野球チーム・ブルージェイズの試合を学校の皆で観

「新境地カナダ」
高校一年
H・Y
二〇一二年夏、カナダ語学研修。
今考えてみると、色々な意味で壮絶な滞在だった。その訳は、後を読んでいただければ分
かるだろう。その体験は、夏休みが終わろうとしている今でも色濃く脳裏に焼き付いてい
る。
七月二十一日
成田行きのバスの中で私のテンションはほぼマックスに来ていた。
初めての海外の長期滞在。三週間弱、家族と別れるのは、多分、生まれて初めてで、不安
もあり、寂しさもあった。というと、少し語弊があるかもしれない。私は、飛行機が墜落
して、家族と生き別れになることに不安を感じ、唯一見送りに来てくれた母の顔が見納め
かもしれないと思い、寂しさを勝手に感じていた。母の顔は、窓から見えなくなるまで心
行くまで見届けた。その後は、これから自分たちの目の前に繰り広げられる広い世界を想
像するだけで、心が躍って、不安や寂しさなんて、すぐに泡みたいにレインボーカラーの
カナダという液体に溶けて無くなっていた。
成田に着き、出国審査が無事に終わり、家族に旅立ちのメールを送ると、いきなり視界が
ぼやけて来た。「ん?なんだろ?これ。」
それは、目から吐き出される感情・涙だ。
はっきり言うと、涙がこぼれているのを知ると、最初に生まれた感情は恥ずかしさだ。隣
には友達がいて、何と言ってもここは空港・公共の場だ。皆に見られたら、恥ずかしいか
らだ。
そうしたら、すぐに家族から楽しんでくるよう返信のメールが来た。
「心配してくよくよし
ている時間が人生においての無駄だ。」と少し哲学的なことを考えて、この語学研修中の一
分一秒を楽しもうと思い立った。
飛行機は、思ったよりも辛かった。やることも特に無く、英語ばかりでよく理解できない
映画だったので、最大級につまらない映画だった。
狭い機内に、硬い座席、決して美味しいとは言えない機内食、面白味のない映画、そして
最後にはカップラーメンによる胃もたれ。何て苦痛のフルコースだ。贅沢すぎるじゃない
か。飛行機に乗るのは初めてではないけれど、これほど辛いものだったかと改めて痛感し
た。座席では、どの体勢でも身体のどこかが痛み、二時間しか寝ることが出来なかった。
早くもこの滞在を挫折しかけた最初の瞬間であったのは、自覚はしたくないけれど。そし
て追い打ちに一日中風呂に入ってないせいか、自分の臭さが私の嗅覚を襲った。
苦痛な時間を乗り越えて、ついにカナダに着陸。あの感じは今でも忘れない。洋風な建物、
日本では見かけない大きな畑。窓から見る景色は、もはや明らかに日本のものではなかっ
た。それは、当たり前のことだが、これから、ここに滞在すると思うと、私の心は期待と
興奮で一杯になって、そのまま空にパタパタと飛び立てそうだった。とてもその景色を魅
力的に思ったのと同時に、カナダに来たという実感が初めて湧いた瞬間だった。
興奮したのもつかの間、飛行機から降りるとすぐに英語を使う機会がやって来る。入国審
査である。ついに来た!と思った。初めて英語を使うのだ。果たして英語が相手に通じる
のか、聞き取ることが出来るのか、何かトラブルにつながりはしないか・・・・・本当に
初めてのことだらけで、私の心は完璧にパニック状態。それは、こんな感じだった。
<Heart’s Voice>え⁉もう入国審査かYO???早いYO!でもYO、英語話せないYO。
トラブル起きたとき、どう対処するのYO?え、どうするのYO?分かんないYOOO・・・
ラップ調なのは、外国風にしたかったのと、興奮していただけなので置いておいて・・・。
これからの状況は全て人生の糧になる。そう思えば、ネガティブじゃなくて、ポジティブ
になれる気がした。
しかし、質問を一つされたくらいで、案外問題なくスルーすることが出来た。却って腰が
抜けかけたものだ。
トロント空港からバスに乗って、ホテルへ向かった。私も含め、全員が飛行機の疲れを全
く忘れていた。目の前に広がる景色が目の前にあるとは信じられなかった。たった十数時
間前に見えていた日本とはあまりにも違いすぎる景色。その景色を一言で言うなら、ズバ
リ「グローバル」。まるで、田舎から都会に出てきて、都会の景色に驚いている若造みたい
に興味津々で窓に顔がつぶれるくらい張り付いて、トロントの町並みを全力で写真に収め
た。町並みの中では様々な人種の人たちがカラフルな色の洋服を着て歩いている。目に映
る何もかもが、新鮮そのものだ。
