民芸運動における「もの」の理想 ―カントの「趣味判断」を手がかりにして

民芸運動における「もの」の理想
―カントの「趣味判断」を手がかりにして―
鄭淵旭*
An ideal of ‘MONO(object)’ in the folk craft movement
-“The Judgement of Taste” by Kant to a clueJUNG Yeon Wook
要旨
民芸とは平凡な人の手仕事によって生み出された「もの」を指す。民芸の価値をはじめて説いた
のが柳宗悦であり、その運動が民芸運動である。民芸運動は戦争の時代を乗り越えて現在もその光
を放っている。これは柳が企画した美認識の再構築の成果であるといえよう。近代における「美」
とは、天才の「美」、つまり一人の優れた能力に頼る「美」とみなされていた。しかし、柳は天才
の「美」だけではなく、名もなき人々が作った「美」の存在を主張した。なかでも、彼らの生活に
ある「もの」を通して「美」を主張した。このような発想の転換は近代という時代への抵抗であり、
人間と自然の調和の復元のための努力であった。彼にとって「もの」は人間と自然の調和の象徴で
あったといえよう。
Abstract
“Folk craft” means mono (object) made by the common people’s handwork. It is Yanagi Soetsu who has
propagated the beauty of folk craft, and his activity is called “folk craft movement”. The folk craft movement
survived the wartime and is continuing now. This is the result of Yanagi’s plan to rebuild the judgment of the
beauty. In modern times, “beauty” was considered to be produced by a genius. In other words it was the
beauty which depends on only a superior ability. However, Yanagi insisted that “beauty” is not produced only
by a genius but also by common people, and “beauty” existed in mono used in their daily life. This idea was
from a resistance to modern times. He made a effort to reconstruct the harmony of human beings and nature,
and Mono was the symbol of the harmony.
キーワード
民芸 民俗学 普遍性 直観 規範
*
名古屋大学大学院文学研究科 Nagoya University, Graduate School of Letters
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はじめに
民芸運動は民衆によって作られて民衆に使用される品に美的価値を与えた運動である。民芸運動
の思想は柳宗悦によってすべてが作られたと言っても過言ではない。柳宗悦や民芸運動については
多方面から数多くの研究がされている。その多くは、彼の理想主義に対する批判である。しかし、
最近の研究として高く評価されている竹中均の『柳宗悦・民芸・社会理論』では、「現在の『白樺
派』は美しいヒューマニズムのゆえに評価されもするだろうが、それが現代的なアクチュアリティ
を持つとはあまり考えられていない」(竹中 1999:195)と認めつつ、「柳の思想と行動の中に
『白樺派』ヒューマニズム一般に還元しつくせない何かを感じ取っていたのである」(前掲:
196)と、柳の思想に時代を超えた「アクチュアリティ」を見出すことを試みている。事実、民芸
運動は戦争の時代を超え、現在まで生き続けた。このことを考えれば、やはり柳の思想にヒューマ
ニズムのみでは割り切れない何らかの価値があるという可能性を考慮することも無駄ではないだろ
う。
「白樺派」の人々が推進した活動のうち、思想的な批判はさて置き、広範に広がり、現在も進行
しているのは、柳宗悦の「民芸運動」であろう。民芸という字句は「民衆的工芸」という言葉から
誕生した。この言葉が表しているように、民芸は工芸品から出発している。工芸品は有形の「も
の」である。柳宗悦が「民俗学は主として<こと>を対象とし、民芸学は<もの>を対象とする。
(省略)<こと>は主として抽象的な無形の世界に属し、<もの>は主として具体的な有形の世界
に属する」(「民芸学と民俗学」:278)と述べたように、民芸が指すものとは有形の「もの」で
ある。民芸は有形の「もの」、特に「下手物」と呼ばれるような品々に大きな価値を置いた。この
「下手物」へ価値を与えたことが「民芸」の大きな意義ではなかろうか。現在の社会はマイノリテ
ィーに対する研究が盛んになっている。それは、近代文明の忘れがちであった多様性への要求であ
ろう。民芸もその一つである。
本論考では、白樺派のヒューマニズム的価値以外のものを見出そうとする竹中の主張を踏まえ、
柳の民芸運動について再考する。柳が民芸を通して成り立たせようしたものと、民芸における「も
の」の意味を明らかにして、柳が民芸を通して果たしたかった理想を探りたい。その方法としてカ
ントの「趣味判断」を手がかりにする。柳が「民芸」を定義した時代においては、柳の美認識は一
般からみると一つの高尚な趣味にすぎなかったであろう。しかし、現在、民芸が汎く社会的に認知
されているのは事実である。その広がりの過程を見るためにも、カントの「趣味判断」は有効であ
ろう。また、柳の著作にはカントの名がしばしば挙げられている。韓永大は『柳宗悦と朝鮮―自由
と芸術への献身』の中で「政治と道徳に関する柳の文言は『永遠の平和のために』で述べたカント
の核心的文言と完全一致している。このことはすなわち、隣接する国々との永遠の平和を願ったカ
ントの理想が今度は柳の理想となって朝鮮との平和問題に適用されている」(韓永大 2008:261)
と述べ、柳がカントから平和思想を学んだことを指摘した。このように柳にとってカントの哲学は
欠かせない存在であったと思われる。それが、今回の考察を試みる前提となる。
