シエラレオネ内戦 - 福田邦夫ゼミナール

シエラレオネ内戦
-ロメ和平協定・真相解明和解委員会・特別裁判から考察する恩赦-
福田邦夫ゼミナール 19 期 山田祥子
【目次】
Ⅰ.はじめに
Ⅱ.シエラレオネ概要
(1)内戦の開始と進展―武装解除に至るまで
(2)注目の総選挙とその後
Ⅲ.ロメ和平協定とその後
(1)ロメ和平協定
(2)アメリカの関与―ジェシー・ジャクソン
Ⅳ. 真相解明和解委員会と特別裁判所
(1)真相解明和解委員会(TRC)
(2)戦闘の再開と恩赦の否認
(3)特別裁判所(SCSL)
(4)被告人の起訴
(5)ロメ協定、TRC、特別裁判所それぞれに関する矛盾
Ⅴ. 終わりに-問題点と今後の展望
(1)平和の犠牲になった正義
(2)裁判の問題点
(3)有効な資金援助
Ⅰ.はじめに
シエラレオネ共和国。この国の名前を初めて耳にしたのは、エドワード・ズウィック監
督「ブラッドダイヤモンド」を見た 3 年ほど前である。最近ではよくメディアでも取り上
げられるため、名前だけでも聞いたことのある方は多いのではないだろうか。
同国についての研究は、シエラレオネが過去 20 年のうちに何度も得た「世界で最も平均
寿命の短い国」
「世界で最も貧しい国」といった不名誉な肩書きを何度も見ることから始ま
ったと言っても過言ではないほど、その貧困状態は悲惨である。基本的なインフラ整備は
遅れており、清潔な水を入手できる人口は全体のおよそ半分、トイレ等の衛生施設を利用
352
できるのは1割程度だという1。表1は同国の基礎的なデータである。
また、同国で産出されるダイヤモンドは「Bloody Diamond(血塗られたダイヤ)」また
は「紛争ダイヤモンド」と呼ばれている。採掘されたダイヤの原石の多くは武器調達の資
金源として不法に取引され、10 年にわたる内戦を引き起こし、多くの戦争犯罪(子供の誘
拐・強制徴兵、レイプ、手足の切断、拷問等)による被害を生みだした。
1999 年におけるロメ和平協定で、無条件の恩赦がこの内戦の指導者達に与えられたが、
一転してこれを否認し戦争犯罪人を処罰する出来事が起き、裁判は今もなお進行中である。
この小論では、ダイヤモンドに関しては、様々な議論や研究が普及しているためここで
はあえてそれらに触れることはしない2。まず複雑な内戦の構図と現状を明らかにしてから、
1999 年のロメ和平協定に見る紛争後の恩赦と今も続く裁判の実態を明らかにする。そのう
えで、裁判の問題点を挙げるとともに、最後に戦争を終わらすための正義と平和とは何か
を考えていきたい。
表 1.シエラレオネ共和国基礎データ
面積
71,740 平方キロメートル
総人口
5,866,000 人
18 歳未満人口
2,889,000 人
5歳未満児の年間死亡数
70,000 人
5歳未満児死亡率
262 人/1,000 人(※1)
乳児死亡率
155 人/1,000 人(※2)
妊産婦死亡率
1,800 人/100,000 人(※3)
平均寿命
42 歳(※4)
1 日 1.25 米ドルで生活する人の比率
53%
初等教育純出席率
69%
15 歳以上の識字率
38%
14 歳以下の HIV 感染者数
4,000 人
(出所)ユニセフ「世界子供白書 2009」から作成。
(※1)世界最悪
(※2)世界ワースト 2 位
(※3)世界最悪
(※4)世界ワースト 2 位3
1
FNS チャリティキャンペーン(http://www.fujitv.co.jp/charity/top.html)
、2009 年 12 月 8 日閲覧。
2
シエラレオネ産のダイヤモンドは、アルカイダの資金源となっているという憶測を呼んでいる。The
Washington Post
(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn?pagename=article&node=&contentId=A27281-2001No
v1)2009 年 11 月 25 日閲覧。
3 また、UNDP 国連開発計画によると、シエラレオネにおける平均寿命の変遷は 1970 年に 35 歳、2001
年に 38.9 歳、2004 年に 34.3 歳であり、過去 30 年あまりにおいてほとんど進歩がなく、西アフリカの平
均寿命 46 歳と比べものにならない。
(Edited Jalloh Alusine, Toyin Folola(2008), The United States and
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Ⅱ.シエラレオネ概要
シエラレオネ概要
(1)内戦の開始と進展―武装解除に至るまで
シエラレオネは、メンデ族、テムネ族、リンバ族、ロッコ族、クレオール等の民族から
なる、大西洋に面した西アフリカの小国で、主要産業は、ダイヤモンド・金・鉄鉱石・ボ
ーキサイトを中心とした鉱業とコーヒー・カカオ等を栽培する農業である。
1961 年 4 月 27 日、シエラレオネはイギリスの保護領から独立を果たした。この時、2
つの政治政党が存在していたが、シアカ・スティーブンを率いる APC(All People’s
Congress:全人民議会党)が権力を握る。1967 年の選挙で勝利を修めて大統領に就任した
スティーブンは、1971 年に共和政が敷かれたものの、事実上の一党独裁政権を確立してい
った。
1986 年には国防軍出身のジョゼフ・モモが、たった一人の候補者として大統領のポスト
をスティーブンから引き継いで就任。この時から、1992 年のバレンタイン・ストレッサー
大尉率いる軍の一部による大統領官邸を占拠するクーデターまで、モモ政権は腐敗政治で
悪化の道を辿り、1975 年から何度も例の「世界最貧国」という望ましくない地位を得て定
着してきたのである。
一方、隣国のリベリアではチャールズ・テイラー大佐等による反政府運動が活発化し、
1990 年にはクーデターが成立していた。後にテイラーはリベリア大統領に就任するが、シ
エラレオネ産のダイヤモンドに目をつけ、モモ政権に反旗を翻していた反政府武装集団で
あった RUF(Revolutionary United Front:革命統一戦線。これを率いたのがフォディ・
サンコー)をサポート。1991 年 3 月 23 日、テイラー配下の一段、RUF、ブルキナファソ
の若干の傭兵からなる約 100 名のゲリラがシエラレオネ東部に侵攻した。これが十年にも
