1 - 「プロレタリア文学運動」から - かわふくグループ 朝日第二トップページ

「プロレタリア文学運動」から
『わぁ∼プロレターじゃあ文学運
動できないなんていっちゃあいやよ
』 (文学から文楽へ)
アンニョハセヨ。ありどうございます。
はじめてお手紙さしあげます。内容はもしかしたら「台なし」なもの
になってしまうかもしれませんが、形式は「題がある」世にも奇妙な手
紙かもしれません。というぐあいにまず最初は卑下しとこ。ああ昨日髭
そった。
病院での入院生活のことがよく見えるようになってきた。工場で昼食
のとき入院生活のことを話題にすることが可能になりつつある。
数日前に豊橋の精文館書店で4冊、本を購入してきました。廣松渉シ
ェ
ンシェーの「資本論の哲学」っていうのと、黒田寛一教祖の覺圓式アン
トロポロギー( ウンコオロジー、ワラオロジー、アテハメオロジー、
ボケオロジー、ダメオロジー)それからヨシモトタカアキさんの「甦る
シモーヌ・ベーユ」、ああ、これはおとうちゃんが読みたいっていって
いるので渡してあります。それから中沢新一さん、新ちゃんの「森のバ
ロック」本の帯びっていうのですか、に、表、日本思想の可能性の宇宙
樹
南方熊楠論
せりか書房
定価3399円(本体3300円)っ
て書いてありまして裏は「すべてその種において完全なものはその種を
超越する」(ゲーテ)って書いてあります。ええと、「資本論の哲学」
というのは店にわ(は)ないので、注文しておいたのです。これを買お
うと思ったきっかけは、ああ目的はこれを読もうと思ったからですけど、
きっかけは、あ!ここでちょっと中断させてもらいます。こういうやり
かたって清水さんみたいなああ仲本君なんかもそうだ、そうじゃないけ
どねえ。いま松井君から電話かかってきた。おとうちゃんが「きょうは
三味線の忘年会・・」松井くんのおとうさんが三味線の先生。では。
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きっかけは「資本論」の研究(革命的共産主義運動の理論的基礎)
仲
山良介著
前進社
という本の注、ああ、上、下 あって上の注ちらっ
と見ても見当たらないから、下なのかな、まあいいや、廣松先生の「資
本論の哲学」のことがあげられていて、非唯物論的だ、うむ、だからだ
めだとか書いてある。それでなんとか買いたくなったんです。ぼく実は
廣松シエンシエーにいかれているんです。うむ。ぼく何日かまえにこう
考えた。ぼくこれ物江さんに書いている。ああ今思った。物江ってミョ
ウジぼく物江さんしかしらない。意味通じますよね。
珍しい
ミョウジですかねえ、やっぱり、ある地方には割りとあるのかなあ、仲
本君、これは組織名ですけど、かれの戸籍上のミョウジは珍しいしたし
か、その地方、県かな、で、3軒、数軒しかないから(警察)権力にす
ぐばれちゃうとか、かれに聞いたことがある。しかしたしか組織からも
彼からも本名っていうか戸籍名っていうか聞いたことなくて、組織の外
で知らされたんですね。外って寮にいた人達だ。ジョウセイさん(アダ
ナ)に小野田譲二さんのことをそういう人がいることを教えられたので
した。何年前になるのかなあ。36歳っいうのも意味がある歳らしい。
ぼくガソリンスタンドでは頭が薄いしふけてみえるけど、16歳ってい
ってまして本当は16歳だけどね。36歳っていえば本当の大人だし、
16歳って本当の事、歳言えば子供あつかいされるので、36歳だって
装って、そういう気になってちょっと背伸びして書いてみることにしよ
うと。ああ、何行まえかな「今思った。」というのは意識の瞬間に浮か
びあがったことは物江さんの物江っていうミョウジどういう意味がある
のかな、どういう因縁があるのかなってっていう、神秘的なことです。
中沢新一さんの本によると南方熊楠というなまえとかれの学問意気様は、
ああ、「名は体を表す」とかいうことわざ?あるね。なんかひとつのも
のであるというようにいっている。南方はおいといて、熊は動物、et
c、カムイ カミ
楠は植物・・・
ぼくは内容ありません。「今思っ
た」のはちょっと前に説明したように、物江さんの物江っていう言葉の
意味とかなんだけど、数日前に考えたこと、ああ、ちょっとここで、中
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沢新一さんの南方熊楠の文体の特徴についてかいておられるところ引用
したくなった、「します。」 ああ、ちょっと探してもその箇所がみつか
らなっかったのでやめます。それで「数日前に考えたこと」というのは、
この本文は、ああ本文というのはほかならぬ、うむ今「ほかならぬ」っ
て書いて、3ページ目にはいっている「ほかならぬ」ほかってはならぬ
この本文のことですけど、ああ、赤阪君に途中書になっているワープロ
・レターを送って、読んでもらった感想を言ってくれたのですけど、こ
のことも数日前に考えたことに含まれるといま改めて確認しているけど、
「このこと」っていうのは、その途中書、中途書になっているのも含め
て、
ああ、すいません「このこと」ってなにを言おうとしたのかわす
れてしまいました。赤阪君がとくにその途中書になっているワープロ・
レターの感想で、かれの言ったとうりには言えないのですけど、「非常
に苦労して伝えようとしているのだけど、読んだひとはただふざけ書い
ているようにしかつたわらないというようなことがよくわかる」とか言
ってくれたんですけど、ええと、「数日前に考えたことは」、なんべん
も「数日前に考えたことは」ってでてきますねえ。ぼくこうしてなんど
も同じことにこだわっているうちに「数日前に考えていた」ことを忘れ
てしまうことが、ぼく精神病理学?的なことを今、思ったんですよね。
ぼくの「今」は豊川でしたいなあ研究会通信でも言っているように永遠
の今じゃなくて刹那的、ああ刹那って辞書引いてみよう。【刹那】きわ
めて短い時間。瞬間。いいんだ、永遠の今じゃなくて瞬間の今です。Û
劫( こう)▽もと仏教語。ああ、刹那主義って言葉もかいてあるね。かれ
はなんていう名前のひとでしたか一日中水道で手をあらっている人がい
ましたね。まだいつまでたっても手がきれいになったって気がしないら
しい。しかしぼくは「数日前に考えていたこと」ああ、またいっちゃっ
た。なんだかなんべんもかいているうちに刹那主義者のわたくしとして
は、わたくしは別に自ら刹那主義者になりたかったわけでわないし、自
分がそうなってしまっている必然性なり運命をりかいしている。病識っ
ていう、医学
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用語、この言葉は本で知ったのじゃなくて、まあいいや、病識っていう
のは精神病?の人が自分でそのことを意識している自覚しているのをと
くにそういう自覚のない患者との比較で「その患者は病識がある」って
言い方しているんですね。たとえばだから病識のある患者はみずから直
そうということもおもったりする。症状が悪化したりすると我をわすれ
て自覚、意識云々もできないということもある。今ここらへん書いてい
ること比喩的表現しているわけでわないけど、多分抽象的?で曖昧なこ
とかいていること、賢い表現でないこと自覚しているよ。前テレビのニ
ュース報道かなにかで、シンナー中毒の若者、どういうタイトルだった
かな、まあいいや、ビートたけしは頭がいいと思うから、質的にじゃな
くて量的にだね。タモリのほうが上かなともおもったりする。彼らのも
のを全部取り込んで食べ尽くさなくちゃあ革命はできないと思うけど、
わたしも頑張って見ようと思うけど、こんなようなタイトルだって頭悪
いから、馬鹿だからパッパッパッてでてこないもんね。もしそういう力
量があれば、回りくどい、ワープロ・レター文学運動はしないよね。あ
あ、そうだ、ぼくの組織名、警察権力に情報が漏れた可能性のため変更
さるべきお達し(上意下達)があって2つ目は亜草(あそう)、あ、そ
うだというのは、ぼくいちよう、なんていうか公にむけて書きはじめた
豊川でしたいなあ研究会通信、ああいっちゃおう『便所』というのが行
き詰まってしまったので、私信っていうかワープロ・レター文学運動を
はじめたってこともあるんですよね、もちろん豊川でしたいなあ研究会
通信と、裕ちゃんワープロ通信は顕教と密教という関係にあるんですけ
どね、ええ、物江さんに書かしていただいているこの本文も裕ちゃんワ
ープロ通信とは銘打ってわないけど、裕ちゃんワープロ通信ですよね。
なんで「ほかならぬ」「ほかってわならぬ」って形容?したりするかっ
ていったら、ある人にシュタイナーを通じてかかわっている人だけど、
豊川でしたいなあ研究会通信のほうだけど「おれに『便所』紙をおくり
ゃあがってふざけている」っていってほかした人がいるからなんです。
もちろんそんなものすごい機知にとんだいいかたをしたわけじやなくて、
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やっぱ
り彼の言ったとうりにうまくいえないけど、ゲーテでさえなんていうか
個別的事象っていうのかそういう認識をひとつひとつ積み上げて世界観
っていうものをきずきあげるのに、というような言い方したと思うです。
ふざけているとかそういうような感じ。
「このこと」っていうのはもしかしたらこういうこととかんけいある
ことかなあ、「こういうこと」っていうのは物江さんに書かしていただ
いてるワープロ・レターもそう銘打ってないけど裕ちゃんワープロ通信
だけどなんで銘打たなかっていったら、小野田さんに書かしてもらった
裕ちゃんワープロ通信は銘打ってないばかりか題もない。
あ!突然ですが「このこと」についてわかりかけたとき思い出したと
き、そのまえにそのためには、あるいわ(は)そのためにも「こういう
こと」についてのべなければならないことに気付いたらしいけど「こう
