PSATS report

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記憶に残る私の仕事,そしてあの街 「浦和の埼玉会館」 筒井 勲
01 職 後 一 考 「手を動かしながら、
『記録』
し、
『考える」
ということ』 首藤 亮一
02 特 集 「優良建築長寿命化への期待 4」 河合 誠・菊池 清・小須田 廣利・吉田 一空
Vol.
065
2015 SUMMER
06 報 告 1 「伝統木造建築についての二つの討論会傍聴記」
07 私の見た昭和平成住宅史 「盧生邯鄲の夢」 中村 孝 10 Book Review 笠原 秀樹
11 報 告 2 「新宿東宝ビル新築工事 竣工直前作業所見学会記」
12 報 告 3 「<大型木質構造建築設計> Webセミナー2014終了
13 観・想・考 神谷 文夫・原 康之
14 建築部会報告・戸建住宅部会報告
15 集合住宅部会報告・LLB研究会便り
16 タウンハウス研究会便り・マンション管理組合支援事業部便り
会員情報・サーツカレンダ・界隈・編集後記 趣味COLUMN
「クラシックカメラの楽しみ」 菅澤 光裕
神田 順先生
坂本 功先生
渡辺一正先生
伝統木造構法を考える2つの討論会:
A-FORUM 第6回フォーラムおよび、
これからの木造住宅を考える連絡会 討論会
新宿東宝ビル新築工事
竣工直前作業所見学会
ゴジラヘッドが見える外観 作業所事務所内説明会
大型木質構造建築設計
Webセミナー2014より
PSATS Report Vol. 065 SUMMER
「浦和の埼玉会館」
筒井 勲
<エスプラナードの集い>
ント工法、地下工法は面倒くさいアイランド工法であっ
巨匠前川国男先生を囲み工事関係者が集まり建物を巡回
た。泥まみれ、
コンクリまみれの現場員として建物の隅々
視察をし、懇談し、交歓する集まりが毎年5月に開かれ
まで濃厚な記憶が残るプロジェクトであった。
た。1966年の竣工後10年ほど続いた。戦後の日本
浦和の町は殷賑を極める大宮の隣の静かな文化的な県都
の建築界をリードして来た大先生の御尊顔を親しく拝する
である。仕事とお酒に集中した2年間であった。
事が出来た思い出である。
前川先生はモダニズム建築の旗手として知られている
埼玉会館は大ホール、小ホール、美術展示スペース、
が一方でテクニカルアプローチ、機能性の追求の手法で
管理棟で構成される埼玉県の文化施設の中核的存在で
も定評がある。外装の大型陶板タイルの打ち込みは先生
ある。建物は6000平米程の敷地に地下3階で繋がり
の開発した工法であり、随所に使用されるPC版は湊建材
各棟の間の広場をエスプラナードと呼んだ。
などのメーカーを指導して造らせていた。外装タイルは
大ホールは定員1350で壁、天井一帯の合板仕上げ
新宿の紀伊國屋ビル、上野の東京都美術館、など多数で
であり、オーケストラピット、回り舞台、セリ、天井
使用され改良を重ねていた。コンクリートの斫り仕上げ、
及び袖の投光器室、リハーサル室などすべてを備えた仕様
造作大工による曲面打ち放し、床の赤黒クリンカータイル
である。また音響的にも優れたホールと言われている。
など最後の作品である東大の山上会館でも見ることがで
小ホールは円形平面で内装はPC版、斫り仕上げなど
きる。エスプラナードなどの防水の立上り部の隅には防水
である。私は若手の現場員として躯体工事では鉄骨、
押さえの膨張対策として円形銅板はめ込み立ち上がりを
鉄筋係、仕上げ工事では大ホール、小ホール係として月休
PC巾木で押さえる。神は細部にやどる。デテールの追求
2日制のもと殆ど浦和の町で泊まり込みで働いていた。
も疎かにしないまさにアーク、テクノロジーの建築家と
鉄筋工事は自分で加工図を描き、承認を受け、鉄筋の数量
して尊敬している。
を拾い、発注する。それを現場加工する。コンクリート