ホテルに到着して、夕食を取って荷物を解いていると、外の明るさからまだ午後四時くら
いかと思っていたら、何と時計を見ると午後八時。カナダは緯度が高いので、午後八時で
も、日本の午後四時くらいに明るく、夜であることに全く気づかなかった。
そして、二十四時間後にはホストファミリーと対面して、英語のみの世界にいると思うと
うれしい気持ち五十パーセント、不安な気持ち五十パーセントだった。しかし、興奮して
いるのは間違いなかった。
夜は、飛行機でも寝られなかったから、さぞかし熟睡するのだろうと思いきや、どこかか
らノックの音が鳴り、なかなか寝られなかった。
七月二十二日
ノックの音に気付いた午前二時から、三時間布団で寝ようとトライしてみたが、ノックす
る音が鳴り続け、結局朝まで鳴り止まず、寝ることも出来ず、午前五時に耐えられなくな
って起床。ホテルから見える外は、まだ暗かった。ネオンだけが単独でやけに目立って光
っていた。
その日はトロント観光をした。
一番印象的だったのは、何と言ってもトロントのシンボル・CNタワーと手のサイズほど
の大きなハンバーガー。CNタワーから見える景色は、高さも高い。だから、東京タワー
からの景色とは比べようもなく、くっきりと地平線が見渡せた。ハンバーガーの味は美味
しかったのだけれど、何しろ量が多かった。でも、カナダに来てからの初めての現地の味
だと思って頑張って完食した。でも、あまりにも多かったので、ズボンのウエストを緩め
なければならなくなった。
昼食が終わり、トロントを出発すると、いよいよホストファミリーとの対面までのカウン
トダウンが始まった。緊張が走って、YOなんてジョークを言っている余裕はなかった。
また翌日学校で友達と会えるのにも関わらず、不安からだろうか、なぜか一生の別れの気
がして泣きそうだった。英語で言う”I miss you.”という気持ちだ。不安というのは、自
己紹介だ。中学一年生の時に習ったことなのに、なぜか、自分が異国に来ると何も通用し
ない気がして、不安な気持ちが爆走した。昔、語学研修では誰もがそういう状況に陥ると
聞いたことがあるが、それは本当なのだなと思った。しかし、先生が自己紹介の仕方をバ
スで詳しく教えて下さったので、それさえ話せば良いと思って、少し安心した。あとは、
二週間のホストファミリーと過ごす時間に友達と期待を膨らませていた。
いよいよ現地の学校に着いた。バスからスーツケースを持ち運び、学校に入ると、目に入
ってきたのは大量の外国人が興味津々にこっちを見ている様子。私はこんなに沢山の自分
たちを見ている外国人を見たことがなかったし、いきなりの展開に、驚き過ぎて、五秒く
らいぼーっと立ち尽くしてしまった。
彼らは温かく歓迎してくれていたのだ。
いよいよ対面式。顔も見たことが無いファミリーとの初めての対面だ。前もって、日本で
メールを送ったのだが・・・気づいてもらえなかったようだったので、尚更どんな人か気
になった。
私のホストファミリーを紹介しよう。五人家族で父・Chris Cudmore、母・Miranda、長女・
Bethany、次女・Eva、 三女・Emma-Joy の五人家族構成だ。
一人ずつ名前が呼ばれて、家族と対面だ。私は、四十五番でかなり最後の方だったので、
緊張と期待が高まった。
<Heart’s Voice>ホストファミリーどんな人たちかな?子供も私を受け入れてくれたら良
いんだけれど。とにかく、早く呼ばれて!
そうすると、ついに四十五番が呼ばれた。
金髪で可愛い子が三人、美人な奥さん、筋肉質な南米系のスポーツマンなスキンヘッドの
ご主人が目の前に現れ、「はぁ~外国人だ。」と何故か圧倒された。
会った瞬間、自分の自己紹介をする時間もなく全員の自己紹介を一気に Miranda は早口で
始めた。しかし、私は頭がその英語についていけなくなって、ただ話された事に頷き、相
槌を打つだけだった。それが一通り終わると、私が固まっていることを察したのか、いき
なり Bethany が私の方に手を差し伸べた。「手を繋ごう」のサインだということを知った。
いきなりのことに動揺はしたものの、
「歓迎してくれているんだな」と考え、純粋に嬉しく
なり、その手を取った。
家の色はピンク。洋風で可愛い家だ。周りの建物もかなり綺麗で豪華。どこの入口にもよ
く手入れされた芝生が青々と生えている。日本とは違い過ぎて、夢のようだった。日本で
もこんな家に住みたい!と思った。
