立正大学博物館 第 2回 特別展 荻 と の よ 9FF 会期 :平 成 16年10月25日 (月)∼ H月 27日 (土) 立正 大学博物館 2004 目 次 ごあい さつ … ………………………… …………… 1 釈迦の故郷 …………………………………………… 2 ・四大仏跡 とカ ピラ城 ……………………… ………… 8 ・アシ ョー カ (阿育)工 の石柱 …………………… 9 ・テ ィラクフコ ッ ト追跡 …… …… … … ………… 10 テ ィラクラコ ッ ト遺跡出土遺物 ・ル ンピユー遺跡 ………………… 13 …………………… …………… 17 釈迪の故 (1)こ の図録は、2004(平 成10)年 10月25曰 〈 月)か らll月27● (■)に かけて開催する特Яl展 「 郷Jの 展示図録 として作成 された。 (2)こ の図録の編集 伯 成は、館長 の指示により上野意司事円薇晨 がE当 した。 録を同会の後援を得 て (3)特 Яl展IB確にあた り (財)全 日本仏教会が実施 したルン ピニー遺跡 の発掘憫奎 展示 した。 “ (4)展 示資料については 立正大学ネパール仏跡調査団、立正大学文学部考古学研究室 の全面的な協力を得 た。 (5)特 別l展開催にあたつて 特に参考に した文献は下記 の通 りである。 ティラクラコットJ(1978 2000わ 立工大学ネパール考古学調査報告第 I n冊 「 中村瑞隆著 『 釈迦の故城を探る一推定カピラ城跡の発掘―J(2000年) ルンピニー発掘田奎報告』〈 ・(財)全 日本仏教会 「 近刊) ごあい さつ 釈迦 の 故郷 」 を開催 いた します 。 平成 16年度秋季特別 展 と して 「 ニ 仏教 の 開祖 ・釈 迦 C C463∼383、中村元博 1税)は 、ネ パ ール のル ン ビ ー で生 誕 され 、 カ ピラ城 で青年 時代 を過 ごされ ま した。 そ の 実像 は、 19世紀末 か ら20世 紀初頭 にかけて の 考古学的調 査 に よつて 四大仏跡 をは じめ 、釈 迦 関係 の遺跡 が IJlらかに され て きま した。 しか し、 四 門出遊 の 地 と して知 られ るカ ピ ラ城跡 の所在地 については 諸説 が あ り定 ま っていませ んで した。 そ こで立正大学 は、1967∼77年 の10年間、中村瑞 隆教授 (元立正大学学長) を中心 とす る調査 団 をイ ン ド ・ネ パール に派遣 し、カ ピ ラ城跡 を探 索 しま した。 そ の結果 、ネ パー ル のテ ィラ ウラ コ ッ ト遺跡 こそ カ ピ ラ城 の 有力候 補遺跡 と想 定 して発 掘調 査 を実施 しま した。 発掘 の 結果 、釈迦時代 の 多量 の 出土品 を得 るこ とに成功 しま した。また、 あわせ て 、テ ィラ ウラ コ ッ ト遺跡 が 、城跡 で あ つた ことを再確認 し、規模 ・ 構造 ・年代 な どと出土品 の 時代観 とをあわせ て釈 迦 の 故城 であつた可能性 を明瞭 にす る こ とがで きま した。 一 方 、 (財)全 日本仏教 会 では 、ル ン ビニーの整備 と顕彰 を 目途 に、 1993 ∼2003年 の10年 間、そ の 地 を発 掘 しま した。発掘 の 結果 、釈尊 生誕 の地 を 示す 「 印石」 (標識石)を 検 出す る こ とに成 功 しま した。 この未曾有 の 成果 は明春 に報告書 が 出版 され ます。 そ こで 、 立正大学 の調 査 団 が発掘 したテ イラウ ラ コ ッ ト遺跡 (推定カ ピラ 城跡)の 出 土品にあわせ て 、(財)全 日本仏教会 のル ン ビニー 遺跡発掘 の経過 と成 果 を写真 に よつて 展観 い た します 。 「 釈迦 の 故郷Jの ,急吹 を感得 して頂 けますれ ば幸 いで す。 