いうこと」を何をいおうとしていたのかまた例によって忘れてしまいま
した。それで、小野田さんのときもそうでしたようにぼくは吉本隆明さ
んにまた助っ人になってもらうことにしました。ぼく今日、たまたま
『重層的な非決定へ』という本、それの「小林秀雄について」というと
ころを読んだ。おもむろに引用する。「わたしたちはこういう遅延や立
ち消えの現象が、意識の原因に内在するときにそれを「自意識」と名付
ける。この「自意識」という遅延または立ち消えは、いずれにせよ行為
にまつわる強い制止と、意識の奔騰とのあいだに、分裂としてあらわれ
ることは疑いない。この「自意識」という遅延あるいは(ああ!「ある
いわ」でなくて「あるいは」だ!・私)立ち消えにどんな時代的な必然
(時代意識としての必然)があるのか。あるいは(ああ!また「あるい
は」を確認・私)単に人間的な不幸の表象にすぎないのか。この問題が
文学という言語表象の行為に外化されたとき、自己解剖を伴わない対象
解剖も、自己批評を表象しない対象批評もありえないことは、西欧の近
代批評がまず開示してみせたことである。」
いわば「自意識」
という病を、深いしつぜん(「しつぜん」じゃなくて「ひつぜん」だわ
ね。私よりあなたの方がすぐれているは・裕ちゃん)として病んでいな
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ければな
らなかったはずだ。病むことなんぞ、どんな病でも自慢にならない。」
『裕ちゃんがこの自意識という病をいちばん鮮明に暗喩しているのは、
自意識の座であるコンピューターを、じぶんの身体の外に視覚的に視て
いるイメージによってであった。』
そういうわけで「このことも」またそのための「こういうこと」も
「立
ち消え」てしまったけど「何日か前にこう考えた」ことをまた言おうと
またおもった。手をあらってもいつまでたってもきれいになった気がし
ないから「何日か前にこう考えた」こともきょうで一日、「遅延」して
加算されているけど「何日か前にこう考えたこと」を言おうとおもう。
今言わんと「何日か前が」「何十日か前になってしまうから」またこん
なこといっているあいだになんか「立ち消え」になってしまいそうだけ
どね。いやどうもここまで努力してみたけど、どうも「何日か前に考え
たこと」といえそうにない気かしてきた。もしかして、結果としていっ
ていることになるか、「問わず語り」的に言えてたりする可能性はある
よ。
それで、とりあえず、刹那主義者としてのわたくしが今思ったことを
またかいてみる。どっちみちぼくは語学、日本語だけどね、語学力って
とりあえず日本語のこといっているんだけどね、ええ、どっちみち語学
力自信ないから、この刹那主義って言葉に、わざわざかぎったことでは
ないと実際おもうのですが、いちおう言っておくと、刹那主義っていう
ことば普通の意味合い、使われ方として使ってはないよ、しかし、待て
よ、普通の意味合いでぼくは正しく使っている可能性もあるな。いやし
かし。数行前で「今思ったこと」浮かんだ表象についてとりあえづ書け
なくなるかもしれん。じつはさっき「今思ったことは」こういうことで
す。「名古屋で自由への教育についての日本人畜学狂会社(あ!人畜学
狂 など差別用語云々についてはとりあえず端緒的には小野田さんあて
のワープロ・レター参照、それに例えば、これは例えとしては実に大袈
裟ではあるが、まあ例えは例えとして例えば、いわゆるチュウカクとカ
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クマル(うむ、ちょっと言い方はむつかしいわたちの立場性としては)
との分裂過程で本多書記長による黒田批判の政治論文、「革命的共産主
義運動の基本路線とはなにか」著作選第5巻のP198になるけど、一
段落引用しちゃう。
「ところで、『前進』106号の山本「政治局員」(あ!たぶん関係
ないけど、山本というのは黒ちゃんの当時の組織名、ペンネームなんだ
けど、ベトコンの本名っていうか戸籍名は山本っていうですよねえ。・
私)の批判の第一点が、労働運動主義への基本路線の歪曲にあったこと
は、すでにのべたとおりである。だが、一読すれば明白であるが、この
山本論文では、「戦闘的労働運動を<防衛>するための労働運動におけ
る戦術の精密化」の「背後にある思想は労働運動主義(あるいは大衆運
動主義)でしかない」(ゴジ(ここではアンダーライン・このワープロ
ではゴチックの文字はかけませんから・私)は筆者)ということが突然
に論断されているだけで、なぜそうなのか、どのような組織活動のなか
でそのような「偏向」があらわれたのか、という理論的な検討が完全に
ぬけおちているのである。だからこそ、山本「政治局員」は、「党建設
論」という自己弁護的な論文のなかで「・・・というように断定的にい
いきったかぎりで、それは誤りである」とやむをえず自己批判せねばな
らなかったのである。〔このような批判の方法は、宗教的託宣とまった
く同一であり、また筆者(山本=黒田)すら「断定」だったといってい
ることに、すぐ賛成するアワテものがあらわれるのだから、イデオロギ
ー的疎外との闘争は容易ではないわけである。〕」(破線は私、裕ちゃ
ん)
例としてはものすごい大袈裟なものを引用してしまったのですけども、
日本人畜学狂会社という言葉、とくにアンダーラインの「狂」という言
葉、言語、概念、戦略???を動因として浮かび上がった意識の芽?
(あ
あ、この一、二行の言い回し、相手によく伝わらない、どういう意味か
つかみにくい、だから、多分わたしもよく分かってない、うむ、言葉と
実体?がかみあっていない。ぼくの文章は全部そうでもあるかもしれま
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せんが、「あ、そう」。とりあえず、表現できたことを、たぶん、喜ん
でいる。と思うし、「喜んでいる」ってこうして説明できたことに、い
っそう喜んでいるみたい。いまから『21世紀を生きる子どもたちのた
めの子育て・教育と学校』
講師汐見(塩見じゃない)稔幸(東京大学
助教授)というのなんかしらんけど聞きにいく、あとで分科会というの
もある。では。とつぜんの∼∼)との関連では、さしあったって、破線
を引いた、「イデオロギー疎外との闘争・・」ということが特に言いた
かった、引用したかったことだと思うのですが、ああ、なんとなく、ま
のびした表現になったって気もしちゃうけど。
ああ、また突然「立ち消え」にしたいっていうか、「保留」しちゃう
けど、なんか、どうも「何十日」ってなってしまいそうですけど、この
手紙なかなか進まないみたい。最初に書いた本の紹介は豊橋の精文館で、
でしたけど、豊田の精文館で、納品配達の途中、買った本のひとつに、
橋本治さんの「ぼくたちの近代史」っていうのを買ってきました。まあ、
この本は2、3日で、パーって読めましたけど、ええと、ぼくが、文章
表現、うむワープロで、ですね、できるようになった、きっかけは、こ
の人との出会い、もう少し具体的にいうと、ええと、シュタイナーでの
お付き合いで知り合ったひとなんですけど、辻ゆかりさん、結婚して譲
歩、いや上保ゆかりさんになったけど、ぼくはもう「素人」の実名はど
しどし書いってってしまうぞ、カルマだ!!うむ、まあとにかく、ああ、
ぬいぐるみのうさぎにつけた「ゆかり」ちゃんはこの人からではありま
せん。まあ、彼女が、電話でどんな本よんだことあるのかとか話題にし
たのかな、そうじゃないな、だけどぼくに橋本治の『恋愛論』をよんで
みたら、とか促されたんです。なんっていうか読むとホットするとかい
われて、ぼく橋本治の名前なんとなく知っていただけだし、いちども本
をパッて開いて見たことさえなかったけど、男のひとで、なんか編み物
をやるとかのはなしを、NHKの教育の「YOU」とかゆうような番組
でチラッと見たことがある記憶が電話で話しを聞いて、そういう変な人
のこと脳裏に浮かんだんですけどね。このことにかんしてはある「題な
し」のワープロ通信にちょっと書いたけど、これも送る、これだけじゃ
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ないけど、「もしかして、結果としていっていることになるか、「問わ
づ(あ!「ず」じゃなくて「づ」ですか?)語り」的に言えたりする可
能性あるよ。」ってことにつながったりするかな。それで、まあ、それ
よんでね。まあ、ぼくは日本人畜学狂会社というのは性治結社って言っ
ているんです。この辺でいうかな、はっきりしないけど、いま言おうと
としてることが、「何日か前にこう考えたこと」とか「こういうこと」
に当たることかな、いやしかし、午後9時になったので、向こうのいえ、
古い家、前住んでた家に、神想観してきます。うざったくてすいません。
まあとにかく。
また、やっぱり、言えなくなった見たい、「いえないのよ∼、いえな
いのよ∼」(工藤静香)です。またして、唐突ですが、橋本治さんのこ
の本からちょっと興味ぶかいところを引用します。ぼくが、橋本家から
連れ出されて、また光愛に連れられて来たとき、物江さん、ぼくがいろ
いろ言って、それに対して、物江さん 「 (はなしが)アトランダムだな」
って言って、僕いまだにそうなんです。吉本さんが「「重層的な非決
定」とはどういうことを意味するのでしょうか?」ああ、この大和書房
のほんの裏側の帯を今見て、写しているんですが「平たくいえば「現
在」の多層的に重なった文化と観念の様態にたいして、どこかに重心を
置くことを拒否して、」ぼくは、あるところに重心をおくのですけど、
「層ごとにおなじ重量で」ぼくは、どこに比重をくわえたらよいかわ自
信ないけど、しかし比重は変えて、「非決定に対応するということで
す」、ぼくは言うならば重層的決定するわけです。決定するのはぼくじ
