
も
に
後
豊
ら
の
と
考
を
目
丸
山
中
に
し
た
た
も
一
派
と
な
え
ら
れ
る
。
っ
隠
--
9.8
元)
忠
納
{新
重
賞
が
退
去
し
て
反
島
津
勢
力
の
拠
点
と
な
っ
て
、
高
森
方
と
相
呼
応
し
て
い
た
も
の
で
あ
ろ
う
。
無
事
御
船
に
帰
障
で
き
た
と
い
う
表
現
の
中
に
、
一
応
大
勢
と
し
て
は
島
津
氏
に
は
属
し
て
蘇
い
る
と
は
い
え
、
阿
勢
力
に
対
す
る
警
戒
の
念
が
感
U
ら
れ
る
。
高
森
攻
撃
は
二
月
五
日
行
わ
れ
、
高
知
尾
よ
り
覚
兼
へ
の
報
告
に
、
れ
ば
よ
「
新
州
を
と
し
て
、
各
彼
武
始
館
へ
馳
向
、
即
時
ニ
討
伐
被
成
候
、
(
略
)
殊
高
森
入
道
、
高
知
尾
衆
討
取
由
也
」
御
船
か
ら
の
新
納
忠
元
の
大
口
衆
と
、
日
向
高
知
尾
か
ら
の
高
知
尾
衆
に
よ
っ
て
高
森
攻
撃
が
行
わ
れ
て
い
る
こ
と
は
、
先
の
正
月
二
八
日
以
前
の
野
尻
攻
撃
は
そ
の
前
提
で
あ
っ
た
こ
と
を
示
し
て
い
る
。
新
納
忠
元
は
自
己
の
手
勢
と
日
向
の
島
津
方
武
士
の
み
を
動
員
し
、
阿
蘇
方
の
兵
を
動
員
し
て
い
な
い
よ
う
に
見
え
る
こ
と
は
、
阿
蘇
方
へ
の
不
信
と
阿
蘇
方
内
部
の
分
裂
で
あ
り
、
表
面
は
全
体
と
し
て
反
島
津
を
示
し
て
い
な
い
阿
蘇
方
を
動
員
に
よ
っ
て
刺
激
さ
せ
る
こ
と
は
不
利
と
判
断
し
た
の
で
は
な
か
ろ
う
か
。
以
後
、
天
正
一
四
年
の
島
津
氏
の
関
心
は
、
豊
後
・
筑
前
・
筑
後
に
移
り
、
日
記
末
尾
の
同
年
一
O
月
ま
で
の
聞
に
は
阿
蘇
氏
の
動
向
に
関
す
る
何
ら
の
記
述
も
み
ら
れ
な
い
。
又
、
天
正
五(
一
一
五
八
七
)
年
四
月
、
秀
吉
は
豊
前
に
下
着
し
隈
て
、
そ
の
月
の
う
ち
に
本
城
に
入
り
、
島
樟
を
降
伏
さ
せ
た
翌
月
に
は
佐
々
成
政
に
肥
後
を
与
え
て
い
る
。
先
の
天
正
一
三
年
間
八
月
の
島
樟
方
と
阿
蘇
方
の
最
後
の
合
戦
以
後
、
天
正
一
五
年
に
ま
お
で
け
の
る
期
大
間
宮
光
の
発
し
た
こ
と
の
確
か
な
文
司
書
惟
は
、
見
出
さ
れ
な
い
。
こ
の
間
に
光
・
善
兄
弟
の
目
丸
山
中
逃
避
も
あ
惟
惟
る
は
ず
で
あ
る
が
、
そ
の
坦
逃
避
行
の
は
じ
ま
り
が
、
閏
八
月
の
対
島
樟
戦
に
お
け
る
益
城
平
部
諸
城
落
城
の
直
こ
後
と
で
あ
る
よ
う
に
読
め
述
・
伝
承
と
る
後
一
致
代
す
の
記
nB
nヨ
る
よ
う
に
は
考
え
ら
れ
に
な
述
い
べ
。
は
じ
めた
二
一
日
段
階
ま
よ
う
で
に
九
月
矢
部
は
健
在
で
あ
る
阿
と
推
蘇
方
測
の
さ
れ
る
か
ら
で
あ
る
。
更
に
一
二
月
に
は
奉
行
衆
と
み
ら
れ
る
仁
田
水
・
村
山
ら
が
、
島
津
方
使
者
と
高
森
惟
直
の
説
得
、
翻
意
の
た
め
に
南
郷
高
森
ま
で
出
向
い
て
い
る
こ
と
か
ら
み
て
、
こ
の
一
二
月
末
ま
で
は
九
月
に
定
め
ら
れ
た
和
平
の
状
況
い
た
と
考
え
ざ
る
は
一
応
維
持
さ
れ
て
を
得
な
い
。
と
す
れ
ば
、
浜
の
館
が
天
正
一
三
年
末
ま
で
に
焼
失
す
る
よ
う
な
非
常
の
事
態
が
生
り
て
い
る
こ
と
は
考
え
ら
れ
な
い
。
又
、
天
正
一
四
年
五
月
以
降
、
島
津
氏
は
筑
前
豊
・
後
攻
略
を
意
図
し
、
こ
れ
を
逆
の
ば
る
こ
月
五
日
の
高
森
攻
撃
以
後
、
『
上
井
覚
兼
日
記
』
か
ら
阿
蘇
に
関
す
る
記
述
は
み
ら
れ
な
く
な
っ
て
し
ま
う
。
少
く
と
も
阿
蘇
氏
の
本
拠
が
島
津
勢
に
攻
撃
さ
れ
、
焼
失
し
た
な
ら
ば
、
地
元
の
伝
承
に
も
っ
と
鮮
明
に
残
っ
て
し
か
る
き
べ
で
あ
る
し
『
、
土
井
覚
兼
日
』
記
の
中
に
も
記
録
さ
れ
て
よ
い
重
要
事
件
で
あ
る
。
し
か
る
に
館
が
焼
失
し
、
宝
物
類
は
池
の
脇
の
穴
の
中
に
隠
さ
れ
た
ま
ま
と
な
っ
た
と
い
う
こ
と
は
、
や
は
り
あ
る
非
常
事
態
を
考
え
ざ
る
を
得
な
い
と
す
れ
ば
、
や
は
り
惟
光
兄
弟
の
目
丸
逃
避
の
問
題
を
天
正
一
四
年
以
後
の
事
件
と
結
び
つ
け
て
そ
の
妥
当
性
を
検
討
し
て
み
。
る
あ
が
要
心
る
先
に
も
述
べ
た
通
り
、
天
正
一
三
年
間
八
月
以
来
島
津
に
属
す
る
こ
と
に
よ
っ
て
、
表
面
上
一
応
安
定
し
て
い
た
阿
蘇
勢
力
は
、
そ
の
内
部
に
お
い
て
は
、
甲
斐
親
英
が
八
代
に
抑
留
し
さ
、
れ
た
後
は
統
制
力
が
ら
下
奉
行
衆
仁
田
水
・
村
山
低
の
島
津
協
力
派
と『
拾
集
昔
語
』
の
言
う
田
上
・
北
里
・
坂
梨
・
西
・
渡
辺
・
高
森
ら
の
反
島
津
派
が
生
む
、
更
に
反
島
津
派
は
、
高
森
甲斐
・
重
嘗(
野
尻
)
の
よ
う
に
大
友
方
と
結
ん
で
の
抵
抗
派
と
大
友
を
も
頼
ら
ず
目
丸
に
惟
光
を
隠
す
氏
こ
と
に
な
る
自
主
派
を
生
じ
た
も
の
と
考
え
ら
れ
る
。
更
に
大
宮
司
の
地
位
を
争
っ
て
矢
部
を
奪
い
、
後
堅
志
田
へ
移
り
、
薩
摩
へ
亡
命
し
て
い
た
惟
長
系
の
惟
賢
註
{切
)
蘇
の
阿
に
対
す
家
る
中
働
き
か
け
も
考
よ
う
な
条
件
え
の
ら
中
れ
で
る
天
。
こ
の
正
一
四
年
正
月
一
八
日
の
新
納
忠
元
の
よ
う
。
こ
の
野
尻
館
攻
撃
を
検
討
し
て
み
事
件
は
前
に
も
述
べ
た
よ
う
に
御
元
船
の
城
率
番
い
る
大
口
勢
が
、
島
の
新
納
忠
樟
に
背
い
し
た
、
高
高
森
方
を
攻
撃
す
る
た
め
に
日
向
高
知
尾
勢
の
協
力
を
確
保
森
方
を
孤
立
さ
せ
る
た
め
の
作
戦
で
あ
っ
た
と
解
さ
れ
る
。
こ
の
た
め
島
津
勢
が
す
御
船
か
ら
野
尻
ま
で
兵
を
動
か
当
と
す
れ
ば
、
矢
部
を
経
由
す
る
の
が
最
も
順
丸
な
経
路
で
あ
る
と
考
え
ら
れ
る
。
こ
の
時
、
惟
光
兄
弟
が
浜
の
館
を
捨
て
て
目
抗
し
山
中
に
隠
れ
た
の
で
は
な
か
ろ
う
か
。
阿
蘇
方
と
し
て
は
大
友
と
結
ん
で
反
向
き
、
よ
う
と
す
る
高
森
方
説
得
の
た
め
に
島
津
方
の
稲
津
新
介
と
共
に
高
へ
森出
を
村
山
は
捕
え
ら
れ
、
仁
田
水
は
殺
さ
れ
る
な
ど
の
被
害
を
含
め
て
協
力
の
態
度
、
ね
か
り
か
は
を
あ
で
意
真
り
の
も
め
つ
攻
尻
た
い
野
の
て
津
し
島
示
、
、が
た
っ
疑
、
り
た
れ
ら
え
捕
が
水
田
仁
・
山
村
の
派
力
協
津
島
、
と
こ
た
む
生
を
鬼
暗
心
臣
甲
斐
親
英
殺
さ
れ
た
り
し
て
発
言
力
が
低
下
し
た
こ
と
、
特
に
前
年
九
月
に
重
に
と
こ
る
え
抑
に
手
の
方
津
島
を
光
惟
、
で
側
館
の
浜
、
ら
か
例
の
送
押
代
八
の
出
尻
野
て
し
と
実
口
、
に
め
た
ぐ
防
を
大
拡
の
力
勢
津
島
反
の
中
家
蘇
阿
て
っ
よ
よ
の
こ
。
い
な
く
し
か
お
も
て
し
と
た
じ
生
を
倶
危
う
い
と
だ
の
た
れ
わ
行
が
兵
行
て
っ
よ
に
手
の
臣
家
派
津
島
反
が
出
脱
館
の
浜
の
光
惟
に
急
、
ら
か
情
事
な
う
兼
覚
井
上
『
、
ば
れ
す
と
だ
件
事
た
れ
し
わ
発
に
的
と
方
一
た
の
方
氏
蘇
阿
、
う
い
な
は
で
の
る
き
で
明
説
も
と
こ
い
な
が
事
記
の
て
い
つ
に
館
の
浜
ら
何
に
』
記
日
と
神
」
り
あ
れ
そ
お
る
な
と
敵
は「
て
撃
し
攻
対
氏
に
蘇
阿
は
久
義
津
島
。
か
い
に
方
樟
島
る
い
て
け
う
を
意
の
そ
、
れ
ら
み
が
と
こ
る
い
三
て
再
し
、
慮
て
考
し
に
他
。
る
れ
わ
思
と
か
い
な
は
で
の
た
っ
か
な
は
図
意
の
撃
も
襲
館
の
浜
と
も
と
・
船
御
、
が
る
あ
も
題
問
う
い
と
か
い
な
係
関
と
折
の
撃
日
攻
五
城
月
森
二
高
の
し
対
に
津
島
に
次
、
と
こ
い
な
ら
ぎ
か
は
と
る
す
由
部
経
矢
を
は
高
路
経
の
聞
森
て
疑
心
を
生
む
る
条
件
が
、
野
尻
攻
合
め
以
の
上
場
に
つ
け
加
え
ら
れ
る
よ
う
な
材
料
後
が
の
考
高
え
森
ら
攻
れ
な
い
こ
と
、
と
す
れ
め
よ
り
、
ば
事
件
の
発
生
は
前
の
野
尻
攻
め
の
時
の
方
が
可
能
性
が
大
き
い
と
い
え
よ
う
。
、
浜
の
館
焼
失
に
つ
い
て
は
、
惟
光
ら
け
の
た
脱
出
時
に
火
を
かの
か
、
た
だ
し
そ
の
後
の
こ
と
が
断
定
で
き
な
い
。
貴
重
品
を
池
の
脇
の
穴
に
隠
し
た
と
い
う
こ
と
は
火
災
を
予
知
、
前
提
と
し
た
の
か
も
知
れ
な
い
と
い
う
こ
と
が
で
き
る
。
一
光
は
矢
部
方『
拾
集
昔
語
』
は
、
島
津
撤
退
後
、
惟
の
館
に
帰
っ
た
と
述
べ
、
又
、
透
吉
の
目
付
が
浜
の
を
秀
進
て
い
る
が
、
鳥
居
門
の
こ
と
し
た
と
述
べ
吉
に
注
館
の
釈
次
第
で
は
、
館
は
ま
だ
健
在
で
火
災
に
あ
っ
て
い
な
い
と
も
言
え
る
こ
れ
の
解
し
、
帰
館
し
て
も
、
鳥
居
門
が
あ
っ
た
と
し
て
も
、
館
の
家
屋
の
焼
亡
の
有
無
を
し
か
し
、
天
正
一
直
接
示
す
も
の
で
は
な
い
と
い
う
反
論
を
も
生
む
で
あ
ろ
う
。
余町
えδ
く
巳
や
蘇
う
阿
よ
秀
ら
か
は
吉
の
光
以
惟
、
後
九州平定
五
年
秀
五
の
月
吉
小
・
藤
加
、
し
活
生
で
内
城
て
れ
さ
護
保
に
政
成
々
佐
の
城
本
隈
、
け
受
を
安
堵
、
れ
ら
け
預
て
れ
分
に
土
・宇
)
本
隈
本(
熊
は
弟
・
兄
善
光
惟
、
は
に
代
時
の
西
惟
浜
部
矢
の
降
以
半
後
年
五
一
正
天
て
っ
従
。
た
っ
か
な
は
と
こ
る
す
住
居
に
部
矢
目
の
弟
兄
光
惟
を
亡
焼
の
館
の