わたるシエラレオネ内戦の始まりだ。
この間モモ政権は、ECOWAS(Economic Community of West African States:西アフ
リカ経済共同体)の軍事部門 ECOMOG(ECOWAS Monitoring Group)からの軍事援助
を受けて、RUF を駆逐しようと試みるものの、反政府運動とは全く関係のない自らの国防
軍のクーデターがおき、政権の座を追われることとなった。それが先述の 1992 年 4 月のス
トレッサーによるもので、その翌月には彼を議長(元首)とする暫定政府が発足した。
その後ストレッサーは大統領に就任し、1996 年の別の軍事クーデターまで統治を続ける。
その間 RUF の侵攻はさらに激化し、ダイヤモンド埋蔵地を含む国のほぼ東半分を支配する
ことになった。
ストレッサーを無血クーデターで追放したジュリアス・バイオ国防軍准将は、1996 年 3
月 14 日に RUF のサンコーと停戦合意をする(於アビジャン、コートジボワール)
。その翌
日にこの国最初の民主選挙が行われ、シエラレオネ人民党の党首アハメッド・テジャン・
カッバが大統領に就任する。RUF 側はこの選挙をボイコット。その理由の一つがストレッ
West Africa, University of Rochester, NY、325 ページ参照)。
354
サー政権の時に鉱山資源発掘施設を警護することを名目に雇われた南アフリカの傭兵会社
EO(Executive Outcomes)の軍事行動だ。シエラレオネの内戦は、反政府ゲリラの台頭、
国軍のクーデター、そしてこれら傭兵会社の暗躍というように、その構図は混乱を極め
た。11 月 30 日、カッバ大統領とサンコーは再びコートジボワールにてアビジャン協定4に
署名した。
1997 年初め頃から、RUF に対抗する自衛的な部族色の強い民兵組織の動きが活発化する
が、その中でも最も活発だったのが副国防大臣主導のメンデ族の民兵組織であり、自らを
CDF(Civil Defense Force:市民防衛隊)と名乗るようになる。CDF は国防軍とも衝突を
繰り返していたため、内戦はより複雑化していった。
同年 5 月、国防軍の一派である AFRC(Armed Forces Revolutionary Council:軍事革
命評議会)がクーデターを起こし、カッバ大統領はギニアに脱出した。AFRC は既にクー
デター未遂事件で投獄中だったジョニー・ポール・コロマ中佐に忠誠があり、コロマは事
実上国家元首に君臨することになる。首都フリータウンでは完全に無軌道化した戦闘や略
奪が続き、無政府状態となってしまう。AFRC は RUF に歩み寄る姿勢を見せ、同評議会の
副議長(実質的な副大統領)にサンコーを指名した5。RUF/AFRC と CDF との戦闘は各
地で激化する。だが、ECOWAS の中心であるナイジェリアは亡命中のカッバ大統領の支持
を主張。コロマ政権は ECOWAS からの通商停止など様々な経済制裁をうけることとなった。
ECOMOG は依然首都フリータウンを中心に駐在し、RUF・AFRC と突発的な交戦をしな
がら緊張状態が続いていた。同年 7 月に、再度コートジボワールのアビジャンにて AFRD
と ECOMOG の停戦合意がなされるがすぐに決裂。8 月にはフリータウンに手 ECOMOG
と RUF・AFRC との間で戦闘がおこる。
1998 年、ECOMOG は CDF を伴い大規模な掃討作戦を展開し、RUF/AFRC をフリー
タウンから追放する。そのうちに、ECOMOG の厳重な保護のもと、ギニアに亡命中だった
カッバ大統領が帰還し、一応民主政権が復活する。そして RUF のサンコーと、その他軍事
政権幹部の 34 名は国家反逆罪で死刑を宣告された。この死刑判決は欧米諸国などの非難を
招いたが、RUF によって手足を切り落とされた 800 人以上の被害者によってフリータウン
でデモが行われるなど、反 RUF 感情の強い世論に配慮して、カッバ大統領は強い姿勢で挑
んだ6。しかし内陸部は依然 RUF の勢力が大きく、国としての復興は難航し、その後も数
回 RUF による首都攻撃が行われる。
4
この協定では初めて、
「自己の目的を追求して行われた全ての行為に対して」恩赦に相当する措置が認め
られた。しかしこの時点で RUF 側にとって最も必要だったものは、恩赦よりも強敵であった EO の国外退
去であり、これを強く要求した。カバー大統領はこれを受け入れ、事態は落ち着きを取り戻したかのよう
に見えたが、翌年に両者の対立は再び激化した。(山下恭弘「紛争後の恩赦と裁判」
『福岡大学法学論叢』
第 49 巻第 2 号、福岡大学研究所、2004 年、4 ページ参照)。
5 サンコーは同年 3 月からナイジェリアで武器の不法所持のために拘束されていた。
(伊勢崎賢治『武装解
除』講談社、2004 年、88 ページ参照)
。
6 六辻彰二「シエラレオネ内戦の経緯と課題」
『アフリカ研究』第 60 巻、日本アフリカ学会、2002 年、144
ページ参照。
355
1999 年に入ると、アメリカを中心とした和平工作が活発化する。同年 7 月、ECOWAS
の仲介でついにカッバ政権と RUF の和平合意がトーゴのロメにおいてなされた。その内容
は RUF に極めて有利な条件で取りまとめられていた。RUF/AFRC が過去に犯した戦争犯
罪に対して全面的に無条件の恩赦が与えられ、RUF は合法な政治政党になり、しかもサン
コーはダイヤモンドの利権を管轄するポストと副大統領の地位を手に入れたのである。ロ
メ和平協定の詳しい内容や議論については次章で述べることとする。
同 年 10 月 、 国 連 安 全 保 障 理 事 会 は 、 大 型 PKO( United Nations Peacekeeping
Operations:国連平和維持活動)である UNAMSIL(United Nations Mission in Sierra
Leone:国連シエラレオネ派遣団)7の発足を承認。ナイジェリア、ガーナ、ギニア、ケニ
アなどが参加した PKF(Peace-keeping Force:国連平和維持軍)は地方への展開を始める
が 2000 年 5 月に RUF 本拠地のマケニ市において、武装解除に抵抗した RUF の攻撃を受
け、約 500 人の UNAMSIL 要員が人質となる事件が起きた。その直後に RUF による首都