すぐに地下の私の部屋を案内された。部屋にシャワーとトイレが専用で付いていて、ベッ
ドは大きい。特にシャワーは兼用だと思って、使用時間短縮のために髪を十五センチほど
切って行ったほどだったので、思いのほか住む環境が良くて、驚いた。しかもプール付だ。
凄過ぎる。
荷物を解いた後、時差ぼけと飛行機の疲れで疲れていたので、少し休もうと思い、ベッド
に寝転がっていると、いつの間にか寝入ってしまった。夕食に呼びに来た時に起きた。午
後六時。相変わらず外は日本の午後三時ほど。夕食は早めなんだなと思った。
リビングに続いているベランダで夕食を食べた。ホストファミリーはキリスト教信者らし
く、祈りを家族でし始めたが、いつも学校でやっていることなので、動揺せずに対応出来
た。そうして、食事が始まった。
しかし、やけに食卓が静まっている。閑静な住宅街。他に聞こえる音といえば、鳥の鳴き
声くらいだ。しかし、私はやけに静かなことに、違和感を覚えた。もう少し家族なら会話
があるものではないか?それか留学生が来た初日なのだから、話題は無いことは無いだろ
うと思ったのだ。やっと開いたホストファーザーの口から、”Shocked.”の様な単語が聞き
取れた。私は、はっとした。早速失敗したことを自覚した。その食事はご馳走だった。が、
私は頭があまりにもぼーっとしていて、日本の家にいる感覚に陥ってしまっていた。しか
し、外国では、嬉しい時や何かしてもらった時には、外の者は大袈裟に全力で喜びを相手
に伝えなければならないということをすっかり忘れてしまっていた。向こうにしてみれば、
私は喜んでいないと思ったのかもしれない。しかし、そのことに気づくのは、遅かった。
とにかく、私は初日のこの重い空気を打開すべく、食事の最後にお礼を言うことに決めた。
拙い英語でお礼を言うと、少し家族に笑みが浮かんだ。やはり、言っておいて良かったと
思った。
夕食後に湖の周りで散歩をすると言われ、驚いた。日本では湖もそんなに手頃な所に無い
し、まず有り得ないことだったからだ。湖に行くと、沢山の家族が集まっていて、こちら
では夕食後の外出は一般的であるらしかった。ゆっくり散歩しながら、美味しいアイスク
リームを食べた。その間長女の Bethany が、親しく話してくれたので、自分が出来る範囲
の英語力で話したが、それがなかなか難しい。だけれど、意味が取れて、会話が成立する
と嬉しかった。その後、公園に行き、子どもたちに高校生が一人混じるという少し異様な
状況にはなったが、誘われて大人数でのる円盤ブランコに乗った。案外スリルがあって、
叫んでしまった。遊具に乗ること自体が久しぶりで、子どもに戻った気がした。
家に戻った後、Bethany と折り紙をした。以前にも日本人の留学生を受け入れたことがあ
るらしく、鶴の折り方を完璧に覚えていて、感激。しかし、風船の折り方はさすがに知ら
なかったので、教えてあげた。結構気に入ってくれた様だった。
七月二十三日
学校に行った初日。私は正直学校の授業が不安だった。日本の学校で、全て授業内が英語
の授業では、あまり正確に先生の話す英語を理解することは出来なかったので、果たして
カナダの授業で付いていけるという自信はあまりなかったのだ。しかし、先生は、一人一
人が理解できるように、丁寧に話して下さっている様で、安心した。
午後は、バリー観光をした。図書館、市民ホール、美術館を観光した。クラスの雰囲気が
良くなる良い機会だったと思う。
七月二十四日
一日中授業だった。受ける前は一日中だからさぞかし退屈だろうなと思っていた。しかし、
全く違っていた。授業は楽しく、実用的なことを勉強したので、興味もやる気も湧いた。
ゲームなども途中で挟んでくれたので、すぐに時間は過ぎた。
家に帰ると、この日は Emma-Joy のサッカーの試合があるようだ。しかし、私は非常に内向
的で、外に出て、大人たちと話す機会があったら、面倒くさいなと正直思った。だから、
試合観戦に行くのはやめて、家にいることにした。
やることもないので椅子に呆然と座りながら、折角カナダまで来たのに何をやっているん
だと思った。
<Heart’s Voice>別に、カナダの人にどう思われても一生これから会わないのだから、良
いじゃない。大切なのは、結果さ。この滞在で何を得るか。それが最重要。失敗を沢山し
て、今後に役立てれば、それで良いと思う。そういえば、一番怖いのは、大人になってか
ら、その失敗をしてしまうことと母が言ってたじゃない。何事もチャレンジだよ!