浜
、
に
故
。
い
な
れ
ら
え
考
は
値
価
在
存
の
館
の
ら
か
年
四
一
正
天
は
期
時
の
そ
、
も
て
し
と
い
び
な
結
け
接
付
直
と
件
事
避
逃
丸
考
が
在
健
の
館
も
後
退
撤
年
津
島
、
又
。
る
れ
さ
測
推
と
間
の
て
け
五
か
一
に
同
携
、
に
中
の
乱
混
の
一
人
国
後
肥
半
た
後
し
年
発
五
に
一
同
、
も
て
し
と
た
れ
ら
え
ち
う
の
年
五
一
正
天
も
合
場
の
こ
。
か
う
ろ
か
な
は
で
の
る
得
え
考
を
亡
焼
の
そ
治
政
の
司
宮
大
蘇
阿
世
中
は
館
の
浜
、
も
て
し
に
れ
ず
い
、
で
け
わ
い
よ
て
み
と
。
う
よ
き
で
が
と
こ
う
言
と
た
し
滅
消
て
し
後
前
と
命
生
、
が
い
な
ら
当
見
は
料
史
た
れ
触
に
れ
こ
接
末
直
終
、
の
は
館
に
の
浜
、
以
上
逃
中
山
丸
目
た
け
さ
事
を
避
氏
津
島
の
幼
光
た
っ
惟
あ
で
司
、
宮
の
大
少
の
後
最
- 100 -
(日 )
8
6
5『
続
史
籍
集
覧
』
第
一
冊
O
四
同
一
四
九
頁
、
l
一
文
書
二
阿
蘇
頁
(
7
)『
甲
佐
洞
甲
佐
三
宮
大
明
神
社
、
甲
佐
手
永
、
下
、
肥
後
国
誌
』
に
よ
る
。
博
氏
の
御
大
田
幸
教
示
蘇
家
文
書
9阿
一
二
二
号
号
二
六
四
右
(
叩
)同
同
右
一
二
二
号
。
る
れ
ら
み
が
例
体
具
に
」
鏡
大
佐
宇
「
、
ば
え
と
た
ロ)
(
阿
蘇
家
文
書
三
(
臼)
号
阿
蘇
神
社
文
書
(
M)
六
号
号
九
一
七
四
』
文
遺
(
日)『
安
平
権
的
統
伝
の
司
宮
大
、
け
避
を
決
対
の
と
澄
惟
て
め
と
つ
は
時
惟
日)
(
と
を
場
立
す
示
に
外
内
を
位
地
の
者
配
支
高
最
の
域
領
配
支
、
で
威
て
し
移
を
部館
に
矢
た
れ
、
離
て
は
と
み
澄
ら
か
と
こ
る
い
て
っ
惟
)
件
と
関
係
が
あ
る (
)
の
で
は
な
い
か
と (
『HU
a--ロ
(
)
(
)
必UT
期
、
は
の
い
図四
御
年
一
月
の
船
野
の
勢
津
島
詰
城
り
、
で
あ
尻
攻
め
に
路
故
そ
の
経
部
が
の
の
館
方
矢
疑
心
を
生
み
、
に
方
的
一
浜
件
発
生
し
た
事
こ
の
目
丸
逃
、
し
か
し
す
る
と
測
こ
ろ
で
あ
る
。
で
あ
ろ
う
と
推
他
い
ず
、
自
・
避
事
件
が
れ
の
き
る
史
定
で
即
館
の
焼
亡
と
断
も
、
し
て
放
火
と
島
で
は
あ
る
が
、
料
は
わ
ず
か
な
く
、
能
た
可
っ
在
で
あ
退
後
も
健
津
性
も
考
撤
え
ら
れ
得
る
。
し
か
定
し
な
後
が
、
ら
、
天
の
正
九
州
一
五
平
年
五
月
の
秀
吉
肥
部
の
政
々
成
後
国
は
佐
の
館
た
と
し
て
も
矢
存
在
て
い
も
し
に
与
え
ら
れ
、
し
浜
司
宮
大
た
し
臨
君
に
郡
両
城
益
・
ろ
こ
と
る
す
阿
住
、
居
ず
の
ら
光
な
惟
と
は
蘇
l
2
3)
(
4
(
幻)
- 1 01 ー
現阿蘇神社楼門
番可 時期 思わ
能f生 つに れる
。
正天 大カf てぃ そ
きーの
。
る
あ
も
性
能
可
る
い
の
上
以
。
い
な
ら
な
ば
ね
わ
言
と
た
っ
ま
し
て
れ
わ
失
は
命
生
治
政
の
て
し
と
館
O
二
頁
文
書
二
阿
蘇
l
一
)
二 (口
の
正五
年
天
一
ら
か
年
四
一
正
天
は
期
時
失
焼
の
館
の
浜
、
て
し
慮
考
を
と
こ
頁
五
)
七
二
右
(問
同
)
夫
保
品
阿
(
蘇
。
る
あ
で
の
も
る
す
測
推
と
と
こ
の
聞
の
年
ケ
(叩
頁
八
)
七
二
右
同
)
一
五
O
号
文
書
阿蘇
家
阿
蘇
文
書
二
l
二
七
九
頁
)阿蘇家文書(阿蘇文書一を指す)一三号 (却
(
号
四
八
一
同
、
号
三
八
一
書
文
家
(
泣
)阿
蘇
号
六
右
同
)
(
)同『右香奏二鏡O号』養和元年(治承五)二月二九日条 ((おM))阿同蘇右文一書六五二頁|一五九頁
(
註
(担
)
(お
)
(部
)
)
(訂
(謁
)
(却
)
(ω
)
(叫
)
(
お)
同
右
二
九
七
頁
阿
(
お)
六
四
二
書
文
家
蘇
号
(
西
幻)
厳
殿
寺
文
書
七
四
号(
『
熊
本
県
史
料
中
世
こ所
収
)
下
西
厳
殿
寺
文
書
は
す
べ
て
同
書
に
よ
る
。
(
右
お)
同
七
五
号
右
(
却)
同
六
二
号
号
六
八
同
右
却)
(
号
五
八
同
右
(
訂)
阿
蘇
文
書
二
・
二
八
九
頁
(
担)
三
頁
六
四
右
同
お)
(
頁
九
六
六
右
同
頁
八
四
三
同
、
頁
七
四
三
右
同
頁
六
二
三
右
同
頁
三
O
三
右
同
頁
九
五
二
右
同
頁
四
O
三
右
同
頁
一
六
二
右
同
同
右
六
五
三
頁
号
八
五
一
書
文
寺
殿
厳
(
位
)西
頁
六
六
六
・
二
書
文
(
必
)阿
蘇
、
月
八
年
四
正
(
叫
)永
惟
長
称
が
し
だ
ま
武
て
経
い
な
を
い
段
階
で
、
権
大
宮
司
宛
の
衆
徒
領
下
原
検
に
惟
豊
断
の
指
関
示
す
が
る
み
ら
れ
る
の
は
領
の
長
、
惟
以
(
必)
(
幻)
(伺 )
(却 )
(印 )
1 2
(伺 )
外
政
在
隆
撃
陣(
)
の
会
聞
攻
の
社
支
配
代
行
が
行
わ
れ
る
て
い
も
の
と
理
す
解
る
c
阿
蘇
文
書
二
|
一
一
一
一
頁
、
同
二
一
二
頁
同
右
二
五
七
頁
阿
蘇
家
文
書
三
一
一
号
、
同
三
二
ハ
号
浜
の
館「
元
冠
・
南
北
朝
・
浜
の
館
展
」
解
説
同
右
『
土
井
覚
兼
天
日
記
正
』
一
一
年
一
O
月
朔
日
条
、
同
一
二
年
一
二
月
七
日
条
-0-
第 四 章 関連遺跡 の調査
1 03
小
一
領
神
社
阿蘇氏歴代 の 菩提所 ( 福王寺 )
小市領大明神社 氏神也阿蘇末社ト云社記日当社旧云柳本大明神阿
蘇第一
宮咽
大ヲ合セ勧請ス天文年中御船
大第十一
榊
宮輔繍第二宮耽
輸
阿波守房行逆心ニ依テ阿蘇千寿丸惟将十三歳ニテ追討ノ為当所出
領ヲ寄進ス因ヲ小サキ鎧一
陣ノ時当社ニ参詣祈願シテ着替ノ鎧一
領ト云意ニテ小一
領大明神ト構ス千寿丸遂ニ房行ニ勝テ凱陣ノ時
於今
ン軍士ニ兵糠握飯ヲ与へ賜フ此遺風吉例トシテ
直ニ当社ニ妻、
ハ無シ天正ノ始薩
7
祭礼ノ日握飯ヲ神前ニ持出テ氏子ニ興右ノ鎧A
州ヨリ探リ侵シ又小西行長領分ノ時其臣結城弥平次神社寺院ヲ焼
払ヒ神宝寺器ヲ奪却セシ時ニ紛失ス
--
福王寺裏 手 の 墓地
浜町仲町の本通りから五Omほど南に入りこんだ山の根元にある小
一
領神社は、
現在の新町がもと宮原と呼ばれた地に、
寛仁二年 (一
O一
八)阿蘇大宮司友仲が創立したと云われ柳本大明神と称していた。肥
後国誌の浜町の項に
福王寺境内 の 足 手 荒神
、
一
福王寺関連遺跡
第45図
。
る
い
て
れ
さ
記
と
の
豊
惟
司
文
宮
大
、
で
と
命
三
こ
五
の
)
六
年ご
五
父
天
は
反
の
行
一房
船
御
軍
に
庭
前
の
勢
神
明
大
本
柳
、
日
十
月
霜
て
え
従
を
運
宗
甲
は
丸
寿
千
り
よ
に
斐
の
陣
出
が
左
清
手
井
司
門
衛
庄
時
の
そ
。
た
っ
行
を
願
点
祈
勝
戦
し
検
て
え
揃
を
丘
び
喜
丸
に
寿
い
千
大
で
は
の
た
し
上
献
を
握
の
飯
飯
赤
、
肴
酒
の
山
沢
と
に
祝
て
じ
乗
に
興
運
は
宗
、
が
た
え
ち
分
を
に
与
之
士
な
か
し
め
り
握
に
ち
う
の
手
が
わ
首
の
敵
の
の
船
御
手
井
や
城
で
い
出
に
ち
気
て
し
舞
い
鼓
舞
を
度
直
三
て
士
い
聞
を
軍
、
扇
い
た
う
を
歌
の
興
即
と
。
る
い
て
れ
ら
え
伝
と
た
し
陣
帰
り
取
討
を
行
一房
に
襲
夜
日
一
十
翌
、
発
と
社
神
進
領
一
小
も
号
社
に
、
れ
新
さ
を
寄
町
O
八
領
社
て
し
と
礼
お
の
勝
戦
供
の
人
十
数
ら
自
司
宮
大
は
に
祭
大
の
年
毎
れ
さ
崇
尊
く
て
し
と
神
軍
、
厚
め
改
。
た
っ
あ
で
ど
ほ
る
れ
さ
参
社
え
従
を
奉
飯
握
の
飯
赤
が
て
っ
が
た
し
に
故
れ
事
わ
行
が
礼
に
祭
は
日
十
月
一
十
も
在
現
。
る
あ
で
り
通
の
記
前
は
と
こ
る
い
て
れ
ら
配
て
し
廃
荒
間
の
年
十
数
れ
わ
払
き
焼
て
っ
よ
に
次
平
結
後
落
の
家
弥
城
去
蘇
阿
て
っ
よ
に
活
手
豊
允
藩
元
部
井
屋
庄
大
二矢
二
六
一
年(
郷
七
和
元
、
が
た
い
て
れ
さ
築
改
に
)
五
八
七
一
年(
八
永
安
後
の
そ
、
れ
さ
建
再
宮
遷
に
地
の
在
現
。
る
い
て
っ
至
に
日
今
の
時
往
は
水
湧
の
下
の
棒
大
の
見
妙
る
い
て
け
う
を
定
指
に
物
念
記
然
天
の
国
東
代
在
時
に
館
部
司
宮
大
矢
た
。
る
い
て
れ
蘇
わ
阿
云
も
と
っ
あ
で
洗
手
御
の
東
一
の
社
神
た
れ
さ
て
し
崇
と
尊
最
神
も
護
守
の
城
尾
岩
、
と
に
社
も
神
と
成
男
の
。
た
っ
あ
で
つ
阿
蘇
家
の
菩
提
寺
福王寺 阿
蘇家歴
代位牌
大宮司
m
家
の
菩
提
寺
で
あ
る
蘇
福
王
寺
は
、
現
在
矢
部
高
校
の
西
約
一
O
O
阿
ほ
ど
の
所
に
あ
る
。
「
肥
後
国
誌
」
片
平
村
の
項
に
山
知
福
王
寺
医
音
院台
伍
山
号
或
記
宗
叡
山
延
暦
寺
末
或
云
正
覚
院
末
寺
医
長
王
山
云
々
福
王
寺
村
ニ
ア
リ
天
大
宮
司
代
年
中
俊
養
法
印
開
基
ニ
テ
阿
蘇
文
方
ノ
々
内菩
提
寺
ト
云
一
説
ニ
ハ
大
宮
司
菩
提
所
ト
云
禄
年
中
大
宮
司
惟
忠惟
豊
及
退
転
年
貢
地
光
迄
寺
領
等
ア
リ
シ
モ
嘗
寺
ニ
蘇
惟
郷惟
也
阿
存
無
ス
境
内
ニ
墳
墓
ハ
之
惟
惟
前
将 惟
種惟
富
等
ノ
位
牌
ヲ
今
現
の
山
の
中
腹
、
在
畑
地
に
な
っ
と
書
か
れ
て
い
る
。
か
つ
て
は
片
平
村
の
北
側
し
、
春
秋
二
回
の
て
い
る
所
に
建
っ
て
い
て
十
五
坊
を
備
え
、
寺
領
八
O
町
を
有
極
と
な
っ
て
い
た
ほ
ど
隆
盛
を
必
ず
大
宮
司
が
参
拝
さ
れ
る
な
ら
わ
し
祭
葉
に
は
代
結
家
の
兵
城
弥
平
次
代
、
愛
藤
寺
落
去
後
小
西
領
時
め
て
い
た
。
然
し
城
阿
蘇
火
に
焼
か
れ
て
荒
廃
し
て
し
ま
っ
た
。
文
六
一
年(
三
寛
、
ば
れ
依
に
板
供
の
際
の
築
改
)
八
四
八
一
年(
元
永
嘉
養
現
て
し
立
く
つ
を
手
方
八
、
て
た
い
を
慨
志
を
が
頚
印
廃
法
の
堅
院
豪
寺
)
三
六
、
願
発
を
築
改
が
海
弘
院
寿
常
を
の
た
し
微
衰
に
更
後
の
そ
、
し
興
再
に
地
の
在
の
そ
