適応力の マネジメント

第
1
部
適応力の
マネジメント
1
第 章
リアルオプションの必要性
2
第 章
リアルオプションとは何か?
3
第 章
リアルオプション思考の技術
第
1
章
リアルオプションの
必要性
1-1
損切りできない日本型経営
_――失われた10年――トリガーなき先送り
◎環境適応に失敗した結果
日本は超最悪の経済劣等国になってしまいました。財政赤字がGDPの1.3
倍にもおよんだ史上最悪といわれたあのイタリアを抜いて、日本の財政赤字は
GDPの1.5倍に達してしまったのです。
日本の財政赤字は、教科書的にいえば、日本国内の民間セクターの投資不足
をまかなうために発生しました。つまり、日本の財政赤字の原因は、この10
年間で税収が大幅に減少した一方で歳出が逆に増えたことにあります。税収が
減少したのは日本企業の低迷が原因です。たとえば、株式市場における日本企
業の評価(時価総額)をみるとその凋落ぶりに驚かされます。日本企業は、
1990年の株式時価総額ランキング10位のなかに6社がランクインしていま
した。NTT(1位)、日本興業銀行(3位)、住友銀行(7位)、富士銀行(8位)
、
トヨタ自動車(9位)、そして太陽神戸三井銀行(10位)。ところが、2001
年のトップ10に入った日本企業はNTTドコモだけです(10位)
。
また、企業の競争力の表れと考えられるブランド価値ランキングをみても、
世界的な競争力をもつ企業は日本には数社しかありません。トヨタ(14位)、
ソニー(20位)、ホンダ(21位)、任天堂(29位)、キヤノン(41位)の5
社です。かろうじてパナソニックの松下電器産業が72位ですが、韓国のサム
スン(42位)のはるか後ろに位置しています(産業構造審議会『我が国産業
の競争力の現状』)。
日本の株価は、この10年間で3分の1以下に下落しました。また、地価は2
分の1以下になり、商業地の中には10分の1以下になってしまったところも
多くあります。
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第1部◎適応力のマネジメント
こうした失敗は、日本の組織構造および社会に適応する姿勢にその原因があ
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ります。自らが置かれている環境を理解できずに、変化に応じた適切な行動を
第
1
章
とれないと、自滅の道をたどることになります。適応力の反面教師の一例とし
て、日本の不適応さを検証してみることにしましょう。
◎政策判断のミスが日本のバブルを増幅し、
また、巨額の不良債権を生み出した
戦後の日本経済の成長をもたらした原動力は、ごく一握りの製造業でした。
自動車、家電製品、工作機械など。これらの産業の輸出競争力が戦後の荒廃か
ら日本経済を復興へと導いたことは、よく知られた事実です。
ところが、日本の輸出力は1985年をピークにその後下降の一途をたどり
ます。そのきっかけをつくったのは、プラザ合意です。ドル高を是正するため
に、5カ国が協調介入することになり、プラザ合意の後、大幅な円高がもたら
されました。円は2倍に跳ね上がり、日本製品は一挙に2倍の高値に跳ね上が
ってしまいました。アメリカの製造業に対して低価格で優位に立っていた日本
の製造業は、苦境に立たされる結果となりました。これをきっかけに、日本の
製造業はその生産拠点を海外に移し始めました。そして、これを境に、米国の
輸出シェアは底を打って反転し、それとは対照的に日本の輸出シェアは下落し
始めたのです。
1985年は日本経済にとって1つのターニングポイントでした。産業の空洞
化がスタートした年だからです。日本経済を支えていた生産拠点が海外に移転
することで、これまで日本の土地の上で現金収入を生み出してきた「キャッシ
ュフローの源」が消え始めました。その後これが、ボディブローのように効い
て、長期にわたって地価や雇用の足を引っ張っています。
産業の空洞化が始まったことは悪いニュースです。普通であれば、日本の株
価は下落します。ところが、実際には株価はプラザ合意後に上昇したのです。
なぜかというと、政府が金利(公定歩合)を急に切り下げたからです。
TOPIXは1986年9月に25%上昇。地価は株価の後を追い、1年遅れて上昇。
1987年9月に地価(市街地価格指数・商業地)は24%上昇しました。
バブルが発生したのは日本だけではありませんでした。アメリカ、ヨーロッ
パ、オーストラリアなどでも不動産バブルが発生しました。しかし、日本のバ
ブルは他の国に比べあまりにも巨大でした。日本政府の金融政策がその原因で
す。よく知られているように、金融引き締めのタイミングを間違ったことに加
えて、バブルが崩壊する局面でも、政府・日銀は1年半以上も高金利を放置す
