地域誌 - ダン計画研究所

済美連合振興町
町会と一緒に
街を盛り上げません
んか?
町会会
会
へへ
入り
りりたた
たいい
行事事事
に
参加
参参参参
した
地域
い
活活動
活
を
手手手
伝い
伝伝
たたい
中崎1丁目
中崎2丁目
中崎3丁目
中崎西1丁目
中崎西2丁目
中崎西3丁目
中崎西4丁目
万歳町
済美 の人
街 なみ
暮 らし
OLD&NEW
町会への
の加入
加 のしかたや行
や行事の
事のスケ
スケ
ケジュールな
ール
ルなど、済美連
美連合振
合振
振
興町会の
会の
の活動に関するお問
お問
問い合わせ
わせやご相談は、済美福祉セ
わせ
ンターにて受け付けています。
お電
電話もしくは窓口にてご対応し
ます。開館時
館 間は以下の通
の通
通りです。
お気軽に
軽にお尋
お尋ね
お尋
ねくださ
ださい。
い。
済美福祉
済美
祉センター
大阪市北
大阪
市北区中
市北
区中崎
中崎西1-66--8
TEL
TE
L 06-6
-637
637
375
5-210
5-2
100
00
開館時間 10
1 :0
:00∼
0∼
∼16
6:0
:00(月、火、木、金)
:00
金
住
住所
「済美の人 街なみ 暮らし OLD&NEW」
2016年3月12日発行
編集・発行 ...... 済美連合振興町会
企画・製作 ...... 株式会社ダン計画研究所 株式会社140B
デ ザ イ ン ...... Su- 角谷 慶
写 真 ...... 平野 愛
取 材 ...... 狩野哲也(第2章)
地 図 ...... 齋藤直己
※本事業は大阪市地域活性化事業基金(ボートピア梅田環境整備協力費)により実施しています。
「済 美 」という名前
を知っていますか?
済美地域誌発行にあたって
私が地 域活動に参加するようになったのは、扇町
中学校のPTAに参加した 28 年ほど前からです。そ
れまで、済美小学校を卒業してから 30 年ほどは地
域との関わりをあまり持っていませんでしたが、
「もっ
?
Seibi
どうして中崎町を
「済美」と呼ぶの?
と地域を知りたい」と思うようになり、街のいろんな
大 正9年(1920)、旧北 野村と旧川崎 村などが 一つ
写真を撮 影して、地 域の方々に見せながら、少しず
つ人との繋がりを持つようになりました。そんな私の
の学区(小学校設置負担区)として6つの小学校をつく
りました。当時の大阪府知事が名付け親になり、6校は
昔の写真も、この地域誌の中に少し載っています。
一斉に
「済美小学校」と名乗りました。現在の中崎町は、
済美には沢山の行事があります。私自身、済美が
この時の6校のうちの1校の校区に当たります。そのた
住みよい街になるよう、少しでも地 域の役に立ちた
め、中崎・中崎西・万歳町をまとめて済美地域と呼ぶの
いという思いを持ち、楽しみながら取り組んでいます。
、それらをま
です。済美地 域には9つの町会があり(※)
決して、イヤイヤやってなんかいません。きっと、活
とめた大きな組織を済美連合振興町会といいます。中崎
動に協力しているメンバーの多くが、私と同じような
思いで取り組んでいるんじゃないかなぁ。
町ホールの壁に取り付けられているエンブレムは旧済美
小学校の校章であり、現在は済美地区のシンボルマーク
として使われています。
この冊子を手に取ったみなさんには「済美ってこん
な街なんや」
「いろんな人がいるんやな」と感じ取っ
てもらえれば幸いです。
「 済 美 」 という言 葉 は、 明 治
23 年(1890)10 月に発 布され
た「教育勅語」に出てくる「世 世
厥ノ美ヲ濟セルハ」という言葉か
らとられたものです。美を済する、
すなわち済美とは、美徳を成し遂
済美連合振興町会 会長
南 順之介
Junnosuke Minami
げること。また、子孫が父祖の業
を受け継いで善行を成すという意
味です。
※ 2016 年 4 月より万歳 町 振 興 町会と山 崎 西 振 興 町
会が統合され、新たに中崎南振 興町会となるため、8
つとなります。
( 地下鉄中崎町駅を中心とした
エリアを「済美地域」と言います
)
2
第
町会活動カレンダー
11 月 歩こう会
盆踊り練習会
夏
冬
落語会
今日も、明日も、町会で。
落書き消し
章
済美の1 年
春
町会活動カレンダー
秋
9月 敬老と地域の集い
1
12 月 焼き芋交流会
7月 豊崎宮夏祭り
5
2月 中崎町キャンドルナイト
7月 済美カーニバル
4
より住みやすく、安心な街へ
毎 月 第 1・4 の 月 曜 日 に
み の 一 つ。 そ の 中 心 が、
子育て支援は町会が最
も力を入れている取り組
子育てを楽しく。
助け合いで、
方 々 の 手 作 り で す。 お 弁
で、 料 理 は 町 会 女 性 部 の
食事サービス実行委員会
毎 月 2 回、 土 曜 日 の お
昼 に 開 催。 主 催 は 高 齢 者
食べてもらいたい!
できたてを
た り、 先 輩 マ マ に ア ド バ
が り。 悩 み を 相 談 し 合 っ
マ マ が 集 ま り、 大 盛 り 上
き焼きといった豪勢なメ
で、 時 に は カ ニ す き や す
わ り。 1 人 1 回 3 0 0 円
てを提供するのがこだ
の調理室で作ったできた
期でミニセミナーも開催
で に ぎ や か。 年 齢 制 限 は
人 が 参 加 し、 い つ も 元 気
ち に 大 人 気。 小 学 校 入 学
ンタクロースは子どもた
物?﹂ と 思 っ て し ま う サ
は ク リ ス マ ス 会 も 。﹁ 本
もあるそうです。
サービスを開催すること
て は。 不 定 期 で 夜 の 食 事
と で、 気 軽 に 参 加 し て み
特に設けていないとのこ
子育てと並んでもう一
つ、 防 災 に 関 す る 取 り 組
ための準備を。
いざという時の
地域のみなさんが安心
して毎日を過ごすための
地域のみんなで。
地域の安全は
募集しています。
りに協力してくれる方も
ま す。 パ ト ロ ー ル や 見 守
る体制づくりを行ってい
のみんなで子どもを見守
2 名 ず つ が 参 加 し、 地 域
は、 地 域 の 各 種 団 体 か ら
域安全パトロール隊﹂で
人 ほ ど で 構 成 さ れ る﹁ 地
3月曜の午後3時から
い ま す。 さ ら に、 毎 月 第
どもの見守りも行われて
毎 週 月 曜 の 早 朝 に は、 子
パ ト ロ ー ル を 実 施 。ま た 、
半 か ら 1 時 間 ほ ど、 安 全
は、 毎 週 木 曜 日 の 夜 7 時
ま す。 町 会 の 防 犯 担 当 で
地道な活動も行われてい
です。
分の身を守ってくれるの
り が、 い ざ と い う 時 に 自
た機会に生まれたつなが
美 ら し い と こ ろ。 こ う し
れの参加者も多いのが済
す。 若 い 夫 婦 や 子 ど も 連
EDの講習会も行われま
消 火 活 動、 ホ ー ル で は A
訓練やバケツリレーでの
し竿と毛布で担架を作る
い ま す。 そ の 後 は、 物 干
との名簿で安否確認を行
へ 向 か い ま す。 町 会 ご
合 し、 済 美 福 祉 セ ン タ ー
決められた避難場所に集
行 わ れ ま す。 町 会 ご と に
月 に は 防 災・ 避 難 訓 練 が
を 注 い で い ま す。 毎 月
みにも済美町会は特に力
す。
なら誰でも参加できま
までのお子さんがいる方
さ れ る ほ か、 毎 年
月に
60
町会が力を入れていること
子 育 て マ マ が 集 ま る﹁ さ
当や出来合いのものでは
高齢者食事サービス
く ら ん ぼ の 会 ﹂ で す。 地
な く、 済 美 福 祉 セ ン タ ー
イ ス を も ら っ た り、 子 育
域内外から毎回
てを楽しむためのサポー
ニ ュ ー も。 毎 回
∼
ト を 行 っ て い ま す。 不 定
防犯
人の
子育て支援﹁さくらんぼの会﹂
防災・避難訓練
町会活動カレンダー
11
6
70
30
7
50
12
住む人たちに聞いた
済美って、こんな街
地域活動は仕事にもプラスになると感じます。
いろいろなものや人が融合しているのが魅力。
年目︶
イ ベ ン ト の お 手 伝 い で は、 私 は た
だ目の前の作業に精を出している状
梅田から近いのに落ち着いた雰囲気
て、 と て も 気 に 入 っ て い た ん で す。
と 不 安 だ な と 思 っ て い た ん で す。 そ
私も夫もどちらかと言うと田舎育
ち な の で、 地 域 と の つ な が り が な い
︵ソーシャルワーカー/済美に住んで
況 で、 当 日 に な っ て﹁ こ ん な こ と を
高橋涼子さん
妻 が 天 満 中 学 校 出 身 で、 北 天 満 に
実家があるという縁でここに住むこ
し よ う と し て い た ん だ な ﹂ と、 や っ
の 点、 済 美 は い ろ い ろ な 活 動 が 活 発
︵広告制作会社/済美に住んで6 年目︶
と に な り ま し た。 一 度 お 声 掛 け い た
だ し、 美 味 し い 店 も た く さ ん あ る し、
で、 自 然 と 人 と の つ な が り が で き て
松永公道さん
だいたのを機に町会の活動に参加す
と 全 貌 が わ か る こ と も 多 い 。私 が 持 っ
﹁ここから離れたくないな﹂と思って
方々とのつながりができました。
る と、 次 に 出 席 し た 時 に﹁ 松 ち ゃ ん、
ていないものを持っている方々だと
良 い で す よ ね。 同 じ マ ン シ ョ ン の 人
社 会 人 に な り た て の 頃、 学 生 だ っ
た妹と一緒にこのあたりに住んでい
よ く 来 て く れ た な ぁ!﹂ と 温 か く 迎
に﹁ 使 わ な く な っ た 絵 本 い り ま せ ん
か ? ﹂ と 言 っ て も ら っ た り 、﹁ 夕 方 、
い ま し た。 と は 言 え、 そ の 頃 は お 店
域の人とのつながりはありませんで
の 人 と 仲 良 く な る 程 度 で、 あ ま り 地
だ か ら、 地 域 活 動 に 参 加 す る こ と
は、 自 分 の 仕 事 に も プ ラ ス に な る と
ニ バ ル︵P
︶ の 時 に は 、﹁ 子 ど も 見
よ ﹂と 助 け て い た だ い た り 。 済 美 カ ー
子どもさん少し預かってもいいです
感じますね。
た で す ね。 こ の 街 の 一 員 に し て く れ
たんだなと思えました。
思 っ て い る ん で す。 私 の 会 社 に は 若
結 婚 し て 子 ど も が 生 ま れ て か ら は、
地域活動に積極的に参加するように
て お く か ら 、盆 踊 り の 輪 に 踊 り に 行 っ
い 人 が 多 く、 メ ー ル や LINE で コ
な り ま し た。 き っ か け は、 盆 踊 り の
て え え よ ﹂ と 声 か け て い た だ い た り。
ミュニケーションが完結することも
し ば し ば 。 で も 、町 会 の 人 た ち は し っ
練 習 会 に 参 加 し た 際 に 、栗 澤 さ ん ︵ P
町 会 の 人 た ち は、 み な さ ん 意 思 決
定 の ス ピ ー ド が 速 い。 す ご く オ ー プ
く 活 動 を さ れ て い ま す。 想 像 力 も 豊
か り 目 を 見 て 話 し て く だ さ る し 、﹁ 今
と 忠 告 し て く だ さ る。 上 下 関 係 を 学
そ れ か ら、 同 じ マ ン シ ョ ン の 方 や P
本当に嬉しいです。
のはアカンで﹂とダメな時はきちん
と い う 妥 協 が な い。 そ の 反 面、 集 ま
T A の 方、 地 域 の お 祭 り の 役 員 さ ん
年︵1 9 1 9︶ に
丁目に移ってきました。
年 ほ ど 前 ま で は、 町 会 の 人 た ち
と路地のお地蔵様にお参りしてから
中崎
の 関 係 で、 大 正
の 近 く に あ り、 大 阪 市 電 の 線 路 敷 設
浄方寺はもともと今の梅新東交差点
門川徹真さん ︵ 浄 方 寺 住 職 / 昭 和
今 で は ご 法 座 の 合 間、 第 土 曜 日 に、 坊 守 が﹁ 楽 し く 歌
い ま し ょ う ﹂ を モ ッ ト ー に、 ∼ 代 を 中 心 に 人 く ら い
どの教室が開かれていた時期もありました。
町 会 の 会 合 や、 写 経、 俳 句 会、 詩 吟 や お 琴、 華 道、 茶 道 な
く さ ん の 人 で 大 変 に ぎ わ っ て い ま し た。 本 堂 を お 貸 し て、
方 が 櫓 を 組 ん で、 狭 い ス ペ ー ス な が ら も 子 ど も を 中 心 に た
盆 踊 り も や っ て い た ん で す。 地 域 の
年生まれ︶
昔からお寺は地域の人が集う場所。
だと思います。
人 が 融 合 し て い る の が、 済 美 の 魅 力
情 も 残 っ て い る。 い ろ い ろ な も の や
い こ と で す よ ね、 そ れ で い て 昔 の 風
最 近 は 子 ど も を 持 つ 人 や、 外 国 人
の 方 や 若 い 人 た ち も 増 え て い ま す。
ぶ場にもなっているんです。
数年前までは子どもの数が減る傾
向 に あ っ た が、 最 近 は が 増 え て い る
り な ど に は 、﹁ 来 ら れ る 時 に 来 れ ば い
いよ﹂と優しくしてくださいます。
よ う に 感 じ ま す。 せ っ か く 増 え て き
て い る の だ か ら、 私 た ち の 世 代 で 仲
間 を 増 や し て い き た い。 そ の た め に
も 積 極 的 に 声 を か け て、 同 世 代 の 人
月 の 防 災 訓 練 に も、 子 ど も と 一 緒 に 参 加 し
住 む 前 は、 梅 田 か ら 近 い 都 心 だ し、 人 間 関 係 も ド ラ イ
な の か な と 思 っ て い た の で す が、 人 付 き 合 い が わ り と 下
うに工夫されているのが良かったです。
ま し た。 参 加 者 同 士 が 協 力 し な が ら、 楽 し ん で 学 べ る よ
て い ま す。
にはなるべく参加するように心がけ
と 根 を 張 り た い。 そ の た め 地 域 活 動
あ り ま せ ん。 だ か ら こ そ、 し っ か り
ま し た。 私 も 夫 も こ ち ら が 地 元 で は
さ く ら ん ぼ の 会 を き っ か け に、 い
ろいろな行事に参加するようになり
二 宮 敦 子 さ ん ︵主婦/済美に住んで4 年目︶
人付き合いが下町っぽくて面白い。