自分で自分の背中を押して、その日から、私は失敗をおそれず、何でもチャレンジしよう
と心に誓った。
七月二十五日
午前中は授業、午後はワイマーシュとセントマリーに行った。
ワイマーシュは、自然豊かで蛙が沢山いるのが印象的だった。オタマジャクシが、見たこ
とがないほど大きくて、こっちではオタマジャクシまでビックサイズなのか!と思わずに
はいられなかった。
セントマリーでは、原住民の昔の暮らしぶりがそのまま残されていた。
家に戻ると、今度は Bethany のサッカーの試合があるようだ。私は昨日の失敗を踏まえて、
当然行くことにした。
試合会場に着くと、もう既に試合は始まっていた。ゴールに惜しい場面になると、会場は
大盛況。
「これが外国人のノリかぁ・・・」と唸ってしまった。結果は Bethany のチームは
余裕の勝利。ゴールキーパーでも活躍していた。
私に、最初で最大の山が押し迫っていた。
私は、山の登り方さえ分からない状況だった。ただ頂上も見えない山を見上げて、ため息
をついていた。
山は数日前からもう既に成長していた。
充実した楽しい授業を学校で終え、山が突如として私の前にそそり立つのは夕食の時であ
る。何とホストファミリーは私に話そうともせず、ただ家族だけで家族だけの会話をして
いるのだ。私はホストファミリーというものは、留学生に分かるように親切に話そうとし
てくれるものだと勝手に思っていた。それとも、これは家族の会話に入り込めというメッ
セージなのか・・・
私も、会話に参加したくて、会話に耳を傾けた。しかし、その時耳を傾けたことを後悔し
た。
何と家族は、私についての文句を言っているのだった。それに、文句を言った後、大抵静
まり、Miranda がこちらの顔をこっそり見るから、内容が聞き取れなくてもすぐに分かっ
た。
普通、常識で考えて、人の文句を目の前で言うなんて、考えられない。もし、私がいけな
いことをしてしまっていたのならば、直接注意して欲しいし、実際私はそうしてくれると
思っていた。もしや、ホストファミリーは私のことを英語が全く分からないと舐めている
から、平気で目の前で文句を言えるのではないかと思った。それとも、私を受け入れたく
ないのではないか、それとも、やはり他人はそんなに家族団欒には加入出来ないのかと思
った。色々な考えが頭の中を駆け巡った。
私はそれまでのほとんどの夕食で、結局そんなことばかり考えて、泣きそうになって、一
言も話せず、片付けの手伝いのみして、自分の部屋に逃げ込んでいた。
私は、湿布を身体中にミイラのように貼りまくる部活の合宿なんかより、語学研修の方が、
何十倍も精神的に辛いと思った。一緒にはしゃぐ友達もいなく、愚痴を言う友達もいない
のだ。上の階から聞こえてくる声が全て自分への文句に聞こえた。もし、この時病院に行
っていたら、ノイローゼと診断されていたかもしれない、という程に私の心は病んでいた。
そんな中、私の心は最後のHPを振り絞って、技を繰り出した。
<Heart’s Voice>確かに、私は会話を率先してする方ではないし、向こうにしてみれば、
ただいつまでもニコニコ笑っているだけの何も主張しない穏やかそうな みたいにしか見
えてなかったのかもしれない。それに、私は自分の部屋に逃げ込んだりしたから、それは
ホストファミリーにとっては、快くない行動だ。だから、私の行動の不審さについて話す
のは、自然なことだ。きっと、自分が留学生を受け入れる側だったら、同じく行動につい
て話すだろう。これは自分の態度が招いたこと。もっと社交的にならなくちゃ。もっとも
っと自分を外に出さなくちゃ。
七月二十六日
こんなに授業で笑ったのは初めてかもしれない。私は授業で腹を抱えて笑った。Mr.Bean
シリーズは本当に面白い。私は今まで一度もその名前を聞いたことがなく、勿論見たこと
もなかった。お笑いのコントよりも断然面白い。やはり、笑いは世界共通だと思った。
家に戻ると、今度は近所の子どもも集まって折り紙をした。折り紙は折り方を示すのに、
あまり話す力は必要ではない。凄く便利なものだと思った。自分の折り紙を目の前でする
だけで、日本の文化にも興味を持ってもらえるし、仲を深められる。私にとっては簡単な
事だ。そして、皆「こう?」と自分に一生懸命聞いてきてくれる存在感オンリーワンな感
じ。子どもたちが折り紙を折り終わった時に見せる喜びの笑顔が、何よりも嬉しくて、愛
らしくて、私はその笑顔を見るために折り紙を必死で折っていたのかもしれない。
七月二十七日
放課後、トロントの野球チーム・ブルージェイズの試合を学校の皆で観に行った。はっき
り言って、私は野球に興味はほとんど無かった。ルールも詳しくは分からないし、一度も
試合を観にいったことなど無かった。
ブルージェイズは数日前の試合で完敗していた。
だから、さらに試合を見ようという気は失せ、野球場にあるという店で暇つぶしに買い物
でもしていようかな、なんて考えていた。
でも、試合が始まった途端、周りのブルージェイズファンは選手たちのプレーに一喜一憂
し、ファンが一丸となって盛り上がった。自分たちも外国人のノリで盛り上がると、完全
にブルージェイズファンの仲間入りだ。ブルージェイズのTシャツまで購入してしまった
ほどだ。凄く、そのノリが私は好きで、濃い思い出となった。
午後十時。もうそろそろ試合に決着がつきそうな頃に帰らなければならない時間になって
しまったので、かなり名残惜しく、皆帰ることに大ブーイングだった。しかし、球場を出
る直前に、ブルージェイズが勝ったことが分かり、大興奮。帰りのバスでもそのテンショ