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Ⅰ.普遍性と他力
1.普遍性追求
柳宗悦は白樺派の一人である。彼は武者小路実篤と同様に『白樺』発刊にもっとも深く関与した。
『白樺』は、1910 年 4 月に創刊され、1923 年 8 月まで刊行された文芸同人雑誌である。『白樺』
は文芸雑誌でありながら、西洋美術の紹介に大きな貢献をしたことはよく知られている。
日本近代美術史における『白樺』の役割を要約すれば、その初期における、印象派ならびに後期
印象派を同時に紹介し、なかでもロダン、そしてセザンヌ、ゴッホ、ゴーガンをいち早く取り上げ
たことであるといえよう。また、「白樺主催展覧会を開催し、官展、団体公募展といった画家中心
の展示機構とは異なる今日的な美術鑑賞の道を開いた」(遠藤 1999:52)ということも指摘されて
いる。『白樺』における美術作品紹介が作品の本質より画家の「自我」に注目しているという指摘
は多い1。しかし、彼らの活動を作品紹介と画家紹介という二分法で区別することは適切ではない。
例えば柳宗悦は次のように述べている。
吾人の人格の全的存在が充実せられる時とは如何なる場合を指すべきであろうか。一言して
いえばそれは実在経験の謂いである。実在経験とは物象が吾において活き、吾を物象の裡に感
じ、両者主客を没したる知情意合一の意識状態である、かくて自然と自己とが一つの韻律に漂
える時、彼に残るものは、具象的実在そのものである。(中略)自然と個性とがかかる共鳴韻
律の裡に表現せられた時偉大なる芸術は生まれねばならない。(「革命の画家」:546)
少なくとも白樺派の一人である柳は美術作品を画家と自然との合一による「具象的表れ」として
捉え、その表れこそ偉大なる「美」であり、芸術の価値と意義であると考えた。すなわち、彼にと
って作品の本質と画家の自我は別個の独立した項目ではなく、同じ項目として存在し、「美」の過
程とは人間の本然たる姿へ回帰する過程であった。
美の判断過程において柳宗悦の考えにはカント哲学との深い関係性が見られる。柳は「昨日カン
トの認識論に心をおどらした」2と書いているように、カントに大きな影響を受けた3。カントの
美学における美的判断プロセスは「趣味判断」を通して成り立っている。
カントは、美の判断においての人間の「主観的・普遍妥当性」4を主張した。主観と普遍とは矛
盾する項目である。にもかかわらず、美の判断には両方の一致が見られるというのがカントの見解
である。この「主観的・普遍妥当性」は民芸思想において重要なキーワードになる。柳の「美」に
は普遍性が大きく働いている。柳は「抑も吾々の偉大な抱負は、個性に基づく主観的立論をして、
一切の客観相をおびるまでに自己を拡充さす事にある」(「哲学に於けるテムペラメント」:
223)と述べている。「主観的立論」から客観性を目指したということは、つまり「主観的・普遍
妥当性」を目標にしていたということになる。
カントによれば「主観的・普遍妥当性」には「共通感覚」が前提5とされている。しかし、民芸
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運動というのは「私および私の親しい友達が感じて、美しいものと見做すものは在来の標準と異な
っているものが多いのに気附き、吾々自身の見方に使命を感ずるに至った」(水尾比呂志編
1995:10) というように、「下手物」と呼ばれるほど既成の価値基準からは認められていないも
のを対象にしていた。すなわち、民芸運動はあらゆる人に「美しい」と思わせる「共通感覚」に反
していたともいえる。しかし、民芸運動は当時の基準となっていた「共通感覚」に対する抵抗であ
って、決して「主観的・普遍妥当性」の前提として「共通感覚」が必要であることを否定したわけ
ではない。むしろ、民芸運動は、その構図を保持しつつ、ただ「共通感覚」の性質を新たに定立し
ようとしたのである。
例えば、柳にはもう一つの顔がある。宗教哲学者としての柳である。彼は多くの宗教に関する書
を書いた。しかし、彼にとって美の問題と宗教の問題は切り離せないものであった。民芸と宗教は
中心を同じくする二つの円6――同心円として考えられるものにほかならなかったのである。彼は
次のように言った。
私どもが美学書を書くからには、東洋的体験の上に立つのが当然であり、また必然であろう。
それによって西洋人が見届けなかった面を見ることが出来る。しかし東洋的見方で最も円熟し
たものは、何といっても仏教思想である。特に大乗仏教と呼ばれるものである。それは大した
宗教体験によっているのである。それ故仏教的思索で、美の世界を省みる事が大に必要であり、
またこれによって、西洋人が見届けていない幾多の真理を明るみに出す事が出来よう。( 水
尾比呂志編 1996:11)
柳にとって近代という時代は、西洋の科学により大きく進歩したとは言え、すべてが明らかにな
った時代とは言い難かった。むしろ、解明できなかったものへの手がかりが西洋ではないところに
存在するという確信があった。つまり、柳が民芸運動を通して確立しようとしたのは、西洋的思考
に傾いている「共通感覚」に東洋的思考、特に仏教(大乗仏教)的思想を組み入れたより正しい
「主観的・普遍妥当性」であった。そして、この試みこそ、民芸運動の本質だったといえよう。
2.直観と神
カントは「美しいのは、概念をもたず普遍的に満足を与えるものである」(牧野訳 2000:78)と言
った。美が概念をもたないということは、美の判断が感性的判断であって、認識判断ではないとい
うことを意味する。感性的判断の第一の働きは「直観」である。言い換えれば、「美」の判断を下
す主体の個人が美しいと判断する時、最初に働くのは「直観」である。
カントは「趣味判断は諸感官の諸対象に関わる。しかしそれは、これらの対象の概念を悟性に対
して規定するためではない。趣味判断は認識判断ではないからである。したがって趣味判断は、快
の感情に関係づけられた直観的な個別的な表象として、たんに個人的判断にあるにすぎ」ない(前
掲:242)と言う。しかし、そうすると「 あらゆるひとに対する必然的妥当性をまったく要求で
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きない」(前掲:242)ため、「趣味判断にはなんらかの概念と関係して」(前掲:242)いると
考えた。要するに、「美の判断すなわち趣味判断は理論的認識判断でも実践的認識判断でもない。
そこで趣味判断の能力は欲求能力とも認識能力とも区別されねばならないが、しかしそれにもかか
わらず、美は普遍妥当性と必然性に対する要求を内蔵している、つまり趣味判断には何かア・プリ