久しぶりの浦和は相変わらず静かな佇まいで、竣工後
は猫打ちであり、鉄骨はリベット接合であった。3脚デ
50年に達する埼玉会館も殆ど変らず文化の中心として
リック、コンクリートタワー、地下水処理はウエルポイ
現役で活躍中である。
手を動かしながら、「記録」し、「考える」ということ
首藤 亮一
皆様、首藤と申します。普段、部会に参加することも
1)記録媒体として
できず、ご存じでない方も多くいらっしゃると思います
写真も併用して使用しましたが、写真は数量が多いこと
ので、簡単にどのような仕事をしているのかを紹介し、
と一枚の情報量が多い特徴があり、自分の記録しておき
主題に入っていきたいと思います。どうぞよろしくお願
たい部分が却って不明瞭になることが往々にしてあり
いいたします。
ます。手描きスケッチですと視点が明確になり、数量も
現在、都市再生機構東日本都市再生本部というところ
限定されるので記録の対象が絞られ、情報の優先度が理
で都市再生の事業に関する業務に携わっています。わが
解しやすくなります。受注者との協議により決定した事
社は略称で UR と呼ばれますが、「UR 賃貸」と呼ばれる
項もスケッチで表現できるものは、図を交えることで相
賃貸住宅の仕事は、私の所属している本部では行いませ
ん。その代り、市街地再開発事業、密集市街地整備、区
互の認識の差異を小さくすることが可能です。
2)指示内容の具体的イメージの説明資料として
画整理事業、地方公共団体から受託する都市再生に係る
言葉で寸法や形状を記載しても伝わらないことはない
コーディネート業務等を行っています。
と思いますが、立体的な図で表現した図が指示に係る
そうした中で、私は、昨年の四月から今年の三月まで
資料に添付されていると工事担当者は理解しやすいと
密集市街地整備事業の従前居住者住宅の建設工事の監理
のことです。以前建築士会の会報で「工務店の設計力」
ではない管理を担当しました。つまり、細かい図面照合
という特集の中に登場した建築士の方がパース等の立
等は工事監理担当の監督員に依頼しながらも、図面の整
体的なスケッチに設計内容を起こして伝えている記事
合性の確認、色彩や材料等の仕上げの検討・決定、サイ
がありました。その非常に丁寧に描かれた図は、何を
ンの仕様の指示、一部製作図の確認、材料や納まりの決
作るのか、どのように部位が納まっているのかが極め
定等を行いました。30 戸未満の小規模集合住宅でした
てわかりやすく図解されていました。
が、受注者の努力もあり、丁寧な工事が行えました。皆
さんには既知のことと思われますが、その中で感じたス
私もそれを参考に図面の修正を指示する際にその内容
ケッチの効用について書きたいと思います。
を図面変更の情報を現場に流す際にスケッチを作成し、
私たちの職場は、文書資料がとても多く、図面以外の
添付するよう心掛けました。そのお蔭で現場からも理解
資料の殆どは、文章による意思伝達が大半を占めます。
しやすいと評価される一方で相互に理解した内容が異な
しかしながら、私は、学生生活を終え、最初に就職した
るときは、そのことを通して早期に認識の相違に気づき、
職場が設計事務所でした。入社時、CAD や描画ソフト
修正することができます。文章のみの書類では限界があ
が職場で導入されており、私たち当時の若手は、そのオ
ります。勿論、これは、設計を職務としている方には当
ペレーションを任されておりましたが、一方で手描きス
たり前のことかもしれません。
ケッチも実務を通して数多く描きました。巧いとは言え
スケッチを描くことは一見無駄作業に見えることもあ
ませんが、現場との意思疎通ではかなり役に立ちました。
るかもしれません。しかし、上記の効果により、誤りが
発生する頻度が減少したように感じま
す。これは、設計施工一括発注方式の設
計者への図面修正指示も可能です。
