『稲穂』インタビュー/ピアニスト・日下部かおりさんに聞く

■『稲穂』インタビュー
ピアニスト・
日下部かおりさん
(高
回)
に聞く
プラハより来日した四重奏団と共演を重ねているピアニスト。
2010年より毎夏ミュージック・キャンププラハに参加。
室内楽の研鑽を積み、飯田市でも 回目のコンサートを開いた。
シュターミッツ四重奏団
との共演は奇跡のような時間
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にあったのですか。
かの自意識なので、バランスが悪かったので
付き、本番に弱くなって悩みました。過剰な
自信と過剰な自己否定はどちらも同じ私のな
母は高校の音楽教師でした。私を出産する
にあたってピアノ教室を始めましたので、私
がきかないけれど、楽譜通りに頭を使って弾
沸いていたのです。実は高校のときにお琴は
大学でもミュー
中・高時代と演劇部でした。
ジカルをしていたくらい演ずることに興味が
──どんな高校時代を送ったのですか?
けば曲の表現には選択肢があるということを
師範までとったのですが……。
年ぐらいの頃か
教えてくださいました。子どもの頃はピアノ
──いま、飯田高校の筝曲部は全国でトップ
らですが、耳で聴いて弾いていたのでは修正
が上手いと思っていて、よく褒められるから
レベルに入るぐらいですが……。
の先生についたのは小学校
しょう。
思春期になってそういうことでないことに気
●くさかべ・かおり
豊丘村生まれ。国立音楽大学器楽学科ピア
ノ専攻卒業。ピアノ独奏、室内楽の研鑽を
積む。ピアノソロ、ピアノデュオ、声楽、
器楽の伴奏ピアニストとして数多くのコン
サートに出演。また、声楽家としても活動
している。
は気付いたらピアノを弾いてました。ピアノ
──最初に音楽に触れる体験はどんなところ
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発表会は好きで、いつも出たかったのですが、
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インタビュー/ピアニスト・日下部かおりさんに聞く
──音大の受験やエリート集団の音楽大学っ
私のピアノの先生の松村和子先生、長谷部
裕子先生が国立音大の久保田惠子先生のお弟
てどんな様子なんですか。
を受けてました。
子さんでしたので自然に国立音大を受験して
当時は筝曲部はなかったのですが、母もお
琴を教えていましたし、今飯田高校で教えて
── 進 学 校 の 飯 田 高 校 で は 音 楽 家 と か ア ー
いました。音大は、皆ピアノが弾けて、我こ
いらっしゃる大平先生に、私も個人レッスン
ティストなど自己表現に繋がる仕事を選ぶ人
そはと思っている人たちばかりの、ちょっと
異様な世界でしたね。半数が付属の音高から
はあまり多くないですね。高校時代にこそ育
まれるものがあると思うのですが。
私のときには何人かが音楽の道に進もうと
くに たち
していて、国立音大には教育科の2人とピア
ノ科の私で3人が、武蔵野音大にも先輩がい
ました。今も音大を受験したいという高校生
はいますが、学生の個性や気質よりもとにか
く国公立大学、という傾向が強くなっている
ように感じます。表現に繋がる心の豊かさが
日本人の教育観には少ないのかもしれません
ね。特に地方にはそれを評価する視点は少な
いと感じます。美術でも音楽でも自分の分か
らないものを認めていくのが豊かさなので
しょうが、日本人は分からない領域のことを
許容していくことが苦手な民族なのかもしれ
ませんね。
上がってくるんですが、田舎から出てきた私
にはとてもびっくり。彼らについていけなく
てカルチャーショックを受けました。音楽会
や演奏家などの話題は彼女たちには普通のこ
とであり、力のある先生の門下生たちの話題
などは、私には生まれて初めてのことばかり
でしたね。
──いつ頃から将来プロの演奏家になろうと
考えたのですか。
田舎出の一人っ子で、人と何かするのが好
きだったので、大学に入ってすぐに私はソリ
ストタイプではないと思い始めました。演奏
家たちの伴奏ばかりしているとソロができな
くなるといって、普通は先生がストップをか
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この曲はなにを歌っているのか…感じながら
ない経験 をしなさい、という方 だったので、
息が合わないと思うときもあります。私は人
くてはならない方もいて、探り合って互いに
ます。一方で演奏前に綿密に打ち合わせしな
いろんな演奏家たちとのアンサンブルをさ
に合わせるのがうまいところがあるのです
