寡婦 モオパッサン 秋田滋訳 バヌヴィルの館で狩猟が催され ていた

寡婦
モオパッサン
秋田滋訳
やかた
バヌヴィルの館で狩猟が催され
ていた、その間のことである。そ
あか
の秋は雨が多くて陰気だった。赧
い落葉は、踏む足のしたでカサと
の音もたてず、降りつづく陰欝な
りんう
わだち
霖雨にうたれて、轍のなかで朽ち
ていた。
あらまし葉をふるいつくした森
は、浴室のようにじめじめしてい
・
・
た。一たび森へ足を踏みいれて、
・
雨のつぶてに打たれた大木のした
かび
にいると、黴くさい匂いや、降っ
た雨水、びッしょり濡れた草、湿っ
た地面からあがって来る水分がか
らだを包んでしまう。射手たちは
このひッきりなしに襲ってくる水
攻めに絶えず身をかがめ、犬も悲
あばらぼね
しげに尾を垂れて、肋骨のうえに
毛をぺッたりくッつけていた。身
体にぴッたり合った年わかい女の
らしゃ
猟人たちの羅紗服には雨が透って
いた。彼らはこうして、毎日夕が
たになると、身心ともに疲れはて
て館へ帰って来るのだった。
晩餐をすますと、彼らは、広間
と
に集って、たいして興もなげにロ
そ
ト遊びをしていた。戸外では風が
鎧戸に吹きつけて騒々しい音をた
て、また古めかしい風見を、独楽
のように、からから※していた。
そこで一同は、よく本などにある
ように、何かかわった話をしてみ
たらどうだと云いだした。が、ねッ
から面白い話も出なかった。男の
猟人たちは射撃の冒険談や兎を殺
した話などをした。女連のほうも
頻りに頭を悩ましているのだった
が、千一夜物語のシュヘラザアデ
の想像はとうてい彼女たちの頭に
は浮んで来なかった。
この遊びももう止めにしようと
していた時である、先刻から、未
婚の女でとおして来た年老いた伯
母の手を弄ぶともなく弄んでいた
かみのけ
一人の若い女が、金色の頭髪でこ
しらえた小さな指環にふと目をと
めた。その時までにも何遍となく
見たことはあったのだが、別に気
にとめて考えてみたこともなかっ
たのである。
彼女はそこでその指環を静かに
指のまわりに※しながら、伯母に
こう訊いた。
﹁ねえ伯母さま。何でございます
の、この指環は︱︱。子供の髪の
毛のようでございますわね﹂
老嬢は面をあかく染めた。と思
うとその顔はさッと蒼ざめた。そ
ふる
れから顫えを帯びた声で云うのだっ
た。
﹁これはねエ、とてもお話しする
気になどなれないほど、悲しい、
・
悲しいことなんですの。私の一生
・
の不幸もみんなこれがもとなんで
す。私がまだごく若かった頃のこ
とで、そのことを想うと、いまだ
に胸が一ぱいになって、考えるた
びに私は泣きだしてしまうのです﹂
居合わせた人たちはすぐにもそ
の話を聴きたがった。けれども伯
母はその話はしたくないと云った。
み
が、皆なが拝むようにして頼むの
で、伯母もとうとう話す決心をし
たのだった︱︱。
﹁私がサンテーズ家のことをお話
しするのを、もう何遍となくお聞
きになったことがあるでしょう。
あの家も今は絶えてしまいました。
私はその一家の最後の三人の男を
知っておりました。三人が三人、
同じような死に方をいたしました。
かみのけ
この頭髪は、そのなかの最後の男
・
のものなのです。その男は、十三
・
の年に、私のことがもとで、自ら
命をたって果てたのです。変なこ
とだとお考えになるでしょうね。
まったく、一風変った人たちで
きちが
した。云わば気狂いだったのです
ね。だが、これは愛すべき気狂い、
恋の気狂いであったとも申せるの
です。この一家の者は、父から子
へ、子からまたその子へと、皆な
親ゆずりの激しい情熱をもってい
からだじゅう
て、全身がその熱でもえ、それが
この人たちを駆って、とんでもな
い熱狂的なことをさせたり、狂気
の沙汰とも云うべき献身的なこと
をやらせたり、果ては犯罪をさえ
・
犯させるのでした。この人たちに
・
とっては、それは、ある魂にみる
信仰心と同じで、燃えるように強
かったのです。トラピスト教会の
修道士になるような人たちの性質
は、サロンなどに出入りする浮気
な人たちとは同日に云えないもの
があるでしょう。親類の間にはこ
んな言葉がありました、︱︱﹁サ
ンテーズ家の人のように恋をす
ひとめ
る。﹂一瞥見るだけで、分ってし
まうのです。彼らはみんな髪の毛
がうずを捲いていて、額にひくく
垂れ下がり、髭は縮れ、眼がそれ