電子技術の発達でマウスとキーボード
で行う作業も増えましたが、実測調査な
ど身体を通して理解することはこれから
も重要であることには違いありません。
当たり前のことを長々書きました。読
者の皆様に感謝申し上げます。
1
PSATS Report Vol. 065 SUMMER
優良建築長寿命化への期待 - 4 次世代に伝えたい建物とはどんなものか,という趣旨で多くの方にご寄稿をお願いしてきましたが,観点が広がって
きました.建物の長寿命化の課題の一環として,単に耐震性の強化,老朽化対応のみならず,残すべき文化財としての
位置付けがあり,歴史の証左として残すべしという観点もある.一方,休閑建物を空間資源として復活させるという動
きもある.更に広い視野からの考え方をお寄せいただきたいと思います.(編集担当)
「次世代に伝えたい建物とその意味 - 富永邸 -」
に就職して カタログのなかに緑色の外壁が印象的な富永
私にとって次世代に伝えたい建物は、今
邸が写っているのを見て 懐かしさとともにこの建物が
まで関わってきた建物の中で表題にあげた
2× 4工法であることを知り運命的な出会いを感じまし
富永邸です。
た。その後 富永邸の耐久性調査を行う機会がありました。
父親の仕事の関係で社宅住まいが長く 調査は有馬先生(東京大学名誉教授)と中島先生(現宇都
はじめて自宅を持ったのは中学3年生の時
宮大学教授)と三井ホームの技術者で行い結果は報告書と
でした。
してまとめ発表しています。
設計は当時のゼネコンの若手建築士さん。施工は地元の
調査では工法の確認(プラットフォームかバルーンフ
工務店でした。設計図面と完成した建物は敷地の関係で少
レームか)と使用されている材料の劣化度調査で工法確認
し違ったものでしたが 工事中に大工さんの仕事がめずら
は残念ながら非破壊では確認できませんでした。ただ床下
しく よく現場に遊びに行きました。大工さんも大変良い
地材が板材の斜め張りであったことにより外壁も同様に板
方で階段親柱の固定方法や1枚のドアの取り付けに1日掛
材の斜め張りである可能性が強いと思われました。また外
かるだとか建て付け調整に兆番の裏に名刺をはさむだとか
壁仕上げ材はウエスタンレッドシダーのサイディングで竣
丁寧に教えてくれたことが今も記憶に残っています。嬉し
工当時より緑色のペンキ仕上げ。まったく劣化が見られま
かったことは自分の部屋をもてたことと内装のPタイルの
せんでした。むしろ床下のレンガ積みの束がぼろぼろに風
色と壁クロスを選ばせてくれたことです。こんな経験をし
化していたのに驚きました。この建物にはひとつの謎があ
て高校2年生ごろ そろそろ進路を決めるに当たって も
り小屋組みの棟札には上棟が大正10年8月1日と記され
やもやとした気持ちで隣町の芦屋を自転車でぶらついてい
ていますが家屋証明願は大正15年5月26日。富永様の
たところ芦屋文化村に迷い込むことになりました。その時
話によると関東大震災(大正12年9月1日)を知って先
の印象は、鮮明でまったく回りとは違う町並みに驚きを覚
代の富永さんが勤務地であったシアトルから材料と図面を
えました。もちろんその時はここが芦屋文化村であること
輸入して建てた との話があり建設時期は数年の違いです
は随分後になって知ることになります。その当時(1965
がはっきりしていません。現在(2008年)の富永邸の
年ころ)は中心となる菜園の周りに10数軒の洋館が取り
外観(写真-2)と昭和40年ころ私が写した写真を見比
囲み、まるで外国映画に出てくるような光景でした。たぶん
べてみてもほぼそのままの状態で住み続けられている家。
数回ここを訪れて写真をとった中に富永邸が写っていまし
この要因は愛着だと思います。持ち主が家に対して強い愛
た。
(写真-1)自宅建設と芦屋文化村との出会いが将来建