るというミスを犯しています。これが巨大な不良債権を生み出す結果を招きま
した。
バブルの発生とその崩壊に伴う不良債権問題は、さまざまな悪影響をもたら
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しました。産業の空洞化が進み、日本企業の産業競争力が衰退し始めたという
深刻な問題が、
バブルと不良債権問題によって覆いかくされてしまったことは、
日本経済にとって不幸の始まりでした。自らが置かれている変化の本質を理解
できずに、それに応じた適切な行動をとれなくなったからです。そしてこれが、
90年代の悲惨な結果を招いてしまいました。
◎日本のGDPが明確な下落トレンドをもっていることは明白だった
日本のGDPは、1960年代には10%台でした。しかし、1973年の石油シ
ョックにより原油価格が4倍になったことで、戦後初めてGDPがマイナス成
長になりました。その後数年の不況ののち、経済が回復してもGDPは元の水
準に戻らず、1970年中頃から1990年までは4%程度で推移しました。
この頃、日本経済の生産性は驚くほど低下しました。また、80年代後半か
ら産業の空洞化が始まり、その傾向はますます強まりました。そして、90年
代以降はGDPは0%あたりをフラフラと低迷しています。
◎もっと早くから「小さな政府」へ移行すべきだった
プラザ合意当時の日本のリーダーは中曽根首相でした。英国はサッチャー首
相、アメリカはレーガン大統領という顔ぶれでした。彼らに共通したテーマは、
行政改革・民営化による小さな政府への移行でした。
サッチャー首相は改革を断行し、英国政府を思い切って小さくしました。サ
ッチャリズムには賛否両論ありましたが、約20年経過した現時点では、彼女
の当時の改革が近年のイギリスの活力の源泉になっていることを確認すること
ができます。レーガンの政策も「大」ブッシュを経てクリントンに引き継がれ、
米国は経済の再生に成功しました。
しかし日本では、残念ながら、故小渕首相が登場するまでの間、リーダーら
しいリーダーが出てきませんでした。再び「小さな政府」が真剣に政策論議の
俎上に乗せられるには、小渕政権まで待たなければなりませんでした。
小泉政権の経済政策は、基本的に小渕政権の政策と同じものです。しかし、
この10年間で税収は3分の2の水準に落ち込んだのに対して、歳出は3割増に
なってしまいました。より大きな政府ができ上がったということです。
東京大学の若杉教授によれば、日本の公的資金(財政投融資)は私物化され
ているそうです。たとえば、官僚は自分の将来の天下り先をつくるためにこの
公金を利用しています。また、政治家は票集めに不必要な公共事業を行ってい
るというわけです。
前述したように、GDPは下落トレンドにあることは誰の目にも明らかでし
た。それに合わせて思い切って公的セクターを小さくすべきでした。石油ショ
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第1部◎適応力のマネジメント
ックを境にGDPが半分になり、プラザ合意とバブル崩壊を経てほとんど経済
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成長がなくなった段階で、サッチャーさんに倣って、政府は半分くらいの大き
第
1
章
さにすべきでした。
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小泉首相が男サッチャーになれるかどうか。一刻も早く、小さな政府への移
行が求められています。
◎不採算事業からの撤退が早く決断されるべきだった
民間企業にも同じことがいえます。幼稚産業の構造改革が必要です。
日本の産業は、自動車や家電製品などの「少数の成熟産業」とそれ以外の
「大多数の幼稚産業」の2つから成っています。
マイケル・E・ポーター氏は、日本の農業、化学、日用品、ソフトウェア産
業、金融、保険、不動産、流通業、卸売業、交通、物流、エネルギー、医療サ
ービス、食品加工などの内需型産業は「幼稚産業」だと指摘しています。競争
劣位にあって、非効率であるにもかかわらず、多数の雇用を生み出している。
それは一種の社会保障制度のようなものです。そんなものを幼稚産業と呼ぶそ
うです(『日本企業の競争戦略』ダイヤモンド社)。
これらの幼稚産業は、輸出競争力のある少数の成熟産業の稼ぎによって支え
られています。これが日本経済の基本的な構図です。ところが、産業の空洞化
によって、その支えがなくなりつつあります。それに伴って幼稚産業が連鎖的
に倒産し始めました。不良債権問題は、いい換えれば幼稚産業の問題なのです。
幼稚産業が、不採算事業を整理して、資源を効率よく活用しようということ