はそれは大きくて、その眼で射る
み
ように視られると、何がどうとい
うこともなしに、相手の胸は乱れ
るのでした。
ここにこういう形見を残していっ
おじい
た人の祖父さんにあたる人は、恋
愛、決闘、誘拐などと数々の浮名
をながした挙句の果に、かれこれ
六十五にもなろうという年をして、
自分のところの小作人の娘に夢中
になってしまいました。私はその
し
男も女もよく識っております。そ
の娘は金色の頭髪をもった、顔の
蒼白い、淑やかな、言葉遣いのゆッ
たりとした、静かな声をして口を
利く娘で、眼つきと云ったら、そ
れはそれは優しくて、聖母の眼つ
きにそッくりと申したいほどでし
た。年をとった殿様は、その娘を
自分の屋敷へつれて行ったのです
そば
が、まもなく、その娘が側にいな
ければ片時も我慢が出来ないと云
うほど、のぼせ切ってしまったの
でした。同じ屋敷に住んでいた娘
さんと養女も、そうしたことを何
でもない、ごく当り前のことのよ
うに思っていたのです。それほど
までに、恋愛というものがこの一
家の伝統になっていたのです。こ
と、情熱に関する限り、彼女たち
はどのような事が起ろうと驚きも
しなかったのです。彼女たちの前
で、誰かが、性格が相容れぬため
に対立してしまった男女の話とか、
仲たがえをした恋人の話とか、裏
切られて復讐をした話などをする
ようなことでもあると、彼女たち
は二人とも云い合せたように、声
をくもらせてこう云うのでした。
﹁まあ、そんなになるまでには、
さぞかし、そのかたは辛い思いを
なさったことでしょうねエ!﹂
ただそれだけのことでした。愛
情の悲劇にたいしては、彼女たち
み
は、ただ同情するだけで、そうし
つ
た人たちが犯罪を犯した時でさえ、
義憤を感じるようなことは決して
ありませんでした。
ところがある秋のことでした。
狩猟に招かれて来ていたド・グラ
デルという若い男が、その娘をつ
れて逃げてしまいました。
ド・サンテーズさんは、何事も
なかったように平然とした容子を
しておりました。ところが、ある
朝、何匹もの犬にとり囲まれて、
その犬小舎で首を吊って死んでい
たのです。
その息子さんも、一千八百四十
一年になさった旅の途次、オペラ
パ
座の歌姫にだまされたあげく、巴
リ
里の客舎で、同じような死に方を
して果てました。
その人は十二になる男の子と、
私の母の妹である女を寡婦として
残して逝かれました。良人に先立
たれた叔母は、その子供を連れて、
ペルティヨンの領地にあった私の
父の家へ来て暮しておりました。
私はその頃十七でした。
この少年サンテーズが、どんな
に驚くべき早熟の子であったか、
到底それは御想像もつきますまい。
あら
愛情というもののありと凡ゆる力、
その一族の狂熱という狂熱が、す
べて、サンテーズ家の最後の人間
であったその子の身に伝えられて
でもいるようでした。その子はい
つ見ても物思いに耽っておりまし
た。そして、館から森へ通じてい
にれ
る広い楡の並木路を、たッたひと
りでいつまでもいつまでも、往っ
たり来たりして歩いているのです。
私はよく部屋の窓から、この感傷
的な少年が、両手を腰のうしろに
※して、首をうなだれて、淋しそ
うな足どりで歩いている姿を見か
けました。少年は時折り立ちどまっ
て眼をあげるのでしたが、何かこ
う、その年頃には相応しくないも
のを見たり、考えたり、感じたり
しているようでした。
月のあかるい晩などには、夕食
がすむと、彼はよく私に向ってこ
え
う云いました。
ね
﹁従姉さん、夢をみに行きましょ
うよ︱︱﹂
私たちは庭へ出ました。林のな
かの空地の前まで来ると、あたり
もや
には白い靄がいちめんに立ってお
りました。林の隙間を月が塞ごう
とするかのように、綿のような靄
がいちめんに漂っておりました。
すると、その子は出し抜けに立ち
し
どまって、私の手をにぎり緊めて、
こう云うのです。
え
﹁あれを御覧なさい。あれを︱︱。
ね
でも、従姉さんには僕というもの
がよく解ってないんですね。僕に
はそう思えます。従姉さんに僕が
解ったら、僕たちは仕合せになれ
るんだがなア。解るためには愛す
ることが必要です﹂
私は笑って、この子に接吻をし
てやりました。この子は死ぬほど
私に思い焦がれていたのです。
また、その子はよく、夕食のあ
とで、私の母のそばへ行って、そ
の膝のうえに乗って、こんなこと