オリな原理がある。もちろんそれはけっして客観的にではない、あくまで主観的な普遍妥当性と必
然性の原理」(池内健次 2008:283)である。趣味判断に何かア・プリオリな原理が存在してい
るとすれば、その原理は美の判断の一次的作用である「直観」に直接的に影響する。たとえば、あ
る花についてすべての人にまったく同じく感覚されることはない。しかし、何かア・プリオリな原
理によって感覚は伝達可能であるというのがカントの説明である。カントは次のように説明してい
る。
美しいものについての快は、享受の快7でも合法則的活動の快8でもなく、また諸理念にし
たがう理性的観照の快でもなく、たんなる反省の快である。この快は、およそ目的ないし原則
を基準とせず、構想力によるある対象の普通の把捉にともなう。この把捉は、きわめて普通の
経験のためにも行使しなければならないような判断力の手続きを介して、直観の能力としての
構想力が諸概念の能力としての悟性に関係することによって、行われるのである。ただ異なる
のは、判断力は、この<経験を得る>場合には、経験的な客観的概念を知覚するために、この
手続きをとらなければならないのであるが、あの場合には(美感的判断では)判断力は、たん
に表象が両認識能力の自由における調和的な(主観的=合目的的な)営みに適合していること
を知覚するためにだけ、すなわち、その表象状態を快をもって感覚するためにだけ、その手続
きをとらなければならないという点にある。この快は必然的にあらゆる人の場合に同一の諸条
件に基づかなければならない。なぜなら、これらの条件は認識一般の可能性の主観的諸条件で
あり、趣味のために必要とされるこの両認識能力の釣り合いは、あらゆる人に前提されてよい
普通の健全な悟性にも必要とされるからである」(牧野訳 1999:179)
この原理は、たとえば、一本のバラが美しいと判定されても、バラはわれわれの意を満たすため
に咲いているのではないように、「美が感得されるときには、目的や目的設定する意志がはたらい
ていないのに、意に適うという<合目的性>が見られる」(石川 1995:198)ということである。
つまり、客観的に目的が前提されてないのにもかかわらず美には「主観的合目的」が働いていて、
合目的性が成立する限りには自分の感覚は他人に要求してもよいのである。
結局、カントの美学における直観とは、個人の感覚に合目的性というア・プリオリな形式が強く
働き、普遍的に判断させるという構造である。しかも、ア・プリオリとは「神からも経験からも派
生しない概念で、それは悟性がその自己活動によって悟性自身から獲得した」(前掲:113)もの
であるため、美学において主観性というのが強く生かされるのである。
柳における美の判断にも「直観」は重要である。柳における「直観」はウィリアム・ブレイクの
影響が大きかったことが知られている。9柳は『ヰリアム・ブレイク』の中で、ブレイクの直観に
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ついて「実在を把捉するものは知性ではなく、直観である。ブレイクはこのことを明瞭に指摘する。
直観とは実在の直接経験である」(「ヰリアム・ブレイク」:321)、「直観とは想像の経験であ
る。想像世界とは神の世界である。直観とは神を味わう心である」(前掲:322)と理解した。つ
まり、ブレイクの「直観」とは神との交信であった。
最後に、柳における「直観」であるが、彼は「直観」について次のように定義した。
私は「直観」をかかる境地であると考へるのである。若し絶対的立場といふものがあるなら、
それは直観以外にはあり得ない。直観は拭はれた立場、純粋立場ともいふことが出来よう。さ
うして若し或る真理に権威があるなら、それは直観的基礎を有つ場合のみだといふことを断言
してよい。(中略) 直観には「私の直観」といふ性質はない。見方に「私」が出ないからこ
そ、ものをぢかに観得るのである。直観は「私なき直観」である。(中略)一個の主観に立つ
なら既に直観ではない。立場なき立場に入る場合ほど、独断から解放される場合はない。
(『工芸の道』:7-9)
柳における「直観」とは、「私なき直観」という言葉が表しているように、主観が排除された絶
対的立場であった。主観の排除は、「立場なき立場」10へ没頭することで可能となる。柳にとっ
て絶対的立場とは「神」である。つまり、直観とは、神との一致を意味することになる。
カント、ブレイク、柳、各々の「直観」の概念を比較すると、まず確かに柳の「直観」はブレイ
クの「直観」を根幹にしている。また三人の「直観」は、神との距離、言い換えれば「主観」の濃
度の差によって区別される。神との距離が一番近いのが柳の「直観」であった。柳は完全に主観を
排除しようとした。「直観」と「神」との関係は、柳のカントに対する「宗教論」批判にも繋がる。
柳は、カントの「宗教論はずっと弱い。それは信仰を観念的に取り扱ったに止まっ」た(『物と
美』:5)と言った。柳はカントの宗教論には賛同できなかった。民芸品というのは“普通”の人
間によって生み出された美しいものをいう。柳は平凡な存在から生み出される「美しさ」の表出プ
ロセスを明らかにしたかった。この課題を抱えた彼が平凡な人から発見した共通性が強い信仰心で
あった。多くの民衆が信仰心の元で日常生活を営んでいて、その生活に関わった品々がまた美しい
民芸品であった。つまり、民衆が作り出す「美」のプロセスには神秘の力が働いていた。柳は神秘
の力を仏教の「他力」をもって定義した。他力とは仏の力により往生できるという意味である。平
凡な人でも神との一体化を成し遂げると美しいものを作れるし、同時に作られた品は信仰の具体的
な顕れであるため、カントの宗教論や「美術は必然的に天才の技術とみられなければならない」
(牧野訳 2000:199)と言う認識には賛同できなかったのである。この相違は「直観」にも大きく
響いたといえる。柳が「私なき直観」を求めたのも神秘の力、すなわち「他力」に民芸の美しさの
根幹があると考えたからである。
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Ⅱ.手仕事と工芸
柳は「民芸」という平凡な人が作る「美」を認めた。しかし、カントは天才の「美」を認めた人
である。この二人の「美」の意味合いの相違もやはり「他力」と「自力」11の差といえる。「他
力」と「自力」に分かれるとは言え、両者は、見る側が「美」を判断するための努力を必要とする
と主張する点で共通している。カントは「あらゆる美術のための予備学は、美術の最高度の完全性
がめざされているかぎり、諸指令のうちにあるのではなく、人文的教養と呼ばれる予備知識による
