軍事機密に懸けた 我が青春

軍事機密に懸けた
我が青春
本書は平成六年四月二十五日を以て、今後教育および研究の資料として役立つよう
にと、防衛庁防衛研究所(東京都目黒区中目黒二丁目二番一号)の戦史部に、戦史
受第二十三号として正式に収蔵されることになった。
著
者
A5 版
150 頁
上製本
日本初のロケット爆弾の実験・審査
にあたったスタッフのひとりが
戦後四十八年たって明かす秘話
片
岡
主
一
序
片岡主一君、古希を迎えておめでとう。
記念の道標として自伝を発意、先ず本編を稿了し序文を乞われ、非才乍ら一文を寄す。
君との縁は、昭和十六年頃陸軍兵器学校生徒として、砲廠において兵器学を指導した
日に始まり、その交情は今も変わらない。
当時、兵器学技術将兵の教育拡充のため、陸軍工科学校を改称、発展的に拡張新設さ
れた学校で、生徒は朝鮮、台湾を含めて全国で四十数倍の志願者の中から選抜された俊
才達であった。君達第三期生は卒業満五十年を迎える。若きかの日を回想し、背が高く、
何となく大人の風格を備えた君の軍衣姿が今も眼に浮かぶ。
君は熊本県の一寒村に生まれた。『小作農の長男である自分は、(中学校)進学とは夢
にも思うことは出来なかったし、また余裕もなかった。それでも高等科は出してもらっ
た。学校を終えた自分がすぐ直面した農作業は、牛を追い雨の中の田植えであった。牛
と共に泥田に入って田植えである。夕刻になってずぶぬれになった衣服も着替えすらな
い……。
そして寝るのはこれこそせんべい布団である。
ウトウトとし、夜の明けきらぬ内に起きて、牛の餌をやり、お茶漬けを食べて又昨日
の続きである。昨日の雨にぬれた衣類を着て、牛と共に泥田を這い回るのである。
やりたくない…‥。(中略)本当に其の頃の事を思うと昔日の感である。
このような過去をもつ自分がやっと入学できた兵器学校は夢の様な世界だったが、田
舎者は学業について行くのが難儀であった』と少年期の窮乏を切々と述べ、同期生文集
-1-
「きずな五十年」に寄せている。
戦雲急迫を告げる昭和十九年一月には、最高戦争指導会議は本土決戦態勢の方針を決
め、三月二十日第三期生は卒業、それぞれの任地に向かって赴任した。君は第一航空軍
教育隊に赴任、その年の十二月陸軍航空審査部特殊航空兵器部に転属を命ぜられ、わが
陸軍初のロケット爆弾の試験研究に当たった。
多くの若い特攻隊員が次々と南海に突入してゆく凄烈な決戦の蔭に、青春の心血を傾
けた技術下士官たりし君が、今語る秘話、この一編に改めて深い感慨に打たれ、涙の出
る思いである。
君は『今日この歳まで、私は全力を尽くして生きて来たので、我が人生には本当に悔
いがないと自負している』と明言しているが、正しく君が困難に直面し、常に今自分は
何をすべきか、何が出来るかを自問し行動してきた姿は尊い。孔子は言う「智者は水を
好み、仁者は山を愛す」と。若き日嘗めた幾多の辛酸が、今日君の人柄と徳風を形成し
たものと思い敬服に堪えない。
一層の自愛と、自叙伝の完成を切に祈る。
平成五年九月
(湃山)有
語
川
武
典
意
兵黌に入る……兵器学校に入学した
軍機……軍の機密のこと
夢屡驚く……心配で何度も夢がさめた
回天の壮挙……国家の衰運をもとえかえす壮んなくわだ
て
鍾情を奈んせん‥…格別にひかれる思いをどうしょう
もない
-2-
語
意
風波……世の荒波
至仁に帰す……深いいつくしみの心になった
聊も玉を弄すなく……ちっとも玉を楽しむことはない
山を愛す人……孔子のことば「智者は水を愛し、仁者は
山を愛す」より引用。
第一句の「至仁」にかかる
古希……七十歳の寿齢
英毅……すぐれてつよい人
鬼神を驚かす……文章がすぐれ、大変感動させられるこ
と
(仄起式
眞字韻)
まえがき
平成四年十二月に入ってから腰痛が酷く、これはただ事ではないと思われる日が続い
た。再起不能かと心配し、私が最後にやるべきことは一体何であろうかと考える毎日で
あった。同月十七日には、どうしても出席しなければならない会合があったので、私が
三信会原病院に入院したのは、その五日後の二十二日であった。
翌平成五年の元旦は病院のベッドの上で迎えることになった。年が改まりベッドの上
で先ず考えたことは、いよいよ今年は六十代最後の年だということであった。再起不能
かと心配した腰痛も日に日に快方に向かい、これは完治すると思えるまでになった。ゆ
っくりこれからの余生を考えてみようとすると、私はどうしても今までの自分の人生を
振り返ってしまうのである。今日この歳まで、私は全力を尽くして生きて来たので、我
が人生には本当に悔いがないと自負している。
古希を迎える今年の十二月二十四日が何かの記念かつ節目となるようにと、私はその
日を目標に自分史を書くことを思い付いたのである。全体の骨格についてベッドの上で
二、三日よく考えてみたのだが、今日まで私にはあまりにも多くの特筆すべき出来事が
あったように思う。次に大体のアウトラインを挙げてみよう。
一、幼・少年期編
二、陸軍兵器学校および第一航空軍教育隊編
三、陸軍航空審査部編
四、戦後の混乱時編
五、片岡商事株式会社編
六、我が人生最終編
以上のように六編または七編にしようと思うと完結まで五、六年はかかりそうで、古
希を迎えるまでに全編を書き上げることは不可能である。したがって、とりあえず何れ
か一編をまとめることに決めた次第である。
みどりの日に湯布院の別荘の居間で、どの編から書こうかと考えながら美しい雲海を
見おろしていると、丁度五十年前のこの日のことを思い出した。昭和十八年の天皇誕生
日は、日本帝国陸軍最後の大観兵式が明治神宮外苑にあった代々木の練兵場(現在のオ
リンピック村)で華麗かつ盛大に行われた日である。その日、私はその式を陸軍兵器学
校の生徒として陪観した。あの堂々たる日本帝国陸軍は、それから二年四カ月しか保た
-3-
なかった訳だが、その間私はどうしていたのかと想いに耽った末、丁度その一時期に当
たる航空審査部編から書くことに決めた。
早速書き始めてみると四十八年前の出来事が走馬燈のように思い出され、想像してい
たよりも早く筆が進み、「事実は小説より奇なり」という言葉が誠であることを知った。
二十一歳の私が、日本のために全力を尽くした日々を御笑読下さい。
片 岡 主 一
目
次
4
序
まえがき
1
3
陸軍航空審査部の由来
5
陸軍航空審査部付の命令下る
5
−
上京
陸軍航空審査部に到着
6
航空審査部での日課始まる
が陸軍の試作機「キ」一一五
わが国初のロケットの原動機班付となる
使いものにならない試作機
航空審査部での任務始まる
航空審査部特殊航空兵器部結成式
熱海にて重大事故発生
実験飛行再開
天覧映画の撮影
重爆撃機による投下実験開始
空審査部での初めての飛行機搭乗
部下とともに御嶽神社参拝
東京大空襲
野戦用コンプレッサーの実験
憲兵との対話
琵琶湖にてロケット爆弾の実用実験開始
明石での一日
7
8
8
9
10
13
14
15
16
16
17
19
20
20
21
22
23
特殊航空審査部で唯一度の事故
岐阜刑務所出張
戦時中の京都見物
昭和二十年頃の八日市付近の農家
我が国初のジェット機の風聞
二度目の命拾い−東京大空襲
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24
25
26
26
岐阜刑務所にての仕事
束の間の一時
進級の想い出
再度の岐阜刑務所行き
終戦の日の想い出
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34
望 郷
軍人としての最後の日
結 び
あとがき
ロケット余話
著者略歴
35
36
37
37
38
38
-4-
◆
陸軍航空審査部の由来
日本の陸軍も戦争するには、飛行機が必要欠くべからざる兵器から最重要兵器となっ
て来たので、陸軍航空本部を設けた。その航空本部は、いち早く直轄の飛行実験部と日
本最良の飛行場を東京北多摩郡福生町に設置し、優秀なるパイロットを集め、その任に
当たらせた。
戦局の推移に従って、昭和十七年十月の勅令により飛行実験部は陸軍航空審査部と改
称され、航空に関する兵器および兵器材料、燃料、航空被服等の審査を行うと同時に、
制式を決定した飛行機の伝習教育を任務とした。その任務に当たったのは、将校が主で
あとは少数の准士官および下士官だけであった。
註 この航空審査部は、戦後米軍が極東軍司令部として使用する横田基地となったが、
国内最高の飛行基地であることに変わりはない。
◆
陸軍航空審査部付の命令下る
三重県鈴鹿市高塚町にある第一航空軍教育隊に配属中の昭和十九年十二月十八日の朝
は、霜柱が立つほどの寒さであったが不思議と気分は爽やかであった。いつもの通り食
堂に行き食事をしていると、どやどやっと同僚がやって来て「今度は誰の番かなぁ」、
「俺の番だろう」、「いやきっと俺の番だ」、「いやいやきっと俺の番だ」という会話を
始めた。
誰しも早く死にたいなどとは思っていなかったはずであるが、人よりも早く死ぬことが、
より名誉であるかのような死の順番を競う話である。それより半月ぐらい前には、同室
にいた宮本という軍曹が宮崎県児湯郡新田原の第一挺身飛行集団指令部付を命じられて
出発したばかりであった。この部隊は文字通り身を挺して敵地に落下傘で降下するか、
または飛行機で強行着陸するかの奇襲のために新たに編成された部隊であり、一度作戦
に参加すれば生還することは絶対に望めないものであった。このことがそれ以来ずっと
私や同僚の頭から離れていなかったのである。
食事の後事務所に帰って片付け物などをしていると、前田少尉が「片岡伍長、転属だ」
とそっと耳打ちしてくれた。前田少尉は陸軍工科学校の第十八期生で、私の六期先輩に
当たり、第一航空軍教育隊に在隊中は公私ともに後輩として引き立ててもらい、本当に
お世話になった人である。幾らか覚悟はしていたというものの『いよいよ自分の番か。
死に場所はいったいどこなのだろうか』と考え、背筋がぞっとしたことを今でもはっき
り覚えている。前田少尉の言葉を聞いた瞬間、私の顔色があまりにも変わったのであろ
う、少尉は笑みを浮かべ黙って東の方を指差した後、私に背を向け無言のまま立ち去っ
てしまった。戦局は日々悪化する一方であり、日本本土を狙うアメリカ軍に対し、特攻
隊の出撃が日常のことになっているときに、東の方を指差すとは……。そのときの私に
は、少尉の仕草の意味が理解できず、ただ呆然と立ちすくんでいたような気がする。
それから隊長の平井大尉に呼ばれたのは九時過ぎであった。隊長室に向かいながらい
よいよ正式に命令を受けるときが来たかと思うと、いつもと違い非常に緊張せざるを得
なかった。ドアをノックすると中から隊長の「よし」という返事があったので、「片岡
伍長、参りました」と言ってから部屋に入った。机の向こうの太った隊長の柔和な顔が、
気のせいかいつもより一層にこやかに見えた。隊長は直立して私に向かい、いつもより
大きな張りのある声で、「陸軍技術伍長、片岡主一、本日をもって陸軍航空審査部付を
命ずる」と命令を発してから腰を掛けた。それから今度は前にも増して笑みをたたえ、
「片岡伍長、このたびの航空審査部は我が陸軍航空隊の元締めであるので、誰でも行ける
ような所ではない。先方ではどんな任務が待っているか分からないが、日本のため大い
に頑張ってもらいたい」と付け加えた。私には何が何だか分からないまま、ただ「はい」
と返事をするのがやっとであった。
-5-
隊長室から自室に戻ると、同僚から「航空審査部付、それはおかしいぞ。あそこは航
空隊のそれぞれのトップがいて、これからどんな飛行機を製作するか研究し、試作し、
更に試作機のテストを繰り返し、その飛行機を陸軍で正式に採用するか否かを決定する
所だ」と言われ、自分のような未熟な者がどんな任務で行くのかとますます心配になっ
た。
間もなく教育隊本部に行くようにとの連絡があったので、副官である根本中尉の所に
正装して出かけた。副官室に入り「片岡伍長、申告に参りました」と告げると、副官は
直立し申告を受ける姿勢をとったので、私は心の準備はできていたが緊張して「陸軍技
術伍長、片岡主一、昭和十九年十二月十八日付をもって陸軍航空審査部付を命ぜられま
した。ここに謹んで申告致します」と一気に言った。この申告というのは、部下が直属
の上官に向かって言うことである。副官からは、平井隊長と全く同じような説明を受け、
当日直ちに出発するようにとのことであった。
次は、いよいよ第一航空軍教育隊長、安藤中佐に申告する番であった。隊長室で、副
官の立会いのもとに、副官に対するのと同様の申告をするのである。意外なことに隊長
からは何の言葉もなかったが、申告は何とか無事に終わった。
◆
上京−陸軍航空審査部に到着
私は隊長室を出て会計で旅費を受け取り、早速加佐登駅に向かった。途中清水の次郎
長伝に出て来る荒神山の横を通りながら『この荒神山もいよいよ見納めか』と思ったが、
駅までの三キロほどの道のりは宙を歩くようなルンルン気分であった。
朝命令を受け、その日の夕刻には夜行列車で東京に向かわなければならなかったので
ある。本当に急なことだが戦闘隊に行く訳ではなかったので、すっかり楽な気持ちにな
り、汽車の中ではぐっすり眠ることができた。
航空審査部のある北多摩郡福生の駅には、東京駅から中央線に乗り換え、立川駅で更
に青梅線に乗り換えて行かなければならない。福生は想像していたよりもかなり田舎で
あった。航空審査部への道順を駅員さんに尋ねると丁寧に教えてくれた。
やっと芽が出揃った麦畑の中をとことこと歩き、航空審査部の正門にたどり着いたと
きは既に十時を回っていた。驚いたことに門を守衛しているのは兵隊ではなく衛士であ
った。衛士とは今でいう警備員のような者である。衛門は実に堂々たるものなのに、衛
士が三人ほどいるだけであった。そのとき私は『ここは、我が陸軍航空隊の飛行機の要
に当たり、機密兵器ばかりを扱う所のはずだ。それにしては衛士の数が少な過ぎる』と
意外に思った。私が衛士に到着の報告をすると、待っていたかのように審査部の総務部
を教えてくれた。門を入ると右は樹齢五、六十年の見事な松林であった。左には兵舎が
二棟あるだけで、まっすぐな道が百メートルばかりあり、その先が搭乗員控え室で、そ
の二階が総務部であった。右の松林は奥深くどこまでも続いているように見えた。この
衛門から搭乗員控え室まで行く途中、鼓膜が破れるのではないかと思われるほどの飛行
機の爆音を何度も聞き、さすがは航
空審査部だと感心させられた。その
ときの私には自分に与えられた任務
は一体何だろうという不安はあっ
たが、期待の方が遥かに勝っていた
と思う。私は自分に 『落ち着け、
落ち着け』 と言い聞かせつつ総務
部への道を歩いたことを覚えている。
搭乗員控え室はだだっ広い五十坪
ばかりの板張りの床で、テーブルと
椅子が散乱しており、搭乗員が七、
八名いて一つのテーブルを囲んで打
-6-
ち合せをしているようであった。
私はその横を静かに通り抜けて二階に上がった。事務所には女子事務員ばかりがずらり
と並んでいて、今までの第一航空軍教育隊と違って、まるで民間の会社のようであった。
出入口に一番近い事務員に到着した旨を伝えると、上席にいた大尉の襟章を付けた人が
やおら立ち上がって来たので、着任の申告をしなければならないかと思い不動の姿勢を
とったが、手を横に振ってそれは必要ないと合図された。しかも開口一番、「もう着任
したのか」といかにも着任が早過ぎたような口ぶりであった。
一時間ほど待たされたであろうか、やっと宿舎を教えてもらった。宿舎は衛門を入り、
左に曲がって二十メートルばかり行き、今度は右に十メートルばかり行った松林の中に
ある平屋の建物で、今までは倉庫として使っていたのを私達が来るというので、いかに
も慌てて空けたような風であった。建物の広さは五十坪ばかりで、私はその内の一室を
割り当てられ、昼食は下士官食堂に行って採るようにと言われた。そのときは、やっと
昼食にありつけたという感じで、食べ始めたときは正午をとっくに過ぎていた。航空審
査部での初めての昼食は、御馳走ばかりでとても軍隊の食事とは思われないものであっ
た。
夕食時になっても誰一人として連絡に来る者はなく、また様子を見に来る者もいない
ので、全くどうして良いか分からないまま不安でどうしようもなかった。軍隊ならばど
こでも、夏は朝五時三十分、冬は六時にラッパの音に合わせて起床し、朝の点呼という
ものがあるはずであるがここは例外であった。点呼とは、全員整列して班長が自分の班