ゃなくて、もう決定してあるからね。ところで「重層的決定」論という
のはアルチュセールって人が言っていることなんですね。僕今「ヘーゲ
ルとマルクス」のまえがき見ながら書きました。たぶん推察すると吉本
さんが「重層的非決定」って言葉、戦略?理念?考えついたのは、それ
にたいするアンチ的に思い付いたのかなあってねえ、思ったりもするん
だけど、アルチュセールのことなんか全然知らないし、しらないなら、
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ここで、黒ちゃん
書いていること、信じればいい、となればカクマルになっちゃう。黒ち
ゃ
んにしても、吉本さんにしても、どだい裕ちゃんの歯の立つあいてじゃ
ない。そいじゃあ別の方法を考えなければならないというわけで、それ
は歯が立たないなら、ナイフで切り刻んで食べればいいというようなこ
とでもないらしい。なんで裕ちゃんが、アル中的アルチュセールの『重
層的決定』をもちだしたりしてるかっていったら、勿論、正月のお餅、
鏡餅、餅論、こんなこというの恥ずかしいけど、おまえ、そんなのも相
手にしてるのかって、ちょっとはずかしいけど、読んでないけど、「限
りなく透明に近いブルー」なんてのも、恥ずかしいけど、意識しちゃっ
て「重層的非決定から重層的決定へ」じゃ全然おもしろくないから、
「限りなく、ネオ・ファシズムに近いニユーファシズムへ」ってしたん
です。シュン。カクマルもチュウカクも自分ではマルクス主義だ!って
言ってて、だからあいてはファシストだ!って言ってるんだよね。「レ
ーニン主義の継承か・解体か」のはじめに、ああ、本を見る。ああ、ち
がった、これも「革命的共産主義運動の基本路線とはなにか」に書いて
あった。ぼくの思惑っていうか、いまから引用する一フレイズ?にあた
る部分を想起したんだけど、ちょっと意味合いっていうか、探して読ん
でみるとちょっとズレがあったみたいだけど、いちよう引用する。p2
06「かつて、左右の日和見主義についてレーニンが分析したさいに、
共産主義者の正しく把握された史的唯物論は、社会発展が不断に新しい
ものを生み出すこと、しかも、質的な意味において新しいものを生みだ
すということから出発するといったことは、意味ぶかいことである。
(アンダーラインはわい)」というように本多書記長が言っているのは
実に意味ぶかいことだと思う。
ええと、物江さんにちょっと聞いてみるけど「ヘマ」のまえがき、う
む、一センテンス引用します。「もちろん、若きマルクスにおける、そ
して若きヘーゲルにおける、とりわけ「経済学と弁証法」という問題を
・・たとえば、G・ルカーチのように・・厳密に追求したり、あるいは
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新たに発掘されたモーゼス・ヘスなどの諸文献との関係において、(ア
ンダーラインはあたし)さらにフランス空想的社会主義者やイギリス古
典派経済学を批判的に摂取する学問的活動とのつながりにおいて、マル
クスの思想成熟の歴史的過程を再現したりすることは、それ自体われわ
れにとっても重要な作業である。」というようなことは、特に廣松シェ
ンシェーのことを念頭にして言っているんだよね∼え。ちがうかねえ。
まあいいや。
ええと、ぼく、「立ち消え」ばっかっていうか、たとえば、橋本治さ
んの文章を引用するっていってしてないよねえ。それだけじゃなくて全
部そう、っていうか。まあいいや。本当によんでもらえるかなあ、なん
てねえ。まあいいや。
今『死霊』とい本パッて開いたら『自同律の考究』というのが目には
いった。
今、ぼくムタグチ(漢字?)さんのことを思い出した。ぼくに、どこ
かの新聞社かなんかの懸賞論文をだしたそうで、うむ、落選だったと思
うけど、うふ。でぼく読ましてもらったんです。なんていうか、どうし
ようもない、ガラクタ、っていうか、水準以下、以下、以下、ていうか
なんていうか、どうしようもないしろものだったんですけど、箸にも棒
にもかからない、という比喩ではもしかしたら言い過ぎかもしれない。
いやそうでないかもしれない。だけど、そんなひどいこといえないので、
「うむ、そんなたくさんのことをかこうとせず、もっとテーマを絞って
書くべきだ」とか感想を述べました。だがしかし、ぼくのこの本文はム
タグチさんの比ではないですよね。水準、以下、以下、以下、以下、以
下、以下、以下、これくらいにしておこう。こりは文でなくて言わば
「非
文」だ。ムタグチさんの書かれたその論文がどういうテーマ、内容だっ
たか思い出せないんだけど、ムタグチさんはたしか学習院大学で、(学
習院大学に入学し、卒業した、等等の意味・・説明不要なことを説明す
る病的自己表出)サークル活動で、(QCサークルではないし、サーク
ルKでアルバイトしていたわけでもない・・同)アジア・アフリカ研究
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会に入っていてっていうか部長していたそうな。ぼく『経哲草稿』のこ
とも話題にしたことがあったように思うし、彼とこういうこと話した。
「共産主義社会というのは、(ああ、恥ずかしいから、いまならソマリ
アの例を引くけど
「全共闘の不思議さっていうのは、ある意味で、男の側ばっかりがい
われてるんだけど、僕に言わせれば、「全共闘女(あ、「ぜんきょうと
うおんな」変換キーでそのままでた・・裕ちゃん)」っていう、特殊な
もんを考えないとダメなんかじゃないかなって。全共闘女っていうのが
実は、ウーマン・リブの世代でもあるんだけど、全共闘女はみんな、
「絶
対に私は、ウーマン・リブやらないもん、嫌いだもん」って言うんだよ
ね。一回は女性、女であることを自覚して、女性問題に首をつっこむん
だけど、でも絶対にそこに深入りしないで、でてきちゃうのね。出てき
て何かを保留にしちゃうの。だから「女なんだけど、女の問題には入り
たくない、でも、女の問題が通らないのいのは私は、イヤだ!」ってい
う・・そういうある種の保留状態の中にいるようなものが、全共闘女な
んじゃないかと、僕は思っちゃうんだけど、じゃあそれは、何なのかっ
ていうと、あれは、「スカートはいた男の子」なんだ。そのことが、ど
ういう意味を持つのか、彼女達の中でよくわからないから、それでなん
か、ず・っと沈黙しているんじゃないかなって思う。」(橋本治著
「ぼくたちの近代史」)
ゆかりちゃんってかわいいやあ!
うむ∼、この橋本治さんの「言葉」を引用している間に、3つか4つ
のこと脳裏を掠めた。それを書きはじめるとまた得体の知れないものに
一変に引きずり込まれて、ええ、どっちみち、(充ち、満ち、未知、道、
美智)その得体の知れない物にとりくむのであるが、最初から実はそれ
にとりくんでいるのである。え∼え!だけどそのためにも、直感的にそ
う思ったのだけども、ああ、ぼくが、いろいろたくさん引用するってい
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うのは、自分ではうまくしゃべれない、自分の「言葉」がまだないので、
いろんな人に代弁してもらうってことだと思いますが、「直感的に思っ
た」ことはそういうことではない。これは「3つか4つ脳裏を掠めたこ
と」のひとつかなあ。もしかしたら。なんで「もしかしたら」っていう
かっていったら、ぼくは瞬間人間(刹那主義者)だから、本当に、ぱっ
て脳裏を掠めて、よしこのことを書いてやろうと思うと、書いているう
ちに「遅延」「立ち消え」がおこってかけなくなっちゃう。そういうこ
とはだれでもあることで、そういうときは、ああ、「筆を折る」なんて
言葉あるなあ、意味合いはちがうものだと思うけど、「筆を折る」って
そういうときに使うじゃないけど、そういうこと「あることが、脳裏に
かすめて、よしこれを書いてやろう。だけど書こうとしたが、うまく言
葉が出て来ない。あるいは「遅延」「立ち消え」になってしまう」って
ことだれでもあるけど、たぶん?(「たぶん?」っていうのはそう言い
切ってしまってはいけないかもしれないから「・・・というように断定
的にいいきったかぎりで、それは不的確な表現であった。」)
ぼくは、なんども同じこと繰り返す(「遅延」「立ち消え」とかね)
けど、彼が一日じょう手を洗ってるのは、まだやっぱり手がきれいにな
っ
てないからだよね。そういうこととオーバーラップさせて考えてくださ
いね。また、これは大袈裟にもおもえるけど、もしかしたら「当たらず
とも遠からず」だったりするかもしれませんね。引用します。「だかこ
の弁証法が正しく遂行されると、(ええ、裕ちゃんは「正しい」ってい
うことは断念しました。わたしの場合、どっち未知、弁証法は便証法→
便しよう法→便しょ法→便所法になってしまうから。)適切な規定とそ
の体系的連関の明瞭性と豊かさに向かって着実な進歩(インポ・・赤阪
君。チンポ・裕ちゃん)が起る。それゆえ同じ規定がさまざまな情勢、
さまざまな次元で回帰してくるのを、単なる反覆からきびしく区別しな
ければならない。」(G・ルカーチ(橋本治さんのときは「著」ってつ
けたけど、わざと統一性?企画性?をもたせないために「著」っていれ
なかった。なんでこういうことをわざわざ書くか、うむこれは新柔道の
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「わざ」さ。とひとまず言っておくけど、ええと、中沢新一さんのやっ
ぱり著作だけど、「著作なんて堅い言い方しないで本って言えばいいの
に、本とにこの子ったらいやだ、急にかしこまっちゃって」それじゃあ
気持ちを楽にしてお話しさしてもらいます。どうしても裕ちゃんこうい
う堅い文章淫用するとインポじゃなくてチンポになってしまって堅くな
っちゃうんです。硬いっていっても柔らいんですけどね比較の問題で、
