1 - Bekkoame

追悼レオ・フェレ
レオ・フェレとともに−1
―――――レオ・フェレ輝かしい40年
主なレコードリスト
-1950
-1953
-1954
-1956
-1958
-1961
:La Vie d'artiste
:Paris Canaille
:La Chanson du mal aimé
:Poète vos papiers, Pauvre Rutebeuf
:Mon Sébasto, Java partout, La Gueuse
:Jolie môme, Paname, Les Poètes, Merde à Vauban,
Comme à Ostende, Thank you Satan
-1962 :Album [Verlaine-Rimboud], Mon général
-1965/66:Ni Dier ni maître, Franco la muerte, La Mélancolie
-1967 :Quartier latin, Il sont voté
-1969 :Pépée, C'est extra, Les Anarchistes
-1970 :Amour anarchie, Le Chien, Avec le temps
-1971 :La Solitude, Ton style, A mon enterrement
-1973 :Il n'y a plus rien, Richard, Ne chantez pas la mort
-1974 :Et basta !
-1977 :La Frime
-1983 :L'Opéra du pauvre
―――――― 硬質の鬼才! レオ・フェレの歩み
サンジェルマン・デ・プレの酒場で、ピアノをひきながら作曲して絶望の日々を送っていたレオ・
フェレは、1952年「パリ・カナイユ」を大ヒットさせ、1955年、映画『パリ野郎』には、そ
れを歌ったソヴァージュも出演して世に出るきっかけを作る。しかし、かれには、1952年にアポ
リネールの詩に作曲した「ミラボー橋」があるが、それはシャンソン・リテレールの展開の出発であ
る。かれは現代詩には着目せず、ランボー・ヴェルレーヌ・アポリネール・ボードレールの作曲に輝
かしい成功をおさめる。とくにボードレールはすばらしく、歌人・塚本邦雄をして前記二曲は忘れら
れようとこの『悪の華』は残らねばならぬといわせている。
やがて、68年五月、あのパリ革命の中で青年のアイドルとして登場する。かれはかねてからフラン
コ治下のスペインにも心をかよわせていたことはスペインに関する歌でうかがうことができる。
今年の7月十四日、パリ祭、革命記念日に革命の子として死んだ。
ただただ無念である。
(西田秀夫)
追悼レオ・フェレ
ア ナル ・ シャ ン タン テ
の死
―――1993 年7月 19 日「ル・モンド」記事(ロベール・ベルレ)要約
レオ・フェレは77歳、トスカーナで死んだ。
《あ
国の半インテリ官僚、半ボエームのエリザとル
なたをあんなに泣かす》苦悩にみちたことば、
「時の
イ・アラゴンは、かれがかれらの詩にひざまずい
流れに」
。それはこうだ。
《日々、時間、年々、左翼
て、音楽を捨てさせようとした。しかし12曲と
の闘いにすごして》
。かれはすぎゆく歌手ではない。
も完璧に成功した。「赤いポスター」から「異邦
がまんできないほど死んでいるシャンソンではない。
人」まで、
「ブルース」から「生きてる男のように」
「よき歌」ヴェルレーヌ風のそれ。かれはあなたを喜
までである。
ばせるために歌うのではない。パロールをもつロマ
ンセ、テキストの、武勲詩の、抗議の叫びの、そよ
タンゴの時代
ぎとおののきのシャンソン、恋人のシャンソン、革
命歌の、反逆のシャンソン、愛されない人々のシャ
7年かけて、かれはある晩、モンテカルロの城
ンソン、靄や霧の夜しか外へ出ないシャンソン、フ
砦の上で、オーケストラを考え出す。海に面して、
ランスのシャンソンである。
その音楽は、最初で最もはげしい情熱――おそま
かれはモナコで一九一六年に生まれた。しかし、