再侵攻の可能性が示唆されると、今度はフリータウンの民衆がサンコー副大統領への抵抗
運動を始めた。それに対してサンコーのボディーガードが発砲し、犠牲者が出る。サンコ
ーは逃亡を図るがすぐに拘束され、それ以来秘密の場所に 2 年間拘留される。
その後 RUF の実権は勇敢な司令官として知られていたイッセ・ササイに引き継がれるが、
緊張は依然継続。ここで RUF のパトロンであるリベリアのテイラー大統領は周辺国からの
圧力を受け、捕虜になった UNAMSIL 兵士の解放と和平プロセスの回復を RUF 側に説得
し、2000 年 11 月、シエラレオネ政府と RUF はナイジェリアのアブジャにおいて最後の停
戦協定に署名した。それでもなお戦闘は継続したが、2001 年 5 月にシエラレオネ政府・
RUF・UNAMSIL の三者が会合し、18 日から RUF と CDF の DDR(武装解除・動員解除・
社会再結合)が順次進められ、2002 年の 1 月 18 日、カッバ大統領はシエラレオネにおけ
る武装解除の完了宣言を行った。こうして 10 年以上続いたシエラレオネ内戦は、5 万とも
50 万とも言われる犠牲者と、手足切断による数千人の被害者(その多くは子供である)を
生み出し終結した。
(2)注目の総選挙とその後
2002 年 3 月 1 日、国家非常事態の終了宣言がなされ、同年 5 月には反政府勢力も参加し
ての大統領・議会選挙が自由かつ公正に実施され、カッバ候補が圧倒的多数の得票率で再
選された8。2004 年 2 月、カッバ大統領は DDR 委員会の解散を宣言し、2005 年 12 月に
UNAMSIL は、シエラレオネから完全に撤退した。9外務省によると 2006 年 1 月、UNIOSIL
7
伊勢崎は UNAMSIL で DDR 統括責任者を務めた。
カッバ大統領率いる SLPP(シエラレオネ人民党)が 70 パーセントを超える得票率を得る一方、RUFP(革
命統一戦線党)の得票率はわずか 1.7 パーセントだった。(山本敏晴『世界で一番いのちの短い国』白水社、
2002 年、206 ページ参照)。
9 UNAMSIL の活動は 1)統治体制の確立、2)DDR、3)治安の回復及び軍・警察の体制確立、4)ダイヤモン
ド採掘・売買のコントロール、5)グッド・ガバナンス構築を中心とするものであったが、外務省によると、
「それぞれの任務において大きな成果が見られアフリカ PKO におけるグットプラクティスとして国際社
8
356
(United Nations Integrated Office in Sierra Leone:国連シエラレオネ統合事務所)が活
動を再び開始し、2007 年 9 月にはカッバ大統領の任期満了に伴い大統領・議会選挙が行わ
れ10、その結果 APC のアーネスト・バイ・コロマ候補が当選した11。2008 年 10 月には
UNIOSIL の後継者として政治・平和構築分野に活動を絞った UNIPSIL(United Nations
Integrated Peace-building in Sierra Leone:国連シエラレオネ総合平和構築事務所)が活
動中である。
Ⅲ.ロメ和平協定
ロメ和平協定とその
和平協定とその後
とその後
(1)ロメ和平協定
1999 年 7 月 7 日、トーゴのロメにおいて和平協定が成立した12。
前述のように、この協定は多くの虐殺や手足の切断を行ってきたに RUF に対して、法的
にも政治的にも圧倒的に有利な条件を与えることとなった。
その具体的内容として第 1 に、RUF は正式に政党として容認された(3 条)
。第 2 に議会
の承認を条件とし、RUF は政府の 4 つの閣僚ポストの他、実に多種多様で有利な要職を獲
得した(5 条 3・4 項)
。ここで再び特筆すべき点は、新たに創設された「戦略資源の管理、
国家再建及び発展のための委員会」の議長ポスト(つまりはダイヤモンドやその他の鉱物
資源を管理する合法的な権限)と、副大統領のポストがサンコーに与えられたことである
(5 条 2 項)13。そして第 3 に、この十年に及ぶ内戦で行われた数々の残虐行為(子供の誘
拐・強制徴兵、レイプ、手足の切断、拷問等)を行ってきたものに対し、ロメ和平協定 9
条が次のように恩赦を付与したことである。
第3条 第9項
許しと恩赦
1. シエラレオネに恒久的な平和を実現する為に、シエラレオネ政府は、RUF 党首フォ
会からの称賛を得た」とされている。しかし伊勢崎は、武装・動員解除後の視察のためにダイヤモンドの
産地である Kono を訪れた際、笊を手にした千人近い元戦闘員たちが、川岸において掘り返した土を水で
洗い出し、原石を見つけ出していた壮大な光景を目にし、
「足の力が抜けてゆくのを感じた」という。
(前
掲書、伊勢崎、123 ページ参照)
。
10 この選挙は 2005 年末の国連 PKO 撤退後初の選挙であり、シエラレオネの平和と安定を左右するもの
として国際社会から注目された。外務省(http://www.mofa.go.jp/mofaj/index.html)
、2009 年 12 月 5 日
閲覧。
11 コロマ大統領は政権発足時より電力供給などのインフラ復興、汚職撲滅、保健等の諸問題に取り組んで
いる。国内の治安は概ね安定しており、同国は PKO 終了後安定した復興の足取りを示しているといえる。
外務省(http://www.mofa.go.jp/mofaj/index.html)
、2009 年 12 月 5 日閲覧。
12 ロメ和平協定全文については、Sierra Leone Web(http://www.sierra-leone.org./lomeaccord.html)参
照。
13 この合意はカッバ、サンコー、コロマなどの各陣営上層部がナイジェリアやイギリスの要求に沿って一
方的に進めた交渉であったので、紛争当事者内部の融和に対する自発性は乏しかったといえる。特に RUF
末端では協議の応諾に不満が増大し、サンコーの影響力は一層減退した。
(前掲書、六辻、144 ページ参照)
。
357
ディ・サンコー氏に対して、過去の犯罪となるべき全ての行為に対して、絶対的且つ
無条件の恩赦を与えるべく適切な法的処置をとる。
2. 同じく、RUF の全戦闘員及び協力者に対しても、本協定の署名時までに自己の目的