心の諸力の開化のうちにあるようにみえる」(前掲:264)と言い、教養を「美」の判断力の支え
とした。教養に関する考えは柳も同様であった。ただし、彼は「東洋人でありながらろくに東洋の
古典も読めぬ始末で、自分ながら変態的な教養なのを感ぜざる得ぬ」( 水尾比呂志編 1996:
159)と、自分の学生時代の教養の足りなさを反省し、「西洋思想に関する智識は、大に東洋思想
の解明に役に立つであろう。ただ惜しむらくは、西洋文化を勉強した人々には概して東洋文化の教
養が乏しい」(前掲:162)と現状を批判した。つまり、自分自身に相応しい教養――東洋人は東洋
人としての自覚を失わず、その東洋に古くから伝わる文化を身につけることが正しい教養であると
主張したのである。
柳は「もの」に対する意識を若い頃からもっていた。『白樺』第7号の「編輯室にて」には「本
号の木版は皆柳宗悦の刻んだものである。八月号にシムプソンのを試みた時から見ると、絵柄にも
依るのだろうが前より落附も出て来て餘程上手になつた、益々有望との評判が同人以外に迄高くな
つた様子」(「編輯室にて」:74 )と書かれている。白樺同人による木版への挑戦は第一に経済的
節約の意味が大きかった。しかし、民芸を創設する柳にとって木版は特別な経験であった。木版と
は、「版画の起りは実際的の必要から出来たもので初めから美術として起つたものでないと云ふ事
丈は否む事の出来ない事実であろう」(里見 1910:47)と『白樺』に書かれているように、その
出発は美術品として成立したのではなく、実用のために成立したものである。柳が民芸で重要視し
たのも「生活にある」という意味の「用」であった。また、手仕事と工芸は民芸の大きな柱である
が、木版とは自分の手で刻む、つまり手仕事であり、木版そのものは工芸品になる。つまり、柳の
木版作りが民芸の様々な概念に直接響いたとはいえなくても、後に民芸運動を支える教養の一つと
なったことは違いないだろう。
民芸は大きくは平凡な人の手仕事によって作られた品を指す。「手仕事」は民芸の性格を規定す
る一つの要素である。カントは「手仕事」について「労働として、すなわちそれ自身不快適であり
(煩わしく)、ただその結果(たとえば賃金)によってのみ誘惑的である営みとして、したがって
強制的に課されうる」(牧野訳 2000:195)と認識し、「手仕事」を「賃金技術」と呼び、「技
術」は「自由な技術」と呼んだ。また、「手仕事」と「技術」の区分は自由さに置き、「自由な技
術からすべての強制を取り除き、それを労働からたんなる遊びへと転化させるならば、かれらはこ
の自由な技術がもっともよく促進される」(前掲:195)と考えた。つまり、手仕事を生活(生き
る)のための強制的仕事として見做し、生きるためのやむを得ない仕事とした。そのために手仕事
には「快」は存在せず「不快」が存在するという認識であった。
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これは、手仕事を民芸の第一の条件とする柳の考えと大きく異なる。まず、カントの言う手仕事
と柳の手仕事には「自由」という要素が関わっている。前述したように、カントは手仕事と技術を
「自由」の概念を通して区分した。手仕事は自由(喜び)がないものであった。しかし、柳が言う
手仕事には、「幸いにも手仕事の世界に来ますと、人間の自由が保たれ、責任の道徳が遥かによく
働いているのを見出します」(『手仕事の日本』:28)というように、人間の「自由」が保たれて
いた。この「自由」は、手仕事と機械製品との比較によって根拠づけられた自由である。柳は「手
が機械と異なる点は、そもそもいつも直接に心と繋がれていることであります。(中略)手はただ
働くのではなく、いつも奥に心が控えていて、これがものを創らせたり、働きに悦びを与えたり、
また道徳を守らせたりするのであります」(前掲:14)と述べた。つまり、機械化されていく社会
の中で人間に手仕事はものを作る自由(喜び)を与えると認識した。結局、二人の手仕事に対する
認識の差は、産業化をどのように体験したかによる。
カントは 1724 年に生まれて 1804 年に死んだ。一方、柳は 1889 年に生まれて 1961 年に死んだ。
二人が生きた時代は 100 年以上離れている。当然、二人の時代の産業システムも異なる。カントの
時代は手仕事が産業のすべてを占めた時代である。一方、柳の時代は産業革命により、機械が前面
に出された時代で、手仕事は消え去りつつあった。つまり、このような時代による産業システムの
相違が、二人の手仕事に対する認識の相違として表れたと言っていいだろう。
さらに、二人の認識の相違は「生活」とも関わっている。カントが「生活(活きる)」の労働を
煩わしいものと捉えたのに対し、柳は「生活」を「すべてものの中心」(前掲:231)と捉えた。
生活には「用」という問題が潜んでいる。生活の労働を煩わしいと捉えたカントにとって「用」と
は意味を持たない。人の日常で食うために繰り返される手仕事は決して「快」にはならない。カン
トにとって手仕事は「不快」である。この「不快」によって生まれた品の本質である「用」も結局
は「不快」に繋がるのである。しかし、民芸において「用」は重要な要素である。柳は「生活と美
しさとを結ばしめる仲立は、実に用途のために作られる器物であります」(前掲:232)と言った。
そして柳は、当時の美的判断で「用」が「不自由なもの」12として捉えられ、軽く見られてしま
う傾向を「人間からすると不自由ともいえましょうが、自然からすると一番当然な道を歩くことを
意味します。それ故、かえって誤りの少ない安全な道を進むことになって来ます。ここで不自由さ
こそ、かえって確実さを受取る所以になるのを悟られるでしょう」(前掲:232)というように、
人間の自由よりは自然の法則がもっと確実であり、「用」こそが自然の法則に沿っていると批判し
たのである。「用」は、「美」における欠かせない要素であって、人々において「用」はすでに存
在していた、つまりア・プリオリな認識であった。柳は「用」を美的判断のプロセスから言えば
「アプリオリな悟性のカテゴリー」として捉えたといえよう。
民芸の本質は、より正しい「主観的・普遍妥当性」の確立であった。柳が考える立て直しの方策
の一つが伝統の価値の見直しである。柳は、「近代の機械による生産は世界を共通してしまった
し」(前掲:11)、日本の明治以後の近代化の加速は肯定的な点も多いものの、「日本的なものを
軽んずる風習」(前掲:24)が生じて、人々は伝統の価値を失ってしまった13と把握し、近代の
歪みを懸念していた。それゆえ、伝統を立て直す必要があると考えた。しかし、このような柳の考