きながら神がかなえてくれた――ベートーベンの
パリでつくり、歌いはじめた――狂ったように、幸
コリオラン序曲とラヴェルの「左手のための協奏
福、
《休む逆境》に向けて、流れに逆らって船出した
曲」を指揮する、かれの夢だった。
――のは一九四六年だった。明るさ、ヴァイオンの
「スペインの船」「潜水夫の歌」「サンルイ島」
音のよさ、自動ピアノの断続音、美、青春、反逆に
――作者と音楽家として二重にまれなタレントと
向けて、そんなものだった――芸術家の生活は。
して知られるようになっていた。
「タンゴの時代」
「パリカナイユ」
「三文ピアノの歌」
「ムッシュウウ
「くそったれ、ヴォーバン将軍」と歌った迷惑な
イリアム」
「私の仲間」これらのインクの激情も同
人、体制破壊者。
「エピック・エポック」をののしる
じ血管の中からである。
前に、
「困難な時代」をあざ笑う陽気なシャンソン歌
イエイエの波の中で、かれはファンをつくって
手。すでにこめかみの白くなった不良少年。テレビ
いく。この非凡な先駆者は、道を示す。
や「金持ち」につばを吐き、パリジャンーパリサイ
アラゴンとランボーの後、ヴェルレーヌ、ボー
人のさるまねをするきどり屋を皮肉る狙撃兵。
ドレール、アポリネールは、レオ・フェレによっ
て音楽となる。
は、単純に《フェレの声》を選んだ。
「悪の華」
「酔いどれ船」
「地獄の季節」にい
一撃で二十歳も若返った観衆は、
《巨大な挑発者》
たるまで魅せられた観衆を前にして、舞台上
のことばに出会う。
で演じられることになる。
《聞け、聞け、海の沈黙の中に、呪われたバランス
《活版印刷の中で病んだ詩は、声帯をもって
がある。あなたは心を時間に評価している》
。残酷な
でしかセックスをもたないだろう》
時計屋のイロニー。一九六八年の大変動は、フェレ
レオは最後に、オーケストラを通じて、兄
にとって私的な転覆と一致する。かれにあっては、
弟のつくった借金を支払う手段を見出す。
誹謗の空気として鳴りひびく破壊の年代。
60年代に入ると、相互扶助組織のリベル
そして、リュートビーフ(かれのすきな中世詩人)
テール祝祭に居合わせる。そのほとんど神秘
は、独特な次元をとる。
《かれの友人になった人々は
的な宵、幕合に黒旗の燃え上がりの中で議長、
何だったのか》
モーリス・ジョリヨーが演説する。熱狂の聴
マドレーヌは去る。めすざるぺぺは突然死ぬ。か
衆の中で、フィリパッチの世代は、前・68年
れはひとりで旅へ。かれは再出発する。
代へ変身し、次には、赤いスカーフの元・革命
家に変身する。
「ロック・ココ」
「ラ・ザ・ナナ」
「セ・エキストラ」
が生まれる。かれは、ポップミュージックにちょっ
神もなく、主人もなく
ととまり、韻の首を絞める。引き出しの散文の中に
あるテキストを再びとり出す。
(
「序文」
「詩人の身分
5月のあの月のあとで、いくらかの誤解を
一掃するため《知性をもって立ち上がったナ
証」
)
新しく「犬」を書く。
ンテールとコンバンディのパリ》についての
「そして十分」
。それは新しい時代に沈んだ。それは、
レオ・フェレの愛を叫ぶ《くちばしをカタカ
《信じがたいものを見るように世界を見る》
ことをは
タしているアホウドリ》が、機会主義者でも、
じめる。それは《我々のより別の国、別の地区、別
体制懐柔主義者でもないということを、しか
の孤独》を要求している。
し説明することが必要だった。
かれの大衆は喜んで勝負を捨て、スリッパをやっ
ポイント(転轍機)のきまぐれ、歴史の列車
かいばらいをして、ロマンチックな、硫黄の臭いの
︻レオ・フェレを追悼する
ミッテランとバラデール︼
社会主義
ミッテラン大統領
世論調査
バラデール首相
たちこめる道を横切ってかれに従う。フェレの
聴衆の中にびっくりさせる成功をおさめる。
地獄は、高い野心の、また偉大な苦悩で敷きつ
められている。かれの想像には殉教者が住みつ
《私の心には潮がある それが高まって私
いた。バルトークは飢えで死に、ベートーベン
に知らせる 私は妹のために死ぬ苦しみ 私
は《耳がきこえなく》なり、ラヴェルは腫瘍で
の娘でも白鳥でもある妹》 病気のフェレ?