とのつながり深めていきたいですね。
おばあちゃんの家に来たみたい。
横 峰 奈 緒 さ ん ︵主婦/済美に住んで4 年目︶
このあたりのことは町名も知ら
ず、 イ ン タ ー ネ ッ ト で た ま た ま 見
つ け た ん で す。 足 を 運 ん で み る と、
街 並 み も 素 敵 で 下 町 情 緒 も あ る。
古いものを上手く活かしていてい
いなと感じました。
引っ越してから子どもができ、さくらんぼの会︵P ︶
に 顔 を 出 す よ う に な っ て か ら、 近 所 付 き 合 い も だ ん だ ん
と 増 え て い き ま し た。 当 初 は こ ん な つ な が り が あ る と は
予 想 し て い な か っ た の で す が、 子 ど も を 育 て や す い 街 だ
町 っ ぽ く て、 面 白 い で す ね。 生 活 す る に は と て も 便 利 で
す し、 そ ん な 二 面 性 の あ る 魅 力 を 保 っ て い け た ら い い で
すね。
済美の個性は派手なところ。
栄西清一さん ︵済美社会福祉協議会会計監査︶
私 は 昭 和 年︵ 1 9 3 7 ︶生 ま れ 。
今の北野病院の近くに産院があっ
て、 そ こ で 産 ま れ ま し た。 家 は 大 正
年 ︵ 1 9 2 4 ︶、 祖 父 の 代 か ら こ
こにあります。
済 美 の 特 徴 は 何 か な あ。 一 つ 挙 げ
る と す れ ば、 地 域 活 動 を す る 人 た ち に や り 手 が 多 い と い
う か、 な ん で も 派 手 な と こ ろ か な。 だ っ て 済 美 カ ー ニ バ
ル な ん て、 徳 島 か ら バ ス を チ ャ ー タ ー し て 阿 波 踊 り の 連
を 引 っ 張 っ て く る ん や か ら。 よ そ の 地 域 の 方 か ら 羨 ま し
が ら れ る け れ ど、 町 会 の 人 た ち が 企 業 に ご 挨 拶 に 回 っ た
り、 マ メ に 熱 心 に や っ て い る か ら こ そ 毎 年 ち ゃ ん と で き
る ん で す。 い い 加 減 で は で き な い。 こ れ は 済 美 の 伝 統 で
すね。
14
分 間。 済 美 福 祉
年 ほ ど 前 か ら、 毎 年 8 月 の ラ
ジ オ 体 操 の 運 営 に 関 わ っ て い ま す。
センターの広場に多い時で150
毎朝6時半から
人 ほ ど の 人 が 集 ま り ま す。 昔 は 子
ど も が 多 か っ た の で す が、 済 美 小
学 校 が な く な っ て か ら は 大 人 が 多 く な り、 今 は 3
分 ほ ど 体 操 を す る だ け の 会 な ん で す が、 ふ だ ん は 会
えない子どもたちや年配の方とお話しできるのが嬉しい。
てくれる人もいるんですよ。
ら い で し ょ う か。 で も、 ベ ビ ー カ ー で 子 ど も と 一 緒 に 来
7く
金山治男さん ︵北区体育厚生協会済美支部 支部長︶
ラジオ体操を通じて地域がつながる。
も変わりつつあります。
響 い て い ま す よ。 地 域 の あ り 方 に 合 わ せ て、 お 寺 の あ り 方
で コ ー ラ ス を 楽 し ん で い ま す。 み な さ ん の 笑 い 声 が 本 堂 に
20
と思っています。
こ の 街 に 住 ん だ 感 想 を 聞 か れ る と 、い つ も ﹁ お ば あ ち ゃ
ん の 家 に 来 た み た い ﹂と 答 え ま す 。 都 会 な の に 長 屋 が 残 っ
ていたり、今と昔が共存している街なんですね。
都会の真ん中で、
イベントがたくさん。
門 川 崇 子 さ ん ︵主婦/済美に住んで0 年目︶
5 年 半 ほ ど 前 に 結 婚 し、 岡 山 か
ら 大 阪 へ や っ て 来 ま し た。 今 は 済
美 に 住 ん で は い な い の で す が、 地
域の方や済美在住のママ友からの
お 誘 い も あ り 、﹁ さ く ら ん ぼ の 会 ﹂
に 参 加 し て い ま す。 実 は 夫 が 浄 方
寺 の 跡 継 ぎ な の で、 将 来 は こ ち ら に 引 っ 越 す 予 定 な ん で
す。 だ か ら、 地 域 の 人 と も 仲 良 く な っ て お き た い と 思 っ
ているんです。
都会の真ん中でこんなにたくさんのイベントをやってい
る 地 域 が あ る な ん て、 思 い も よ ら な か っ た。 で も、 そ こ
がすごくいいと思います。
70
Ryoko Takahashi
いろいろな文化を受け入れるのは良
11
な ど、 子 ど も を 中 心 に 一 気 に 地 域 の
︶ に 声 を か け て い た だ い た こ と。
か で 、 気 が 若 く て 元 気 。 そ し て 、﹁ ボ
ン マ イ ン ド と い う か 開 放 的 で、 楽 し
した。
え 入 れ て い た だ い た ん で す 。嬉 し か っ
10
ランティアだからこれでいいだろう﹂
4
3
60
6
済 美 に 来 る と 感 じ る の は 、﹁ 子 ど も が 多 い な ぁ ﹂﹁ イ ベ
ン ト が 多 い な ぁ﹂ と い う こ と。 田 舎 育 ち の 私 と し て は、
インタビュー
Seibi
2
Kodo Matsunaga
そ の 中 で﹁ あ の 人、 今 年 は 来 て な い な ぁ﹂ と、 地 域 の 様
子 を う か が い 知 る こ と が で き る。 そ れ だ け で も 地 域 の つ
ながりは深まると思います。
8
9
8
10
11
12
30
30
10
13
Tesshin Kadokawa
Haruo Kaneyama
Atsuko Ninomiya
Kiyokazu Einishi
Nao Yokomine
Takako Kadokawa
櫓もゲームも、何でも手作りで。
れなら半日あれば組立てることが
す。 参 加 し て く れ る 皆 が 喜 ん で く
櫓 も ゲ ー ム も、 自 分 で い ろ い ろ
考 え て、 楽 し み な が ら 作 っ て い ま
武田敏夫さん
で き る ん で す。 よ そ の 地 域 か ら も、
︵済美地域活動協議会会長
済美カーニバル実行委員長︶
自 動 車 整 備 士 の 仕 事 を し て い て、
もともと自分でいろいろなものを
﹁ あ れ、 作 っ て よ ﹂ と 頼 ま れ る 優 れ
すよ。
作 っ た り、 そ れ で 誰 か が 喜 ん で く
れ る 笑 顔 が 見 た く て 、老 骨 に 鞭 打 っ
板 壁 を 開 け ば 舞 台 に 早 変 わ り。 こ
れ る の が 好 き な ん で す。 済 美 カ ー
ものなんです。
︶ で は、 子 ど も た ち
い ま す。 最 近 は、 カ ー ニ バ ル を よ
ニ バ ル︵ P
カーニバルで用意している子ど
も の ゲ ー ム コ ー ナ ー も、 時 代 ご と
り良いものにしたいと思う人と意
て、 仕 事 が 終 わ っ て か ら 作 業 し て
い う 願 い を 込 め て、 い ろ い ろ な 備
に合ったものを作るようにしてい
が楽しめるものであってほしいと
品 や ゲ ー ム を 作 っ て き ま し た。 自
済 美 カ ー ニ バ ル も、 以 前 は 高 齢
者 の 方 が 多 か っ た の で す が、 今 は
気 投 合 し、 そ の 方 々 と 協 力 し な が
ずいぶんと子どもが増えてきまし
ま す。 初 め は 射 的 や パ チ ン コ や く
う ど そ の 頃、 テ レ ビ 番 組 で﹁ イ ラ
た。 嬉 し い で す ね。 や っ ぱ り 地 域
分 で 言 う の も 気 恥 ず か し い け れ ど、
イラ棒﹂というゲームが流行って
の こ と や 行 事 に つ い て は、 若 い 人
ら準備作業をしています。
ま ず は 櫓。 以 前 は、 お 酒 の ケ ー
ス に パ レ ッ ト を 乗 せ た も の で、 設
い た の で 、特 大 サ イ ズ の も の を 作 っ
じ ぐ ら い し か な く て、 あ り き た り
営するのに丸3日もかかっていま
て み る と、 み ん な と て も 喜 ん で く
で 寂 し い 感 じ が し て い ま し た 。ち ょ
し た。 そ こ で、 思 案 し て ト ラ ッ ク
けっこう評判が良いんですよ。
を舞台にした櫓をまず作ってみた
た ち に も っ と 知 っ て も ら い た い。
切望しています。
フとして力を貸してくれることを
地 域 の 催 し に 参 加 し て 頂 き 、ス タ ッ
れました。
エアガンを使った射的もあるんで
も 作 り ま し た。 ス ー パ ー ボ ー ル と
最 近 で は 、チ ョ ロ Q を 使 っ た ゲ ー
ム や パ タ ー ゴ ル フ、 魚 釣 り ゲ ー ム
ん で す。 そ の 後、 さ ら に 改 良 し て
今使っている櫓を作りました。
実はあの櫓は普段は済美福祉セ
ンターの倉庫として利用されてい
る ん で す。 カ ー ニ バ ル で 使 う 時 は、
子どもを育てる人の力になりたい。
栗澤イツ子さん
ト 役 に 回 っ て、 会 の 運 営 を 手 助 け
︵済美連合振興町会 女性部長
北区地域女性団体協議会 会長︶
口コミでどんどん新しい人が来る
し て く れ て い ま す。 こ れ っ て、 す
は な い か と 考 え、 小 さ な 子 を 持 つ
い て、 な ん と か 子 ど も を 救 う 方 法
もの虐待についてよく報じられて
もう落ち着きました﹂と訪ねてく
ま っ た け れ ど、 数 年 経 っ て﹁ 今 は
た り し て。 そ の 後、 引 っ 越 し て し
にも気にかけてあげるように伝え
私 が 可 愛 が っ て あ げ て、 周 り の 人
た ら 必 ず 訪 ね て 来 る 人 が い ま し た。
を 振 る わ れ る か ら と、 夕 方 に な っ
て も い い し、 電 話 で も い い か ら 話
で す 。そ ん な 人 に は 家 に 来 て も ら っ
ての悩みを抱えている人は多いん
る ん で す。 だ か ら、 や っ ぱ り 子 育
帰らずに待っている人がいたりす
を 聞 く よ ﹂ と 言 う と、 終 わ っ て も
く い の か も し れ ま せ ん 。 で も 、﹁ 話
模 が 大 き く な っ た ぶ ん、 相 談 し に
た だ、 悩 み を 打 ち 明 け て く れ る
人 の 数 は 少 な く な り ま し た ね。 規
ごいことだと思うんです。
ようになりました。
お母さんの悩みを聞くために始め
れ た 時 は 思 わ ず 涙 が 出 ま し た。 体
し て ほ し い。 さ く ら ん ぼ の 会 は こ
月
子 育 て 支 援 サ ー ク ル﹁ さ く ら ん
ぼ の 会 ﹂︵ P ︶ を 立 ち 上 げ た の は
最初は浄方寺の裏手にある会館
で、 3 ∼ 4 組 の 親 子 を 集 め て、 子
の弱い子どもを抱えていたお母さ
2001年
どもと一緒に遊ぶのを手伝ってあ
ん や、 自 殺 を 考 え る ほ ど 悩 ん で い
日 の こ と。 当 時、
昔 の こ と を 思 い 出 す と、 今 で も
涙 が 出 そ う に な り ま す。 夫 に 暴 力
げ る よ う な こ と か ら 始 め ま し た。
れからもそういう場でありたいと
テ レ ビ の ニ ュ ー ス や 新 聞 で、 子 ど
小 さ な 集 ま り で し た が、 き っ と こ
る人もいましたね。
や 児 童 委 員、 人 権 擁 護 委 員 も 務 め
事には100人近く参加してくれ
幸い今はそれほど深刻な状況の
人 は い な く な り ま し た。 毎 月 の 行
もが生まれなければ地域はなく
今後も子どものためになること
を 続 け て い き た い。 だ っ て、 子 ど
たんです。
れからどんどん増えるだろうと
て い ま し た か ら、 悩 ん で い る 若 い
ま す。 以 前 赤 ち ゃ ん を 連 れ て き て
なってしまうんですから。
思っています。
お母さんが多いことを知っていた
い た お 母 さ ん が、 卒 業 後 は サ ポ ー
思 っ て い ま し た よ。 私 は 民 生 委 員
ん で す。 し ば ら く す る と、 案 の 定、
るみなさん。地 域活動の
武田さんが自作した櫓に
後 継者に不自由しないの
もなる倉庫は、済美福祉
が済美の強み。
センターで使われている。
Seibi Talk❶︻地域活動への思い︼
インタビュー
Seibi
5
10
11
4
6
2
Toshio Takeda
Itsuko Kurisawa
さくらんぼの 会を 運 営す
インタビュー
Seibi
Koichi Kubota
防犯を通し、地域とのつながりを。
窪 田 耕 一 さ ん ︵曽根崎防犯協会済美地区 防犯委員︶
す る よ う に な っ た の は、 5 年 前
済美に住んでもう 年以上に
な り ま す が、 地 域 の 活 動 に 参 加
末の警戒活動にも参加しています。
イ ベ ン ト で の 誘 導 係 を し た り、 歳
一 緒 に 交 通 関 係 の ビ ラ を 配 っ た り、
す よ ね。 で も、 済 美 の 人 た ち は さ
で親切な対応をする人は珍しいで
た こ と も あ り ま す。 ふ つ う こ こ ま
なにせ緊張することの多い仕事
いる時はあまり関心がなかった。
家 が わ か ら な く な り ま し た ﹂。 す る
手 を 挙 げ て﹁ す み ま せ ん。 自 分 の
る と、 最 近 引 っ 越 し て き た 女 性 が
ウンスをしながら車で巡回してい
く つ か あ り ま し た。 あ る 日、 ア ナ
な い、 新 聞 紙 や 重 い ゴ ミ が 出 せ な
で も、 例 え ば 家 の 電 球 が 変 え ら れ
と 言 っ て し ま え ば そ の 通 り で す。
ま す 。﹁ 今 の 時 代 な ら 仕 方 が な い ﹂
す。
も当たり前のようにそうするんで
に警察官を定年退職してからで
防犯パトロールに参加している
と、 び っ く り す る よ う な 機 会 が い
で す か ら、 余 裕 が な か っ た ん で
と、 運 転 し て い た 人 が 住 所 を 聞 い
い と い っ た 時 に、 つ な が り が な く