まあ新柔道だからね。中沢新一さん。ぼくお茶大で会った。裕ちゃんリ
ー君つれて、セーラー服着とったけどね。この話しは股にしよう。中沢
新一先生の「ゲーテの耳」っていう題の本があって、こういう種類の文
章はエッセイっていうのかなあ。ぼくわからん。まえ、おとうちゃんか、
おかあちゃんに、テレビのなかで(ああ、「テレビのなか」って真空管
っていうのはいまないのか、どうなっとるか全然わからん、「うん全然
わからん」といったかぎりでは、不的確な表現だけどまあいいや、テレ
ビのなかっていうのは番組のことだ、それでもまちがいだけどまあいい
や、ひっとすると番組の予告の番組のなかでかもしれん・・しかしこう
いうことは説明しなくても普通はわかる、このことはまえにも書いた、
にもかかわらず、「遅延」「立ち消え」「手洗い」「いいきったかぎり
で、」はまだ繰り返しでてくる理由は何か、ぼくの潜在意識がつきうご
かしていたのた。いまそれがチラット顕在意識化した。そのことにいつ
触れられることになるかわからないが、いや半分?はふれはじめている
のであるかもしれないが。)エッセイっていうことばが出て来て、「エ
ッセイってどういう意味だん」って聞かれて「随筆っていう意味だよ」
って答えておいたけど、エッセイって英語だよねえ、カタカナの「エッ
セイ」は日本語だけどねえ、そういう意味じゃなくてねえ、普通は哲学
者みたいに厳密に表現しないからエッセイって英語だよねっていうのは
フランス語でもドイツ語でもないよねえって普通とってくれると思った
だけど、ちょっと思い浮かんだのは、インド・アーリア語系とかいう言
葉ありますか。ぼく語学力全然だめで!相対的なもんだし、裕ちゃんが
最高レベルの人と比較するからのはなしだけど、まずそれは日本語なん
だけど、地球上の言葉は全部日本語だというような見方もありまして、
- 14 -
英語も全
然だめだけど、あ!ちょっと引っ返します。
ああ、まだやっぱり引き返すのやめて、いまテレビみるとクイズ番組
ばっかやってるね。ゴールデンタイムって言葉浮かんだけどどういう時
間帯かぼくわからん、工場から帰って来て、ご飯たべて、7時からは、
NHKのニユース見て、7時から8時ぐらい、べつに新聞のテレビ番組
欄意識してみたことないし、今から、見て来るなんてしないから、わか
らんけど、たまたま、そういうクイズ番組みてたことがあった。すぐ具
体的にパッパッって説明、描写できなくて癪だけど、だってたしかレー
ニンが哲学ノートで「真理は常に具体的」というようにいっているって
馬鹿のひとつ覚えで知っているだけで、『おまえ、それじゃあ展開して
みろ』っていわれると「レーニンが真理はつねに具体的っていっている
よねえ。」としかいえないよね。イタリアのベネチ家?の話しがクイズ
番組で出て来て、出て来るんだけど、橋本治さんならこんなこと知って
るなと思うけど、あ!ベネチ家じゃなくてメディチ家かな、自信ない。
ぼくなんとなくルネサンスっていうのがあって文芸復興って訳すのかね
え、何世紀のことかって、7、8世紀か、があって、自信ないけど、そ
の前はギリシャだよねえ、そのあとスペインとかかねえ、ギリシャより
まえはトルコとかその前はイランとかイラクのへんかねほいでやっぱり
インドかん。はじまりは。だから、フランス料理って一番良く聞く感じ
がするんだけど、うむ一昔まえはか、中華料理(ふつう中国料理ってい
わんねえ)一昔前ってどれくらいまえってのはあるし、そのひと昔まえ
のフランス料理、中国料理(ああ、わざとまちがえた)というのも、日
本での話しかもしれんけど、フランス料理と中華料理は世界的っていう
か、ひろくいろんな民族、国民に親しまれているような気がする。いま、
たぶん日本ではかなあ、いや、いや昔の日本とちがって、日本ほど、同
一性っていうか、異質なものが同居してない国もめずらしいのか、まだ
ぼく日本列島をでたことない、でたことないどころか九州と四国はいっ
たことがあるけど、北海道と沖縄いってないけど、昔とちがっていろい
ろな国々の料理店があるね。だけどドイツ料理とかイギリス料理って聞
- 15 -
いたことがないねえ。韓国料理っていうのもよく週刊誌なんかでも見る。
ベトナム料理というのはどうかな、言っとくかな、韓国料理っていうけ
ど、朝鮮料理っては今はいわない。カレーはインド料理だとたぶん思う
けど、あまりにも日本化、一般化、いやもしかしたら、世界化している
かもしれん、カレーって日本以外でも、そしてインド以外でも日本みた
いによく食べる民族、国があるのかなあ、インド料理だなんて意識しな
いよねえ。カレーはカレーだよねえ。豊川でしたいなあ通信ででてくる
カレー屋、「インド」っていうんだよね。味な名つけてるよね。
まあ、フランス料理と中華料理が一般化してたけど、中華料理はおい
といて、いやぼくはエッセイの話をしているんですよね。やっぱりぼく
の文体もエッセイ風かねえ、エッセイっていうのはカタカナ、片仮名だ
よねえ、英語かもしれんけど、ぼくこれ「字源」か国語辞典でしらべた
んだけど、なんかの「裕ちゃんワープロ通信」でも書いてるけど、仮名、
仮名は平仮名、片仮名ってあるのですか、送り仮名ということばもある
ね。ええと、これは漢字、なんか字源をみたりすると、読み方に、漢音、
呉音、というのがあるけど、いま岩波の国語辞典しらべた【呉音】日本
漢字音の一種。六朝( りくちょう)時代の中国の呉の地方の音が伝わり、仏
教語に多く用いる。例、「弱」を「ニャク」という類。六朝時代ってい
っ
ても何世紀か見当もつかん、ルネサンスは間違っているにしても、なん
となく見当がついたけど、もちろんそういう素養が皆無であるとどうじ
に、昨今の一般的メディアでとりあげられないという事情、状況もある
のだろう。ええと、中国の漢の時代にできた言葉を漢字っていっている
んだよね。こういう言い方しかできない。まずこういう風に言っとこう。
辞書で読んだだけの知識だけど、仮名、仮の名ってなんにたいしていう
のかっていったら漢字を真名っていうんです。だから漢字が真で、最初
は万葉仮名なのかねえ、日本語っていうか日本でできた言葉は仮の名と
いう意味もふくんでいるんです。ぼくは、エッセイということばのこと
を話しているんです。エッセイは英語かだよね。ということで、エッセ
- 16 -
イは日本語です。いや中国語です。いや、エッセイのこと言葉のことを
を話すために、料理の話をしていたのです。それで、そのクイズ番組で
メディチ家の話しのなかで料理のことがでてきた。ええと、この話しは
別の番組で手に入れた知識かもしれないけど、なにが言いたいかってい
っ
たら、一昔まえまで、フランス料理、ああ、そうか、今思った、フラン
ス料理って高級なものっていう感じがある。いやあったっていうべきか、
なんだよね。イタリア料理っていうとスパゲティ。スパゲテイっていう
とカレーと同じでイタリア料理ってすぐむすびつかない。ああいう麺と
いうものは、もともとは中国から来たものだときいたことがあるけど。
もともとはなんてどんどんさかのぼって行けば、なんでもそうなっちゃ
うけどねえ。これはあたりまえといえば、あたりまえだけど、そのころ
のことははよくはしらないけど、(よくしらないことはそのころに限っ
たことではないけど)イタリアは先進国でフランスは後進国なんだから
ね。とくに高級感のあるようなフランス料理の原型みたいなものは、イ
タリア料理にあるんだって知ったことです。具体的にはしらないけど、
おとうちゃんとおかあちゃんを招待した「あざみ亭」での、岩田雄二さ
んの料理なるイタリア料理は麻薬を飲んだような、もちろんぼくはやっ
たことないけど、飲んだらそんな良い気持ちになるだろうと思えちゃう。
突然ですが、また何日か中断していて、だいたいいつこの本文をかき
はじめたのかはっきりはしないのでもありますが、昨日だか初めから読
み返して、ある気分が生まれました。それでそのことを書こうとしたの
ですけど、昨日は書き始める前に寝る時間になってしまいましたので書
けませんでした。今日、すぐには昨日の気分がうまく生まれて来なかっ
たので、また初めからよみかえしてみました。また別の気分が生まれた。
その間に、小野田譲二さんの「権力への意志(一)勇なき革命志願者た
ち」という小論を飛ばし読みして、『経哲草稿』と『ドイツ・イデオロ
ギー』のぼくの理解出来た関係を読みながらおもいだしたりしたのです
が、昨日読み直して思ったことは、ああ、小野田さんの発行している雑
- 17 -
誌は劫(カルパ)って言うんだ、ぼくの刹那、刹那主義と反対だなあ、
なんてこともひとつには思いついたりしながら、ええと、探してみると
劫(カルパ)の4号になるんですけど、その「あとがき」の部分のこと
を思い出したんです。長いけど(1)っていうとこ全部引用させてもら
います。「(1)二号から四号までの三回にわたる吉本隆明論は終った。
合計七百枚に及ぶものになってしまったが、なんとも無駄が多すぎてい
けない。とくに、二号については、今読みかえしてみると不満だらけだ。
それでも「前世代の詩人たち」「高村光太郎」については、かなり改
善されたと思っている。文章を抑えることができたのである。しかし、
「マチウ書試論」については、文章を抑えて書くだけの余裕というもの
が無かった。不満であるが、仕方ない。
「前世代の詩人たち」や「高村光太郎」においては、文章に気を配る
余裕があったといえるが、「マチウ書試論」では、論じることが精一杯
だったのである。こういうことは、結局、私の実力というものを示して
いるので、あがいたところでどうなることでもないのだ。」
ええと、それから今日は、思いついたこと、「気分」というより、思
っ
たことなんですけど、このことが思い浮かんだぼくの気分について思い
を傾けてもらいたいですね。調べてみたら、「まえがき」に出て来るか
なと思ってたけど、そのつぎの解題にでてきたけど、ああ、解題って普
通本の最後の方かとおもったらこれは「まえがき」のつぎにでてくるの