平成 16年10月 立正大学博物館 館長 坂詰秀 一 釈 迦 の 故 郷 坂詰 秀一 I 仏教 の教祖 ・釈l l I ( 前 4 6 3 ∼3 8 3 年 中村元博士説) は 、現在 のネパール に生まれ 、イ ン ド北 一 部 の地 を巡行 して教 えを説 いた と言われ ている。そ の釈迦が歴 史上の人物 として 確定 され たのは今 か ら1 0 0 年ほ ど以前 の ことで あった。 1 9 世紀 の末 、ネパール か らイン ドの北方にか けて釈迦 の実在 を示す 銘文が刻まれた 資料 ( アショーカく1 可 ` 育> 工 石柱 舎利壺) 力 あいつい で発見 され た。 この よ うな歴 史的史料 の 確 認 に よって釈 迦 の生没年代 をめ ぐ り百家争鳴 の感 を呈す るよ うになった 。 釈迦の遺跡 の探索は、玄突三蔵 (H国店への僧)の 『大唐西域記』を手掛か りとしてA カニ ンガム (ィン ド考古調査局長官)に よって着手 された。彼は、ィン ド 各地 ネパール を ユー し の ルン 踏査 、生誕 地 ビ 、1吾りの地ブ ッダガャ、最初の説法の地サールナー ト、入滅 の地 クシーナガ ラの四大仏跡をは じめ、マガダ回の首都 ラジギール (=舎 城)、コーサラ国 の首都 シュラー ヴァステ ィー (舎衛城)な どを調査 し それぞれの 所在地 と実情を明 ら力ヽこ した。 他方、ネパールの南 ィ ン ドと国境を接する釈llllの 故郷 ―タライ地域では、ィギ リス ・ フランス ・ドィッ ィ ン ド諸国の仏教学 考古学者 らがル ンビニー シ 、 ャヵ族の本拠地カ ピラ城 、釈迦の舎利壺が出土 した ピプ ラハ ワーな どにおいて競って それ らの調査 と研究に 汗を流 した。 4‐ ‐ … … ()'t'',ス r i′ “ 氏甲 , , ,1 DPLORED SITESり62 ■ '`''''' /た : ,Fr,:n_t・ │・ 膚i │ ヽ =夕 __〃 : ∼ ンド =α `Lη イ 'J ティラフラコ′田 辺嗜図:子 11111' ほた■ ', ☆,■:口ORA KT(tt,ど ,OA● XヽRI ,0, ■ `飩 ^Rヽ s tu、 餞、tl・ 0■二り0) 爾青工石柱 S LUNB〔 N[ 6Nに ARIゝ OF R T]HAWA '∞ タライにおけるカピラヴァス トゥ関連遺跡の分布 (立iE大 学ネパー ルlA跡 調査団 原図) ル ン ビニー では ア シ ョー カ王の巡礼 由来が亥1まれ た石 l■ に よってその地が釈」 lll生 .‐ 41の 地 と確認 されたが 、釈迦が29歳まで生活 を過 ご していたカ ピラ城跡 につい ては明 ら力│こす ることがで きなか った。 このよ うな釈迦の遺跡 は、 日本 の僧侶 に とって憧れ の巡ネ L地であつた。 古 くは平城 天皇 の第二王子高丘親王 (真玖 o、 そ して明恵上人が 「 天竺 (ィン ド)J行 きを渇望 した ことは歴 史上によく知 られ ている。 近代 になつて僧 北畠道龍 は、1883年12月にブ ッダガヤに詣 で た。道龍 はその地 を釈迦の墳墓 と信 じ 「 年 を経て 名のみ残 りし,1耶の里に今 日み ほ とけの 痕を問ふ哉Jと 感涙 し、 「日本開 闘以来余始詣千澤尊墓前 道龍 明治十六年十 二月四 日J と刻んだ石碑 を建立 した。 ついで 、 1895年 1月 には、僧 山崎辮榮がブ ッダガャにいた り 「よろづ世は まだ遠 けれ ば今 さらにふたたび照 らせ仏陀伽耶 の 月Jと 詠んだ。辮榮 は、 さらにサールナ ー ト、 クシ ーナガ ラ サ ヘー ト マ ベ ー トと巡 ネ しの足 を運んだ。 一方、 シル クロー ド探検 で知 られ る大谷光瑞 な どは、 19o2年12月か らあ くる 1月 にかけ ブッダガヤ とラジギー ル を調査 し、 ラジギール で法華経 を説 いた と伝 え られ る霊鷲 山の確 認に意をつ く した。 大谷 の.n査隊は、遺跡 の現状 を撮影 し略測図 を作成 した。 