は極めて稀です。そのまま延々と不採算事業を維持するという困った性格をも
っています。
不採算事業を抱えている企業に投資することは、穴のあいたバケツにお金を
捨てるようなものです。これでは、日本企業が高い投資収益率を実現できるわ
けがありません。
◎損切りできない理由は何か
不採算事業から撤退するには、きちんとした戦略のもとで「損切り」するこ
とが不可欠です。損切りができなければ、新しい環境に適応することができま
せん。牽引車となるべき新しい有望な事業が不振に陥った事業に阻害されるか
らです。
損切りできない理由としては、次のことがあげられます。
①資本と経営が未分離である
日本の企業は、資本と経営の分離が不十分です。株主からの圧力がほとんど
ありません。日本の大企業が赤字事業を整理して、資本をより効率よく活用し
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ようとする動機が希薄なのはこのためです。たとえば、余剰となったホワイト
カラーを吸収するために、主要事業と関連のない分野に資源を浪費していたと
いう例もあります。また、黒字の店が赤字の店の埋め合わせをするといった例
は枚挙にいとまがないほどです。経営者は損切りせずに、株主の利益を平気で
毀損する傾向にあります。
具体的には、
多くの銀行が不良債権の処理を長期間にわたり先送りしました。
その大きな理由の1つは、“緊密企業”の存在でした。緊密企業とは、その銀
行OBが天下っている子会社で、○○ビル会社や○○恒産といった不動産賃貸
業です。たとえば、りそな銀行が国有化されました。2兆円の税金を投入して、
りそな銀行は赤字を帳消しにしましたが、そのうち約5000億円が銀行OB
の子会社を精算するために消費されました。
銀行の株主の利益を後回しにして、
OBの天下り先延命が優先されていた実態が暴露されました。
②戦略をもっている日本の企業は稀である
幼稚産業の多くは戦略をもっていません。これに対して、輸出競争力のある
グローバルな日本企業は戦略をもっています。海外での厳しい競争のなかで戦
略を培ったからです。一方、幼稚産業は互いに模倣しあうだけで独自のポジシ
ョンを打ち出すことは稀です。そのため、何を損切りすればよいかの決断がで
きません。しかし、損切りこそが戦略の核をなすものなのです。たとえば、日
本経済の衰退の一因は、
日本の半導体産業がアメリカに負けたことにあります。
日本の半導体産業は戦略をもち合わせていなかったので、何を損切りし、どの
分野でアメリカ企業に対して勝ち残るべきかを決断できませんでした。
③国家予算が私物化されている
前述のように、財政投融資は私物化されているという指摘があります。また、
銀行預金への巨額の政府保証も国家予算を私物化する温床になっているといわ
れます。日本政府はビッグバンで直接金融へ大幅に移行するといいながら、そ
の一方で、銀行(間接金融)に公的資金を注入しています。従来の金融政策は、
銀行を公的な位置づけとしているため、この観点からすれば、国民としては納
得しなければならない部分もたしかにあります。しかし、国家戦略として、思
い切った損切りをしなければ、直接金融に移行するという新しい機会は出現し
ません。日本でも早くから直接金融の土俵の上でプレーする人は、自己責任で
リスクを取って投資しています。しかし一方で、従来型の間接金融の土俵でプ
レーしている人には、国家予算から補助される、赤字企業の債務が免除される、
その免除分の穴を埋めるために政府から銀行に公的資金が注入されます。前者
からみれば後者は、国家予算の私物化と揶揄されても仕方ありません。まして
や損切りなど、遠い話です。
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第1部◎適応力のマネジメント
④日本人は変革した歴史をもっていない
日本人が損切りできないのは、つまるところ、自ら変革した歴史をもたない
からです。そして、変革できないので「先送り」という日本的な意思決定が際
立ちます。何も決断しないでいる、というのが日本的な経営の本質です。歴史
を振り返ると、そう指摘されても反論できません。ペリー来航以来、アメリカ
人に究極の選択を迫られることによってしか変革できないという歴史の繰り返
しではないでしょうか。たとえば、最近、上場企業の経営において、「現金収
入」(キャッシュフロー)重視の風潮が高まっています。これは、外国投資家
が株主として経営者にプレッシャーをかけているからです。
この道はいつか来た道です。それを次に検証してみます。
_――原爆が投下されるまで先送りされた決断
◎米ソの覇権争いのなかに置かれていた環境を理解できなかった日本
日本の組織が、何も決断せずに自滅した典型的な例は先の戦争(太平洋戦争)
です。また、自らが置かれている環境を理解できずに、環境への不適応により