むくみ、モーツアルトは共同墓地に埋葬され
いいや、絶望にいたる幻滅の、そして明晰な
た。ゴッホは不幸の鳥にとりかこまれた。
メランコリー。
《その批判の最高形態》
。かれ
のゆううつは、幻想の財産から出てきた《見
《黄昏時のまだら模様の中に立って 穴だら
者》のそれだった。
けのズボンにズックのキャスケット帽で ぴい
ぴいさえずっている奴ら 固くなったパンみた
《人々を、かれは人間の問題、単純にメラン
いな奴等 半ば灰のような色をした女達 真夜
コリーの問題をもって、スロットルマシーン
中のベルノの霜でひび割れしたシャツの男達》
のそばで、夜の青ざめた数時間を自由にする
なお、光は難解さの外見からほとばしってい
ことしか知らないときめた》
る。
《私が「犬」を書いたとき、私は<口述>を
味わった。ある日、私はピアノをはじめた。私
《時とともに 情熱を忘れ 声も忘れる はそのテキストを読んだ。モーリス・フロは泣
その声は 貧しい人々の言葉そっと囁いてい
きはじめた》
たものを あんまり晩く帰るなよ まして風
我々は、リヨンのアリテステホテルでの再会
邪をひいたりするなよ》
のとき、一九七〇年のフェレを語ろう。
それは一九八七年か八八年の11月だっ
た。イタリー・シエンヌへの旅。その夜電話。
同じ方法で、
「追憶と海」
、このつよい宇宙的
《昼食に来いよ》
。道路は世界で最も晴れやか
ポエジーは、波の上で決してプログラミングさ
な朝だった。
れなかったものだが、疑いもなく、イメージ
道の端に離れた一軒の家。ふだんのごみご
と、感動のわきたつ上げ潮と、ことばの灼熱し
みしたもの、たる、一輪手押車、はしごの周
たそれによってこえられた語彙の秘教ゆえに、
辺に、もったいぶらぬ大きくきれいな家。
それぞれの片すみに家畜がいる。リス、コウ
いことを知っている。風に吠えたかれ、レオに
マ、クジャク、サカナ、イヌ、ネコ。離れにレ
幕が決定的に下りた。かれは我々にピアノ、ラ
オの、もう回らぬ回転式の印刷所、ほこりだら
ジオ、レコード、写真を残した――本当はない
けのビラ、ポスター、文集の山。
のと同じだ。それでもやはり、かれはしかし、
3人のこども、2人の娘、一人の少年、その
人が動悸をうつように、ポーム(テニスの原型
場の主人、その妻マリーの真の奇跡、その
といわれる屋内球技)を戦うべく、そこに残る
木々、シャンティその豊かさ。そしてレオ・家
よう提示した。アンコールを叫んで、ただひと
長は古いひじかけいすをほじくりかえしつつ、
つしかないもの――最後の人生の道をめざし
ちょうどその死が告げられたピエール、シエ
て再び要求しよう。
ルスに言及している。うわべも気取りもない
特別の日だった。
我々は大いに語りあったあと、ついに別れ
る時間がきた。車までレオはついてきて言っ
た。かれの年齢について、そして《最終直線》
(歌詞はいろいろな方々の既訳を利用させて頂
の苦悩について、おそろしいいくつかのこと
いた。フランス語入門生の訳ゆえ、乞寛容。要
ばを語った。
《どんなすてきな思い出も/もう
点のみ訳す。尚、お頼みしたいのですが、CD
お前には/土曜の夜のきずもの売場に山とつ
のディスコグラフィー作成の資料、御教示下
まれたバーゲン品のひとつにすぎない/愛情
さい。
)
もたったひとりで去っていく》
(訳者――〈時
とともに〉の一節で、この訳は窪田般彌先生で
す)
立川市若葉町2−39−18
電話 0425-35-8665
レオ・フェレは死んだ。回想は苦い。かれは
西 田 秀 夫
大変ゆっくりしている。あまりにゆっくりし
ていると人は言う。人はもはやかれが帰らな
唄について思う事
若林圭子
誰でも心の中に旋律を持っていると思う。
それが街角に流れる歌と共鳴した時、忘れがたいものになる。また、自
分の旋律を楽譜に記す人もいる。声がある人は歌う。言葉がある人は
詩にする。絵に描く人もいる。自分にも確かには掴みきれない靄の様
なものを、あらゆる手段で形にし取り出そうと試みる。
私もたまたま声があったので、唄う事になった。
そして自分の気持ちにぴったりくる詩がないために訳詩まで始めたが、
違和感なく唄える言葉を選ぶので、オリジナルに近い詩になってしま