また 、梵文研修 と仏跡探求 を 目指 して1915年 (大正4)年 か ら3年 間イ ン ドに留学 した仏 教学者 (後 立正大学教授)の 同 教法 は カ ピラ城跡 を求めて タライに赴 き 諸説 を検討 し て自説 を発表 した。 このよ うに ヨー ロ ッパ 諸国の学者に よる釈迦遺跡 の調査研 究に対 し、 日本 の学者 も現地 において調査 を試み たのであった。 その後 第 2次 世界大戦 を挟 んで空 白期が あつたが 1950(昭 和341年 に 京 都 大 学 が ブ ッダガヤで発 掘 し、樋 口隆康 は、釈迦 の遺跡 に対 し 「日本人 として最初の発掘 であ り、そ の意義は大 きいJと 感懐 を被れ き した。 ついで '67年か ら10年間 未確定 のカ ピラ城跡 を求めてネパールのテ ィラ ウラ コ ッ トを 発掘 した立正大学、1986年以来、サヘ ー ト マヘ ー トの発掘 と研 究を続 けている関西大学 、 1993年か ら10年にわた リル ン ビニーの発掘 と調査を実施 した (財)全 日本仏教会は 、それ ぞ れ大きな成 果 を挙げた。 とくに、ル ン ビニーの発掘 は 「 印石J発 見によって世界の関係学 界より注 目され.世 界遺産登録 の気運 をつ く りだ したのであ る。 Il ル ン ピニ ー ブ ッダガャ 、 サ ー ル ナー ト、 ク シー ナ ガ ラの 4大 仏跡 をは じめ 、釈迦 に 関 す る多 くの 造跡 が 明 ら力│こされ て きた の に対 し、出家 の● lt―カ ピラ城 の遼跡 に つ い ては定 まって い な い感 が あ った。 の かつ て、カ ピラ城 の伝承地 を 5世 紀 の は じめに訪れ た法顕 は、す でに荒れ はてた城跡 の の 故官 に釈迦 の母 の像 、釈迦 が病人 と会 つた と伝 え られ る東門な どのほか、付近 伝説 個 所 に塔婆 がた つていた こ とを書 いてい る (隔 僧法頭伝♪。 ついで、 7世 紀 の 中頃 にカ ピラ城伝承地 を詣でた玄実は、カ ビラヴァス トウ国には十数 の荒廃 した城 があ り、工城 には釈迦 の 父の像 と母 の像 が置 かれ てい る建物や精舎 な どがあ の が の り、それ らは レンガでつ くられ ていた と記 し さらに、三城 の付近には多 く llll藍 跡 い あ り 王城 に接 して存在す る一つの伽藍では3,000余 人の僧 が小乗 の仏教 を学んで るほか 異教 の 人た ち も住 んでいた と描写 して い る この よ うな カ ピラ城 は、 どこにあるのか (『 )。 大膚西lul記 』 そ の探索が 1 9 世紀 の 後半 か ら ヨー ロ ッパ諸国 の . ^ . . t が ゛ゞ孔 学者 の 主導に よつて進 め られ た。 1 8 9 6 年にル ミンデ ィにお いてA フュー ラーが発見 した ア シ ョー カ王 ( 前3 世 紀マ ウリヤ朝第 3 代 工) の石柱 に刻 まれた銘文に よつて 釈迦生誕 の 地が明 ら力■こされた。 ル ン ビニーが確定 した , のに ともな い、カ ピラ城 の所在 が課題 とな つた。 法頭 と玄実 の記録 を もとに付近一 帯 が調査 され 、 西南約 13kmの ピプ ラハ ワー (イン ド)と 西北約 Ⅲ ピプラハワー出土の舎利壼 カルジー原m (P Cム 注 目され た。 ともに レンガを用 いた廃墟 が残 され て 23kmのテ ィラウラ コ ッ ト (ネパール)め` いた。 1898年にW・ C ペ ッペ によつて ピプ ラハ ワーの塔婆遺跡 が発掘 され、石棺 の なかか い ら 5個 の舎利壷 、多数 の日1葬品 が検 出 され た。 その舎利壺 の一つ には銘 文が刻 まれ て (中 いた。 た。 