員を確認し、週番士官は整列した班を回って点検をする。例えば、第一班の前に週番士
官が来ると班長は不動の姿勢で「第一班××伍長以下十五名異常ありません」と言うの
である。次に週番士官は点呼が終わると本部に集まり、週番司令に「第一中隊異常あり
ません」、「第二中隊異常ありません」、「第三中隊……」というように次々に言う。こう
して司令は部隊全部を掌握するのである。これには約半時間を要したであろうか。夜は
一日の行事が終わって二十一時に朝と同様週番士官が掌握するが、司令への報告は電話
で済ませていた隊が多かった。
◆
航空審査部での日課始まる
結局その日は、点呼もなければ消灯のラッパもな
く終わった。しかも翌日も翌々日もただ食堂に行っ
て食事を採り、それ以外は寝るしかなかったのである。
十二月二十四日になった。私は、『今日は自分の二
十一歳の誕生日だ。日本兵役法によれば、今頃は徴
兵検査が終わり星一つの二等兵として、どこかの部
隊に入隊する頃だ』などと考えた。夜になり、寝台
に横になってから気付いたのだが、その日は夜間飛
行テストもないらしく、松林の中は恐怖さえ感じさ
せるほど静まり返っていた。
眠れぬままに色々と頭の中に浮かんで来たことは、
二年四カ月間にわたる兵器学校での生活のことであり、
卒業と同時に各地に赴任して行った同期生のことで
あった。中でも取り分け、机や枕を並べて勉強と寝起きを共にした、滋賀県安雲町出身
の藤沢平夫君のことであった。卒業のとき藤沢君は、南方派遣軍を希望し、その希望が
聞き入れられてルソン島に赴任した。私は、『あいつは、今頃どうしているかなぁ』と
彼の笑顔を思い出して眠りに就いた。
藤沢君は昭和二十年八月、戦争終結を待たず、ほんの数日前に戦死した。故陸軍技術
曹長、藤沢平夫君の三十五年忌には立派な墓石にお酒を供え、また五十年忌としてつい
-7-
二カ月前にお坊さんを迎え、墓前でお経を上げてもらったばかりである。
◆
我が陸軍の試作機「キ」一一五
さすがに次の日は、あまりの退屈さにとうとう我慢しきれなくなって、飛行場に出て
みることにした。審査部に来てからは驚きの連続であったが、飛行場に出て最初に驚か
されたのは、機種の違う色々な飛行機があったことだ。それまで戦闘機、爆撃機、偵察
機ぐらいしか知らなかった私は、数え切れないほどの種類の飛行機が並んでいるのを見
て、日本にこんなに沢山の種類の飛行機があったのかと感心した。
搭乗員控え室を通り抜けて右の方に行き、松林が切れた辺りからが滑走路であった。
鈴鹿北伊勢飛行場や、日本では数少ない優秀な飛行場と言われていた三重県の明野飛行
場と比べてみても段違いの広さであった。あまりの規模の大きさに、さすがは審査部の
ことはあると、しばらく腰を降ろして見渡していた。
すると脚を出したままよたよたと低空で飛んでいる戦闘機が私の目の前に現れた。よ
く見ていると飛行場の上空を行ったり来たりしていたのである。その戦闘機は今までに
は見たこともないようなもので、胴体が窪み脚は引っ込める様子がなかった。その飛行
機があまりにも珍しい変わった機種だったので、しばらく見とれていると、やっと着陸
して来た。それから操縦士は一人でさっさと降りて控え室に引き上げて行った。
私がその機に近付いて行くと、私と同階級である伍長も近付いて来て、「自分はこの
機の整備責任者だ」と誇らしげに言った。仕方なく私が「自分は十八日に審査部付で転
属して来た者だが、まだ何の指示もないので、退屈だからちょっと来てみた」と言うと、
伍長の私に対する警戒する目付きが変わり、気安く話し出したので色々質問したところ、
その飛行機は次のようだと説明してくれた。
この飛行機は「キ」一一五号と言い、決戦(特別攻撃隊)用として試作されたもので
ある。胴体の窪んでいるところは爆弾を搭載するためである。爆弾を積んで離陸したら
脚は胴体から切り離して落とす。その落とした脚は次の飛行機また次の飛行機というよ
ぅに順々に離陸のためだけに使用する。これは脚を何回も使用するためである。当然の
こととして、飛行機は爆弾を搭載しているので二度と脚無しでは着陸できない。つまり
絶体絶命の特別攻撃用体当り機である。
それから伍長は私を操縦席に案内してくれた。操縦席に乗り込んでみて本当に驚かさ
れた。戦闘機には普通計器類が三十から四十個あるのだが、この「キ」一一五号機には
七個あるだけであり、正しく人の乗る爆弾であったからだ。後に聞いた話だが、この「キ」
一一五号機は審査主任の大尉が、同じ操縦する者としてあまりにも究極の飛行機である
と審査をパスさせなかったので製作には入らなかったそうである。あまりの驚きに時間
の経つのも忘れ、先の伍長と話していると夕食の時間となったので宿舎に帰った。
その年も残り少なくなっていたが、その頃の二、三日は非常に寒かったような気がす
る。とにかく気がかりなのは何の任務も与えられないことで、毎日毎日飛行場に出かけ
ては種々な飛行機のテストするのを見ることが続いた。
◆
わが国初のロケットの原動機班付となる
その年も押し迫って残り二、三日となった日の朝早く、背の高いがっちりとした、中
尉の階級章を付けた人が、「片岡は居るか」と言いながら戸を開けて入って来た。「はい」
と答えると中尉は私を別室に呼び、机の前に腰を掛けさせてから口を開いた。「自分は
今井というものだ。正月早々からの仕事の説明をする」と言って、次のような説明をした。
我々のこれからする仕事は、日本で初めてのロケット爆弾の研究および審査である。
詳しいことはその都度説明するが、この爆弾は二種類の薬液を混合爆発させ、その反動
によって飛ぶのである。その飛ぶ原動力がうまく行くか行かないかが問題である。この
爆弾はイ号ということ。イ号は一型甲と乙の二通りある。甲は総重量が千五百キロもあ
-8-
り、「キ」六七=四式重爆機に搭載する。乙は総重量が千キロあって「キ」四八=九九
式双発軽爆撃機に搭載する。とりあえずイ号一型乙の方から実験を開始する。
中尉は私に、実験に備え図面をよく見ておくことと研究が軍事機密なので、ロケット
の図面と説明書は絶対に肌身離さず持っていることを告げた。私は、その図面と説明書
をしっかり頭の中に入れるよう、繰り返し繰り返し目を通した。
なお、ロケット爆弾兵器の責任区分は次のようになっていた。
陸軍航空審査部最高責任者
特殊航空兵器部長大森中佐
原動機審査班々長
片岡伍長
今井中尉 (東京帝国大学卒)
安定(無線繰縦)班々長
矢野中尉 (東京帝国大学卒)
機体班
田中(大阪府出身)
前原(鹿児島県出身)
中邑(石川県出身)
師玉 (鹿児島県出身)
豊田(東京都出身)
小沢(栃木県出身)
上五名は特別幹部候補生
戦局は日に日に日本に不利な状態となって行くが、さすがに歳の暮れともなると審査
部の飛行場も爆音が少なくなっていた。今井中尉から渡された図面と説明書を読んでば
かりいても退屈なので、飛行回数がめっきり少なくなった飛行場に行ってみることにし
た。搭乗員控え室の前には戦闘機が六機ほどあるだけで、それらは全部私が以前に見た
ことのあるものだったで側に行って見る気もしなかった。滑走路の遙か彼方向こうを見
ると松林の中に点々と機影が目に入って来た。『行ってみたいが、ちょっと遠いなぁ』
とは思ったが、どんな新機種があるのかどうしても見てみたくなった。『よし、こうな
ったら行くしかない』と私は自分に言い聞かせ、滑走路は横切れないので、右側を迂回
して行くことにした。
千五百メートルぐらいは歩いたであろうか、やっと飛行機の所にたどり着いた。そこ
には九七式重爆機、「隼」戦闘機、二式戦闘機「鍾馗」、三式戦闘機「飛燕」など実に沢
山の機種の飛行機があったのである。そのときの私は、まるで日本陸軍航空隊の飛行機
の展示場を見る思いであった。
◆
使いものにならない試作機
何十機目であったろうか、変わった大きな重爆撃機が目に入ったので急いで近付いて
見た。それは四式重爆撃機「キ」六七のようだが機首が一見して変わっているのが分か
った。「キ」六七は普通機首に機関銃座があって透明の風防ガラスになっているのだが、
よく見るとその飛行機は一回り大きいジュラルミン板になっていて、前に大砲の砲身の
ようなものが突き出ていたのである。おかしいと思い、よくよく見てみると紛れもなく
大砲の砲身であった。それが八八式七センチメートル野戦高射砲であることはすぐに解
-9-
かった。
飛行機に高射砲が搭載してあるとは……。八八式七センチメートル野戦高射砲は、陸
軍兵器学校で重点兵器として習った中の一つで、私はその専門の科の卒業であり、頭の
中によく残っている兵器であった。この兵器は、射撃すると弾丸が飛び出した反動で砲
身が後ろに下がる。下がるのを少なくするために、駐退復座機というものを砲身の下に
装備して後退する砲身を六十センチぐらいで止め、砲身を元に戻すように設計されてい
た。私は『本当にその一式が飛行機に装備されているのだろうか』と疑問に思い、どう
しても機上が見てみたくなった。
飛行機の真下に行って搭乗口を押してみると簡単に開いた。胸を踊らせながら乗り込
むと、それはそれは完全な八八式七センチメートル野戦高射砲がそっくり積載してある
のに感心した。それから私は『この飛行機を実際に戦争に使用したらどうなるのだろう
か』と操縦席に座って思いを巡らせた。この砲の射程距離は約一万メートルで、弾丸は
破裂すれば半径二十五メートル以内に被害を与える威力を持っていた。その上、短延期
信管というのを装備しており、弾丸を発射前に操作し、発射後十秒後、二十秒後などと
自由に爆発させることができるようになっていたのである。結論として、私は実戦には
全く不向きではないかと思った。自分の専門分野に属することなので、専門的観点から
色々見たこともあって、一時間以上も機上にいたような記憶がある。『今日は実に良い
ものを見せてもらった』と思いながら暗くなりかけた滑走路の端を走り抜けて自室に戻
った。
昭和十九年最後の日は全く何もせずに、その年一年の自分の変化を思い浮かべつつの
んびりしていた。いつもとは違い爆音も全く聞こえないようであった。
昭和二十年の元旦の朝は本当に年も改まったと感じさせるような良いお天気で、余程
冷え込んだのか霜柱が立っていた。その日はさすがに航空審査部だけあってお酒が出さ
れた。私には与えられた仕事がまだ何もなかったので、元旦からまた飛行場回りをした。
年末に見た「キ」六七の高射砲を積載した飛行機は予想外の新機種であった。しかし、
それが使い物にならないとなると、他にも珍種があるはずだと思い、滑走路の端を横切
って飛行機の係留場所へと向かうのが毎日のことであった。
係留場所は広大で、次から次へと私のそれまで知っていた飛行機にちょっとずつ改良
を加えたような機が散在していた。毎日昼食も抜きで見て回ったが、これはという飛行
機は結局なかった。毎日、朝出てから自室に帰るのは十八時頃で、もう暗くなっている
ことが多かった。
◆
航空審査部での任務始まる
何もすることがなく悶々としていると、昭和二十年一月六日頃であったろうか今井中
尉が朝八時過ぎ頃、私の部屋の入口にいかにも緊張した顔で立っていた。そして、私に
「片岡君、いよいよ仕事を始めるときが来た」と張りのある凜とした声で言った。私は
やっと来たか、とその言葉に促されて立ち上がり、二人で急いで搭乗員控え室の前に行
くことになった。そこまでは約五、六百メートルはあったであろうが、初めて見る我が
国産第一号の薬液ロケットが来ているのかと思うと胸が踊り、その距離は非常に近く感
じられた。
搭乗員控え室の右側を通り抜けて滑走路の方に出てみると、五、六十メートル先の松
林の切れた所で、丁度ロケットをトラックから降ろすところであった。「隼」戦闘機を
一段と小さくした、翼の長さが四メートルほどで、いかにも速く飛びそうな姿を見ると
- 10 -
本当に胸が高鳴った。
今井中尉がトラックに
近付き、指揮している
人に「朝早くから御苦
労さん」と言うと、充
血し赤い目をしたその
人は小さな声で「いい
え」と、いかにも夜通
し走って来たような顔
つきで応じた。あまり
にもイ号乙型機の姿が
美しいので見とれてい
ると、今井中尉が私に
「みんなを呼んで来
い」と命令したので、
急いで部下を呼びに兵舎まで行くとみんなも揃って待っていた。
そのときの、みんな
の実に生き生きとした
顔は今でもはっきりと
覚えている。滑走路の
片隅で、第二号機のト
ラックから降ろした部
品の梱包を解きながら、
本当にみんな胸が踊っ
ているようであった。
テスト機の耳をつんざ
く爆音を聞きながら、
黙々とその作業は進
んだ。部下は全員特別
幹部候補生だけあって、
今井中尉と私は指示を
するだけで、後は黙って見ていれば良かったので、実に素晴らしい者揃いであることを
嬉しく、また頼もしく思った。
遅い昼食を終え、午後からはロケットを実験台に取り付けて地上で噴射がうまく行く
か否かの実験をする段取りとなった。取り付けが終わったところで、今井中尉立会いの
もとに、いかにしてこのロケットが飛ぶかをみんなの前で説明させられたが、一つも間
違うことがなく、注意も受けなかったので、我ながら上手に説明ができたと思った。
先ず第一の作業として、ボンベに百五十気圧の空気をコンプレッサーを使用して詰め
た。モーターを回しながら今度は今井中尉がみんなを集めて薬液の説明をした。この薬
液は過酸化水素で、怪我をしたとき消毒に使用するオキシフルはこの三パーセントの水
溶液である。これは日本中から集めた貴金属の白金を触媒にして作ったもので、非常に
貴重品であるから大事に取り扱うようにと注意を受けた。衣類に付着したらぽろぽろに
なるというので、みんな防毒衣を完全に着用するようにと一式ずつ渡された。それは帽
子から上衣、ズボン、何と靴まであり、それこそ全身を完全に覆うゴム衣であった。今
井中尉以下全員が着用し終わると、今度は乙液の説明に移ったが、これは過マンガンソ
ーダの一言で終わった。
しばらくして圧力計器が百五十気圧を指したので、いよいよ機に薬液を注入すること
になった。甲液はガラス瓶に入れてあり、たぬき瓶と呼ばれていたそのガラス瓶は竹で
編んだ覆いで割れないように一本一本包んであった。一本に十八リットルぐらいずつ入
れてあり、それを二人で持つことになった。慎重に慎重に作業は進み無事に終わった。
- 11 -
甲液は無色透明な水溶液で、その透明さが何となく不気味であった。それに対し乙液は
濃い紫色であり、何物も一瞬にして紫色に変えてしまうような鋭い感じを受けた。
この二つの液体を甲七に対して乙一の割合で二十二気圧で押し出し、混合爆発させる
のである。そのためには、しっかりした地上実験台に取り付けて噴射させる必要があっ
た。みんなが固唾を飲んで見守る中、今井中尉が爆管を叩いた。すると白い煙が二、三
十メートルもシャーツという音を立てて噴き出した。これが我が国ロケットの第一号機
の実験成功の一瞬であった。みんなは手を叩いて喜んだが、私は何だか涙が出てボーッ
としていたことをはっきりと覚えている。軍事機密の図面と説明書を繰り返し繰り返し
読んで自分の責任の重大さを感じていたせいだろうと思った。こうして夕闇迫る頃に実
験は終わった。
次の日は、一号機で前日と同じ地上噴射試験を午前と午後の二回行った。二回とも噴
射は実にうまく行った。地上噴射実験台からは爆弾と同じ重さのコンクリート製の弾頭
が着装してあるので、チェーンブロックで吊り上げ、爆弾運搬用の台車に移した。翌日
には熱海温泉と初島の間の湾に実際にロケットを飛ばしてみるということであった。離
陸は十時であるという連絡を受けた。
いよいよ最初の実験飛行の朝が来た。天気は快晴であった。無線班の矢野中尉が五、
六人連れて来て、二十メートルばかり離れた所から無線でうまく操縦できるかの実験に
移った。原動機班今井中尉以下全員が見守る中、方向舵、昇降舵、補助翼とも実にうま
くスムーズに無線で動いた。実験に立ち会っている者全員が驚いたような顔つきであっ
た。
「これでよし」と矢野中尉が言い、搭乗員控え室の操縦士に連絡に行った。その間に
原動機班は全員で一寸先に飛行を待っている九九式双発軽爆撃機にロケット爆弾を着装
した。私は爆弾を飛行機に着装するのが全く初めてで、まごついていたが飛行機の整備
士からのアドバイスを受けて比較的短時間で着装を終わり、後は離陸を待つばかりとな
った。
ちょっと間をおいて飛行服に身を固めた五名がやって来たが、その中の今井中尉が一
