5月号 - スラバヤ日本人学校

平成28年5月25日
5月号
創立記念日に思う
小学部60名
中学部16名
校長
村下
俊文
ブーゲンビリア(Bougainvillea 校章のデザインのもとになった花)
雨季も終わりに近づき、まぶしい常夏の日射しにムラティの花の白さがひときわ美しく映えるこの頃です。
スラバヤ日本人学校(SJS)は、去る5月14日に、加藤義治在スラバヤ日本国総領事、河野剛東ジャワ日本
人会(EJJC)会長他、多数の来賓の皆様のご臨席のもと、第38回創立記念式典を挙行いたしました。
スラバヤ日本人学校は今年で開校38年目。前身であ
る1925年(大正14年)4月開校のインドネシア初の日
写真1(記念式典)
本人学校「スラバヤ日本國民學校」を含めると実に91年
もの歴史をもつ、世界で3番目(※)に古い日本人学校です。
※①大正日本國民學校(1915 ブラジル)
②バギオ日本國民學校(1924 フィリピン)
③スラバヤ日本国民学校(1925 インドネシア) ④盤谷日本尋常小学校(1926 タイ)
戦前のスラバヤ日本國民學校はスラバヤ市庁舎の北に
隣接し、校舎は白亜の立派な平屋建でした。当時のスラ
バヤは隆盛めざましく、市庁舎はじめ多くの近代的な公
共施設が都市計画に沿ってこの時期に整備されています。 前身のスラバヤ日本國民學校の校舎と卒業式
1938(昭和 13 年).3.6
最盛期の1938年(昭和13年)には在籍児童数が117名となり、1学年20名程度の学級規模になりました。
また作家の故有吉佐和子氏が父親の赴任にともなってこの年(1938年)入学したことも記録に残っています。
前身のスラバヤ日本國民學校は、残念ながら大戦直前の1941年(昭和16年)10月に閉校になりましたが、
大戦後、インドネシアとの交流が再び盛んになり、在留邦人の数も増え、日本語
補習校(1976~78)時代を経て、1979年(昭和54年)4月17日、3名の派
遣教員と1名の現地採用教員によって正式に「日本人学校」としてのスタートが
切られました。「第38回」は、その年を起点として数えられてきたものです。
開校当日の児童生徒数はわずかに24名。動物園近くのJalan Setailにあった 1 年あまりを過ごしたスタイル校舎 1979.4
民家を借り上げての仮校舎で1年2ヵ月の不自由な生活の後、ダルモ地区の原野
を掘り返して建てられた新校舎に移転したのは翌年の6月8日のことでした。
開校の翌年に配布された、ガリ版刷りの「学校要覧」には、その当時の様子が次のように記されています。
「――移転後、父母有志の手によって原野に植樹が始まった。折からの
乾季で、学校は51メートルの地下にポンプのパイプを打ち込み、給水
に努め、卒業記念樹を始め、まず学校緑化に力を注ぐとともに、日本企
業に教室設営用の木材の提供、遊具、体育用具、60メートルに及ぶブ
ーゲンビリア棚の支柱などの寄贈を仰ぎ、環境整備に現在懸命の努力を
続けている。児童生徒は微増の傾向を見せ、少数ながら着実に発展しつ
つある。ただ、教員数だけは如何ともしがたく、小1から中3まで9学
年を常勤6名(派遣4,現地採用2)で授業しなければならないため、
校庭を整備する人々 背後はダルモ新校舎 1980.9.2
教員増が何よりも望まれる現状である。10月2日には、インドネシア政府関係者をはじめ、多数の来賓を招い
て校舎の竣工式を挙行する運びとなっている。――」
さて、その後、校舎は、ダルモ校舎として、1994年末までの15
写真1(記念式典)
年間、児童生徒の学び舎として維持されてきました。しかし後半は校舎
の賃借料の大幅値上げなどで苦しみ、多くの邦人関係者の努力により、
クティンタン新校舎建設、移転の日を迎えることになります。
以後の経緯については多くの資料が身近に存在するため、ここでは説
明を省きますが、今ここにある
校舎、校庭が、多くの方々の多
ブーゲンビリア棚周囲の緑化に励む児童生徒 1982.6
年にわたる多大なる努力によに
よって成っていることには触れておかなければなりません。
歴史といえば、昨年も本校の卒業生がこの学校を訪れ、新校舎に移
って間もない頃の話を在校生にしていってくれました。すっかり住宅
クティンタン校舎体育館の新築工事 1994.7.16
地に生まれ変わった現在の校
クティンタン校舎 体育館の新築工事 1994.7.16
写真1(記念式典)
舎周辺の様子からは想像もつ
かないことですが、当時、校舎周辺は一面水田や湿地で、放し飼いさ
れた何頭もの水牛が学校の周りをいつもうろうろしていたそうです。
また、雨が降れば道が冠水し、泥濘(ぬか)って車が通れなくなったこと
も少なくなかったそうです。さらに、2メートルを超えるヘビがフェ
ンスに巻き付いたまま息絶えていたり、教室の入口付近でコブラを見
つけて腰を抜かすほどの騒ぎになったりしたこともあったそうです。
新校舎完成当時の周辺は水田と原野に覆われていた。1996 頃
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、
長い歴史と伝統をもつスラバヤ日本人学校の時は、今もゆっくり
と流れています。
今後も、学校に通う児童生徒の時時(ときとき)の出来事や思い、悲喜こ
もごもを、さまざま、つぶさに見守りつつ、とわに存(ながら)えてくれ
ることと思います。
当時、校地周辺にはたくさんの水牛が放し飼いにされており、
のんびりと草を食む姿がいたるところで見られた。1996 頃
前身の「スラバヤ日本國民學校」を含めれば実に91年もの長い歴史
をもち、今や在外教育施設として名実共に揺るぎない地位にある、この
スラバヤ日本人学校。この由緒ある学び舎に集う子どもたちのいち早く世界に羽ばたく日の来らんことを、スラ
バヤ在住のすべての邦人の方々とともに、切に願ってやみません。
写真1(記念式典)
第37回創立記念式典終了後の集合写真
第38回創立記念式典終了後の集合写真