う。実際、私はレオ・フェレの作品を唄っているが、レオ・フェレの
真似ではなく自分独自の歌唱法を創作しようとしているので、借りも
のという気はまるでない。自分の唄だと思っている。
粘土をこねながらある姿をイメージし、何度も潰し、また作り上げる。
一つの作業に似ていると言える。ただ唄に向かいあい自分の旋律と一
つに溶け合うまで黙々とやる。この果てし無い繰り返しである。日本
で市民権を得ている小枠で酒落たシャンソンのイメージとは余りにも
違うが、それが私の旋律であり私のリズムなのだから。
こうして十数年唄っていると、自分の旋律を納得のいく唄に作り上げ
るには、いったいどれくらいの時間が必要なのだろうと、嘆息するば
かりである。
「唄は心で唄えばいい」と安易にいうが、それは鍛練に鍛
練を重ねた人だけが到達できる至福の境地だろうと思う。よく仏師が
「祈る様な気持ちで仏を彫り出した」
「神の御力に導かれ、自然に刀が動
いて仏様が柱から現れた」などと言うが、その境地に達するまでに血
の滲むような研鑚の日々を過ごしたのは言うまでない。
私も鑑賞する側から唄う側になり、客観的な視点からアドバイスを
受ける機会に恵まれ、
「どんなに心をこめようと、彫り出すための刀
が錆びていては自分のイメージする仏様は現れない」という至極当
たり前の事がやっと理解できたのである。至福の境地に一歩でも近
づきたいものである。
さて、人は皆顔が違う。一人として同じ顔はない。違いが個性にな
り、面白いと思うのだが、それが唄となると中々納得できない人が
多い。私の経験から言うと、聴きなれないメロデイーや詩には戸
惑ってしまい、ややもすると下手だときめつける人までいる。理解
できないのは不快なのだろう。また唄を商売として考え、観客に受
ける歌を歌おうとする歌手の姿勢、歌わせようとする経営者。違い
を面白がるより、
違うものを排除しようとする多数の人々によって、
随分日本のシャンソンもつまらなくなっていると思う。去勢された
猫みたいに従順で聴く人を挑発する毒も何もない。
誤解を恐れずに言うならば、日本のシャンソンがどうあれ、私には
関係ない。私はただ自分の心の奥に流れる旋律を唄おうとしている
だけである。これが私の思う唄である。唄とはその人間の存在に深
くかかわってくるものだと思う。唄によって何かを伝えたいと思っ
た事はない。そして私の声が思いがけないイメージを与えたとして
も、それはもう聴く人にかかわる問題であり、私にはどうする事も
できない。
わが心のレオ・フェレ
――――犀川麟
夏も終わりに近い或る日の午後、職場に一通の電
話がかかってきた。
力にしだいに吸い寄せられ、レオ・フェレヘの哀
悼の念が心に動いた。嘘ではなかったが、動機が
「おい、あのレオ・フェレが死んだの知ってるかね
………革命記念日に」
かなり暖昧であることは確かである……。
燃えるパリ五月革命の夜空を彩った、お祭り男
低い、物憂げな声音はTのものだった。沈痛になる
のを意識的に抑えこんだ、面倒くさげな口調であ
の中でも最高の伊達男だったレオ・フェレのこと
は、僕もいくらかは知っていた。むろん、シャン
る。
「ああ、あのレオ・フェレが…」僕は気乗りのしな
ソンについてまったく素人に過ぎない僕のレオ・
フェレ理解は極めて単純素朴なものであった。叛
い声で言った。レオ・フェレは、僕にとってまだパ
リという遠いところの人に過ぎなかった。とてもT
乱の群れのあるところ、黒い髑髏マークの旗とと
もに現れる美の叛徒、醜い世界を業火に叩きこむ
のように、部屋壁をへだてた隣人のような密度で、
かのフランス人への思い入れを共有するわけにはい
ために地獄からやって来た呪われた吟遊詩人。要
するにパリの五月叛乱が僕の幼い脳髄に刻んだ幻
かない。
「革命記念日に死ぬなんて、いかにも彼にふさわし
覚作用、その所産としての惑乱なのである。
そんなブラックでパンクな夢想に、僕のレオ・
い気がするけれど、なんだかちょっと出来すぎてい
やしませんか」
フェレはいつも重なりつづけていた。バリケード
の向こう側には、いつも歌があり、愛の物語がな
「なにしろ超人的なエネルギーの持ち主だったから
ね。自分の死ぬ日なんて、簡単に選べることが出来