を追求して行われた全ての行為に関して、本協定の署名後に、絶対的且つ無条件の恩
赦を与え、刑の執行を猶予する。
3. シエラレオネ政府は、平和を強固なものとし、且つ、国民的和解をもたらす要因を生
み出すために、シエラレオネの RUF、元 AFRC、元 SLA(Sierra Leone Army:シ
エラレオネ軍)又は CDF の構成員に対し、1991 年 3 月から本協定の署名時までに当
該組織の一員として自己の目的を追求して行われた全ての行為に関して、いかなる公
の又は司法上の措置もとらないことを約束する。加えて、元戦闘員、武力紛争に関係
した理由のために現在国外にいる亡命者その他の者の不処罰を保証する為に必要と
される立法上のその他の措置については、当該人の社会復帰が完全に合法的に行われ
るべきとの見地から、市民的及び政治的権利の完全な行使を約束するものが採用され
る。
前述の通り、和平合意がなされた直後の 2005 年 5 月 1 日から 6 日にかけて、武装解除に
抵抗した RUF が UNAMSIL 要員の約 500 名を拘束し、フリータウンにおいてパレードを
するなど示威的な行動をとるという事件が起きた。これに抗議した1万人を超える民衆が
副大統領サンコー宅に詰めかけその一部が投石し、サンコーのボディーガードが発砲し市
民 22 名が死亡。サンコーはフリータウン近郊の森に逃亡するものの数日後、自宅近くにい
たところを拘束されるという墓穴を掘る。この事態に対して ECOWAS は直ちに首脳会談を
開催し、人質の即時無条件解放を訴え、RUF の抵抗はロメ協定で付与された恩赦の否定を
意味し、戦争犯罪人の追及につながると警告した。しかし、旧宗主国であるイギリスが RUF
に対して大規模な軍事作戦を展開する。海外からの関与も一層増大させての戦闘再開であ
る。イギリスは自国の国内世論に配慮して直接の攻撃にはほとんど参加しなかったものの、
カッバ政権支持に積極的な姿勢を見せた。これは RUF を支援するリベリアへの大きな圧力
になり、テイラーは人質解放を促さないわけにはいかなくなった。ダイヤモンド利権を保
持する目的もあったのであろう。
(2)アメリカの関与―ジェシー・ジャクソン
1997 年、アメリカのクリントン政権は、2008 年にテレビ局のスタジオでインタビューの
合間に小声でオバマをけなしたことで話題になった、あのジェシー・ジャクソンを「アフ
リカ民主化支援特使」に任命した。
アメリカがロメ和平協定の署名に関わったことは、あまり知られていることではないと
思われる。なぜなら、本来このテーマが本稿で最も述べたかったことであるにも関わらず、
それについての情報が、極めて少なかったのである。もっとも、シエラレオネにおいて約
358
10 年前に締結されたロメ和平合意については、恩赦の解釈や是非について様々な議論はあ
るものの、その調印に関してアメリカが関与していることは、どうもポピュラーな問題で
はないようだ。それもそのはず、アメリカはどこにも署名を残していないからである。
まずジャクソン氏は、1998 年にはカッバ大統領によって死刑宣告を受けていたサンコー
を無罪放免するようカッバ大統領に働きかけた。1999 年 5 月には、和平合意の外交交渉に
向けてジャクソン師はトーゴのロメをカッバ大統領とともに訪れた。しかし、あくまでア
メリカの公式見解は、アメリカはロメ協定に参加はしていないというものである。一応
ECOWAS が仲介したことになっており、アメリカの署名はない。この問題に対して、伊勢
崎賢治は以下ように述べている。
「米国はまったく武力を行使しない方法で、リベリアとシエラレオネを中心とする地域
紛争を解決しようとした。宗教的なフレーバーを添えて。それも世紀の独裁者、そして RUF
のパトロン、リベリアのテイラー大統領を敬虔なキリスト洗礼者と呼んで。そしてテイラ
ーを通じて“RUF との対話”を図ったのだ14」。
「死刑宣告されていた世紀の虐殺者を一転、無罪放免ばかりか、その郎党を含めてすべ
ての虐殺行為に完全な恩赦を与え、そのうえ副大統領に任命し、さらに鉱山資源開発大臣
を兼任させ、“血塗られたダイヤモンド”を正式に支配させる内容のロメ合意は、ジャクソ
ン師をシンボルに立てた米国の平和外交の結晶であり、事実、ロメ合意の内容は米国政府
高官によって起草されたと伝えられているのだ15」。
「ロメ合意後、ジャクソン師は何を血迷ったのか、サンコゥの副大統領就任を、大変な
苦悩の末大統領になった南アのネルソン・マンデラ氏を引き合いに出し称える発言をし、
墓穴を掘る。シエラレオネ民衆が怒った。アフリカの英雄を、子供の手を切り落とす悪魔
と比べるのは何事かと。…(略)…反米世論の急激な盛り上がりを恐れたカッバ政権は、
得意満面でシエラレオネ入りを予定していたジャクソン師に警告、訪問を止めさせた。今
度は民衆自身が蜂起し、命の保障はできないと16」。
また、櫛田久代は、アメリカはブッシュ(父)からクリントン政権にかけて、ソマリア
での平和維持活動失敗17をきっかけにアフリカ問題への介入に非積極的な姿勢を見せてい
14
前掲書、伊勢崎賢治、93 ページ。
同上書、94 ページ。
16 同上書、99 ページ。
17 1991 年頃から激化したソマリア内戦。1993 年 10 月 3 日、アメリカ兵 18 人が死亡するという事件が起
きた。これをきっかけにアメリカ国内では、アメリカの国連平和維持活動参加に対する批判が巻き起こり、
ソマリア活動からの撤退を余儀なくされたアメリカは、国連の平和維持活動への参加をも厳しく制限する
方針を決定。
(吉留公太「ボスニア紛争とアメリカ議会」
『一橋法学』第 7 巻、一橋大学大学院法学研究科、
2008 年、32 ページ参照。
)
15
359
ることを指摘。実際、アフリカ援助の効率化のために創設されたアフリカ開発基金(DFA:
Development Fund for Africa)への拠出額は 92 年には 10 億ドルほどだったが、95 年に
は 6 億ドルに落ち込んだ。しかし櫛田は、アフリカ政府の援助額の減少は、必ずしもアフ
リカ問題の軽視を意味するものではなく、「むしろクリントン政権後期に入って、アメリカ
政府の対アフリカ政策そのものが変わりつつあるように思われる。とりわけ、1997 年 6 月
にクリントン大統領が貿易と投資の拡大を通してアフリカ経済の自立を模索する『アフリ