ンはキープされ続け、「TGIF!」などと有頂天になった。
しかし、その矢先、私のテンションは急降下した。
二つ目の山だ。
バスが学校に着いたけれど、迎えに来る予定のホストファミリーが迎えに来なかった。他
のホストファミリーは続々と迎えに来るのに、なかなか来ない。午後十一時は過ぎていた。
疲れきっているし、カナダの夜は肌寒い。ひたすら迎えを待っていた。
<Heart’s Voice>忘れられてるのかな?所詮、私は他人でホストファミリーからしてみた
ら、外の人物。はっきり言って、どうでもいいのかもしれない。車が続々と来て、その度
に自分のホストファミリーの車ではないかと見に行ったが、大抵違う。
悲しかった。こんなにも悲しく悲しいと思ったことはあっただろうか。まだ残っている友
達と話しながら、気を紛らわせつつも、自分が捨てられた気がしてならなかった。
午後十一時三十分、やっと迎えに来てくれた。長い三十分だった。
他の生徒のほとんどのホストファミリーは、にこやかに迎えに来ていたのだが、なんだか
私のホストファーザーは不機嫌そうだった。元々ポーカーフェイスだからかもしれないが。
しかし、それは誤解だったようだった。ホストファーザーは学校からの電話を待っていた
らしかった。
それにも拘わらず、私の心の中は私の予想していた以上に荒れていた。いつもこういうと
きは、心の内容物がマグマみたいにドロドロしていて、たまに内容量が超えそうな時、口
のところまで迫ってきて、不味い味がする。口から溢れそうになるのを我慢していると、
今度は上に上にゆっくりと上がってくる。そして目まで来て、マグマにしては綺麗な液体
が表面に溢れてしまう。
私はそのことに帰りの車で気づいた。本当は、心のマグマが枯れるまで、わーって外に吐
き出したいのに、私はそれを隠そうと努力していた。私の心の中のマグマに気づいて欲し
くなかったから。他の車のライトしか見えない真っ暗な窓の外を熱心に見てみたりした。
でも、努力しようとすればするほど、マグマは表面に溢れそうになる。HPは一時間前は
最大だったのに、どんどんどんどんゼロに限りなく近くなった。そこで、私は最終兵器を
使うことにした。
それは、親だ。
もう、半泣き状態で、でも声が震えないように、注意しながらホストファーザーに電話を
貸して欲しいと懇願した。日本の家族に電話をすると、何やら忙しかったらしい。あまり、
私の対応はしてくれない様子だった。私は、第一声で、泣き出してしまった。でも、本当
の家族の生声を聞くと、安心できた。
でも、少し愚痴を母に吐き出すと、何か、スカッとした。時間が経って、硬くなったマグ
マがかさぶたみたいにぽろっと、取れて、どこかに消えた。
意外とマグマは頑固ではなかったようだ。
そして、母に言われ、悪かったのは時間を明確に伝えられなかった私だと悟った。謝りに
行かなければならないと思い、ホストファーザーに時間を伝えなかったことを謝ると、ホ
ストファーザーは初めて見る笑顔で「大丈夫。」とだけ答えただけだったが、凄くそのこと
にほっとし、また寝る前に一泣きしてしまった。
色々なことがあったからこそ、ホリデーを純粋に楽しめる気がした。
七月二十八日
昨日の騒ぎのお陰で、何と午前九時に起きた。ここまで寝かせてくれたのは、感謝しなけ
ればならない。
朝を子どもたちとアニメを見て過ごしていると、昼ご飯の時間になった。いきなり、Bethany
にファームに行くことを告げられた。
最初、私は土日にテニスをしたいと言ったの
で、思わず「テニスは?」と言いそうになってしまった。どうやら、お昼ご飯をそこで食
べるらしかった。
農場で取れたてのブルーベリー入りのパンケーキだ。今まで食べてきたパンケーキの中で、
一番美味しかった。柔らかいパンケーキのフィールドに転がる甘酸っぱいサッカーボール
with メープルシロップ!カナダ滞在で一番美味しかった食べ物だった。
家に戻った後、近くの公園にホストファーザーと次女と三女と近所の三人姉弟と行った。
念願のテニスをしてくれるらしかった!最初は、ホストファーザーと、テニスをした。ホ
ストファーザーは、テニスが上手で返しに遠慮も無いので、それが逆に楽しかった。疲れ
たので、子どもたちも加わって、野球をした。外で動き回ったのは、小学校以来だったの
で、すごい炎天下だったけれど、懐かしい感じで、子どもに戻った気さえした。この機会
で子どもたちとも更に打ち解けられたと思う。
七月二十九日
また午前九時に起きた。今日の予定は何かわくわくした。
ホストファミリーはクリスチャンなので、その日は教会に行くらしかった。私はクリスチ
ャンではないけれど、出先でお昼を食べると言うので、行くことにした。
私は、洋風なレンガ造りの教会で聖歌を歌う、学校でよく行われるミサのようなものを想
像していた。しかし、ホストファミリーについていき、現代風なモールのような建物に入
った。そうすると、カラオケかと一瞬思うほど、ポップミュージックが聞こえてきた。歌
詞は、賛美歌の様な歌詞だった。とても幸せになれそうな、しかも乗れる歌詞だった。皆、
日曜はここに来て、一週間の疲れを癒しているのかなとも思った。
午後はホストマザーの友達が訪問して来て、友達にバリーの町を紹介するのにボートに一
緒に乗らせてもらった。ボートは、遊園地のアトラクションばりにスリルがあって、小波
を超えたときは思わず叫んでしまった。広い青空に、広い湖。気持ちよかったな。
夕方に私は偶然隣だった友達のHさんの家に遊びに行った。庭で焼いたマシュマロをチョ