す。 正 直 な と こ ろ、 仕 事 を し て
と こ ろ が、 退 職 後 は 妻 以 外 の 人
との関係がなくなってしまうので
て 、﹁ ど う ぞ 乗 っ て く だ さ い ﹂と 言 っ
て は そ れ が で き な い ま ま に な る。
ク を 修 理 し て 、﹁ お 礼 な ん て も ら え
ま た 別 の 日 に は、 遠 方 か ら 遊 び
に来た人たちの車のタイヤのパン
伝えできないだろうかと自問自答
な い 問 題 だ と 思 い ま す し、 何 か 手
家 族 に も 負 担 に な る。 済 美 に 限 ら
マ ン シ ョ ン に 住 む 人 は、 地 域 に
根差した生活を望まない面があり
は な い か と 不 安 に な っ て き て。 こ
てマンションまで送ってあげたの
ま た、 認 知 症 の 方 が 地 域 か ら 孤 立
な い で す。 要 り ま せ ん よ ﹂ と、 無
すね。
れからは地域でしっかり人間関係
です。
現 在 は 町 会 の 方 と 一 緒 に、 一 人
住まいの方や夫婦だけで住む高齢
しながら活動しています。
し て い る と、 地 域 外 に 住 ん で い る
を つ く っ て い く の だ と 思 い 立 ち、
者をバックアップしていく方法な
償で手助けされているのを見かけ
万歳町の防犯委員になったんです。
ど を 日 々 模 索 し て い ま す。 警 察 と
済美の誰もが集う場所
済美福祉センター老人憩の家
済美福祉センター地域集会所
中崎町ホール
︶。﹁ 老 人 憩 い の
2 0 1 1 年 2 月 4 日、 旧 済 美 小 学
校の跡地にできた済美福祉センター
︵設立の経緯は↓P
家﹂
﹁地域集会所﹂
﹁中崎町ホール﹂
﹁済
美 中 崎 町 コ ミ ュ ニ テ ィ ー 広 場 ﹂に よ っ
て 構 成 さ れ、 済 美 に 住 む 人 た ち が 自
ら 管 理 す る ユ ニ ー ク な 公 共 施 設 で す。
町 会 の 活 動 は も ち ろ ん、 済 美 の さ ま
ざまなイベントはここを舞台にして
います。
ま た、 済 美 福 祉 セ ン タ ー 前 の 掲 示
板 に は 防 災 マ ッ プ が 設 置 さ れ て お り、
AEDの設置場所などがわかるよう
に な っ て い ま す。 マ ッ プ の 内 容 は 各
町 会 の 会 長 だ け が 更 新 で き、 地 域 の
防災の拠点でもあるのです。
ルカー。
できます。詳しくはホールに設置されているパンフレットなどをご覧ください。
済 美地 域を回るパトロー
ブルや椅子だけでなく、音響設備や照明、スクリーンなどを自由にアレンジすることが
12
13
35
30
中崎町ホールの利用について
中崎町ホールは、最大収容人数 180 名の多目的ホール。催しの内容に合わせて、テー
TEL 06-6375-2100 10:00 ∼ 16:00(月、火、木、金) ht tp://w w w.nakazakichohall.com/
コラム
職 や サ ー ビ ス 職、 販 売 職 の 単 身 の 若 い 層 が 多
く、そして幼児が少し増えていることからファ
レトロなショップやカフェ
︵同志社大学社会学部 教授︶
済美地域の人口の推移と町会のゆくえ。 鯵坂 学
済 美 地 域 に は 昭 和 初 期 ま で の 細 街 路 が 残 り、
梅田と天神橋筋との間にある庶民的な下町の住
2000年ごろから済美地域に残された町家
や長屋を改装したショップやカフェが見られは
ミリー層も増えていることがわかる。
これらの人口増加の原因は、済美地域に急速
に増えた中小のマンション建設によるものであ
じ め た。 当 初 は、 テ ナ ン ト 代 が 安 い と い う こ と
年 ︵1 9 6 0 ︶ 時 点 で
る。我々がおこなった北区のマンション住民の
で梅田などにお店が出せない若手の起業の第一
宅街として存続し昭和
し か し、 高 度 経 済 成 長 が 始 ま り、 人 口 の 郊
外 化 の 中 で、 こ の 地 域 の 住 民 の 跡 継 ぎ 層 の 多
調査では、新たに流入してきた新住民の前住地
は8 6 8 4 人 と い う 多 く の 人 が 住 ん で い た 。
く も 郊 外 や 首 都 圏 な ど に 移 っ て 行 き、 人 口 は
が 多 か っ た。 し か し、 昭 和 に タ イ ム・ ス リ ッ プ
歩 と し て 済 美 地 域 の 古 屋・ 長 屋 を 借 り て の 開 店
% ︶、同一学区内︵
% ︶、兵庫など関
% ︶、 大 阪 府 内 の 他 市
町村︵
し た よ う な レ ト ロ な 雰 囲 気 が 注 目 さ れ て、 出 店
者 が 増 え、 今 で は 1 0 0 軒 近 い お 店 が こ の 地 域
% ︶、そして北区︵
の 他 の 都 道 県 ︵9 % ︶ の 順 で あ り 、 大 阪 都 市 圏
に点在するようになった。
西の他府県︵約
の郊外からの人が多く、地元になじみのある人
は少ない。
経 営 者 の 多 く は 地 域 外 か ら の 人 で あ る。 こ れ
らのお店が週刊誌やマスコミで取り上げられる
こ と に よ り、 大 阪 市 内 や 府 内 か ら だ け で な く、
兵庫県や首都圏からのお客さんも土日を中心に
増 え て い る。 こ う し て、 済 美 地 域 は 中 高 年 者 を
中 心 と し た 昔 か ら 住 む 住 民 層、 近 年 マ ン シ ョ ン
に 越 し て き た 新 住 民 層︵ 単 身 者 と フ ァ ミ リ ー︶、
出 店 し て き た 若 い 経 営 者 層 ︵ 特 に 女 性 ︶、 さ ら に
これらのお店を訪れる他都市や他区からの若者
層 + 中 年 の 女 性 層 に 分 け ら れ、 さ ま ざ ま な 思 い
を持った﹁交流・結節﹂の場所となっている。
祉 セ ン タ ー と 広 場、 地 域 集 会 所・ 老 人 憩 の 家 が
ションが建てられている︶に建てられた済美福
済美地域には 年代に大阪市行政により再
編 さ れ た 町 丁 目 と し て 8 つ の 町 が あ る が、 町
あ り、 地 域 活 動 が な さ れ、 地 域 の 防 災・ 防 火・
町 会 が あ る。 い く つ か の 町 会 は 祭 り を 中 心 と
新・旧住民の関係を紡ぐ
会はそれ以前からの町のまとまりを維持して
都 市 の 中 で、 さ ま ざ ま な 個 性・ 特 徴 を 持 っ
た 住 人 層 を ま と め て き た の は、 日 本 の 地 域 社
し た 活 発 な 活 動 を 行 い、 地 元 氏 神 の 夏 祭 り と
安全の拠点となっている。
会 に 独 特 の 住 民 組 織 と い わ れ る 町 内 会・ 自 治
し て 神 輿 を 出 し、 マ ン シ ョ ン 住 民 も﹁ 子 ど も
い て、 町 丁 目 の 区 域 と は ず れ が あ り、 9 つ の
会 で あ る。 大 阪 で は 明 治 期 か ら の 町 会 が、 戦
の 新 住 民 同 士 の 間 や 旧 住 民 と 新 住 民 の 間 に は、
が町会にも参加している。
ま た、 町 会 の 人 が 葬 儀 を 手 伝 う﹁ 町 会 葬 ﹂
も 行 わ れ て い る。 一 方 で 旧 来 か ら の 活 動 を 主
お 互 い に 疎 遠 な 関 係 が 見 ら れ る。 新 住 民 の 多 く
年︵ 1 9 7 5 ︶ か ら は 大
目指す﹁ 地域振興町会﹂として再編されてきた。
に お こ な っ て い る 町 会 で は、 年 1 回 の 親 睦 会
は 、﹁ べ た べ た し た ﹂ 近 隣 関 係 よ り も 自 分 の 選 好
済 美 地 域 に は 古 く か ら の 住 民 の 間 に は﹁ あ た
た か い 人 情 あ ふ れ る ﹂ 関 係 が 存 在 す る が、 多 く
年 代 ま で の 人 口 の 減 少 と 高 齢 化、 2 0 0 0
︵ 宴 会・ 日 帰 り 旅 行 ︶ を か ね た 総 会 を 中 心 に 運
阪市行政の指導によりコミュニティづくりを
年 代 か ら の 人 口 の 増 加 の 中 で、 済 美 地 域 の 町
を 重 視 し た﹁ さ ら っ と し た 関 係 ﹂ を 好 む 人 々 が
が 壊 さ れ な い か ﹂ と 心 配 す る 人 も い る。 一 方、
か わ か ら な い 人 が 多 く、 こ れ ま で の 人 間 関 係
し て き た 新 住 民 と の 関 係 に つ い て 、﹁ ど ん な 人
旧 く か ら の 住 民 で あ り、 近 年 マ ン シ ョ ン に 越
関 わ り、 1 5 0 0 人 以 上 の 参 加 者 を 得 て い る。
5 0 0 人 を 超 え る ボ ラ ン テ ィ ア・ ス タ ッ フ が
の 共 催 で﹁ 済 美 カ ー ニ バ ル ﹂ を 開 催 し、 述 べ
活 動 を 行 い、 夏 に は 地 域 の 社 会 福 祉 協 議 会 と
これらの9 つの町会をまとめているのは連
合 振 興 町 会 で あ り、 地 域 全 体 を 視 野 に 入 れ た
ているようである。
睦こそが多様な住民の絆を紡ぐ関係資源となっ
新 し い イ ベ ン ト と し て の 祭 り で あ れ、 祭 り や 親
ろう。その点で、旧来の神社に由来する祭であれ、
ある地域コミュニティの形成はやはり必要であ
し か し、 災 害 や 安 心・ 安 全 へ の 対 応、 子 育 て
や 高 齢 者 な ど の 見 守 り な ど を 考 え る と、 節 度 の
多いと思われる。
新 住 民 の 中 に は、 町 会 な ど の 近 所 付 き 合 い が
これにはマンションに住む新住民も参加して
地 域 の 町 会 や そ の 連 合 会︵ 連 合 振 興 町 会 ︶
を 担 っ て き た の は、 以 前 か ら こ の 地 域 に 住 む
苦 手 な 人 も 多 く、 町 会 の 加 入 に は 積 極 的 と は
おり、地域住民の交流の場となっている。
同 様 に、 済 美 地 域 で は 町 会 へ の 加 入 世 帯 は 半
分以下となっているのが現状である。
地域には廃校となった済美小学校の跡地の
3 分 の 1︵ 残 り の 敷 地 は 売 却 さ れ 大 規 模 マ ン
い え な い。 そ の た め、 他 の 大 都 市 の 都 心 区 と
く停滞状況である。
営 し て い る の で、 新 住 民 の 参 加 は ほ と ん ど な
再 組 織 さ れ、 昭 和
に 祭 り の 経 験 を さ せ た い ﹂ と し て、 そ の 多 く
町会のゆくえ
13
16
25
会は二極化︵活性化と沈滞化︶の方向にある。
50
後の改革 の中で﹁大阪市赤十字奉仕団﹂として
% ︶、そ
は、 大 阪 市 内 の 他 区︵
人口の回復とマンション建設
代後半
歳以下が
20
14
70
き家が目立っていった。
年 で 人 口 は 約 1・5
代前半の世代がかなり多く
う に 2 0 1 0 年 現 在 の 年 齢 構 成 は、
から
10
倍 、 世 帯 数 は 1・8 倍 に 増 加 し て い る。 図 の よ
3 8 3 4 に な り、 こ の
2 0 1 0 年 で は 人 口 は 5 8 7 1 人、 世 帯 数 は
帰 ﹂ が 始 ま り、 済 美 地 域 で も 増 加 が 見 ら れ た。
た が、 こ れ を ボ ト ム と し て 人 口 の﹁ 都 心 回
バ ブ ル 経 済 が は じ け た 平 成 年︵ 1 9 9 5 ︶
の人口は4056 人、世帯数は2124 であっ
7
23
減 少 し て 子 供 の 数 も 減 り 中 高 年 者 が 残 り、 空
35
15
少 な い キ ノ コ 型 と な っ て い る。 お そ ら く 事 務
40
14
済美地域においてもフィールドワークなどを行った。
15
80
あじさか・まなぶ
同志社大学社会学部教授。文学博士。研究内容は現代都市・地域社会の実証的研究。町内会や自治会などの地域住民組織・集団に
焦点をあて、コミュニティ形成や都市生活環境、都市問題などについて、フィールドワークなどを取り入れて実証的研究を行う。
第
章
済美で働く人
2
済美で働く人。
昔も今も、
山一凸版印刷
[活版印刷]
鶴亀食堂の頃は人通りの多い商店
山崎節雄さん
バ タ ン、 バ タ ン と 印 刷 機 の 音 が
鳴 り 響 く 中 崎 西 1 丁 目。 そ の 音 は
街 の よ う な 場 所 だ っ た ん で す ﹂。 そ
リ ー ニ ン グ 屋 が 並 ん で い ま し た。
年︵ 1 9 6 4︶ か ら 続 く 印
﹁ここはもともと鶴亀食堂という
食堂をおばあさんが経営されてい
﹁働かないと一気に身体が弱りま
す か ら ね。 じ っ と し て い る の は よ
現在 歳だが現役で働いている
のは健康のためだという。
の 後、 疎 開 道 路 と 呼 ば れ た 本 庄 か
昭和
て、 戦 争 が 始 ま る ま で う ち の 母 親
く な い か ら、 朝 ご 飯 を 食 べ て、 掃
刷 所、 山 一 凸 版 印 刷 だ。 お 菓 子 を
が手伝いにきていた場所なんです﹂
除 し て、 1 日 の 段 取 り を し て、 朝
ら続く南北の広い通りができてか
と 語 る の は 山 崎 節 雄 さ ん 。﹁ 私 が 長
入れるフィルムや箱を活版で印刷
男 で 下 に 5 人 い ま し た か ら、 中 学
7時から夕方6時まで働いていま
らは、人の流れが変わったそうだ。
に入るまで兄弟を背負って母親の
す﹂
し、すべて手作業で行っている。
代 わ り に 世 話 を し て い ま し た。 終
戦 直 後 は 決 ま っ た 商 売 が で き ず、
あの頃は無我夢中でしたね﹂
弟 さ ん と 義 理 の 弟、 そ し て 娘 さ
ん と の 4 人 で 働 い て い る。 こ の 街
で暮らして嬉しかったことは3人
の娘さんがお嫁にいったこと。
﹁みんな大阪市内の近くに住んでい
印 刷 会 社 で 9 年 間 勤 め、 そ こ で
腕 を 磨 き、 鶴 亀 食 堂 の あ っ た 現 在
の場所で印刷の仕事をはじめた。
て、親孝行で幸せですよ﹂
[提灯]
﹁向かいの角は本屋と洋服屋とク
アート工房 三島屋提灯店
吉川二三子さん
月
日の年中行事
ご 主 人 が 亡 く な っ た 現 在 は、 娘
の雅子さんと貴子さんが手伝いに
シ 屋 さ ん に﹁ 何 時 に 行 く か ら つ く っ