段と頼もしく見えた。その中にはまた無線班の矢野中尉もいたようであった。飛行機は
とっくにエンジンを始動しプロペラが回っていて、みんなが乗り込むのと同時に発進し
て行った。私は見送りながら手を合わせて実験が成功するのを祈らずにはいられなかっ
た。
九九式双発軽爆撃機は胴体が金魚のお腹のよ
うにぶくつと膨れている上に乙型爆弾(小飛行
機)を装着したので、子供をお腹に抱いたとい
う感じでいかにも重そうな不格好な姿になって
いた。原動機班と無線班(機体班はいなかった
と思う) の十名ばかりが見守る中、機は滑走
路の東端までゆっくり進んだ。『離陸できるかな
ぁ』と思って見ていると、全速で目の前を通過
した機は滑走路の中まで行かないうちに大地か
らふわりと離れて行った。子供を抱いて大空を泳いで行く姿は遠ざかるにつれて段々と
よく見えて来たが、いつの間にかスーツと薄い雲の中に吸い込まれて行った。
原動機班は全員松林の中に腰を降ろして、飛び立って行ったばかりの九九式双発軽爆
撃機の姿の美しかったことを口々に褒め合った。熱海湾まで行っての投下実験には、お
よそ二時間を要した。実験機の帰りを待つ長い間、着陸して来る東の方向は松林に遮ら
れて見えないが、みんなそちらの空ばかり見ていた。この間、航空審査部だけあって色
々な機種が離陸したり着陸したりと全く途絶えることがなかった。飛行機が着陸して来
るたびに、今度か今度かとみんな一斉に滑走路に目を向けた。
「あっ、帰って来た」と誰かが指差す方を見ると正しくその方向には九九式双発爆撃
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機があり、「本当だ」と他の誰かがそれに応じたのでみんな立ち上がった。しかし誰だ
っただろうか、「いや、あれは違う」とその言葉をすぐに打ち消してから、続けて「自
分達の飛行機は爆弾倉の覆いは取り外してあるが、あれは覆いがしてある」と言った。
正しくその通りで、私達の待っている飛行機ではなかったのである。それからしばらく
して、本当にイ号一型乙機の母機と一目で分かる、爆弾倉の覆いの無い軽爆撃機が滑走
して来て私達の前でぴたりと止まった。機の整備員が車輪止めをした後、五人が降りて
来て機長を前に四人が整列して挨拶を交わした。それから彼らは、それを見守っている
私達には一瞥もくれずに搭乗員控え室の方に足早に去って行った。ただ、今井中尉だけ
は私見てにっこりと笑顔を見せ、実験はうまく行ったと言いたさそうな素振りであった。
私達は二号機の地上実験の作業を開始した。大体このような繰り返しで二号、三号機
と熱海湾に投下実験を重ねて行った。
◆
航空審査部特殊航空兵器部結成式
一月十七日か十八日であったろうと思う。私の寝泊まりしている建物の横の広場、と
言っても三百か四百平方メートルぐらい
はあったであろうか、松林に囲まれた所
に小さな広場があった。みんな正装して
そこに集まれと言うので、何があるのだ
ろうかと思って待っていると大森中佐以
下七、八十名ばかりが集まって来た。
見るとほとんどが将校であった。しかも、
よく見ると少佐の階級章を付けた人が多
く十五名以上はおり、中心は大尉であっ
たように記憶している。とにかく私のよ
うな下士官は数えるほどであった。
今井中尉に尋ねると、特殊航空兵器部
(特兵部)の結成式だということであった。
みんな整列し終わったかなと思っていると、身長が百八十センチぐらいで堂々たる恰
幅の良い少佐と少し背の低い百六十センチよりちょっとあるぐらいの小太りした少佐が
小声で話していたが、さっと隊を抜け出して正面にいる大森中佐から見て左側に六、七
名並んだ。よく見るとみんな技術将校以外の人であった。
大森中佐が、「本日ここに特兵部を結成する。みんな全力を尽くして任務に邁進する
ように」と訓示をして結成式は終わった。式の体形は大体次のようであったと記憶して
いる。
話によると、秀少佐は熊谷飛行学校の飛
大森中佐
行隊長をしていた人で、日本で一 二のベ
テランパイロットであり、飛行時間は六千
二百時間以上とのことであった。このよう
な人が部の一員になって実験する私達の任
務の重大さを、私は感ぜずにはいられなか
った。式は大体一時間ぐらいで終わり、す
ぐ作業服に着替えて仕事を始めた。午後か
らの飛行準備をして、まだ小飛行の母機に
対する懸吊が終わっていないというのに、
飛行服を着た秀少佐が靴音を響かせてやって来た。何のためなのであろうか、と手を休
めて見とれていると、母機たる九九式軽爆撃機の所に行き、自分の手で先ず後尾の方向
舵を動かしてみた。次に昇降舵である。そして大きな声で「機付長」と呼んだ。何が起
こるのかと耳を澄ましてじっと見詰めていると、「これは少し重いので点検しておくよ
- 13 -
うに」と注意した。次に主翼の補助翼までも手を掛けて動かしていた。
私はそれまで相当な数の操縦士に接してきていたが、自分がこれから搭乗する機の地
上での手作動検査を自らする人を見たのは初めてであった。これは私にとって大変な驚
きであると同時に、六千二百時間以上も無事故であるということに深く感銘し敬意を表
した。
その後ずっと同少佐とは行動を共にしたが、搭乗するときは一度としてこの点検を怠
ったことがなかったし、何回かロケット爆弾の投下試験に同乗させてもらったが、実に
上手な操縦で私には少佐が神様のように見えた。後で聞いた話だが、少佐は佐賀県出身
で葉隠武士の子孫だということであった。
イ号一型乙の投下試験を数回終えた一月末か二月初めだったであろうか、イ号一型甲
が三菱名古屋工場より運ばれて来た。先に書いたように甲は乙より五百キロほど重く、
姿も違い、いかにも重爆撃機の搭載にふさわしい感じがした。乙の飛行実験に合わせ甲
の地上実験が繰り返された。本当に充実した毎日であった。
◆
熱海にて重大事故発生
二月上旬だったと思う。いつもの通り九九式軽爆撃機が帰って来て、御苦労様と言い
たいほどの所に止まった。降りて来た搭乗員は、いつもの通りの敬礼をせず駆け足で控
え室に飛び込んで行った。『何があっ
たのかなぁ。原動機が作動せずに失敗
したか。今日の実験の様子を聞きた
い』と思ったが、誰一人として夕刻ま
で地上実験をしている私達の所には来
なかった。
それから三、四日は実験飛行もなく、
だた甲および乙のロケット噴射実験を
していた。
安定(無線操縦)班だけは、矢野中尉
以下全員が顔色を変えて真剣に実験を
繰り返していた。
何日が過ぎたか定かではないが、私
達の前に「キ」六七=四式重爆撃機
「飛竜」が来た。爆弾倉の覆いを取り
外してあったので、私はすぐに甲爆弾
の母機と察知した。よく見ると尾翼に
大きく八百二十号機と書いてあった。
これが終戦まで私が付き合うことにな
った飛行機である。
この日から数日して、今井中尉が私
達の地上実験をしている所に来たので、
「一体どんな事故が起きたのですか」
と尋ねた。しかし中尉は何も説明して
くれなかったので、私は気がかりで仕
方がなかった。私はとにかく知りたい
と思い強引に聞いたところ、中尉はみ
んなと離れた松林の中に私を連れて
行き、「伊豆半島の付け根の網代上空
から進入した実験機が真鶴岬の先端に向かって発射したイ号一型乙は、左に九十度曲が
って熱海の旅館に突っ込んでしまった。旅館は全焼し死傷者まで出たから、今後の実験
- 14 -
は主に千葉県の銚子付近になる」と詳しく話してくれた。このことは絶対に口外しない
ようにと口止めされた。
私は、無線班が目の色を変えて地上実験を繰り返している訳がやっとそれで分かった
のでほっとした。中尉と私は、事故が原動機班のせいではなくて良かったと手を握り合
い喜んだ。
あまりにも事故が大きく原因が無線操縦装置の不備だったので、当分実験飛行はでき
ないだろうと思っていると、数日後、翌朝十時に実験開始という知らせが来た。このよ
うに早く実験が再開できるのは、無線操縦班の不眠不休の頑張りがあったからだろう、
と感謝しつつ喜んだ。
◆
実験飛行再開
指示された通り、飛行実験できるように九九式軽爆撃機にロケット爆弾を搭載して待
っていると、飛行実験班の人達が時間通りに搭乗員控え室からやって来た。もちろんそ
の五人の中に今井中尉もいたし無線操縦班の矢野中尉もいたが、前回の飛行実験で大事
故を起こしたという素振りは微塵もなく、
ただ淡々として飛び立って行った。見送っ
た私達の方がかえって緊張していたような
気がする。
十二時を過ぎても帰って来ないので非常
に心配していると、いつの間に着陸したの
か私達の前に来て停止した。いつもの通り
搭乗員の挨拶が終わり控え室の方に引き上
げて行ったが、今井中尉だけはみんなから
離れ、私の所にいつもより大股で近寄って
来た。
その仕草がいかにも重大な用件を私に命ず
るように感じられたので、私から先に「ま
た何かあったのですか」と思わず聞いてし
まった。
中尉は、「午後からロケットの噴射装置を改造してもらうために町工場に行くから、
ロケットを機本体より取り外して持ち運びができるようにしておくように」と命じて私
に質問する間も与えず搭乗員控え室の方に急いで去って行った。
昼食を後回しにして原動機班全員で、命じられた通りに本体よりロケットを取り外し、
持ち運びができるように紐を掛けた。重くて到底一人では持てそうもないので、仕方な
く二人で持てるように紐を掛け直した。作業がやっと終わり、部下みんなに昼食に行く
ことを許可した。
間もなく今井中尉が飛行服より軍服に着替えてやって来た。荷造りした部品を見てう
なずき、「さあ、行くぞ。そちらを持て」と言われたので、私は指差された持ち易い方
を持ちながら、『この不格好な部品を二人で持って電車で行くのだろうか。第一電車に
乗せてもらえるのだろうか』、などと重ね重ね心配した。しかも今井中尉は軍服を着て
いたが、私は汚れた作業衣姿のままであった。中尉は、そんなことは気にも留めずさっ
さと歩き出した。あまりにも事急を要するようで、私はまだ昼食を採っていないという
ことを言い出せず後に従った。
航空審査部の正門から青梅線の牛浜という駅までは一キロはある。そこを三十キロ以
上ある部品を二人で持って行ったのである。そのときの中尉の後ろ姿を眺めていて、そ
れが重大な任務であることが分かり、休みもしないで急いだことは今でも瞼に残ってい
る。一体どこに改造しに行くのか質問するのすら恐ろしいような中尉の形相であった。
中尉の後に従って立川駅、新宿駅、日暮里駅と順に乗り換え、私鉄京成線の二つ目の
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駅で下車して工場に着いたのは十五時近くであった。このような小さな小さな町工場で
どんな改造をするのだろう、と心配になった。
中尉が工場の主人と打ち合せをして、指示をしている間に、私は早速部品の荷を解い
た。主人自身がすぐに作業にかかった。改造は簡単なものでロケットの噴射孔をほんの
ちょっと大きくするだけであった。結局ロケットの噴射が弱いので、穴を大きくして強
くするための改造であった。
今井中尉と私に出されたうどんを前に、中尉もまだ昼食を採っていなかったことに気
付いた。うどんを食べ終わり、中尉の思い詰めた顔が緩んで来て少し話ができるように
なった頃、ようやく改造も終わった。審査部に帰り着いたのは、冬の日暮れは早いので
すっかり暗くなった十九時過ぎであった。
翌日の実験も予定通り十時出発であった。改造した部品を取り付けて実験に間に合わ
せるのに一生懸命であった。飛行機が出発するのを待って、その日は軍服に着替え、今
度は私が部下を連れて昨日と同じように、次ぎに実験するロケット爆弾の部品を日暮里
の工場まで改造に行かなければならなかった。私は部下の二名にも軍服を着用させて行
くことにした。ゆったりした気分だが、改造して噴射能力を増した実験機の結果がどう
なったか早く知りたかった。
改造が終わって審査部に帰り、明るかったので所定の場所に行ってみると、居残りの
部下の一人が「班長、今日の実験は成功でした」と報告してくれた。「艮かった。良か
った」と言って嬉しがったことを覚えている。
◆
天覧映画の撮影
二月の中旬になった。いつもの通り所定の所に行って飛行実験のため準備をしている
と、今井中尉が大きなカメラを肩から掛けた人を連れて来て、みんなにこの人の紹介と
任務の説明をした。彼はニュースカメラマンで、このロケット爆弾のことを天皇陛下に
説明するために撮影に来たのであった。カメラマンの指示に従って、ロケット爆弾に甲
液および乙液を充填し、コンプレッサーを回し
て圧縮空気も充填し、九九式軽爆撃機に装備す
るところまで繰り返し繰り返しカメラの前で実
演した。撮影が終わるとカメラマンは、「この
映画は今月末に天覧に供するが、ニュースとし
て映画館に出るのはずっと後になります」と言
って帰って行った。その日は、飛行実験は中止
となった。終戦後知ったことだが、この映写は
軍事機密で、ニュース映画としては上映されな
かったようである。
◆
重爆撃機による投下実験開始
この撮影の日の翌日からだったろうと思うが、先に書いたキ六七=四式重爆撃機八百
二十号機搭載用のイ号一型甲の実験準備にかかった。イ号一型甲のロケット噴射装置の
原理は、乙型と全く同じなので少しも戸惑うことなく順調に進んだ。ただ一型乙より何
もかも大きいので、それだけに時間を要した。
二、三回地上噴射実験をして、第二号機の飛行実験は確か二月中旬に行われた。乙型
より重量があるので八百二十号機に装備するのには時間がかかると思って、地上実験台
から前日爆弾運搬車に移動して装備の予行をやってみたところ、乙型を装備する九九式
軽爆撃機より五年も後にできた新型機であるから全く何の苦もなく短時間で装備ができ
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たので自信を持った。
飛行実験当日は早朝から出かけたが、前日の作業の繰り返しのお陰で、時間を持て余
すぐらいすぐにロケット爆弾を装備することができた。ゆったりとスマートな四式重爆
撃機にイ号一型甲ロケット爆弾を装備した姿を見詰めて全く頼もしく思った。八百二十
号機の下まで行ったり来たりして、初めて飛行実験を実施するロケット爆弾イ号一型甲
を撫で回した。このようにして、いよいよ重爆撃機による投下実験が始まった。
それまで乙型爆弾のみ扱って来たが、重量感のある甲型爆弾はいかにも頼もしく、一
発で千トンぐらいの船は沈めることができるのではないかと思った。
ここでちょっと説明しておくが、乙型は空気ボンベから甲液および乙液を噴射爆発さ
せるのに二十二気圧に調整するが、甲型は重量があるので大きな力が必要な訳で二十八
気圧に調整する。この違いだけで後は全く同じである。
◆
航空審査部での初めての飛行機搭乗
無線操縦のトラブルによる大事故があってからは、二、三機は非常に慎重に地上実験
をしてから投下実験するようにしていたが、二月中旬に入ってからは空気圧の調整のみ
しただけで投下実験することにした。乙型爆弾の実験さえ成功すれば良い、と全力で取
り組んで来たので、この頃の二、三機は全く何のトラブルもなく成功した。
確か二月二十日頃だったと思う。いつもの通り九九式軽爆撃機に投下実験するよう装
備の準備をしていると今井中尉がやって来て、いきなり「本日の投下実験には片岡伍長
が行くようになったから、早く搭乗員控え室に行って用意をするように」と命じた。そ
れまで下士官が飛行実験に行ったことはなかった。本当に破格の命令だったので少し緊
張はしたが、喜びは相当なものであった。
第一航空軍教育隊以来久しぶりの飛行であった。もちろん操縦カンを握ったのは、名
前は思い出せないがベテランパイロットの中尉であった。爆撃機に搭載限度以上の重量
のあるイ号一型乙を装備して離陸しようというのである。寒い日であったが、天気は冬
にしては珍しい快晴であった。関東平野の上空を飛ぶのは初めてというのに、操縦席の
前方のいつもは爆撃手が座る位置に座らされた。
いよいよ発進のときが来た。飛行機の整備員が車輪前後に装置していた歯止めを外し
た。プロペラの音が少し上がり、飛行機はゆっくりと動き出して滑走路東端に向かって
走り出した。重いイ号一型乙を装備していたので、アスファルトの継目を越えるたびに
翼がギユウギユウと音を立てて揺れた。初めて搭乗した私は少し心配になったが、全員
は全く平常心のようであった。恐らく私の顔は緊張で青ざめていたと思うが、幸い一番
前に乗務していたので顔色を見られる心配はなかった。離陸してゆっくりと高度を上げ