ければならないという通俗的な思い込みによっ
て、青春の泥濘路を僕はしばらくの間なお歩いて
たと思うね、おれは」Tはかなり大真面目にそう
言った。病膏盲に入るってやつだな、と僕は思った
いくことができたのだ。レオ・フェレと出会った
ことは、だから僕にとって大切な拾い物だった。
が、いつしかこちらの側にも彼の思い入れの熱度が
伝ってくるようでもあった。
それは今でも手のひらの中で泥にまみれたダイア
モンドのように輝いている。
「念力かなにかで、エイッというふうにですか?そ
れにしても、まったく最後までカッコイイ男を演出
レオ・フェレのシャンソンには、少年の無垢な
魂が、滑稽と悲惨という現実世界の罠にかけられ
しつづけたものだな、見上げた執念ですね」
思考力の軽さを、今風のノリというぐあいにこじつ
た時の、悲痛な叫びに近い切実さがこもってい
た。毒を盛られて滅びていく孤絶の吟遊詩人の断
けて急場をしのぐ癖の持ち主であった僕も、このと
きは妙にぎこちなくなってしまった。Tの重い求心
末魔の痙攣でもあるその旋律は、凄絶な美をたた
えて聴く者の心に染み入る。 その瞬間、レオ・
フェレは若者の魂に黒く鋭い毒ある爪を立てて、彼
等の甘い眠りを妨げ、叛逆の果てのない飢えへと執
なおしゃべりのでる雰囲気のほうが、かえって面白
いのではないか、という趣旨のことを述べられた。
拗に駆り立てていくメフィストに変貌するのだ。
レオ・フェレの追悼リサイタルをやらないかとい
その一言で、僕らの心は決まった。パリ祭に逝った
レオ・フェレにふさわしい、日本で初めての追悼リ
うTの言葉を電話で軽く聞き流していた僕だった
が、その夜、台風の前ぶれのせいかしだいに強く
サイタルになるだろう。二次会の酒盛りの場面が浮
かんだ。よし、レオ・フェレを偲んで、大いに騒ぐ
なってくる雨と風に打たれながら街角に佇んでいた
時、ふと脳裏に先頃一、二度ばかり渋谷のジァン・
のも一興ではないか。
彼女との打合せのために、えびす駅の近くにある
ジァンで聴いたことのある、個性的な美しい線が印
「にんじんクラブ」ヘ出かけた時のことだった。彼
象に残る一人の女性歌手の顔を思い浮かべた。暗く
強い、不思議な魅惑を帯びた声が、時間の風となっ
女はそのシャンソニエで歌っていたのである。この
企画を一緒にやることになったNと、迷路めいたえ
て蘇り、僕の耳朶を束の間かすめていく。
レオ・フェレを歌う歌手などほとんど絶無に近い
びす駅界隈をさんざん歩き回ったすえに、やっと彼
女の出演時間に間に合うことができた。
日本の風土の中で、若林圭子の存在は極めてユニー
クなものであった。彼女とレオ・フェレとの出会い
「実を言うと、メッセージソングみたいなのは、あ
まり好きじゃないんだよ、俺は」Nは歩きながら、
は、おそらく僕の浮薄な出会いの比ではなく、はる
かに深く心の屈折を経たものであろう、と彼女の存
そんなことをぽつんと言った。
僕は、レオ・フェレにたいするNの反撥感が、そ
在を身じかに感じだした瞬間に僕は思った。難解な
レオ・フェレの詩を自ら訳し、彼の生きざまに自ら
のような言葉となって現れたのかもしれないと思
い、いくらか緊張をおぼえながら彼の方を見た。僕
の「青春」を重ね、引きずり、なお生の泥濘をひた
むきに渡りつづけている一人の若いシャンソン歌手
もどちらかといば、メッセージ過剰なのは苦手だっ
たからだ。
の弧絶、そう感じたのは、あながち僕の感傷僻のせ
いばかりではないはずだ。
「でも、まあ、こんど聴き直してみたらね、それが
いがいといいんだな、レオ・フェレ……音だけで聴
彼女は、僕たちの「さんせいホール」での企画を
こころよく応諾してくれた。果たして、レオ・フェ
いても、やっぱりすごいものがあると思ったよ」
「若林さんのレオ・フェレの方が、俺にはなんだか
レを聴こうという人々が、いまどきどれだけ集まる
ものなのか、そんな漠然としたためらいに足をとら
レオ・フェレよりもレオ・フェレ的に聴こえてくる
んだけどな……ナントカの欲目というやつかな」と
われがちな僕らに、若林さんは、小人数でにぎやか
僕は、なんだか暖昧なこと言って、Nにあいづちを
うった。