コと一緒にクッキーにはさむという甘いものだけという甘党の私にとっての贅沢品を食べ
た。Hさんのホストファミリーはとても明るくて、話しやすく、私はマシュマロを焼くの
が下手で、マシュマロを何度も燃やしてしまうのを見て、大盛り上がりだった様だ。
その後、私は庭で偶然流れ星を見た。流れ星を見たのは、人生で初めてで、カナダは初体
験なことばかりだなと思った。貴重な体験をカナダで出来るなんて、凄く幸せなことだな
と思った。
そして、簡単な英語なら聞き取れるようになってきたことと、そのことによって、やっと
カナダを楽しめるようになったことに気づいた。
七月三十日
今日は一日中普通に授業があり、授業終了後は Emma-Joy のサッカーの試合に行った。まだ、
習い始めたばかりのようで、すごく初々しかった。
彼女の試合の間、子どもたちと森林のようなところに行った。しかし、そこは林にも満た
ない所だった。私は虫が好きではないので、入っていくのには少し抵抗があったが、Bethany
はあまり虫はいないと言うので、その言葉を信じて入っていった。
Bethany が長女らしく先頭を切って、入っていく。そこは、まるで未開拓地で、生えてい
る背の高い植物を押し倒さなければ中に入れない状況だった。まるで、冒険の映画みたい
だと思った。こんなに自然と触れ合うのは久しぶりだった。木の匂い、土の匂い、全てが
私の中の何かを思い出させた。
七月三十一日
私は一日中落ち着きがなかった。
なぜなら、隣の友達のHさんと学校が終わった後、ワンダーランドという遊園地に行く予
定だったからだ!
遊園地は、Hさんとそのホストマザー、年下のホストブラザーと行った。本当に、さすが
外国の遊園地だと思った。アトラクションが容赦なかった。下に落ちるときは、落ち続け、
回転する時は回転し続け、連続で乗った時は、吐き気がしたほどだ。
しかし、穏やかな乗り物(KIDSと書いてあったが・・・)に乗ると落ち着き、また激
しい乗り物に乗るということを繰り返した。
夜に乗る激しい乗り物は、昼とは違う表情を見せた。上からの景色が絶景なのだ。しかし、
その風景を楽しむことが出来ないのが絶叫マシーンだ。風景が見えるほど上に行ったなら
ば、その次には必ず下に落ちるのがお決まり。だから、一瞬は見えるのだけれど、景色を
楽しむ余裕なんてものはない。絶叫するので精一杯だ。でも、少し外国の絶叫マシーンに
慣れたのか、景色は除き楽しむことが出来た。結局、閉園時間の十時まで堪能した。
閉園パレードで、私の大好きな歌手の、しかも知っている曲が流れたので、私は本当にカ
ナダに来て良かったな!と改めて感動してしまった。
八月一日
英語の諺を学校で習い、日常で使えたらカッコいいなと思ったが、まだ使えそうにはなか
った。放課後は、特に何もせず、子どもたちがプールで泳いでいる様子を見ていた。
八月二日
学校では、演劇を行った。台詞を覚えるのは辛く、演劇をやるのは初めてで、私の素性で
は、そういう発表では恥ずかしさを感じてしまうのだが、外国だからだろうか、あまり恥
ずかしさもなく勝手になりきって、演じることが出来た。
私は、初めてホストファミリーとの別れが刻々と近づいていることに気づいた。
<Heart’s Voice>昨日は、何をやっていたんだろう。
・・まぁ、どちらにしろ、残りの時間は限られているから、悔いの無いように、やること
をやってもう一成長して日本に帰ろう。
私は、日本食は評判が悪いという報告を友達から多く受けていたので、持ってきた日本食
を作ることをためらっていた。しかし、このまま材料だけ残して行くのも、勿体無いと思
って、折角の日本の食文化をPRする機会だと思い、葛餅を作ることにした。
作っている間、子どもたちは興味津々に台所に集まってきた。
葛餅は、黒蜜、きな粉をかけないと、味がないので、子どもたちに味見をしに来るたびに、
「ノーテイスト」と言われたが、まあ不味いと言っている訳ではないから、作っている段
階では良かった。
夕食後、モールの近くで Bethany のサッカーの試合があったので、そのモールに行けるこ
とになった。私は、買い物にホストファミリーの誰かはついてきてくれると思っていた。
私はモールまでホストファーザーに送ってもらい、
「え?ホストファーザー来るの?ちょっ
と気まずいんだけど。」と密かに思っていた。
しかし、車はモールの正面で止まり、
「地下に洋服屋が沢山あるよ。二時間後にまたここに
迎えに来るから。」とだけ伝えられた。ボトリとそこで産み落とされて、すぐに親に逃げら
れたヒヨコのようにいきなり降ろされ、車は去っていった。
思ったより、モールは広かった。現地の外国人からイタイ視線が自分に注がれているのが
すぐに分かった。それでも、皆私はどうせ一生会わない人たちだから、どう思われても良
いではないか!というポリシーの基で、出来るだけ最初で最後だろうと思われるモールの
買い物を楽しもうと努力した。
楽しもう、と言っても、あまりにも広くて、どこの店に入れば良いのか分からず、ただど
うすれば良いのか分からず、一人で歩いていた所、友達を発見。その瞬間は、まるで、首
を絞められ続けて三十年経って、やっと紐が解かれた瞬間のようだった。今までの人生で
これほど安心したことがあるだろうかという程だった。
一時間弱、友達と一緒に買い物をして、その間に好みのお店を見つけたので、別れたあと
はほとんどそこで居候していた。
そこのお店で七千円ほどの買い物をして、しかも試着まで出来たので割と充実した買い物