ですけど、ええと「勝利にむかっての試練・安保問題革共同重要論文集
・」って本です、解題に、引用します。「編集にあたって、それぞれの
論文にくどいほどの重複や、闘争の中心部にいた者でないとわかりにく
いような説明不足、今の時点から見ると解明不足の点などが散見された
が、加筆修正を施さずに収録した。」
日は寝ます。
- 18 -
ああ、0時ちかくなるので、今
アトランダムばっかしで、何がいいたいのかちっともつかめないだろ
うと思うのですが、もう少し辛抱、御足労願います。ぼくにもどうなる
のか見当がつかないのだから。さきほど、とりあげさしてもらいました、
小野田さんの小論、中論かな、断章だとおっしゃっている。「断章」っ
て意味なんとなくしか理解してないので自信がないから辞書ひいた。辞
書では「①文章の断片
②詩や文の一部を取り出して引用すること。 」
という意味となっている。ふうん、とくに②について、そういう意味が
あるのか。断章だとおっしゃっている(①の意味ですね)さきほどの
「権力への意志(一)
勇なき革命の志願者たち」の序言。ああ、この
序言一部じゃなくて全部取りださしてもらうことにした。(厳密に考え
るとちがうかもしれないけど、いちようは②の意味の「断章」になるか
もしれんけど、ちょっと意味合いがちがうかもしれないし、普通(ぼく
の感じている限りでの普通)には、断章って小野田さんがここで使って
る使い方しかしないように思える。)この序言を全部引用させてもらう
んですけど、大変失礼だとは存じますが、ええ∼、小野田さんにもこの
「ほかってはならぬ」本文を含めて送ろう、送らしていただこうと思っ
ているけど、大変失礼だとは存じますが、どこでおっしゃってかおもい
だせないけど、「体験的政治論」のなかでしたか、「吉本隆明論」のな
かかでしたかに、御自分の諸論文等を「素材」としてあつかってくれて
よろしい趣旨のことをおっしゃておられますし、から、失礼ながら、引
用じゃなくて、言わば「淫用」させてもらいます。引用させてもらい、
裕ちゃんまだ自分でうまくいえないから自分の言葉まだないから、小野
田さんに大便、いや失礼代弁してもらう。後ろ盾になってもらう。いや
後ろ盾じゃくてなくて矛を(いちょう、「矛盾」なんて言葉想起してね。
余分な、蛇足な、おせっかいな説明、サン
ド
サウンド
リーズ
サウンド
イングリーズ
オブセレクション
サン
サン
サン
サウン
イイイイイ
イング
イングリーズの話し)もって戦ってもらって、
命懸けでね、戦ってもらって守ってもらいながら、うしろから裕ちゃん
は譲二さんのおしりを触ったり、脇のした手つこんで、くすぶったりし
- 19 -
ちゃ
うってわけです。「あ、そうそう、」ちょっとわざとらしい、いや大変
技となんですね。ぼく吉本さんの大和書房のほんの帯びの浦「淫用」し
終わってなかった。「「重層的な非決定」とはどういうことを意味する
のでしょう?・・
・・私はしばしばそれを
『資本論』と『窓際のトットちゃん』とをおなじ水準で、まったくおな
じ文体と言語で論ずべきだという言い方で述べてきました。」
ええと、
ぼくの場合は『窓際のトットちゃん』も読んでないけど、テレビとか他
の文章で取り上げたのを読んだことがあるからなんとなく内容知ってい
る。『資本論』についても事情はちょっと似ているかもしれません。小
野田さんにあてた「裕ちゃんワープロ通信」でも書きましたが、ええと、
股ここで、「裕ちゃんワープロ通信」という命名、命名なんて大袈裟だ
けど、悦子さんが、ぼくが「こういう通信をつくりました」とか話した
ら「裕ちゃん通信?」とかいうもんで、「ああ、そうか裕ちゃん通信に
しよう」ということでできたんです。それにわ、わ、わたくしは肉筆っ
ていうか、ボールペンとか万年筆では書けないので、うむ、
裕ちゃんって
そいで、
わぁープロだやあ、プロフョショナルだねっていう感じ
で命名しました。ええと、小野田さんにあてた「裕ちゃんマスプロ通
信」裕ちゃんってしょっちゅう「おったって」マスかいてるから、小野
田譲二さんにあてた「裕ちゃん通信」でも書きましたが、まだ『資本
論』一巻もよんでない。菅孝行先生もまだもしかしたら第3巻よんでな
いのかなあ、そんなことないだろうとも思うけど、第三文明社で発刊さ
れている菅孝行さんと松本健一さんの対論、いま手にもっているのが
「ナショナリズムのゆくえ」でもうひとつあって「共同体のゆくえ」と
かでしたか、ぼくは一部は本棚に整理されているけど、大部分は積読と
いうよりブックまけてあるのでどこにどういう本があるのかわからん。
ぼくの通信の文体?とみあっているわけですね。その「ナシヨナリズム
のゆくえ」の最後のほう両先生の発行年ごとに著書の紹介がありまして、
ぼくねえ、たしか、このおふたりの2冊の対論集読んでから、ああ、だ
いたい読んだだけで、この本は1985年の9月、ここまで正確にかか
- 20 -
なくてもい
いんだけど、全体の整合性を保つため、エエ!?
12日
初版第一刷
発行ってなってまして、ぼくはだいたいすぐ手に入れたぐらいだと思う。
だいたい読んで、自分のなかで消化できないから、ほっておいた。それ
で半年ぐらいまえに読み残したところなどだいたい読んだ気がする。も
ちろん自分の中で消化できたわけじゃないです。餅論ね。消化できるな
ら、今こうして、まさに、やっていること、しませんよね。それで、そ
のご『マルクスと現代』というの菅孝行さんのですけど買って読んだ。
うむ、だいたい読んだな。って気がする。その本はこの部屋にあるはず
なんだけどみつからない。うふ。それでこの「ナショナリズムのゆく
え」、なんどもかいてくどいようだけど、こりゃあ大問題だもんね。こ
の「ナショナリズムのゆくえ」の後ろの著書紹介欄みるとこの『マルク
スと現代』って未来社、うむ、未来社か、の発行で発行した年、発行年
度っていうのかん、発行年っていうのかん、が1982年ってなってる。
ぼく実は「ナショナリズムのゆくえ」の後ろの著書一覧表を見るまでは、
『マルクスと現代』って松本健一さんとの対論集の出たあと書かれたん
だと思っていた。『資本論』の研究(上)革命的共産主義運動の理論的
基礎(仲山良介著・・「著」ってちょとつけた)の序章(一)『資本
論』で武装せよ(こういうの小題っていうのかん)で、はじめから「わ
れわれは、いまこそ『資本論』で武装すべきである。(武装するって言
ってももちろんこれは比喩であって、比喩だなんていうとおこられちゃ
うけど、「比喩だなんていうとおこられちゃう」っていういみは「為に
するのでない、アリバイでいっているのじゃないんだぞ」っていうこと
でおこられちゃうわけで、もちろん、やくざと喧嘩するとき、腹をささ
れないように、電話帳を腹に入れとくより資本論のほうが御利益がある
ぞっていうようなこととは直接関係ないことですよね。もちろんだれで
も?「とりわけ戦闘的な青年労働者、学生」(まえがき)ならぼくみた
いに曲解するひとはいないだろうけど、暴走族とかヤンキーなんていう
種類の人達なら、ぼくの発想のほうが納得するよね。)
それが絶対に必
要である。(アンダーラインはわたし)」って書いてある。裕ちゃんち
- 21 -
ゃちゃ
いれたけどね。で、菅孝行先生は『資本論』の3巻は読まずにこの『マ
ルクスと現代』っていうの書いたんだね。ぼくどこにそのことが書いて
あったか、どこでおっしゃっていたか、たしかめないけど、なんか「共
同体のゆくへ」という方だった気もするし、だけど、「自慢できること
ではないですが」とかおっしゃりながら、たしか「第3巻きちんとはま
だ読んでないですよ。(アンダーラインは裕ちゃんワープロ通信の筆
者)」 とか言っているだ、「きちんとは」読んでないけど、読んではい
るんですよね。勝手な偏見もっちゃいけないけど、光愛病院でお会いし
た、躁状態になると奥さんを強姦しちゃうっていう「労働者活動家」の
ひと『資本論』3巻全部よんだっていっていたけど、「きちんと」読ん
だのかねえ。なんっていうか、資本論を読むって前提みたいなことだけ
と、それが一切みたいなことなのに、読んだからどうだということでも
あるよね。ちょっとここで菅孝行さんが第3巻、
あ、ちょっと、今日、日曜日で、朝からわりとのって書けるので、気
分がよくなっていたのだけど、さっき、昼ごはんおとうちゃんとおかあ
ちゃんと食べたけど、わたしのこのいままさにこの行為に「前衛意識と
大衆意識との暗黒の断層」(吉本隆明・・「権力への意志(一)勇なき
革命の志願者たち」という題字の前ページにある「虚妄なる思想家
(上)
・・吉本隆明論」第一章当為なき知識人論の最終ページからまた引き)
と感じる場面に遭遇したので、ぼくはやっぱり親孝行したいといういみ
でも、ちょっと書くことにした、ジョルジュ・ルカーチが第一章日常生
活における反映の諸問題のⅠ日常的思考の一般的特性といなかで、「こ
れまで認識論は日常思考について考慮することがなかった。」というこ
ととも大いにかかわることであろうし、「家族問題の革命的解決」って
よく出て来る言葉、言い回し、概念?ってあるけど、ひどく抽象的だよ
ね。職業革命家どうしが結婚、うむ?してこどもできたらどうするかっ
てことではないよね。 高田さんのおねいさんなんか、英成さんのこと
- 22 -
で、破談なったてきいてるけど。う。
午前中、おとうちゃんはキリスト教会いっとって、昼過ぎに帰って来
たんだけど、きょう晩に教会の忘年会みたいのがあって、豊橋にフラン
ス料理食べに行く見たい。「おかあちゃんも食べにいきん」っていった
ら「わたしは・・
」いいってことです。
今、雨が降って来たので、下からおとうちゃんに「ゆうさん
くもん
せんた
いれてくれ」って言われたのでいれてきた。さっき、昼食のあ
とおかあちゃんに頼まれていました。今の行為で(せんたくものをいれ
てきたこと)若干、「前衛意識と大衆意識との暗黒の断層」にかかわる