。
る
い
て
っ
な
と
た
し
就
嘉
、
て
っ
至
成
に
乗
年
全
十
元
弘
職
永
住
の
次
房
。
る
い
で
ん
及
に
在
現
れ
わ
行
が
修
補
築
改
々
度
も
後
央
中
。
る
あ
で
処
た
っ
祭
家
を
牌
位
の
代
累
が
画
一
蘇
手
右
の
陣
内
の
院
寺
阿
が
像
木
で
や
ん
牌
並
位
の
山
沢
に
囲
の
そ
、
し
置
安
を
像
坐
の
来
加
に
陀
周
弥
阿
持
惟
・
豊
惟
、
が
る
あ
で
牌
位
の
付
台
の
五
七
さ
い
高
m
て
九
大
。
幅
る
は
い
仰
。
る
い
て
っ
な
と
m
漆
黒
O
O
一
さ
高
m
五
一
く
き
大
に
特
の
も
の
種
惟
・
は
幅
- 104 -
、
一
印培
陸
宝
公
種
惟
ん
で
あ
る
。
塗
り
で
次
の
様
に
彫
り
込
宇
「
前
大
宮
治惟
司
種
神
儀
住
」
に
側
左
神
儀
正
三
位
宇
拍握
郷
朝
巨大
蘇
前
大
宮
司
「
天
正
十
二
年
甲
申
八
月
十
三
日
」
阿
忠神
儀
司
忠
光
院
殿
宇
治
朝
臣
惟
帰
真
阿
蘇
前
大
宮
残
で
家
の
墓
と
し
て
形
な
全
は
、
完
部
で
の
応
一
と
い
う
刻
銘
が
あ
る
。
阿
蘇
矢
大
宮
司
従
二
位
宇
治
惟
豊 神
儀
帰
真
阿
蘇
前
っ
て
い
る
唯
一
つ
の
も
の
で
あ
る
。
蘇
前
大
宮
司
従
四
位
下
宇
治惟
長
朝
臣神
儀
。
の
る
い
阿
て
し
理
管
が
田
氏
福
男
村
畑
光
位
儀
神
字
将大
位
惟
臣
四
朝
治
前
司
宮
大
社
三
蘇
阿
神
儀
蘇
三
社
前
犬
宮
司
宇
治
朝
臣惟
種
郷大
上屋敷
墓地
阿
祇
神
臣
朝
前
惟
浜
治
の
宇
の
北
蘇
東
阿
、
川
向
う
の
今
村
に
上
館
と
呼
ば
れ
る
地
域
が
あ
る
屋
。
敷
も
と
家
の
別
邸
の
と
考
え
ら
蘇
れ
る
。
現
在
跡
は
田
圃
に
な
っ
て
い
る
が
、
そ
の
う
安
置
さ
れ
て
い
る
。 阿
木
像
三
体
が
こ
の
佐
牌
の
外
に
、
惟
豊
・
惟
将
種
・
惟の
尚
の
一
枚
の
田
圃
の
畔
に
、
小
さ
な
板
碑
が
三
基
と
宝
匿
印
塔
が
一
基
あ
る
。
宝
何
れ
も
衣
冠
束
帯
に
身
を
か
た
高
め
さ
た
坐
像
で
、は
台
上
回
三
聞
で
あ
る
。 ち
匿
印
塔
は
立
基
礎
や
九
輪
こ
そ
完
全
で
な
い
が
塔
身
や
笠
は
派
に
し
て
い
る
。
そ
の
に
身
塔
阿 蘇 家 関係 墓 地
姉
大
月
林
殿
桂
「
永
禄
元
成
午
八
」
の
刻
が
あ
る
。
今
村
の
人
た
公
ち
の
う
は
惟
ば
種
で
あ
っ
た
人
と
言
名
い
え
て
、
伝
普
通
桂
林
さ
ん
と
呼
ん
で
時
折
神
酒
を
供
え
て
祭
っ
て
い
る
。
家
で
ど
ん
な
阿
蘇
に
あ
っ
た
人
地
で
位
あ
る
か
は
っ
き
り
し
な
い
が
、
福
王
寺
に
し
は
た
飾
を
施
黒
の
塗
漆
「
揖
黛
桂
殿
林
月
大
姉
憂
婆
夷
尊
霊
位
」
墓
塔
ら
や
考
位
え
牌
かる
と
相
当
重
要
な
と
彫
ら
れ
た
立
位
牌
が
あ
こ
る
。の
派
。
る
れ
わ
思
と
た
っ
あ
で
方
な
も
と
も
と
こ
の
墓
は
田
圃
の
中
央
に
あ
っ
た
も
の
を
耕
作
の
邪
魔
に
な
る
と
い
点
に
う
の
と
で
あ
る
。
当
時
掘
り
上
げ
た
瓶
の
中
で
現
在
の
地
移
し
た
と
い
う
こ
、
矢
部
に
お
け
る
最
後
の
大
宮
司
と
も
云
う
べ
き
惟
種
は
惟
豊
の
二
男
で
あ
っ
た
。
一
O
年
(
一
兄
司
に
子
供
が
な
か
っ
た
の
で
、
そ
の
あ
と
を
継
い
で
天
正
惟
将
大
宮
五
八
三
)
冬
大
く
宮
司
な
っ
の
て
職
正
に
就
一
二
い
年
た
八
が
く
月
る
に
天
亡
あ
お
し
ま
っ
た
。
そ
の
墓
地
が
の
の
東
、
川
向
う
の
畑
山
の
麓
に
あ
る
。
普
通
「
浜
館
と
呼
た
っ
ち
よ
さ
ん
ん
で
い
る
。
」
き
つ
墓
は
幅
五
m
奥
行
壇
の
上
に
小
砂
利
を
敷
六
旦
晶
さ
七
O
佃
の
石
垣
の
基
め
、
そ
の
奥
の
方
に
幅
二
m
奥
行
一
・
垣
六
m
の
を
造
り
、
中
に
宝
健
印
塔
が
玉
建
っ
て
い
る
。
高
さ
約
一
立
・
五
m
っ
て
大
き
く
長
い
で
刻
み
の
浅
い
九
輪
が
目
に
塔
で
あ
る
。
塔
身
の
正
子
面
来
、
中
に
の
右
党
央
字
側
の
弥
陀
加
種
阿
一
- 105 一
人
骨
に
や
は
、
穴
あ
き
の
古
銭
相
た
の
が
が
見
当
ら
入
れ
れ
た
で
と
あ
い
っ
う
印
僅
こ る
宝
。
い
な
ら
当
見
も
つ
一
は
塔
墓
な
全
完
て
っ
ま
し
て
れ
荒
り
か
っ
す
。
と
で
あ
る
。
そ
れ
ら
は
そ
の
ま
h
現
在
の
墓
塔
の
。
下
と
に
の
る
こ
と 塔
れ
埋
ら
め
て
け
お
い
受
た
見
が
の
る
い
て
し
在
散
の
ど
な
珠
宝
、
輪
九
や
笠
の
塔
の
輪
五
や
。
る
あ
で
と
地
墓
の
村
に
聞
る
い
て
し
理
管
同
共
で
村
平
片
所
が
墓
の
る
あ
代
で
数
家
蘇
阿
。
る
い
て
れ
ら
作
い
ば
一
が
墓
の
人
個
も
に
辺
周
も
に
部
心
中
、
い
ま
し
て
っ
な
福王寺裏墓地
た
と
思
わ
れ
る「
端
の
蘇
畑
の
畦
に
、
新
し
く
替
え
だ
南
の
正
三
位
阿
建
て
た
福
王
寺
の
西
北
方
裏
手
に
当
る
処
に
裏
蔵
寺
跡
と
い
う
台
地
が
あ
る
。
そ
こ
に 前
文
巳
五
月
朔
日
」
明
十
七
年
乙
石
忠
之
墓
大
宮
司
宇
治
朝
臣
惟
と
刻
ま
れ
た
墓
郷
目
な
板
碑
が
数
個
建
っ
は
て
巨
い
る
大
の
が
特
に
を
ひ
く
。
台
地
上
に
は
よ
く
見
に
身
塔
の
欠
残
の
塔
印
鑑
宝
る
あ
に
壇
基
の
つ
一
m
る
と
石
垣
で
築
乃
き
至
上
四
m
げ
た
方
三
の
基
壇
が
北
南
に
二
列
に
並
ん
で
い 「
位
儀
神
殿
院
口
光
る
の
が
見
え
る
。
基
壇
は
間
隔
を
、お
い
て
東
側
に
二
個
、
西
側
に
四
個
残
っ
て
い
」
旬
上
月
二
十
未
奨
年
一
十
正
天
阿蘇大宮司墓所
第46図
惟種 の 宝箆印塔
と
上屋敷桂林 さ ん
御廟
- 106 一
と あ る こと によ って、 阿 蘇 家 の墓 所 であ る ことを 偲 ば せ る。 隆 盛 であ
った 頃 は さ ぞ か し立 派 な も の であ った ろ う と 思 わ れ るが 、 現 在 は荒 れ
で わ び し い。
岩 尾 城 祉 や 通 潤 橋 の西 、轟 川 を へだ てた 下 市 の杉 山 の ふも と に、
本 の古 い大 銀 杏 の木 のあ る 広 さ約 五 O od ほ ど の墓 地 が あ る 。 「
御 廟」
と 呼 ば れ て いる。
此 処 が 阿 蘇 家 矢 部 在 館中 最 も 隆 盛 を 極 め た 大 宮 司惟 豊 の墓 所 であ る。
惟 豊 は大 永 、 永 禄 に か け て の室 町 末 期 、 肥 後 の中 央 部 を 阿 蘇 、 益 城 、
託 麻 、 宇 土 そ の他 豊 後 、 日向 、 或 は薩 摩 な ど の 一部 を も 領 有 し 三 十 数
惟 豊 は そ の叡 慮 に応 ゆ る た め 、 戦 乱 疲 弊 の中 、 百 方 手 を つく し て金
奉
光
国
原
藤
介
権
江
近
兼
排
中
在
頭
人
蔵
惟
は
皇
天
良
奈
後
。
た
し
上
献
を
之
)
九
文
四
五
一
得
年(
八
一
天
を
、
匹
万
一
豊 の忠 誠 を 大 いに嘉 賞 せ ら れ て、 居 な が ら に し て特 に従 二佐 に晃 叙 の
天文 十 八年 八 月十 四 日
恩 典 を 賜 わ った ほ ど であ った 。
案
口
後
皇
天
良
奈
宣
賞
一回
日
正
三
位
宇
治
宿
祢
位
二
従
叙
宜
保
重
源
将
中
近
権
右
奉
衛
頭
人
蔵
然 し そ の残後 天 正 年 間 に至 って薩 摩 の侵 攻 によ り 阿 蘇 家 は 没落 の悲
運 に遭 い、 矢 部 落 去 の後 は こ の墓 地 を 守 る 人 も 乏 し く 、 昔 日 の面 影 は
万 石 の武 士 の棟 梁 と し て勢 威 を 張 って いた 。
天 文 一三 年 (一五 四 四 )時 の後 奈 良 天 皇 は わ ざ わ ざ 烏 丸 中 納 言 光 康
失 わ れ 、 現 在 付 近 の下 市 組 の人 々 によ って か ろう じ て管 理 さ れ て いる
禁中 御 修 理方 別西 抽
節
重 猶 円 被- 省 之 由輪 命
そ こ に は 宝盤 印 塔 が 二基 、 無 縫 塔 が 一基 な ら ん で立 って いる。墓 石 の
壇 が あ って、 そ のす ぐ 南 隣 り に大 き な 銀 杏 の木 が高 々と そ び え て いる。
惟 豊 の墓 の南 横 に、東 西 に幅 二 m長 さ 五 ・五 m高 さ五 O mほ ど の基
落 ち た 砂 の中 に埋 没 し て いる の で は な いか と考 え ら れ る 。
いる 。 これ が惟 豊 の墓 だ と 云 わ れ て いるが 、 大 方 は上 の山 か らく ず れ
ま って墓 地 の中 央 に当 っ てお り 、 四 角 な 長 い大 き な九 輪 のみが 残 って
塔 の不 完 全 な も のが そ れ ぞ れ残 って いる。 特 に三番 目 の基 壇 は少 し奥
南 にな ら ん で石 垣 で築 いた 方 二 ・五 mほ ど の基 壇 が 三 個 あ り 、宝僅 印
入 口も 分 ら な いほ ど であ り 、 西 北 側 は 杉 山 が 追 って いる。 現 在北 か ら
墓 地 は南 北 に長 く 、 東 側 は県 道 白 糸 線 に そ って民 家 が 建 ち な らぴ 出
程 度 であ る。
を こ こ矢 部 の里 に つか わ せ ら れ 、 阿 蘇 神 社 に は 心経 を 奉 納 、惟 豊 に震
翰 並 び に松 風 の香 炉 を 賜 わ り 、 住 階 を 進 め て内 裏 修 理 費 の献 上 を 勧 奨
せ ら れ て いる。
上 階 事 所清
憐
後
奈
良
天
皇
論
旨
一大
官
-芯
清
想
件
抑
執
何
也
河候
阿蘇大宮 司館
日 左
中
九
排(
花
押
月
)
十
六
口
皇
天
案
良
宣
奈
後
文
天
十
三
年
九
月
十
六
日宣
旨
正
四
位
下
宇
治
惟
豊
宿
祢
宜
叙
従
三
位
--
107
御廟
滝
ケ
老
五
だ
た
。
い
な
身
塔
二の
れ
と
み
々
読
中
と
く
多
が
分
部
た
け
り
き
っ
は
欠
も
字
文
文
。
る
れ
ら
見
が
字
う
い
と
」
参
O
正
O
天
亥
、
O
大
栄
妙
安
巳
盛
は「
ら
か
あ
基
二
が
碑
板
は
に
端
南
最
。
る
れ
ら
見
と
々
点
が
欠
残
の
塔
墓
も
に
外
の
そ
。
る
か
わ
が
と
こ
る
あ
で
塔
修
逆
て
っ
よ
に
銘
刻
は
れ
こ
、
が
る
谷
渓
っ
従
く
に
多
部
が
。
滝
る
ケ
あ
老
が
五
「
」
は
に
谷
の
南
の
矢
祉
城
尾
岩
素
て
れ
ら
め
眺
に
近
身
も
最
も
で
中
、
が
る
あ
で
ど
ほ
る
え
数
を
八
十
四
も
滝
