1 マルコの福音書 6章45~56節 マルコの福音書を続けて読んでいます

マルコの福音書
6章45~56節
マルコの福音書を続けて読んでいます。先々週は5千人の給食の個所でした。イエスは弟
子たちに休息を与えようとしてそして、彼らは船に乗ったのですが群衆は彼らに休ませる
ことをゆるさず、イエスも群衆を憐れんで、いろいろと教えられ、歳以後には5千人もの
群衆に食事を与えたという場面でした。
1.今度は本当に休息を与えたかった。
「イエスは強いて船に乗り込ませ」とあるように、今度は本当に弟子たちを休ませたいと
願っていたのでしょう。強いてとあるように弟子たちはやっぱりイエスのそばにいたかっ
たようですが、それでも強いて船に乗り込ませたのでした。
そして向こう岸の
ベツサイダへ行かせたとあります。今度はしっかりとイエスと弟子は
別行動をとっていたようです。イエスは残って群衆を解散させておられました。5千人の
給食の出来事の後ですのでもう時間もすっかり夜になっていたことでしょう。群衆もほっ
といたらそれこそ徹夜でもイエスのそばに居る勢いだったのでは、と思われます。しかし
イエスには「ことばに出せばそれがそのまま行われる」という神の力がありましたから、
5千人の群衆の解散も無難になさったことだと思われます。
弟子たちは湖を渡って行きましたが、イエスは祈るために山の方に向かわれました。
休息をとれない弟子たちのために弟子たちとは真反対の方に行かれたのです。
2.その山に行かれたはずのイエスは不思議な行動をとられます。
「イエスは弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを」ごらんになった、とあり
ます。先ほどイエスは山のほうへ行かれたとありました。では弟子たちの様子はどこから
ごらんになっていたのでしょうか。山の上でしょうか。イエスは陸地に残られたとありま
すので岸辺におられたのでしょうか。いずれにしろ船はもう湖のほうへ出ているわけです
からとても人の目では見える場所ではなかったと思われます。ましてや時間ももう遅くな
っていて、夜中の3時ころとあることから人間の目では見えない状況であったことは確か
です。
ここにもイエスが神の子として、人間の能力をはるかに超えたものを持っておられること
がわかります。
しかし、イエスご自身もお疲れのところであったにもかかわらず、弟子たちの様子が心配
で、千里眼のようなパワーを使われたということは、やはりイエスはどこまでも弟子たち
のことを心配しておられる方なのだと思われます。
イエスはいつも私たちのことを心配しています。人生の海の中を向かい風にあってこぎあ
ぐねていないだろうか、船は沈没しそうではないか、向こう岸にたどり着けるだろうかと
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天の上からわたしたちの船を見ておられます。
そのようにしてイエスは弟子たちの船を見つけられます。
3.神としての表れ
弟子たちの船を見つけられたイエスは船に近づいて行かれました。そしてそばをとおり過
ぎられようとしました。イエスはなぜそのようなことをされたのでしょうか。
イエスがもし船をこぎあぐねている弟子たちを助けるつもりならばまずこの船に乗り込ま
れるはずです。しかしイエスはそばを通り過ぎようとされたのです。
船の上での出来事、として思い出すのは4章39節の箇所です。嵐にあった船がイエスの
一言で波は静まったという箇所です。イエスはここではそのようなことはなさらずにただ
通り過ぎようとされています。
この、とおりすぎるという行動は何を意味するのでしょうか。イエスの目的は何だった
のでしょうか。
「通り過ぎる」という言葉で思い起こすのは出エジプト記でモーセと主の遭遇の箇所、そ
れと逃亡生活を強いられている預言者エリヤの個所です。
出エジプト記33章18~22節
「すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は仰せ
られた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの
前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」 ま
た仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生
きていることはできないからである。」 また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわら
に一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わた
しはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおってお
こう。」
第一列王記19章11節の預言者、エリヤとの遭遇の場面にもとおりすぎる、という表現
があります。
「主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り
過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はお
られなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。」
主が臨在されるとき、その姿をじっと見ることはできません。モーセやエリヤといった優
れた預言者でさえ神はその前を通り過ぎたのです。
イエスが、ここではそばを通り過ぎることで神であるご自身を弟子たちに現すことをなさ
いました。弟子たちにもし思慮があればイエスが神の御子であることに気づいたことでし
ょう。イエスの本当の姿を知ることができたはずでした。
しかし、弟子たちはそのことに気づきません
それどころか弟子たちはイエスのことを幽霊だと思ってしまいました。神の表れについて
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まだ弟子たちは理解していなかったのです。
私たちは時として神の御わざとしか思えないような不思議な出来事にであうことがありま
す。思っても見なかった恵みを与えられることがあります。祈ったら与えられたというこ
とがあります。しかし、与えられた途端にそれが神からのものであることを忘れてしまう
ことがあります。おねだりのお祈りはするけれど、与えられた時の感謝の祈りがなかなか
できないものです。神はそのように私たちの前をとおり過ぎられる方なので、私たちの方
から神を見失わないようにしなければなりません。弟子たちの心に本当の意味で神の御子
イエスの姿があればイエスと気付いたはずです。しかし船に乗った彼らは船のことで頭が
いっぱいになってしまいイエスのことが頭から離れてしまいました。そこにイエスが現れ
たので幽霊だと思って叫び声をあげたのです。
そばを通り過ぎられるイエスを見逃さないようにしましょう。
4.イエスは話しかけられた
さてイエスはおびえる弟子たちに話しかけられました「しっかりしなさい。わたしだ。恐
れることはない」
イエスはすぐに話しかけられています。イエスの目的は決して弟子たちを脅かそうとかび
っくりさせようとか、そういうものではなくイエスの存在を神の表れであるということに
気づいてほしかったところにあります。しかし弟子たちはおびえたままでした。イエスが
船に乗り込んでからもそうでした。イエスが船に乗り込まれると風がやんで船は安定した
はずなのに、「彼らの心中の驚きは非常なものであった」のです。イエスが創造の神であ
り一切の支配者であるということが分かっているならば、弟子たちはこんなに動揺するこ
とはなかったでしょう。たとえイエスが湖の上を渡っておられたとしても、船に乗り込ま
れて風がやんだとしても驚かなかったでしょう。
弟子たちは2匹の魚と5つのパンで5千人が満腹できたことから悟ることがなかったので
す。無から有を生み出し、ことばがそのまま現実化するイエスの神の御子としてのあり様
を悟ることがなかったのです。
5、群衆はやって来た、彼らのほうが信仰深いかも
イエスと弟子たちは湖のむこう岸につきました。彼らが船から上がると人々はすぐにイエ
スと気付いたとあります。そして病人を連れてきてせめて着物の端にでも触らせるように
したとあります。
船の上の弟子たちとの対比がここにあります。イエスにつき従い、その権威を与えられて
いた弟子たちは心のかたくなさのゆえに湖の上でイエスに気づきませんでした。しかし民
衆はすぐに分かったのです。
私たちはすでにイエスを知っていると思っています。しかし時としてその姿を見失うこと
があります。
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むしろ未信者がイエスのことに敏感で多く感動している姿を見ることができます。信仰歴
が信仰の邪魔になることがあります。
せめて着物の端にでも触らせてくださるように、とのことは2度この福音書に出てきます。
この純粋な信仰を失わないようにしたいと思います。
小樽福音キリスト教会も長い歴史がありますが、主の前にいつも新鮮でありたとおもいま
す。
いつでもイエスが新鮮でありますように。そして神の御子であり万物の支配者であること
を心にとめ信頼してゆくことができるようにと願います。
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