ていると、地上から二人連れで盛んに手を振っているのが見えた。爆撃機がこれから戦
場に爆弾を装備して行くので別れの見送りのつもりだろうか、とそれを見て重い緊張が
少し和らいだ。このときの状況は今でも鮮明に思い出すことができる。
前の年の十一月にサイパン島を発進した B 二九が東京の空に初めて現れてからとい
うものは、いつ本格的な空襲が始まるか心配して学童は疎開し、各家庭では防空壕を掘
って戦々恐々としているというのに、上空から眺める関東平野は実に静かで青々とした
麦畑が非常に美しかったことを思い出す。その美しさに見とれていると、いつの間にか
銚子沖に出ていた。目標上空をゆっくりと旋回して少し高度を上げた。伝声管を伝わっ
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て「風向よし。高度八百メートル。投下用意。
投下」という声が耳に入って来た。その直後に
シューッという音が聞こえ、搭乗機が一瞬軽く
なったような気がした。同時に真っ白い煙を出
しながら、だいだい色のイ号一型乙が搭乗機の
前に出てぐんぐんスピードを上げたかと思うと
急に速力が落ち、錐揉状態となって真逆さまに
海面に突っ込んで行った。
後ろを振り向くと搭乗員はみんながっかりし
て青い顔をしているように見えた。その後、審
査部のある福生の飛行場にどのように帰ったか覚えていない。ただ、帰るとすぐに今井
中尉に実験の状況を報告したことだけは覚えている。
この実験の後、原動機(ロケット)と無線操縦装置のどちらの故障が原因かを議論し
たことを覚えている。結局ロケットの噴射力不足が原因ということで決着した。ではど
うしてこのときのイ号一型乙に限って噴射能力が落ちたのか……。その原因について今
井中尉と種々話し合っていると、部下の誰かが「班長、このロケットは空気ボンベの口
金の所から空気が漏れています」と報告しに来た。それまでの実験では全然気にもして
いなかった絶対漏れるはずのない所であった。このときの失敗も全然気にもしていない
口金から空気が漏れていたのだろうと、この失敗後は石鹸水を作り必ず全系統の空気漏
れの点検を実施するようにしたので、以後の実験では空気漏れから来る失敗は一度もな
かった。
次の投下実験だったと思う。絶対の自信を持って整備し用意したイ号一型乙の投下実
験に今井中尉が搭乗して行ったが、帰って来るなり「片岡伍長、今から立川の航空技術
研究所まで実験に行くから爆管の所だけ取り外して持って行けるようにしておくよう
に」と言いながら、小走りで搭乗員控え室に戻って行った。
中尉は三分も経たないうちに軍服に着替え戻って来て、私と部下の一人を合わせ三人
で電車で行くことになった。航空技術研究所は立川駅のすぐ近くにあったので、携行部
品が軽いこともあって何の苦もなく着いた。今井中尉とともに私は、爆管の実験をする
ために、五十平方メートルはあるだろうと思われる天井の高い、零下二十度の低音試験
室に入った。防寒衣服と防寒手袋を着用し、それこそ完全防寒であった。電流を通じて
火薬に点火し、アルミ箔を破りボンベより二十二気圧の空気を薬液タンクに送り込むの
である。起爆装置(ロケット爆弾投下前にロケットの噴射をさせる装置である)がスイ
ッチを入れても爆発せず、数回繰り返したが駄目であった。今井中尉と二人で「おかし
いな、おかしいな」と言いながらひねくり回し、またスイッチを入れたがどうしても爆
発しなかった。今井中尉はしばらく腕組みをして考えていたが、爆管に挿入してある綿
のような火薬を倍にして押し込んだ。今度はスイッチを入れた途端に勢い良く爆発した。
二度目も同じ結果であった。結局、火薬の量が不足していたのである。次の、零下三十
度の部屋での実験は一度で良かった。この実験が終わって初めて、その日のイ号一型乙
ロケット爆弾の投下実験は、ロケットが噴射せずに仕方なくロケットを海中に投下して
帰ったことを聞いた。
続けざまに原動機班の責任で実験に失敗したことが全く申し訳なく、今井中尉に詫び
たことを低温試験室の寒かったこととともにはっきり覚えている。それ以後は全く何の
失敗もなくロケット爆弾の投下実験は成功し、今井中尉も三月一日付で大尉に昇進した。
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右の写真の説明
実戦に使用した時
母機一機の無線操縦に依り複数の
「イ」号一型「甲」爆弾を無線操縦しながら敵艦隊に突入
する
「キ」67 ∼四式重爆撃機「飛竜」の想像図
図面は「イ」号
一型「甲」を装着した
「キ」67、四式重爆撃機「飛竜」
◆
部下とともに御嶽神社参拝
三月になって、今年は早く春が来るのではないかと思わせるほどの暖かい天気の良い
日が続き、嬉しくて嬉しくて仕方ないことばかりが続いた。一月以来北風のビュービュ
ーと吹く何の遮る物もない飛行場の片隅で、必死になってロケット爆弾と取り組んで来
た私達にとって暖かい日差しが何よりであった。その上、投下実験は実に理想通りに飛
ぶとのことであった。次の投下実験は四日後の三月八日午前十時離陸と決まった。
一月以来一度の休日もなく、ただただ我が国初のロケット爆弾と取り組む意義と誇り
とを持って何一つ苦情を言わずに従ってくれた部下のみんなに、一息つかせてやりたい
と思っていた矢先のことであった。『日曜日は、またロケットの実験のことでどうなる
か分からない。よし、みんなを連れて御嶽神社に参拝に行こう』 と思い、許可しても
らうために今井大尉の所に行ったが行き先不詳とのことであり、夕刻まで待ったがとう
とう会うことができなかった。
『よし、明日をおいて他にまたという日はない』と決心し、
みんなに伝えると喜んでくれた。
当日の朝はみんなより早く食堂に行き、私以下七名分の握り飯を用意してもらい出発
した。牛浜駅より青梅線の下り電車に乗車した途端にみんなは喜んで有頂天になった。
この外出は、いわば私の一存で平日に許可なくみんなを連れての外遊であった。自分の
責任の重さと行動をしきりと反省していたせいか、誰かに「今日の班長は少し顔色が悪
い」と言われたようだった。
御嶽駅に着いて緑の中を少し行き、廃止になり取り外してある登山ケーブルの跡のコ
ンクリートの段々を登って行った。部下は特別幹部候補生だけあって勢い良く登って行
った。後を私が追い、大阪出身で度の強い近視の眼鏡をかけた田中候補生だけが、汗を
拭き拭き後れて登って来たのが今でも絵のように思い出されてならない。何百段あった
だろうか、御嶽神社の楼門に着いたときは汗びっしょりであったが、楼門の風格のあっ
たことが非常に印象に残っている。本殿で七名が一列になってお参りしたが、そのとき
私は何を祈願したのか記憶にない。
下山は太陽時計のある所を通りたいというみんなの希望を聞き入れて、少し遠回りを
することにした。戦時中、しかもいつ米軍の空襲があるか分からないという三月初めの
平日に登山やお参りをしている人が何名かいた。その人達に道順を尋ね尋ねして、下山
コースを選んで歩いた。空は雲一つ無い初春の日で、太陽時計のある場所から眺める下
界は飛行機の上からとは違って、また非常に味わいのあるものであった。
ふと見ると太陽時計は十五時をほんの少し過ぎた所を指していた。みんなは非常にリ
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ラックスしてはしゃいでいたが、無断でみんなを連れて来た私だけは、航空審査部に十
七時までには到底帰れそうもないことを非常に心配した。『このようになってしまった
以上、責任は全部自分にあるが、やはり今日一日はみんなに心身ともに休養してもらい、
また明日からの任務に邁進してもらおう』と思い、遅くなっても仕方がないと覚悟をし、
ゆっくり下山した。
それからみんなとどのような話をしたか、またどのようにして下山したか思い出せな
い。薄昏になってようやく航空審査部の衛門にたどり着いた。宿舎が近付くにつれて、
いつもなら消えている士官(将校)控え室の電灯がその時に限って赤々と点っていたの
で、私は不安になり胸がどきどきした。早速覗いてみると、今井大尉が私達が帰った気
配を感じたのか立っていた。私は恐る恐るノックをしてから「片岡伍長、入ります」と
言った。戸を開けると大尉は「一体どこに行っていたんだ。心配したぞ」と低い穏やか
な声で言った。しかも大尉の顔を見ると笑みさえ浮かべていたので、それまで張りつめ
ていた私の緊張は一瞬にして緩んだ。それから大尉は私に言を与えず「まあ、腰を掛け
ろ」と言ったが、私はただ一言「申し訳ありません」と詫びて頭を下げ、言われたよう
に腰を降ろした。そのとき部屋には私達以外誰もおらず、どんな話をしたか覚えていな
い。ただ、この原動機班々長のために全力を尽くして頑張らなければ、と思いを深めた
ことは確かであった。
この御嶽神社参拝があってからは、終戦の日までみんな一致団結して、それこそ一糸
乱れぬチームワークであったと自信を持って言える。後にも先にも外出休養はこの一回
だけで、終戦の八月十五日まで、文字通り月月火水木金金と歌にあるような勤務であっ
た。
◆
東京大空襲
この日から一度も投下実験に行かずに三月十日を迎えることになるが、多分天候が思
わしくなく、実験が一日延びまた一日延びしたような気がする。三月九日の午後のこと
であった。翌日の天気予報は快晴であるし、投下実験があるだろうとみんなで話して、
イ号一型乙爆弾の準備をした。久しぶりのことなので丁寧な点検をし、丁度その点検が
終わる頃 B 二九の大編隊が北上中であることを薄暗くなりかけた実験準備中の現場で
聞いた。しかし私達は、そんなことは気にも留めずに食堂に引き上げたのである。
その日は夕食後、すぐに寝台に入ったと思う。いつも人一倍寝坊な私は、航空審査部
全体が大変な騒ぎになったことに全く気付かなかったのである。騒ぎに気付かず、熟睡
していた私も私である。目が醒めたのはいつもの起床時間よりちょっと前だったろうと
思う。あまりにも外が騒がしいので飛び起きて作業服を着て外に出てみると、東の方の
松林のすぐ向こうが端から端までの広い範囲にわたって、それこそ昼間のように赤々と
燃えていた。あまりにも松林のすぐ向こうで近いようなので思わず駆け出した。ロケッ
ト爆弾の所までは二百五十メートルぐらいはあるだろうが、どのようにして行ったか覚
えていない。
赤々と燃える方を見ながら松林を駆け抜けると、火災も段々下火になって行くような
感じであったことだけはっきり覚えている。やっと着いたときは、みんな既に揃ってい
て、あの火の手は B 二九の爆撃でやられた東京の火だと教えてくれた。
慌てて駆けて来た私を間近に見て部下は呆れたような顔をしていた。どうしてどうし
てみんなは深夜零時頃からここで待機していたのであった。『この東京の空の赤々とし
た状態はただ事ではない。相当な被害があったはずだ。第一部下に豊田という候補生が
いるが、彼の家は銀座で食堂を経営しているはずだ。すぐ許可して行かせよう』と決断
してみたものの、上部にどう取り計らったら良いか分からず困ってしまった。結局豊田
君と話し合い、この件は今井大尉に任せることにした。ただこの三月十日は朝からうろ
うろするばかりで何もせず、正午近くまで今井大尉の来るのを待っていた。
豊田君も午後から実家に帰るために出かけて行き、二、三日帰らなかったようであっ
- 20 -
た。結局実家は焼け、家族の行方は分からないとのことであった。しかし数日後、家族
は山形県に疎開しており、全員無事であるという報告を受けてほっとした。
◆
野戦用コンプレッサーの実験
この東京大空襲があってから二、三日は実験飛行は中止になり、ゆっくりしていたよ
うな気がする。他の飛行機テストの方は、それまでより毎日毎日大いにやっていたよう
であった。その頃は審査部の飛行場に来て三カ月近くになっていたので、もう大分耳も
慣れ飛行機の爆音もそうやかましくは感じなくなっていた。
東京の空襲から一週間と経っていないというのに、ガソリンを燃料にした空気圧縮装
置が二輌配置された。所詮野戦に使うコンプレッサーであると言えども今日でいう五屯
トラックの大きさはある完全な装備のしてある車両であった。
早速エンジンを回してイ号一型甲ロケット爆弾の空気ボンベに接続し充填にかかった。
一号車はどうしても十五気圧以上に上げることができなかった。どう考えても、どう調
整してもできなかったのである。致し方なく二号車両の方に接続してみたが、こちらは
十気圧がせいぜいであった。結局それ以上はどうしても空気が圧縮できなかったので、
この空気圧縮機は野戦で自動車のタイヤなどに空気を入れるときに使うものであろうと
思った。結局使いものにならず、もとの通り電源からのコンプレッサーを使うことにな
った。
◆
憲兵との対話
ところがどうしたことか、あまりにも空気圧縮装置積載車に力を入れ過ぎたのだろう。
それとも誤って何かにひどく打ち当てたのか、燃料漏れを起こすはずのない今まで圧縮
装置に連結していたイ号一型甲の乙液の丸いタンクからシューッという音を立てて空気
が吹き出した。『これは大変なことになった。どうしよう』と思い、すぐ今井大尉のい
る事務所に連絡に行った。「困った」と大尉も二言言って頭を抱えた。しかし翌日は十
時に投下実験飛行を開始することになっていた。先の東京大空襲で日暮里の町工場は焼
けて操業不能になっていた。何とかしなくてはと思いながら私は今井大尉の命令で現場
に帰り、イ号一型甲の乙液の燃料タンクを取り外し、修理に持って行けるように準備を
した。
間もなく今井大尉が駆け足でやって来て、「すぐ八王子に行くように」と言って工場
の名前と駅からの道順の略図が書いてある紙を私に渡した。先方には既に連絡してある
とのことであった。私は実に汚れ腐ったような作業衣を着ていたが、事は急を要するし、
部下を最低二名連れて行かなければならなかった。重量は四十キロ以上はあるし、今井
大尉から渡された略図によると八王子の工場は駅から一キロ以上はあるので交代要員が
必要であった。結局部下の中邑君と前原君と師玉君を指名し四名で出かけた。
あまりにも油で汚れ、しかも四十キロ以上もある丸い変な物を持って電車に乗るので
一般の乗客に迷惑をかけないように片隅の方に乗車したことと、立川駅で乗り換えると
きに乗客にじろじろ見られ非常に気恥ずかしい思いをしたことを覚えている。八王子で
下車して、今井大尉から渡された略図を片手に駅前を出て右の方向に五、六十メートル
行き、十字路を左の狭い方に曲がった。乙液タンクは非常に重いので前後左右の四方か
ら持たなければならなかった。
私達の後を追いかけて来る足音が聞こえたのは路地に入って少し行った所であった。
振り向くと軍刀を片手に持った憲兵が私達に走り寄って来るのが見えた。「止まれ」と
言う憲兵の大声に、びっくりしてタンクをおろすと、今度は「何で逃げるんだ」と怒鳴
られた。あまりにもその声が大きかったのであろう、三、四人の町の人が飛び出して来て、
私達に目を向けて事の成り行きを見守っていた。
私達の格好はと言えば、油で真っ黒に汚れた作業衣を着ていたし、その上得体の知れ
- 21 -
ない丸い爆弾のような物を持っていたので、怪しまれるのは当然のことであった。当時
の憲兵といえば、それこそ泣く子も黙るほどの権力を持っていた。しかも、東京の大空
襲からまだ数日しか経っていなかったのである。その憲兵が大声を上げて呼び止めたの
で、一般の人達が驚かないはずはない。見ると憲兵は兵長の階級章であった。私は伍長
の階級章だが、確認できないほど汚れていた。
憲兵はいよいよ私達の側まで来て、「どこに行くんだ」とまた大声で言った。あまり
の大きな声に、威圧され声も出なかったが、すぐに我に返っていた。私はその日の任務
の重大なことをまず考えたので、その憲兵を黙って脱みつけた。黙って睨んだまま何分
経っただろうか、恐らく五分以上は睨んでいたと思う。憲兵が私から目を逸らして荷物
の方を見たので、おもむろに人に聞こえないような小さな声で、「自分達は航空審査部
の者で、この荷物は軍事機密になっている我が国で初めてのロケット爆弾の一部である。
明日投下実験をする用意をしていたら空気漏れの部分を発見したので急速××工場に修
理に持っていくところである」と言った。憲兵の顔色が一瞬変わり、「失礼しました」
と言ってから、私に敬礼をして慌てて立ち去って行ったったのを今でもはっきり覚えて
いる。
この成り行きをどうなるかと見守っていた人は、いつの間にか二十名近くになっていた。