着をもっていれば、そして住まい続けられる社会的環境が
1965年 撮影 2
築を志す要因になりました。時は10数年過ぎ三井ホーム
河合 誠
2008年 撮影 整っていれば長寿命の家となるのです。阪神淡路大震災に
ります。更に南下して晴海通りとの交差点、北側に建ってい
も耐え抜いた美しい2× 4工法建築を次世代に伝えたい
る和光( 旧服部時計店本店)。これが私が次世代に残したい
ものだと思います。
建物です。設計者は渡辺仁。竣工は1932 年。日本橋からこ
こまで歩いてきて感ずるのは、近年建て替えられる建物は
総じて外装にガラスのカーテンウォールをまとっていま
「次世代に伝えたい建物とその意味」
す。通りの両側に建っている建物が全てガラスのカーテン
菊池 清
ウォールの街並みを想像すると街歩きが楽しくない、歩い
次世代に残したい建物に行きつくまで日
てもつまらないと思われます。この建物には壁がちゃんと
本橋から南方向(正確には南西方向)に、か
ある。つまらないようことですが、壁があって開口があると
つての東海道(現在の中央通り)
の街歩きに
いうのは普通の事のように思えるのですが今の時代必ずし
しばしお付き合い下さい。
日本橋から新橋ま
もそれが普通ではありません。設計者の渡辺仁は1937 年
での間の中央通り沿いには味のある建物が
に東京帝室博物館( 現東京国立博物館)、1938 年にお堀端に
結構存在しました。まず、日本橋の橋詰めには、小ぶりなが
第一生命館( 戦後GHQ の入った建物として印象に残ってい
ら辰野金吾設計のレンガ造りの大栄不動産の建物がありま
ます) と立て続けに話題となった建物を完成させており、こ
したが、何時の間にか、新しい味気のない建物に変わってい
の少し前の時期、設計者として油の乗った時期の作品です。
ました。先代の建物は「日本帝国製麻本社ビル」という物々
これら2 つの個性的な建物に埋もれて建築史的にはそれほ
しい名前のビルとして1912 年にこの地に誕生したもので
ど注目されているわけではありませんが、商業ビルとして
した。中央通りと永代通りの交差点脇には石本喜久治設計
80 年近くもその生命を保っている生命力に私は賛辞を惜
の白木屋百貨店がありましたが、私が物心ついた時には
しみません。御存知のように日本の建築物の寿命の短さは
オリジナルのものとはかなり印象の違うものとなっていま
世界的に見て突出しています。しかも、日本のトップの商
した。
(関東大震災で罹災した後、石本喜久治設計で建てら
業地の真中にあってオリジナルのネオ・ルネッサンス様
れたものは「表現派とインターナショナルスタイルに挟ま
式のかたちのまま存在しているということは奇跡とさえ
(*1)
私が覚え
れた日本のアール・デコ的作品となっている」
言ってよいのではないでしょうか。銀座の景色と言えば、4
ているのは1957 年に坂倉準三が改築設計をしてもので
丁目の交差点越しに見る和光の時計台。これが定番の景色
スラブの水平線の間の階を縦のライン分割したもので壁を
です。
「1988 年には日本建築士連合会が「地域のシンボル
意識したファサードでした。現在はコレド日本橋という
となっている昭和の名建築」という基準のもとに選定した
曲面ガラスのファサードが印象的な高層ビルとなってい
各都道府県のランドマークに東京都のシンボルとして和光
ます。
の時計塔が選ばれました」
ここから、少し南に下ると、高島屋百貨店(1933 年 高橋
この敷地の歴史「この建物が建つ前にはカペレッチ( *3)
貞太郎設計)、さらに南に2 ブロック下るとDIC ビル。海老原
の弟子を自称した異端の建築家伊藤( *4) による擬洋風の初
一郎設計1968 年竣工。
日本最初の高層建築といわれた若干
代は、大正10 年炎上し、銀座っ子に親しまれた楽しい姿を
青みがかったグレーの柱と梁のグリッドで印象的な外観の
消し、