「わかるよ、その感じ。音楽的にいって、そういう
ことってありうることなんだ」とNはひどく真面目
な顔つきになって言った。「但し、実際に聴いてみ
ないと、なんともいえないがね」
「にんじんクラブ」での若林圭子の声に、僕はジァ
ン・ジァンで聴いたものとはまた異なった趣を覚え
ていた。暗く、深く、地の底から湧いてくる響き、
地霊の歌声である。レオ・フェレの霊が、風にはた
めく黒い旗となって、一瞬、その仄暗い空間をよぎ
り去ったかと思えた。
翌日の夜、僕は早速Nに電話をしたのである。
「どうだったかね……印象は」と僕は言った。
「印象ね、そう言われても困るな、なんとも言えな
いね」とNは、僕の期待感を軽く一蹴するかのよう
に、ひどくそっけない言い方をした。
彼我の美意識の溝の深さに、僕はため息を吐きな
がら受話器を切り、しばらくぼんやりと頭をふって
いた。……やっばり、ナントカの欲目というやつな
のかもしれんな、と僕は自信なげに内心で眩いた。
二、三日して、別の用件でNに電話したとき、彼
の方から言い出した。
「なかなかのものだったね、この間のにんじんクラ
ブの彼女………いや、ほんとに素晴らしいよ、あれ
は」
「ほんとに、そう思うのかね?素晴らしいと」
「うむ、あれはシャンソンなんてものじゃないね、
それ以上の何かだよ。実際、どうして、あのような
歌手が今時日本にいたんだろう。不思議だな」
Nの打って変わったべ夕誉め口調に、僕はいささ
か面食らっていた。あれほど懐疑的な人物にして
は妙にはしゃぎ過ぎている気がして、僕は眉に唾
でもつけたい気持ちになった。おそらく、この
二、三日の間に、何かがあったのではないかとさ
え、僕は疑ったくらいだ。あれこれ、愚にもつか
ぬことが思い浮かんだ。たしかに彼には以前か
ら、躁鬱症的なところがあったから、たぶんその
せいかもしれない、などと…けれども結果的にい
えば一人の男が上機嫌であって決して悪いわけ
じゃないのは、もちろんのことである。ふと僕
は、彼がかなりの音楽少年であったという友人間
の噂を思い出した。してみると、音楽にたいする
彼の感受性の高度な複雑さが、或る感動を内面で
醸成していくプロセスというものがあり、それが
一定の時間の量というものを必要としたのかもし
れない。そう気づいた僕は、なんにでも即時的に
反応し、簡単に感動してしまう自分の美的感受性
の浮薄さにあらためて気づかされたのであった。
日曜日の朝、微かな雨の音と冷えた樹木の匂い
が漂ってくる。疲れた眠気のとれない頭にまたし
ても電話のベルが響いてきた。
「レオ・フェレのビデオが、俺のところにあるん
だけど見に来るかね。Sさんもくるはずだよ」T
の重々しい声が、命令口調で言った。
ずいぶん前に買ったレオ・フェレのレコード盤
のジャケットに、彼の写真が印刷されていた。そ
して、彼の死を報ずるル・モンドの紙面に印刷さ
れていた不自然なほど陰影のくっきりした顔写
真。僕のレオ・フェレについての外形的なイメー
ジはその程度のものであった。だから、ほとんど
が僕の内面で勝手にふくらんだ自分だけのレオ・
フェレ像になっていた。ビデオで彼の歌う場面を
見たのは初めてである。いくらかの落差があっ
た。僕の内部のレオ・フェレは、もっと黒々とし
「にんじんクラブ」で若
林圭子さんを聴いて
――――カムラータ・シカーナ
ていて、デモーニッシュな陰影を持つ人物のはずで
あったが、画像の男は、なんだか馬鹿に陽気そうで
茶目っ気のある、いくらか躁状態の老いたピエロと
いった風体なのだ。が、その声は異様なほど若々し
い。指先が魔術師めいた動き方をする。そして全体
の身振りから、なんだか妖しげな一種の呪術的効果
を発散していた。レコードで聞き覚えのあるレオ・
フェレ特有の地の底から湧きあがってくる地霊じみ
た声。暗く、激しく、渦を巻き、蛇行し、爆発する
美しい旋律を帯びたそれが、僕の魂に黒い爪を立て
だした刹那、レオ・フェレの老いたピエロの仮面が
剥がれ落ちる。冥府の闇を秘めた眼を持つ、まぎれ
もないメフイストフェレスである。身悶える狂女の
所作を反復しながら、黒い口を開き、画像の向う側
で呪いの歌を唄っているのを、僕はしばらくの間、
陶然として見惚れていた。