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えは近代という時代の否定を意味するものではない。柳は伝統を、活きたものであり、そこには創
造と発展が伴うべきだと捉えた。この理由から、伝統を尊ぶことは「国家を大きくしまた強くす
る」(前掲:225)と考えていた。なぜなら、「伝統は文化の脈を指すのであり、歴史的なまた社
会的な性質を帯びる」(前掲:25)からであった。伝統を見直すために柳が注目したのも、やはり
手仕事であった。柳は手仕事を国民の特色が刻まれている伝統と見做した。特に彼が手仕事の中で
注目した項目は、正直で健康なものと深い信仰心の元で作られたものであった。特に「信心は人間
を真面目にさせ」(前掲:31)るという認識は、柳が民芸思想を構築する時、重要な要素となって
いた。
立て直しの二つ目は、「共通感覚」をもたせることにあった。これは、「下手物」と呼ばれる品
を見てすべての人に美しいと思わせることである。手仕事によって作られる「下手物」は工芸品の
一つである。柳は、工芸と美術の性格を「用いる工芸」と「見る美術」と区別した。工芸は「用」
が活きたものである。「用」は前述したように、柳にとって「アプリオリな悟性のカテゴリー」で
あった。
柳は工芸を機械による工芸と人間の手による工芸に分け、さらに人間の手による工芸を民衆的工
芸と貴族的工芸に分類した。そのうち、柳が対象にしたのが民衆的工芸である。柳が手仕事の一種
である貴族的工芸を排除したのは、貴族的工芸には「意識の超過や作為の誤謬に陥っている」
(『民芸とは何か』:28 )ものが多いと思ったからである。つまり、貴族的工芸は、その名のた
めに「美しさ」より「技巧」に力を入れたと判断していた。しかし、柳にとって民衆的工芸は、
「見棄てられた自然の花を工芸の世界で弁護しようとするのです」(前掲:27)と言う言葉からも
わかるように、自然美の表象であった。この考えは、民芸品がもつ「自然姿も質素であり頑丈であ
り、形も模様もしたがって単純」(前掲:23)で「作る折の心の状態も極めて無心」(前掲:23)
という性質に起因している。民衆的工芸が自然美の表象となるのであるが、人々に「民衆の器物が
受くべき価値以下に忘れられているのに対し、富貴な品は、受くべき価値以上に認められている」
(前掲:29)ため「これを修正されねばならぬ」(前掲:29)というのが、柳の主張であった。つ
まり、柳は民衆的工芸の称揚を通して忘れられた「共通感覚」を取り戻そうとしたのである。
Ⅲ.規範と「もの」
1941 年に柳は、東大の人類学教室で「民芸学と民俗学」というテーマで講演を行ったことがあ
る。これは、1 年前の民俗学の柳田国男との対談「民芸と民俗学の問題」を再整理し実例を挙げて
補足したものであった。二つの内容を少し比較してみると、「民芸学と民俗学」における柳の姿勢
は「是等の比較は双方の学にとっても、其の任務を果たす上に利益となろう。又将来相互に補佐協
力せねばならぬ事柄に就て理解を進めるのに役に立つであろう。」(「民俗学と民芸学」:272)
と、また「是等の学問の発達こそは、其の国民の歴史に確乎たる基礎を与え、引いては之が民族の
存在理由を鮮明にする所以ともなるであろう」(前掲:273)と書かれているように、民俗学を民
芸学のよき同伴者として考えていた。
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しかし、一年前の柳田国男との対談での柳の姿勢は、対抗的姿勢が強かった。対談14の場所は
民芸館であって、司会者は民芸側の人であった。対談の目的は「一般から混同され勝ちなので両者
の区別をはっきりとしておきたい」(「民芸と民俗学の問題」:24)という司会者のことばが表し
ているように、両学問の差別化にあった。対談の目的がはっきりした区別にあったためか、柳の柳
田に対する質問は最初から攻撃的であった。柳の最初の質問は「土俗学といふのは何時ごろからで
きあがっておりますか」(「民芸と民俗学の問題」:24)というものであった。この対談のテーマ
が「民芸と民俗学の問題」であるのに、敢えて柳は土俗学という言い方をしたのである。柳田は
「土俗学といふ言葉は非常に吾々にとって困るんで、土俗学といふと何だか土民といふ言葉を連想
するでせう。だからわれわれは土俗といはずに民俗といふ言葉をつかってゐるのです」(前掲:
25)と答えている。決して「土俗学」は柳田にとって好ましい言い方ではなかった。このことにつ
いて、笹原亮二は「民芸側が民俗学との違いを際だたせるために、民芸とは明確に異なる民俗学の
素性の一端を、その用語を持ち出すことで明示しようとした」(笹原 2005:274)と述べている。
しかし、単に相違を明示するために使ったと言い切ってしまうとあまりも単純すぎる。むしろ、
「土俗学」という言い方には対談を通して民芸の正当性や優越性を描く柳の思いが働いたと言えよ
う。たとえば、柳が対談を通して得られた両学問の相違は、「哲学的述語を用いれば、民俗学が経
験学なるに対し、民芸学が規範学たることにあろう。或は之を云い改めて、前者が記述学なるに対
し、後者が価値学たることにあるのを指摘出来よう」(「民芸学と民俗学」:274)ということで
あった。民芸学を規範学と価値学として、民俗学を経験学と記述学として定義したのである。柳に
とって規範と経験という分類はとても大きな意味があった。柳は、この対談の約 20 年前に「規範
と経験」について論じたことがある。そこで彼は規範とは「当為」であって「無上な命令の意を含
んでいる。故に規範はその性質上、純に客観的である。一切の真理は此普遍的基礎に依拠するが故
に、始めて一般的真理たり得るのである」(「規範と経験」:144)と述べた。そして経験は「こ
の先験的規範によって構成され、整理され、始めて客観的真理たり得るのであると云われている」
(前掲:144)と述べた。つまり、民芸を規範学として定めることは民芸を民俗学の上に立たせる
ことになり、民芸の優越性が正当化されることであった。
規範学や価値学への柳の拘りはカントに起因している。柳は東大の「民芸学と民俗学」の講演の
最後を次のように言って閉めた。
カントは実践理性学、即ち道徳学の他の学問に対する優位 primat を説いたが、価値学は常
に記述学の基本をなす本質的学問たる意味がある。何故ならそれは理念に関する学だからであ
る。形而上学は形而下学の基礎たる可き性質があることを見忘れてはならない。同じように価
値学としての民芸学は、記述学としての民俗学より、更に基礎的なものと云える。それは科学