時間を過ごせた。しかも、子どもたちにも可愛いと褒めてもらえたので、充実した買い物
をしたなと思った。
実質、葛餅は、葛粉を水と混ぜて、加熱するのみだったので、作るのは初めてだったけれ
ど、失敗する心配は無かった。しかし、買い物に行っている間私はその後何が起こるか知
りもせず、葛餅を水につけっぱなしにしてしまっていたのだ。
私は家に帰って、それを見た瞬間、目を見張った。
葛餅は、水を吸ってビッグで白くなってしまっていた。あまりプルプル感も無く、寒天の
ようになっていた。味が不味くなっているか、不安だったが、試食すると、意外に葛餅の
味で安心した。
ホストファミリーは、食べようとトライしてくれた。
ファーザーとマザーは「Good」と言ってくれたが、子どもたちの反応は露骨だった。
長女の Bethany は、少し気を使ったのか柔らかい食感が元々嫌いと言い、直接全体は否定
しなかったが一部分否定し、次女の Eva は黒蜜が嫌いだと言った。三女は、口に入れた瞬
間首を横に振り、食べるのを即やめた。私の表情を伺ったのだろうか、少しにこりと微笑
んでフォローした様だった。
良い反応は最初から期待してなかった上に、
「あなた達が好きかどうか分からない」と忠告
しておいたので、あまり傷つくこと無く、
「これが文化の違いだろう」という程度に思った。
八月三日
いよいよ、ホストファミリーと過ごす最後の日がやってきた。
自覚は正直湧かなかった。実は、夜学校で行われるさよならパーティーで浴衣を着るのを
凄く楽しみにしていた。浴衣を着る機会が日本でもあまり無いので、浴衣を着るとなると、
ついテンションが上がってしまう。
最後の授業が無事に終了し、ついにさよならパーティーが始まった。
ホストシスターたちはいつも以上に甘えて来てくれて、凄くうれしかった。最後の食事の
時間にも私の友達と混じって話してくれて、凄く思い出になった夜だった。
八月四日
朝、荷造りや部屋の片付けをしようと思っていたのに、何と寝坊してしまった。当日に出
発することを初めて自覚したという事実。
かなり焦ったが、無事に荷造りは終わった。部屋の掃除がアバウトにしか出来なかったの
が心残りではあったが、寝坊してしまったのだから、それは仕方がないことだった。
家を出る時、Bethany に「行かないで。ずっとここにいてよ。」と言われ、本当に心から嬉
しかった。適切な言葉が見つからなかったのが悔しかったけれど、とりあえず私も「出発
したくないよ。」と凄く愛しく思いながら言った。
考えてみれば、一日に二日分ほどの経験をしたんじゃないかと思うほど、沢山の経験をし
たなぁと思った。考えてみると、最初の三日ほどは意思疎通が出来ず、辛く思ったり、日
本に一日でも早く帰りたいと思ったことさえ、よくあった。でも、その山を越えると毎日
が楽しいことばかりで、その感情は真逆になっていた。
本当に、ホストファミリーに感謝しなければならないと思う。私は、その感謝に対して恩
返し出来たとは思えなくて、今でも日本から恩返し出来ないかと考えているほどだ。赤の
他人を広い心で受け入れようとしてくれたその愛に、一番感謝したいと思う。
子どもたちが大人になっても、ずっと私のことを覚えていて欲しいなとふと思った。子ど
もたちの成長の記録に一行でも、いや、一単語でも載れたらいいなと思った。
ホストファミリーは私にとって、いわば第二の家族で、私はホストファミリーと過ごした
時間を一生忘れないし、一緒に過ごした時間は、一生の宝物になると思う。本当に宝物を
プレゼントしてくれたホストファミリーに感謝したい。
ついに、バスに乗る別れの場所に着いた。
皆が、最後のホストファミリーとの時間を過ごしていた。
私は、感謝の気持ちを少しでも示すべく、出発する直前にメッセージカードをホストファ
ミリーに送った。
その文章を日本語訳にして、ここに添付したいと思う。
Mr.Chris Cudmore
本当に、この滞在中のご親切に感謝したいと思います。例をいくつか挙げるなら、学校へ
の送迎、食事の料理などなど。本当に毎朝作るワッフルは美味しかったです。もっと、お
互いに知り合うことが出来たらとも思います。この経験は、人生の宝物になると思います。
もし良ければ、いつでも日本にもいらして下さい。歓迎します。
さようなら
Mrs.Miranda Cudmore
本当に、この滞在中のご親切に感謝したいと思います。例をいくつか挙げるなら、丁寧に
私に話して下さったり、洋服の洗濯などなど。
あなたに会えて幸せでした。
この経験は、人生の宝物になると思います。
もし良ければ、いつでも日本にいらして下さい。歓迎します。
さようなら
Ms.Bethany Cudmore
本当にこの滞在中、親切にしてくれて、ありがとう。
よく、折り紙を一緒にしたね。折り紙に興味を持ってくれて、
凄く嬉しいです。折り紙を置いていくので、良ければ折り紙、してみてね。
この前、財布とバッグをテープで作ってくれたよね。日本でもこの思い出と共に大切にし
たいと思います。
あなた達と沢山色々なことが出来て、嬉しかった。この経験は、私の人生の中で宝物にな
ると思います。
もし良ければ、いつでも日本に来てね。歓迎します。
さようなら
Ms.Eva Cudmore
本当にこの滞在中、親切にしてくれて、ありがとう。
よく折り紙を一緒にしたね。折り紙に興味を持ってくれて、
凄く嬉しいです。折り紙を置いていくので、良ければ折り紙をしてみてね。
ところで、あなたが屁をした時は、本当に爆笑したね。あと、口の周りに髭みたいに磁石
を付けた時もね。本当に面白かったわね!