カ貿易イニシアティブ(The Africa Trade Initiative)』を発表して以来、アメリカ政府はサ
ハラ以南のアフリカ諸国との間で、従来の経済協力ではなく、自由貿易を中心に据えた新
たな経済関係の構築を目指す姿勢を強めている18」としている。
アメリカは、ソマリアの件によってアフリカの内戦に軍事費を大量につぎ込んで解決を
促すには少々ダメージを受けすぎた後だったのだろう。確かに、泥沼化したこの内戦を止
めることのできる方法が、この恩赦をもたらす以外にあったのかも疑問だ。しかし、この
和平協定の問題に関して、アメリカがなるべく武力も軍事費も使わずにジェシー・ジャク
ソンという“平和の使者”を使って強引に、シエラレオネに恩赦を理解させた(押しつけ
た)という解釈をどうしても無視することができない。しかも、自国の関与をどこにも記
さずに。
伊勢崎賢治は“たった”三千人余りの犠牲者を出しただけの 9.11 は、シエラレオネ国民
からしてみれば“自業自得”であり、オサマ・ビン・ラディンを許してアメリカの副大統
領にすることは技術的に可能だと述べている。これは極論であるし、到底起こり得ない。
しかし、それがアメリカなどの先進国では絶対起こり得ないと理屈抜きで誰もがわかるこ
とが、シエラレオネという小国では起こった。アフリカの内戦とアメリカのテロは違う。
歴史的背景も、国民の概念も全く異なる。しかし、こんなにも簡単に、平和を維持するた
めに正義が犠牲になってよいのだろうか。
また、アフリカとアメリカの自由貿易によってアフリカの経済的発展を目指そうとして
提出された 1993 年の「アフリカの成長と機会の法
(African Growth and Opportunity Act)」
を見ても、これは南アフリカ共和国の当時大統領であったネルソン・マンデラが率直に
「我々にとっては受け入れがたい」とするほど、アフリカ諸国の人々を一層搾取する構造
を固定化するものとして批判をうけた。この件に関しても、アメリカの“偽善者”ぶりが
うかがえてならない。
Ⅳ.真相解明和解委員会と
真相解明和解委員会と特別裁判所
(1)真相解明和解委員会(TRC)
シエラレオネ政府と RUF は、ロメ和平協定 26 条第 1 項で、人権侵害の被害者と加害者
18
櫛田久代「援助から貿易へ」
『敬愛大学国際研究』第 7 号、敬愛大学・千葉敬愛短期大学、2001 年、3
ページ。
360
の 双 方 が 自 ら の 話 を 語 る た め の 討 議 の 場 と し て 真 相 解 明 和 解 委 員 会 ( Truth and
Reconciliation Commission:以下 TRC とする)を設立することで合意した。TRC には法
的な強制力はない。内戦の加害者側に対する主な任務は、訴追・処罰ではなく、過去の犯
罪の明確な告白を全て行わせることであった。犠牲者に対しては被害の状況を語る場を与
え、話をすることで傷ついた心のリハビリと過去の遺恨の処理を促すことである。つまり
は民衆レベルの真の和解をもたらすために、暴力の連鎖を断ち切り、時には補償や制度の
改善19が求められたのである。TRC の真相解明・和解のプロセスは一般に、1)残虐行為に
関する被害者の陳述、2)加害者と対面し、被害者と TRC が行う質問、3)加害者の犯罪告
白、4)事実の確定・記録・公表―真相解明の成就、5)被害者と加害者の理解醸成、6)贖
罪、7)恩赦の付与によってもたらされる赦し、8)和解、9)加害者の責任の受諾、10)被
害者への補償、である。
TRC 法 5 条 1 項によると、メンバーが任命されてから 2 週間以内に活動を再開し、活動
期間は 1 年とされていた。TRC の構成メンバーは、TRC 法 3 条 1 項によれば 7 人(シエラ
レオネ国民 4 人、外国人 3 人)とされていた。メンバーの任命は大統領によるものである
が、外国人メンバーは国連事務総長特別代表と国連人権高等弁務官の勧告に従って任命さ
れた。しかし TRC を構成する全てのメンバーが任命されたのは 2002 年 5 月 13 日で、就
任式は約 2 ヵ月後の 7 月 26 日となった。活動資金がなかなか調達できない状況がこの遅れ
をもたらしていたといえる。活動資金は国際的な寄付によって賄われることになっていた
が、当初の 1000 万ドルであった活動予算は、国連人権高等弁務官の懸命な訴えにもかかわ
らず、700 万ドルほどに縮小されてしまった。10 月 5 日に活動を開始した TRC は、その後
も資金不足に苦しむことになる20。
加えて、TRC 法 6 条 1 項によれば、TRC の時間的管轄は、内戦が開始した 1991 年 3 月
23 日からロメ和平協定が署名された 1999 年 7 月 7 日であるとされていた。ただし、TRC
の任務、すなわち 1)不処罰への取り組み、2)被害者がもとめるものへの対応、3)治癒と
和解の促進、4)人権と国際人道法の侵害・蹂躙の再発防止についての時間的制約はなんら
課されておらず、実際にロメ協定後の出来事においても TRC は時間的制約を考慮すること
なく活動ができたという21。
領域的・事項的管轄についても同様に、TRC 法 6 条 1 項に「シエラレオネにおける武力
紛争に関連して行われた人権並びに国際人道法の侵害及び蹂躙」を扱うことが示されてい
る。つまり、この規定によると、シエラレオネ国内で行われた犯罪に限らず、シエラレオ
ネ内戦との関連が認められれば国外で生じたものも TRC で扱うことが可能であった。
TRC は、2002 年 10 月に活動計画を整え、50 人を超える担当者を全土に派遣して地方事
務所を開設し、12 月 4 日には内戦の勃発したボマルから陳述の収集を始めた。2 週間ほど
19
子供の無償教育・医療の提供・適正な住居の確保など、主に生存に不可欠な事項が求められた。
(前掲
書、山下恭弘、11 ページ参照。)
20 同上。
21 同上。
361
で約 1400 の陳述を得ることができたが、その陳述を行った者の 3 分の 1 は女性、10 分の 1
は子供であった22。UNAMSIL のラジオ局が生中継で、被害者と加害者の双方から話を聴取
する活動が聴くことができ、国民は真実の一端を知ることができた23。
数多くの都市・地方で証言を得た TRC は、活動開始から約一年後に聴取を終了した。TRC
法 15 条で規定されていた通り、真実・必要とされる改革・被害者への補償・その他の措置