自滅したのがあの戦争でした。
1900年から2000年までの100年間を前半50年と後半50年に分けてみ
ると、前半50年は世界経済が低迷した時期でした。後半の50年は逆に世界
経済が活況を呈しました。戦後の日本の経済成長は世界経済の成長の上に乗っ
ていたにすぎません。逆に、前半50年はとても厳しい時代でした。世界経済
を牽引していたアメリカ経済が大きな打撃を受けたり、2度の大きな戦争も勃
発したりしました。
そうしたなかで、日本の技術は、当時の欧米諸国に脅威を与えるようになり
ました。たとえば、当時のアメリカ政府は「このまま放置しているとアジア市
場はすべて日本製品に席巻される」と少なからぬ脅威を感じていました。太平
洋諸島の制圧をもくろむアメリカにしてみれば、
日本はやっかいな存在でした。
一方、ロシアはアジアの共産主義国化をもくろんでいました。
◎アジアに最初のグローバル化の波が押し寄せてきた
もともと資源に乏しい日本は、資源を求めて海外進出を図りました。前述し
たように、世界経済は厳しい状況にありましたので、アメリカ、ロシア、日本
はそれぞれに各国の経済立て直しのストーリーを描いていました。
また、太平洋戦争が勃発した時代のアジアには、最初のグローバル化の波が
押し寄せていました。経済のグローバル化は、各地で紛争をもたらします。グ
ローバル化は経済的な統一をもたらしますので、各地で文化的な摩擦も多くな
ります。また、南北問題(富める地域と貧しい地域の格差)が際立つ場合もあ
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ります。
太平洋戦争当時は、至るところで紛争が勃発しました。もちろん、豊富な資
源や大量生産システムを背景とするアメリカ、ロシアに資源弱小国の日本が勝
てるわけがありません。まず、1939年にノモンハン事件で日本陸軍はソ連
に叩かれ、3年後にはミッドウェー海戦でアメリカに敗れ、日本はその制空権
を奪われてしまいます。
◎どうしても太平洋諸島を制圧したいアメリカ
よく知られているように、1941年12月に日本海軍はアメリカ領土のハワ
イの真珠湾を奇襲攻撃しました。これがアメリカとの戦争の始まりだといわれ
ています。
しかし、事実はそうではありません。真珠湾攻撃の約10カ月前に、当時の
アメリカのルーズベルト大統領は「戦略方針を指示するなかで、米海軍による
日本の都市に対する爆撃実施の可能性を明らかにしている」(戸部良一ほか
『失敗の本質』ダイヤモンド社p193から引用)。つまり、当時のアメリカの太
平洋戦略では、日本と戦争をすることを予定し、いずれ東京を空爆することも
ありうるという明確な意思を示していました。
一方、日本政府は自らが置かれている環境をよく理解できないでいました。
そのため、ロシアの共産化戦略に対抗するべく、また、経済復興のためにどう
しても太平洋諸島を制圧したい、というアメリカの意図を読みきれませんでし
た。日本は致命的な勘違いをしました。
「短期的にアジア地域でアメリカに打撃を与えれば、アメリカは諦めアジアか
ら出て行くだろう」といった勘違いのもとに、「東京を空爆しそうなアメリカ
の艦隊を潰しておこう」
というのが真珠湾攻撃の動機です(前出『失敗の本質』)。
こうした日本政府の勘違いが、日本国民を不幸のどん底に陥れました。アメ
リカと開戦した場合、当時の日本政府はどのように戦争を終結させるかといっ
た国家戦略をもち合わせていませんでした。終戦のシナリオは開戦時に決めて
おくのが外交戦略の基本です。明治の軍人はゼネラリストでしたので、このこ
とをよく理解していました。しかし、スペシャリストであった昭和の軍人は、
戦争の終え方について考えていませんでした。
◎ミッドウェー海戦の敗戦をトリガーとすべきだった
真珠湾を攻撃されたアメリカは報復戦争に打って出ます。本当のところは、
上で紹介したようにルーズベルトは、報復というよりはあらかじめ予定した戦
争を本格的に開始したということです。1942年に、ミッドウェー海戦で日
米は大きな戦闘を繰り広げました。結果は日本の敗北。パールハーバーからた
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第1部◎適応力のマネジメント
った6カ月で、アメリカは予定された報復を達成しました。日本の連合艦隊は
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正規空母4隻を失いました(前出『失敗の本質』)。
第
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章
日本政府は、ミッドウェー海戦の敗戦を戦争終結のトリガーとすべきだった