黒い髑髏マークの旗を風に翻して現れる美の叛
徒、醜い世界を業火にたたき込むために地獄から
やってきた呪われた吟遊詩人。やはり、それこそが
わが心のレオ・フェレのもうひとつの顔だった。
Tは画像の前で、これまで操り返し見てきたビデ
オの画像を、飽きもせずに見つづけている。雨は
降ったり止んだりで、陰鬱な午後の時間がだらだら
と経過していく。この家の飼い犬が窓の近くで、と
きどき喘息でも病んでいるような吠え方をしてい
た。
「レオ・フェレの眼って、なんだか怖いね、この頃
だんだん彼の歌がわからなくなってきたよ」とTが
独り言のように言った。
若林さんの歌は、恵比寿のシャンソニエ「にんじ
んクラブ」で初めて聴いた。
聴くうちにもっと落ち着いてゆっくりと聴き続け
ていたいと思っていた。その歌とピアノは、その音
と言葉とピアノとをひきがねにして、暗く雑然とし
た内面の淵をくぐりぬけて、何かのイマージュに辿
りついていくらしいことがみえていた。それがどこ
に連なっていくのか、ゆっくりと確かめたい、そん
な念いを抱かせてくれた。様々な断片が、断片とし
て心の中に堆積し、そうした断片をひとつひとつ吟
味して繋ぎあわせていくことの楽しみを、いつくる
ともしれない明日に残してくれた。最近はやりのR
DSの無機質な点の集合が、部分的に焦点を結びつ
つあるような、そんな状態とよく似ている。そして
そんなことよりも何よりも、幾度となく聴き進むう
ちに突然見えてくる地平があるということは、音楽
ファンの秘められた楽しみの一つでもあるのだ。そ
んな断片について、少し書き留めておきたい。
少し不思議な感じがした。歳を重ねるにしたがっ
て声量も増していったと誰かが言っていたレオ・
フェレのその眼差しを受止め、それに重なりあい、
自らの言葉で、自らの肉声で歌ってしまう異国の女
性歌手がいるのだ、と。自らの言葉にして歌うとい
うことは素晴らしいことだと思う。そう、たしか浅
川まきがブルースを訳して歌っていたのかな、その
中でもラングストン・ヒューズの「流れを渡る」の
詩を訳して歌っていたのが、印象に残っている。そ
ういう作業を繰り返しながら、自らの歌を創りあげ
ていくのだろう。
切符きりの小さい穴、大きい穴・・・とたたみかけ
た最後のフレーズなどとても気に入った。
パリの地下
ベトーヴェンが、
聴力を失った時彼の音楽にどの
ような表現の違いが現れたのかという話しを、
昔ラ
鉄――91 年にパリに立ち寄った時、迎えに出てくれ
たフランスCNTのメンバーがマルシェの駅の自動改
ディオで聞いた。その時出演していた心理学者は、
聴力というものは背後の世界と密接に結びついてい
札の警告音を無視して、
早くくぐりぬけろと身振りで
うながし、
その横棒を飛び越えたときのことを思い出
る、
耳は人の背後をみているということに気がつく
べきである、というような話しをしていた。幻想と
していた。もう切符切りの労働者はいなくなってい
た。窓口には黒人が座っていたのかもしれない。15
いう言葉が適切なのかわからないが、
目を閉じて自
らの内側に広がる世界に想いを拡げていく。
その同
年ほど前ロンドンで、
黒人労働者が街頭の清掃労働者
であったのを思い出す。
伴者に音楽はふさわしいのかもしれない。
『音、沈黙と測りあえるほどに』の中で武満徹はい
「座り込んだ奴等」だったか「幻の池」だったか、
そのピアノは思いもかけずラヴェルの響きを思いださ
くつもの印象的な言葉を書いているが、
若林さんの
歌を聴いて、久しぶりに拾い読みをしてみた。
せた。そして、確か日本でも似た音を出していた作曲
《文字をもたない民族の言葉は、発音と伝達する内
容とのあいだに密接な関りがあり、
それは美しく一
家が昭和の中期にいたなと、ああ平尾貴四男だ。調べ
てみたら彼は1931年から1936年まで、パリに留学して
いたらしい。反フランコ、反スターリニズムを闘った
英雄的スペイン革命前夜のあの時代である。彼は日本
現代音楽協会の第三代会長をしたようだが、「五度和
声体系の音を三度和声体系の中に独特の手法で採りい
れ(箕作秋吉)、日本的であると共に、近代的なもの
に到達でき、日本的なものと西洋的なものの接触点を