けるのですが、私の先生は学生時代しかでき
せてもら いました。一、二年生の 頃はオペラ
が、天才と呼ばれる人と違うのは逆にそこな
んでしょう。
が好きでオペラ団体の伴奏ピアニストになり
たいと思 っていましたが、三、四 年生の頃に
それも違うと思い始めました。今思うと伴奏
誰々ではなく、ソリストと対等にピアノ誰々
と書かれる仕事をしたかったのです。自分を
もっと表現したかったのでしょう。
──ピアニストとして表現したいのは自分自
身の感情的なものなのですか、それとも作曲
家の描く世界の表現なのですか。
例えばそれは、私とパートナーでないと表
現できないものではあるのだけれども、互い
に音楽を感じてアプローチしていくと、私た
ちにしか生まれないサウンドができ、あとは
お互いに感じることをやっていくことで音楽
が連れていってくれる領域があるのです。相
性が合う人と演奏してみると、話していると
きよりも、その人の弱いところや意外な側面
も見え、その人をより理解できる感覚があり
ようで、本当にこの人は天才だと思いました。
たときには、自分の内面を見透かされている
ているんです。ポゴレリチさんの演奏を聴い
タマから最後まで彼の中では完璧に構成され
弾いたり、最初の一音を弾いたとき、そのア
説明できないくらいのゆっくりしたテンポで
ものすごい説得力で迫ってきます。楽譜では
は絶対真似してはいけない弾き方なのですが、
切り方、フレーズのもっていき方は普通の人
もセンセーショナルになりました。彼の音の
ならば審査員をやめる」と言って当時はとて
「天才の価値を分からないショパンコンクール
査員のピアニストのマルタ・アルゲリッチは
ずっとイーヴォ・ボゴレリチが好きでした。
ショパンコンクールで彼が落選したときに審
──ピアニストではどういう人が好きですか。
聴いたことのないリズムと音色で楽器を操る
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インタビュー/ピアニスト・日下部かおりさんに聞く
と。ずっとピアノを弾いてきたけれど、私に
生から半ば強制的に「プラハに行きなさい」
留学は 歳過ぎてからの、ここ4年のこと
です。母が亡くなった後、師の久保田惠子先
れは……。
──チェコのプラハに留学されてますね、そ
したか。
らしぶりと音楽との関係をどんな風に感じま
──古い歴史をもった街プラハの、人々の暮
の流れではないことをしてやろうということ
た。演奏がいやらしく表現されるとき、音楽
なんでしょう。
はこれというものがなくて、今思うと自分の
プラハの人たちは質素で、古いものを大事
にし、美しいものに対して敏感です。街は家
生活の何かを変えたかったんだと思います。
プラハでの最初の1年はピアノのソロコース
で私のレパートリーを掘り起こして一流の先
生に指導していただきました。それまではテ
クニックの難しいところを何度もさらって弾
くことに一所懸命だったのですが、曲を一つ
一つの声部にばらして聴きながら、これは何
を歌っているのか……を感じていくと、そこ
に音楽が生まれるという考え方に変わりまし
た。音楽を喜びとして、ひとつの曲を音楽と
して感じることが一番大切なのだとプラハの
先生方から言われました。また、恣意的な意
図で音楽を捻じ曲げるのではなく、音楽が何
の窓の外に花を飾って、通りを歩いている人
が楽しめるように設計されています。クーベ
リック・トリオのチェリストのカレル・フィ
アラさんは「文学と音楽と建築とカルチャー
の溢れたこの国を愛している」とよくいいま
す。
プラハの人は愛国心が強いです。
メンバー
の一人のクヴィタ・ビリンスカ先生は今の私
のピアノの先生でもありますが、プラハでの
2年目に世界的に活躍するチェコの名門弦楽
四重奏団シュターミッツ・カルテットの日本
ツアーで共演してみようとの話をいただきま
した。そのとき私も室内楽はすごく演奏した
回目の飯田公演では飯田の友人や音楽仲
かったので「やります」と即答しました。
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を言っているのかをじっと聴いてあげると、
自分の音楽が生まれてくるとも言われまし
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おとぎの国のシュターミッツ・カルテット
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相談した多くの窓口では室内楽の公演に対し
四重奏団が日本には少ないからでしょうか、
れていたと聞きましたが、今は……。
──日下部さんは俳優や声優としても活動さ
もにあるのです。