現時点での危機を解決したので、エエ!?こういう個人的問題、実は普
遍的問題なのでありますが、むつかしい問題で、拘わり方で、美しいも
のにもみにくいものにも、さわやかなものにも、いやらしいものにもな
るけど、緊張感、普遍的大問題と個人的問題をつねに分けずに統一的に
解決し、態度を保ちつつ、ええと、フランス料理がでてきたので、17
ページでしたね。イタリア料理のあざみ亭にもどります。岩田雄二さん
から送っていただいた、あざみ亭オープンにむけてのご案内、副題が
「食
膳芸術のススメ」になっていて、ほとんど全文引用するって感じですが
引用させてもらいます。「今年の初夏、友人の羽田明史氏を介して、メ
イトウワークス[障害者授産施設]の所長の加藤久和氏からレストラン
経営の企画をお聞きして、たったの一言で料理人の役割を引き受ける事
になりました。[障害者]と[社会]の接点としてのレストラン、[障
害者]にとっても[健常者]にとっても同様(アンダラインは筆者の岩
田さん)に開かれたレストラン、[施設の生産活動]の最前線としての
レストラン、そのような話を交わしつつ、わたしの内に浮かんできたの
は韓国詩人キム・ジハのこのような言葉です。『飯はどのような場合で
も、一人で生産出来ません。それは協同的に生産され、共同体的に生産
されています。また、生産においてだけではなく、食事においても、飯
は皆で食べるもの、共同体的に食べるものです。飯は[食膳]で食べる
のが決まりです。[食膳]というのは、多くの人がかこんで座って食べ
- 23 -
る共同体生活を意味します。したがって[食膳共同体]ということがで
てきます。歴史的にみて、食膳共同体に参加できるか否かが、まさに、
その人間の身分的な認定を意味して来ました。』(キムジハ
飯活人よ
り)障害者の多くが社会の[食膳]に参加出来なかった事は事実です。
私は食道楽グルメのみを対象にした料理人を志したわけではなく今まで
にない、新しい[食膳芸術]を心がけたいと思います。」
ところで、今日のわがやの夕食は勿論ではないけど、雑煮です。裕ち
ゃん一週間以上、腹壊してるの、今下、一階でこしらえてるのはおかあ
ちゃんだけど、跡形図毛は裕ちゃんがするの。(サンコンみたいないい
かたかな)「ゆうさん
おもち幾ついれる」『おもち4つ』「はい」
父と母、(ハハ、突然畏まって、)今、聞いているのは、なんていう
曲かな、ダイアナ・ロスだけどね。さっき聞いてたのは、イングリース
のと、ドリームズ・カム・トルー、曲が変わって、今きいているのは、
「IF
WE
HOLD
ON
TOGETHER」、今、えみちゃん
か、しほちゃんがきた。
おとうちゃんとおかあちゃんをあざみ亭につれていったのは1年以上
も前になるけど、ウエーターのひとに、紹介状をいただいているので、
あとで顔をだしてほしいたのんでおいたんですけど、板場じゃないけど、
西洋料理ではなんていうのかねえ、でていらして、挨拶していただいた。
手拭じゃなくて、なんていうのかしらないけど、しゃれたふうに頭を、
布で包んでいらした。ぼく麻薬でもやっているような気分だともいった
けど、「生まれてから、今までこれよりうまいもの食べたことなかっ
た」
というようにいったのは本当におせいじはこれぽっちもありません。こ
れは、たぶん後日お会いしたときに交わした会話ではないかとも、思い
ますが、「なんか、全然、イメージが違うねえ、障害者の・・
」『あ
あ』「なんか、ものすごい高級すぎるじゃん」半分わらいながら『こう
いうつもりじゃなかったけど、こうなっちゃた』とかおっしゃられた。
高級過ぎるっていっても、透き通ったもので、大金もちの贅沢な高級感
- 24 -
じゃなくて、なんていったらいいのか、カトリック寺院、由緒ある?禅
寺で、うむ、食べているって感じ、高級すぎるというのは俗気が全然な
くなっちゃうっていうか、あれだけのものを味あえる舌をもったひとす
くないから、で、なんでこういう結論になるのか、言葉がたりないとも
思うのですが、[食膳芸術]って言ってらしてほんとに、そうだなとも
思うし、芸術的でも有ると同時に宗教的な雰囲気があるよね。高級すぎ
るっていっても、あたりまえですが、庶民にはもちろん、障害者にも開
かれているのでして、俗人はこういう雰囲気は嫌うけど、牧師さんとか、
みんな嫌いだもん、こういう雰囲気味わいたいときもあるよねえ、毎日、
初詣で(ああ、おかしないいかた)また、ダイアナ・ロスの「IF
E
HOLD
ON
TOGETER」
W
こういう歌、美しいけどだれ
でもすきとはかぎらないからね。だけど、ダイアナ・ロスって黒人だか
らかもしれないけど、「前衛意識と大衆意識との暗黒の断層」的なもの
を日常的に思わざるをえないぼくのおかあちゃんと聞いても、受けいれ
らりる愛の深さがあるように思える。ええ、毎日初詣でいくのはだれで
もいやでも、禅僧の生活やカトリックの神父の生活はだれでもできるわ
けではないし、必要もないけど、一年に一度とか一生に一度でもそうい
う雰囲気を味わいたいとおもうことが、総ての人とはいわないまでも、
だれにでもあるような気がする。だけど、あざみ亭はそんなこと考えて
行く必要ない。別にただのチョット高い、もちろん高いっていっても質
は値段をはるかに上回っている。だけどわからんひともいるかもしれん
けど、大衆食堂ってわけではないからチョット高いけど、金さえ払えば
たべれる。ただそれだけのものですけどね。こうかきながら、そのこと
を深く認識させられたのですが、ぼくの「思っていたのとちがうじゃ
ん」
という戸惑いはぼくの思慮のなさのなせるわざでありまして、ご案内の
趣旨(理念)とうりのあざみ亭としての現れていることが、ぼくにもよ
うやくわかったということです。
ところで、なんで料理の話しをしているかと申しましたら、このこと
- 25 -
を類比的に言語、言語学?の話しをしようと思っているんですけど、は
やく、中沢さんの「ゲーテの耳」の断片引用に結びつけたいんですけど、
ぼく語学全然だめで、まえにも言ったように語学ってまず日本語だけど、
ええと、だけどぼくは今日は、ぼくとしてはものすごくたくさん書けた
ので、このつづきは股の機会にします。というのは、ぼくいちよう、い
ちようなんて変ですけど、精神病院に入院していた過去をもつにんげん
だから、精神科医師の本一冊ぐらい読もうと思うから、精神科医師とい
えば、物江さんに「ファノンは読んだかって」いわれる前に、「黒い皮
膚・白い仮面」(本棚確認)っていうのだ、きちんと読んだわけではな
いですけどいちようよんだけど、木村敏さん、「精神病理学的日本論
人 と 人 と の 間 」(ああ、文字、倍にしちゃった)という
本、この人はそのすじでは有名だとおもうけど、ぼくもなんとなく知っ
ていて、何人か共著の一論文とか読んだことがある気がする。菅孝行編
の叢論日本天皇制か、これぐらい左翼的常識として最低読まなきゃいか
んと思うけど、そんなこというと、最低よまなければならないのは『資
本論』だし、とかなって、なっちゃうから、「読めへんぞ、読まなくて
もいいんだよ、」木村敏さんって、ぼくこの本数年前に買ったけどよん
でなかったけど、思うところあって2、3日まえから、いや一週間ぐら
いまえからかな読んでいる。認識力がアップしているのか割りと読めた、
今半分ぐらい読んで、なんか、ぼく菅さんのこの叢論の筆者に入ってい
たかもしれないとも思ったけど、ここまで読んだ印象からちょっと菅さ
んの呼び掛けに応じる筋のひとでもないのかもしれん、いや、全然わか
らん、とにかく、ちょうどというか、もしかしたら、そういえるかもし
れんけど、第四章
日本語と日本人の人間性
となっていて、これから
読み初めて、この本読了後に、この裕ちゃん通信再開させて戴く所存で
ございますので、物江様をはじめとしてみなみなさまよろしく、ずず、
ずいとよろしくおひきたてお願い申しあげまする。パチパチパチパチ
パチパチパチパチ・・
・・
- 26 -
新年あけまして
正月元旦
おめでとうございます。
1993年、平成5年
とり年。
今、年賀状書いた。一枚目まちがって自分の家の住所かいてしまった
ので、「東京の裕ちゃんから豊川の裕ちゃんへ」ということにした。二
枚目が三味線の先生。二枚だけどもう四まい。おかあちゃんに10枚年
賀はがきもらったけどもう終わり。後はくれた人に股だそう。だいたい
ぼく出さないから、毎年10枚もこんかねえ。「東京の裕ちゃんから・
・って書いたけど、今、ここ、東京、武蔵国分寺のちかく、うっ、大國
魂神社にもちかいなあ、の、赤阪くんのアパートで書いております。赤
阪君は今日、正月元旦から、コンビニエンスストアーに働きにいってい
て、今日は朝9時から夕方5時までだそうです。ようやくみつかった。
昨日、ああ去年夜中の11時ごろ帰ってきて、買って来た、ああ赤阪君、
ミソカ、あ、これは裕ちゃんワープロ通信、(裕ちゃんの音楽論を中心
にした、音楽、音楽文化論かな?)でも書いたけど、「みそか」で変換
キー押すと「三十日」になってしまうので「ミソカ」ですけど、そこが
「クソ」じゃなくて「ミソ」です。正月元旦から失礼にも思いますが、
裕ちゃんもう初うんこもしたもん。それから初詣でもしたし、初神想観
もしたし、はつマスターベーションもしちゃった。今、おはやしの太鼓
かな、小さい太鼓、小太鼓や、笛の音もきこえるね。赤阪君がミソカの
晩に買って来た雑誌、地図、うむアナクロニズム的ことばかや、「東京
見物」って言い方、うむ、するためにかってきた4冊は、ええと、◆ホッ
トドッグトウキョウ
HOT・DOG(東京実感マガジン)創刊号とVol.2、
「ようやくみつかった」ってのは、2号の方だ、ええ、「二丁目」
夜
遊びの終着点ともいえる新宿二丁目。あらゆる人生をかいま見ることの
できる、ミステリアスなプレイゾーン。
ショウパブ白い部屋、裕ちゃ
んなんか熱でてきて風邪ひいてきたみたい。
あまりの美しさにウットリ
エ!?ニューハーフ!?