私は部下三人と何事もなかったかのように町工場に急いだ。そして翌日のイ号一型甲の
投下実験は無事終わった。
◆
琵琶湖にてロケット爆弾の実用実験開始
この件で相当な労力と日数を損したことになったが、ロケット爆弾投下実験の方は実
に順調に進んで行った。私達原動機班の中では、すぐに実戦に使えると確信していた。
三月も下旬になり大分暖かくなって来た頃、今井大尉に呼ばれて事務所に行くと次の
ような話があった。
ロケット爆弾も大体完成に近付いたので、これからは実際に使い物になるかならない
か命中精度のテストに入る。命中精度の実験を琵琶湖の小さな島に向かって行うので、
四月になったらすぐにでも八日市の飛行場に行くことになるだろう。八日市の飛行場で
は新たに編成された部隊がいて、その人たちが全てをやるから、我々は今までのことを
参考にして詳しく説明し、実験部隊の人に引き継ぎをすること。
この指示を受けてから審査部での飛行実験は中止となり、残りの三月は滋賀県八日市
行きの日をただ待つだけであった。しかし、その三月も終わり四月になってもなかなか
出発の命令が出なかった。毎日毎日ただ八日市への思いを走らせていたのである。四月
も十日過ぎ頃にやっと命令が出て八日市に向かったような気がする。八日市の飛行場の
ことはよく聞いていたが、歴史のあるさぞかし立派な飛行場であろうと期待していた。
東海道線米原駅で降り、軽便鉄道に乗り換えて八日市に着いたのは夕刻であった。駅
から飛行場までは歩いて行けるような距離で、非常に近かったように思われる。八日市
の駅から飛行場まで何分かかったか分からないが、一回も飛行機の爆音が耳に入ってこ
なかったので、この飛行場は眠っているのかとさえ思われた。何故なら航空審査部では
飛行機の爆音を耳にしない時間帯はないぐらいであったからである。
衛兵に来意を告げ審査部より連れて来たみんなを所定の部屋に送り込んだ後、私は今
井大尉の待つ駅近くの旅館に行って泊まったように記憶している。翌朝早く飛行場の側
の道路を通って飛行場に行ったが、遥か彼方に飛行機の格納庫が見えるだけで一機の飛
行機も見えなかったし、飛行機の爆音さえ聞くことができなかった。格納庫に行ってみ
ると飛行機はなく、ただこれから投下実験をするイ号一型ロケットが爆弾運搬車の上に
乗せられて、実験部隊の中隊長以下十二、三名とともに待っていた。
私達は早速コンプレッサーを始動してロケット爆弾のボンベに空気を充填し始めた。
それと併行して実戦部隊の人達にイ号一型乙の説明を始めようとした矢先のことであっ
た。何とコンプレッサーが止まってしまったのである。私は「おかしいなぁ」と言って
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またコンプレッサーのスイッチを入れたが、どうしても動かなかった。三、四回繰り返
していると格納庫の外から誰かが飛び込んで来て、「電柱の上の変圧器から煙が出てい
ます」と告げた。驚いて格納庫の外に出て見上げると確かに煙が出ていた。私はうかつ
にも、変電気の容量を考えていなかったのだ。本当に後の祭であった。このような調子
だったので、実戦部隊の人達からは何と無知な審査部の下士官だろうと笑われているよ
うな気がした。穴があったら入りたいとは、正にこのようなときに言う言葉だろうと思い、
赤面したことを覚えている。結局すぐに変圧器を取り替え、午後からは使えるようにな
ったので、さすが実戦部隊は張り切っていると感心した。
ロケット爆弾イ号一型乙機の説明が終わってから質問する人は一人もいなかったので、
分かりやすく説明できたのだなと自己満足した。しかし考えてみると、説明を受けたの
はみんな下士官以上で、飛行機の整備を専門にやって来たこの道の達人達であった。そ
の上このロケット部隊に来た人は優秀な人が多かった、と後で聞いてなるほどと思った。
私は、この日以後は終戦までロケット爆弾に甲液や乙液を完全防毒衣を着て注入したり
することは一度としてなかった。ただ搭乗員控え室とロケットの投下実験の準備をして
いる格納庫との間の連絡係のようなことになったので、以前よりは一層責任が重くなっ
たような気がした。
◆
明石での一日
翌朝、今井大尉の部屋に呼ばれ、「片岡君、今からすぐこの書類を持って明石まで行
ってくれ。川崎航空機明石工場には連絡してあるので、なるべく早く届けてくれ。その
かわり帰りは夕刻になっても構わないから……」 と思いやりのある言葉をかけられた。
明石の駅から工場は案外近かったように思う。とにかく午前中の早い時間に用件は終
わった。工場の門を出るとすぐ前に明石城の石垣が見えた。その石垣が美しい若葉の間
に実に美しく映え、その美しい石垣の上に真っ白な長塀があり、私に見に登って来てく
れと語り掛けているようであった。今井大尉に夕刻までに帰って来くればよいと言われ
たことを思い出して、城跡に登ってみることにした。正に歌にあるような春麗らかなお
天気であった。城跡からの眺めはこれまた素晴らしく、しばらくただ呆然と立ちすくん
でいた。その後松の木の下で昼寝したことが今でも思い出され、戦争中あのような一時
もあったなと懐かしい。
◆
特殊航空審査部で唯一度の事故
このようなことがあって、まだ数日も経っていない日のことであった。その日はイ号
一型ロケット爆弾を琵琶湖の中程にある白石島に向かって投下実験するため、丁度私が
その実験用飛行機に搭乗することになっていた。その日は朝早くから出かけた。十時の
離陸予定に合わせ搭乗員控え室で待っていても、離陸の準備ができたという連絡がなか
なか格納庫より来なかった。とうとう昼食後となるような連絡があったので、少し早い
と思いながらも食堂に行って戻って来ると、パイロットの鈴木中尉が私を待っていて、
「片岡伍長、今日の投下実験は俺が乗るようになった。実験班長からも許可を得てい
る」と言ったので、仕方なく交代することになった。
人間の生命なんていうのは本当に紙一重である。現在やっていることは良いのか悪い
のか、また現在起こっていることは幸運なのか不運なのかは過ぎてみなければ分からな
いときがある。この交代によって、イ号一型乙ロケット爆弾を装備した「キ」一〇二号
の重そうな飛行機が滑走して飛行場の端の離陸する出発の地点へと向かう様子を、私は
『自分が搭乗するはずだったのに』と半ば悔しい思いで見ていた。
その飛行機が目の前を離陸すべく全速力で駆け抜けて行ったが、なかなか飛び上がる
- 23 -
ことができなかった。飛行場の端まで行ってやっと離陸できたと喜んでいると、突然山
林から黒々とした煙が上がった。見ていた十名ばかりの間から「あっ」という声が上が
った。墜落したのである。当然のことながら上を下への大騒ぎとなった。それまで私達
は随分無理な実験をして来ていたが、このような事故は一度もなかった。幸いこれが航
空審査部特兵部では唯一度の事故であった。
実戦部隊の人達はすぐ現場へと出発したが、私
はあまりにも何と言って良いか分からない気持ち
になり、旅館に帰って食事も採らずに床に入った。
夜中まで目が冴えていたが、いつの間にか夜が明
けていた。翌日は旅館に籠もった切りで、この事
故の件からは遠ざかって何も聞かないようにして
いた。
事故の翌日だったと思う。部屋の外から誰かが
私を呼ぶので、戸を開けると名前は忘れたが一人
の少佐が立っていた。その少佐が「片岡伍長、自分は今から側車(脇に二人乗りの車を
装備してあるオートバイ)で、琵琶湖岸のロケット爆弾投下の地上監視員を配置してい
る薩摩という所に行くので一緒に行かないか」と誘ったので、側車の前に佐官が乗車す
るときの目印になる赤い旗を立てて行くことにした。オートバイを運転する
のは顔見知りの兵長であった。少佐は私を横に乗車させて種々と世間話をし、私の精神
を和らげたいようであった。私にはその心遣いが痛いほど分かった。
薩摩のロケット爆弾の地上監視所には湖岸の林の中の家の一部屋を借りてあった。地
上監視は二人いて、少佐に書類を渡しながら種々と説明していたが、私は松林を抜け湖
の砂浜に出た。砂浜と言っても五、六メートル先には湖水がひたひたと打ち寄せている
ような所で、遥か彼方には小さな小さな白石島が見えた。それは上空から見るのとは全
く違い、一層小さく感じられた。
少佐はすぐに用件を済ませ、「自分はこれから能登川駅から航空審査部に帰るので、
君はこの側車で八日市に帰りたまえ」と私に言った。私は駅で少佐の汽車に乗る後ろ姿
を手を合わせて見送った。
◆
岐阜刑務所出張
それから八日市の旅館に帰ると今井大尉が私の帰りを待っていた。大尉は腕時計を見
ながら「今日はもう間に合わないから、明日なるべく早く出発して岐阜の刑務所に行っ
てくれ。トラックを用意してあるからそれに乗って行き、イ号一型乙の本体を一機積ん
で帰ってくれ。必要な書類はここに準備しておいたので、持って行けば分かるだろう」
と私に命令した。私が「刑務所ですか」と聞き返すと、大尉はにっこり笑って「そうだ」
と答えたので、私はこのとき初めてイ号一型乙が刑務所で組み立てられていることを知
った。
翌日はまだ暗いうちにトラックが迎えに来た。命令の通りにトラックに乗車してみる
と、運転しているのは軍曹の階級章を付け正装した実戦部隊の人であったので一瞬驚い
た。二人で出発し、前の日に琵琶湖の監視所へ行った道を走った。能登川から彦根を通
り大垣を経て岐阜に着いたのは昼頃であった。市内より長良川の橋を渡るとき、あまり
にも立派な橋に驚いた。第一航空軍教育隊時代は一日中トラックに揺られて、よく三重
県の鈴鹿より四日市、名古屋、犬山を経由して各務原の飛行場に飛行機の部品受け取り
に行ったが、久しぶりの長距離乗車に少し疲れたのを覚えている。
橋を渡って三叉路を左に渡って五百メートルと行かない所に立派な塀を巡らした所が
見えて来た。初めて見る刑務所であった。正門はすぐに見えて来た。受付に書類を渡そ
うとすると、事務所の中に入って下さいと言われ、監視員のいる正門から入って部屋に
- 24 -
入り用度課長に今井大尉から託された書類を渡すと彼は私を引き留めて種々話しかけて
来た。
トラックの方は通用門から入れられてロケット爆弾の本体の積み込み作業にかかるよ
うに指示していた。課長は盛んに実験のすすみ具合をを気にして私に聞いた。
私も刑務所のこととて心を開いて種々話したように記憶している。すっかり気を許して
話していると時間の過ぎるのを忘れたようであった。積み込みが終わったという報告が
あつたので課長と二人で現場に行くことになった。
私にとっては初めての刑務所なので何もかもが珍しかった。事務所を出て作業場に入
る所にはまた頑丈な扉があって監視員が二人立っていた。そこを通って左に階段を五段
降りた所にはトラック用の出入口があった。私がそこに着いたときにはロケットの積み
込みはもう既に終わっており、それにはシートが掛けられ外からは見えないように完全
に覆ってあった。帰路についたのは刑務所で遅い食事を頂いてからで、来た道をそのま
ま引き返して八日市に着いたのは夜であった。
◆
戦時中の京都見物
そのロケット爆弾の引き取り出張があってから数日は、何の任務もないまま平穏な日
々を過ごしていた。あまりにも何もないので旅館を出るとき確か飛行服を着ていたと思
うが、その飛行服姿のまま無意識のうちに近江八幡行きの軽便鉄道に乗ってしまった。
結局気付いたときは、近江八幡で乗り換えて京都駅まで来ていた。完全に無断外出であ
った。京都駅で下車すると何だか逆に度胸が据わって来た。私にとって京都は全く初め
てであった。一度は行ってみたいと思っていたので、こうなったら五十歩百歩であると
腹を決め、西本願寺、東本願寺と廻ることにした。その無断外出で、今でも鮮明に思い
出される一件があった。
それは路面電車に乗ってからのことであった。金閣寺へはどう行けば良いかをまだ二
十歳にはならないだろうと思われる男性の車掌さんに尋ねると、金閣寺前の停留場で満
員に近い客を待たせ、「あそこが入り口です」と言いながら十メートルばかり先の曲が
り角の所まで私を案内してくれた。車掌さんは、私がきっと特攻隊の出撃の前に見納め
に来ているのであろう、と思ったに違いない。乗客を待たせた上に、私から乗車料金も
取らずに下車して来てまで教えてくれたことを思うと、申し訳なく何とも言い難かった。
飛行服での無断外出という規則違反をしているときに起こったこのことは、今でも思い
出すたびに恥ずかしくなる。
それから銀閣寺、清水寺、平安神宮、智恩院、三十三間堂などを見物して夕刻八日市
に帰り着いた。この無断外出に関しては、誰一人として気付いた者はいなかったのか、
知っていても言葉に出さなかったのか一切無かったことになっていた。ところがこの外
出の折、平安神宮前で町の写真屋さんに写真を撮ってもらい、航空審査部宛に郵送して
もらっていた。それを見て、確か長谷川少尉か根本少尉だったと思うが、「八日市での
実験中によく京都に行く暇があったな」と言われた。この長谷川少尉と根本少尉の二人は、
確か四月下旬に航空審査部特兵部付で、私の上官として八日市に来たような気がする。
この二人とは上官でありながらあまり接触がなく、終戦の日まで今井大尉との関わりが
おもであった。
◆
昭和二十年頃の八日市付近の農家
この無断京都見物によって気分が大分落ち着いて来たある日のことであった。『今日
は、先日の飛行機事故の現場に是非行ってみたい』と思い、作業服を着て出かけること
にした。飛行場の東南の方向である。黒煙が上がった現場は、そう遠くないはずだと思
- 25 -
い、方向を定めて歩き出した。飛行場から造成したばかりと思われるような広い道路ら
しいものがあった。そこを少し行くと、雑木林の中に新しい戦闘機があちこちと上空か
ら見えないように偽装して置いてあった。私は、それらを『実に頼もしい。きっと本土
決戦用に温存してあるんだ』と思って見た。
しばらく行くと農家の庭に出た。私は農家の出であるから、この付近の農家がどんな
暮らしをしているのか興味が湧いた。第一航空軍教育隊にいたときも鈴鹿の農家に行っ
てみて、鈴鹿付近の農家の暮らしの裕福なことに感心したが、この八日市はそうではな
いようであった。一軒の農家の敷地に入ると左に物置があるが、軒は非常に低いし、も
ちろん藁屋根であり、中には藁少々と鋤や鍬などが雑然と置いてあった。右の母屋も軒
が低い藁屋根であり、入り口は破れた障子であった。中を覗いてみたくなって、「御免
下さい」と言って障子を開けて本当に本当に驚いた。黒い牛が、顔をにゅっと床の下か
ら私に向かって上げたからである。丁度その仕草が、私に「何をしに来たんだ」と言わん
ばかりに思えた。留守らしく、中からは何の返事もなかったので、仕方なくすぐ障子を
閉めて退散した。
その日は太陽が照りつけていたので、喉が乾いて水が飲みたかった。仕方がないので
隣の農家に行ったが、先の家と全く同じような家であった。ここも「御免下さい」と言
って障子を開けたが、牛が床下にいるだけで留守だったので水を飲むのは諦めることに
した。あまりにも太陽が照り暑いので、「キ」一〇二の墜落現場に行くのを諦めて飛行
場に引き返した。後で聞いた話だが、この付近は非常に降雪量が多く寒いので、牛を母
屋の床下に飼育するそうである。それにしても不衛生である。障子を開けたとき、牛と
一緒に蝿がうようよしていたことを思い出す。この農家行きは、四月の末か五月に入っ
てからだったか定かでないが、航空審査部に帰ったのは雨がしとしとと降る夜であった。
◆
我が国初のジェット機の風聞
航空審査部に帰って来たが何の任務もなく、ただ朝昼晩と食べて後は寝るだけであっ
た。ロケット爆弾が全て八日市の飛行場の方に行っていたからである。ところが、誰言
うとなく風の如く私の耳に入って来たのは次のような話であった。
薬液ロケットは大体成功した。目下燃料ロケットを試作中である。その試作機は五月
の初めに三菱航空機で出来上がり、航空審査部に来る予定だったが、B 二九の空襲で工
場が損害を受けたので完成が遅れている。それは「キ」二〇一という試作機で、タービ
ンが七段になっていて、その七段タービンで空気を圧縮し、そこにガソリンを噴射させ
て飛行機が飛ぶように設計されている。つまりプロペラのない飛行機である。そのテス
トから飛行までは、この福生の航空審査部では過密状態だから秋田県の能代飛行場でや
るそうだ。
それを聞いた私は、あの一千五百キロもあるイ号一型甲が立派に薬液で飛行できるし、