が 離 せ な い 日 は、 二 軒 隣 の イ タ メ
夜 中 ま で 仕 事 し て い ま し た ね ﹂。 手
来 て い る 。﹁ う ち の 親 戚 も み ん な 手
ておいて﹂とお願いするようなご
﹁済美は戦前から続く古い茶色っ
ぽ い 街 だ っ た と こ ろ に、 若 い 人 が
近所関係らしい。
どんどん色を入れて明るい街に
灯を天井のカーテンレールに吊る
し て ゆ く。 外 か ら 見 え る 提 灯 は、
家族総出で慌ただしくなるのは
れ ど 新 し い 風 も あ る 。い い 環 境 じ ゃ
な っ た と 思 い ま す。 歴 史 も あ る け
乾かすために陳列されているもの
伝わされているんです﹂と雅子さ
い 時 は 子 ど も を 放 っ た ら か し て、
子 ど も に は﹁ ご 飯 が ほ し か っ た
ら 店 に 来 て ﹂ と 言 っ て い た 。﹁ 忙 し
で す ﹂︵ 雅 子 さ ん ︶。
て い ま し た。
﹃そろそろ手伝え﹄と言われてやっ
ま す。 私 が 高 校 生 ぐ ら い の 時 か ら、
んの周りに提灯を300台吊るし
明王さんが祀られているお不動さ
で 毎 年 行 わ れ る 年 末 の 仕 事 。﹁ 不 動
つけずに仕事をしている。
しい。
家族総出で
中崎1丁目に提灯が陳列されて
い る ビ ル が あ る。 三 島 屋 提 灯 店 の
工房がこのビルの2 階だ。
年古い
う、クーラーや扇 風 機を
はじめると止まらないら
ないかな﹂
る作業が好きで、集中し
月 か ら 年 末 ま で で、 特 に 太 融 寺
二三子さんは文字を入れ
作る
81
ん。 そ う 笑 い な が ら 筆 入 れ し た 提
昔は和傘も扱っていた。
た。 提 灯 は 竹 と 和 紙 で つ く る た め、
のあたりに提灯屋が7軒ほどあっ
の が 自 慢 な ん で す ﹂。 戦 後 の 頃 は こ
屋 で、 阪 急 百 貨 店 よ り も
﹁主人のお父さんが昭和
年
︵1928︶ 月 日に始めた提灯
3
印刷物が飛ばされないよ
29
5
40 年続くこの街のリズム。
手描き提灯。
39
だった。
6
16
17
1
10
築 90 年の建 物。夏場は
12
Setsuo Yamazaki
Fumiko Yoshikawa
朝から聞こえる印刷機の音が、
済美で働く人
テラウチ時計店
ト レ ー ニ ン グ を 受 け、 時 計 修 理 工
ジュネーブのバセロン本社で技術
[時計・宝石・貴金属]
﹁ 中 崎 西 1 丁 目 の こ の 場 所 は、 も
ともとは淀屋橋交差点にある石原
としての腕を磨いていった。
寺内義和さん
時 計 店 の 工 場 だ っ た ん で す。 終 戦
て い た の で 、近 所 の 方 に は﹃ 蔵 の 子 ﹄
な っ た ん で す。 土 蔵 の 中 で 暮 ら し
そこに住まわせてもらうことに
が 石 原 時 計 店 に 勤 め て い た 縁 で、
ま り 変 わ っ て い な か っ た で す ね ﹂。
当 時 の 済 美 は、 古 い 街 の ま ま で あ
請 け る よ う に な っ た 。﹁ 帰 っ て き た
オメガとロンジンの下請け修理を
昭 和 年︵ 1 9 6 8︶ に 退 社 し、
中崎西に戻ってテラウチ時計店で
ザ ン ヌ の チ ソ ッ ト︵ テ ィ ソ ︶ 本 社、
後、 土 蔵 だ け が 焼 け 残 っ て い て。
と 呼 ば れ た り し ま し た ね ︵ 笑 ︶。 こ
旧済美小学校の跡地に済美福祉
セ ン タ ー︵ P ︶ が で き る 際 に は、
当 時、 疎 開 先 で 火 災 に あ っ て、 父
の場所より南側は焼けあとでした
開 業 し た。 し ば ら く 働 い た の ち、
高 校 卒 業 後、 寺 内 さ ん は 父 親 と
共にテラウチ時計店を同じ場所で
の 中 で も 多 い 方 で す。 街 の 人 み ん
ナ イ ト、 焼 き 芋 交 流 会 な ど、 北 区
美 カ ー ニ バ ル、 中 崎 町 キ ャ ン ド ル
献 身 的 で、 行 事 に 関 し て 言 え ば 済
よ﹂
修 業 の た め に 石 原 時 計 店 に 就 職。
なが協力的なのが済美の魅力じゃ
町 会 長 を 務 め た 。﹁ 済 美 は 世 話 役 が
当時会社はオメガ時計を専門に扱
な い か な ﹂。
別の部屋では年配の職人がガラス
極 度 の 集 中 力 が 求 め ら れ る。 ま た
[理化学機器]
中崎2丁目の住宅街の中に理化
学 機 器 を 製 造・ 販 売 す る 株 式 会 社
を 研 磨 す る 作 業 を 行 っ て お り、 こ
貴彦さんは生まれも育ちも中崎
町 。﹁ 昔 は メ リ ヤ ス 屋 さ ん と か 箱
悪 い と 加 熱 中 に 割 れ る こ と も あ り、
堀 川 製 作 所 が あ る 。﹁ う ち は も と も
の 需 要 が 増 え た た め、 職 人 を 2 人
屋 さ ん と か 鉄 工 所 が 多 く て、 常 に
招 聘 し て、 昭 和
が 移 り つ つ あ り、 私 た ち に と っ て
近では住宅関連の工業製品に需要
昭和 年代は実験施設や化学工
場 で 使 う 理 化 学 機 器 を 扱 っ た。 最
ま っ て い た し、 済 美 公 園 の 横 に も
いう駄菓子屋には子どもたちが集
く 行 き ま し た ね。 そ の 隣 の 池 内 と
少 な か っ た の で、 葉 村 温 泉 に は よ
るそうだ。
子どもがたくさん住んでいたんで
し ょ う ね。 砂 利 の 空 き 地 や 駐 車 場
まで一望できたそう。
で 遊 ん で い ま し た ﹂。
ため、会社 屋上から梅田
現 在 名 の 社 員 が お り、 工 場 の
2階ではガラス職人たちが熱い炎
マンションも少なかった
の前でガラスを曲げる作業を行っ
て い る。 仕 入 れ た ガ ラ ス の 状 態 が
き た な あ。 お 風 呂 の あ る 家 の 方 が
身 近 な と こ ろ で 言 え ば、 照 明 器 具
昔 は 駄 菓 子 屋 が あ っ た ん で す よ。
造をスタートしたそうだ。
20
用のガラス製品などをつくってい
何かをつくっている音が聴こえて
年代後半から製
会 社 だ っ た も の の、 工 場 や 大 学 で
とものをつくる会社ではなかった
不思議がられたそう。
ち ら も 集 中 力 だ け で な く、 長 年 の
め、「何しにきたんや」と
んです﹂と語るのは三代目社長の
な 時 計を つくっていたた
経験と勘が必要な仕事だ。
に日本 のメーカーが良 質
堀 川 貴 彦 さ ん。 理 化 学 機 器 の 販 売
堀川貴彦さん
株式会社堀川製作所
横 浜 や ス イ ス の オ メ ガ 本 社、 ロ ー
い、 そ の 修 理 部 で 働 い た。 さ ら に
43
シ ー ベ ル 時 計 に 出 向 し た こ と で、
13
スイス時 代は、当時すで
1980 年 代は 高 層ビル や
40
14
スイスで学んだ技術で、
済美育ちの三代目社長が牽引。
18
19
Yoshikazu Terauchi
Horikawa Takahiko
下町に新しい時を刻む。
戦前生まれの工場を
川金網
[金網加工]
川一郎さん
パンと木に釘を打つ職人の姿がガ
た 地 域 だ か ら、 古 く か ら の 商 売 を
﹁昔は済美も職人さんがたくさん
お ら れ ま し た。 空 襲 で 焼 け な か っ
店からの依頼が多い。
ラ ス 戸 越 し に 見 え る。 金 網 加 工 に
されている方が残っていたんで
中崎西4丁目の道路沿いにある
長 屋 1 階 の 作 業 場 か ら 、パ ン 、パ ン 、
川一郎さん
打ち込んでいるのは
川 さ ん は 三 代 目 に あ た り、 初
代 の 源 三 郎 さ ん は 神 戸 出 身。 大 阪
な で 会 っ て 飲 み に 行 く の だ と か。
同じように済美で商売をしてい
る 同 級 生 が 3 人 い て、 た ま に み ん
しょうね﹂
の 九 条 新 道 で 腕 を 磨 き、 明 治 後 期
﹁ 一 番 よ く 集 ま る お 店 は、 す ぐ 斜 め
だ。
には現在の中崎西の長屋を作業場
向かいの喫茶店のような居酒屋の
樋 ︵ あ ま ど い ︶ の 中 に 入 れ る 、葉 っ
る と こ ろ で す ﹂。 小 さ な も の で は 雨
が 使 う 篩︵ ふ る い ︶ を つ く っ て い
か っ た 道 で す よ ﹂ と、 街 の 細 部 ま
し ょ う。 昔 は お 年 寄 り し か 通 ら な
人がお店を経営していたりするで
と 言 う 。﹁ 今 は 路 地 の 奥 で も 若 い
済 美 の 街 は、 年 前 ま で は 若 い
人が訪れるような街ではなかった
食 べ に 行 き ま す よ ﹂。
よ う な 喫 茶 M ︵ 笑 ︶。 ラ ン チ も よ く
兼住まいにするようになった。
﹁その源三郎じいさんに無理から
引っ張り込まれてこの仕事を始め
ぱがつまらないようにするための
ま し た。 今 は ケ ー キ 屋 や ペ ン キ 屋
金網もつくっているそうだ。
[建具]
仕事の依頼主は昔から大きく変
わ る こ と は な く、 建 築 関 係 や 金 物
コモト建具店
胡本憲博さん
済美地区の南西に位置するJR
大阪環状線の高架下には店舗や会
で魅力が広がっていることを喜ん
でいる様子だ。
すから」。
ス 割 替、 サ ッ シ 工 事 な ど が 増 え て
ど、 最 近 は 障 子 の 張 り 替 え や ガ ラ
伝統的建具の製作が主だったけれ
三 代 目 の 胡 本 憲 博 さ ん 曰 く、 昔 は
の 建 具 店、 コ モ ト 建 具 店 が あ る。
を す る ん で す よ。 エ ス カ レ ー タ ー
にみんなで行って、 立体鬼ごっこ
背負ったまま角田町の阪急百貨店
ぶところがないからランドセルを
当時は現在の事務所が憲博さん
の 自 宅 で 、遊 び 場 も こ の あ た り 。
﹁遊
コモト建具店は本庄で昭和 年
︵ 1 9 3 0︶ に 創 業 し、 戦 時 中 に 万
歳 町 に 移 っ た が、 そ こ で 戦 災 に 会
い、現在の中崎1 丁目に移った。
ど も 心 に 広 く 感 じ ま し た ね ﹂。
そ の 頃、 組 合 員 が 軒 あ っ た 建
具 屋 も、 今 で は 大 阪 府 内 で 片 手 で
﹁古い建具は新しいものに取り替
え た 方 が 早 い 場 合 が あ る の で す が、
数えられるほど数が減った。
る夏障子の張り替えや修理で忙し
﹃この風情がいい﹄という方のため
だ っ た ら し い。 梅 田 界 隈 や 北 新 地
と い う の が、 当 時 の 一 般 的 な 習 慣
いものの価値を大事にしたいです
て つ く り 直 す こ と が あ り ま す。 古
をつくっていた。
から﹂
ざまな道 具を使って建 具
界 隈 の 料 亭 か ら の 依 頼 が 多 く、 遠
に、 修 理 が 無 理 で も 元 の 形 に 似 せ
月も障子が汚れてくる
昭和の木造家屋が多かった時代
は、 夏 は 葦 戸︵ よ し ど ︶ と 呼 ば れ
御 堂 筋 が 開 通 し た 時、 道 路 幅 が 子
を 使 っ て も い い ル ー ル で ︵ 笑 ︶。 新
あった。
くは三重県まで出張に行くことも
時。「昔は遅くまでやって
いるそうだ。
社 が 立 ち 並 び、 そ の 中 に 北 区 唯 一
いましたが、もう 61 歳で
70
5
頃 で、 来 年 の た め に 張 り 替 え よ う
か っ た。
12
20
21
20
仕事は朝 8 時から夕方5
昔は機 械を使 わず、さま
Ichiro Yoshikawa
Norihiro Komoto
明治時代から受け継がれる
金網を操る技術。
済美で働く人
昭和初期から続く、北区唯一の建具店。
も と も と こ の 店 は﹁ 喫 茶 正 ﹂ と い
う 喫 茶 店 で、 僕 は そ の 店 の 常 連 客 で
し た。 自 家 製 の 天 然 酵 母 を 使 っ た パ ン
天六に住んでいた頃からよく来ていま
済 美 界 隈 は﹁ ラ イ ツ ﹂ や﹁ ピ ー ス マ
ザー﹂といった好きな店があったので、
気取りすぎない雰囲気が好きで、
し た。 入 口 付 近 に 自 販 機 が あ り、 最
常連の喫茶店で﹁お店やらへん?﹂
初はとても入りにくい雰囲気だった
屋 を や る な ら、 こ の の ん び り し た 空 気
出店するならここと決めていました。
ん で す。 で も 勇 気 を 出 し て 入 っ た ん
が あ っ て い る と 考 え、 済 美 で 物 件 を 探
と、誘われたのが始まりです。
で す、 な に せ モ ー ニ ン グ が 3 0 0 円
していました。
不動産屋さんに紹介してもらった当
時 の こ の 物 件 は、 竹 を 扱 う 会 社 の 支 店
で し た か ら ︵ 笑 ︶。 お 客 さ ん は 近 所 の
の 井 下 さ ん ぐ ら い で し た が、 み な さ
の よ う な 場 所 で、 見 に 来 た と き は ま だ
定食屋を営むハルコばあちゃんや隣
ん が﹁ ど こ に 住 ん で い る の?﹂ と か
も、それが楽しくて。
常 連 の 中 で 唯 一 僕 が 若 者 で 、ち ょ う ど 料 理 学 校 に 通 っ
て い た こ と も あ り 、あ る 時 、先 代 か ら 高 齢 を 理 由 に ﹁ お
店 を 閉 め よ う と 思 う け ど、 何 か す る ん や っ た ら 好 き に
し て い い で ﹂ と 持 ち か け ら れ ま し た。 常 連 さ ん の 行 き
場 も 確 保 し た く て 、﹁ や ら せ て も ら い ま す ﹂ と 言 っ て お
店 を 譲 っ て も ら っ た ん で す。 内 装 も そ の ま ま、 名 前 も
引 き 継 い で﹁ ニ ュ ー MASA﹂ と い う 名 で 再 オ ー プ ン
僕がお店をはじめてからも常連客の話しかけてくる
空 気 は そ の ま ま で す。 例 え ば 近 く の 葉 村 温 泉 の 奥 さ ん
が 来 ら れ て い て 、若 い お 客 さ ん も 来 て い て 、カ ウ ン タ ー
越しに互いにしゃべっているとそのうち二人がしゃべ
り始めて。済美の垣根のない雰囲気が好きですね。
朝 の 時 間 帯 は 町 会 の 方 が 多 い で す よ。 歳 以 上 の 方
だ け 使 え る ポ イ ン ト カ ー ド を つ く り ま し た が、 み な さ
