*「 〈世界史〉がひとつの臨界点に達した~ブッシュ政権はヨーロッパ中心主義の「鬼っ子」 にすぎない」 、 『図書新聞』2003年5月31日 2001年9月11日に、所謂「9.11」が発生した際、ハンチントンの『文明の衝 突』が、この事件とこれに対する「報復」として米軍によって行われたアフガニスタン戦 争をあわせた展開を予見した理論として注目された。その大半は事態を「文明の衝突」と 捉える論調を批判するものであった。批判は二つに分類しうる。一つは『文明の衝突』出 版当初からあったものだが「文明の衝突」論は学問的ではないとする研究サイドからの批 判、もう一つはイスラム世界といっても多数あって決して一枚岩ではないという実態論か らの批判である。 確かに研究サイドからの批判については、小林正弥氏が『非戦の哲学』 (2003年3月 刊、ちくま新書)において指摘しているように、そもそも『文明の衝突』は学術的な著作 を目指したものではなく、冷戦後における西洋優位の世界秩序を確立するための合衆国主 導によるイスラム世界の封じ込めという戦略的提言を行ったものであったため、学問的で はないという批判はあたらない。他方実験論からは、イスラム世界は多様であり一枚岩で はないから「文明の衝突」を必然資することは誤りであると批判されるが、合衆国が独善 的に「世界のアメリカ化」を進めようとするならば、一枚岩ではないイスラム世界を逆に 結集させる可能性もある。現に、今回のイラク戦争が不当に仕掛けられようとした頃より、 イスラム世界が横断的に「反米」にまとまる傾向を示したことは軽視してはならないだろ う。たとえばエジプトのカイロではムスリム同胞団が数十万人規模の「反米」集会を主催、 同国のイスラム研究の最高学府であるアズハル大学総長のタンターウィー師は「イラクに はジハードを行う権利がある」と述べ、シリアのイスラム最高権威であるカフタルー大法 官も「殉教を含むあらゆる手段で敵を倒せ」と呼びかけた。あきらかに、合衆国の独善的 な戦争行為に対しては、イスラム穏健派の間でも「反米」傾向が強まったと言える。 他方、合衆国では「9.11」以後、アラブ系やムスリム系の人々に対して入国管理が 強化されたり、排他的主義的な一部市民による「憎悪犯罪」が頻発したものの、ブッシュ 政権は2000年の大統領選挙キャンペーン以来アラブ・ムスリム系市民の取り込みに積 極的に取り組んできたほか、 「9.11」以後もブッシュ大統領は国内のムスリム擁護の演 説を繰り返している。しかし、このようなブッシュ政権の姿勢は「アメリカ的理念」への 凝集力強化を意図した「内なるアメリカ」に根差していることを忘れてはならない。この ような共和党やブッシュ大統領の国内ムスリムに対する姿勢だけをとりあげて、「文明の衝 突」を戦略とはしない意図の現れであると短絡することは無理がある。 現在「ネオコン」と呼ばれる新保守主義的なエリート層が合衆国の外交・軍事戦略に大 きな影響を行使しつつあることは周知の通りである。「ネオコン」は「アメリカ的理念」の 拡大(=強要)を図ろうとしているのであり、イスラム世界だけをターゲットとした敵視 姿勢をとっているわけではない。しかし重要な点は、主観的な意図がどこにあろうと、ネ オコンの強い影響下で現在の合衆国が進める「世界の民主化(アメリカ化) 」の拡大(=強 要)を図ろうとしているのであり、イスラム世界だけをターゲットとした敵視姿勢をとっ ているわけではない。しかし重要な点は、主観的な意図がどこにあろうと、ネオコンの強 い影響下で現在の合衆国が進める「世界の民主化(アメリカ化) 」路線は必然的にイスラム 世界にも「反米」姿勢を強めさせる可能性があるという事実である。 現在の合衆国の国際社会における在り方がイスラム世界に横断的な「反米」感情を発生 させていることは否定できないし、その結果「アメリカ」対「イスラム」という対立軸が 国際社会の重要な対立軸の一つになる可能性は排除できないだろう。であるなら、われわ れが当面なすべきことは、 「文明の衝突」が存在することを事実として認識して、その上で それをどのように克服し、 「文明の衝突」が戦争の原因になることを避けうるかを考えるこ とであろう。 「文明の衝突」論を否定することは、一見理性的には見えるかもしれないが、 実際には現実からの逃避に至る危険を伴う。 現実という時代が、ヨーロッパの拡大をもたらした大航海時代に始まったヨーロッパ中 心主義的な〈世界史〉を脱却できないでいることは確実である。ラムズフェルドはドイツ やフランスを「古いヨーロッパ」と批判したが、キリスト教原理主義を思想的基盤の一つ とするブッシュ政権は延長されたヨーロッパ中心主義の「鬼っ子」にすぎないだろう。変 形したヨーロッパ中心主義に無自覚な合衆国政治エリートたちによって「世界のアメリカ」 が更に進められようとしているのであれば、まずもって〈世界史〉の相対化が必要である。 しかし、それのみでは十分ではない。 西谷修氏は、 『世界史の臨海』 (2000年12月刊、岩波書店)において、 「現在の〈世 界性〉は〈ヨーロッパ〉の世界化運動によって作り上げられたものであり、それは否定す べきものでなく、そこをベースにしてしか以後の世界はありえない」として、「良きにつけ 悪しきにつけこれからの世界の所与の条件なのである」と述べた上で、「〈ヨーロッパ〉的 歴史が終わったというよりも、(中略)〈世界史〉がひとつの臨界点に達したという方が適 切」であると述べている。そして、臨界点とは換言すれば「危機的状態」であり、現時点 は「 〈世界史〉そのものが変容する時期」であると論じている。 おそらく我々は、西谷氏が主張するように、「〈ヨーロッパ的世界化〉によって形成され た現在の〈世界性〉を別のかたちで読み替える」ことを求められている。しかし、「言うは 易し、行うは難し」である。拙速に陥ることなく様々な可能性を模索してゆくべきだろう。
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