て
そ
、
m
O
五
さ
高
。
る
あ
で
滝
ケ
老
五
の
こ
が
の
る
い
て
し
示
を
観
景
い
し
ら
晴
実
は
濃
飛
の
本
一
る
ち
落
び
飛
て
て
た
を
音
と
う
ど
う
ど
を
塊
岩
状
柱
つ
立
り
そ
に
見
事
な
眺
め
で
あ
る
。
と
の
部
へ
勅
使
文
五
四
四
)
は
る
ば
る
矢
辺
地
一
三
年(
一
こ
の
滝
は
嘗
て
天
司
が
豊
惟
宮
大
の
時
、
め
た
る
め
慰
を
情
旅
の
康
光
言
納
中
て
丸
し
烏
た
し
向
下
な
に
覧
ご
「
て
っ
よ
に
事
故
の
こ
。
る
あ
で
滝
る
あ
緒
由
う
い
と
た
し
供
に
覧
観
云
わ
れ
て
い
誰
し
、
「
五
老
ケ
滝
」
と
な
っ
た
と
っ
が
た
」「
ご
ろ
う
じ
た
」
と
転
る
。
地蔵坂
至
近
世
リ
A
7
ノ
道
ヲ
開
ニ
往
還
ニ
ア
リ
此
街
道
昔
ハ
南
ノ
谷
ニ
有
シ
ヲ
「
南
郷
タ
ル
穴
ア
リ
中
ニ
万
木
鎧
拝
ク
ト
云
宝
暦
九
年
此
坂
路
傍
ノ
岸
崖
レ
テ
其
中
ニ
穿
林
の
項
に
書
か
れ
て
い
る
。
こ
の
地
国
誌
」
の
畑
轡
一
掛
有
シ
ト
云
」
と「
肥
後
向
街
道
の
登
り
口
で
あ
る
。
登
り
は
む
め
る
川
向
う
の
旧
日
の
の
東
蔵
坂
は
浜
館
家
が
っ
て
い
る
。
そ
の
裏
に
横
穴
が
三
個
ほ
ら
れ
の
民
建
と
や
が
て
右
に
一
軒
側
熔
の
質
軟
る
れ
わ
云
と
」
う
ぐ
に
崖
の
層
岩
う
と
「
に
俗
の
元
根
の
山
。
る
い
て
に
連
っ
て
い
て
幅
二
高
さ
一
・
五
m
奥
行
ほ
ら
れ
た
横
穴
は
、
左
二
個
は
鍵
形
m
る
。
A
7
ほ
ど
で
あ
は
そ
の
家
各
六
m
ほ
ど
で
、
右
端
の
は
奥
行
三
の
塵
捨
て
場
m
々
の
不
に
な
っ
て
い
て
、
用
種
物
投
れ
て
い
る
。
げ
込
ま
が
付
近
の
人
の
話
で
は
、
戦
前
に
砂
利
の
代
り
に
使
う
た
め
山
を
掘
り
く
ず
し
た
に
家
く
な
際
、
そ
の
広
っ
た
場
所
が
建
っ
た
と
い
う
こ
と
で
あ
る
。
横
穴
も
一
部
く
ず
し
取
ら
れ
た
も
の
と
考
え
ら
れ
る
が
、
残
っ
て
い
る
所
が
更
に
加
工
し
た
も
の
で
あ
る
か
ど
う
か
は
は
っ
き
り
し
な
か
っ
た
。
誌
穴
の
中
に
あ
っ
た
と
い
う
武
「
肥
正
器
後
類
国
に
つ
い
て
」
「
私
案
天
に
ノ
通
始
大
宮
司
惟
種
袈
後
惟
光
惟
善
幼
稚
ノ
日
前
ノ
大
宮
司
前
薩
州
へ
内
シ
薩
兵
惟
当
地
ヲ
屡
侵
掠
ル
時
大
宮
司
ノ
重
宝
等
ヲ
男
成
宮
ノ
神
ニ
殿潜
シ
散
在
セ
シ
時
土
ニ
埋
ミ
蔵
セ
シ
と
武
書
器
い
て
ニ
ハ
い
非
る
ス
ヤ
。
」
惟
兄
弟
が
薩
兵
か
ら
の
光
が
れ
て
目
丸
に
か
く
れ
る
時
の
こ
と
に
つ
い
て
「
拾
集
物
語
」
に
は
重
宝
類
を
男
成
神
社
に
か
く
し
た
こ
必
は
勿
論
の
こ
と
此
の
外
の
、
御室説明
「
は
浜
の
御
所
江
人
し
ら
さ
る
穴
蔵
有
之
候
置
に
」
と
い
う
様
な
処
置
を
し
た
隠
こ
と
も
書
か
れ
て
い
る
。
今
次
の
浜
の
の
調
査
館
中
で
跡
に
地
か
く
し
て
い
た
と
思
重
わ
な
れ
遺
る
貴
品
が
数
多
く
発
見
さ
れ
出
土
し
た
こ
と
な
ど
か
ら
考
え
て
か
、
ら
も
更
に
上
屋
館
か
敷
ら
も
ほ
ど
近
い
こ
の
山
の
中
の
地
蔵
に
、
横
穴
を
掘
っ
か
坂
て
武
器
な
ど
を
く
し
て
お
い
た
の
で
あ
ろ
う
と
断
U
て
い
る
の
書
肥
き
後
方
国
は
誌
十
分
う
な
ず
け
る
こ
と
で
あ
る
。
(
志賀定光)
- 1 08 ー
使 わ ず地面 ま た は地面 を 掘 り く ぽめ た と こ ろ へ木 ま た は枝類 を 積み重 ね て 点火 し 、 燃 え つ く
と 笹 な どで、上 を 覆 っ て 蒸 し 焼 き に し て つ く っ た 。 炭 質 は柔 く 、 松 ・ 栗 ・ 栃 ・ 杉 が良 い と さ れ
た。
⑥ ヴ ス タ イ ト ( Wu s tite ) FeO と 酸素 ま た は鉄 と の 固溶体を ヴ ス タ イ ト と い い 、 普通Fe l 一
xO で示 さ る る 。 す な わ ち FeO は純粋体で は な く 、 常 に酸素 ま た は鉄 を 固溶 し て い る 。 し
た がっ て ヴ ス タ イ ト を冷却す れ ば570 ・ C で分解 し 、 Fe 3 0 4 と 酸素飽和 の α 鉄 と の共析晶 に変
化す る 。
⑦ フ ァ イ ヤ ラ イ ト (Fayalite ) 2 FeO ・ S iO 2 。 古代製鉄で は 、 、 砂鉄 と 木炭 を 原料 と し 、 こ
れ に炉材粘土中 の珪酸 が反応 し て 次の様 に な る 。
C → 3 FeO
CO
一一一一一
Fe 30 4
(砂鉄
木炭 ) (Wustite ) (一酸化炭素 )
2 FeO S iO 2
→ Fe 2 S iO 4
(2)
( Fayalite )
(珪酸
金属鉄 に な る 過程で FeO の一部は (2) 式で示 さ れ る よ う な 還元不能 な珪酸鉄 ( Fayalite )
に な り 、 こ れ が鉱津の 主成分 に な る 。
⑧ 湊秀雄 ・ 佐 々 木稔 「 タ タ ラ 製錬鉱j宰の鉱物組成 と 製錬条件J た た ら 研究 . 第 14号 . 1968 。
⑨ 窪田蔵郎 「古代製鉄 に も 媒洛剤 は 用 い ら れて い た」 日 本金属学会会報. 第15巻. 第 6 号.
1976。
⑩ 大津正 己 「福 岡平野 を 中 心 に 出 土 し た鉱浮の分析J r広石古墳群J 所収. 福岡市教育委員会.
1977.
⑪ 松本健郎氏 の 御教示 に よ る 。
+
Table
符
号
+
+
(1)
鉄 j宰 の 化 学 組 成
1
全
出 土 ( 椀形浮 )
浜 の 館鉄淳 、 庭 園 都池底
参考値
宇土郡三 角 田I 中 村柳 迫 出
土製錬浮 ( 古代 )
酸化
酸化
酸 化ガ
金属鉄 酸化事 l 鉄 酸化事 2 鉄 二酸化荏薫 酸 化
7ル ミ ニウ ム カ ル シ ウ ム マ グネ ン ウ ム マ ン ン
(MgO ) ( M nO )
(F e ,03 ) (SiO, ) (AI,03 ) (CaO )
M i
(T ,..' Fe) ( ;'I:II C) (FeO )
試 料 履 歴
3 K- 6
鉄
(% )
67. 20
0 .06
64. 1 9
24. 66
5 . 75
2 . 18
1 . 01
0 .34
0 . 05
21 . 22
0 . 14
9 . 05
20. 07
36. 30
12. 75
3 . 15
1 . 86
0 .8
玉 名 市春 日 六段 出 土 製錬
i宰 ( 中 世 )
1 .42
一酸化 酸化 ヲ ロ ム 硫 黄
チタ ン
(T i O , ) (C r,03 ) ( S )
燐
(p)
炭 素 1\ナゾウム
(V)
(C)
銅
(Cu )
0 . 13
0 . 01 l
0 .04 0 . 245 0 . 1 1 3 0 .008 0 .004
8 . 16
0 . 13
0 .07
0 .5
14. 52
※
分析 は 新 日 鉄八幡製鉄所で行 な っ た 。
造 j宰 成 分
Siû 2 + A1 2û 3 + Caû + Mgû
- 109 一
造津成分
造浮成分
T i0
2
TOlal Fe Total Fe
9 . 28
0 . 138
O .∞2
54. 06
2 .54
0 . 38
文献
※
③
⑨
註
① 大鍛冶 。 和銑 ま た は鍋を 原料 と し 、 こ れ を 半熱半融 し 、 脱炭 し て鍛冶 し 、 錬鉄 を 製造 す る
方法。
鍋 ( け ら ) 。 日 本古来の直接製鋼法 と も い う べ き 鍋押 し (和銅製造法) に お け る 粗製品で、
成分上 は 、 各種品質 の鋼の集合体。
② 球磨郡 多良木町大字黒肥地字蓮花寺。
③ 球磨郡 多 良 木町大字黒肥地字黒肥地。
②③ 出土の鉄津 は 各 3 個ず、つ鉱物組成 ・ 化学組成 を 調 査 し て 、 そ の結果 を 報告書 に ま と め
て 熊本県教育委員会 に提出 し て い る 。 近 日 中 に 報告書は刊行 さ れ る 予定。
④ 玉名 市教育委員会 「玉名 市の 文化財j 第 4 輯 1 8頁。
⑤ 小炭 ( こ ずみ ) 。 古来の鍛冶作業 に 用 い た 木炭。 大炭 ( 製錬用 の 炭 ) と ち がっ て 、 炭窯 を
第47図
( Photo
1
浜の館出 土鉄湾の顕微鏡組織 )
鉄
鉱
物
組
成
X l00
一 1 1 0-
津
の
外 観
x -t
⑦
イ ト (Fayali te : 2 FeO ・ S iO z ) の灰色棒状 の結晶 で 占 め ら れ て い る 。 鍛冶浮 は再製錬の た め 。
W�s tite の発生 が大 き な も の に な る n
c ) 化学組成
分析結果 を Table 1 に示す 。 全鉄分 (Total Fe ) は 67. 20% と 非常 に 多 く 、 こ の う ち 、 酸化
第 1 鉄 (FeO) の 占 め る 割合は大 き く 64. 19%であ り 、 造j宰成分 ( SiO z + Al z 仏 + CaO + MgO)
は9 .28% と 反対 に 少 な 目 で あ る 。 ま た 、 二酸化チ タ ン (TiOz) 0 . 13% 、 パ ナ ジ ウ ム ( V ) 0 .008
% と 非常 に低 目 で あ る 。
浜の館出土鉄津 を 参考値 に 比較す る と 、 例 え ば柳迫の製錬淳 は 、 全鉄分 (Tota! Fe )21. 22% 、
酸化第 1 鉄 (Fe 0 ) 9 .05% 、 造津成分 ( S iO z+Al z 0 3+CaO 十MgO ) 54. 06% 、 二酸化チ タ ン
(TiO z ) 8 .16%等 と 極端 な 差異 が認め ら れ、 此の二者の 聞 か ら 鍛冶津 の 違 い が明確 に わ か る 。
す な わ ち 、 鍛治津 は 、 ま だ 不純物 を 多 く 含有 し た還元鉄や銑鉄 を 原料 と す る た め 、 こ れ等 に
含 有 さ れ た 突雑物 が絞 り 出 さ れ て 出 来 た 二次的 な 生成物で あ る の で、 造津成分 は 少 な く 、 か っ 、
二酸化チ タ ン (TiO z ) や ヴナ ジ ウ ム ( V ) 等 も 一次製錬津 に 移行 し て い る の で低 目 と な る 。 ま
た 全鉄分 (Total F e ) が高 目 に な る の も 、 未還元 の酸化第 l 鉄 (FeO 、 と 再製錬時の酸化反応
に よ っ て 生 成 さ れ た 酸化第 1 鉄 (FeO ) の割合が大 き く な る か ら で あ る 。
ぞ れ に ひ き か え 、 製錬津 は 、 製鉄原料の脈石 (製錬上邪魔 に な る よ う な 不純物) 成分 と 造津
剤 ( 主 に炉材粘土 ) の混融物で あ る た め 、 造浮成分 ( S iO z+Alz 0 3 + C aO +MgO ) は 高 目 に
な り 、 全鉄分 (Tota! Fe ) は還元 さ れ て 比較的低 目 に な る 傾向 が あ る 。
4 . まとめ
浜の館出土鉄津 は 、 中 世未期の鍛冶浮 に位置ず け ら れ る 。 鉱 物 組 成 は 、 成 長 し た 多 量 の
