自分との比較は希望に繋がり,求めれば与えられる (2015/5/7)

自分との比較は希望に繋がり,求めれば与えられる (2015/5/7)
入学式では,二つの D,Do やることと,Dream 夢や志をもつこと,二つの E のうちの一
つ Encounter,出会いを紹介しました。入学式の記憶が新しい内に,二つの補足をします。
一つ目の補足は,もう一つの E,Effort 努力です。イチローは「努力せずに何かできるよう
になる人のことを『天才』というのなら,僕はそうじゃない。努力した結果,何かができるよ
うになる人のことを『天才』というのなら,僕はそうだと思う。人が僕のことを,努力もせず
に打てるんだと思うなら,それは間違いです。
」と言います。皆さん,努力してつらくなる時
はどんな時ですか。おそらく努力しても成果が出ない時でしょう。しかし,努力しても成果が
出ない時は,焦らず努力し続ければ成果は出てくると思います。一番問題なのは,私はこんな
に努力しているのに○○さんの足元にも及ばないと,他人と比較することです。イチローは「比
較するのはあくまで自分です。もちろん他人の記録も尊いと思いますけど,まずは自分の能力
を競わないと」と,言いました。他人との比較は絶望につながりやすいです。まずは過去の自
分と今の自分とを見ること,そうすれば自分の伸びが分かり希望につながり,やる気も出ます。
3月の卒業式での植田松韻会会長さんが話された「ウサギとカメ」の話で,2・3年生は,
ウサギが負けた理由を会長さんがどう話されたか覚えていますか。ウサギは○○を見ずに,○
○を見ていたから,負けてしまったのですね。ウサギは(少し間を置き,意見が出れば言わせ
る。),ゴール,つまり目標を見ずにカメを見ていたから,負けてしまったのです。カメを見
るとは,他人と比較することです。まだ,あんな所にカメがいる,もう少しゆっくりしていて
大丈夫と油断して寝てしまい,負けてしまいました。まずは他人を見ずに目標を見ることです。
以上,話してきたことをまとめます。努力はとても大切です。そして,努力している時に見
るべきものは,まずは目標と過去の自分であり,他人ではないということです。目標はなりた
い未来の自分と言いかえられそうですから,努力している時に見るべきものは,過去の自分,
今の自分,なりたい自分となります。今の自分から過去の自分を見て努力の成果である成長を
確認し,それを励みになりたい自分に向かっていくことが大切になってきます。
では,二つ目の補足。入学式で,
「二つ目は Dream,夢です。何のために Do,やるかと言
えば,夢や志を実現するためです。夢や志をもてば,やる気もでます。
」と言いました。私は,
研究が進まず思い悩んでいると,その研究に役立つ人や情報や物が向こうからやってくるよう
な出会い(Encounter)をしばしばします。これは,それまでつりに関心がなかった人が,つ
りに関心を持つと,いつも通る商店街に立派な釣り道具屋を見つけ,こんな店があったかと思
うような体験と似ています。皆さんは,そんな体験ありませんか。関心がなければ,たとえ目
の前に,その人・もの・ことがあったとしても見すごしてしまいます。関心を持つようになり,
目にとまるようになったと言えます。前回「求めよ,さらば与えられん。
」と言いましたよう
に,夢や志を持って顔晴り続ければ,夢や志の実現を助けてくれる人やもの,こととの出会い
(Encounter)があると思います。その時は,その出会い(Encounter)を大切にしましょう。
ところで,1年生の皆さん,私の「顔晴る」は,普通に書く頑張るではありません。どんな
字を書くかは2・3年の先輩に聞いて下さい。
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あなたは石を投げられますか?
(2015/5/25)
新年度も本格的に始まり,清々しい季節になりました。1年生も中学校生活に少しは慣れま
したか?(何人かの生徒がうなずいています)
。新年度開始から今までに「やっちまった」と,
失敗や間違いを犯して悔やんだ人いませんか。友達の間違いを見て馬鹿な人と思ったり,あん
な馬鹿とは関わりたくないと思った人いませんか。今日は,そのことと関わる話※をします。
ある時,イエス・キリストのもとに女が連れてこられました。女はその当時の社会では受け
入れられない間違ったことをしていたところを捕らえられました。女を連れてきた人々は「先
生,きまりでは,このようなことをした女たちは石打にするように,命じられています。そこ
で,あなたは何と言われますか」と,イエスに言いました。石打とは,皆で石を投げつけるも
のです。皆から石を投げつけられれば(間をおく)
,女は死んでしまいます。連れて来た人た
ちはイエスを試して,やっつけてやろうと思ったのです。イエスは低くかがんで,指で地面に
何かを書いていました。しかし,彼らがしつこくどうするのかと問い続けるので,イエスは身
を起こし,
「あなたがたの中で罪のない者が,最初にこの女に石を投げなさい」と言いました。
そして,再びかがみこんで地面に何かを書き続けていました。このことを聞いた者たちは,年
長の者から始まって一人また一人と立ち去り,イエス一人と,連れてこられた女だけが残りま
した。イエスは身を起こし,
「女よ,あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めな
かったのか」と女に言いました。女は言いました。
「誰もいません」
。そこで,イエスは「私も
あなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう道を誤らないように」と,言ったのです。
イエスが「あなたがたの中で罪のない者が,最初にこの女に石を投げなさい」と言った時,
誰も石を投げられませんでした。罪のない者は,間違ったことをしたことがない人ぐらいに考
えて下さい。罪がない人は,人の物を盗んだり,人を傷つけたりしたことがないのは勿論,羨
んだり妬んだりしたこともない人です。羨みや妬みがひどくなれば,人を殺すこともあります。
皆さん,一度も間違いをしたことがない人はいますか。たぶんいませんね。私も含めて。皆,
間違ったことを多かれ少なかれしているなら,間違った人をいつまでも咎めたり,必要以上に
厳しく咎めるのはどうなんでしょう。では,間違ってしまった人はどうしたらいいのでしょう。
最後に,私の好きな詩であるブッシュ孝子さんの「あやまち」を紹介します。
あやまちは誰でもする
つよい人も弱い人も
えらい人もおろかな人も。
あやまちは人間をきめない
あやまちのあとが人間をきめる。
あやまちの重さを自分の肩にせおうか
あやまちからのがれて,またあやまちをおかすか。
あやまちは人生をきめない
あやまちのあとが人生をきめる。
※ 新約聖書ヨハネ福音書8章 10 節-11 節
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