そ こには 「シ ャカ族 出身 の世尊 ブ ッダの遺骨 を納 める」 村元)と 読 まれ て ムカル ジー が 、テ ィラウラ コ ッ ト ス ミスの指導 に よ りP C さらに1899年には、V を発掘 し、城 塞遺跡 で あるこ とを明 ら力ヽこした。 墳墓 そ の結果 、テ イラ ウラ コ ッ トはカ ピラ城 、 ピプ ラハ ワー は釈llllの (塔婆)と 考 え ら れ たが、一部 には後者 をカ ピラ城 とす る意 見 もあ つた。 カ ピラ城 をめ ぐる問題 は、1960年代 の後半か ら70年代にかけて再び注 目され るよ うにな った。 その端緒 は 1967年 か ら立正大学 がネパール考古局 とともに着 手 した テ イ ラ ウラ コ ッ トの発掘 によつて 高揚 した。 (前318年頃∼前180年頃)か らクシ ャー 調査 は10余年間にわ た つて続 け られ 、マ ウ リヤ朝 ナ朝 (1∼ 3世 紀)、そ して グプ タ期 020∼550年頃)に 力■すて存在 していた城 塞遺跡 で ある こ とが明確 とな つた。 4 東西約450m、 南北約500mの 南北に長軸 をもつ城 は、周囲に レンガの壁をめぐらし、東 西南北に各 1∼ 2ヵ 所 の門を、城中には 2つ の池 と8つ の墳丘 健 物跡)を 有することが知 られた。 とくに、釈迦の時代 を示す北方黒色磨研土器の出土はカピラ城跡 の比定地 として有力で あることを提示 した。 この発掘に触発 されて1971年か らイ ン ド考古局のK・ M・ ス リヴァスタヴァは、 ピプ ラ ハ ワーの発掘に着手 し、かつて、ペ ッペが発掘 した石棺の下方か ら二つの合利壷を掘 りだ すとともに、付近 の僧院跡か らクシャーナ朝のシール (印章)40数 点を発見 した。 それには 1∼ 2世 紀の文字で 「この僧院はカニシカ王がカビラ城 の僧団のためにたてたJ 「 大カピラバス トの比丘Jな どと刻まれていた。そ こで ピプラハ ワーはカピラ城跡 とす る 見解が喧伝 された。 しかし、出土遺跡 が僧院、 シールは 1∼ 2世 紀 の もので移動性 に富む資料 であ り、かつ 近く C・ 7掘 されたガンフ リヤの遺跡 も僧院であつた。 それに対 して、テ ィラウラコッ トは、パーナガンガ川 (経典にみえるパギラティ川か)が 西 1じこ接 して流れ、遺跡 は大規模 な城塞、出土資料に釈迦時代の土器な どが確実に存在す る など、まさにカ ピラ城 にふ さわ しい遺跡 と言えることが明瞭 とな つたのである。 イン ドの週刊誌 FThe week』(2001 5 13)は 、カ ピラ城問題 を特集 し、テ ィラ ウラ コ ットこそカ ピラ城 としての可能性 が高 い との論調 を掲げた。 Ⅲ 7世 紀の中頃、釈迦の生誕地ルンピユーを訪れた玄美は、アシ ョー カエのたてた石柱 が あり、上に馬 の像があつたが後に落雷 のため柱は折れ 、倒れ てお り、また、付近には沐浴 する池がある、 と伝 えている。 19世紀の末、A・ フューラーは、釈迦 の故郷 の 日跡 を究明するため、ネパールの タライ に至 り、多 くの知見をえたが、なかでも1896年にル ンピユー において発見 したアシ ョーカ エの石柱は、以降における調査 と研究に とつて重要な役割を果たす ものであった。その石 柱には、 「 天愛喜見王 (アショーカ王)は 、灌頂20年に、自らここに来て崇敬 した。 ここで 仏陀釈迦牟尼が生誕 されたか らである。それで石柵 を設営せ しめ、石柱 を建立せ しめた。 に れは)こ こで世尊が生誕 された ことを (記念するためである)¨ J(塚 本啓祥訳)と 記 され ていた。 この地が生誕地であることを証す る史料 となつたのである。 ルンビニーの発掘は、1898年に P・ C ムカルジーによつて実施 された。彼は、石柱の 南と,Llこトレンチ (溝)を 掘 り、東 に隣接 して建つマヤデ ィビ堂の四周に鍬を入れ 、 さら に沐浴池の調査 と全域の測量図を伯 戎した。 