W �s tit e (F eO ) と 少量の Fayalite ( 2 F eO ・ S iO z ) で構成 さ れ て お り 、 化 学組成 は 、 全鉄物
(Total Fe ) や酸化 第 1 鉄 ( FeO ) が 60% を 越 え 、 造津成 分 は 10% を 割 り 、 二酸化チ タ ン
(TiO z ) 1 %未満、 パナ ジ ウ ム ( V ) は小数第 3 位 に 数値 が く る と い っ た 典形 的 な鍛冶津 タ イ
⑩
プを示 し て い る
こ の鍛冶津 も 椀形津 と し て の形態 を 呈 し 、 鍛治炉 も 鉄j宰 の サ イ ズ か ら 推定 し て 、 直径200 凹
内 外 と 考 え ら れ る 。 ま た 造津成分 が10%以 下 で外観的 に 組患 で あ る と こ ろ か ら 、 小鍛冶 の 作業
にともなって生
成させたものと
言えるかも知れ
ない。
もっとも鍛冶工
房で大鍛冶や鍛
え鍛冶の
作業も併せて行な
う可能性があり、
また、
羽口の検出や遺構
の検討等総合的な
判断が必要なの
で、 大鍛冶・小鍛冶の区別 は差控えるとしても、 鍛冶作業で発生した椀形津であることには間
ta
違い な い。
今回 の 分析結果 か ら 、 熊 本県下で蓮花寺 ・ 鼠景館 と 3 個所の椀形津 が確認 さ れ た が、 他遺跡
か ら 出土 し て い る 鉄浮 を 分類 し て ゆ け ば、 ま た 増加 し て い く と 思 わ れ る 。 浜 の館の 南 に準 え る
⑪
岩尾城跡 か ら も 鉄j宰の 出 土 があ っ て い る こ と か ら 、 こ れ ら の比較検討 も 必要で あ ろ う 。
最後 に な っ た が、 本稿 ま と め る に 当 っ て 、 分析関係の デー タ ー で御援助頂 い た 清 水 峯 男 氏
(元新 日 鉄生産技術研究所部長、 現在 九州 大学工学部冶金学教室教授 ) に厚 く お礼 を 申 し 上 げ
て筆を欄 く こ と にす る 。
( 大津正 己 )
第 5 章 浜 の館遺跡 出土 の鉄浮 分析
大津正 己
1 、 は じめに
熊本県上益城郡矢部町浜町 に 所在 し 、 中世 ( 15世紀後半 か ら 16世紀頃 ) に 比定 さ れ る 浜の館
遺跡 か ら 、 出土 し た鉄津 1 個の 調査 を 行 な っ た 。
比 の 調査鉄津 は 、 80-問剛の楕円形 を 呈 し た浅い椀形 ( 中央部厚 み30刷 の鉄津で、 大 鍛JZ
の際 に 生成 さ れ た も の で あ る 。 此 の タ イ プの鉄津 を椀形j宰 と 呼 ん で お り 、 熊本県下で の 調査例
②
③
と し て は 、 球磨郡の蓮花寺跡、 頼景館跡等があ り 、 い ず れ も 鎌倉時代 の も の で あ る 。
ま た 、 未調査の た め 、 大鍛冶j宰 か小鍛冶浮 か さ だ かで な い が、 玉名市の 六段製鉄遺ぽの鉄津
も 、 鎌倉時代 の椀形津 と し て 挙 げ ら れ る 。
最近、 こ の様 に 、 熊本県下で は鍛冶遺跡での椀形津の発見 が増加 し て お り 、 中世 に お け る 鉄
生産 (鍛冶 ) が、 自 給体制 と し て城館や寺院の よ う な ブロ ッ ク ご と に 行 わ れ て い た こ と が実証
さ れつ つ あ る 。
な お 、 浜の館遺跡 の 出 土鉄j宰 は 3 点、 (約150g) で、 羽 口 や遺構の検出 は な か っ た が、 共伴物
と し て 、 銅分の付着 し た ル ツ ボ が発掘 さ れ、 鍛冶以外に金属加工 を 検証 さ せ る よ う な 資料 も 提
供している。
2 、 調査方法
1 ) 試料及び調査項 目
浜の館出土鉄津 は 、 庭園部の池底 か ら 採取 さ れ た も の で あ る 。 鉄j宰 は 、 水道水で十分 に洗糠
し た後 、 二分割 し て 検鏡用 と 分析用 に 分 け た 。
検鏡試料は 、 鉄j宰の 中央部の 最 も 偏析の 少 な い と 思 わ れ る 個所 か ら 採取 し て 、 ベ ー ク ラ イ ト
樹脂 に埋込 み 、 エ メ リ ー ペ ー パ ー 及 び仕上げパフ で研磨 し た 。 分析 は 、 湿式法 に よ る 定量分析
を行な って い る。
3 、 調査結果
鉄浮の 外観写真 と 鉱物組成 を Photo 1 に 、 ま た化学組成 はTable 1 に示 し て い る 。
a ) 肉 眼観察
⑤
表皮 は赤褐色 を 呈 し 、 小 さ な 凹 凸 があ り 、 局部的 に赤錆 を つ け て い る 。 ま た 小炭の痕跡 が認
め ら れ る 。 裏面 は球形 を な し 、 火窪の痕跡 を 明瞭 に と どめ 、 炉壁粘土の付着 が認め ら れ る 。 裏
面 も 表皮 同様、 赤褐色 を 示 し 、 局部的に 滴下状部分があ り 、 赤錆 の発生 も 顕著で あ る 。
破 面 は黒褐色 を 呈 し 、 比較的 多孔質 で あ る が比重は大 き い 。 重量 は 595g
日
⑥
9u
b ) 顕微鏡組織
白 色粒状の ヴス タ イ ト ( Wüstite : Feü) が多量 に存在 し 、 そ の粒聞 を わ ず か に フ ァ イ ヤ ラ
伝
承
の
な
か
に
生
き
て
い
た
浜
の
館
第
六
章
まとめにかえて |||
ーーー
一、はじめに
第一
浜の館」
次発掘調査最終日の昭和四九年二月二二日の午後、出
「
土した庭石類の取除きを終わり、がらんとなった遺跡中央に立ち厳寒
のなかで五ヶ月にも及んだ調査を思い、ある種の感慨にも似た気分に
い た時のことである。
っ
浸て
冬の弱々しい日溜りを通して、見馴れた喋群の散乱する一角を見つ
めているうち、いつもと違った異様な引かれるような感覚に襲われた
今日どうしてもこ
と感ビる、と同時に、急に 「
何か有る」
のである。「
の場所を調査しておかなければ」という思いが頭をよぎった。後にし
種
て思えば、これが過去二0年間幾多の発掘調査によって培われた一
の勘といったものであったのかも知れない。
庭石の取り上げを終え運搬車に積みこもうとしていたブルドーザー
を再び現場に運び、っかれた者の様に問題の問所を約三O咽の深さに
急いで排土した。案の定、排土した跡に黒い二つの落込みが現われた
のである。当日は三時から調査関係者全員で送別会を近くの食堂で行
なうことになっており気がせいてはいたが、せめてこの二つの落込み
の略測と、写真撮影だけは済ましておこうと思い落込み内の排土を始
めた時のことである。最初の出土遺物である三彩社丹文瓶の胴部の緑
軸がキラッとして目を射たのである。灰色の瓦器片と燈明皿の地球な
色ばかり見馴れていた我々の目にその緑色は言うにいわれぬ新鮮さを
持って迫ったのである。はやる心を押え、まず作業員の手を制し慎重
に箆 (
ヘラ)掘りするように指示した。
それから二時間、この二つの落込みから全一
一
一
点にものぼる阿蘇家
の宝物が続々と姿を現わしたのである。
二、調査の動機とその目的
qa
唱EA
唱・
・品
越
四八年九月のことである。上益城郡矢部町浜町にある県立矢部高校
校舎が老朽化したため全面改築工事が行われることになった。この校
地一帯は昔から地元の古老遣の聞で阿蘇大宮司家の浜の館跡と伝承さ
れてきた場所である。
この伝承を裏付ける
ように 「
肥後国誌」
の矢部荘今村の項に
は陳の内浜御所跡と
して左記のような記
述が見られる。
「
陣ノ内浜御所 、
浜ノ御殿トモ
云長福寺村陳ノ
内云所ノ平原北
高クシテ上へ平
カ也、是ヲ城ノ
平ト云、南ハ畑
川ヲ隔テ岩尾城
出 土 し た 多数の 土師質土器 (燈明皿)
第48 図
御前渡 L
-
.'
・ 1
~ ・
. .,
,
・ 1・
1
・目
・:
・
.
・
2 ・ ・
.,
-
-
・
.
­
ー・・目 ・ ・ ・ -­
a ・ ・ ・ ・ ・ ・'l
l,
.ー ・
­
ll
{・
i---- ・
・1
i 目.
}i -
・
・
・・・
s
f
目
・
•
.・
•
•
•
.
•
•
•..•..
•
­
•
•
- 1 14 -
O 印 免祖地
大
川
町
(現国道}
;
路
海
水
一
城 前
一
1\\". . . . \
i
規模
矢部 町大 字 平字 東 田
明治の地籍図上 に見 ら れ る 浜の 館の
第49図
N
五
天正十四・
迩ナリ、
此地阿蘇大宮司五十六代ヨリ後数代在館ス、
下略|||」
年ノ此阿蘇家落去ス|| |以
文中にある陳の内なる地名は忘れ去られたのか古老達の聞にも知る
人はいないが、城の平は現在も矢部高校北側台地上にその地名を留め
ている。
浜の館は以上のように伝承上からその存在が推定されるだけで、過
去に一度も遺物が出土したわけでもなくいわゆる周知の遺跡ではなか
った。しかし伝承にいう遺構が存在する可能性もあるので、文化課で
部に試掘溝を入れ予備調査を実施した。この結果多数
は現運動場の一
の燈明皿片、青磁器片の出土を見、遺構の存在が確認されたので第一
次調査を計画、引続いて調査にはいった。一次調査の最大の目的とす
るところは発見された遺構が浜の館跡であるということを明確に立証
させることにあった。
第一次調査に引きつづき第二次調査と長期に亘って実施したが、当
初の目的を達成し学問的にも種々の貴重な成果を得たので、そ の主な
ものについて概略ここで御紹介いたしたい。
三、阿蘇氏と浜の館
御存知ない方もあると思われるので、この浜の館を構えていた阿蘇
氏の事についてここで一言触れておきたい。
後は
阿蘇氏は、大和朝延の全国統一前から阿蘇地方の首長で、統一
国造としての地位を戦国期まで保持し、近世以後は阿蘇神社の神宮と
して現在にいたっている家柄である。現在一の宮町にある阿蘇神社の
阿蘇惟友氏がその末孫であることは周知のとおりである。このように
FD
'EA
国家形成以前からもっとも明らかな形で連綿と続いている家は日本に
も少ない。
五年(
七
元々阿蘇氏は阿蘇谷を根拠地とする豪族であったが、延暦一
九六)以来しばしば朝廷に火山活動を報告し、そのたびに神の位階は
昇進し阿蘇家の権威は高まった。
O七七J八O)には中
平安中期荘園制が進むに従い、承暦年間 (一
央権力と結び大宮司として領主的支配に転換する。一二世紀前半まで
に甲佐、郡浦
健、
軍社を 末社としてその社領も支配下にいれ、こうし
た経過の中で小園、矢部を加え武士団の棟梁として成長を遂げている。
鎌倉時代に入るとこのような阿蘇氏の成長に伴ないその勢力も阿蘇谷、
南郷谷から外輪山を越え、小園、矢部へと
拡 がっていく。矢部浜町に
大宮司の本拠地としての 「
浜の館」が設置されたのはこの時期承元元
年一二O七年頃で、文献は鎌倉初期の惟次大宮司をもって浜の館の祖
としている。(
しかし、
確実に文書でその存在がおさえられるのは南北
朝の惟時大宮司の頃からである。) その後戦国末期の天正一
四年 (一
五八六)頃の島津氏の進攻により浜の館が落去するまで約三八O年の
問、矢部浜町は阿蘇氏の本拠地となって栄えた。
次 発掘調査
四、第一
予備調査に引き続いて、運動場に約二、ooodの発掘区域を設定
し第一次調査を開始した。第一次の発掘調査によって明らかになった
浜の館の家屋、庭園、出土遺物に ついて順を追って述べていくことと
する。
家屋につい
て
まず現運動場から約六Omの深さに表土を剥いだところ焼土と木
炭を含む赤い一層が現われた。肌分れする面から上に乗った土をき
れいに剥ぎ取った後、高い所に登って眺めるといたる所にうず高く
積った崩れた壁土の山、漆喰、炭化し倒れたままの柱、竹材、なか
には地面につき立ったまま炭化した竹などさながら全焼した火事場
がそっくりそのまま埋没したといった状態である。やけ落ちた焼土
の聞から数個の礎石が顔を出している。これらの礎石を目安にして
焼土類を取り除くと、その下に隠れていた礎石の列が次々と姿を現
わした。失われていた礎石もあったが、礎石の配列からこの家屋を
復元すると桁行七問、梁間四聞の南面した長方形の家屋が考えられ
第一棟家屋に伴な う 蜜
第50図
一間の長さは、桁行で約一
九O畑、梁行は四間中真中の二聞が二
三O畑、両端が二一omで数値が異っている。この事実から両端の
部分は板張りの様であったと思われる。この.