の方が一層本質的学問だと云うのと同じである。科学が深まる時は、哲学に触れる。哲学に深
まらない科学は、科学に徹したものとは云えない。それは何も分野を破ると云う意味ではなく、
より深い基礎を育ち、より高い視野を得る所以である。(「民芸学と民俗学」:287)
70
カントの判断構造に共鳴して、民芸を通して人間の眠っている「共通感覚」を引き出し、より健
全たる社会を考える柳にとっては規範や価値という言葉は自分を支える力であり、民芸を意味づけ
る必修条件であったに違いない。そのため、柳は柳田との対談に攻撃的であったし、最初から「土
俗学」という言い方をしたのであろう。
対談を通して民芸を規範学として定められた大きな根拠は「文化的行動性」である。対談の司会
者は「民俗学といふやうなものには直接的な文化的行動性といふやうなものはないんですね」
(「民芸と民俗学の問題」:27)という質問をした。柳田は「さういふものはないんです。(中
略)事実を正確に報告するだけで充分です」(前掲:27)と答えた。この「直接的な文化的行動
性」の有無を聞いて柳は前述のように民芸を規範学や価値学として定義したのである。
「直接的な文化的行動性」とは如何なる意味であろうか。端的にいえば、「直接的な文化的行動
性」というのは将来に投機するものであるか否かの問題である。この対談で柳田は民俗学を「過去
のことを正確づけやうとしてゐる運動」(前掲:26)と定めた。つまり、民俗学が目指すのは正確
な歴史の確認であった。一方、柳は「おそかれ早かれ将来において、さうしたものが現はれる、あ
るひは現はれなければならない部分が、これらの古い民芸のなかにふくまれてゐると信じて」(前
掲:28)民芸運動を行っていた。つまり民芸は、現在は伝統の建て直しと、より正しい「主観的・
普遍妥当性」の構築に力を入れているが、その力によって将来的にはもっとよい品が作られるとい
う伝統の連続性の中での進化を目指していたといえる。両者の運動は伝統というものに注目した点
では同じであったが、それを見る眼差しは、柳は未来に、柳田は過去に向いていた。この眼差しの
相違が「文化的行動性」の有無を決定したのである。
しかし、民俗学に全く文化的行動性がないとは言い難い。事実、後年に柳宗悦と柳田国男との対
談に対して民俗学側から不満の声が度々飛び出した。1973 年に『季刊柳田国男研究』では「対談
柳田国男と柳宗悦」15というテーマで座談会が行われた。この座談会の前半は柳と柳田の対談に
関する話が大半を占めている。座談会のメンバーの一人の有賀は「柳田先生が普段考えていること
はやはり実践の問題もあるんですね。国民の幸福ということをいっていますから。それが座談会の
なかにひとつも出てこないから柳さんは柳田先生のほんとの考えがわからないわけです」(「柳田
国男と柳宗悦」:12)と述べて、「柳田先生が、民俗学について自分のほんとの考えを、柳さんに
もっと親切にいうべきだったと思うんです。そうでないものですから、柳さんは浅いところで民俗
学と自分の民芸とは非常に違うと思ってしまったわけです」(前掲:19)と柳田の消極さを批判し
ている。しかし、柳田の消極さの理由16が如何なるものであれ柳田の消極さによって柳は民芸の
正当性を確保したということは変わらない事実である。同時に柳がよき同伴者であり、ライバルと
思っていた柳田に失望したことも事実である。
柳が「民芸学と民俗学」という講演で民俗学に対して「将来相互に補佐協力せねばならぬ事柄に
就て理解を進めるのに役に立つであろう」と民俗学に対してよき同伴者として好意的姿勢を見せた
にもかかわらず、実際には両学の中心人物である柳と柳田は座談会以外には殆ど付き合いがなかっ
た。「対談柳田国男と柳宗悦」という座談会で、有賀が「柳さんはこの座談会(民芸と民俗学の問
題)で、柳田先生ともう縁なき人とみたんじゃないかと思いますよ」(前掲:24)と指摘してい
71
るように、対談後の柳は柳田に対する失望感を度々表明した。柳は民俗学者金関丈夫と親しい関係
にあったが、金関は柳田とも親しい関係でもあった。その関係を承知していた柳は金関に次のよう
な手紙を送った。
ご趣旨は小生もとより賛同、実は琉球方言の件も、もともと人道問題として公憤を感じたる
がもとなるも、これを文化価値問題として取り上げる方、人々を納得さす上に遥かに効果的だ
と考えたから外なりません(中略)台湾におられる貴兄が価値問題よりも人道問題と主とせら
れる心理は小生にも充分よく分かります。それ故小生の一文よりも柳田氏の短い句に一層打た
れたと云われる貴兄の気持ちもよく分かる気がします。(中略)只小生が人道問題の面をおろ
そかにしている如く受け取れる個所があることには、小生多少不服を感じました。なぜなら人
道的義憤がなかったら県庁等に立ち上る事はなかったでしょう。そうして殆ど凡ての民俗学者
がなすように、只自己の学問に探求を止めたでしょう。(「書簡」:200)
この手紙17には「柳田氏の短い句に一層打たれたと云われる貴兄の気持ち」とか「凡ての民俗
学者がなすように、只自己の学問に探求を止めたでしょう」と書かれているように、柳田や民俗学
のやり方に対する柳の不満が鮮明に露出されている。また、今はその手紙が見当たらないが金関の
話によれば「柳田さんなどは自分の学問のための調査はするが、島のもののためになるようなこと
はなにもしないのではないか」18と不満を表したようである。この不満は言い換えれば、民俗学
の「文化的行動性」の不足への不満である。柳において「文化的行動性」とは何より大事な要素で
あった。しかし、柳が見る限り柳田や民俗学には、「文化的行動性」を欠いていたのである。柳が
「鑑賞も調査も自身のことに終って、朝鮮の運命を憂え、朝鮮の人達に情愛を抱き、何かそのため
に私を忘れて尽すというような人には中々廻り会えない」(『朝鮮とその芸術』:2)と書いたこ
とも、文化的行動性の大事さを訴えていることである。文化的行動性は民芸において欠かせない条
件である。では、民芸の文化的行動性と民芸の対象である「もの」は如何なる関係にあろうか。
柳田は民芸を「どちらかというと物体をとりあつかう考古学の方に近い」(「民芸と民俗学の問
題」:27)と述べた。これに対して柳は考古学が価値観を論じていない点を取り上げて民芸と考古
学とを区別した。民芸は「もの」の価値を重要視するということである。なぜ、民芸から見ると
「もの」に価値があるといえるのだろう。それは柳の特別な「もの」の捉え方に起因している。彼
は「人間も活きた<もの>であり、歴史も動きつつある<もの>に外ならない。只そういう<具体
的なもの>の実例として品物が一番手近なものであるのは言うを俟たない」(『物と美』:2)と