2 代は逆に、
いささか重苦しさの気味を否定しえない。
(*2)
という記述も見えます。
設計者の知
渡辺仁が、折衷主義の行き詰まりの重苦しさの中を生きて
性を感じさせ
(*5)
伊藤が建てた建物は1894 年竣工。
いたためであろうか」
る端正な建物
平面的には角を切った2 階建ての建築に大きなクーポラを
で し た が、今
乗せた塔屋、
その上に時計塔+ 屋根さらにその上に4 本柱に
年ガラスをま
支えられたクーポラ、屋根に相当なエネルギーを注いだ建
とったこれと
物でありました。
この時から時計塔はついていました。
いった特色の
このような歴史を経て今の敷地に建つ和光のビルは東京
ないビルに建
のいや日本の商業ビルの中にも、長い時間にわたって多く
て替えられて
の人に愛されて存在し続けるものがあるという、稀有な存
しまいまし
在として、何時までも残って欲しい建築物です。
た。
*1、*5「日本近代建築史再考」1974(新建築社)
早足で中
*2 銀座タウン情報サイト
央通りを南
*3 明治初期招聘されたお雇い外国人。イタリア人。
に 下 っ て、京
靖国神社遊就館や参謀本部などを設計
橋を過ぎる
*4 伊藤為吉
と銀座に入
3
PSATS Report Vol. 065 SUMMER
「西の原爆ドーム・東の変電所
変電所の近くに同様な弾痕が残る給水塔があったが残念な
(東大和・戦災変電所を保存する会)の活動」
保存する会 会員:小須田 廣利
ことに老朽化により2001 年に取り壊された。
変電所が1995 年に東大和市の史跡に指定されるまで、
東京都心から約30km 西に、
人口8 万6 千人
主婦を中心にした一般市民と、工場の元従業員並びに東
の東大和市があり、
1995 年に市の史跡に指定
大和市の地道な保存活動が有った。現在は東大和市が保存・
されている戦災建造物が有る。
この戦災建造
管理を行っている。しかし後世に永久的保存するためには
物 は1938 年 か ら1993 年 迄 使 用 さ れ て
多くの保存費用が必要となるが、その保存手法を検討し
いた変 電 所 で、航 空 機 の エ ン ジ ン を 生 産
実行しなければならない。
する軍事工場の変電施設として1938 年に作られた。三多摩
この変電所保存に関しては、東大和市との連携は基より
へのこの軍需工場の進出は、大森・川崎・などの京浜地区が
広島の原爆ドームの保存手法を見習い、適切な連携により
軍需産業の発展で工場が飽和状態になり、三多摩の現在の
指導を受けることが賢明と考えている。
東大和市などにも建設された。この工場は旧日立航空機
広島市のホームページによると、保存費用の多くは寄付
立川工場として操業を開始した。
戦局の激化に伴い昭和20 年
金でまかなわれていることから、市民並びに世界の平和を
2 月17 日に、F6 Fヘルキャット戦闘機50 機、4 月19 日に
願う意識の高さが伺われる。寄付金に関しては、1967 年の
P-51 ムスタング戦闘機による機銃掃射、
4 月24 日には
第一回目の保存工事時点で寄付金は¥6 千600 万、
1989 年
B-29 の100 機に及ぶ編隊による空襲があり工場は壊滅
の第二回目には¥3 億9000 万の寄付があり、2002 年の
状況になる。同時に工場地域への銃撃、爆撃で110 名に及ぶ
第三回目の保存費用にも活用されている。
尊い命を失い、多くの負傷者を出した。
原爆ドームの保存活動を詳細に見ると、
まず「原爆ドーム
この変電所は銃撃の弾痕を残しながらも1993 年まで
保存事業基金条例」があり、条例の内容は設置の目的・積立
現役として機能していた。軍需工場の関連施設として、この
て・管理・処分・運用益金の処理・繰越運用・委任規定で構
成されている。
また寄付制度が確
立していること。
保存技術指導委
員会が設けられていること。
ほぼ