を示した最終報告書を大統領に提出したが、ロメ協定で定められていた期限を 1 年超えて
の 2004 年 10 月のことであった。
(2)戦闘の再開と恩赦の否認
前述の 2000 年 5 月の戦闘再開で、シエラレオネ政府は、一転して恩赦を否認する態度を
とった。対立が再び激化していく中で、シエラレオネ政府側は RUF を北部のギニア国境付
近まで後退させ、首都を含む西部地域の奪回に成功した。軍事的に有利な状況を確立した
カッバ政権は、国連にサンコーを戦争犯罪人として裁くために特別裁判所の設立を求め、
反政府勢力に対して一層強硬な姿勢を示した24。
同年 6 月 12 日、カッバ大統領は国連事務総長に対して、シエラレオネ領域内で行われた
国際人道法の重大な違反に対処するために、国連と共同での国際裁判所設置を要求した。
シエラレオネ政府はそもそも、ロメ和平協定を遵守するべき立場にあったが、あっさりと
恩赦を否認してしまったのである。
国連としてはシエラレオネ政府の出方に困惑するのかと思えばそうではない。むしろシ
エラレオネ政府の対応は国連にとってまさにタイミングのいい、好都合な要求であった。
というのは、国連はすでにロメ協定の署名という最後の段階において、協定の定める恩赦
の対象に、ジェノサイド・人道に対する罪・戦争犯罪やその他の国際人道法重大違反は含
めるべきではないという姿勢をみせていたからである。
国連はこれまで、南アフリカやハイチなど、少なくとも過去に4つのケースで平和と民
主的な政府を取り戻すために恩赦を強く要求し、その交渉をサポートしてきた。ところが、
加害者に対する完全な恩赦は、被害者だけに寛容さを求めすぎるものであり、真の意味で
の「平和」と「和解」は達成できないとの批判の声が高まっていた。また、旧ユーゴから
始まる一連の国際裁判所設立の動きにも促されて、国連はそれまでの対応を一変せざるを
得なかったのである。このような流れを受けてのカッバ政権の要求は国連に、恩赦を否認
された者たちを訴追・処罰する国際裁判所の設立を決意させた。しかし、恩赦を否認して
裁判を行う動きが加速する一方で、恩赦を前提とした TRC の活動も同時に進められること
になり、矛盾する 2 つの動きが繰り広げられることとなった25。
22
23
24
25
TRC の活動内容
(2002 年 10 月から 2003 年 2 月初めまでのもの)
に関する情報については Sierra Leone
Web(http://www.sierra-leone.org./trc-trcforsierraleone.html)2009 年 12 月 15 日閲覧。
前掲書、山下恭弘、17 ページ参照。
前掲書、六辻彰二、145 ページ参照。
前掲書、山下恭弘、14 ページ参照。
362
(3)特別裁判所(SCSL)
2000 年 10 月、国連とカッバ政権の間で、シエラレオネのための特別法廷(Special Court
for Sierra Leone:以下 SCSL または特別裁判所とする)の設置が合意された。安保理は、
「シエラレオネの領域内で行われた人道に対する罪、戦争犯罪その他の国際人道法の重大
な違反、並びに関連するシエラレオネ法に基づいた犯罪」について、「最も責任のある者」
に限定して、国際裁判を行うべきであるとしたのである。
国連とカッバ政権は交渉を重ねに重ね、ついに 2002 年 1 月 16 日、特別裁判所の設立に
関する協定が締結され、特別裁判所の活動に関する SCSL 規程も成立した。
SLSC 協定 6 条によると、特別裁判所の活動資金は、「国際社会からの任意の寄付で賄わ
れる」とされている。国連事務総長に裁判所開発の準備を進める権限が与えられたが、こ
の漠然とした規定を根拠に十分な財源を確保するのは極めて困難であった。実際、特別裁
判所の 3 年間の活動予算として、当初は 1 億ドル以上の額が予定されていたが、これもま
た TRC と同様、ドナーの反応は低調であり、結果的に予算は約 5600 万ドルに修正されて
しまった26。
特別裁判所の活動期間についての規定はなかったが、主に予算が足りないという理由で、
当時は法廷が長期開廷されたとしても 20 人とも 10 人以下との見通しがあった。よってそ
の活動は小規模に限定されたものであったが、この種の裁判がシエラレオネ国内で行われ
ることは特筆すべきである。なぜならば、
「紛争の現場から遠く離れた場所で裁判が行われ
る ICTY27や ICTR28よりも、特別裁判所のように国内で国民の眼前で行われる裁判のほう
が、より強く紛争後の社会に法の復活・正義の実現を印象づけられるのではないかと期待
されたからである29」。
また、SCSL 規程 7 条 1 項は特に人々の関心を集めた。同条項では、犯罪の実行時に 15
歳未満であった者に対する特別裁判所の管轄を排除するというものであったが、これは同
時に 15 歳以上 18 歳未満の子どもの訴追を認めることを意味していた。国際社会の中には、
子ども兵士の多くは誘拐・徴兵・性的虐待・奴隷的扱いの被害者であるために、訴追より
もリハビリなどのケアが必要だと訴える声も強かったが、シエラレオネ政府は子ども兵士
を訴追できないとすれば、特別裁判所の正当性が損なわれるとし、あくまでも特別裁判所
での裁判を主張した。
(4)被告人の起訴
2003 年 4 月 2 日、シエラレオネ特別裁判所は、初めての起訴を発表した。特別裁判所の
26
前掲書、山下恭弘、18 ページ参照。
旧ユーゴ国際刑事裁判所。SCSL の手続き・証拠規則は ICTR の規則を準用することになっていたが、
そもそも ICTR の規則は ICTY の規則に由来する。
(同上書、16 ページ参照。
)
28 ルワンダ国際刑事裁判所。1994 年設立。紛争後に無条件の恩赦が与えられ、不処罰が認められてはな
らないとする世論を国際社会に促し、内戦における戦争犯罪人の訴追・処罰の発端となった。
29 前掲書、山下恭弘、19 ページ参照。
27
363
管轄の範囲内にある戦争犯罪、人道に対する罪、その他の重大な国際人道法違反について、
7 人が同法廷で起訴された。
1)フォディ・サンコー30
2)イッサ・ハッサン・セセイ
3)アレックス・タンバ・ブリマ:AFRC の元メンバー
4)モリス・カロン:RUF の元指導的メンバー
5)ジョニー・ポール・コロマ:AFRC の元指導者
6)サム・ボッカリ:RUF の指導的メンバー