ガソリンを燃料とした「トーチランプ」という工具があるが、空気を手動で圧縮してガ
ソリンを吹き出させ、ハンダを溶かして金属を接着したりするし、ガソリンの燃焼噴射
で飛行機を飛ばすことができないはずはないだろうと思った。『非常に楽しみなものだ。
プロペラのない飛行機なんて』とつくづく思いを巡らせた。この頃では全く珍しかった
が、今飛んでいる飛行機はそのほとんどがジェット機(ロケット)である。
それから誰言うとなく噂は噂を呼び、「片岡伍長は能代に行くそうだなぁ」などと直
接私の耳にも入って来るようになり、また燃料ロケットの一号機から手掛けられるかと
喜んだことは今でも懐かしく思い出される。
◆
二度目の命拾い−東京大空襲
昭和二十年の五月頃は、それこそ毎日毎夜 B 二九爆撃機が来襲した時期である。こ
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のような戦争の最中に何の任務にもつかないということは全くもって辛いものであった。
五月二十三日、今井大尉から呼ばれたので、ほっとして部屋に行くと、大尉はゆっくり
とした口調で、「イ号一型乙機が岐阜県の刑務所で組み立てられているが、どうしても
うまく組み立て作業ができず、納入される乙機に空気漏れが発生し実戦部隊で困っている。
その空気漏れはどことは限定できないが、パイプの接合部分からも空気ボンベの口金か
らもどことはなしにであるから整備するのに非常に時間がかかる。特に口金の部分から
漏るのは百五十気圧という高圧が掛かっているので本当に困る。そこで君、すまないが
部下を二、三人連れて岐阜の刑務所に行って指導してくれないか。刑務所の方には連絡
を取ってあるので、宿泊所も食事のことも心配はない。この手紙を持って行くように」
と話した。私は「キ」二〇一号機燃料ロケットの件で呼ばれたのだと思い、喜んで今井
大尉の部屋に行ったが、そうではないので聊か上の空で大尉の話を聞いていた。以上で
話が打ち切られたので、がっかりして何も質問せずに部屋を出ようとすると、呼び止め
られ「いつ出発するのか」と聞かれたので、「明日出発します」と答えたことを覚えて
いる。
翌五月二十四日は、これまた命拾いをした日なので、前後のことはよく記憶に残って
いる。その日、昼食を採るために食堂に行くと B 二九が大挙して北上中との情報が伝
えられた。ほとんど毎日のことだったので大して気にも止めず、夜行列車に乗るべく審
査部を二十時頃出発した。東京駅に着いた二十二時頃は、B 二九の大編隊は間近い所ま
で来ているとの情報が駅の拡声器から流れ、東京の町も駅も一斉に電灯が消えて真っ暗
となった。私達は懐中電灯を頼りに二十二時四十分発の列車に乗り込んだ。とにかく真
っ暗なので本当に心細くなった。発車まではしばらく時間があり、一体どうなるのだろ
うかと心配しながらほとんど何も見えなくなった外を眺めていた。
発車時間が間近になった頃バリバリ、シューッという音がした。よく見ると火の玉が
降っていたのである。これは大変なことになったと思ったとき、丁度列車が動き出した。
火の雨が降る中を新橋駅まで走って列車はホームで止まった。窓から外を見ると相変わ
らず火の玉が降っていた。しかも火の玉の雨が私達の乗った列車に近付いていたので、
どうしたら良いか分からずパニックに陥った。隣の座席にいた中年の婦人が、おろおろ
して「兵隊さん、どうしたら良いでしょうか」と私に聞いたので、我に返ったような気
がしたがどうにもならなかった。人間というものは究極の立場に置かれたら逆に落ち着
くものなのだろうか、私はその婦人の言葉によって自分の置かれている立場を自覚した。
そのとき列車の中は外の火災でボーッと明るかったので、私の乗車している車両には、
軍人は私達以外いないことを確かめることができた。車両の中から外に逃げ出した人も
相当いたようであったが、まだ七、八十パーセントほどの座席には乗客が残っていた。
私は部下の前原君に「君は後部の乗降口に行って、乗客を出すな。この客車は鉄製だか
ら焼夷弾の直撃を受けない限り大丈夫だ。それから窓は全部閉めろ」と大声を上げて命
令した。すると乗客の中の五十歳ぐらいの男性が、急に私の所に駆け寄って来て、私の
胸倉を掴み「貴様はみんなを列車の中で蒸し焼きにするつもりなのか。俺は蒸し焼きに
はなりたくない」とすごい剣幕でまくし立て、逃げるように下車して行った。
だんだん火の手が列車に近付いて来るような気がして心細かった。ここで自分が落ち
着かなければと思うのだが、駅の周りは全体が赤々と燃え、火の勢いはますます強くな
って、正しく火の海と言えるような状態であった。列車の止まっているホームの屋根に
焼夷弾がものすごい勢いでドーンという音を立てて落ち、ホームの屋根のスレートがバ
リパリッと破損して落ちた。そしてついに鉄道線路の枕木が燃え出したので、万事休す
かとそのときは思った。窓ガラスに顔を付けて真下の枕木が燃えていないか見ようとし
たが、既に窓ガラスは手で触れないように熱くなって来ていた。このホームの屋根に焼
夷弾が落ち、枕木が燃え出した後は、あまりよく覚えていないが、いつの間にか火の勢
いも衰え、朝が来たような気がする。
夜が白々と明け始めると外の状態が次第に見えるようになって来たが、まだまだ煙で
ボーッとしていた。煙の中に見る新橋駅の前は、それこそ一面焼け野が原であり、所々
はまだ燃え続けていた。駅のホームはスレートの破片でそれこそ足の踏み場もない状態
- 27 -
であったが、その頃になると熱気も大分冷め、何とか立てるようにはなっていたので、
私は客車から外に出てみることにした。すると何を思ったのか年老いた御夫婦が私の後
ろから付いて来た。「これはひどい。あのとき列車から降りて行った人は、一体どうな
ただろうか」という言葉が御主人の口からは漏れ、木綿の縞のモンペに同じ柄の上衣を
着た至極細身の上品な奥さんは私の前に来て「本当に兵隊さんのお陰で命拾いしました」
と涙を流しながら深々と頭を下げて言った。私は、その二人の姿を今でも鮮明に思い出
すことができる。
私は、この時点ではまだ列車を降りて行動を起こす状態ではないと思ったのだが、客
車の中を見渡すといつの間にか乗客は半分以下になっていた。岐阜の任務のことが心配
であったが、どうしようもないので、しばらくこのまま様子を見ることにした。駅の前
の道路を眺めていると人が一人二人と行き交うようになって来た。一体全体あの人達は
どこから来たのだろうか、またどこに行くのだろうか、と心配になった。
このときまでには私も完全に平常心に戻って来ていたような気がする。外のまだまだ
煙の残る中に太陽が顔を出して来た。その太陽を客車の窓から眺めながら『助かったぁ』
という実感が湧いて来たことは、未だに私の頭の片隅に生々しく残っている。
また客車の外に出てみたが、まだ火災の熱が残っていたので待つことにして、前夜審
査部から持参した弁当を食べ始めた。それを見て、まだ客車に残っていた数少ない人達
も弁当を食べ始めた。前夜の恐怖のせいかみんな無言であった。
太陽がだんだん高くなり、煙もだんだん少なくなって、客車の窓からもはっきりと外
が見えるようになって来た。私は時計を持っていなかったので、何時か部下に尋ねると
八時前であった。そのときまで部下とは言葉一つ交わさなかったが、やっと部下も落ち
着いたようで、いくらか会話ができるようになっていた。部下の「班長さん、これから
どうしますか」との質問に対し、私は「まあ、ここまでは来れたのだし、何よりも命は
助かったのだから急ぐことはない。ゆっくり考えよう」と返事をして、腰を降ろしてか
ら自分が今からやるべきことは何かをしっかり考えた。
航空審査部に帰るべきか、それとも岐阜に行くべきか、何れにしても二つに一つの問
題だが、このときばかりはそう簡単に答を出すことはできなかった。外は見渡す限り焼
け野が原で、歩くにしても全く方向が分からない状態であったからである。客車の中に
まだ残っている人達は不安のあまり私達を頼りにしているのか、私達の行動を見てから
自分達も行動を起こしたいような素振りであった。私のここで取った行動が物笑いの種
になっては困るので、『落ち着け、落ち着け』と、私はじっと目を閉じ自分自身に言い
聞かせた。瞑想とは、きっとこのようなことを言うのだろう。部下達は列車を出たり入
ったりして落ち着かない様子であった。
この間どれぐらい経ったであろうか、部下の一人が「班長、駅前の通りにトラックが
走っていますよ」と大きな声で言いながら客車のドアを開けて入って来た。驚いて外を
見ると本当に一台のトラックが走って行くのが見えた。道路には電線の焼け落ちたもの
や電柱が崩れ落ちたものが散乱し、自動車はそれらを取り除かなければ走ることができ
ない状態であった。私はそれを見て、「よし行くぞ」と部下に言い、足の踏み場もない
ようなホームや階段を通り抜けて駅を出た。駅前の広い通りに出てみると、まだ前夜の
残り火があちこちでくすぶっているのが見えた。部下に何時かと聞くと十時を回ったと
いぅ返事であった。歩くにしても全然方向が分からないので、やはり何れかの車が来る
のを待つ以外に方法はないだろうと判断し、その場でじっと待つことにした。
もうこの頃には、どこからともなく二人三人と連れだって現れ、足早に右へ左へと通
り過ぎて行くようになっていた。しかし、みんな無言のままであり、方向を尋ねるため
に話しかけられるような雰囲気では決してなかった。しばらくすると部下の一人が「班
長、来ましたよ」と言うので、指差す方向を見ると焼け跡の遥か彼方から一台のトラッ
クがこちらに向かって走って来るのが見えた。待つ者全員が同じ気持ちであったと思う
が、私はどうかそのトラックが道を曲がらずにこちらに来てくれと祈らずにはいれなか
った。その祈りが通じたのか、運良くトラックが近付いて来たので、荷台をよく見ると
何も積載しておらず空っぽであった。これはしめたと思い、トラックに向かって手を挙
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げると、これまた運良く止まってくれたのである。私は乗車していた三人に向かい、
「自分達は航空審査部の者で、非常に重大な任務で岐阜まで行くことになっています。
今日の午前中に着く予定だったのですが、残念ながらこの有り様です。東海道線で汽車
の通じている所まで是非乗せて行って下さい」と哀願した。すると一発で話がつき、ト
ラックは大船の駅前を通る予定だからということで荷台に乗せてもらえることになった。
この話を聞いていた私達と同じ客車に乗っていた人も含めた数人が「私達も是非乗車さ
せて下さい」と頼んでいたようだが、無情にもトラックの責任者は「自分達は重要な任
務を負っているので乗せられません」と断ってトラックを発車させた。
しばらく行くと今まで通って来た空襲の跡が嘘のように、五月の若葉の間に点々と家
が見えて来た。私はトラックに乗っているあいだ、航空審査部にどのようにして状況を
報告したらよいかばかりを考えていた。結局名案は浮かばないまま私達を乗せたトラッ
クは大船駅に着いた。航空審査部への連絡のことばかりを考えていたので、トラックへ
の謝礼のことなど私の頭の中には微塵もなかったようである。したがって大船駅前に
着いたときには少々まごついて恥ずかしい思いをしたことを覚えている。トラックを降
りるときに心よりのお礼を言って何がしかのお金を渡そうとすると「そんな物は要らな
い」と言われ、確か幾つか残っていた持ち合わせのタバコを差し上げたような気がする。
このトラックに便乗させてもらった件では、とにかく有難く、非常に深い感謝の念でい
っぱいであった。
駅に着いて航空審査部に何度も電話をかけようと試みたが、全く不通の状態であった。
電報なら受け付けると言うので、どうにか全員無事で、全力で岐阜に向かっているとい
うような旨を託したと思う。しかしこの電報は、後で根本少尉に「なってない。おかし
い」と笑われたことを覚えている。
大船駅から岐阜まで行くのに、乗り継ぎの汽車の具合がうまく行ったかどうかなど途
中のことは全然覚えていない。きっと前夜の疲れで汽車に乗るなり眠ってしまったのだ
ろう。ただ、五月二十五日の夜遅くにやっと岐阜刑務所の官舎の一軒にたどり着き、美
味しい夕食を食べたことははっきり覚えている。その夕食は、刑務所の用度課長、森藤
さんの奥さんの手料理だったと後で聞いて、篤とお礼を言った。
◆
岐阜刑務所にての仕事
翌朝、起床時間になったので外に出てみると、前夜あまりに遅く着いたのでよく状況
が分からなかったが、私達の宿泊所は整然と並んで立っている数軒の官舎の中の一軒で、
以前イ号一型乙ロケット爆弾を受け取りに来て知っている刑務所の正面から見て左から
三列目の二軒目であり、今で言う浴室付き三 LDK の家であった。家の前は綺麗に掃き
清められて草一本なかった。私達が来るというので、受刑者を使って綺麗にしたのかと
思ったが、いつもこのようにしており、特別その日のためだけに掃除をしたのではない
と知り驚いた。
朝食は自炊だがちゃんと材料が用意してあり、以後十日間ほどこの官舎での生活が続
くことになった。少し疲れていたが、朝食後朝礼の時間を待って森藤用度課長に面会に
行くと、課長は私に「疲れているだろうから今日一日は休養したらどうか」と言った。
しかし、そうもしておれないので課長に注意事項などを聞くと、大体次のようなことで
あった。
朝は九時に刑務所の正門をみんな揃って入り、次に第二番目の関所を通って左に曲が
る。作業場は、また衛門を通って階段を三、四段降りた広場である。そこは私達のため
に臨時に作業指導するようにしたものであり、おおよそ図のような配置であった。私達
には実際に受刑者の作業場(工場)に入らないようにと念を押された。
私は「早速本日ただ今からお願いします」と言い、部下を呼んで来て、みんな揃って
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正門を入り、指示された通りに指導現場に行ってみると、十名ばかりの受刑者と看守が
一人待っていた。私達の姿を見ると規律正しい刑務所のこととてちゃんと右に看守がい
岐阜刑務所見取り図
て、すぐその左に背丈が一七五
センチ、体重が八十キロはあろ
うと思われる堂々たる体格の受
刑者達が一列に並んだ。それを
見て私達四名も一列に並んだ。
受刑者の中の一人がいかにも馴
れた軍隊口調で 「一同礼」と
やったので、こちらも負けじと
敬礼をすると、
今度は「指導宜しくお願いしま
す」と驚くほどの調子と大きな
声で応じた。ずっと後で聞いた
話だが、彼の名は奥田と言い、
大分県出身の元憲兵曹長で、中
国に派遣されて上海の憲兵隊に
配属されていたのだが、結婚式を挙げるために休暇を取って帰国する途中、長崎で酒に
酔って市民を二人殺害し、十五年の刑期で服役中とのことであった。
このようにして技術指導が始まることになったのだが、先ず空気ボンべの口金の所の
空気漏れに対する組み立ての実演から始めた。私達が受刑者に説明しながらボンベ一機
に口金を取り付けて見せた。
それからコンプレッサーを始動し、百五十気圧までの空気を注入した上で接合部分に石
鹸水を塗布してみると、微かに泡が立って空気が漏れているのが分かった。このことで
私は非常に恥ずかしい思いをしたが、事実は事実なのでどうしようもなかった。取り外
して接合部をよく見ると、ボンベ本体の方のネジ山は滑らかなのに対し、口金の方のネ
ジ山が凸凹なので、どうもそれが空気漏れの原因らしかった。試しにネジ山の状態が良
い口金を選んでボンベに取り付けてみると、今度は全く問題なかった。結局この原因が
分かるまで午前中を費やしてしまった。
午後からは奥田受刑者の他は人が入れ替わり、空気圧調整器とパイプの接合部分、次
にパイプと甲液および乙液タンクの接合部分と逐次順を追って組み立て、そこまでの空
気漏れの検査をした。受刑者は交代して次に進んだ。大体このような調子で作業は進み、
燃焼受圧板、噴射口と取り付け終わったのは夕刻であった。こうして一通りの組み立て
作業の模範実演が終わり、ほっとして宿舎に引き上げたときは実に疲れきっていた。
宿舎に帰ってみると風呂が沸いていて食事の用意も終わって私達を待っていたのでび
っくりした。これは作業があまり順調に進まず、みんながあまりにも真剣になってやっ
ていたので、森藤用度課長が見るに見かね、受刑者に準備させたのだと聞いて、課長の
暖かい思いやりのある心に感心すると同時に、次の日からの指導の責任の重さを全員で