言った。柳にとって「もの」は、人間のそのものの象徴であった。それゆえ、人間を知るためには、
その実例である品物を研究しなければならない。そして研究が目指すところは「ここに一つの品物
があるとして、その存在理由の最後のものは何であろうか。それは品物がもつ美的価値に外ならな
い」(前掲:21)と言ったように、「もの」の質、言い換えれば美的価値を追求することであった。
考古学が「もの」を扱っていると言っても「ものの質」を追求しない以上規範学にはなれない。民
俗学が「もの」である「民具」を対象にしていても「民具であればどんな民具でもよい」(前掲:
72
17)という研究である以上、それも「もの」の研究ではなく「こと」の研究に過ぎなかったのであ
る。
「もの」は人間存体の象徴であった。さらには人間の自然への帰依を果たすものであったと言える。
こうした発見に至った柳が本格的に「もの」の重要性を感じたのは、朝鮮の陶磁器に出会ってから
である。柳は朝鮮の陶磁器を見て次のように述べている。
器は生まれたのであって作られたのではあらぬ。偉大な芸術の法則、即ち自然への帰依がそ
こには果たされているではないか。自らの作為を愛するなら、どうしてあの様な走りが筆觸に
あろう。どうしてあの様に無心な高臺が生まれ得よう。どうしてあの五、六の線で安心しきる
事が出来よう。李朝の陶磁器の美は自然が加護していると私は想う。(『朝鮮とその芸術』:
235)
柳は朝鮮の陶磁器から「もの」に対する新しい発見をした。今まで無視されがちであった「も
の」から柳は「自然」を見たのである。彼は近代化する社会の中で人間の作為的心を「もの」を通
して再び自然に帰したかった。つまり、「もの」には柳が追求する文化的行動の方向性が示されて
いて、柳は「もの」を通して正しい方向に進めると確信したのである。柳は、人間は「かくあらね
ばならぬ」と述べた。民芸の使命も「かくあらねばならぬ」ものである。柳の主張する民芸は近代
化が助長する人間の歪みに対する抵抗であり、それを修正しようとする柳の強い願望が彼を「も
の」への執着に向かわせたといえよう。
おわりに
柳にとって近代は発展の時代であると同時に伝統を失った時代であった。人々は科学を通して
「自然」の様々な真理を究明した。しかし、その努力は、西洋思想を基礎としたため、不完全なも
のであった。柳は、その不完全を補う手がかりは西洋ではなく東洋にあると考えた。そこで柳がま
ず目を向けたのが、自国の伝統の品々、つまり民芸品であった。柳宗悦にとって民芸品、すなわち
名もない人々が手仕事によって作った「もの」は、単に生活のための道具ではない。それは、人と
自然の合一の象徴であった。こうした民芸を通して“完全”となる理想の近代が構築できるのでは
ないかと考えたのである。
柳が生きた時代の人々には民芸の美しさは認識されておらず、ただ「下手物」としか見られてい
なかった。理想の構築のために、柳が最初に企てたのは民芸品の美しさを普遍的に認識させること
であった。この状態のままでは「民芸」の美しさは成り立たない。皆に美しいと認識させるために
は、皆に「共通感覚」が存在しなければならない。「共通感覚」は「用」を正しく理解することで
得られる。「用」は「もの」を用いるという意味である。「もの」が前提とされていなければ、認
識に「用」は働かない。柳は「もの」自体に注目し、「用」のために生まれた「もの」には、自然
の法則が存在するという考えを導き出した。とりわけ手仕事による「もの」は人間の心と繋がって
73
いるということを説いた。機械化の波が押し寄せた近代は「もの」を“不純”なものにしてしまい、
人が自然から疎外されつつある状態を憂い、柳は、再び人間を自然に回帰させようとしたのである。
柳にとって、伝統的な手仕事による「もの」は、人間と自然の調和の象徴であった。自国の伝統
を汲む手仕事によって生み出された「もの」に目を向けることは、非常に重要なことであった。そ
れゆえ、彼にとって、民芸学は規範学であるべきものとなった。端的にいえば、民芸の目的は、人
間と自然の調和だったといえるのである。
民芸が現在まで広く引き継がれているからと言って、柳の努力がすべて実り理想の構築が成功し
たとは言い難い。しかし、自然破壊によって成り立たざるを得ない近代文明が続く限り、「人間と
自然の調和」という柳の理想はいつまでも生きつづけ、民芸にアクチュアリティを与えることであ
ろう。
註
1
「彼らは絵画の美術史的な意味を理解しておらず、芸術より芸術家としての生き方を伝えよう
とした」(高階 1993:326)、「西洋の絵画は実篤や『白樺』派の作家たちにとって、未成熟な自
我の成長を支え、はげますという役割を持ったものであったこと、彼らの求める生き方、すなわち
自我の実現の先例として西洋の画家たちが見つめられていた」(清水 2001:219)
2
妻兼子宛の手紙 1913 年 11 月 4 日(『柳宗悦全集 21 巻上』)160 頁
3
柳の「哲学的至上要求として実在」(『白樺』1915 年 1 月 2 月号)という論文で述べる内容が
「自己の思想の出発点であり、かつ思想の根底であると語っており、重要である。その思想的核心
は、特にカントの『実践理性批判』の<道徳律>に永遠の真理を認めて、それを思想の根底にした
とする点にある。(中略)柳の核心的文言が、カントの『実践理性批判』の結びの文言からの直接
的引用であることは明らかであ」る。(韓永大 2008:256-257)
4
「<このバラは美しい>という判断は、主観的であるが同時に普遍的である。それは<主観
的・普遍妥当性>をもつのである。正確に言えば、この判断を下した者はだれでも、その判断に対
してすべての他者が(普遍的に)同義することを要求する権利がある。(中略)この種の判断力に
おいてはたらく認識能力、構想力と悟性は、個人個人の特殊な事情を除去すれば、万人において一
様であり、またそうでなければならないからである」(石川 1995:199)
5
「この調和そのものは、普遍的に伝達されうるのでなければならなず、したがって、この調和
の感情(ある与えられた表象に際して)もまた、普遍的に伝達されることができなければならない
が、しかし感情の普遍的伝達可能性は、共通感覚を前提するのであるから、ここで共通感覚は、根
拠をもって想定されることができるであろう」(牧野訳 1999:104)
6
「私が宗教問題から美の問題に入った事を惜しむ友人も時折あるし、また逆になぜ美の問題に
宗教をも併せて論じるかを訝かってくれる友人もあるが、これ等の二分野が二つであって、しかも
二つでないことを理解してくれるなら、私の二種の選集もその連絡理由がはっきりするかと考えら
れる。」(『宗教とその真理』:6)