歳を超えているのかわからないぐらいお元気です。
隣近所の方々が若い人が来ることを喜んでくださって
いるのがうれしいです。
葉 を 食 べ て い る ベ ジ タ リ ア ン な イ メ ー ジ だ っ た の で、 さ
さのはパンと名づけました。でも、あとで知ったのですが、
パンダは肉食系らしくて︵笑︶。雑誌に何度か紹介しても
ら っ た 影 響 か ら か、 関 西 各 地 か ら 来 て く だ さ る 方 が い て
ありがたいです。
卵・ 乳 製 品 を 使 っ て い な い の も あ っ て、 ア レ ル ギ ー を
お 持 ち の 方 や 親 子 連 れ の お 客 様 も よ く お 見 か け し ま す。
顔なじみの方も増え、パンを介して﹁あの本おもしろかっ
た よ ﹂ と、 本 の 話 を す る の が 好 き で、 本 を テ ー マ に し た
新 商 品 の パ ン を つ く れ な い か と 思 っ て い ま す。 ク リ ス マ
スの季節は毎年シュトーレンを焼くのですが、﹁楽しみに
してるよ﹂と声がけしてくださる方がいるのが嬉しくて。
済美にはめっちゃお洒落な人もいれば、地元のおっちゃ
んが自宅だけで許されるような︵笑︶格好で自転車に乗っ
て い る 姿 が 入 り 交 じ っ て い る。 そ ん な 気 取 り す ぎ な い 雰
囲気が気に入っています。夜が静かなのもいいですね。
この街の職人さんたちのおかげで、
美 界 隈 に 迷 い 込 ん だ ん で す。 カ フ ェ
て い ま し た。 そ ん な 時 に、 た ま た ま 済
かが感じられる街を体感したいと思っ
け に、 日 本 人 が 何 を 得 て 何 を 失 っ た の
映画の役づくりのためにタイとビル
マの紛争地域に足を運んだのをきっか
長屋を改装したカフェを開店できました。
ら活動する。中崎西一振 興町会の役員も務めている。
昔ながらの家と、その向こうの
ホテルで働いた頃は天神橋筋7丁
目 に 住 ん で い た の で す が、 雑 貨 が 好
きなのでこのあたりの雑貨屋さんに
よ く 来 て い ま し た。 た ま た ま 中 崎 3
丁 目 を 歩 い て い た ら、 タ イ ミ ン グ よ
く﹁ 物 件 貸 し ま す ﹂ の 札 を 見 つ け。
年間空き家だったこの
も 改 装 も 経 験 は な か っ た の で す が、
2001年に
方が若者の話に耳を傾けてくださるのが嬉しいですね。
町会の役員をしています。夏祭り、盆踊り、歩こう会、
女 性 会 な ど た く さ ん 催 し が あ っ て、 ス ロ ー だ け ど 地 元 の
ど も は ジ ュ ー ス1 杯 無 料 に し て い ま す 。
彼 ら の お 孫 さ ん 世 代 も た く さ ん 来 て く れ る の で す が、 子
お 店 が 完 成 す る と、 手 伝 っ て く だ さ っ た 地 域 の 方 が、
自 分 が つ く っ た 店 と し て お 友 達 に 宣 伝 し て く だ さ っ て。
話を聞けば親切に教えてくれました。
は 電 気 屋 さ ん で す。 済 美 は 職 人 さ ん が 多 く て、 街 の 人 に
り の サ ッ シ 屋 さ ん で、 電 気 関 係 を 詳 し く 教 え て く れ た の
大 工 の 仕 事 や 内 装 の こ と は 地 元 の 方 に 教 わ り ま し た。
﹁ こ の サ ッ シ 危 な い ぞ!﹂ と 教 え て く れ た の は 通 り が か
1127 人もの方に手伝っていただいたんです。
い る う ち に、﹁ 手 伝 お う か ﹂ と い う 人 が 現 れ て。 な ん と
い き ま し た。 通 ら れ る 方 に﹁ こ ん に ち は ﹂ と 挨 拶 し て
釘 を 叩 い て の ば し た り、 廃 材 を リ サ イ ク ル し て 改 装 し て
う に し た ん で す。 ま っ た く お 金 が な か っ た の で、 抜 い た
ブ ル ー シ ー ト な ど で は 囲 わ ず、 わ ざ
と改装している様子が外から見えるよ
を始めました。
長 屋 で﹁ 空 き 家 再 生 パ フ ォ ー マ ン ス ﹂
10
何かお店をやるならこの町でしたい
な と 思 っ て い た の で、 物 件 を 見 た
数ヶ月後の2012年3月にお店を
開店しました。
雑 貨 好 き の 方 と お 話 し し た い か ら、
雑 貨 屋 の 多 い こ の 街 は ち ょ う ど い い で す ね。 動 物 の 雑
貨 を 扱 っ た お 店 は 他 に も 多 く 、﹁ 動 物 加 盟 店 ﹂と い う ネ ー
ミ ン グ で ゆ る く 連 携 し、 動 物 好 き な 人 が 回 遊 で き る よ
うに互いにお店のチラシを置いて紹介しあっています。
地 域 の 方 も よ く 来 て く だ さ り、 特 に 年 配 の 方 は 干 支
ものや縁起もののフクロウを飼ってくださる方が多い
で す。 表 に 英 語 が で き る こ と を 表 示 し て い る の で、 海
外 の 方 も よ く 来 店 さ れ ま す。 台 湾、 香 港、 韓 国 な ど ア
ジアの旅行者が多いですね。
こ の 街 の 魅 力 は 風 景 の ギ ャ ッ プ だ と 思 い ま す。 昔 な
が ら の 長 屋 が あ っ て、 そ の 向 こ う に M B S の 尖 っ た M
の 形 を し た 高 層 ビ ル な ど が 見 え て ⋮。 い ろ い ろ な 国 を
旅してきましたが、この風景は驚きますね。
店 は ほ ぼ 年 中 無 休 で、 朝 時 か ら 夜 時 ま で 営 業 し
ています。この界隈の飲食店は 時頃までの店が多く、
知らないお店に出向くようにしています。
お 店 を オ ー プ ン し た の は2 0 0 9 年
で す。 私 の 名 字 が 笹 倉 と い う こ と も あ り、 パ ン ダ は 笹 の
竹の皮が置いてありました。
には以前からよく訪れており、街の雰囲気がとても気に入っていたのだそう。
話 し か け て く る の が 衝 撃 で し た。 で
味が 忘 れられず、自分で作ったのがパンづくりにはまったきっかけ。中崎町
トリートパフォーマーをしていた。現在は主にダンサーとして世界を旅しなが
しました。
以前勤めていた職場近くのパン屋さんが好きで、閉店してしまったもののその
俳優の仕事がメインで、昔はオーディションにすぐ行けるように季節労働やス
ん
笹倉みほ子さん Mihoko Sasakura
Jun さん Jun
の常連客に。現在もデザイナーの仕事を続けている。
ホテルマン生活ののち、自分で何かをやりたいと考えて動物雑貨店をオープン。
ささのはパン[ベーカリー]
SALON de AManTO[カフェ]
いた 2000 年頃に中崎西に住んだ際、後に譲り受けることになる「喫茶 正」
テルのフロントで働くかたわら、海外へのバックパック旅を楽しむ。11 年間の
70
日後にはホテルを辞めると決意して、
2
70
ど う せ お 金 を 使 う な ら 地 元 で 使 い た い と 思 っ て、 毎 回
8
舞台演出や映像制作、イベントのチラシ制作などクリエイティブな仕事をして
大学卒業後カナダに渡り、ホテルマンとして勤務。帰国後は大阪を代表するホ
高層ビルとの対比が面白くて。
済美で働く人
21
片牧尚之さん Naoyuki Katamaki
甲斐雄一さん Yuichi Kai
22
23
11
ニュー MASA[喫茶店]
ONLY PLANET[動物雑貨店]
公設市場から続く地域密着の商い。
昭 和 年 ︵ 1 9 7 4 ︶、 東 側 に マ
ン シ ョ ン を 隣 接 し た 新 市 場 に 改 築。
ます。
を大事にしていきたいと思ってい
場としてはやはりこれからも地域
︵ ナ ベ ル 本 庄 内﹁ 鳥 秀 商 店 ﹂店 主 ︶
ス ー パ ー が で き た り し て、 だ ん だ
雄さん
私 の 店 が あ る ナ ベ ル 本 庄 は、 も
と も と 大 正 8 年︵ 1 9 1 8︶ に 本
んと客足が遠のき始めていた頃で
島田
庄 公 設 市 場 と し て、 大 阪 市 に よ っ
人 も 増 え つ つ あ る よ う な の で、 市
て建設されたものです。
す。 そ の 時 点 で は 約
店 舗 が 入 居。
ス ー パ ー で 買 う の は 便 利 で す が、
対面販売なら品物の善し悪しを直
が走っていて便利だったこともあ
し た。 大 阪 市 電 や 阪 神 の 路 面 電 車
市 場 の 時 代 か ら 残 っ て い る 店 舗 は、
と い う 名 前 に 変 わ り ま し た。 公 設
り、 2 0 0 2 年 に は ナ ベ ル・ 本 庄
そ れ で も 結 局 は 平 成 6 年
︵1994︶にスーパー部門をつく
何か聞かれたらいつでも言ってく
の で、 レ ジ 係 の 人 に﹁ お 客 さ ん に
ちもスーパーに品物を卸している
イ ス を す る こ と も で き ま す。 私 た
ださい﹂と伝えてあるんですよ。
接 お 伝 え で き た り、 料 理 の ア ド バ
り、 戦 後 の 復 興 期 に は 大 勢 の お 客
中央には小さな噴水がありました。
さ ん で に ぎ わ い ま し た。 従 業 員 で
軒ほどです。
私の店も含めて
ほ ど で し た か ら ね。 そ の 頃 は 国 鉄
当時の建物の屋根部分に付いてい
こ ろ ま で 市 場 の 建 物 が あ り ま し た。
あ り ま し た が 、最 近 は 少 し ず つ 戻 っ
郊外に住まいが移っていく傾向に
い け ま せ ん。 以 前 は 大 阪 市 内 か ら
ていただかなければとてもやって
か ら こ そ、 で き る こ と は た く さ ん
く な ど、 地 域 に 根 ざ し た 私 た ち だ
そ う な れ ば、 ご 自 宅 ま で 届 け に 行
け ら れ な い 人 も 増 え る と 思 い ま す。
これから高齢者の方がますます
多 く な る と、 自 由 に 買 い 物 へ 出 か
た 鳥 の 石 像 が、 今 の 駐 車 場 の 中 に
私たちのような対面販売の小さ
な 店 は、 地 域 密 着 で 地 元 の 方 に 来
あ る 稲 荷 神 社 に 残 っ て い ま す︵ 左
ど を 販 売 し て い ま す。 中 崎 町 の 立
くさん掲載されているそうなんで
港など海外のガイドブックにもた
り 上 げ ら れ て い る だ け で な く、 香
そうした動きが雑誌やテレビで取
て お 店 を 出 す ケ ー ス が 多 い で す ね。
会 に 出 る 際 も 、サ ン プ ル 商 品 に ﹁ 中
く 知 っ て も ら い た い。 ま た、 展 示
お 客 さ ん も 含 め、 済 美 の こ と を 広
ん な 街 で す ﹂ と、 商 品 を 注 文 す る
る ん で す 。﹁ 私 の 会 社 が あ る の は こ
こまめに情報発信するようにして
会 社 のH P に﹁ 大 阪 中 崎 町 物 語 ﹂
と い う ペ ー ジ を 作 り、 地 域 情 報 を
右/大正 8 年の創設時の
様子。左/戦後の公設市
場の様子。都島通から環
状 線まで 建 物 が あった。
︵ 古 着 店 ﹁ タ ッ ド ︵ T A D ︶﹂︶
こ う 付 き 合 い が あ り ま す。 近 々、
て い る の は す ご く い い こ と だ し、
盆 踊 り や 防 災 訓 練 な ど 、盛 大 に や っ
わ し い と い う 意 識 は あ り ま せ ん。
地域活動から世間の勉強をさせて
客さんを連れて河川敷でバーベ
キ ュ ー パ ー テ ィ ー を 計 画 中 。フ ァ ッ
もらっています。
か、 い ろ い ろ な こ と を 企 画 し て い
そ の 反 面、 住 ん で い る 人 た ち と
はあいさつ程度の付き合いになっ
の を 考 え な い と。 目 先 の 利 益 ば か
ら、 店 優 先 で は な く 住 民 優 先 で も
ます。
て し ま っ て い ま す。 地 域 の 行 事 は
り 追 っ て い る と、 中 崎 の 魅 力 が な
ですよね。
いこうという店もたくさんあるん
で も、 そ ん な 状 況 の 中 で 頑 張 っ て
替 わ り が 激 し く な る の は つ ら い。
を 続 け る の が 難 し い。 そ れ で 入 れ
が っ て し ま う と、 小 さ い 店 は 商 売
た だ、 テ レ ビ や メ デ ィ ア で よ く
取 り 上 げ ら れ る こ と で、 家 賃 が 上
から人がたくさん住む街なんやか
店 の 営 業 時 間 と 重 な っ て い る の で、
くなってしまいますから。
︶や 盆 踊 り と か 、
できるかぎり参加しています。
ン ド ル ナ イ ト︵ P
あ ま り 参 加 で き て い ま せ ん。 キ ャ
店 を 出 す に し て も、 自 分 の こ と
だ け し か 考 え な い の は ダ メ。 古 く
ションショーとか音楽イベントと
3 軒 が 集 ま っ て、 そ れ ぞ れ の お
中 崎 町 に 店 を 出 し た の は8 年 前。
やっぱり同じ場所で生活してい
周 り の シ ョ ッ プ の 人 た ち と は 、け っ
る わ け や し、 地 域 と 関 わ る の が 煩
千頭 政一さん
新しい店も、地域との共存を。
あると思っています。
下 写 真 ︶。
済美にものづくりが集まる理由。
︵済美福祉センター連合運営委員会 会長︶
済 美 の 魅 力 は、 都 会 の 真 ん 中 な
の に 迷 路 の よ う な 路 地 が あ っ て、
地だからこそビジネスがしやすい
前田雅範さん
古 い 家 も 残 る 街 並 み だ と 思 い ま す。
と思っています。
社では木を使った店舗用の什器な
最近は若い人たちがそんな雰囲気
す。 そ れ を 見 て や っ て 来 る 外 国 人
を 気 に 入 っ て、 古 い 建 物 を 改 装 し
観光客も増えました。
崎 町 ﹂ の 文 字 を 入 れ る な ど、 で き
るだけ地域をアピールするよう心
がけています。
5
済美地区は梅田だけでなく新大
阪 に も 近 い の で、 遠 方 か ら の お 客
さ ん も 来 や す い し、 ビ ジ ネ ス に 必
要 な 最 新 情 報 も 得 や す い。 私 の 会
地 域で 行われるイベントなどでも、什 器