3 年に一度のドーム健全度調査
が定期的に実施され、
堅実で実行
力のある保存が積極的に行われ
ていることが理解できる。
世界遺産に登録された「西の
原爆ドーム」と、東大和市の史跡
変電所の全景(H27 年3 月)
原爆ドームの全景(H27 年3 月)
に指定されている「東の変電所」
は戦災建造物として永久に保存
し、国内のみならず全世界に向
けて、世界恒久平和のシンボル
として連携しながら訴えていく
必要が有る。
また国内の無名な戦災建造物
が多く埋もれていると考える
と、その貴重な建造物にも目を
変電所の壁面(H27 年3 月)
原爆ドームの壁面(H27 年3 月)
向けて大きな力にしていくこと
も必要であろう。
こ の 保 存 の 活 動 は、未 来 を
託す多くの子供たちにも知らせ
る必要が有る。例えば変電所の
見学会を、または小学校に出向
き戦争の悲惨さを伝える必要も
有る。いずれにしても平和のシ
ンボルである貴重な史跡を埋も
変電所の弾痕詳細(H27 年3 月)
4
原爆ドームの壁面(H27 年3 月)
らせて置くわけにはいかない。
で、管内面の耐食性は向上した。
「建築設備配管の未来は
- 使われなくなった給排水設備技術 -」
吉田 一空
亜鉛メッキ鋼管も塩化ビニールライニング鋼管も切断
面とネジ余り部では、鉄部が露出してしまうので防食の
1.鉛
ためにシール材のヘルメチックを塗布していたが、あま
私が設備関連の業界に携わった当時は、
り効果はなかったようです。
その後管口打ち込む管端コア
排水管と衛生陶器の接続や給水管と量水器
が開発されて耐食性は向上した。
との接続等には鉛管が使用されていた。
設備工事は、
英語ではプランビングと云い、
4.可鍛鋳鉄継手
鉛管工事を意味していて、鉛を溶かし板状に加工したもの
配管用の継手には給水用と排水用があり、ネジ部の形状
を筒状にして配管材として使用していた。
が異なっている。
この技術は今では配管としては使用されてはいないが、
パイプオルガンのパイプ部に現在も使用されている。
給水用の鉛管は、水道メーター周りの接続に広く使われ
てきたが、水道関連の行政から鉛害の恐れが有るとのこと
で使用禁止や取替の行政指導を受けるようになった。
排水用の鉛管は、
鋳鉄の排水管と衛生陶器等の接続に使用
されていたが、
法律の改正で耐火材と認められなくなりこれ
も使用できなくなってしまった。
ドレネージ(drainage・排水用)継手と呼ばれている。
排水に含まれる、固形物や糸くず等が管端部に付着しに
2.麻
くいように、管の内径と継手に内径を合わせて、段差が出
鋼管を切断して、ネジ切り機でネジを加工してネジ込み
来ない構造となっている。
式可鍛鋳鉄継手に接続します。
継手部の防錆は、亜鉛メッキから樹脂コーティングへと
給水管用のネジはテーパーネジと云ってネジ山に角度
変わって行ったがあまり効果は無かった。
( テーパー) が付いていて、ネジ込む程に強く締まるように
鉄管と継手は最終的には、塩ビで完全に被覆する事で腐
なっているが、水を完全に止めることはでないので、そこ
食に関する問題を解決した。
で麻( ジュート) がシール材として使用されていた。
内外面ライニング継手( コーティングテープ使用)
シール材は 麻⇒ヘルメチック⇒シールテープ
排水用鋳鉄管は、ヤーン(麻の繊維をひも状にしたもの)
と鉛を使用していた、鋳鉄管の受け口にヤーンを鑿で打ち
込みバナーで溶かした鉛を流し込み接続していたがその
後ゴムパッキンをジョイント部に使用する様になった。
接続方法は ヤーン+鉛⇒ゴムパッキンの差し込み継手
配管は鉄との戦いでは上記の様に最終的に問題を解決
したが、これらの技術は現在の集合住宅の新築には使われ
ていない。
給水管と給湯管には、ほぼ100%樹脂管が使われてい
3.鉄管
る、排水管は継手部を改良した鋳鉄管と防火区画を特殊