この報告は1899年に発掘 したテ ィラウラコ ッ か ら出版 された。 として1901年にイ ン ド考古 局 卜の報告 と共 に一冊 の報告書 つた。マ ビニ 全 域 の調査 と整備 を行 ルン ラナは、 つて J B・ その後、1930年代 に入 の廃 レンガで 2つ の 張 りな どを施 し、そ とき レンガ化粧 の 浴地 、沐 ャデ ィビ堂の解体整備 現場 を見学 した仏教学 の作業中のある日 0933年12月)、 つたoこ つ く を の造形物 の円錐状 を している」 こと、 「 ネパール政府が調査 と修復 の ピー 予算Jで 「 ル 10万 は 者 平等通1召 的模型」について、 「 の つているJと 記 した。この 塔 想像 型を作 の想像的模 の塔 「 で古 廃上 パ Jに な つている、 と述 わ つて感銘す るス トツ をま が周囲 の巡ネ し 者 「 く D・ ミ トラが 多 べ た ことがある。 ルン ビニ を うけて 「 ン ト (当時 国連事務総長)の 意 を ・ タ ウ れた ニ 訪 ビ 1967年、ルン 「 ルンビニ 開 発委員会Jが 構成 され、 だ し、13カ国か らなる き が動 ト ロジエク 」 プ ー開発 とに準備がは じめ られた。 丹下健二の基本設計の も 手 した。 その結果、 のメンバ を 動員 して発掘に も着 一方、1977年か らネパール考古局 土器時代に遡 マヤデ イビ堂の基礎は北方黒色磨研 の 、 存在 の遺構 マ ヤ期 リ カ 石柱の北側に ウ 金製)、アシ ヨ 利壺 (高さ約 3 cmの の 、舎 発掘 群 塔婆 奉献 は 、マ ウリ る ことな どが知 られ、また、 つてル ン ビニ が出上 した。 この発掘 によ ど の破片な み のたてが 石柱 に伴 う馬 ら力ヽこされた。 くの遺物 を出土す ることが明 多 じめ、 は の上器を て ャ期か らグプタ期 にかけ 会は、マヤ堂修復計画 に FTH発 トラス トの意 を承 けて (財)全 日本仏教 ニ ビ ルン 1992年、 上坂悟 (元立 の直下を発掘する ことにな り そ し マ を解体 ヤ堂 て 着手 し、その前提 とし の中心部 の直下か ら70 マ され た。発掘 によつて ヤ堂 に派遣 て現場 とし 当者 正大学証mが 担 0り ::tiL蝙 、 仄 lfl量 曇 12こ 靴 ∬ 」 メ 堪 里 軍 Xl)墜 され を示す標識 と して埋置 た と考 え られ た。 そ 構 の時期 について上坂 は、l ■ の状 態 、伴 出 した。 土器 か らマ ウ リヤ期 と推定 た 中J こ そ 発掘 され 石柵J の 「 てい る 「 まれ 読 め せ じ J と 「 石柱 の刻文 に 石柵 を設営 の 発 掘は大 F t とな り、有 終 の美 を挙 げた のル ン ピニ ( 財 教会 日本仏 ) 全 つた 。 「 石J で あ で ある。 日本 の仏教徒 と研究者 に の発見か ら1 0 0 年目の1 9 9 5 年、 よる石柱 に ツの学者 イ 1 8 9 6 年、 ド ので ある。 印 石J が 発 見 され た ょって 「 ( ネ パール) を 世界遺 産 と して登録 した。 にル ンビニ コ ユ ス は 1 9 9 7 年 ネ か く して、 り転載) 6/29 7/6 7/13よ 夕T ゆ 2 0 0 4 年 (『 東京新聞』 く 釈迦 関連遺跡 調 査 等年表 前 463年 ピラ ヴァス トゥに生まれ る Iカ 前 383年 │ク シーナガラにて入減 (中村元博士説) 7世 紀中頃 1玄 実、カピラ城伝承地を詣でる 1883年 12月 l僧 1895年 1月 北畠道龍 ・山崎辮龍 l僧 ブ ッグガヤに詣てる ブ ッグガヤ、サールナー ト、 クシーナガ ラ サヘー ト、 マヘー トと巡ネ し 1896年 ミンデ ィにお いて 、A lル フュー ラーがアシ ョーカエの石柱 を発見、釈 迦生誕 の地が明 ら力│こなる。 