7)サミュエル・ヒンガ・ノルマン:内政担当大臣、CDF の元全国コーディネーター
また、2007 年 6 月 4 日には、テイラーの戦争犯罪に対する特別法廷がオランダのハーグ
で始まった。テイラーは審理が公平でないという理由で出廷を拒否し、被告不在のまま審
理が続けられたが、2008 年 1 月 7 日、テイラーの特別法廷は再開した。テイラーは全ての
容疑に「無罪」主張した。
2009 年 4 月、ピエール・ブレ判事は「罪は大変な規模で犯された。シエラレオネの国民が
強姦され、奴隷化され、むごたらしく殺された。シエラレオネ社会に対するこの罪の衝撃
は計り知れない」と述べた。
イッセ・ササイ被告は戦争犯罪と人道に対する罪の計 16 の罪により、合計禁固 693 年を
命じられた。しかし、全ての刑の同時執行が命じられたため、実際には判決中の最高刑の
みが適用され、禁固 52 年となる。この判決はこれまでのシエラレオネ特別法廷で最も重い
判決となった。同法廷では、死刑の求刑はできない。モリス・カロン被告、アウグスチン・
グバオ被告についても同様の適用で、各禁固 40 年、禁固 25 年となる。
フリータウンで行われる同法廷の公判はこれが最後なった。同じく訴追されているテイ
ラーの公判は警備上の理由から、シエラレオネのための特別裁判が行われているオランダ
に既に移されている。
(5)ロメ協定、TRC、特別裁判所それぞれに関する矛盾
恩赦を付与したロメ和平協定と、その中で設立を決定された TRC、そして今度は恩赦を
否認して戦争犯罪を裁くことが前提の特別裁判所は、前述のように矛盾している。ここで
は具体的にどんな点がそれぞれに矛盾しており、国連やシエラレオネ政府はその関係につ
いてどのようにとらえているのか(国際社会にどのように理解してほしいのか)を明らか
にする。
ⅰ)ロメ協定と特別裁判所の関係について
ロメ協定では前述の通り、サンコー氏に対して、
「過去の犯罪となるべき全ての行為に対
して、絶対的且つ無条件の恩赦を与える」とし、また RUF の戦闘員に対しては「RUF の
30
2003 年 7 月、心臓発作で死去。
364
全戦闘員及び協力者に対しても、本協定の署名時までに自己の目的を追求して行われた全
ての行為に関して、本協定の署名後に、絶対的且つ無条件の恩赦を与える」としている。
ところが、今まで述べてきたとおり、特別裁判所の活動は、国際人道法の遵守の重要性を
再確認した結果、やはり適正で公平な裁判を内戦の指導者だけにでも受けさせるべきだと
した国連安保理による決議 1315 を根拠にしたものである。完全恩赦なのか、そうでないの
か。この単純な矛盾は指摘をうけたが、国連側は「ロメ合意の恩赦はあくまでもシエラレ
オネ国内の法律上定義された犯罪が対象であり、国際戦争犯罪に対してではない」と言い
訳をしている31。
また、ロメ協定 3 条 9 項にある「自己の目的を追求して行われた全ての行為」に関して
も、矛盾を指摘する余地があるといえる。一応、RUF の蜂起の口実は一党独裁、腐敗を理
由にした当時の政権に対する革命といったところである。しかし、仮に「腐敗政治の撤廃」
を「自己の目的」に当てはめたとして、その為にレイプは必要だったか?より良い政治体
制を作り出すために、子どもを誘拐して麻薬で洗脳し、市民を(時には家族を)殺させる
必要性はあったか?目をえぐり、耳をそぎ落とし、手や足を切断することはその目的を追
求した結果行われたのか?
ⅱ)TRC と特別裁判所の関係について:情報の共有
犯罪者の責任解除と責任追及という TRC と特別裁判所の活動の関係性を考慮すれば、両
者の関係に大きな関心と疑問が寄せられるのは当然のことであった。
2001 年 12 月、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)と国連法務部はニューヨークで専
門家による会合を開き、以下のようなガイドラインを設定した。
1. TRC と特別裁判所は異なった時期に、異なった法に基づいて、異なった任務を帯びて
設立された。それにもかかわらず、この2つの機関は、責任の追及。犯罪の抑止、被
害者と加害者の双方が出来事を語る仕組み、シエラレオネの人々の国民的和解、補償、
さらに修復的正義を確保するに際して、補完的な役割を演ずるのである。
2.特別裁判所はシエラレオネの国内裁判所に対し優先権を有するが、この優先権は TRC
には及ばない。いずれにせよ、2 つの機関の関係は、優先の有無を基に論じられるべき
ではない。TRC と特別裁判所の究極の活動目的は、
「その異なってはいるが関連する職
務を十分に尊重しながら、補完し相互に支えあう形で活動する」ように、安保理と事
務総長が指導すべきである。
3.協力の形式は TRC と特別裁判所の協定で、適当な場合はその各自の手続規則で制度化
されるべきである。この協定と規則は、2 つの制度の独立性と各々の任務を十分に尊重
すべきである。
上記のガイドラインを基にして、特別裁判所と TRC の関係に関連した更なる詳細な議論
31
前掲書、伊勢崎賢治、96 ページ参照。
365
が行われるようになった。しかし、特に犯罪の加害者にとっては一番の関心といえる「情
報の共有」については何の説明もなかった。つまり、TRC で話した内容が特別裁判所での
訴追に利用されるかもしれないとの懸念だ。一人でも多くの証言を得ようとするならば、
TRC 側は秘密にもたらされた情報は決して漏らさないという姿勢を堅持することであった。
実際に TRC 法 7 条 3 項にその規定は記されているし、検察官がこの可能性をきっぱりと否
定した。しかしながら、TRC の本来の任務は、被害者と加害者がお互いに公の場で話をす
るということであったため、TRC としては秘密にする活動を避けたいところではあった。
結局、特別裁判所の検察官が「委員会の資料には全く関心がない」と述べると、秘密に関
する議論の必要性が強調されることはなくなったという32。したがって、実際には問題とさ
れることがなく、裁判は進行中である。しかし、今後どこかでシエラレオネと同様な取り
組み行われるかもしれず、その場合に改めて情報の共有についての問題提起がされること
は明白である。最も適切な対処法は、国際裁判所の証拠・手続規則その他で情報の共有は
一切認めないということを明記することではないだろうか33。
Ⅳ. 終わりに-
わりに-問題点と
問題点と今後の