Masakazu Chikami
て き て い ま す ね。 済 美 地 区 に 住 む
︵現JR 大阪環状線︶のガードのと
20
た も の の、 翌 年 す ぐ に 改 築 さ れ ま
60
49
も、 人 を か き 分 け な い と 通 れ な い
歴 史 を ふ り 返 る と、 大 正 年
︵1923︶に火災によって焼失し
12
24
25
Seibi Talk❷︻済美の街と商い︼
インタビュー
Seibi
をレンタルして協力している。
Yoshio Shimada
Masanori Maeda
その建物にあった鳥の石
像が、今も残っている。
ECC
お化け屋敷
済 美 地 域 に3 つ の 専 門 学 校 を
楽しめるイベントを﹂というリクエ
済美地域の課題やニーズをお聞き
す る 中 で、﹁ 夏 祭 り で 子 ど も た ち が
ス ト を い た だ き、2 0 0 8 年 夏 の 済
美 カ ー ニ バ ル︵ P 4 ︶ の 際、 廃 校 に
な っ た 済 美 小 学 校 の 体 育 館 で、E C
Cアーティスト専門学校特殊メイク
アップアーティストコースによる
﹁ お 化 け 屋 敷 ﹂ を 行 い ま し た。 当 日
はこどもから大人までたくさんの方
が 足 を 運 ん で く だ り、2 日 間 で の べ
800人を超える方に楽しんでいた
ターが設立されました。山口学園として済美地
校 法 人 山 口 学 園 を 母 体 に 、E C C 社 会 貢 献 セ ン
学 校 ・E C C ア ー テ ィ ス ト 専 門 学 校 を 加 え た 学
を 使 っ て、2 0 0 9 年 に 第1 回 中 崎
取り壊しが決まっていた済美小学校
るイベントを﹂という地域の声から、
そ の 後、﹁ 冬 に も 夏 祭 り の よ う に
地 域 全 体 が 盛 り 上 が り、 一 つ に な れ
だくことができました。
域とどのようにつながることができるか、大阪
町 キ ャ ン ド ル ナ イ ト︵P 5 ︶ を 地 域
2 0 0 4 年 春 、 同 校 にE C C コ ン ピ ュ ー タ 専 門
市北区社会福祉協議会に相談にうかがい、当時
か ら 1 時 間 程 度 行 っ て い て、 地 域 住 民、 北 部 環
境 局、 曽 根 崎 警 察、 山 口 学 園 の 学 生・ 教 職 員 た
ち が 参 加 し て い ま す。 掃 除 を し な が ら 地 域 の 見
回りも兼ねていて、防犯活動にもなっています。
そ し て 2 0 1 1 年 か ら は、 よ り 本 格 的 に 学 生
の専門力を社会の課題解決に結ぶ教育活動であ
る﹁サービ ス・ラーニング﹂に取り組んでいます。
メイクの力で女性を元気にするメイクサービス、
東日本大震 災被災地復興支援のカフェ﹁カフェ・
ラ ポ ー ル ﹂、 済 美 カ ー ニ バ ル や 中 崎 町 キ ャ ン ド ル
ナイトのポスター作成など、地域のご協力の下、
さまざまな活動が生まれました。
ポスター作成
メイクサービス
キャンドルナイト
この済美地域の良さではないでしょうか。
域 も よ り 良 く 変 え る 人 と な っ て い く、 そ れ が
感 じ、 ま た こ こ で の 経 験 を 活 か し、 自 分 の 地
た 人 た ち が、 済 美 地 域 を 第 二 の 故 郷 の よ う に
中 で 見 て、 学 ん で い ま す。 こ の 地 域 に 関 わ っ
出 し て い く 姿 を、 学 生 た ち は 活 動 に 参 加 す る
皆 で ア イ デ ア を 出 し 合 い、 新 し い 活 動 を 創 り
い ま す。 地 域 の 方 々 が そ れ ら の 課 題 に 対 し て、
済 美 地 域 も 他 の 地 域 と 同 じ く 少 子 高 齢 化 や、
地域のつながりの希薄化という課題を抱えて
始まっています。
園の理念をより具体的なカタチにする日々が
豊かな社会人の育成をはかる﹂という山口学
し、﹁ 平 和 と 幸 福 を 希 求 し て や ま な い、 こ こ ろ
﹁ E C C 社 会 貢 献・ 国 際 交 流 セ ン タ ー﹂ に 発 展
2 0 1 5 年 春 か ら は、 留 学 生 と 日 本 人 学 生
が 一 緒 に 社 会 貢 献 活 動 の 創 り 手 と な る よ う、
ます。
さ ま ざ ま な 組 織 と 連 携 し、 活 動 が 広 が っ て い
阪 市 北 区 役 所、 曽 根 崎 警 察 署 な ど、 北 区 内 の
れ ら の 活 動 は 現 在、 北 区 社 会 福 祉 協 議 会、 大
ら だ と 感 じ て い ま す。 済 美 地 域 で 生 ま れ た こ
チャレンジを温かく受け入れてくださったか
が 率 直 に 意 見 を 伝 え て く だ さ り、 学 生 た ち の
こ の よ う に 教 育 機 関 が 地 域 と 連 携 し、 教 育
活動を生み出すことができたのは地域の方々
ました。小学校の取り壊しを惜しみ、
の方々と実行委員会を組織して行い
十 数 年 前 の 卒 業 生 が か け つ け る な ど、 済 美 小 学
︶をご紹介いただきました。
の 済 美 社 会 福 祉 協 議 会 会 長 の 吉 川 郁 夫 さ ん ︵P
2 0 0 1 年 春 、E C C 国 際 外 語 専 門 学 校 に 生
ま れ た ボ ラ ン テ ィ ア グ ル ー プ を 活 動 起 源 と し、
介していただきましょう。
交流センターのみなさんに紹
み を、 E C C 社 会 貢 献・ 国 際
動 を 行 っ て き ま し た。 そ の 歩
ら、 積 極 的 に 地 域 の た め の 活
な団体と協力関係を築きなが
は、 町 会 を は じ め、 さ ま ざ ま
有している学校法人山口学園
学校法人山口学園 ECC 社会貢献・国際交流センター
学校法人山口学園と済美地域の﹁いい関係﹂
クリーン中崎町
校 に 感 謝 し、 ま た お 別 れ を す る と て も 意 義 深 い
イ ベ ン ト と な り ま し た。 中 崎 町 キ ャ ン ド ル ナ イ
ト は 2 0 1 6 年 に 第 6 回 を 迎 え、 大 阪 市 北 区 役
所、 関 西 テ レ ビ 放 送、 M B S な ど と 連 携 し、 北
区を代表するイベントとなりつつあります。
2009 年3 月には国際協力団体よりご相談
が あ り、﹁ ス ロ ー な ラ イ フ ス タ イ ル ﹂﹁ 古 い も
の を 大 事 に し、 循 環 す る ラ イ フ ス タ イ ル ﹂ を 大
切 に し て い る 済 美 地 域 と 共 に、﹁ 中 崎 町 ス ロ ー
ウォーク﹂と国際協力のイベントを多団体が協
働し、創ることができました。
16
2007年に始まった地域内の清掃活動であ
る﹁ ク リ ー ン 中 崎 町 ﹂ は、 毎 月 第 月 曜 日 時
3
26
27
35
第
済美の地図
敷かれている。生活用水、あるいは農業用水だったと思われる。
44
年︵ 1 8 9 5︶ 城 東 線︵ 現 大 阪 環
線 の 新 橋 駅∼神 戸 駅 間 の 全 線 が
開 業。 また、 明 治 28 年(1895)
明治 43 年(1910)、北区西野田茶 園
には 玉 造 駅∼ 梅 田 駅 間を 結 ぶ 城
町と天神橋筋六丁目間を結ぶ阪神電車
東 線 が 開 業。 こ れ により、 済 美
北大阪線が開通。車との併用軌道を走
地 域内に2本の鉄 道が走ることに
る路面電車は、済美地区の開発を後押
なった。
しした。昭和 50 年(1975)廃止。
本庄中野町に大きな敷地を持つ2つの
病院がある。その後、南側の病院跡地
には本庄公設市場(1919 年創立)が、
北側の病院跡地には済生会病院
(1935
年頃)と大韓民国居留民団大阪府本部
(1947 年結成)が置かれる。
に 含 ま れ て い な い が、 徐 々 に 開 発 は 進 み
つつあった。
ら離れたエリアは田畑が広がっている。
44
明 治 22 年(1889) に 東 海 道 本
駅 ∼ 神 戸 駅 間 の 鉄 道 が 開 業。 そ の 後、 明
明治 年地図はその過渡期を示してお
り、 鉄 道 沿 い か つ 大 阪 駅 に 近 い 西 側 に 細
年︵1889︶に東海道本線全線が、
か い 区 割 り の 民 家 が 集 中 し、 鉄 道 沿 い か
治
状線︶が済美地域内を通るようになる
江 戸 時 代 の 古 地 図 を 見 る と、 そ の 多 く
で 済 美 地 域 付 近 が 白 地 に な っ て お り、 開
と、 田 圃 が 広 が っ て い た 場 所 に も 民 家 が
明治
が 主 で あ っ た 江 戸 時 代 に お い て、 大 き な
発 さ れ て い な か っ た こ と が わ か る。 水 運
川 に 接 し て い な い 済 美 地 区 は、 歴 史 の 表
年
︵1889︶時点でも、済美地域は大阪市
増 え て い く。 大 阪 市 制 施 行 時 の 明 治
し か し、 明 治 7 年︵ 1 8 7 4︶ に 大 阪
舞台に立つことはあまりなかった。
22
22
28
(1911)
3
昔と今の暮らしと風景。
の農作物を育てていたと推測される。また、別地図で地域内に水路が
章
阪市政一斑 . 第 5 回(明治 35 年)』より)。済美地 域でもこれと同様
地図でふり返る
小豆、甘藷、大根、葱、特用(食用以外)=菜種、葉藍などである(『大
昔の街のすがた
明治 年
明治 31 ∼ 34 年統 計によると、大 阪の主な農 作 物は、食 用=大 豆、
城 東 線南に合資会社日本金属製 造所、
辻日本金属品合資会社がある。済美地
域ではその後、金属工場が多く立地す
ることになる。
現 在も町名として残る万 歳 町の
善 徳寺は天保 8 年(1873)の「浪華書林播磨
屋九 兵衛版の摂 州大阪全図」に記載。同じ場
所に現存しており、370 年余りの歴史がある。
名前の由 来となったと言われ る
「万歳橋」はこのあたりにあった
そう。現在は、綱敷 天神社に親
柱が残されている。
29
28
済美の地図
本新聞、日北工営所梅田
出張所、土木局中央工営
には商店街があった。現在
所、大阪清涼社がある。
はマンションが建つ。
−
40
年
41
北 野館の周りにあった商店 街の 様 子。100 mほ
地図でふり返る
業。地図上では地下鉄と路面電車が都島通を並走している。
に、大正∼戦前まで映画館
「北野館」があり、その周り
昔の街のすがた
昭和 42 年(1967)、地下鉄谷町線東梅田∼谷町四丁目駅間が開
昭和
新日本新聞社、ラジオ日
地図提供/日本特殊地図協会
天 野 モ ー タ プール の 場 所
どにわたり、のぼりが立っていたそう。
済美地域における戦時中の空襲
被害は、全域が焼け野原になった
丁目を
1
万歳町を除けば、他のエリアの被
害は少なかった。中崎西
はじめ、現在も古くからの街並み
44
が 多 く 残 る の は、 こ の た め で あ
る。
昭和 年︵1965 ︶頃の済美
地域では、明治 年地籍図で田畑
40
森永キャンデーストア
は 昭 和 29(1954)
大正 8 年(1919)、梅田善源寺町線阪急電車前停
年、森 永の売店部門
留場∼高垣町停留場間が開業。翌年、天神橋筋六
を分離して発足。ケー
丁目(東)停留場∼淀川停留場間開業。当初は大
キ工場も兼ねていた。
阪 駅前を起点としていたが、御堂筋の交 通量増に
より昭和 39 年(1964)、大阪 駅前∼阪 急 東口間
が廃止となる。廃止の昭和 44 年まで阪 急 東口が
起点となっていた。大阪市電で 最後まで残った路
被害が大きかった万歳町にも民家
ス店、印刷会社などが多く、空襲
場、製麺工場、メリヤス店、ガラ
くなった。地域全体として金属工
民有地となり、地域内の田畑はな
があった土地が小さく区割りされ
動車交通の発達により昭和
市 電 が、 御 堂 筋 を 中 心 と し た 自
期 ま で、 市 内 交 通 を 担 っ て き た
を 見 せ て い る。 明 治 か ら 昭 和 初
宅地や学校、市場など、にぎわい
域中央の中崎町停留所を中心に住
44
年
3本の市電路線が地域を通ってい
︵ 1 9 6 9︶ に 廃 止。 こ の 地 図 は
た最後の時代を示している。
や事業所が立ち並んでいる。
また、本庄中通、南濱などの大
阪市電の停留所が置かれ、特に地
線の一つ。これらのほか、大 正 2 年(1913)、地
域の東側樋之上町∼天神橋筋六丁目間を結ぶ市電
天神橋西筋線が開通している(1966 年廃止)。
昭和 36 年(1961)、城東 線が大阪環状 線
となる。 線 路沿いに細かく区割りされてい
るため、高架だったと推測される。
本庄公設市場は大正 8 年(1919)に創設。右の写真は昭和 5 年(1930)の大 売り
出しの時の様子と、昭和 49 年(1974)にマンションを併設して新市場となった時の
もの。2002 年にはスーパーマーケットと生鮮市場が合体した地域密着のショッピング
センター、ナベル本庄となった。
済 美 小 学 校 の 前 身 は、 大 正
5(1916) 年創立の大 阪 市 第
三北野尋常小学校。大正 9 年
(1920)、 校 名が 済 美 第 五 尋
常 小 学 校 と な る。2004 年、
31
扇町小 学 校への統 合により閉
校した。
昭 和 28 年(1953)、
郵政省の職域病院とし
て大 阪 北 逓 信 病 院 開
設。同位置に現存。
30
並 ん だ 一 角 に あ り ま し た。 2 棟 の
戦 前 の 済 美 地 域 は 長 屋 が 多 く 、私
の家は二階建ての4軒長屋が2棟
て い ま し た。 今 も っ て 忘 れ も し ま
襲警報発令と同時にそこに避難し
壕 が 造 ら れ て お り ま し た の で、 空
が 広 場 に な っ て い て 、用 水 池 や 防 空
甫 会 館 の あ る 一 帯︵ 中 崎 西 1 丁 目 ︶
家を挟んで両隣の3 軒だけがぽつん
と き 目 に 飛 び こ ん で き た の は、 我 が
に か 家 に 帰 り 着 い た の で し た。 こ の
り、 精 も 根 も 尽 き 果 て た 状 態 で ど う
雨が降ってきて全身びしょ濡れとな
わ っ て い ま し た が、 今 度 は 黒 い 汚 い
︵中崎西一振興町会 顧問︶
間 に 細 い 路 地 が あ り、 井 戸 や お 地
せ ん が、 バ リ バ リ ッ と い う 大 き な
京極俊明さん
後 、と り わ け 空 襲 被 災 を 経 験 し な が
蔵さんの横を通って一段下に降り
済美で生まれて育ってもうすぐ