ように各々の一間の聞
の数値が意外と正確であるので畳の使用も考えられる。また家屋の
中央西寄りの所には矢部の
季
冬
の厳 寒をしのぐ為であろうか炉が設
けられていた。
両端の縁の部分を除き畳を敷くと二
分
八
の
畳
広
さがあるが、炉の
基底部が西側寄りに設けられているところから推定すると、家屋中
央東寄り付近に部屋を二つに隔てる間仕切り等が存在していたのか
も知れない。天井板もしくは床板のどちらかを板のかわりに丸竹を
並べてその代用としていたらしいことは多量の丸のままの竹炭の出
土からもある程度推察できる。壁は、中世から近世の住宅に見られ
om位の壁で
る小舞を壁土で塗り込め、上から漆喰を塗った厚さ一
あったらしく白漆喰が多く出土している。壁土に混って五個前後の
角釘が若干出土している。この時期の建物には釘の使用は比較的少
ないように思われる。
この家屋の屋根は入母屋造で茅葺だったようである。数年来大々
的発掘調査を実施している福井県の一乗谷にある朝倉居館跡でさえ
も槍皮葺であったか板葺であったか明らかでないのであるが、当浜の
ひ と握り以上も出土したことから茅葺であっ
館の家屋は炭化した茅が
たことが判明した。
家屋西側には、四三O×三七O仰の範囲にEってこぶし大の川石
を敷きつめたたたき部分が設けられていた。四角には掘立柱の柱穴
と思われる落込みが認められる。建築史でいう中門の変形したもの
-116-
ア
る。
か、車留めか今後検討すべき問題であろうが、入口部分の設備であ
った可能性は強い。
側の一
部が焼土木炭
類によっている庭園
池部の上に設けられ
ていることなどから
恐らくこの家屋は一
六世紀後半頃、前の
建物が火災に遇った
後応急的に設けられ
た建物のように思わ
れる。現在のところ
浜の館全体の発掘が
終了していないので
この家屋がどの部分
の伺にあたるのか不
明であるが、日用雑
器等の生活用品の出土をあまり見ないところから対面所的性格の建
物であったと思われる。そしてこの建物も火災によって終えんを遂
げている。いかなる原因によるものか明らかではないが、この火災
を最後に阿蘇氏は矢部浜町を離れ現一の宮へ拠ったと思われる。
この家屋以外に今回の調査では三棟の建物を確認している。同時
期のもの二棟と、前時代のものが一
棟であるが共に礎石は失われ下
の根石のみ残存しでいた。またある時期には外庭一
面に白い山砂を
敷きつめた時代があったらしい。各家屋の周囲には一般に見られる
排水溝等の施設は存在しなかった。
庭園について
円,
,
唱EA
唱E4
浜の館内に庭園が存在するのでは、という考えは調査の当初から
あったが、発見の直接の切掛けとなったのは家屋の礎石を取り上げ
た後、各礎石下の根石の有無を調べていた時であった。第一
棟家屋
の西側の一
部に重なり合った状態で列石の一
部が頭を現わした。こ
れが庭園内の池の東畔であることは後になって判った。庭園の規模
は南に一
部発掘調査不能の場所があり、はっきりしたことは言えな
いが、山の斜面を利用して庭石を配置してあり傾斜の終わった個所
に東西に約一二円 南北に約一
六mの池を持つな庭園である。当時
多く作られた心字池ではないが、池の中央には二トン程度の浮石が
据えられ偉容を誇っている。
池のなかには多量の焼土、木竹炭、灰、離、備前系の大空片など
落ち込んでいたが、それ等を取除いた結果、約六O佃の深さを持つ
池であることが判明した。
イ
以上は発掘によって鵬気ながら掴めた浜の館内の一家屋の姿であ
る。さてこの家屋の建立年代であるが、床下から出土した六枚の中
園、朝鮮の銭貨やその他の遺物、後で発掘した庭園の池の部分との
重なり合い、先に発掘した北側礎石との高低差などから総合的に判
断すると数百年に亘る居館存続期間中、比較的新しい時期の遺構で
あったことが推定され得る。
根石も一
礎石等が、
部分にしか使用されておらず家屋の西
小さく、
三の 数字が墨書 された 第一棟礎石
第51図
池の畔の部分は、掘り下げた地山の上に平らな石を安定した状態
に置きその上に別の石を縦に並べているが、石と石との聞には漏水
を防ぐため粘土による目張りが施されている。池底は粘土質の黄色
土に掘り込まれているため漏水は少なかったと思われる。池底には
極水の証しとして鉄分の沈澱と約一O佃のヘドロ状灰色土の堆積が
認められた。
池の水は約五Om離れた崖下にある勇水から引いたものらしい。
また池の排水溝は池の南側に設けられていた。
庭園の庭石は大小さまざまで、特に大きなものは九つであるが、
大きいので後世邪魔になったものかその殆んどが倒され穴を掘って
埋められたり元位置から動かされていたりした。
石は凝灰岩、安山岩、珪石等が使用されていたが、青珪石は清和
村か内大臣 (
津留)にしか産出しないので、特に庭石として清和村
あたりから運ばせたものであろう。
これら庭石を配した聞は、川砂利と砂をもって充てられている。
また池の周囲に見られる大小の落ち込みは、すべて不規則な形状を
成しているところから樹根の跡と考えられる。当時、緑なす松の老
木が枝を張っていたのであろう。
この庭園の作られた時期は、出土遺物やその他から見て室町中期
をやや下った頃ではなかろうかと考えている。
また、この庭園の東側五Omの所に 「
お花畑」という地名が残っ
ている。中世の豪族屋敷内には花畑等の地名が残るところが多いの
で、花畑の存在の可能性は強い。当浜の館内にも中世人が好んで植
えた牡丹の花が咲き乱れる花畑が、あるいは実在していたのかも知
れない。
これら庭園や花畑に沿って建てられた諸家屋等は、その機能面か
ら考えればやはり対面所的性格のものであったと思われる。
出土遺物について
この浜の館から種々の遺物が出土しているが、ここでは特に庭園
二点にものぼる阿蘇家の宝物に
の池の畔の二つの穴から出土した一
ついて御紹介しよう。
第二八は直径一三O畑、深さ六omのほぼ円形の穴であるが、人
頭大の礁に混って黄金延板一個、破璃製郎三個、白磁置物二個が出
土した。
09である
その各々について説明すると、黄金延板は、わずか一
が、この延板を縦横十文字に巻き何物かを中に包み込んだといった
状態で出土した。この状況からこの金の延板自体が神事の際の御正
みしようたい)と考えられる。
体(
破璃は現在のガラスであるが、当時は宝物として取扱われたもの
である。鉛ガラスと思われるが三っとも腐食のため乳灰色を帯び、
ずっしりとした手ごたえは玉杯を努髭とさせる。底には緑刻による
文様が見られるが龍を彫ったもののようである。
前後の小
パク)を形取った九四
白磁の置物は、玉取り獅子と獲 (
さなものである。作りは形式化され平板的で迫力はない。
玉取り獅子は置物とした以外に沖縄等でみられるように魔除けと
したものかも知れない。また摸は、背中に物を立てる筒を背負って
いるが、これは線香立てとしたもののようである。
以上第二八から出土した遺物はいずれも大宮司としての儀式の施
--
118
ウ
行を想像させるものばかりである。
二
、緑軸水注 (
二対)
第三穴からの出土遺物は、三彩鳥型水注 (
、染付牡
対)
、三彩牡丹文瓶 (一
、緑紬陰刻社丹文水注 (一対)
対)
第一穴から北へ一O
)、青磁金子 (一個)などで、
丹唐草文瓶 (一対
O叩離れた同様の穴から出土した。出土状況から考えると木箱の類
のものは倒れたり破損したもの
に入れて埋納したものらしく二、コ一
もあったが、ほぽ整然とした状態であった。
水注、瓶関係の焼物は交祉三彩と呼ばれる低温で焼かれた焼物で、
緑、黄、茶の美しい色彩を施したものである。水注というのは水差
しの事であるが、二
対も出土している
彩鳥型水注は素晴し
い。背中に水を入れ
るところがあり鳥の
口ぼしが注口となっ
ている。黄色やこげ
茶色の口ぱし、そし
てその背に離を背負
ったこの可憐な四羽
の水鳥達は、約五O
永い眠
7
O年を経たA
りから覚め現代に珪
えったのである。
7
彩牡丹文瓶はA
ニ
山 崎家 に伝世す る 肩衝茶入
第52図
でいう徳利である。緑軸を地にその胴部のふくらみいっぱいに黄色
の牡丹が描かれているがその素朴なデザインに心ひかれるものがあ
λv
。
第二穴出土の遺物類は殆んど対をなしており、これらの遺物が日
用雑器でなく祭配用諸用具であることを物語っている。これらの焼
物は交駈三彩とは呼ぶもののベトナム産ではなく、中国の明時代後
半 (一
六世紀頃)福建または広東省付近の地方窯で焼かれたものと
思われる。
中国系のこれらの焼物類がどのような経路を経て浜の館へもたら
されたものか今となっては知る由もないが、恐らく阿蘇氏配下の倭
冠か、または博多商人の手によって一六世紀後半頃運ばれたもので
あろう。
それでは阿蘇氏の宝物であったこれらの陶磁器類がいかにして地
中に埋納される事態に到ったのであろうか・
戦国末期の天正一三年 (一
五八五)頃、大友氏の衰退、宗運の死
等により島津氏に降服する阿蘇の家臣が続出し、阿蘇氏の本拠地で
ある浜の館もいよいよ危うくなって来る。渡辺玄察の 「
拾集普語」
(
肥後文献叢書第四巻)
は「
浜の館」最後の日の状況を次のように表
現している。
「
ーー人々一同に申談候は御後室は小宰相と云大、女璃と能き
隠居の在所へ供奉仕御心安可被成御座候御代々の御文論旨御宝物
は男成明神の御宝殿に奉隠納一
太夫守護可仕候其内論旨口宣文書
は坂梨氏背負可申候、比外の御宝物は浜の御所江人しらざる穴蔵
有之候に隠置||」
- 119-
今回二つの穴蔵から出土したこれらの遺物類はすべて祭杷用具であ
浜の御
るところから、浜の館最後
の日に阿蘇氏がこの文中にある 「
部ではなかろうかと私
所内の人知らざる穴蔵に隠置いた」宝物の一
は今密かに考えている。
男成宮伝世晶
去る四八年九月一七日の県の定例万剣審査の時のことである。研
ぎ減りのした一振の太万が新発見万として登録審査を受けた。この
太刀は、長さ七四・
omで腰反り先細りのいわゆる
O畑、反り二・
友成」の太
平安末の姿を示すものである。目貫穴二個で中茎端に 「
万銘がある。所有者は上益城郡矢部町、男成神社の神主本田秀岳民
である。
肥後国誌に引用されている男成文書の中に左記のような記述があ
ヲ匂
。
「
今度為出陳祈祝九州肥後国野部男成御宮二大万一腰小剣謹令拝
進候何彼大万之事末代可為御財物者也何寄進状知件 文明九年酉
九月二五日 阿蘇大宮司宇治惟忠」
惟忠大宮司の大万寄進状は今に残るが、
あと、肥後国誌は続けて、
現物の大万は島津氏侵入の時か小西の臣によってかすめ取られ紛失
としている。
初代友成は、平安末、永延頃の古備前を代表する万匠で、御物の
鴛丸や厳島神社の社宝など名作が残る名匠である。この大万以初代
の友成ではなく鎌倉時代の友成の作と思われる。男成神社は阿蘇大
宮司が代々元服の式をあげたと伝えられる古い神社であり浜の館か
らも近い。しかもこの大万が一般の人々が手にすることのできない
勝れたもので、今度男成神社の神主宅より発見された点、この大万
は男成文書にいう惟忠大宮司寄進の大万にほぼ間違いないと考えら
れる。
山崎家の伝世品
オ
さて、島津氏による難をのがれて浜の館を後にした最後の当主惟
光 ・惟善の幼い兄弟は家臣に守られて山深い目丸山中の山崎家に身
を隠したが、これによ
って浜の館を根拠に肥後に勢力を誇った武士
団の棟梁としての阿蘇家は終りを告げることになる。二月二七日発
掘調査の一環として関係者一同この山崎家を訪れ家宝として伝わる
鎧、松風の香炉、奔、琵琶その他阿蘇氏ゆかりの遺品の調査を行っ
た。
鎧は子供用の小さなもので、相当の年代を経ており、鎧 権より取
り出せないほど痛んでいたが気品ある造りである。
O叩の底は糸切りになって
と呼ばれる高さ一
松風の香炉」
また、「
いる焼物がある。由緒書はないが惟豊大宮司が朝延に内裏の修理料、
金一万匹を献上した時、鳥丸大納言がお礼に持ち来った品という言
伝えがある。
般に肩衝茶入と呼ばれ
調査した結果、この焼物は香炉ではなく一
槍の鞘」の銘
る茶入であることが判明した。古瀬戸と思われるが 「
で世に知られる茶入れと寸分違わないりっぱなものである。また葦
はないが、元は象牙製の蓋が付いていたと思われる。
これらの秀れた品々の存在は、かつて当山崎家に阿蘇氏の幼ない
嫡子が滞在したことを物語るひとつの証しでもあろう。
- 120 一
エ
E区)
五、第二次発掘調査 (
現在の管理棟が建っている校門部一帯は大正初期における校舎建築
の際削平を受けていなかったため、調査区を設定しE区とし調査を進
めた。この結果、地山の黄色土に掘り込まれた直径一m前後の柱を立
てた穴が次々に発見された。この柱穴の列を追って更に掘拡げてみた
棟を始め三度以上も建て
ところ、最終的には桁行七問、梁行四聞の一
替えたと思われる家屋の跡が重なり合って発見された。プランの確認
Cの符号を打ち精査を進
できる家屋については、新しい順にA・Bめた。
B棟は、三間×三間の正方形の部屋を中心に東、西、南、北の三方
に幅一間の回廊がコの字形に巡らされており、東側には回廊をはさん
で二つの部屋が設けられていた。とくにこの建物の中心となる三間×
三間の正方形の部屋の一二本の立柱は残された柱穴の大きさから見て
も、直径が一尺三寸は下るまいと思われる丸柱が立てら れていたよう
である。一聞の長さは住の芯から芯まで約二mであるが、現在の六尺
九四叩位なので今の一間とほぼ同じ長さを持っている。
三寸が一
この三間四方の間取りと同様のプランを持つA棟跡が、同じ場所で
もうひとつ重なり合って発見された。これは一間の間隔が一六O叩と
短かくなり小型のプランとなっている。恐らく先の大きな建物が、焼
打か失火による焼失後、応急的に建てられたものらしくB棟に見られ
た付属の部屋等は見られない。
この外、棟の方向が南北を指すC棟など、数棟分の柱穴跡が確認さ
れたが、これらは、C棟以前の家屋跡と思われる。
Cの測定値は、A棟が四四O±七五Uで西暦一
永正七)
O年 (
五一
C棟が
永享二)前後、
前後、B棟が五二O±八Oで西暦一四三O年 (
