人 との出会 い 大連医科大学 との交流 東京 医科大学 外科学 4講 座 田渕 崇文 私 は 人 との 出会 い が 色 々 な ドラ マ を ている。2006年 12 ∫ 生むものと 常々感じ 月 8日 に第 1回 日中稽 iヒ 器外科学術髪 た。彼 らの マ ナ ー違反が社会 問題 とな , :│っ てい る。急速 な経済発展が車社会 を 招き、道路事情は悪く交通マヒで市当 辟 流会 に参加す るために上海市 を訪れた。 1 過去 に幾 度か 中国 を訪 問 して い たが上 海 ' 局 は時間帯 に よっては上 海ナ ンバー以 外 の車 に市内乗 り入れ制限を してい るそ は初めてだった。中国経済 の中心 を担 い、東 京 に劣 らず大都会だと聞いていた。実際 にそれを 肌で感 じたい思いの他 に、兄弟のような付 き合 い うだ。そのため上海ナ ンバー プレー トを取 得す るために高額 な金額 を設定 してい るそ うだ。 ちなみに自家用車 は 40万 元 (日 本円約 60万 円)、 をしてい る大連医科大学外科の胡教授 と会 うため に参加 した。私が想像 していた上海 とは違い、町 並みや人 々の生活環境 はやや乖離 していた。公衆 タクシーは 50万 元 と聞いた。また最高級マ ンシ ョンの価格 は 15億 円だそ うだが、い まだに入居 衛生マナーは決 して良い とは言えず、中国経済の 中心で、なお国際都市上海 を自負す るには相応 し くなく、 もう少 しマナー教育 をす るべ きであ ると 感 じた。現地の方の話では、政府が高額な予算を 上海市 に投入 し巨大都市計画を進めた結果、郊外 や地方か らの人 々の移動、さらに貧富の差が生 じ、 町には物乞 い者や違法商売 が横行す るようなっ 者が い ない と聞いた。2000万 人都市上海 は共産 主義国家 とは到底思 えない。 この状況 は 20数 年 前 に中国を訪れた時か らは想像 もつかない景観で あった。 さて、私が 中国 を訪 問 した のは 1983年 で、 当 時 の上 司 で あ った相馬哲夫教授 以下 3名 で大連医 科大学 、中国医科大学 (旧 満州大学)を 視察 と講 演 を した の が最初 で あ った。 中国 の 人 々の服装 は、人民服 で、 自家用車 もタクシー もな く移動手 段 は歩行 、バ ス、 自転車、会社所有 の車 が走 って い る程度 だった。 日中国交が開かれてはい るもの の、周囲に 日本人を見かけなか った。安 全 のため 外出 には必 ず職員 が同行 して くれ たが、偏見 か も 知 れないが、町 に出る と背中 に何 か視線 を感 じた。 しか し、朝 の散策中 に何人 かの老人に「あなたは 日本人 です か、私は小学校 で 日本人 の先 生 に教 わ ったのです。今 は 日本語 もず いぶ ん忘れ ました。」 とゆっ くりした口調で 日本語 を話 された のには驚 き、 なん とな く安堵感 を持 った。その翌 年大連医 写真 1:第 16回 中日消化器外科学術交流会 大連医科大学の消化器外科スタッフと胡祥教授 (右 端) 科大学付属 第一病院 (旧 日本赤十字病院)と 東京 医科大学霞 ケ浦病 院 との友好交流 が締結 された。 乃 J.Iθ f物 .I"θ7 ″ '″Zυ “ 37 写真 2:1983年 の大連市内中山公園 写真 4:1985年 の訪 問時 何若儀教授の通訳 彼女 は、東京女子医専出身で、 日本の歴 史、 日本 人気 質 をよ く理解 された先生で、その出会 いが今 も続 く私 と大連医科大学 との交流 の契機 となって い る。 医療設備、診断技術 はお世辞 に もすば らし い とは言えず、消化器 レン トゲ ン診断、内視鏡診 断 はお粗 末 な もので あ った。手術室の見 学 では、 給食 で よ く使 われるような大 きなやかんで煮沸 し た水 で手洗 い してい たのには驚 い た。 しか し、消 化器外科手術 の基本的技術 はす ば らし く、 ス ピー デ イーであ った。その後何教授か ら次の よ うなお 写真 3:1983年 の大連市内 話があ った。「 中国 の 医療 は 日本 に比 べ 非常 に遅 れて い るで しょ。 これは文化大革命 の 10年 間 に 毎年、医師、看護師、事務職等 の留学 を受 け入れ、 また我 々 も講演訪問 し現在 も交流が続 いてい る。 有能な医師 を育 てることが 出来 なかったか らよ。 私 も地方に追 いや られま した。