あなた達と沢山色々なことが出来て、嬉しかった。この経験は私の人生の中で宝物になる
と思います。
もし良ければ、いつでも日本に来てね。歓迎します。
さようなら
Ms.Emma-Joy Cudmore
本当に、滞在中、親切にしてくれてありがとう。
よく一緒に折り紙をしたね。折り紙に興味を持ってくれて、
凄く嬉しいです。折り紙を置いていくので、良ければ折り紙をしてみてね。
折り紙を一緒にした時、重なって折り紙を折ってしまったことがあったよね。だから、三
匹の犬を作ったことになってたね。何てカッコいいの!
あなた達と沢山色々なことが出来て、嬉しかった。この経験は、私の人生の中で宝物にな
ると思います。
もし良ければ、いつでも日本に来てね。歓迎します。
さようなら
ホストファミリーは、純粋に嬉しそうだった。喜んでくれたのはとても嬉しかったが、別
れは私にとって辛いものだった。
私は、涙が出てしまいそうだったけれど、我慢した。最後まで笑顔を見せていたいと思っ
たから。
<Heart’s Voice>やっと、ホストファミリーと意思疎通が出来始めて、全てが上手く回り
始めようとしたのに!もっとカナダにホストファミリーといたいよ!
最後に、家族全員とハグをし終わると、Bethany は泣き出してしまった。私は、貰い泣き
を瞬間的に発動してしまい、結局一緒に泣いてしまった。
意外に別れというのは、終わってみると、あっけない。
あっという間に、バスからホストファミリーの顔が見えなくなってしまい、その後にこれ
が最後だったのだということを知った。
私は、その時初めてもう一生会えないのかな?という疑問が浮上したのだ。それから、一
気に、飛び出すように、色んな思い出が溢れ出してきて、ひどく泣いてしまった。
友達に「また会えるから、大丈夫。」と慰められ、安心してやっと涙が止まったのは、三十
分後だろうか。
ナイアガラでは、友達とすばらしい観光を楽しんだ。
特に印象的だったのは、ナイアガラの滝で乗ったボートだ。思ったより、水しぶきが激し
くかかり、ネイチャー・アトラクションという感じだった。
最後の夜は花火が上がり、フィナーレを飾った。本当にカナダに来て良かったなと思った。
そして、またいつか、来ようという決心も同時にした。
色々なことを経験して、自分の未熟さに気づくと同時に、その分大人にもなった。
世界の日本の中の一人の人間ではなく、今ここに存在している一人の人間として振舞い、
そして常に他人からそう見られていることを学んだ。
具体的に言うならば、三つある。
一、自分の考えをはっきりと一人の人間として主張すること、
二、一人の人間として自分のやりたい事を人生の中ですること、
三、一人の人間として自分の理想の人間になること。
今思い返すと、一七日間は夢の期間だった。
嫌なことがあっても、その日はその日で生き生きしていた。
毎日が、一瞬が、常に生き生きしていて、私にとって、一瞬ごとが学びだった。
私は、今、日常に戻って、凄くカナダが日々遠くに行ってしまっているように感じている。
でも、この文章を打っていると、また少し近づいている気もする。
それでも、まだ遠いが。
でも、まだ残っている時差ぼけがカナダに行ったという証明をしているから、やっぱり、
夢じゃなかったんだな、と改めて感じる。
私は、常にカナダのことを近くに感じていたい。
どうしても薄れてしまう記憶や感覚を、留めて置くために、この文章は、私にとって重要
になると思う。
私はこの体験をこれからの私のパーツの一つとして、私に取り込んで、より充実して過ご
していきたい。
私が述べてきた滞在中の全てのものを、私が得られたのは、先生、そして家族のお陰であ
る。このような機会を頂けたことに感謝したいと思う。
―END―