永仁三)に焼失という結果をもたらし
九五(
六六五±六Oで西暦二一
た。この年代値はあくまで絶体年代ではないが、年代判定のひとつの
目安とはなる。各棟の前後関係は発掘調査で確認された切合関係と一
致している。
今、この建物の館内における機能等を発掘によって得られた知見を
基に考えてみると、建て替えられたA棟は小型ながらも先の建物と同
様三間四聞の神殿の間取りを受け継いでおり、殆んど前のB棟の存在
個所に重なるように建てられ、住置的にも伝統性を保っていること、
しかも、柱穴が直径一二O畑、深さ一OO咽の巨大なものであり、立
てられた柱が丸柱であったこと等から推定すると、この場所に建てら
れていた建物は日常生活の機能を果すための一
棟ではなく、大宮司と
しての儀式を果す場としての役目を持つ神殿関係の建物の可能性が考
えられる。
こ の外 、 この柱 穴 群 の東 側 には弾 正 さんと呼ば れる百 日紅 が存 在す
るが 、 こ の付 近 から巨木 の樹根 跡 が発 掘 によ って確 認された。 この樹
根 跡 が 、 肥後国 誌 に「
館 跡 ノ南 ノ方 ニ弾 正杉 ト 云 ル大木 ノ杉 一株 アリ」
と いう弾 正杉 の樹根 跡 であ ろう こと は明 ら か である。 いかな る理由 で
弾 正 さんと呼 ぶ のか 不 明 であ る。弾 正名 を待 つ人は阿蘇家関係 に いな
いの で、高 くな った館地を 周 辺 の人が 敬称 をも って 「
ダ ンジ ヨウさム
(
刷出
上 ? )と呼 ん だ のか、 また は領 内 の訴訟関 係を 取り扱 った 弾正台
が この地 に存 在 したた めそう 呼 んだ のか 明ら か ではな い。
ただ 、弾 正 さんを ことば のとお り訴 訟関 係 を 司 った場所 と とれば 、
- 12]
物 であ った ことも考 えら れる。
」の巨 大な柱 を持 った建物 も 阿蘇 氏領 内 の訴訟 関係を司 った役所 の建
ひ
び
ぴ
この神殿のプランを持つA棟の焼亡時期は、 測定では一五一
O年
(
永正七)
という結果を得ているが、文献上でこの時期の浜の館におけ
る争乱を探ると、一
四八五年から阿蘇氏一族同士で大宮司職を矢部で
争った幕の平の戦いを始め、一
五一
一
一
年から惟長と弟、惟豊の聞で矢
部浜の館の争奮戦が展開され、一
五一
七年 (
永正一
四)に惟豊が矢部
館の回復に成功しているので、この期にこのA棟が焼失した可能性は
きわめて大である。
巨大な住穴と社大なプランを持つB棟は、測定では二二九五年(
応
永二)前後の焼亡を示しているが、この時期は南北朝期の動乱を経て、
一
四二三年 (
応永三O)に南北両朝に分裂していた阿蘇大宮司家が合
一に向う時期であるのでこの動乱期のある時点で焼亡したことが考え
られる。
B棟と共存するのはI区では庭園泉水等があげられる。
C棟は一二九五年 (
永仁三)と の測定では非常に古く出ている。
しかし、この家屋に共伴する遺物はそれほど古いものではないので、
あるいは測定時の誤差かとも考えられる。
これらの建物の北側の地形は往時斜面を描いて裏山に連なっており
各建物がこの地形の起伏に応じて存在していたと思われるが、後世の
削平により消滅しており確認できない。
また、現矢村神社付近の掘り切り内側一帯は、館敷地内で一番高所
である。ここは学校敷地に転用する際四尺ほど地下げをしたというが、
それ以前にもかなり広範囲に亘って、人工的と思われる平坦地が存在
したというので
、 館内の鎮守もしくは館に付属する一
棟が存在したこ
とが考えられる。矢村神社境内に方形の柄穴をもっ礎石状の石が残存
するが、これらも建物の存在を裏付けるものであろう。
以上の外、濠 ・
土塁によって固まれていた館内には、地形の起伏に
応ビて巨大な柱を使った堂々たる萱葺の建物が何棟も立ち並び、阿蘇
氏が大宮司としての古い伝統と格式を誇っていたものと思われる。
六、浜の館の設置時期とその終着時期
内L
'EA
浜の館が矢部 に設置された時期は明確でない。諸記録によれば、鎌
承元元年)阿蘇南郷から本拠地を矢部に移し
倉時代初期の一二O七 (
た惟次大宮司をもって矢部浜の館の祖とし、館を守る岩尾城、愛藤
寺両城の築城者としているが、今回の調査では鎌倉初期における館の
存在を裏付ける資料は得られなかった。
文献上から、
矢部浜の館の存在が推定されるのは南北朝期の惟時
大宮司の頃からで、その後室町期には大宮司の矢部の館は定着してい
六世
発掘調査によって得られた陶磁器類やその他の遺物からも、一
紀代と推定される遺物が圧倒的に多く、それ以外のものは少ない。ま
た、浜の館を守る城は館を中心に一O数個所にも上るが、その代表的
な、
惟次築城を伝えられる岩尾・
愛藤寺両城の縄張り図を考えてみた場
合、戦国期の域の様相を呈しており、鎌倉初期まで遡れるものではな
承元元年)惟
二O七年 (
ぃ。以上の調査結果から、諸記録による、一
次大宮司築城および浜の館造営説は信ヒがたい。浜の館の矢部での存
在がはっきり把握できるのは、やはり惟時大宮司の活躍した南北朝頃
る。
からであろう。恐らく大宮司の庶家である坂梨孫熊丸が南郷の市下道
武家方)大宮司として南郷城を本拠としたの
恵に擁せられて北朝方 (
で、京より帰国した惟時は当時その勢力下にあった矢部に居を定めた
と推定する阿蘇品氏説が、浜の館設置の起源としては妥当な見解であ
ろうと思われる。
しかしながら、惟次大宮司矢部進出築城説の意とするところは、や
はり平安時代に蓄えられた勢力が惟次の時代に外輪山を越えて北は小
国方面へ、南は矢部方面へと伸展していった過程を裏付けるものであ
り、あながち否定されるべきものではない。むしろ、これらの惟次の
勢力伸展の実績が後世浜の館、及び岩尾・愛藤寺二城の築城という形
で表現されたと考えるべきであろう。
残念ながら、
次に、浜の館の終罵時期は何年だったのであろうか。
文
献の上で直接その滅亡時期を示すものは見られない。しかし阿蘇氏品
所見では、天正一四年正月一八日の島津氏の野尻館攻めが行われた時
五年後半に発
期、つまり惟光兄弟の目丸逃避事件頃か、もしくは翌一
した肥後国人一撲の混乱時期に、浜の館の焼亡の可能性を求め天正一
四年から天正一
五年と推定されている。浜の館の建物自体の焼亡の有
無は別にして、この中世阿蘇大宮司の政治的生命の消滅と前後し てそ
の終末を迎えたことは厳然たる事実である。しかも惟光・惟善兄弟が
熊本・
宇土に分かれて預けられ再び矢部に居住していないので、天正
一五年後半以降の矢部浜の館の存在価値は考えられず、やはりこの時
期をもって浜の館の終駕と見るべきであろう。
七、野中氏宅と滅亡後の館地の状況
qJ
ヮ“
浜の館敷地内の北側の現家庭科棟の存在する場所から、豪華な青磁
大皿を始として多数の陶磁器片が出土しているので、この一帯には館
内の厨房所的性格を持つ建物が存在したことが考えられる。ここは元
野中氏宅が所在した場所である。野中氏宅は東西一一
一
間、南北五聞の
平部が南面する家で、
立柱はすべて八寸角が使用されており、
基礎部は
土中に埋まっていたという。この家屋は一
九一二年((
大正元)に解体
されたが、その時土中の柱の底には平らな川石が敷かれていた。また
釘の使用は少なく、本組の重要な部分には一
寸角の大栓で留めであっ
たという。以上は野中兄弟・お
よび地元古老が伝える野中氏宅の概況で
ある。
さで、
桁行二一
間、梁間五聞の広さを持ち、
八寸角の柱を使用してい
た家屋といえば当時の家屋としては、ずば抜けて大きく、異例の存在
であったといわねばなるまい。しかも、一般農民の民家として、古い
時期のものにこれほど長い棟を持つものは少ないし、部屋割等を考え
てみた場合一
般の民家とは考え難い面がある。また、貧しい山間の矢
部地方にあってはなおさらである。
これらの事実から、この野中氏宅自体があるいは浜の館内に存在し
た建物の残存した一
棟であるということも考えられる。 一
五八六年
(
天正一
四)から一
九一一
一
年(
大正元)まで=二六年の年月の経過があ
るが、そのような可能性を求めるのは土台無理であろうか、仮に江戸
期にはいって建立された建物としてもかなり浜の館の影響を帯びた建
物であったと思われ、いずれにせよ館内の建物を考察する上で貴重な
料
う
と
は
高校の前身校の敷地に転用された時、第二回の破壊が行われ、そして
今回の校舎改築によってほぼその遺構が消滅したことは周知のとおり
である。
おわりに
で
以上浜の館の数次にわたる発掘調査は、伝世品の調査にまで範囲を
拡げ多大の成果を収め終了した。今、不完全ながらも報告書をまとめ
上げたところであるが、それにつけても浜の館の存在を伝える伝承を
矢部のどこかに浜の館があっ
目
頃、品
7
信ぜず見過していたとしたら、A
たという伝承のみを残し、実在の館は永久に葬り去られるところであ
ったろう。往々にして史家は地元に残る伝説や伝承を無視する傾向に
浜
ある。確かにそれは学問的には正しい姿勢かも知れない。しかし 「
の館」には、この地元の伝承のなかに数百年前の史実を秘めて生きて
(
桑 原 憲 彰)
いたのである。
施予
備
伝承のなかに生きていた浜の館」は、昭和四八年に
ここに掲げた 「
実 した 調査と引継い 行った一次調査の結果を発掘調査現場
でまとめ、矢部町教育委員会の協力でタイプ印刷を行い、関係者に配
布したものである。調査過程を知る上でも参考になると思われるので
二次調査の分も含め若干改稿してその全文を収録することにした。
- 124 一
資 となったであろ こ 疑いない。
今、この家屋が古い時期のものであると推定する理由が二つある。
ひとつは、野中氏の先祖は阿蘇の野中村の出身で、阿蘇氏没落後この
地に住みついたと野中家では伝えるが、実際には野部待番役次弟写等
の文献に見られる阿蘇家家臣名のなかに野中和泉守や野中出雲守等、
野中氏の先祖と思われる名前が散見されること、そして、野中家は江
戸時代には代々曽祖父まで下大川村庄屋をつとめた家柄であった。ま
た、浜の館敷地内の殆んどの土地が以前は野中家の所有地であった事
実から考えると、野中市は阿蘇市が矢部在住中からこの地に家臣とし
で居住しており、阿蘇氏が慶長元年に一の宮町に移住し祭杷に専念す
ることになった後も、引続きこの地に踏み留まり、家臣として浜の館
の敷地を所有したものと考えられる。
野中家に残る野中村出身という伝承は恐らく後世、野中村と結びつ
けるための付会の説であろう。
ふたつには、I区の調査区から野中家の家屋にみられた基礎部と同
様の遺物を伴った直径五O個、深さ四om程度の穴の底に平らな石を
敷いた建物の柱穴が数個所で発見されたことによる。
以上二つの理由により野中氏宅自体が館に付属する建物だったか、
もしくはそれに近い時期の名残りを留める建物であったろうと考える
訳であるが、現存しないのが残念である。
このように浜の館滅亡後、館跡地は江戸期を迎えその家臣であった
野中氏の所有するところとなり、後、延宝から元禄年間にかけ、総庄
屋、矢部勘右衛門重之による入佐井手の完成により、館地は水固化さ
れ、遺跡の破壊が進むことになる。近年に至っては、大正初期に矢部
イサ
浜の 館関連事項 年表
第 9表
一一O-占ムー0 一占五J\ 一O一五 一九四八 一七七四 一O四一 五九一 五九一
永
文 永
元 ~ 延宝 慶長 慶長 天一正
禄 五 一 四 七 七 九 一 一 園 一一 一
庭
17
C
16
C
15
C
14
C
榔日
西
暦
年
亨�
C
13
/、 /、
/、
水
応
明
明
正 応
享
氷
B 棟
こ 浜 浜の 土出 区E
のこ 区E・ I 議
頃
滅亡 盛館最 器陶 A
浜
の
庭
園
館
期警護 第
襲亡 ち 置設
震
推
定
(
宮
棟建立 (年代 ー七十 宮大 語大 童か 十八 土み か
か
五
O
及
言
)
五)
主
末 成の
木炭
(
ii
十
太
め
万
七)五
t館。兵
初 動仕で 発見
五五五五五五 五J\四 四
五五四
O 七八五 二二四七=二
慶長 天正 天天天永
文 応、 延フE
正文文正
元弘
四
五
三三
七
O
地惟
村に 喜宮大
ppi
構営す 時司の
t
星
惟
f
豊
分裂
藤加正清 i iの 親宣
の
裁許
露阿大
宮合
を げる
家
震
塁喜
四
のの
頃館
区I
のす
第 る
棟一
《棟
・
一
芝
次
C
コ
1I定
を
雪X
市」
B
J\
落
館
焼
'
ひ
E
棟亡
(十
七五
区
{可-'"
直
C
査の
結果
実日見る
調
焼
)
よ
占、旬J
一
一一占 一 一一一一一一一一一 一 一一一 ム一一ー 二二六二七
一一一O 暦西
禄嘉 承元 年号
一 一一一一一 一 、'ー
こ 阿阿
文
健次次
献
寧岩矢
-佐甲- 城尾築を 拠部へ本 現
ノ、
C
の
進
五
ノ、
ノ、 ー
明
7G
氷
の
し
て
L当
た
、
司
て
「D
nL
唱'i
す
フ"c .=
]じ
の
頃 惟蘇 蘇惟
郡浦 く 置を れる
の く 1の兵
社阿 館関
連
蘇末
事
社 項
なる
わ
と
浜
の
館
関
係
文
献
一
覧
一、文献 関係
年までに執筆された分)
発掘調査後の昭和四八年から五一
(
九七三年一二月
教育熊本一
昭和四八年
月
石人」三月号 昭和四九年三
月刊 「
月刊 「
石人」四月号
五月号
六月号
昭和四九年
教育熊本一九七四年三月
広報やベまち肋加 昭和四八年十月
月
日本談義二一
月号 昭和四九年二一
月刊・
歴史と旅九月号 昭和五O年九月
昭和五O年七月 (一二二l一二七頁)
浜の館の調査報告」
「
年三月三一日
広報やぺまち肋却 昭和五一
石人」||浜の館特集号 |
月刊 「
昭和五O年一O月
ふるさとの自然と歴史
一九七四年一
月・
三二号
「
巨大な丸住を持つ神殿跡を発掘」
「
浜の館予備調査始まる」
浜の館」
「
ー 予備調査略報 |
「
阿蘇大宮司居館・
浜の館跡」
」
「
浜町付近の阿蘇ゆかりのところ一
。
」
「