1898年 lW C・ 1899年 iV ペ ッペ、 ピプ ラハ ワー遺跡を発掘 ス ミスの指導により、 P C ムカルジー テ ィラウラコッ トを発 掘 城塞遺跡であることを確認 1902年 12月 l大 ∼1903年 1月 lを 1915年 ∼1918年 l仏 谷光瑞、ノング″ヤ、ラジギールを調査 遺跡の現状を撮影 し略測図 作成 教学者 岡 教速 カピラ城跡を求めてタライに赴 き、諸説を検討 し て 自説 を発表 1930年 代 1959年 ラナ、ル ン ピニー全域 の調査 と幽 府 都大学がブ ッグガヤで発掘 l京 1967年∼1977年 1967年 B lJ・ l立 lク 正大学がカ ピラ城跡を求めてテ ィラクラコッ ト遺跡 を発掘 ・タン ト (当時の国連事務総長)の 意をうけて 「 ルンピユー開発プ ロジ ェク トJ動 き出す ス リr/ァスタヴァ ピプ ラハ ワーの発掘に着手 1971年∼ lイ ン ド考古局のK M 1986年 ∼ I関 西大学、サヘ ー ト ・マベ ー トの発掘 と研 究 1993∼2003年 1997年 ●rl全 日本仏教会、ルンピに―の発掘 と調査、 「 印石Jを 発見 l〈 レレンピニー、世界遺産として登録 2001年∼5月 13日 lイ ン ドの週刊誌 『 The Week』 、カピラ城問題を特集 四 大 仏 跡 とカ ピ ラ城 り、 L国)、悟 りの地ブ ッダガヤ (払陀lll』 釈迦 の四大仏跡 は、生誕の地ルンビニー (藍昆「 これ以外 にも、調 最初の説法の地サールナー ト (鹿野苑)、入滅の地クシーナガラである。 ヘー ト は 国精舎)な どが、 コ 査によ リマ ガタ国の首都 ラジギール (■舎城)、 ーサラ国のサ ついては明瞭ではなか つ 明 らかにされ た。 しか し、釈迦出家の城 ―カ ピラ城 岬 羅城)に た。 の に カ ピラ城 については、 5世 紀 法頭の 『高僧法顕伝』 7世 紀 玄実 『大唐西域記』 記述 がみ られ 、 ドイ ツ人 フェラー はサ ー ガル ハ ワー説 、 日本人高橋順 次郎 ・河 曰 慧海 はパ リガ ワ説 、イ ン ド人 ム クル ジー はテ ィラウラ コ ッ ト説 を唱 えた。現地踏 ‐ 査 を踏 まえ、 このテ ィラウラ コ ッ ト カ ピラ城 説 に注 目し、 この地 を発掘 したの が立正大学 ネパール 考古学調 査団である。 ル ンピユー ブッダガヤ テ ィラウラ コツ トと四大仏仏跡 サ ー ルナ ー ト クシーナガラ (坂詰秀― 撮影) ア シ ヨー カ ( 阿育 ) 王 の 石 柱 アシ ョー カエ ( 前2 7 2 ∼2 3 2 ) は 、マ ウ リア朝の第 3 代 工でイ ン ドを統 一 した人物であ り、 そ の政 治は武 力か ら法 ( ダルマ) へ といわれ る。王は 即位後 北イ ン ドの 要地や釈迦 の遺 跡 に石柱 を建立 した。 この石柱 がア シ ョー カエの石柱 と呼ばれ てい る。 これ よつて 、当時 認識 され ていた釈迦 の遺跡 が 明 らめ│ こな り、石柱 の所在 が釈迦関係 の遺跡 である ことの証 明に もな ってい る。 石柱 は、チ ュナ ール産 の黄灰 色砂岩の一 石で造 られた円柱 で 表 面は研磨 され てい る。 全部 で 、3 0 本ほ どが報告 され てい るが、現存す る ものは破 片 も含めて1 5 例であ り その 大 き さは、7 m と 1 3 m 前後 に三分 され る。 ル ン ビニーの石柱 は、銘 文か らア シ ョーカ王の巡礼 出来 の地 であ り、 ここが釈迦生誕 の場所 と確認 され た。 ニガリ サガール ル ン ピニー ゴー テ ィハ ヮ (立正大学ネパール考昔学調査 団 撮影 ) テ ィ ラ ウ ラ コ ッ ト遺 跡 テ ィラウラコッ ト遺跡は、ネパール王国ルンビニー州 タウリハ ワーに位置す る。 