十字架の道

こ う い のっ た ら
どうか
br.Job T.,ofm.
十字架の道
イエスが、誰なのかを悟るためには、十字架を理解することが、どうして
も必要です。キリスト教といえば、人は十字架を思い浮べます。それほどに
《しるし 》としての十字架は知られていますが、なぜイエスが十字架の道を
たどられたのかは知られていません。十字架は、受難と死を示す《しるし 》
です。この《しるし》の示す意味を悟ることなしに、イエスがキリストであ
り、福音そのものであることがわからないでしょう。
イエスの生涯を通して決定的に働いていたのは、父である神への従順でし
た。「私が願うことではなく、み心に適うことが行なわれますように」(マ
ルコ 14:36)ここには〈十字架が必要なら、ご計画どおりにしてください、
私は十字架を担います〉という覚悟のほどが感じられます。イエスが「神の
国と神の義」のために、受難と死への 道をすすんで引き受けられたことを、
イエスをキリストと信じる者にとっては、見逃すことのできない 課 題 で す 。
他方で、イエスと弟子たちの間に は、大きな落差がありました。これは私
たちとの間に見られる落差であり、誤解です。私たち、イエス・キリストに
信従しようとしている者は、誰であっても十字架の道を通して「神の国と神
の義」を実現し、また復活の神秘に もいたることでしょう。十字架の神秘が
分かる、これは「畑の中の宝、高価な真珠」 の発見です。
「心のうちに愛を宿せば宿すほど、苦しみの必要を感じるでしょう」
聖マキシミリアノ・コルベ
内省のために :
☆
神から先に愛された者としての自覚と感謝がありますか?
そうでしたら神の国のために自己放棄をすることも必要です。
自己放棄がなければ、傲慢になり、忘恩になります。
★
無償の恵みを度々受けたものとしての喜びがありますか?
恵みによって、自分自身 を受容できなければ、卑屈になります。
聖書の個所:
マタイ
16:21~27
ヨハネ
12:23~27
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ」
フィリ
2:1~11
「かえって自分を無にして、しもべの身分に なり、」
ロ
6:1~14
「死の姿にあやかるならば、復活の姿にも」
マ
イエス、死と復活を予告する
フランシスコとともに祈る:No.14
十字架につけられたキリストへの愛(25 頁)