ら今なお住んでいるという人はも
た辺りには平屋造りの長屋が密集
歴史は残っています。
て 老 人 ク ラ ブ も﹁ 済 美 長 寿 会 ﹂ と
一 の 公 衆 浴 場 は ﹁ 葉 村 温 泉 ﹂、 そ し
な り あ り 、 酒 屋・う ど ん 屋・塗 装 屋・
業 が 多 く、 他 に は メ リ ヤ ス 業 が か
は米穀商といった風に戦前は自営
炭 業、 北 の 端 隣 は 豆 腐 屋、 私 の 家
房 具 屋 さ ん が あ り ま し た 。南 隣 は 薪
私の家の向かいが済美小学校で
あ っ た 関 係 で 、北 隣 と 三 軒 南 隣 に 文
していたのを覚えています。
しかし東海道線路沿いに北へひ
た 走 る 後 か ら ど ん ど ん 炎 が 迫 り 、と
母と姉を促し急いで逃げました。
目指して乳呑み児の妹を背負った
ま し た の で、 咄 嗟 に 淀 川 の 堤 防 を
方向も黒煙と燃える炎が目に入り
弾 で 火 事 に な っ て い て、 我 が 家 の
音 で 外 を 見 る と、 辺 り 一 面 が 焼 夷
ます。
東海道線が見えていたのを覚えてい
我 が 家 も 東 側 は 焼 失 し、 家 の 中 か ら
と 化 し た 何 も か も な い 光 景 で し た。
と 残 っ て、 西 側・ 南 側 一 帯 焼 け 野 原
し か し 、そ れ ら の 残 っ た 家 屋 も 戦 後
年の間に老朽化と空き家が目立
こ か ら 道 が 通 じ て い た と し て﹁ 道
かな町並みも第二次世界大戦の空
ね る 庶 民 の 町 で し た。 そ ん な 穏 や
の炎はとても恐ろしく今でも目に
ト塀の上で燃えている油脂焼夷弾
ま れ て し ま い ま し た。 コ ン ク リ ー
い を す る 人 が 増 え 、往 来 す る 若 い 人
の古民家を活用してあちこちで商
ち 心 配 し て い ま し た が 、近 年 そ れ ら
変 更 ま で は 葉 村 町 で し た。 地 域 唯
伝 え 聞 い た 話 で す が 、そ の 昔 、豊
崎 神 社 は 水 上 に あ り、 往 来 の 船 着
うとう豊崎神社の前辺りで火に囲
本 町 ﹂︵ 現 在 は 中 崎 西 2 丁 目 ︶、 中
襲で一変してしまいます。
70
崎西四丁目の堀内さん宅から北大
路 を 渡 っ た 辺 り を﹁ 南 浜 ﹂ と 呼 称
し て い た と い う 話 を、 葉 村 町 と い
う町名の由来と共に聞きました。
長柄橋まで辿りついた頃空襲は終
り 抜 け、 淀 川 の 堤 防 を 走 り つ づ け
焼 き つ い て い ま す 。何 と か 炎 を く ぐ
ています。
りつつあることは何よりだと思っ
た ち も 目 立 ち 、地 域 活 性 化 に つ な が
1 人 入 れ る 大 き さ で、 隣 部 屋 の 畳
期務めてそ
の 間、 要 職 に 継 ぐ 要 職 で﹁ 孔 席 暖
も 大 活 躍 の 功 績 で、 の ち に 監 督 に
からも誘われたが家業の関係︶で
社 会 人 野 球 の 強 豪 鐘 紡︵ プ ロ 野 球
進 ん で 早 慶 戦 の ヒ ー ロ ー に な り、
まらず﹂を地で行くが如く駆け回
就 任。 昭 和
年 生 ま れ、 兄 は 西 一
り、 そ の 驚 愕 の 日 々 の 賛 辞 を こ よ
年生まれ、西一町会。
町会元町会長。
◉ 済 美 小・ 灘 中・ 灘 高・ 東 大・ 東
ら 、﹁ こ れ は 天 才 豆 画 伯 だ よ ﹂ と 賞
ラスメイトの本人の絵を見せなが
大会走り高跳びの担任教師からク
会元副会長。
ク 協 会 元 会 長。 全 日 本 ト ラ ッ ク 協
は 西 三 町 会 前 町 会 長 。大 阪 府 ト ラ ッ
役 員。 昭 和
年︶
投球フォームのサウスポーを評し
て、 ラ ジ オ 放 送 は﹁ 紅 顔 の 美 少 年 ﹂
と、 今 も 脳 裏 に 残 る。 の ち 慶 応 に
年 生 ま れ。 父︵ 故 人 ︶
賛。 い つ も 図 画 の 点 数 が 悪 い 私 に
◉ほかに地域ボランティア活動で
大 大 学 院 で 情 報 工 学 修 了、 現 会 社
向 か っ て。 こ の 天 才 豆 画 伯 も 議 員
大阪市及び北区の行政からの受賞
回 大 会︵ 昭 和
回大会となる甲子園セン
バ ツ 野 球 で、
◉今春
の毒。
職 激 務 の た め、 絵 に 興 じ ら れ ず 気
こ の 御 大 が 済 美 小 4 年 の 時、 早
大競走部でオリンピックベルリン
昭和
な く 受 け て 勇 退。 政 府 叙 勲 受 章。
◉大阪府議会議員を
渡 船 博 之 さ ん ︵中崎西三振興町会 会長︶
我が街の偉映。
年 生 で し た が、 現 在 の 中 山 文
1
昭 和 年︵ 1 9 4 5︶ 月 日
の こ と で す。 当 時 私 は 旧 制 中 学 校
の
中崎町に防空壕があった。
笹川和明さん
崎町駅付近に大きな穴の爆弾跡が
あ る の を 見 て 不 安 に な り ま し た が、
家 族 は 無 事 で ほ っ と し ま し た。 焼
私 は 大 正 年︵ 1 9 2 4︶ 生 ま
れ の 歳 で す。 も と も と は 本 庄 か
ら中崎町駅へと続く広い道路があ
家の前の格子は爆弾で吹っ飛んだ
弾 だ っ た た め に 命 拾 い し ま し た ね。
夷 弾 が 屋 根 を 貫 い た ら し く、 不 発
年︵ 1 9 4 3︶ 頃 に 道
る 場 所 に 住 ん で い ま し た が、 戦 時
路の拡張のために立ち退くことに
後、補修されていました。
中の昭和
な り ま し た。 昔 は そ の 道 路 の こ と
の 下 に つ な が っ て い ま す。 た だ し
玄関には当時の防空壕が残って
い ま す。 木 の ふ た を 開 け る と 人 が
今の家の家主さんが家族が少な
く て 田 舎 に 疎 開 さ れ て い た の で、
家が焼けてしまったら防空壕に家
族が逃げ込んでも全員おしまいで
す。 戦 地 に 行 っ て い な い 家 族 は 爆
弾の威力がわからないままこしら
えたんでしょうね。
10
20
歳 ぐ ら い で、 こ こ か ら 現
を疎開道路と呼んでいましたね。
6
ら流れ出したもの。(下)防空壕跡。
2
こ の 家 を 貸 し て く だ さ り ま し た。
役で入隊しました。
昭和 年 月に戦地で終戦を迎
え、 夜 に 大 阪 駅 に 着 い て 都 島 通 を
7
域の示威事項として誇りに思う。
者 多 士 済 々 の 輩 出 は、 ま さ に 当 地
41
18
歩 い て 帰 り ま し た。 今 の 地 下 鉄 中
6
13
12
Hiroyuki Watafune
の 優 勝︵ 北 野 ︶ 投 手。 そ の 華 麗 な
24
当時は
幸 い な こ と に 、済 美 小 学 校 か ら 北
側 の 大 半 は 火 炎 を 免 れ て い ま し た。
場 が あ っ た と 思 わ れ る 辺 り が﹁ 舟
自 転 車 屋・ 駄 菓 子 屋 な ど が 軒 を 連
私 は、 中 崎 西 一 町 会 の 住 民 で す
が、 昭 和 年︵ 1 9 7 8︶ の 町 名
85
場 町 ﹂︵ 現 在 は 中 崎 西 3 丁 目 ︶、 そ
53
年 に な り ま す が 、 戦 前・戦 中・戦
うほとんどおられないと思います。
長 屋 の 続 く 街 並 み 、空 襲 の あ っ た 日 。
Seibi Talk❸︻戦前の様子︼
インタビュー
Seibi
(写真 上)天 井の油 脂のしみは焼 夷 弾か
18
20
32
33
21
88
91
Toshiaki Kyogoku
Kazuaki Sasakawa
﹁ 済 美 カ ー ニ バ ル ﹂始 ま り の き っ か け 。
い か と 思 い ま す 。若 い 人 た ち が 次 々
︵北区済美地域社会福祉協議会 会長︶
し、 み な さ ん 家 か ら 出 て き て、 手
に参加してくれるのもありがたい
久谷宣晴さん
を 叩 い て 歓 迎 し て 下 さ い ま し た。
ことです
年︵ 1 9 8 1︶ か ら 2 年 間、
初 め て の 試 み で し た が﹁ 大 き な 音
昭和
済美小学校のPTA会長を務めま
を出して騒がしい﹂と怒り出す人
私が小学生だった昭和
年
︵ 1 9 5 3︶ 頃 は、 ま だ ま だ 貧 し い
し た。 父 親 が 教 育 熱 心 で、 父 親 も
なんていませんでした。
ま た P T A 会 長 だ っ た の で す が、
私 も 同 じ 道 を た ど り ま し た ︵ 笑 ︶。
時 代 で し た 。 5・6 年 生 の 担 任 の 先
声 が 地 域 か ら 上 が り ま し た。 そ れ
こ焼き屋さんで作り方を事前に勉
た こ 焼 き を 焼 か れ た 方 た ち は、 た
手 弁 当 で や っ て い た だ き ま し た。
す。 中 廊 下 の あ る 校 舎 が 重 厚 で 格
しての基礎ができたように思いま
美 小 学 校 の 時 代 に、 自 分 の 人 間 と
て 頂 き ま し た。 今 ふ り 返 る と、 済
生 が 厳 し い 人 で、 大 変 よ く し つ け
で地域の方々と協力して子ども会
強 し て か ら 本 番 に 臨 ん で い ま し た。
夜は盆踊りや屋台の出るお祭り
を し、 屋 台 も す べ て 地 域 の 方 々 が
を 発 足 す る こ と が で き、 そ の お 披
好 よ か っ た で す。 そ れ も あ っ て、
P T A 会 長 に な っ て 年 目 、﹁ 済
美にこども会をつくろう﹂という
露目イベントとして行われたのが
それだけ真剣に取り組んでくだ
︶の始まり
P T A 会 長 時 代 に は、 祝 辞 と し て
くなる﹂と試行錯誤してちゃんと
す。 そ し て﹁ こ う す れ ば も っ と よ
済美の人は凝り性な人が多いん
で す。 こ れ は 今 も 同 じ だ と 思 い ま
のですね。
小学校がないのはやはり寂しいも
話 し し ま し た。 そ う 思 う と 地 域 に
﹁ 小 学 校 は 故 郷 だ か ら、 何 か あ っ た
年︵ 1 9 8 2 ︶
昼間は地区内を回るパレードを
行 い ま し た。 私 が 先 導 し て、 扇 町
中 身 が 伴 っ て い る。 に ぎ や か さ は
だ っ た ん で す 。昭 和
中学校の吹奏楽部の生徒や済美小
て利用しているように感じていま
完 成 し て か ら は 、み ん な 愛 着 を 持 っ
2010年に済美福祉センターが
なったのかもしれません。
らこそ今のように行事が活発に
ば 人 が 集 ま ら な い。 し か し、 だ か
らまた戻ってきなさい﹂とよくお
の ソ フ ト ボ ー ル チ ー ム 、キ ッ ク ベ ー
今でも北区でナンバーワンじゃな
日のことです。
スボールチームのメンバーが行進
︵北区民生委員児童委員協議会 会長
2004年3月をもって済美小
学 校 が 閉 校 と な り ま し た。 そ の 跡
北区社会福祉協議会 会長︶
地をどのように活用するのかにつ
す。
つ も 行 事 の 会 場 に な っ て い た の で、
り ま す。 そ れ ま で 済 美 小 学 校 は い
まれる中心となる場所が必要にな
を 行 う た め に は、 や は り 誰 も が 集
期 に、 敷 地 内 に 畝 を つ く っ て 芋 を
跡地の有効利用を検討している時
取 り 壊 さ れ る 前 の 2 0 0 6 年 頃、
学 校 で 始 ま っ た ん で す よ。 校 舎 が
今は 月に開かれている焼き芋
交 流 会︵ P ︶ も、 最 初 は 済 美 小
も 会、 青 少 年 指 導 員 が い な く な っ
た だ、 済 美 小 学 校 が 閉 校 し た こ
と で、 元 の 校 区 で の P T A や 子 ど
運営するのも済美の特徴なんです。
に、 手 づ く り で 試 行 錯 誤 し な が ら
ま た、 昔 か ら ノ リ の い い 人 が 多
か っ た こ と も 奏 功 し た と 思 い ま す。
閉校した後も活動の拠点であり続
栽 培 し、 そ れ を 収 穫 し て み ん な で
が活用できるイベントスペースも
業 や 伝 統 芸 能 は 特 に あ り ま せ ん。
地域の代名詞になるような地場産
ます。
代の地域活動へ
ウェルカムな姿勢が必要だと思い
か ら、 そ う い う 人 が 参 加 し や す い
ま す。 今 は 会 社 員 の 方 が 多 い の だ
の参加が少なくなったと感じてい
∼
昔からイベント業者の力を借りず
けられるようにしたいというのが
つ く り た い ⋮ な ど、 地 域 の 思 い を
独自でアクションを起こさなけれ
地域の人はもちろんいろいろな人
北区役所とはじっくり相談しま
ウ ン ド で 焚 き 火 を し て、 そ こ で 芋
し た ね。 高 齢 者 の 方 に 食 事 サ ー ビ
を焼いたんです。
ス な ど が 提 供 で き る よ う に し た い、
済 美 は、 も と も と 住 宅 や 家 内 工
業 の 小 さ な 工 場 が 多 い と こ ろ で、
住民たちの願いでした。
て し ま い、
5
伝 え る よ う に ま し た。 そ う し て
40
い が 行 わ れ て い ま し た。 地 域 活 動
い て は、 閉 校 前 か ら 盛 ん に 話 し 合
川郁夫さん
小学校を地域の活動の拠点に。
月
4
57
済 美 カ ー ニ バ ル︵ P
さったのだと思います。
2
28
56
7
食 べ よ う と い う の が 始 ま り。 グ ラ
12
行 われた、 サツマイモづ
済 美カーニバルが 初めて
くりの様子。
開催された時の様子。
Seibi Talk❹︻済美小学校の記憶︼
インタビュー
Seibi
8
34
35
30
Nobuharu Kuya
Ikuo Yoshikawa
済 美小 学 校の敷 地内で
万 歳 町 と い う 町 名 は、 昔 あ っ た
小 さ な 川 に 万 歳 橋︵ 萬 載 橋 ︶ と い
で あ り た い と 主 張 し た の で す。 ち
歳町も同じように昔の町名のまま
ま た、 も と も と 北 野 地 域 の 堂 山
町 や 神 山 町 と の 関 わ り が 深 く、 万
他 の エ リ ア と は 異 な り、 万 歳 町 は
印 刷 会 社、 名 刺 屋 ⋮。 済 美 地 区 の
ま し た。 メ リ ヤ ス 屋、 ガ ラ ス 屋、