は音楽であり、人形劇であり日常が芸術とと
てあまり理解も興味も持って頂けず、残念に
間がずいぶん動いてくれました。しかし弦楽
思うことが多々ありました。
ディションを受けたんです。
受かってしまい、
大学を卒業するときに青年座研究所に入
り、 通 っ て い る と き に ア ニ メ の 声 優 の オ ー
── 飯田で暮らす 人たちの中にも音楽を楽 し
む そ の 文 化 は あ る のです が、協 奏 曲 の よ う な
クラッシックを楽しむ文化と何が違うのですか。
チェコはヨーロッパの真ん中に位置してる
ので歴史的には他国に侵略されることが多
かった。何度も国がなくなり一個人として生
きることは許されない時代が長く続きまし
た。発言にも気をつけなければならず、それ
で人形劇も発達したともいわれます。私がよ
く行く喫茶店の近くのヴィシェフラド国民墓
地にはドヴォルザーク、カフカ、ミュシャや
画家、建築家、演劇人などの芸術家が眠って
い ま す が、 そ こ に は 政 治 家 は 一 人 も い ま せ
ん。政治は自分たちを幸せにしてくれないけ
れど、自分たちが自分たちでいられるのは芸
術家がいるからだというのがプラハの人たち
の価値観だそうです。チェコ人が立つところ
ラインをその曲をかけながらドライブしている
前回の飯田公演でドヴォルザークのピアノ
五重奏曲を演奏しました。飯田からフルーツ
の共通点はありますか。
おいてどんな影響がありましたか。スラブと
──育ってきた飯田の風土には、音楽表現に
いながら成長することです。
ろいろな引出しをもって、互いに与え合えあ
りがより楽しい音楽人生を送れるために、い
ですが、そこでやりたいことは学ぶ一人ひと
ま し た。『 ラ・ ム ジ カ 』 La Musica
は私の音
楽教室の名称でイタリア語で音楽という意味
ことになって、結局ピアノを弾くことになり
倒れてしまったのを機に豊丘村に帰ってくる
アニメの主人公の役をやっていました。母が
誰もが「プラハの町を愛している」という
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インタビュー/ピアニスト・日下部かおりさんに聞く
時、あまりにも飯田の風景に溶け込んでいるス
ラブ的な曲で、涙が止まらなくなってしまうほ
ど感動したのです。ドヴォルザークの時代、統
治の影もあり、エリートのチェコ人はドイツ語
をしゃべらなければならなかったのですが、貧
ザ ー ク の『 家 路 』 が 流 れ た ん で す。 そ の と
きその作曲家の曾孫でありヴァイオリニスト
であるヨゼフ・スークの五重奏曲を知ってる
か と い う 話 が 出 て き ま し た。 そ し て、「 そ れ
をやろう」ということになったんです。とこ
ろが鉄のカーテンの時代の作曲家なので、日
本では楽譜が手に入らない。今までも 枚し
楽器を操るそのお姿は、まるで魔法使いのよ
とっては、
聴いたことのないリズムと音色で、
ルテットの皆さんと共演できるなんて、私に
知ることになるのです。シュターミッツ・カ
音楽で起こりうるのです。作曲家のこころを
いうびっくりする素晴らしい曲との出合いが
こうして出合えたという感じなんです。そう
です。普通に生きていたら出合えないものに
それを皆に聴いてもらいたいと思っているん
だったん ですが、素晴らしい名曲なんです。
かCD化されていないという誰も知らない曲
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しい居酒屋の息子であったドヴォルザークはド
イツ語ができなかったのです。彼の土臭い曲の
表現というのはそこに繋がるのだと思います。
チェコの音楽は日本人の感性に合うといわれて
います。魂が近いところにあるのでしょうか。
カルテットの人たちは、南アルプスの雪山の情
景は、とてもロマンチックと飯田の印象を言い
ます。海がないのは同じですが、チェコにはあ
んな高い山はないのです。
──音楽のある生活とは、かおりさんの人生
にどういう意味をもっているのですか。
プログラムを決めるときは、シュターミッ
ツ・カルテットに私がリクエストを出してい
ましたが、今回はカルテットの方から「スー
クの五重奏曲をやろう」と言ってくださった。
メンバーと公民館からホテルまで歩いていた
とき、飯田市の広報スピーカーからドヴォル
うなんです。決して妥協せず音に音楽に誠実
に向き合ってきた方々との共演は、私にとっ
て奇跡のような時間なのです。
(インタビュー/福澤郁文)
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A. L. ドヴォルザーク
公演パンフの一部から