といえます。連合艦隊の正規空母をすべて失ったことで、日本の制空権はアメ
リカの手に渡ったわけですから。制空権を支配されたら、その後の戦争は闘っ
てもムダです。ゲリラ戦以外残っていないからです(国土がゲリラ戦に巻きこ
まれるとイラク戦争のように戦争が泥沼化し、国民は長期にわたって大きな犠
牲を強いられることになります)。また、ルーズベルトは最初から東京を空爆
する予定なのですから、制空権を奪われた段階で、日本政府は、被害を最小限
にとどめるためには、損切りをして戦争を終結させる決断をすべきでした。
しかし、終戦までにはそれからさらに3年という長い年月を要しました。長
崎と広島に原爆が落とされるまで、日本政府は決断を先送りしたのです。
◎日本政府が損切りできなかった理由
太平洋戦争において日本政府が損切りできなかった体質と、プラザ合意後の
日本政府の勘違い政策や幼稚日本産業の組織が損切りできない体質には共通点
があります。「何も決断せずに先送りする」という意思決定(?)の方法は、
今も昔も変化がないと考えるのが正しいかもしれません。
太平洋戦争において日本政府が損切りできなかった理由として、次の点が指
摘されています(前出『失敗の本質』
)。
①はっきりとした戦略概念がない
②構造的な急激な変化への適応が難しい
③大きなブレイク・スルーを生み出すことが難しい
④意思決定に長い時間を必要とする
⑤集団思考による異端の排除が起こる
◎戦略なき国が経済を復興できた理由
それでは、なぜ戦略なき日本国が奇跡の経済復興を実現できたのでしょう
か?
答えは簡単です。
「運がよかったから」です。
つまり、戦後の日本の経済成長は、ゼロ戦の開発技術などに代表される、欧
米をはるかにしのぐ高度な兵器開発技術が、敗戦によって民需転換されたこと
にあります。戦後、メイドインジャパンの先がけとなったのはオートバイ産業
でした。終戦の半年後には、ホンダはオートバイの生産を始め、それから約
10年後には世界市場に進出しています。
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現在、アメリカはより多様な産業で競争力を有しているのに対して、日本は
世界的な競争力をもつ産業が、自動車、家電製品、そして工作機械といった数
少ない限定された産業に集中しているという特徴があります。その理由は、欧
米に対して競争優位にあったフレキシブルな兵器生産技術が、この限られた産
業のみにおいて戦後も優位性を維持できたからです。
当時の日本人は、「終戦後に文化国家として再生するためには、戦前戦中を
通して養ってきた機械工業の技術を中心にした工業立国が重要だ」と考えまし
た。今では死語になりましたが、「東洋のスイスを目指そう」といった発言が
至るところで聞かれました。まずは、占領下で、時計、ミシン、写真機などの
技術開発が行われました。占領時代が終わり、自動車工業においても乗用車の
生産制限が緩和されるに至って、メイドインジャパンが世界へ羽ばたく準備が
整えられたのです。
誤解してはいけません。日本の軍事技術がアメリカのそれをはるかに上回っ
ていたわけではありません。大量生産システムや原子力爆弾などの開発技術に
関しては、アメリカがはるかに優位でした。一説によれば、「日本の技術者は、
朝鮮戦争で米軍車輛の修理を請け負いその高性能にカルチャーショックを受け
た」という指摘もあります。また、このことが以降、日本の製造技術の元にな
っているという話もあります。
強調されるべきことは、戦前戦時を通して国家全体で集中投資して育成して
きた機械工業の技術が、戦後日本の経済復興の原動力となったという点です。
そこが重要です。
終身雇用、年功序列、企業別組合などの日本型雇用慣行が日本の高度成長を
支えたというのは二義的なことです。アメリカによって投下された原爆によっ
て、日本の組織は大きな損切りを強いられました。“不採算事業”としての軍
事産業から撤退を余儀なくされた一方で、世界市場に平和的な産業で進出する
という新たな事業機会を得たことが日本の経済復興の直接の原因です。
軍事産業の民需転換というレジ−ムの転換が経済成長をもたらすことになり
ました。90年代のアメリカでも、インターネットやGPSといった軍事技術の
民需転換がニューエコノミーという経済成長をもたらしたことは記憶に新しい
ところです。
◎先送りはやめて、戦略をもって損切りする
20世紀の後半50年は世界全体が好況に湧いた時代です。戦争に勝ったア
メリカ、ロシア、イギリスなど当時の戦勝国は、勝ったがゆえに、新しい時代
への適応が遅れました。一方、当時の敗戦国である日本、ドイツ、イタリアは、
あの敗戦ですべてを損切りさせられたことで、50年という長期にわたる世界
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