話し合ったのを覚えている。
翌日も前日と同じように同じ場所で指導をしたが、作業は何のトラブルもなく順調に
進んだように記憶している。そして三日目、四日目ともなると大分馴れ、もう私達が受
刑者の作業を見ていなくてもよいほどであった。
受刑者の頂点に立つ奥田氏は実に統率力があり、私達から見ても受刑者の全員が看守
の命令よりも奥田氏の命令の方を良く聞くのではないかと思ったほどであった。その彼
も実に真剣にロケット爆弾の完成を願い、また協力してくれていることを感じた。それ
に彼は休憩時間になると、刑務所内の生活状況などを私達に面白可笑しく話してくれた
ので、休憩時間になるのが楽しみなほどであった。こうして刑務所での作業は順調に進
み、ほっとした。
- 30 -
◆
束の間の一時
六月に入ってすぐだったと思う。八日市飛行場よりイ号一型乙機を引き取るためにト
ラックが来た。見ると運転手は一人で、兵長の階級章を付けていた。自動車への積み込
みが終わっても同乗者が来る気配はなかった。『軍事機密に属する物を運搬するのに一
人とはおかしいぞ』と不思議に思って、私が「君一人か」と聞くと、「一人です」とい
う答が返って来た。私は 『これはいかん。万一のことがあれば責任問題になるので、
自分が同乗して八日市の飛行場まで行く必要がある』 と思い、一緒に行くことにした。
もちろん運転手の兵長には、「用件ができて八日市飛行場まで行かなければならないの
で便乗させてくれ」と頼み、快諾を得た。
二人で出発したのは昼過ぎだったと思う。大垣を通過し、関ケ原を通り、彦根をちょ
っと過ぎた所の橋を通りかかった。昨夜来の雨で水かさが増し、少し濁っている川の
橋 の下で、四ツ手の網を使い魚を獲っている人を見かけた。岐阜を出てから休まず走
り通しだったので、丁度良いと思い運転手の兵長に止めてくれるように頼んだ。橋の真
ん中であった。私は田舎育ちで四ツ手の網を見るのは初めてであるし、どのようにして
漁をするのかどうしても見たかった。漁をしている人は、「ビク」を腰に下げ膝まで水
に浸かった男性であった。「何が獲れますか」と声をかけたが、濁流の音で聞こえない
のか返事もしないし見向きもしないで真剣そのものであった。
しばらく見ていると網を上げにかかった。何が入っているのかと見ていると、大きな
鰻が一匹と鮠(はや)らしい小魚が五、六匹入っていた。漁をしていた人は喜んで手綱
ですくい、ビクに入れた。「大きな鰻ですね」と二度目の声をかけると、やっとこちら
に気付いて手を挙げた。いかにも嬉しそうなその顔が今でもはっきりと瞼に浮かぶ。
八日市の飛行場に無事着いたのは夕暮れであったので、その晩は泊まって翌日帰るこ
とにした。八日市より軽便鉄道に乗り、米原駅で東海道線に乗り換え、岐阜に帰るので
あるが、前日自動車の中から見た彦根城がどうしても見物したくなり、彦根で下車した。
駅から彦根城までは随分遠く、道順を何回も尋ねて一時間以上もかかって、やっと登
城口までたどり着いたように記憶している。そこから望む城は新緑の中に、実に美しく
映えて見えたが、よく見ると白壁が所々黒く塗ってあり、傷んだ部分の応急なカムフラ
ージュが分かった。本丸と二の丸の石垣の間を登って、本丸に着いてびっくりした。出
入口は開けたままなので、誰でもがいつでも入ることができるようになっていた。床は
所々なくなっており、残りの床板の上にはそれこそフーツと吹けばどこまでも飛んで行
くような塵芥が積もり、正に廃虚と化していた。私は、そのような光景を見て、とても
入ってみる気にはなれなかった。琵琶湖を見おろすこの絶好の地は、北陸を睨み、また
京に備えて徳川幕府が重視し、井伊家を配したほどの居城である。このお城見物によって、
私は万物の盛衰というものを感じ、本当に良い勉強をしたと思いながら帰路についた。
岐阜に帰り着いたのは夕暮れであった。
翌日は定刻に刑務所の作業場に行き、組み立て作業を見た。それこそ何の記憶にも残
らないような平凡な日々であったと思う。それから何日目かは確かでないが、組み立て
場にいるときに森藤課長から呼ばれたので事務所に行くと、いつ審査部に帰る予定かを
聞かれた。そのとき私は、なるべく早く帰りたいと返事をし、結局翌日には引き上げた
ような気がする。六月上旬に航空審査部に帰り着いたが、その後は恐らく何の任務もな
かったのだろう、六月中旬の自分の行動の記憶は全く頭の片隅にもない。
◆
進級の想い出
待望の八月一日が来た。何で待っていたかというと、おかしなことではあるが、陸軍
の階級が一階級上がるか上がらないかが官報に発表になる日であったからである。陸軍
の進級規定によれば、私はこの日付けで進級するはずであった。大体伍長という階級は、
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一年すれば軍曹に進級しなければならないが、私の場合は昭和十九年三月二十日に陸軍
兵器学校を卒業すると同時に伍長に任官したので、昭和二十年三月一日の進級はまだ一
年に満ていなかった。戦地に行った同期生や日本本土より満州などに出た人は、少ない
日数でも三月一日に進級しているのが当然であった。私が普通に進級するなら八月一日
であると思い、この日を待っていた。
大体毎日十時に命令が審査部総務部より各部に出ることになっていた。もちろん特殊
航空兵器部(特兵部)も週番士官が総務部に命令受領に行き、戻って来るのが十時十分
頃であった。八月一日の朝はゆっくりした気分で食堂に行き、食堂から帰って来るのが
九時頃になった。相変わらずこの日も何の任務もなかったが、自室で落ち着かない気分
で時間待ちしたことを覚えている。十時になったので特兵部事務室に行くと、先ず今井
大尉に「おめでとう」と言われたので、やっと進級できたことが分かり嬉しかった。そ
れから早速今井大尉が週番士官の机の上にあった命令伝達綴を示した。それを見ると、
先ず「任陸軍技術軍曹」とあり、その下の一番目に片岡主一と書いてあった。私の名前
の左には四、五名の名前が見えた。そのときの私の顔はどんな顔をしていたのだろうか。
きっと今井大尉の目には、私はあまり喜んでおらず、進級は当然のことというような顔
に映ったのであろう。その証拠に、大尉はしばらくおいて私の次に書いてある名前を指
差しながら、「片岡軍曹、この人は君より約一年も前に伍長になった人だし、三番目の
人は君より五カ月早く伍長になった人ですよ」と言った。大尉の言葉を聞き、今度の進
級で私の名前が一番最初に書いてあるのは、本当に大尉のお陰だと思い衷心よりお礼を
言ったことを今でも懐かしく思う。
早速自室に帰って軍服を着用し、事務所に戻って今井大尉に「陸軍技術伍長片岡主一、
本日を以て陸軍技術軍曹に任ぜられました」と申告した。すると大尉も嬉しそうな顔を
して、私に「早く階級章を付け替えなさい」と言った。
軍曹の階級章には金筋一本に星が二つ付いていた。それを受け取るために特兵部の事
務室から二十メートルばかりの所にある被服庫に行くと、若い女の事務員さんが二つ一
組の階級章を黙って差し出した。しかし、私は作業衣に付ける分は当然として、飛行服
に付ける分も必要だと思い、二組もらって帰った。
階級章を付け替えて特兵部長の大森中佐や秀少佐等に申告するよう用意して待機して
いたが、とうとうその日は二人とも事務室に現れなかった。結局この申告は、ただ一人
今井大尉にしただけで、以後全く誰にもしなかったような気がする。こうして八月一日
は終わった。
◆
再度の岐阜刑務所行き
その後、今井大尉に呼ばれ事務室に行ったのは、確かその二日後ではなかったろうか。
私は、きっと秋田の飛行場に行く話があるだろうと決めつけ、心をはずませ事務室に向
かった。しかし期待とは裏腹に、大尉は気の毒そうな顔をして「片岡君、すまないがも
う一度岐阜へ行ってくれないか」と切り出したものだから、私のショックは相当なもの
であった。あまりの話に、私が「キの二〇一の方はどうなりましたか」と聞くと、大尉
はそれには全く触れず「前回と全く同じ任務です。今度は部下を全員連れて行くように」
と言った。それと今回は滞在が少し長くなるかもしれないので、食料に関しては証明書
を二通発行してもらっておいたので、それを持参して配給所から配給を受けるようにと
のことであった。証明書は確かに七名の二週間分の二通であったことは覚えているが、
そのとき現金をどれだけ受け取ったかは全く覚えていない。
航空審査部は日本軍のいわば中枢の一部だから、この頃になると戦争はもうすぐ終わ
るのではないかということが、いつの間にか自然と私達の耳にも入って来ていた。その
上、ポツダム宣言を受諾するそうだとか、その日は八月九日だそうだというような具体
的な噂までだんだんと広がって来ていたのである。
それにしても私は今井大尉に岐阜行きを命ぜられ、これから多量生産するイ号一型乙
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爆弾の検査に従事するのだが、これから一体どうなるのだろうかと不安でならなかった。
しかし、命令には絶対に従わなければならないので、自分の任務に邁進するしかなかっ
た。
八月五日に岐阜に出発することに決め、部下にその旨を伝えた。今度は会計を田中候
補生に任せることにして、貯金通帳や書類など全てを渡した。前回の岐阜行きの苦い経
験があったので、翌朝出発して夕刻には岐阜に着いた。
次の日の朝、森藤課長に挨拶し部下は全員作業場に行ったが、私はお米の配給を受け
るために証明書を岐阜市役所に持って行き、その確認が終わった後市役所近くの食料配
給所でお米の配給を受けた。そのとき配給所の五十歳ぐらいの男性が、「兵隊さん、戦
争はもうすぐ終わるのではないですか」と私に聞いたので、『審査部で聞いた噂が、も
うこんな所まで広まっているのか』と思いびっくりした。それからその人は「負けない
ようにしっかり頑張って下さいよ」と続けたので、私は何だか空しさを覚えたが、
「はい、
しっかり頑張ります」としか答えようがなく、七名の二週間分の食料を受け取って宿舎
である刑務所の官舎へ戻った。食料配給所から宿舎へ戻る間、戦争がもうすぐ終わるの
ではないかという言葉がずっと頭から離れなかったことと食料が非常に重かったことは
今でも忘れない。
急いで作業服に着替え汗を拭き拭き刑務所の正門まで行くと、奥から出て来た森藤課
長に「班長さん、大変なニュースですよ。広島が空襲されて全滅したそうですよ」と言
われた。「いつですか」という私の問いには、ただ一言「今朝です」という課長の沈ん
だ声が返って来た。私は五月二十五日の東京の新橋駅前の焼け野が原を目の当たりにし
ていたので、『朝で良かったなぁ』とそのときは思った。しかしその日の夜になって、
広島に落とされた爆弾は新型であったと聞かされた。その頃は全く暑い日が続いていたが、
私も部下も実際任務に一生懸命だったし、森藤課長の目にもそのように映ったのだろう、
「皆さんはよくやりますね」というお褒めの言葉を盛んに頂いた。
審査部を出発するときに、今度は長くなるかもしれないと言われたので、この際炊事
当番も二人ずつ交替でなどときっちり決めていた。刑務所は高塀に囲まれているので、
それこそそよ風の一つも吹かなかった。あまりにも暑いので、昼食後部下を連れて長良
川に泳ぎに行くことにした。その話をすると部下はみんな嬉々として昼食もそこそこに
出かけることになった。刑務所から長良川までは七、八百メートルぐらいと近かった。
長良川大橋の下流百メートルぐらいの所で、私は熊本の山国育ちだが、陸軍兵器学校在
学中に静岡県清水市袖師の松原で遊泳演習で鍛えられたことを思い出し、部下たちに対
し得意になって泳いだことは懐かしい思い出である。
ところが、あまり遊び過ぎて午後の作業のために刑務所の門をくぐったのは十五時を
既に回っていた。奥田受刑者からはみんなに聞こえるような大きな声で「良い班長を持
ってみんなは幸せだなぁ」と皮肉られ、自分が有頂天になったことは若気の至りであっ
たと、今思い出しても顔が赤くなる。
夕食が終わると全く何もすることがなく、みんな自由時間であった。このような軍人、
しかもこれから幹部になるような者を六名も任されていると思うと、二十一歳の自分も
規律だけはしっかり保つようにと心がけた。遠出はしないように、就床時間は厳守し、
起床時間には必ず起床等々とみんなに注意したので、やかましい班長と思われていたの
ではないだろうかと今でも思う。
翌日は前日の長良川の水泳の件があったので、作業は実に順調に進んだ。相変わらず
暑い日であった。休み時間になると広島の被害の状況が話題になった。本当に非常事態
を認識せざるを得ないなどと思いながら午前中の作業を終わって昼食を採りに帰ったと
ころ、ラジオからソ連軍が国境を越えて満州に進入して来たとのニュースが流れていた。
満州にいるはずの関東軍は大部分の部隊がフィリピンや沖縄で全滅したか、日本本土に
引き上げているはずであった。私は『これは大変なことになった。万事休すだなぁ』と
思ったが、『自分達のただ今の任務はこのロケット爆弾の検査をすることだ』と思い直
し、それに一生懸命打ち込むしか他になかった。
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刑務所の門を出るときは、その日も B 二九が北上中との情報が入って来たが、毎夜の
ことなので別段気にも留めず宿舎に帰って夕食を採った。しかしラジオから流れて来る
ニュースに耳を傾けていると、いよいよ B 二九は東海方面が目標らしいことが分かった。
食事も終わり、燈火管制とのことで少し早いが電灯を消したものだから、私はこれ幸い
と床に入って寝てしまった。いつものことでバッタンキューと眠ってしまったのである。
「班長、大変ですよ。空襲ですよ」との声に目は開けはしたものの、まだ夢うつつで
あった。しかし次に無数のバタバタという足音を聞いたときには、さすがに目が醒めた。
「これは大変だ」と叫び作業服を着て外に飛び出してみると、官舎の各家に受刑者がバ
ケツに水を満杯にしたのを持ったり、長いパイプの棒を持ったりして一軒の家に五、六
名ばかりの人数で配置されていた。部下達はどうしているのかと思って見渡すと、誰一
人として視界に入ってこなかった。遠くは火災が発生して赤々と夜空を焦がしていると
いうのに私一人が取り残された情けない状態であった。空には爆音を轟かせながら B
二九の編隊が東より西に向かって通り過ぎて行くのが見えた。このやかましい爆音は聞
こえず、何で足音だけが聞こえたのだろうかと不思議でならなかった。刑務所の正門を
入ってロケット爆弾の組立場に行ってみると、やはり部下はみんな揃って待機していた。
去る三月十日の夜もそうだったが、このときも私はみんなに寝坊助と笑われた。
それから何分ぐらいが経ったであろうか、飛行機の爆音が止み刑務所の中は何事もな
かったように全く異常なかった。しかし、刑務所の外に出てみると、高い塀に囲まれた
刑務所内からは空が少し明るいぐらいとしか感じていなかった岐阜の町の方は、すぐ近
くまで一面火の海であった。これは大変なことになったと思ったが、私にはどうするこ
ともできないので、部下達には翌日の任務があるから床に入るように指示し、私も床に
入った。
いつも朝早く起きるのは苦にならない私なので、みんなより一足早く起きて市の路面
電車の刑務所に一番近い停車場まで行ってみることにした。思っていた通り無茶苦茶に
焼けていたが、五月二十五日の新橋駅前ほどひどくはなく、所々には立派な住宅が残っ
ていた。それにしても千何百年か前の戦国時代の焼き討ちを想像し、腹が立って仕方が
なかった。戦争に何の関係もない一般の民家を全滅するほどに焼夷弾をばら撒くなんて
もっての他であると思った。
◆
終戦の日の想い出
このようにして岐阜の空襲は終わり、刑務所関係には何の被害もなかったので、ロケ
ット爆弾の組立作業は八月十四日まで淡々と続くことになったのである。八月十四日の
晩になると、翌日の正午から重大なラジオ放送があるのでみんな聞くようにとのことで
あったが、私はどんな放送があるのか気にも留めず床に入り、相変わらず五時には目が
醒め 『今日は特に暑くなりそうだなぁ』 と思いながら八月十五日を迎えた。
いつもの通り八時三十分には刑務所の正門を入ったし、仕事の方も今までと何ら変わ
りなく終えて、宿舎に帰り全員揃って昼食を採った。重大放送が正午からあるというこ
となど関係ないとばかりに、ラジオも聞かずに昼食が終わってゆっくりしていた。外は