今TELできいたら、5時半ちかく、赤
阪君もうじき帰って来る。きょうここえ行こうって赤阪君、裕ちゃんさ
- 27 -
そうの。
なんとなく、チンボウがたってきちゃうけど、なんでっかって言った
ら裕ちゃん別に、ゲイ術家なのであってゲイではないのだけど、事情に
通じぬ世間の人は、ゲイ人とゲイ術家の違いなんて紙一重何蛇ないかな
んて言う人もいるし、裕ちゃんは本当は芸術家何だと思うけど、ゴッホ
だって生きているうちは絵一枚も売れなかったように、まだ芸術家では
売り出せないので、とりあえず、ゲイ術家でういだしているだけで∼す。
くれぐれも間違えないで欲しいけど、裕ちゃんゲイじゃないでね。だっ
て赤阪君全然チンポたたんだもん。股、裕ちゃんのことを「役者」だっ
ていう人もいるのですけど裕ちゃんは「役者」じゃなくて「役人」なん
です。それも大人の役じゃなくて、小役人じゃなくて子役、子役人なん
です。この話しは股にしよう。それから、きょうパブ、ン、白い部屋行
くと思うけど、この話題も股にしよう。
それじゃあ、ここでちょっと堅くなるけどねえ。「堅いっていっても、
柔らかいの夜、ええ、わかるでしょ∼う」ええ、急に堅くなるけどねえ、
ぼく小野田さんに向けて書かしていただいた裕ちゃんワープロ通信でも
吉本隆明さんに助っ人っていうか、先導者になっていただいているし、
このワープロ・レターじゃあ文学運動できないなんていっちゃあいやよ、
ああ、堅くなるって言ってまだ堅くなっていません。裕ちゃんウソつき
じゃないでね。もうすぐ堅くなるでね。、ええ、この「本文」でも、小
林秀雄さんについての、エッセイ??的論文を引用させてもらったりし
て、ええ、その場合、ええと、4ページの2行目になるけど、「小林秀
雄」ってなってるところを突然「裕ちゃん」にスリカエ、水本謀殺死体
スリカエ、それとの照応で、「脳髓」となっているところを「コンピュ
ウター」 に置き換えて、ああ、このワープロだってコンちゃんのはし
くれでーすって怒っております。まあ、引用するだけじゃなくて「淫
用」
さえさしてもらいながら、ああ、おはやしの太鼓に笛とおもったら、い
まピアノの練習、そして救急車のサイレン。現在進行中のピアノ、朝も
- 28 -
やっとった、初弾?
ああ裕ちゃん、初なんとかでゆうの忘れとった。
裕ちやんまだ初夢見てない。心理学的、心霊学的知識?を考慮にいれ
ると見ているのかもしれんけど、目覚めて記憶にのこっている夢が今年
のまだ初日にはない。
ええと、こうして具体的に(小野田さんのときと、今回)吉本先生に
お世話になっているけど、まあ、裕ちゃんのような子役、子供役にはど
うしようもないような大きい人であるし、得たいの知れぬ人であるので
すけど、吉本隆明さんを裕ちゃんがどういう「評価」をしているのか、
吉本隆明という思想家にたいして裕ちゃんはどういう立場をとるのかっ
ていうよおな、しかしそれは先走って引用すると「それらの□○(漢字
よめんし、辞書この部屋にない・・裕ちゃん)を自分で対象化するにし
てはまだあまりににも文章の内部に私自身が居残ったあるようだ。」と
いう状況、事情がわたくし裕ちゃんにも大いに言える事情、状況が、そ
ういう得たいの知れないものがあるにもかかわらず、したがって「あら
ぬ」誤解じゃなくて「ある」誤解が生ずるおそれをちょっとだけ封じて
おきたいって気するので、もう一人最初に、大きくて、得たいのしれな
い大人の役人にでてもらって、大筋では、「よらば大樹の影」って言葉
ありますかねえ、使い方がいやらしいけど裕ちゃんの場合、大便いや失
礼、代弁していただきながら、裕ちゃんのような子供が大人の吉本さん
と「けんか」できるわけないもん。あたりまえじゃん。おとなのけんか
に子供の裕ちゃんが子供らしくない、こざかしいせりふ、偉そうにいっ
てみるのです。
最初に出て戴く方って、やっぱり、ああ、やっぱりかどうかはぼくが
思うだけでして、菅孝行さん、菅孝行先生です。ああ、ちょっとぼくが
いろんな人に先生って、敬称?つけるのは、まあ、字のとうり、先に生
まれた人っていう意味のこともかんがえているというのがひとつはある
し、中国語はこういう風な使い方があるって聞いたことがある。ちがう
かもしれんけど。それからちょとおちゃらかしたような意味合いでは、
国会中継なんかで、見てると、とくに野党の議員の質問に、何何事務次
官というような人が答弁して、だいたいこういう人は東大での超エリー
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トですよねえ、そういう人にたいして、野党の議員さん。議員さんって
やっぱり、国民から選ばれた人なんだし、どんな議員さんでも、議員さ
ん、国会議員さんだから、物凄い頭いいよね。高等数学っていうのがあ
るとして、数学ってぼくパーだからわからないんだけど、したがってか
な、どのくらいパーだかも具体的にパーですけど、まあだから高等数学
って知らないのに、まあそういう言葉があるって聞いたことがあるから、
高等数学っていうぼくにとって全く抽象的?なものを例えにしてみると、
知らないんだけど、たぶん高等数学の中にはいると、多分その中で、下
等数学、中等数学、上等数学、特上、松、竹、梅、並、なんてあるのじ
ゃないかねえ、知らないけど、だけどぼくみたいに、高等数学というも
のを、言葉としてそういう言葉があるってごくごく抽象的に知っている
とって高等数学を具体的に全く知らない人にとって、これはねえ高等数
学ですよっていわれれば「はい、そうですか」って信じるしかないよね。
ああ、なんか今、国会議員っていってもピンからキリまであるっていう
ようなことをいうために、この高等数学の例をあげていると思っている
読者、ああ、ぼく物江さんに書いてるつもりだったと思っていたのです
が、いやまたそう思い直しましたが、なんとなく、東京に来てなんか気
が大きくなっちゃった。あ、そうそう、きのうの、今日は正月二日です
ね、きのう正月書いた、ニユーハーフのお店のこと、考えてみたら、ま
さか正月一日にやってないから、今日いくことにしました。二日でもそ
の店やってないかもしれんけど、とにかく新宿はいくことにした。赤阪
君いやだっていうから裕ちゃんひとりでいくことにしました。もどりま
すが、それで読者みなさんは、たぶんこの高等数学の例は国会、国会議
員に関して、なんか述べるために比喩としてあげているのだとお思いに
なっていると思いますが、実は全然関係ないんです。いやそれはウソで
すけど、レーニンが真理は常に具体的って言っていて、たぶん哲学ノー
トで言っていたと思うんけどここに哲学ノートないからしらべられない、
それは、へーゲル哲学、ヘーゲル哲学って絶対観念論だって言い方がた
しかあるよね、たしかレーニンの言い方、言い方っていうそういう曖昧
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な言い方
レーニンのような硬質の文体のくちぶりにふさわしくないけど、レーニ
ンはヘーゲル哲学を引用しながら、それを唯物論的に改作する作業の中
でって言ったらいいのでしょうか、ぼく思いだしているのですけど、ヘ
ーゲルの哲学、弁証法っていうのが、もっうちょっとで唯物論になるな
あ、とか、ああ、もとより裕ちゃんのように曖昧な柔らかい言い方して
いるのではないですけどねえ、裕ちゃん的にいうと「もうちょっとで唯
物論になるなあ、」すばらしいとか、おしいとかいうのかな、そんな感
じのところがたしかあって、ぼくそこのところだけ、本の映像が今浮か
んでいるのですけど、このことはその部分との直接の関連でいっている
のじゃないと思うのですけど、唯物論といっても「デモクリトスからフ
ォ
イエルバッハ」、たしか、G・ルカーチがこういう言い方している。裕
ちゃんがさらに言うなら、ドモリから雄弁家になったデモクリトス=フ
ォ
イエルバッハ=黒田寛一じゃないかと思うけど、の機械的唯物論に近づ
いているのじゃなくて、さしあたって、「さしあたって」って言い方は
特に裕ちゃん自身がいいたいことであるのですけど、さしあたってはも
うちょっとで、マルクスの弁証法的唯物論に近付いている、ってレーニ
ンが言っていると裕ちゃん理解しているのですね。そういうことと、戸
村委員長って教会、キリスト教会の牧師さんですよね。「真理は汝を自
由にする」ってたしか、キリストが言っているんだよね。それで、戸村