今後の展望
(1)平和の犠牲になった正義
1999 年のロメ協定によって、数々の残虐行為に恩赦が与えられたことは本稿を通して述
べてきたことだが、果たしてそれは誰のための恩赦だったのだろうか。
伊勢崎は次のように述べる。
「『和解』には、寛容というフレーバーがいつも漂っているので、それ自体が崇高な道徳的
価値にまで昇華してブームになる。…(略)…戦争裁判では人を裁くという冷酷なイメー
ジからか、なかなか資金援助を得られず開設が遅れ、『和解』が先走ることになる。」
「『和解』の先走り。これほど、戦争の被害者の気持ちを蹂躙するものはない。『裁き』と
『和解』は常に車の両輪」であり、…」
内戦を終結させるために、各国がじたばたとシエラレオネに介入し恩赦が付与されたが、
「とりあえず」の平和を欲するがあまり、被害者だけに必要以上の寛容さを求めるのはあ
まりにも酷であると同時に、逆に民衆の反政府感情を抱かせて再び暴動が起きる可能性が
あるなど、本当の意味で永続的な平和をもたらすとは思えない。
32
33
前掲書、山下恭弘、24 ページ参照。
同上書、28 ページ参照。
366
(2)裁判の問題点
まず、現在も続いている特別裁判所の問題点として挙げられるのが、財源不足である。
既に述べたとおり、特別裁判所の活動資金は国際社会からの任意の寄付である。十分な寄
付が集まらないため、裁ける人数も限られてくる。やはり国際政治の中心とはかけ離れて
いるアフリカの国に関わるメリットはないに等しいというのが世界の本音なのだろうか。
現在、最大のドナーは、皮肉にもあのロメ和平協定に「関与」したアメリカである。
十分な財源を確保するためには、何よりもまず国際社会の関心を集めることが大事だ。
「そのためにはかかった費用に見合うだけの効果を実際の裁判を通じて例証して見せ、国
際刑事裁判の有用性をもっとアピールすること」が重要であるとの指摘がある34。2007 年 6
月 4 日からオランダのハーグで開始したテイラーの戦争犯罪に関する特別法廷はそういっ
た意味でも注目に値する裁判である。
第 2 の問題点として挙げられるのは、シエラレオネでは恩赦の否認をめぐって十分な法
的議論・説明がおこなわれなかったことである。前述の通り、2005 年 5 月の戦闘再開を契
機として、シエラレオネ政府はあっさりとロメ協定の恩赦に関する規定を否認してしまっ
た。いうまでもなく、ロメ協定は和平への強い欲求から生まれたものであるが、武力によ
る勝利が事実上不可能であると感じていた政府にとって、恩赦を武器に敵対する RUF に協
定の締結を迫る以外に和平を実現する手立てはなかった。ロメ協定の締結以前に地域的な
支援や断続的な国際的関与はあったが、基本的にシエラレオネは孤立無援の状態に置かれ
ていたといえる。よって、無条件の恩赦を与えたシエラレオネ政府に対して、国際社会は
これを非難する資格を持ち得ないが、それにしてもこれまでは恩赦を容認、少なくとも黙
認してきた国連の対応からすれば、不信感を募らせるだけの、突然の方向転換であった。
(3)有効な資金援助
表2に見られるように、1961 年から 2003 年にかけて、アメリカのシエラレオネに対す
る援助資金額は世界一である。一方旧宗主国であるイギリスの援助額は、同時期において
アメリカに次いで第 2 位だ。日本や中国といった他のドナー国も、シエラレオネの経済発
展の為の援助金を増やしている。
しかし、このような統計的な事実があるにも関わらず、シエラレオネの貧困もますます
ひどくなっているのも事実である。
例えば、2003 年にアメリカによるシエラレオネ援助金は 58.79 万ドルであり、この年に
シエラレオネが受けた援助額の 20 パーセントを占める。しかし、これは同時に、アメリカ
による途上国への援助金の 0.4 パーセントにすぎない。あらゆる国に実質的に少額を配当す
るよりも、アメリカのような最大のドナー国は、援助金をより貧しい国にターゲットを絞
って分配するべきである。そのように的を絞ることで、より効率の良い援助が望めるので
はないだろうか。
34
前掲書、山下恭弘、27 ページ参照。
367
もちろん、世界には援助を必要としている国や機関は絶えないが、例えば、活動資金不
足に悩まされているシエラレオネ特別裁判所や真相解明和解委員会のように期限付きで、
しかも、その国の永続的な和平に関するような場合には援助を集中させるべきではないか
と思う。
(シエラレオネに対する世界各国からの援助を政府がどの様な割合で国の機関にそ
れを配当するのか、にもかかっているのだと思うが。)
368
表 2.シエラレオネに対する外国の援助額
年
外国による援助総額
米国による援助額
外国による総援助額に対する
(100 万ドル)
(100 万ドル)
米国の援助額率
1961
14.81
1
14.81
1962
7.28
2
3.64
.
.
.
.
.
.
.
.
1970
6.91
3
2.303333
1971
10.49
4
2.6225
.
.
.
.
.
.
.
.
1980
90.93
8
11.36625
1981
60.11
8
7.51375
.
.
.
.
.
.
.
.
1991
104.11
8
13.01375
1992
133.47
13
10.26692
1993
207.88
8
25.985
1994
275.55
10
27.555
1995
206.36
8
25.795
1996
184.11
11
1997
118.64
13
9.126154
1998
106.43
13.19
8.068992
1999
73.59
17.39
4.231742
16.73727
2000
182.4
7.97
22.88582
2001
344.97
26.36
13.08687
2002
353.38
70.12
5.039646
2003
297.37
58.79
5.058173
3730.56
441.4435
計
(出所) Kandeh Stephen(2008),Poverty Alleviation in Sierra Leone and the Role of U.S. Foreign Aid: An
Institutional Trap Analysis,P327 より作成
35
英国:429.33
369
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