を云うのでした。
﹁ねえ、伯母さま、恋のお話をし
て下さいな﹂
すると私の母は、たわむれに、
昔から語り伝えられて来た、一家
のさまざまな話、先祖たちの火花
を散らすような恋愛事件をのこら
ず語って聞かせるのでした。なぜ
かと云いますと、世間ではその話
を、それには本当のもあれば根も
葉もない嘘のもありましたが、い
ろいろ話していたからでした。あ
の一家の者は皆な、そうした評判
のために身をほろぼしてしまった
のです。彼らは激情にかられて初
めはそう云うことをするのでした
が、やがては、自分たちの家の評
判を恥かしめないことをかえって
誇りとしていたのです。
その少年はこうした艶ッぽい話
や怖しい話を聞くと夢中になって
しまいました。そして時折り手を
たたいたりして、こんなことを幾
度も云うのでした。
﹁僕にだって出来ますよ。その人
たちの誰にも負けずに、僕にだっ
て恋をすることが出来ますよ﹂
そうしてその子は私に云い寄り
ました。ごく内気に、優しく優し
く云い寄ったのでした。それが余
り滑稽だったので、皆な笑ってし
まいました。それからと云うもの、
私は毎朝その子が摘んだ花を貰い
ました。また、毎晩、その子は部
屋へあがって行く前に私の手に接
吻して、こう囁くのでした。
﹁僕はあなたを愛しています!﹂
私が悪かったのです、ほんとう
に私が悪かったのです。いまだに
私はそれについては始終後悔の涙
にくれるのです。私は生涯その罪
つぐな
の贖いをして来ました。こうして
老嬢をとおしております。いいえ、
老嬢と云うよりも、婚約をしたッ
きりの寡婦、あの少年の寡婦とし
て通して来たと申したほうが好い
のでしょう。私はその少年のあど
けない愛情を弄んだのです。それ
を煽り立てさえいたしました。一
人前の男にたいするように、媚を
見せたり、水を向けたり、愛撫を
したりしました。それにもかかわ
らず、私は不実だったのです。私
のぼ
はあの子を気狂のように逆せあが
・
らせてしまいました。私にしてみ
・
れば、それは一つの遊びだったの
です。また、それは、あの子の母
にとっても私の母にとっても、愉
しい気晴しだったのです。何にせ
よ、その子はまだ十二なのですか
らね。考えてもみて下さい。そん
な年端もゆかぬ子供の愛をまにう
ける者がどこにあるでしょう! 私はその子が満足するだけ接吻を
してやりました。優しい手紙も書
きました。その手紙は母親たちも
読んでいたのです。その子は火の
ような手紙を書いて返事をよこし
しま
ました。手紙はいまだに蔵ってあ
ります。その子はもう一人前の男
のつもりでいたので、自分たちの
仲は誰も知らないものだとばッか
り思っていたのでした。私たちは
この少年のからだをサンテーズ家
の血が流れているのだということ
を忘れていたのです!
かれこれ一年の間、こういうこ
とが続きました。ある晩のことで
した、少年は庭で出し抜けに私の
膝のうえに倒れかかって来て、狂
・
気のような熱情をこめて、私の着
・
物のすそ接吻をしながら、こう云
うのです。
﹁僕はあなたを愛しています。恋
しています。あなたを死ぬほど恋
しています。もし僕をだましでも
したら、いいですか、僕を棄てて
ほかの男とそういうことになるよ
うなことでもあったら、僕はお父
さんのしようなことをやりますよ
︱︱﹂
そして、少年はまた、私が思わ
ずぞッとしたほど深刻な声で、こ
うつけ足して云うのでした。
﹁ご存じでしょうね、お父さんが
どんなことをしたか﹂
私がおどおどしていると、少年
た
はやがて起ち上って、私よりも背
丈が低かったので、爪さきで背伸
びをするようにして、私の耳もと
に口を寄せると、私の名、それも
呼名を、優しい、親しげな、美し
い声で﹁ジュヌヴィエーヴ﹂と囁
くので、私は水でも浴せられたよ
うに、背筋がぞうッとしました。
私は口ごもりながら云ったので
す。
﹁帰りましょう。さ、帰りましょ
う!﹂
すると少年はもうなんいも云わ
ずに、私のあとについて来ました。
が、私たちが入口の段々をあがろ
うとすると、私を呼びとめて、
﹁よござんすか、僕を棄てたら、
自殺をしますよ﹂
私も、その時になって、冗談が
ちと過ぎていたことにようやく気
がつきましたので、それからは少
し慎しむようにしました。ある日、
少年はそのことで私を責めました
ので、私はこう答えたのです。