委員長、三里塚の集会で、「真理は汝を自由にする」とか襷かけて、演
説するってことがたしかあったですよね。それでぼくかんがえると、レ
ーニンが「真理は常に具体的」って言い方、うむ、するかっていったら、
ヘーゲル、ヘーゲルの弁証法は物凄く「真理」を深くとらえている、知
っ
ている。だかしかしヘーゲルは観念論者だから真理を抽象的にしってい
るだけだ、真理はつねに具体的なのだ、それは唯物論、弁証法的唯物論
でないとないと具体的にならないんだっていっていると思うのですね。
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そういうわけで、高等数学のことは勿論、国会、国会議員等のこと具体
的知らないのに、シュタイナーは議会に通いつめて、ひとりひとり国会
議員のこと、その個性など知りつくしていたというようなことが、「社
会の未来」を訳された高橋先生があとがきで書いている。もちろんぼく
は通いつめることなど、物理的に無理だし、できたとしても、そうした
知識情報を消化する力量なんて、てんでうわのそらだもん(意味不明な
ことば)。そういうことは吉本隆明さんとか、菅孝行さん
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会の未来」を訳された高橋先生があとがきのなかでのべられているけど、
通いつめることなど、物理的に無理だし、できたとしても、そうした知
識情報を消化する力量なんて、てんでうわのそらだもん(意味不明なこ
とば)。そういうことは吉本隆明さんとか、菅孝行さんすればいいんだ
もん。
ええと、ぼくこういうこといいたかったから、始めた話しだったんだ
けど、ああ、また別のこと思った、たしか塩見さんが「封建社会主義」
というような言葉、使うっていうか作ったっていうかしてらっしゃいま
すよね。ほいでねえ、日本は民主主義国家なんだから、どうあったって
革命は選挙で票を獲得する方法をとらにゃきゃだめだって裕ちゃん考え
ているっていうことをここで言いたい。それから本多書記長もそう思っ
ていると思う。ヒットラーだってとにかく選挙で政権とったんだから、
このことについては、小野田譲二さん、ああ、ぼく小野田さんに、はじ
めてお会いしたとき、「先生ってお呼びすればいいですか」って聞いた。
なんたって中核派の政治局の人だったんだから、ころあいだからこのへ
んでいっておきたいなあ、ぼくのこの作業は、小野田さんとか、永田洋
子さんとか、物江さん「あんまりいいものじゃないけど」っておっしゃ
られて、ぼくも、まあ「そう思う」って言っとくけど、のとか、それか
ら「夜がときの歩みを暗くするとき」でしたかの高史明の営為に類似し
た重なるものがあります、さしあたってこういう言い方ですましとこう。
なんで、本多書記長は選挙で革命するしかないとかんがえているってぼ
くが思っているかは、また改めて、とくに小野田譲二さんの書かれた
「体
験的政治論」を取り上げたりするなかで、述べてみたいと思います。
ぼくはこういうようなことをいいたかったから国会、国会議員のこと
をとりあげたのですけど、そのことから軽はずみに、なんで軽はずみっ
ていうかっていうと、言わば、民主主義というのを新しい時代をつくら
れた神様のお考えのことをおもいをはせ、ひとりひとりの一票の票の重
みを考えたりすると、国会が形骸化しているとかそういう言葉があるけ
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ど、ああ、ちょっとしんどくなってきた。とにかく国会のある性格なり
ありさまを高等数学っていうような比喩と関連付けたりすることが、こ
のことをさしあたって分析しないし、できないのでかか、なにか得たい
の知れないものにもろつながるきがして、ええ、国会なり、民主主義と
いうことでもあるね、のありさまなり、性格なりとを、高等数学からは
じまる比喩と関連付けるのは、ああ、そうだ、動物をスポーツのために
打ち殺すことと、命懸けの生活をかけて、食べるために殺すこととをい
っしゅくたに差異のないものとして考察することに似て、なにか、無責
任で罪深くあるようにさいかんじられる。ええと、今さっき、ぼくは、
ヒットラーの「我が闘争」のこと思いうかんだ、実は、この33ページ
が始まるいっとう最初ぐらいのところで、「我が闘争」のこと書きはじ
めたのですが、ぼく、1ページ、1ページ、フロッピーディスクに記録
しているの、それが、32ページから切らずにそのまま33ページには
いちぁったもんで、書きかけの33ページ数行消しちゃったんです。3
1ページのときもそうだったのですが、このことは、ぼくが、この作業
に相当今のめり込んでいること、キーをたたく速度がはやまって、いつ
ものように、行数をかくにんすることに、気がふりむかないようですね。
だけど、とくに瞬間人間のぼくは、改めて書き始めると気分がすでにか
わっているので、まえの気分にある程度、回帰しても、もちろん、覆水
盆に帰らずとか、「同じ川の水に足をいれることはできない」ってマル
クスがそういう言い方していたでしょうかねえ、だから、同じ気分じゃ
なくて同じような気分、「先生、先生、「先生」の話はどうなったんで
すか」『あ!先生って裕ちゃんのことでしゅか、いま、あなた、裕ちゃ
んのこと「先生」ってよんだのでちゅか』
ええと、あと5行、ええと、だもんでねえ、ビートたけしさんなら、
うまいこと、毒舌でいうだろうななんておもうけど、そういう東大法学
部出の超高級官僚が、野党の有能ではない、有能、有能ではないってこ
れまた抽象的だけど、まあそういっとこ、の議員が政府を居丈高にこき
下ろすような場面があって、それに答弁するときに、質問者にたいして
「議員は」って呼ぶときもあるけど、ひどく慇懃無礼な言葉づかいをし
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ながら、馬鹿にして「先生は・・」って使い方するっていうそういう非
常にいやらしい使い方も、僕が先生ってつけるにはふくまれているけど、
ぼくがなんでさしあたってここで菅孝行さんに先生ってつけるかって一
番大きな動機、たぶんこの動機はあげた2つの動機とも深く結び付いて
いる気がするのですが、ええ、そうですね、このことは民主主義=国会
という得たいの知れない問題になんとなくボワーッと(おどるポンポコ
リン)と結び付いているきがしちゃうけど、水谷さんどうしてます。
「病気」になる前は七カ国語話せたとかおっしゃっていました水谷さん
どうされてますか、水谷さんにねえ、ぼくが「北小路さん」って言い方
したら、怒られたんです。「なんで北小路先生と呼ばないんだ」ってね
え。それでぼく菅孝行先生っていうことにしたんです。ぼくからしてみ
れば北小路さんも菅さんも「新」左翼の大先生で、肩書は「政治局員」
と「評論家」?の違いがあるかもしれんけど、ええと、本の題名わから
んけど新泉社から出てたとおもうけど、Xデー、昭和天皇云々のだけど、
山村克先生は本を構成するひとりになっていましたが、いわばこの山村
克編だったのですが、肩書は「革命的共産主義者同盟(中核派)政治局
員」とはなってなくて「近代史研究家」とかいうわけのわからない肩書
になっていた。山村さん=エンゲルスって表にでちゃっとるのかん。ぼ
くムタグチさんともいろいろ話ししたけど、水谷さんともいろいろはな
したやあ。水谷さんになんで「チュウカクとカクマルは仲良くしないん
だ」ぜんぜんようわからんだけど『カクマルはフアシストだからいっし
ょになれん』とかいったのかわからん「薩摩と長州(漢字?)だって仲
直りしたぞ」とかいわれた。それから昭和天皇のことをいろいろ批判し
たら、そうじゃない評価のことを「オレは図書館で、いまそのことをう
まく思い出せないけど、云々」水谷さんの方が圧倒的に知識が豊富なの
でわたしは太刀打ちできませんでした。だけどまあ、社会党の人だなあ、
本当に善意の人だなあと思った。よくわからんけどこのひとは悪意とい
うものを理解できないのじゃないかというような感想ももった。だけど、
水谷さんの「病気」の原因はチュウカクとカクマルの内ゲバにあること
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は
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