静まり返った真夏の暑い昼下がりである、などと全くどこかで聞いたような風体であっ
た。
十三時前になったので全員を連れて刑務所正門まで行くと、森藤用度課長が慌てて事
務所から出て来て「班長、戦争は終わったんですよ」と小さな声で言った。寝耳に水と
は全くこのことかと、ただただ驚くだけであった。私はこのとき初めて戦争が終わった
ことを知ったのである。しばらくは全員呆然とその場に立ちすくんでいたが、誰に促さ
れるともなく全員がうなだれて宿舎に帰った。「班長、これからどうしますか」と部下
に聞かれたが、誰かに相談する訳にも行かず、私自身全くどうして良いか分からなかった。
とりあえず航空審査部特兵部の今井大尉と連絡を取って今後の指示を受けなければなら
ないと思い、森藤課長の所に急いだ。刑務所の事務室より審査部に電話をかけようと何
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回も試みたが、とうとう夕刻まで連絡を取ることはできなかった。
宿舎に帰ってみると部下はみんな荷物をまとめ、いつでも帰れるように準備をしてい
た。「班長、これから一体どうなるのでしょうか」と部下から執拗に聞かれたが、私に
はどうすることもできなかった。ただ部下全員を集め、審査部への電話は通じなかった
旨の報告をし、今井大尉と連絡が取れて確たる指示があるまではここから移動はできない、
と強い調子で言う他なかった。部下もそのことに納得したのか、その場は静かに寝るこ
とになった。しかし、私は自分の責任を考えるとその重大なことに目が冴えてよく眠れ
なかった。戦争が終わってこれからどうなるかなどということよりも、ただ自分に与え
られた任務は何かということしか私の頭の中にはなかった。部下はみんな今日にでも家
に帰りたいだろうが、耳に入ってくる情報と言えば、汽車は走っているがどの列車も満
員で家に帰る兵士が多いということであった。
『明日もう一度航空審査部と連絡を取るよう努力してみよう。もしそれが駄目なら一
度航空審査部に帰ることにしよう。私のやるべきことは、何はともあれ部下全員を東京
福生の航空審査部まで連れて帰ることである』と考えたところでうとうととした。人間
というものは一度決心したら後は案外落ち着くものなのだ。それにしても、終戦という
今日の日を迎えることなく特攻隊として帰らぬ飛行機に乗って行ったであろう戦友達の
ことを思うと無念で無念でどうしようもなく、彼らの顔が脳裏に浮かんでは消え浮かん
ではまた消えた。この八月十五日の夜のことだけはどうしても忘れることができず、ま
たその気持ちをどのように文章に表せばよいか、愚かなる私にはなかなか分からない。
とにかく種々なものが私の頭の中を駆け巡り、気が狂いそうであったとしか書きようが
ない。
一夜明けた八月十六日も晴天で、今日も暑くなりそうだと思いながら朝食が待ち遠し
かった。部下はもう誰一人としてこれからの行動を問うことなく、ただ私の指示を待っ
ているようであった。私は責任の重要さを感じ、早々と刑務所の事務所に出かけたが、
誰一人として来ていなかったので電話をかけられるまで正門前で随分待っていた。結局
そのときは審査部との連絡は取れなかった。私が困り果て頭を抱えている様子を森藤課
長が心配そうに黙って見ていたことを覚えている。正午近くになって部下の一人が「審
査部より根本少尉が私達を迎えに来られました」と私の所に来て告げた。私は今まで張
り詰めていた気が一度に抜けたようであった。
刑務所の森藤課長はじめ他の皆さんに挨拶をして宿舎に帰ると、少尉が待っていて
「昨夜の夜行列車で来たがやっと今着いた。一刻も早く出発したい」と私に言った。市
内電車の停留所まで森藤課長の娘さん(当時小学生であった)に送ってもらったことを
覚えている。空襲での焼け跡に立ち、走り去る私達の電車に向かっていつまでも手を振
ってくれた幼い顔が、四十八年後の今でも瞼に浮かんで来て懐かしい。
岐阜の町の焼け跡を通って、これからどうなるのだろうと思いつつ夜行列車に乗った。
審査部に帰り着いたのは十七日の昼頃であった。早速特兵部の事務室で帰着の報告を済
ませ、ひどくお腹がすいていたのですぐに食堂に行き腹一杯のお昼ご飯を食べることに
した。まだ食べ終わらないうちに長谷川少尉がやって来て「食事が終わったら被服庫に
行って分配物を受領するように」と言った。
被服庫に行ってみると倉庫は全く空っぽで、残った軍服や軍靴や作業服が片隅に少し
置いてあるだけであった。「特兵部片岡軍曹以下七名、分配品を受領に来ました」と衛
士に告げると、その中の一人が「名簿にチェックするように」と言ったので、自分の名
前を探したがなかなか見つけ出すことができなかった。
「一番最後の方にあるはずですが」
という次の言葉にもとうとう探し出せずにいると、さも迷惑だと言わんばかりに「よし
よし、冬用軍服一着、下着一枚などどれでも良いから一点ずつ持って行きなさい」と別
の衛士に言われた。
言われた通り七名で軍服など一点ずつを揃え終えたとき、名簿を見ていた衛士が田中
候補生に「君の名前は」と尋ねた。田中君が「田中卓二です」と答えると、その衛士は
「あるある」と言って六名の名前をチェックしたが、「片岡軍曹だけはない」と言い放
ったのである。その言葉を聞き、私が 「仕方ないなぁ」と言いながら立ち去ろうとす
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ると、先ほど軍服など一点ずつを持って行くよう許可した衛士が「どうれ」と言って名
簿をめくり始めた。それからその衛士は「ここにあるじゃないですか」と先に名簿を見
ていた衛士に軽蔑したような口調で言い、
「片岡軍曹、待って下さい」と私を呼び止めた。
その声に驚いて名簿を見ると私の名前は搭乗員の名簿の末端の方に書いてあったので
ある。
その衛士は頭に手をやりながら「困ったなぁ」と言い、いかにも気の毒そうな顔をした。
私が振り向いて 「何でですか」と問いながらまた倉庫に入って行くと、一瞬おいて衛
士が「実は、飛行服の夏冬用一揃いずつを支給するようになっているのですが、夏用し
か残っていないのです」と言った。私が「それなら致し方ないですね」と言うと、その
衛士は「代わりに冬用の軍服の上下で最高のがありますからそれで勘弁して下さい」と
言い、別の小部屋よりそれを持って来てくれた。私は有難く頂戴したが、そんなこんな
で居室に帰ったのは夕暮れであった。
◆
望
郷
居室に戻った後は、翌朝十時より搭乗員控え室の前で航空審査部の解散式をするとい
うので、その日に支給された品々とともに身の回りの品の荷造りにかかった。そして、
もらって来たばかりの上等の冬物の軍服を見たとき急に作業する手が止まった。どうし
てかと言うと、子供の頃に偶然見かけた人が着ていた軍服にそっくりだったからである。
私が熊本の農家の息子として生まれ、そこからどうにかして抜け出したいと思っている
ときに、その人は私に陸軍兵器学校入校を志すきっかけを作ってくれたのであった。
それは確か昭和十三年、私が高等小学校を卒業する年のお正月のことであった。私が
明泰寺にお参りしているときに、立派な軍服を着て軍刀を吊り長靴を履いた凛々しい軍
人がお参りに来た。お寺の奥さんは、すぐさま私などには背を向けてその軍人には心服
したように相対した。よく見るとその軍人は、胸には三つの勲章を付け、階級は曹長で
あった。とにかくお寺の奥さんがその軍人に接する態度は、見てもあまりあるものがあ
った。後で聞くとその人は名を永田と言い、東京で宮城を警固する近衛兵であるという
ことであった。近衛兵になるためには近衛師団に入隊しなければならないのだが、それ
には全国各地からそれこそ体格も顔も良い上に旧家か氏族の出という条件を満たすこと
ができる人だけが集められていた。永田近衛兵は、私の出身地から小川一つ隔てた隣の
郡にある村の地主の息子さんであり、年齢は確か私が見かけた当時は二十八歳であった
と記憶している。そのとき私は、正にその軍服と同じ品を支給してもらい軍隊を離れて
故郷に帰らんとしていると思うと非常に感慨深いものがあった。私は何時間も手を休め、
陸軍兵器学校に入校してからその日までのことを次から次へと走馬燈のように思い出し
ていた。
夜更けになって部屋の入り口に人が立つ気配を感じたので振り向くと、それは今井大
尉であった。私が直立すると、大尉は「片岡軍曹は熊本県の出身だったね」と低い声で
言った。私が「はい」と答えると、大尉は「明日帰るんだね」と次の言葉が出て来た。
あまりにも沈んだその声に、私は思わず涙が出て来て大変お世話になりましたという言
葉さえ言えず、頭を深々と下げたままであった。しばらく沈黙が続いていたが、大尉は
小さなかすんだ声でただ「元気でね」と言い残して去って行った。
◆
軍人としての最後の日
十八日の朝は早く起きたが何もすることがなく、ただしばらくぼんやりとして十時か
らの解散式を待った。爆音が消え静まり返った松林はどこかの公園といった風趣で、朝
の太陽がさんさんと照りつけていた。しばらくして、あちこちから軍靴の音が耳に入っ
て来た。私はその音で我に返り、正装して出かけて行った。搭乗員控え室前に行くと、
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もう多くの人が集まっていた。みんな正装して階級章を付けており、高級将校ばかりで
あった。そんな中で私のように官給の軍服を着用した下士官は数えるほどであった。こ
の人達が日本の各部隊から選ばれ、テストパイロットとして日本陸軍の飛行機の元締め
の役を果たして来たのだと思うと、どの顔もどの顔もきりっとして見えた。
そのときである。耳をつんざく轟音が東の方から近付いて来た。飛行機であった。私
は一瞬飛行するはずがないのにと思った。みんな一斉に振り向くと、鮮やかに米軍の星
のマークの入った戦闘機二機が脚を出して着陸の態勢で滑走路に入って来た。何故着陸
するのだろうかと不思議に思って見ていると、二機とも一旦急上昇して行き、また着陸
の態勢で進入して来た。その動作は、いかにも戦争は俺達が勝ったんだぞと言わんばか
りに見えた。周りを見るとどの顔も怒りで目がつり上がり、誰一人として言葉を発する
者はいなかった。その二機の飛行機の爆音は二回だけで静まり、解散式は予定通り始ま
った。
解散式では、航空審査部にふさわしい立派な訓辞を受けた。三々五々と別れていく人
々を見ながら、私は最後まで全隊列の後ろの方に佇んでいた。全員がいなくなった広場
より搭乗員控え室の中に入ってみると、テーブルも椅子もきちんと並べられ、がらんと
した広い室内は整然としていた。飛行予定の黒板に目をやると、「八月十九日零時以降
飛行禁止」と大きく書かれていた。
その後私は食堂に行き、軍人として最後の食事を採った。それから私が航空審査部の
立派な正門を出たのは、昭和二十年八月十八日の暑い暑い昼下がりであった。
◆
結
び
航空審査部の立派な正門を後にしてからしばらくは、戦争終結による虚脱状態に陥っ
ていたが、我が国で初めてのロケット兵器の実験・審査のために、その原動機班の最下
級の責任者として全力を尽くした日々を思い出し、充実感に浸っていたことも事実であ
る。私の脳裏に鮮明に焼き付いて離れない、航空審査部での一喜一憂した一駒一駒が、
回り灯寵の絵のようになって甦って来た。
三月後半になり、やっとロケットが百パーセント噴射し、ロケット爆弾が真っ白な煙
の尾を引きながら青い銚子沖の上を飛行した美しい姿……。実験場を琵琶湖に移しての
実戦さながらの黎明、薄暮攻撃実験の中で、薄暮攻撃の実験機に搭乗した際の、ロケッ
ト爆弾が真っ白な煙を噴射しながら琵琶湖の中程にある幅五メートル、高さ七メートル
ぐらいの白石島に見事命中した一瞬……。これらは全て忘れようとしても忘れられない
シーンである。
七十パーセントの命中率になったこのロケット爆弾を、参謀本部が実戦に使用する時
期はいつ、どこでと計画していたかは知る由もなかった。ただ私が確実に言えるのは、
もしロケット爆弾が実戦に使用されることになれば、特攻隊員として南海に消えて行く
ことになるであろう、かつて机を並べて一緒に勉強した同僚の命がどれだけ救えるか計
り知れないという思いだけで、終戦のその日までロケットの原動機に関わり全力を尽く
したということである。私はそれが叶わなかったことを残念に思いつつ、青梅線の「う
しはま」駅までとぼとぼと歩いたことが懐かしい。
あとがき
月日の経つのは早いもので、戦争が終わってもう半世紀近くになるが、戦後の混乱期
や高度経済成長期などの中で、私には今度のように落ち着いて青春の日々を回想する余
裕など全くなかった。実はそのような訳もあって、私は終戦の日から今まで今井大尉に
お会いしていないのである。今後もお会いすることができないとなると、あのときの別
れは、わが国で初めてのロケットを手掛け、それに青春の全精力を傾けた上官と部下に
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とってはあまりにも寂しいものになってしまう。
私は今年十二月二十四日で満七十歳いわゆる古希を迎えるので、この機会にも四十八
年ぶりに是非今井大尉にお会いしてみたいと思い、春休みを利用して防衛庁戦史資料室
と今井大尉の出身校である東京大学の航空工学科、機械工学科に行き、それぞれ一日を
費やして調べたが、名簿の中にそれらしい人はとうとう見つけ出すことができなかった。
途方にくれて、東京大学図書館に行き「紳士録」を閲覧し、数年前に文化勲章を受章さ
れた「今井」と言う人が記載されていたので、早速電話をかけて確認してから御伺いし
たいと思ったが、電話に出られた奥様から「自分の主人今井は戦争中は海軍に所属して
いました。人違いでしょう、との言葉にがっかりした、しかし、私はどうしても諦めき
れず、八王子の升本少佐のお宅にもお伺いしたが少佐もご存知ないとのことであった。
升本少佐は特殊航空兵器審査部、ロケット爆弾イ号の飛行実験班の一員であった。戦後
は自衛隊に入り、西部航空方面隊幕僚長を務めた人である。
本編を書き上げ、今改めてロケット爆弾のことを考えてみると、あのとき実験に成功
して実戦に使用されなかったということは、むしろ喜ばしいことであったかもしれない
という気がする。兵器、所詮それは人殺しの道具に他ならない。あのときのロケット爆
弾が、もし実戦に使用されていたならば、敵といえども何人の命を奪うことになったか
分からないのである。戦争を体験した者だからこそ平和の貴さがよく分かり、このよう
な気持ちになるのであろう。私は、あのときのような私の役割を演じなければならい人
が、今後絶対に現れることがないことを心から願う。
ロケット余話
昭和十八年九月イタリアは無条件降伏した。ただ一国ドイツは頑張り、英仏間にある
ドーバー海峡のフランス側を基地に、地上発射のロケット無線誘導弾を使って英国を攻
撃した。当時、世界中でロケット兵器においてはドイツがもっとも進んでいたようであ
った。
昭和二十年五月、ドイツが連合軍に無条件降伏するや、ソビエトはドイツのロケット
に関する技術者を自国に連れ帰り、研究実験をさせたと聞く。
アメリカも同様であったが、ソビエトも優秀な技術者ばかりにいち早く手をつけたの
で、十数年後の宇宙飛行にアメリカより早く成功したことは確かな事実と思う。
著者の略歴
大正十二年、熊本県玉名郡菊水町(旧、花簇村)に生まれる
昭和十九年、神奈川県高座郡相模原渕野辺在、陸軍兵器学校卒業
同年、陸軍技術伍長に任官、三重県鈴鹿郡高塚町在、第一航空軍教育隊本部付
昭和十九年、東京都北多摩郡福生町在、陸軍航空審査部特殊航空兵器部付
昭和二十年、陸軍技術軍曹に昇進
昭和二十年、終戦により熊本に戻る
昭和二十年より大動開発株式会社に勤務
昭和二十三年より佐藤工業株式会社に勤務
昭和二十五年、熊本市に洋服工場を開設
昭和二十七年、熊本市に有限会社片岡ボタン店開店
昭和二十八年、紳士服の販売を開始
昭和三十年、福岡市箱崎に移転
昭和三十一年、福岡県春日市に移転
昭和三十六年、片岡商事株式会社(紳士服、婦人服、寝具、学校用品の販売)
昭和三十八年より個人で紳士服を販売し現在に至る
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を設立
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