だか ら今 、隣人で そ の 第 1回 目の交流が 1985年 に始 ま り、私 を あ る日本 の 医療技術 をしっか り学 ぶ努力 を してい 含 め医師 3名 、看護師 2名 がその任 を命 じられ大 るの よ。大連 は 日本人が創 った 町 よ。 」 まるで母 連 を訪 れた。現地 での言葉、生活 に不安 を抱 い て 親 の よ うな 口調 で喋 られ、 感銘深か った。「折角 いたが、2回 目の訪間のためか幾分心 に余裕 がで 中国に来 られて い るか ら中国国内を旅行 して 日本 きた。食道静脈瘤 の硬化療法 の講演 と治療 の依頼 に帰 りな さい 」 と言 われ る ま まに甘 え、大連 に もあ り、内視鏡、そ の他治療 に必 要 な道具 と硬化 12日 間滞在後、北京、西安 の旅行 を計画 して く 剤 を持参 した。 なにぶん当時 の 中国 の医療状況 は ださった。 十分 に把握 されて い なか ったため 、内視鏡の トラ もう 1人 の 出会 い は当時 29歳 の若 き消化器外 ンスが使 えない こ とが判 り、急遠 中国医科大学か 科医、胡祥先 生で あ った。中国医科大学時代、 日 ら借 りることとなった。中国語 は喋 れない し治療 本語 を外国語 として選択 し、 日本語 クラスで勉強 中の患者、放射線技 師、看護師 との コ ミュニ ケー し、今後 日本 の 医療 を学 ぶ 運命 の 医師 であった。 シ ョンを心配 したが、 日本語の流 暢 な循環器内科 我 々の訪間 は生 きた 日本語 を勉強で きる機会だか の何若儀教授 の通訳 がす ば らし く事 な きを得 た。 らしっか り教 わ りなさい との命 で、大連滞在中は ИF′ ]ル タυι s フbl lθ 助 .I 劉 7 写真 5:1985年 の大連医科大学付属第 1病 院手術室 元 よ り、北京、西安 の旅行 も通訳 を兼 ねて同行 し、 写真 6:2006年 訪間時の大連医科大学付属第 1病 院手術室 精神 で消化器外科 の知識 と技術 の習得 に努力 され 常 に道中の安全 に気配 りし、私 たちに満足 して も た。現在 は大連 医科大学付属第一病院外科 の主任 らえる よ うな真摯 な態度 には心 打 たれた。 また、 教授 と して活躍 してお り、2002年 6月 には初 め て大連 の地 にお い て 第 13回 中 日消化器外科学術 常 に教科書 を片手 に、 よ く質問 も受 けたが、 日本 語 を勉強 して い たのは印象 的 であった。お 陰 で順 風満帆な旅 を満喫 で きた。そ の ときまで中国を偏 見視す る傾 向 にあ ったが、実際、現地 に赴 き、多 会議 を主催 された。 この 日は 日韓 同時開催 のサ ッ カー ワール ドカップの 日本戦 もあ り、学会中 に途 くの人 と接 し、 日で見 て、肌 で感 じた こ とか ら、 中経過 を掲示 し、 また盛大 な全員懇親会 を企画 さ れ、我 々 日本人へ の持 て成 しに気が配 られてい る もっと、彼 らを理解 しなければな らない と思 い帰 ことに感謝 し、更なる両国の友好 が築 かれた と感 国 の 途 につ い た。 この 2人 の 出会 い が 契機 とな じてい る。 り、私 と大連医科大学 の医師 との友好が親密 にな 何教授 は 80歳 を越 えてもなお循 環器 内科 医 と り、1989年 、1991年 、1999年 、2001年 、2002年 、 して臨床 と教育 に携 わってお られる。彼女 は訪問 2004年 、2006年 に講演 等 で招聘 され、大連 医科 の度 に大勢 の前 で 中国 の諺 にあ る「 中国 では水 を 大学付属 第一病院 を訪問す る機会 を得 ま した。訪 飲 む と きは、井戸 を掘 った人 の苦労 を忘れ るな」 れるたびに大連市 の経済発展 、病院の近代化 には と私 たちに感謝 の意 を話 された。 また「中国 と 日 驚 か された。同時に貧富 の格差 も起 こってい る こ 本 は政治的 には色 々な問題 を抱 えてい るが、 医学 と も感 じた。 を政 治 とは関係 な く、両国 の友好 を継続 しなけれ 一方、胡祥先生は大阪医科大学 に大学院生 とし て 国費留学 し消化器外科 岡島邦雄教授 の薫陶 の下 ばな らない」 と強 い 口調 で話 されたの には感銘 し た。この友好関係 が永遠 に続 くことを願 っている。 に医学博士 とな り、常 に 日本 に学べ 、追 い越せ の ″ ′ I″ aυ θ s 恥■ .Iθ No.1 2θ θ7
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