見出すに至った。」とあった。たぶんレオ・フェレや
ラヴェルの音の作りの秘密、古代ギリシャかバスクか
ケルトかの響きと通底するものがあるのだろう。アイ
ルランドのエンヤの曲やブリティッシュ・トラディ
ショナルの音とも同根の響きがある気がする。
記憶を反芻するしかないのはいいことかもしれない
し、 残念なことかもしれない。せめてテープでもあれ
ばもっと別な意味でじっくりと確かめ、
さらなる深遠
に迷い込むこともできるはずだが。
致している。
表象記号としての文字をもたないため
に、語彙は少ないが、言葉は、多義的なひろがりを
もっている。そこでは、言葉は、その発声と連繋の
しかたで、多様な変化を獲得する。……これらの言
葉は、すべて沈黙を母胎としてうまれ、発音される
も
ことで生命を有つ。……言葉は、想像の貯水池であ
り、言葉は、発音されることで、たえず新鮮な水を
われわれに供給する。この場合発音とは、(i) 知的
な、あるいは感覚的な、(ii) 日常的な、あるいは
非日常的な体験に基づいた喚起的な拡大作用――す
なわち、
言葉の容量以上の意味内容をそこに充溢さ
せる行為を意味している。……言葉は、発音される
ことなしに、それ自身では、けっして規格化された
容量を越えるものではない。……》
若林圭子さんの印象
――揺さぶる声、呼び覚ます声――
ジァン・ジァンで、二度ばかり若林さんのシャンソンを聞いてい
る。だから、彼女のことを知ってそんなに日が経っているわけでは
ない。僕の友人に彼女のフアンがいて、ある日、誘われて出かけた
のである。会場を出た後、暗闇で不意打ちを食らったような印象か
ら、しばらく抜け出ることができなかった。レオ・フェレに傾倒す
る姿勢のひたむきさ、激しさ、弾力に充ちたパンチのある声、生き
ている樹の木質のようなそれ。先ずそのことが僕の胸を撃った。惰
眠の生を揺さぶる声、呼び覚ます声である。それらはレオ・フェレ
と同質のものを確かに共有している。
標的をめざす矢のような緊張
感、途上にある者の恐れを知らない情熱の切っ先のきらめき、僕は
若林圭子の肉声にすっかり囚われていたのである。
パリの五月から
日本へやって来たレオ・フェレは、僥倖にも若林圭子という肉声に
宿ることができたわけだ。願わくば彼女の成長が、ついに魔女の声
を得て、更なる「生の転覆者」として立ち現れんことを!
そこから新しい五月の予兆が、或は仄見えてくるのかもしれない。
(遠矢徹彦)
レオ・フェレ友の会
若 林 圭 子
最初ジュリエット・グレコが好きでシャンソンを
歌い始めた。83年、古レコード屋でふと聴いた
レオ・フェレの曲がすごく新鮮で歌ってみたいな
と思い、自分で辞書を引きながら訳して歌ってみ
たら、とても素直に入っていけたので、それから
はレオ・フェレばかりになった。自ら訳詩をてが
け、自らの訳詩で「QUELLE VOIXーどんな声で」
と題するコンサート活動を開始した。レオ・フェ
レを歌い始めたころは、歌っている最中に野次ら
れたりして、随分しんどい思いをしたこともたく
さんあったが、最近レオ・フェレの好きな人がい
るということもわかってきて、心強く、夢のよう
だなと思うとともに、責任も感じている。現在、
レオ・フェレの曲のレパートリーは60曲くらい
だが、レオ・フェレは、アポリネール、ラン
ボー、ヴェルレーヌ、ボードレール、レオ・フェ
レ自身の詩など本当に素晴らしい詩をたくさん
歌っていて、歌いたい曲がまだまだたくさんあっ
て、これから自分なりにどんなふうに紹介して
唄っていけるのかなと、楽しみでもある。
(談要約R)
レオ・フェレ――1916 年生まれ。アナキスト詩人。作詞家・作曲
家・歌手である現代のトゥルバドウール。1993 年7月 14 日逝去。
享年77歳――に関する、情報、CD、VIDEO、等の紹介、研究。
海外との交流。ミニ・コンサートの企画、会報『レオ・フェレと
ともに』の発行、など。これらの活動を通じて、レオ・フェレの
歌心と精神を継承・深化していく。
会費:年千円。
レオ・フェレとともに――1
レオ・フェレ追悼号
発行日:1993 年10月10日(日)
発 行:レオ・フェレ友の会
東京都立川市若葉町2−39−18