﹁あなたはもう冗談を云うには大
きすぎるし、そうかと云って真面
目な恋をするには、まだ年がわか
・
過ぎてよ。あたし、待っているわ﹂
・
私はそれでけりがついたものと
ばッかり思っていたのです。
秋になるとその少年は寄宿舎に
入れられました。翌年の夏にその
少年が帰って来た時には、私はほ
かの男と婚約をしておりました。
その子はすぐにそれを覚って、一
週間ばかりと云うもの、何かじッ
と思い沈んでおりましたので、私
もそのことをだいぶ気にかけてい
たのです。
九日目の朝のことでした、私が
起きますと、扉の下から差込んだ
一枚の紙片があるのが目にとまり
ました。拾いあげて、開いて読み
ますと、こう書いてあるのです。
あなたは僕をお棄てになりま
したね。僕がいつぞや申し上
げたことは、覚えておいでで
しょう。あなたは僕に死ねと
お命じになったのです。あな
た以外の者に自分のああした
すがたを見つけられたくあり
ませんので、去年、僕があな
たを恋していると申し上げた、
庭のあの場所まで来て、うえ
を見て下さい。
私は気でも狂うかと思いました。
取るものも取り敢えず、あわてて
き
着物を著ると、私は云われた場所
まで駈けて行ったのです。私は駈
けました、力つきて倒れてしまう
ほど駈けました。その子の小さな
学帽が泥だらけになって地面に落
ちていました。その晩は夜どおし
雨が降っていたのです。私は目を
あげて上を見ました。と、木の葉
のなかで何か揺れているものがあ
ります。風があったのです。かな
り強く風が吹いていたのです。
私はそれからどうしたのか、も
う覚えがありません。私はきゃッ
と叫んでから、おそらく気を失っ
て倒れてしまったに違いありませ
ん。それから、館へ駈けて行った
のでしょう。気がついた時には、
私は自分の寝室に身を横たえてい
たのです。私の枕もとには母がお
りました。
私はそうした事がすべて、怖ろ
しい精神錯乱のうちに見た悪夢だっ
たのだと思ったのです。そこで私
は口ごもりながら云いました。
﹁あ、あ、あの子、ゴントランは?
︱︱﹂
けれども返事はありませんでし
た。夢ではなくて、やッぱり事実
だったのです。
私はその少年の変り果てた姿を
もう一度見ようとはしませんでし
た。ただ、その子の金色の頭髪の
・
ながい束を一つ貰ったのです。そ、
・
それが︱︱これなのです﹂
そう云って、老嬢は絶望的な身
振りをして、わなわな顫える手を
前にさし出した。
はな
それから幾度も幾度も洟をかみ、
け
眼を拭いて、こう云うのだった。
わ
﹁私は理由は云わずに、婚約を
取消してしまいました。そして、
私は︱︱私は今日までずッと、十
三歳のその少年の寡婦を通してき
たのです﹂
彼女はそれから顔を胸のあたり
までうな垂れて、いつまでもいつ
なみだ
までも、淋しい涕をながして泣い
ていた。
一同が部屋へ寝に引上げてしま
うと、彼女の話でその静かな心を
乱された、でッぷり肥った一人の
猟人が、隣にいた男の耳に口を寄
こごえ
・
・
・
・
・
・
せて、低声でこう云った。
・
﹁せんちめんたるもあすこまで
行くと不幸ですなあ!﹂
底本:﹁モオパツサン短篇集 色
ざんげ 他十篇﹂改造文庫、改造
社出版
1937︵昭和12︶年5
月20日発行
※﹁旧字、旧仮名で書かれた作品
を、現代表記にあらためる際の作
業指針﹂に基づいて、底本の表記
をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこな
いました。
﹁揚句↓あげく 貴方・貴女↓あ
なた 或る↓ある 恐らく↓おそ
らく 反って↓かえって 拘らず
↓かかわらず 此処↓ここ 事↓
こと ︵て︶了↓しま 直ぐ↓す
ぐ 大分↓だいぶ 何うした↓ど
うした 飛んでもない↓とんでも
ない 間もなく↓まもなく ︵て︶
見↓み 若し↓もし 漸く↓よう
やく 等↓ら﹂
※読みにくい漢字には適宜、底本
にはないルビを付した。
入力:京都大学電子テクスト研究
会入力班︵山本貴之︶
校正:京都大学電子テクスト研究
会校正班︵大久保ゆう︶
2007年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネット
の図書館、青空文庫︵http:
//www.aozora.gr.
jp/︶で作られました。入力、
校正、制作にあたったのは、ボラ
ンティアの皆さんです。