当遺跡 は釈迦が太子 シッタルダとして青年時代を送 り、やがて出家を決意 したカピラ城比定遼跡 の一つである。調査は、立正大学ネパール考古学調査団 によつて、1967年より1977年にか けて 8次 にわたつて実施 された。 調査の結果 遺跡は、東西約450m 南北約500mの南北に長軸をもつ長方形状を呈する城 塞遺跡である ことが確認 された。 また、周囲には レンガの塀 と溝をめぐらし、東西南北に 各 1∼ 2ヵ 所の門、城 中に 2つ の池、 8つ の建物跡 を有す ることが明 ら力ヽこされた。 検出 された遺構は、建物跡 井戸、埋葬遺構な どであ り、建物跡が多く検出された第Ⅶ 構は、①居住施設お よびこれに付随する施設、 号丘においては、総数27軒が検出 された。l● ②基壇状施設、③埋葬遺構、④井戸お よび貯水槽施設 の 4類 に分類 され る。さらに①類は、 そ の構成 され て い る形状 に よ り、 a)1室 に よ り構成 された建物 、 b)数 室 によ り構成 され 一部分 に非居住空間を有 して方形 を呈す る建物 、c)数 室に よ り構成 され 直線状 に西己され た建物 、 d)数 室 が直線状 に配 され 、その主軸方向 の一 面 に前室及び前庭部 を伴 う建 物 、 e)居 住空間 としての機能 は 有 しているが、全容 が不明である 建物 、 の 5種 類 に細 分 で きる。 調査 され た遺跡 の時期は、先 マ BC4 ウ リヤ朝期 マ ウ リヤ朝期 〈 ∼ 2世紀)シ ュンガ朝期 〈 BC 2∼ 1世 紀 建物 I期)、 クシヤー ナ 朝 期 (ADl∼ 3世 紀 建物Π IIl lV 期)頃にわたつてい る。 テ ィラ ウラ コ ッ ト実測 図 ( 立正大学ネパール仏跡調査国 原口) 10 “ 磁 d d 鮨 ” ” ” 〔 ■ ■■□■ 第Ⅶ号丘検出遺構配置図 ”¨ ][ ﹂ [ 精撃 磯 聯 陽 語 第 Π号丘遺構配置図 第Ⅶ号丘中央区域 (南方より, 第 Π号丘調査区全景 (東方より) │」 テ ィ ラ ウ ラ コ ッ ト遺 跡 出 十 造 物 多 (. ‐ 1',: H ',li l │'亡 : 1 1 , 1 1 1 1 i 1 ll , ヽ '1 11て 11 ''41卜:II JIⅢ 11111 1 ,til せ品 │ サ 1 ■` : 1 1 i : : ● 山 ' F I l t i : │ ‖ : │ 「「 │:HI■│,[ : 亡│ : 口 1 . 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OL I つ 畑 D00 毬 0翻 マウリヤ期 リ 妙O③ ③⑬O ③③O シュンガ期 貸 銭 16 一 . i 町一い 概 〓 一 一 ・ t ヽ 一 ‘ 骨角製品 骨製品 ③ 00 oO① OO① ● ① ● クシャーナ期 ル ン ビニ ー 遺 跡 ルンビニー遺跡は、ネ′` ―ル王国ルンビニー州ル ミンデ ィに位置 し 釈迦生誕の地 として知 られている.1896年 にA フューラーがアショー カ王石柱を発見、その記載銘文によつて生誕の 地 と確認 され 以降 何回かの小発掘が実施 され、整備 されてきた。 0オ)全 日本仏教会は1993 年から2003年に力ヽすてルンビユーの整備のための発掘調査を実施 した。その結果 「 印石Jが 検 査には 0わ 全日本仏教会 より委嘱 さ 出され 1997年 には世界遺産 として登録 された 発lll調 れたり あたつた。 