7 ある花の香りに快と感じる人がいれば、不快と感じる人も存在する。すなわち「人間には相違
があると表象しなければならず、こうした諸対象についての快があらゆる人によって承認されるこ
とは、端的に要求されることはできない。この種の快は、感官を通じて心のうちに入り込み、それ
故われわれは、その際受動的であるから、この種の快は享受の快と呼ぶことができる。」(牧野訳
1999:178)
8
合法則的活動の快とは道徳と関わる感情である。カントは「ある行為の道徳的性状のためにこ
の行為について得られる満足は、享受の快ではなく、自発的活動の快であり、この自発的活動が行
74
為する者の使命の理念と適合することの快である。しかし、人倫的感情と呼ばれるこの感情は、諸
概念が必要であり、また自由な合目的性を描出せず、むしろ合法則的な合目的性を描出する」(牧
野訳 1999:178)と言った。
9
「<直観>の思想は、明らかにブレイクを究める以前の宗悦の中では未だ萌芽の状態でしか存
在していなかった。『哲学におけるテムペラメントに就いて』において『偉大な真理とは、いつも
偉大な個性の実経験によって形造られるより自発的直感の衝動によっている』と書いているように、
それは単に<直感>と表現されるものでしかなかったのである。ブレークを識ることによって<直
感>は速やかな熟成を遂げた。そして、その重大な意味を宗悦に感得せしめるべく<直観>と書き
改めさせるに至るのだ。」(水尾比呂志 2004:83)
10
柳によれば「立場なき立場」は「絶対的立場」と置き換えられる。「立場なき立場」の適例と
して禅宗をあげている。「禅宗というも、禅は宗派ではないのである。一つの立場をも許さぬ境地
を禅とこそ呼ぶのである。」(『工芸の道』:7)
11
自分の力で修行して悟りを得ようとすること。美学において天才主義は自力ともいえる。
12
柳は「不幸にも今までの多くの人たちは、実用という何か卑しい性質のもののように考えまし
た。そのため実用品を『不自由な芸術』と呼びました。実用ということに縛られているからであり
ます、自由な芸術を尊んだ時代に、不自由な工芸が軽く見られたのも無理はありませんでした」
(『手仕事の日本』:232)と述べた。「用」のために作られた品が「用」に縛られて不自由な芸
術と呼ばれることは「用」の「用いる」という性格を規則的な拘束力として捉えたからである。
13
『手仕事の日本』の「前書-手仕事の国」と第1章「品物の背景」を参照
14
対談は民芸館で柳宗悦、柳田国男、沖縄人県人比嘉春潮、司会式場隆三郎、4 人で行われた。
対談は、先ず柳、柳田、式場の 3 人による「民俗学とは何か」、「民芸と民俗学の相違」、「民芸
と民俗学の共通点」、「民芸の将来性について」という内容について行われた後、比嘉氏が加わっ
て「沖縄の標準語問題批判」という内容順で行われた。
15
「柳田国男と柳宗悦」というテーマの座談会は『季刊柳田国男研究』の主催で、有賀喜左衛門、
宮本馨太郎、戴国煇、谷川健一の 4 人が参加し、1973 年 9 月 1 日に『季刊柳田国男研究』に載せ
られた。
16 この受動的姿勢に対しては「告白できない人だった」(前掲:25)或いは「自分は本を読んで
るくせに、若いやつには実態調査だけをやれやれといっている。あのやり方というのはかなりエゴ
イストだという側面がある」(前掲:25)というように、柳田が積極的に説明しなかった理由とし
て柳田の気質まで挙げているが定かではない。
17 1940 年 10 月 3 日の金関丈夫宛の手紙である。金関の『月刊民芸』への寄稿と手紙に対する感
謝の返事である。おそらく寄稿文は 1941 年の 5 月号に載せられた「海南島の窓」である。金関
からの手紙は現在確認できないが、柳の人道的立場の不足について指摘したと思われる。
18
1980 年の 1 月号の『民芸手帖』には民俗学者である池田敏雄の「柳宗悦と柳田国男の<不親切
>」という文が掲載されている。内容は池田が見た柳と柳田に関する話であり、金関から聞いた話
を元に柳の柳田に対する不快感を説いている。池田は、沖縄方言論争で県庁への柳の抗議に対して
県の職員が「柳田先生などはそんなことしない」という発言を聞いて更に深く柳田を誤解するよう
になったと説明している。柳が県職員の挑発にのってしまったというのが池田の考えである。
参考文献
・柳宗悦著作
「民芸学と民俗学」、『柳宗悦全集 10 巻』、1982 年 8 月
「革命の画家」、『柳宗悦全集1巻』、筑摩書房、1981 年 8 月
「ヰリアム・ブレイク」、『柳宗悦全集 4 巻』、筑摩書房、1981 年 6 月
75
「哲学に於けるテムペラメント」『柳宗悦全集 2 巻』、筑摩書房、1981 年 3 月
「書簡」『柳宗悦全集 21 巻中』、筑摩書房、1989 年 9 月
『工芸の道・柳宗悦選集 1 巻』、春秋社、1972 年
『朝鮮とその芸術・柳宗悦選集 4 巻』、春秋社、1972 年
『物と美・柳宗悦選集 8 巻』、春秋社、1972 年
「規範と経験」、『宗教とその真理・柳宗悦宗教選集 1 巻』、春秋社、1960 年
「編輯室にて」、『白樺』1 巻 7 号、1910 年
「民芸と民俗学の問題」、『月刊民芸』2 巻 4 号、1940 年
『民芸とは何か』、講談社学術文庫、2006 年
『手仕事の日本』、岩波書店、1985 年
水尾比呂志編、『美の法門』、岩波文庫、1995 年
水尾比呂志編、「東洋文化の教養」、『柳宗悦随筆集』、岩波文庫、1996 年
・その他
「対談柳田国男と柳宗悦」、『季刊柳田国男研究』3 号、1978 年
里見弴、「フェリックスヴァロットン」、『白樺』第 1 巻 2 号、1910 年
牧野英二訳、『判断力批判・上(カント全集 8 巻)』、岩波書店、1999 年
高階秀爾、「『白樺』と近代美術」、『日本近代の美意識』、青土社、1993 年
遠藤望、「武者小路実篤と美術」、『国文学解釈と鑑賞』64 巻 2 号、至文堂、1999 年
清水康次、「『白樺』派の作家と西洋絵画」、『日本文学と美術』、和泉書院、2001 年
水尾比呂志、『評伝柳宗悦』、ちくま学芸文庫、2004 年
竹中均、『柳宗悦・民芸・社会理論―カルチュラル・スタディーズの試み』、明石書店、1999 年
韓永大、『柳宗悦と朝鮮―自由と芸術への献身』、明石書店、2008 年
石川文康、『カント入門』、ちくま新書、1995 年
笹原亮二、「用と美―柳田国男の民俗学と柳宗悦の民芸を巡って」、(熊倉功夫・吉田憲司共編)
『柳宗悦と民芸運動』思文閣出版、2005 年
池内健次、『カント哲学』、ミネルヴァ書房、2008 年
池田敏雄、「柳宗悦と柳田国男の<不親切>」、『民芸手帖』260 号、東京民芸協会、1980 年
76