一
一
「
万坂峠」
伝承のなかに生きていた浜の館」
「
ー 一次調査略報 |
「
友成の大万」
「
幻の浜の館跡を発見」
伝承のなかに生きていた浜の館」
「
阿蘇氏浜の館の埋宝」
「
ー 黄金伝説 第九回 |
「
熊本の城」
ー 熊本の風土と心 |一O
伝承のなかに生きていた浜の館」
「
No53
No日
熊本県教育委員会
熊本県教育委員会
矢部町文化財保護委員会
志賀定光
熊本県教育委員会
矢部町文化財保護委員会
熊本県教育委員会
矢部町役場企画室
桑原憲彰
神谷次郎
鈴木喬編著
桑原憲彰
矢部町役場企画室
。
。
イシ
。
。
岡大桑
替西原
操教 憲
夫哲彰
po
円L
彰
憲
原
桑
熊本県教育委員会
大西教哲
志賀定光
柳田快明
遺物 )
二、カ ラ l写真 関係 (
熊本日日新聞社
東京国立博物館
日本陶磁協会
理 府
矢部町教育委員会
総
「
第二次浜の館発掘報告」
浜の館発見の建物跡」
「
「
阿蘇家と浜の館」
矢部高校創立八O周年記念冊子
浜の館と民衆像」
「
「
元冠・
南北朝・
浜の館展図録」
日本出土の中国陶磁図録」
「
「
陶説」
「
日本出土の中国陶磁特別展観」
矢部町の文化財 第一集」
「
その他関連新聞記事多数あり)
(
矢部高校新聞 昭和五一年三月
教育熊本一九七六年三月・h臼
昭和五二年三月
矢部高校新聞創立八O周年記念
特集号・
昭和五二
二
年
月 二二日付
昭和五O年五月
昭和五O年五月
昭和五O年七月
時の動き| 政府の窓 |昭和五O年七月
昭和五二年一月
円i
ワ臼
噌BA
わ
り
昭和四八年九月の試掘調査に始まり、予備調査・一
年四月の家屋礎石群
った調査も、昭和五一
次・
二次調査と断続的ではあったが前後四度に百一
の復元をもって一応終了することができた。発掘調査が校舎改築の進捗状況と絡み合っていたため、各調査期間の大部分が厳寒の一一
月から二月
と調査に最も不適当な季節と重なり合い、調査は多大の困難をきわめた。
しかし、今回の調査の結果、我々は実に多くの成果を得ることができた。従来、地元の古老達の言の端に僅かに残る伝承から、今はっきりと阿
蘇大宮司の居館であった 「
浜の館」の実在と所在地を確認することができたし、副次的に調査最終日には庭園の池の畔に掘られた二つの穴から、
浜の館最後の日に阿蘇氏が隠し置いたと思われる一
一
一
点にものぼる宝物類が発見されたのである。これらの宝物類は、陶磁史上貴重な資料であり、
学問的価値も高いとして昭和五O年三月有形文化財として県の指定を受けた。この外、発掘によって得た新知見は数え上げればきりがない程であ
る。
しかし、
ここに残念なことが二つ程ある。
ひとつは、
諸般の関係上調査によって得られた図面、その他の新資料の全部がこの報告書に掲載できなか
ったこと、
そしてもうひとつは、
とく
折角貴重な資料を得ながらそれを活用して、
次の新しい結論を導き出すまでに力が及ばなかったこと等である。
に、
浜の館発見の家屋の礎石群、
片手被仰付切符之
・お
よび「
矢部御対面所小国仁
・お
よび柱穴跡に関しては、
阿蘇文書内に天文年間の「
御対面所切符次第」
次第」という材料注文の資料を持ちながら、この文書の外題の欠落や配列の誤・入替り等の考証、その他精査に手間取り結論を導くまでには到ら
なかった。このためこの矢部対面所に関する項は、報告書とは無関係の様相を呈する観があるが御容赦いただきたい。この基礎の上に立って、
次の段階への研究を進めていただければ幸いである。
さて、出 土家屋礎石群の現地復元を終り、ここに報告書はなったものの、この完成によって浜の館遺跡に関しての記録保存がすべて終了したわ
けではない。発掘期間に比して資料の整理期聞が短かかったため関係資料の収集や出土遺物の個々の吟味等まで力が及ばず、報告書として不完全
の誘りも免がれない。
今後、当遺跡に関する新資料の発見や新知見等
に ついては、逐次関係学術書等に掲載し補っていく予定でいる。
本報告書の成るにあたっては、関係者各位の多大なご協力をいただいた。紙上をかりで弦に厚くお札を申し上げる次第である。
(
調査主任 桑原憲彰)
--
128
お
図版1
図版2
図版3
図版4
図版5
図版6
図版7
図版8
図版9
写真 1
写真 2
写真 3
写真 4
写真 5
写真 6
三彩鳥型水注・
三彩牡丹文瓶実測図
染付牡丹唐草文瓶実測図
三彩鳥型水注・
写真 ロ
写真 日
写真 叩
写真 9
写真 8
写真 7
庭園泉水部遺構
庭園部汀線部分
庭園泉水部遺構
庭園部全景
第一
棟家屋用材炭化物
第一
棟家屋用材炭化物
第一
棟に付属する遺構
版 ・写真 目次
三彩鳥型水注・
コ彩社丹文瓶実測図
写真 日
庭園部旧地形と出土遺物
緑紬水注実測図
緑軸陰刻牡丹文水注実測図
三彩鳥型水注・
緑紬瓶実測図
写真 M
埋納遺物出土土拡と出土状況
発掘された柱穴と樹根跡
写真 日
緑軸水注実測図
写真 口
浜の館を守る城
第二次調査区出土遺構
写真 四
写真 日
緑軸水注実測図
青磁金子・
白磁置物 (
獅子・猿)・
ガラス杯
大正一
四年頃の矢部高校の旧地形
浜の館遺跡遠景と第一
区発掘現場
一
区より出土した東西離群
第一
棟磯区の出土状況
出土した第一
棟のプランとその復元状況
土師質土器出土状況と集石遺構
- 129 ー
図
図 版 ①
O
三彩鳥 型水注 ・ 染付牡丹唐草文瓶実測図
5
以下図面縮尺は 1
lOcm
:
2
図 版 ②
O
三彩鳥型水注 ・ 三彩牡丹文瓶 実測図
5
図 版 ③
O
三彩鳥 型水注 ・ 三彩牡 丹文瓶 実測図
5
lOcm
図 版 ④
O
三彩鳥 型水注 ・ 緑軸 瓶 実測図
5
lOcm
図 版 ⑤
O
緑紬 陰刻牡丹文水注実測図
5
lOcm
。
α
‘I
l
i
--内山
句aaal
s's''
'''f
a
,
一芋
'
/
一
d
戸町υφ曲
lOcm
O
緑粕水 注実測 図
図 版 ⑥
� .."
図 版 ⑦
緑 紬水注実測図
けにU
「
、ー ~二7 て一 二ブ
ノ� ーーー、
~ー
一一
•
旬
•
•
•
L、
q
、
‘
、
、
、
a~・ ・-_..-・ ・ .
O
5
10cm
。与
一『ミ""""
図 版 ⑧
緑粕水注実測図
-ー メグ/
‘E一、- -・ー・ ・一ー・ ・ 一・ー - ・' ',
\
,x二〉、・ーー司、=.0.旦,�.、
ーア
てにf
O
5
l Ocm
開園・-/"句、 -
図 版 ⑨
青磁 金子 ・ 白磁置物 (獅子、 猿)
fイ
O
ミ
5
lOcm
・ ガラ ス杯
く
』ノ
写 真1
大正14年頃の矢部 高校の 旧地形
大正14年頃 の 浜 の 館遺跡、 ( 南 西 方 向 よ り )
向上 右手遠方は 岩尾城 (北側 よ り )
昭和初期頃 の 第 1 区の状況
写真2
浜の館遺跡遠景 と 第 1 区発掘現場
現矢部 高 校敷地遠景 (東方 よ り )
P
第 1 区 発掘現場全景 (南西方 よ り )
J
写真 3
第 l 区 よ り 出 土 し た 東 西 両 磯群
第 l 区東礁 群 出 土状況
同
西磯群出 土状況
写真 4
第一棟礁 区 の 出 土状況
第一棟礎 石 の 配列状況 ( 東方 よ り )
向
上
手前 は た た き 部分 ( 西方 よ り )
写真 5
出 土 し た 第 一棟の プ ラ ン と そ の復元状況
全貌 を 現 わ し た 第一棟礎石
復元後 の 第 一棟礎 石 ( 元位置 よ り 15 m 東方へ 移 動 )
写真 6
土 師 質 土 器 出 土状況 と 集 石遺構
土師質 土器 を 囲 む 礁
第 一棟西側 の 集石遺構 ( 第 一棟 に 供 う 井戸跡 か )
写真 7
第 一棟 に 付属 す る 遺構
内長
第 一棟
第 一棟
中 央部 の 炉の基底部
西側一帯 の礁 の 散乱状況
写真 8
第 一棟家屋 用 材炭化物
火 災 に 遇 い 炭火 し た 家屋 の 木竹類
同小舞竹 ・ 周 囲 の 土 は 壁土 か
'i
.
写真 9
第 一棟家屋 用 材炭化物
炭化 し た 木 材類
屋根材 に 使 用 さ れ た 炭 化萱
写真 1 0
庭 園 部 全景
出 土 し た 庭園 部 全景 ( 東 南 方 向 よ り )
同
(北西方向 よ り )
写真 1 1
庭 園 泉 水 音rí遺構
庭園部 と 家屋部 の 境 界 石 (北方 よ り )
ロミV
:,Æ<', ‘ ,
北側 に 見 ら れ る 水 の 取入 口 周 辺 ( 東方 よ り )
写真 1 2
庭 園 部 汀線部 分
庭園 部北側汀線一帯
庭園部北側汀線 一帯 の 浜砂利
写真 1 3
庭 園 泉 水部遺構
庭園 東 側 の 汀線部石組の状態
写真 1 4
庭 園 部 旧地形 と 出 土遺物
昭和初期頃 の 旧地形 ( 左標 木付近 が遺物出 土場所)
、�
第 一 ・ 第 二 の 土拡 よ り 出 土 し た 邸内遺物
写真 1 5
埋納遺物出 土 土拡 と 出 土状況
阿蘇氏 の埋納 遺物 を 出 土 し た 第 一 - 第 二 二つ の 土拡
月五�' "〆
埋納遺物の 出 土状況 ( 第 二 土拡)
写真 1 6
第 二 次 調査区 出 土遺構
第 二 区 の 発掘現場全景 ( 東方 よ り )
重 な り 合 っ て 出 土 し た 大小 さ ま ざ ま の柱穴 ( 四方 よ り )
電
車
拒
円もや
同
法
川町
£
初
一塁山地
仲
一冊
富
岡
+吾
川~K
U2
川K
J長
拍
一県総 九
写 真 18
浜の館 を 守 る 城
岩尾城 (上)
・ 愛藤寺城 ( 中 )
・ 愛j草寺出土 の ク ル ス 瓦 ・ 左 は カ ソ リ ッ ク の 聖旗 (下)
EP
編
席。
集
熊 新
T
八 本
六 市 写
熊 熊
T
八 本
六 市 本
電 軍 出
話 一
寺
六 教
二健植
版
丁
七目株
O二
ノ、
L 六 式
;z:;;
六 番 ム
六 号 社
二 車 県
丁一目 育委
J\
番 員
字Eコ7
玉
ノへ三「
浜
1阿 の
蘇大 館
Eが居館
Aー,
r品
司
1
名報
喜
本熊県
化文
喜査報調
十
財
一一
集
和昭 和昭
五 五
十 十
年
年
月
十
一
日
月
十
五
日
発行 刷印
46
45
29
28
上
5
22
15
13 12
表
9
第 第 第 第 中 ・ 第 第 第 第 四・ 第 第
第
第
康 13 7
4
4 箇 8 4
と 34
24 23 4 16 *
33
図 図 表 図
図 図 図 図 所 表 表 鉄 図 i 図
No.
(7Õ)
底- ì宰
(2
)
D- 1
石
所 ④i 出
出
Z
捨・
E Oコ
土
縁
土
部 石
(7η 鉄
壷T
事箆
第 第 浮 ・ 第 ノj、・ 第 戸斤 ②・
* 13 tE (/)
E 16 康
24 23 石
図
図 図・ 裏
図 図
( 1 )( 1 )・
( 1 )・ ( 1 )-
口-
遺
物
実
浪tl
図
(
第
4
図
( 1 )-
幸暴
音
E
十- ス 第
二二 ラ 4
i
箇
、ノ 表
所 グ 庭・
分 石 (76)
析
表
と
(
高
音E
)
第
第
34 と 33
図 鉄 図
宰
出
土
遣
物
則
実
t
図
: 出
i 土
問 鉄
l∞
88
釘
r、
。
129 124 120 115 l5
� 101
出 写真 る 写真 図 野 白 神・獄 e→をÐ
15
土
土 15
拡・
出
土
土
拡・
.
上
8 下4
9 上
6
、
7
版 中 貫・
9 市・ 穴
は
ガ 阿
主主
図
14
出 出
土 土
土 土
機 ・壌・
地
:
-・
る
さ
れ
た
75
第
撒・ 一 透・ 撒・ 圏 第 第
退 捺・ 吉 退 術 ・ 43 35 締 34
図 図 尺 図
一
2・
区
第
33
図
7
下
3
下
77
出
芹
・
出
:実 出
澗 撤・ 一 秀・ 撤 ・ 国 E ・ 第
第
∞ 退 撲・ 吉 退 街 区 35 縮 土 と 33
図 尺 逸 鉄 図
糊
(1ト ー 物 津
肉、
音匹
)
正
言I
す
が
総 地
。コ ・ 杯 ・
括 理
と
( 的
概
要・
五
除
51
51
9
9 左下4 下
下
ー
歪
事事
二 測
図
誤
正
」
肖リ
52
匝
49
矢 ・ 箆・ 箆 第
敗 寄 ・ 書 ・ 25
き き 図
頁
rr
誤
ガ 里子 目 阿 (
ラ 中 釘・ 蘇
ス 氏・ 穴 宮
土不・ は
阿
司
は
蘇
z
氏・
・
g
選
第 十
字
旧
轟
・
s
寸: 破
E梅
プて i ・- 製
章
朗
つ
A、
76
上
8
下6 下
12 左
章 理
総・ 的
括・ 概
況・
i 形 i
旧
轟 折 の U9)
復 か
り
川
を 込 元 ら
田 み : 第
-:-、
と
側 章
す
l主 i
そ i
第 折 の (113)
111 5 り ま ま
t可 図 込 ま で
・み 。 頁
川
数
敷 水 を
田 削
を
l
化 除
づ
函
87
六 地 製
盃
璃
第 ←) 破
第 第 但 第
2 H 一
5
図 図 !日 章
二 土
O
遺
物
、 ラ 蘇
11 ス 市
・
、 杯 ・ カず
13
15
、
16
の
遺
構・
薗
)
除
藁
日一
臭T
斐
次
目
次
目
下
2
土
鉄
釘
失 ・ 箆・ 箆 第
敗 描・ 描・ 25
き き 図
( 1 )・
正|
「
浜
表
の
館
誤
」
正
48
この電子書籍は、熊本県文化財調査報告第 21 集を底本として作成しました。
閲覧を目的としていますので、精確な図版などが必要な場合には底本から引用
してください。
底本は、熊本県内の市町村教育委員会と図書館、都道府県の教育委員会と図
書館、考古学を教える大学、国立国会図書館などにあります。所蔵状況や利用
方法は、直接、各施設にお問い合わせください。
書名:浜の館
発行:熊本県教育委員会
〒862-8609 熊本市中央区水前寺 6 丁目 18 番 1 号
電話: 096-383-1111
URL:http://www.pref.kumamoto.jp/
電子書籍制作日:2016 年 3 月 31 日