陪 (立lE大 学大学坑修T ,こ立iE大ウ ト 常Il littDが 旧マヤ堂 (調査詢 マヤ堂跡 蹴 況 哺 より) 旧マヤ堂 0餞 踪郵ω マヤ堂跡 調査状況 (南 西より) ((lll全 日本仏教会 提供) 17 「 印石」出土状況 (1) く . ・ 一 ヽ 「 印石」出土状況 (2, ●財1全 日本4L教会 '諄 ' 0 ― 5 1価 ― 「印石J存 在状態 ((財)奎 日本仏教会 提供) テ ィラ ウラ コ ッ ト遺跡調査 の経過 1966年 12月 18日 1967年 10月 19日 1967年 10月 20日 1 1 月2 0 日 1968年 2月 25曰 5月 5曰 6月 テ ィラクラコ ッ ト、 予備調査実施 ネパ ール 政府 との共 同調査契約が締結 第 1次 調査開始 現地調査開始 現地調査終了 第 1次 調査終了 ネパール秘宝展開催 1 2 月2 5 曰 1 2 月3 0 曰 1974年 11月 13日 1 1 月2 6 日 1975年 2月 20日 2月 24曰 1976年 11月 30日 1 2 月1 0 日 1 2 月3 0 日 ( 6 月 2 9 日∼ 7 月 1 7 日 於東京 力ヽ 日急百貨店) 『ネパール王国チラ クラコ ッ ト遺跡―第 1次調査の記録一』 (1967 10-.68 9月 12日 11月 1日 1969年 1970年 31日 1月 2月 11日 12月 13日 1 2 月2 8 日 2月 20日 5月 20日 1 1 月6 日 1 1 月2 7 日 3月 10日 3月 20日 1 0 月5 日 11月 を発行 第 2次 調査 開始 現地調査 開始 第 Ⅶ 号 丘西側 部分 を 中心 に調査 魂地調 査終了 第 2次 調 査終了 第 3次 調 査開始 1978年 4曰 3月 3月 6日 現地調査開始 第 Ⅶ Ⅱ号丘 を中.い 2月 20日 3月 12日 3月 19日 1 0 月1 4 曰 1973年 1月 5日 12月 8日 1 2 月2 3 日 第 Ⅷ ・Ⅱ号丘 の発掘 終了 現 地調査終 了 第 4次 調査終 了 補 足調査 開始 祇園精舎 、デー ヴァ グハ城 の仏跡 を踏 査 補足調査終 了 第 5次 調査開始 現地調査 開始 第 Π号 丘 の補 足調 査 開始 魂地調査終 了 第 7次 調査終了 第 8次 調査開始 見地調査開始 遺跡 北地 区及 び現地 周辺 を中心 に調 査 魂地調査終 了 第 8次 調査終 了 『ティラクラコ ッ ト』 徊 版編)を発行 m kOT―発 『TILШ 掘の記録』 現地調査開始 第 Ⅶ 号 丘西側 部分 を 現地調査終了 第 3次 調 査終了 第 4次 調査開始 現地調 査開始 現地調査終 了 第 6次 調査終 了 第 7次 調 査開 現地調査開始 '台 “立正大学ネ パ ー ル 考古学調査報告第 肛" 3月 1980年 1995年 1月 27日 2月 24曰 6月 3月 に調査 1972年 15日 1977年 2) 中心 に調 査 シュ ンガ 、 クシャー ナ 王 朝期 の コパ ー コイ ン2253枚出土 1971年 1977年 現地調 査終 了 第 5次 調査終 了 第 6次 調査開始 7月 1978)を発行 l1068∼ 補足調査開始 補足調査終了 f釈迦 の官殿 カ ピフ 城 を探 る一 テ ィラウ ラ コ ッ ト発掘30年の 回顧― 展J開 催 “立正大学ネパール 考古学調査報告第 1" 『ティラウラコット』 (本文編)を 発行 中村瑞隆 『釈迦 の故 城 を探 る一推定カ ピ ラ城跡の発海』を発行 (『 ティラウラコット』 1よ り) 記念講演会 日 :H月 13日 (土) 場 :立 正大学熊谷校舎l号館 H07教 室 間 :13:30∼ 15:00 題 「 釈迦の遺跡 を掘 る くカピラヴァス トゥとル ンピユー >J 坂諸 秀一 (立正大学博物館館長 ・元立正大学学長) 期 会 時 演 第 2回 特別展 釈迦の故郷 立正大学博物館 編集 発行 発 行 日 2004年 10月25日 〒3600194 埼玉 県熊 谷市万 吉 1700 TBL:048-536-6150 F4X:048-536-6170 E llAIL:mtlsemOris ac jp 株式会社 東プリ
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