地 域ではマンション建設が進み、地 域内全 体の世帯数は増加した。近年は、中崎町の地 域ブランドの浸
綱敷 天神社の夏祭りの一
透や都心居住人気の高まりによってさらにマンション建設が進み、2005 年以降は各町で世帯数が増加。
風景。左が万歳町が担当
Seibi Talk❺︻万歳町のこと︼
昔のままの町名であることの誇り。
う橋が架かっていたからついたの
戦 争 で 焼 け 野 原 に な り ま し た が、
山 下 康 夫 さ ん ︵万歳町振興町会 会長︶
だ そ う で す。 私 自 身 は そ の 橋 が か
な み に、 綱 敷 天 神 社 の お 祭 り で は、
いる職人さんがたくさん住んでい
かっているのを見たことがないの
年 ほ ど 前 か ら、 戦 前 か ら の 計
画道路工事に伴う立ち退きが始ま
戦後も小さな家や事業所が建ち並
り ま し た。 天 神 橋 6 丁 目 交 差 点 の
んでいたんです。
小さい頃は近所でよく遊びまし
た。 公 園 や た め 池 の ほ か、 塀 に 囲
混 雑 を 避 け る た め の バ イ パ ス で す。
万歳町は小太鼓を担当していまし
ま れ た 大 き な 空 き 地 が あ っ て、 狭
た。
い 隙 間 か ら 入 っ て 行 っ た り し て。
私 の 家 も 移 る こ と に な り ま し た が、
で、 ず い ぶ ん と 昔 の こ と の よ う で
公園では相撲の巡業が開催される
道路予定地の北の端の方だったの
的 遅 か っ た。 た だ、 そ の 後 あ ま り
で、 立 ち 退 い た の は
変 わ っ て い ま せ ん。 こ れ か ら 一 体
山崎町
町域の一部の編入
新町名「葉村町」が誕生。
大正 13 年の改正により新設。
いるところです。
代くらいまでは小さい家がたくさ
軒の家が建っ
の 中 で も、 万 歳 町 だ け は 氏 神 さ ん
今の万歳町では大きなマンショ
ン が 目 立 っ て い ま す が、 昭 和 年
年前と比較
こともあったんですよ。
す ね。 神 山 町 の 綱 敷 天 神 社 内 に、
その万歳橋の親柱が残されている
そうです。
私 自 身 も そ う で す が、 万 歳 町 に
住 む 人 た ち は、 こ の 町 名 に 誇 り を
持 っ て い ま す。 で す か ら、 昭 和
年︵ 1 9 7 8︶ に 町 名 が 一 斉 に 変
更 さ れ た 際 に も 、﹁ 中 崎 ○ 丁 目 ﹂ と
12
20
どうなるのかと少し心配に思って
な る の を 拒 否 し ま し た。 済 美 地 域
40
ん あ り ま し た。 そ の マ ン シ ョ ン の
区画だけでも、 ∼
40
が 豊 崎 宮 で は な く 綱 敷 天 神 社 で、
大正 13 年の改正により新設。
﹁少し違うのだ﹂という意識があっ
30
て い ま し た か ら。 当 時 は 現 在 の 中
万歳町
が 改 称されている。 戦 後では、 昭 和 37 年
たことも関係していたかもしれま
大正 13 年の改正により新設。
誕生。
崎 西 の 方 と 同 じ で、 も の を 作 っ て
の改正により新町名「中崎町」が
れたが、それに関わって、その前年に地 名
せんね。
道本町
インタビュー
Seibi
旧町名の中野に由来。大正 13 年
に 豊 崎 町( 旧 豊 崎 村) が 大 阪 市 に 編 入さ
済美地域の町名と
︻旧町名の由来︼
荷積場であったことから由来。大
36
較すると昼夜間人口比率が低く、
「住」もしくは「職住一致」の地域と言える。
37
※昭和 53 年(1978)に旧万歳町の一部が中崎1丁目に町名変更したため、昭和 40 年(1965)
までの万歳町及び中崎1丁目の世帯数は、共に現在とは異なるエリアで算出している。
済美地区の世帯数
正 13 年の改正により町域変更。
本庄 」と「豊崎村大字南濱 」によって構成
に由来。大正 13 年の改正により
町域すべての編入
と称した史実による。
年(1911)地籍図では「西成 郡豊崎村大字
古い地 名である西葉 村、 東 葉 村
和 53 年以降、町名が変わっている。
北野青物市場へ品物を運ぶ船の
ばれていたと推定される。その後、明治 44
葉村町
(1962)制定の住居表示変更を受けて、昭
中崎町
されていることがわかる。大正 14 年
(1926)
舟場町
この地一帯を豊島(てしま)の荘
していた小太鼓。
特に、2000 年∼ 2010 年にかけては 5 年で約 1,000 世帯ずつと大きく増加している。大阪市全 体と比
53
豊島町
済美地 域は、江戸時 代は「豊崎村」と呼
Yasuo Yamashita
人口の移り変わり。
町名と人口
済美地区の町名変遷
戦後、昭和 25 年(1950)から昭和 40 年(1965)まで、人口が増え続けていたが、大阪市電廃止な
どの影響により、昭和 60 年(1985)頃から世帯数が減少し始めた。平成 7 年(1995)から 2000 年頃
にかけて、新御堂筋建設による立ち退きにより、万歳町と中崎西 2 丁目で世帯数が減少。一方、その他の
インタビュー
題になります。しかし、戦災に遭わずに焼け残っ
インタビュー
阪 の 玄 関 口 は、 西 区 の 川 口 あ た り で し た。 大
た今では、それらが街の風情になっていますし、
︵大阪くらしの今昔館 館長︶
阪 城 は 西 側 に 大 手 門 を 構 え、 そ こ か ら 海 の 方
これは大阪の下町の原風景であると私は思いま
谷 直樹
向、 す な わ ち 西 に 向 か っ て 城 下 町 を 作 っ た の
す。
大阪の下町の原風景、
住みこなす知恵の歴史を引き継ぐ。
な 街 だ と 思 い ま す。 梅 田 に 行 け ば 百 貨 店 が あ
で、 そ れ ら 2 地 点 を 結 ぶ 東 西 方 向 の 通 り が メ
地下鉄中崎町駅がほぼ中心にある済美地域
は、 梅 田 か ら 歩 い て 分 程 度 と、 と て も 便 利
る し、 天 満 や 天 六 の 方 に 行 け ば に ぎ や か な 市
そ し て、 梅 田 の そ ば に あ る 済 美 で 都 市 開 発
が 進 ん だ の は 明 治 時 代 で す。 近 代、 大 阪 の 街
と り わ け 、﹁ 住 み 心 地 の 良 さ ﹂ に つ い て は 、 時 に
ん あ る け れ ど、 失 わ れ て し ま っ た も の も 多 い。
インストリートでした。
はバームクーヘンのように都市開発が進んだ
は 人 々 が 慣 れ 親 し ん だ 街 並 み・ 景 観 や 鎮 守 の 森
場があります。
済 美 は 半 径 5 0 0m に 生 活 利 便 施 設 が 揃 っ
て い ま す。 日 用 品 が 買 え る 市 場 も あ れ ば、 大
段階で形成され
近 代 的 に 開 発 さ れ た 街 は、 車 が 通 り や す い、
街 の 構 造 が わ か り や す い な ど、 良 い 面 は も ち ろ
きな病院もある。風呂屋さん、集会所、郵便局、
の で す が、 済 美 は 開 発 の 第
段 階 の 開 発 で は、 田 ん ぼ
れ て い る よ う に 思 い ま す。 大 阪 の 近 代 的 な 街 の
地域の歴史や生活文化がコツコツと積み上げら
への愛着を持ちながら住みこなしていくことで、
そ の 点、 済 美 は 一 見、 開 発 が 進 ま な か っ た 街
の よ う に 見 え ま す が、 そ こ に 住 ま う 人 々 が 土 地
いと思います。
を 失 く し て し ま う な ど、 良 く な い こ と の 方 が 多
診療所、そしてもちろん中崎町駅もある 。日々
て い き ま し た。 第
の暮らしをする上で必要な施設が揃っている
のあぜ道がそのまま道路となる形で進んでい
街に住む知恵は蓄積される
発 展 が 行 き 詰 っ て い る 今 だ か ら こ そ、 済 美 の 街
が見直されているのだと思います。
子どもと高齢者の交流を
地域での幸せな暮らしをはかる指標の1 つと
N H K の 朝 の 連 続 テ レ ビ 小 説﹃ あ さ が 来 た ﹄
の 新 次 郎 は、 仕 事 は そ こ そ こ、 お 茶 や 三 味 線
は 感 じ て い ま す 。D I Y で 、 壁 に 色 を 塗 っ た り 、
あまり好ましくない使い方をしているように私
確 か に、 細 い 路 地 や 行 き 止 ま り が 多 く あ り、
古い木造住宅は火事や地震などの防災面で問
は思っていなかったようです。
階 に 形 成 さ れ た 街 に つ い て は、 あ ま り 良 い と
大 正 末 か ら 昭 和 初 期 に、 大 阪 市 長 を 務 め た
都 市 計 画 学 者 の 關 一 は、 済 美 の よ う な 第 段
あると考えられます。
の は、 住 み や す い 街 の 条 件 の 1 つ で も あ り ま
済美の街が発展した経緯
る の で、 済 美 の 入 り 組 ん だ 路 地 は そ の 名 残 で
江 戸 時 代、 済 美 地 域 や 梅 田 界 隈 は、 梅 田 が
昔﹁ 埋 田 ﹂ と 言 わ れ て い た よ う に、 田 ん ぼ が
広がる村だったんです。
明 治 7 年 ︵ 1 8 7 4 ︶、 大 阪 駅 ∼ 神 戸 駅 間 の
鉄 道 開 業 と 共 に、 梅 田 に 鉄 道 駅 が 設 置 さ れ て
か ら、 梅 田 は 急 に 大 阪 の 表 玄 関 へ と 変 化 を 遂
げ ま し た。 ち な み に、 大 阪 駅 が で き る 前 の 大
な ど の 芸 事 に 精 を 出 し て い ま す。 し か し、 昔
柱 や 梁 を 抜 い た り し て い る よ う で す の で、 そ の
店 を 出 す ケ ー ス が 増 え て い ま す が、 建 築 的 に は
核 家 族 化 が 進 ん だ 今 は 本 当 に 減 っ て き ま し た。
の大阪はこういった文化に造詣の深い人がパ
お 店 が 地 域 か ら 出 て 行 っ て し ま う と、 そ の 建 物
年 代 に は ど こ で も 交 流 が あ っ た の で す が、
そ の 点、 済 美 で は い ろ い ろ な 行 事 が あ っ て、
ト ロ ン と な り、 街 を 支 え て き た と も 言 え ま す。
和
お 年 寄 り か ら 子 ど も ま で 集 ま っ て い る の で、
﹁街の作法﹂を大切に
現 在、 中 崎 町 駅 周 辺 に は、 若 い 人 が 新 し く
と思います。
て も ら う こ と で、 地 域 を 洗 練 さ せ て い く べ き だ
り 込 ん で も ら い、 一 緒 に コ ミ ュ ニ テ ィ を 継 承 し
な る。 迎 合 し な く て も、 も っ と 地 域 の 伝 統 に 入
折 角、 街 に 蓄 え て き た も の が 多 く あ る の に、
人に合わせてしまうことでそれが維持できなく
りでは良くない。
す る き ら い が あ り ま す。 し か し、 こ れ が 街 づ く
は 相 手 を 楽 し ま せ る よ う、 入 っ て き た 人 に 同 調
果 た す こ と を 暗 に 求 め る 傾 向 に あ る 一 方、 大 阪
例 え ば、 新 し く 入 っ て き た 人 に 対 し 京 都 の 街
で は、 地 域 と 同 化 し、 さ ら に 洗 練 さ せ る 役 割 を
要があるのではないでしょうか。
ま し た。 そ ん な、 街 の 作 法 を 今 も 大 事 に す る 必
大家さんと住む人で契約文書を取り交わしてい
昔の船場の街では、表長屋に住む人に対して、
﹁ こ こ を 出 る と き は 元 の 状 態 に 戻 し な さ い ﹂ と、
ます。
は次に入居する人が使いこなせない状態になり
年後であればまだ卒業生がたくさん住
働きかけは大事だと思います。
済美でも文化的なネットワークを広げていく
し て、 子 ど も と 高 齢 者 の 交 流 が あ り ま す。 昭
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す。本当に贅沢な地域だと思いますね。
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とても幸せな街だと思います。
た だ、 地 域 の 真 ん 中 に あ っ た 済 美 小 学 校 が
閉 校 に な っ た の は 残 念 で す ね。 一 般 に、 地 域
の要職についておられる方は小学校の卒業生
で あ る こ と が 多 い で す。 ま た、 コ ミ ュ ニ テ ィ
の ま と ま り が あ る 地 域 は、 小 学 校 が そ の 中 心
にあることが多いです。
地域にはマンションが増えているようです
が、 マ ン シ ョ ン 住 民 は 利 便 性 を 重 視 す る た め、
住 民 の 地 域 へ の 帰 属 意 識 は 薄 れ て い き ま す。
そ う い っ た 住 民 を 地 域 へ 巻 き 込 む に は、 子 ど
も を 地 域 活 動 に 参 加 さ せ る こ と が 重 要 で す。
子 ど も を 通 じ た 親 の 縁 か ら、 小 学 校 の 卒 業 生
の 親 御 さ ん と、 新 し い 住 民 を つ な ぐ こ と が で
∼
小 学 校 が 閉 校 し た の が 2 0 0 4 年 な の で、
きると良いと思います。
し て い く の か。 例 え ば、 小 学 校 の 機 能 に と っ
て 代 わ る よ う な 生 涯 学 習 機 能 を、 地 域 内 に 継
承していく必要があると思います。
済美小学校が閉校する際のセレモニーの様子。
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ん で い る で し ょ う が、 そ の 先 ど う や っ て 維 持
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など。NHKの朝の連続テレビ小説『あさが来た』の風俗考証を務めているほか、『ごちそうさん』では時代考証を務めた。
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たに・なおき
大阪くらしの今昔館館長。大阪市立大学名誉教授。京都大学大学院工学研究科建築学専攻博士課程修了・工学博士。専門は建築史・
居住文化史・博物館学で、主な著書に『まちに住まう−大阪都市住宅史』(共著)、『まちに住まう知恵−上方三都のライフスタイル』