集合住宅の設備配管には長年鉄が使用されてきたが、鉄
テープで処理した樹脂管が主流を占めている。
と水とは相性が悪いため配管材は錆への対応が重要課題
この様に設備配管は、腐食・防災・耐久性等に当時の最
だった。
新の技術で対応してきたがこれらの技術は継承されるも
①亜鉛メッキ鋼管
のではなくて時代に合わせて進化して行くものだとおも
鋼管に亜鉛をメッキした物で、給水管と排水管ではメッ
われる。
キの膜圧が違っていた。
②塩化ビニールライニング鋼管
鋼管の内部を塩化ビニールの管でライニングしたもの
5
PSATS Report Vol. 065 SUMMER
「伝統木造建築についての二つの討論会 傍聴記」
最近,
関心が高まりつつある伝統木構造に関する興味深い二つの公開討論会があった.一つは 2 月 25 日,
A-forum 主催の「伝
統木構造を生かす道」でコーディネータ:神田順東京大学名誉教授,日本大学特任教授)パネリスト:北茂紀氏(北茂紀建築
構造事務所)
,玉腰徹氏(司構造計画)
.他方は 2 月 28 日,
「これからの木造住宅を考える連絡会」主催による,
「討論:坂本
功 vs 渡邊一正 伝統木造構法を考える ―現代の構造解析技術で伝統木造建築技術は何処まで理解出来たのか」である.それ
ぞれ現在,伝統木造建築の直面している課題について具体的な問題の抽出があり,有意義な討論会であった.神田先生,坂本
先生ともに当会の指導的会員でよく知られていますが,渡辺一正博士は元建設省建築研究所研究部長で現在,市民文化財ネッ
トワーク鳥取理事長の要職に在り,坂本先生とは旧く学友であると共に両先生共は長く木造建築分野の各種の団体の要職にあ
ると紹介された.若干異なる立場からのお話に啓蒙されることが多かった.以下はそれぞれの傍聴記である.( 編集担当)
A -FORUM 第6回フォーラム
「伝統木構造を生かす道」に参加して
■伝統木造構法建築と伝統文化
伝統芸能とか伝統工芸など色々な祭礼にまつわる伝統行
神田 順先生のコーディネートで首題のフォーラムが2 月
事など、まとめて伝統文化というジャンルがある。これらの
に開かれた。
サーツでは安部、
菅澤の両氏と小生が参加した。
伝統文化の現代における表現方法は必ずしも古法どおりで
神田先生の開催主旨は、
さまざまな木造建物が新しい展開
はない。いやむしろ近代化・現代化された文明の利器を
を始めている今日、
ややもすると見通しが見えにくくなって
通して具現されている。例えば古典歌舞伎の世界でも、もは
いる伝統木構造の、
今後の展開とその技術などを生かす道を
や百目ローソクのもとで手回しの回り舞台で演じるのでな
議論しようではないかというもの。
く、今やコンピューター制御のLED 照明のもと電動の舞台
パネラーの現況報告や参加者の意見など様々であったが、
で繰り広げられている。また各地の陶土を取り寄せ、電気釜
実際の推進者の立場から、
伝統木構造を実施するための職人
で陶芸作品を創るなど、一部に例外がない訳ではないが、
や材料不足・コスト高・発注者の理解不足などが語られた。
さまざまな場面で具現化の手段として、文明利器を用いる
総じて伝統木構造とは何か、住宅への導入はどの技術を
ことで伝統的な様式美表現が成り立っている。
どこまで。
など、
小生には釈然としないものが残った。
一方、伝統的木造建造物においても、その生産手段は
後日、このフォーラムへの小生の意見がA-Forum のホー
時代々々に応じて、さまざまな造られ方が講じられて来た
ムページに掲載されたが、下記はその概要である。この
筈であり、またそうであって当然と考えられる。
フォーラムの詳細はA-Forum のホームページをご覧下さい。
したがって伝統木造構法の建築とは、でき上がった姿・
http://www.a-forum.info/
形の様式美・構成美を指すのか、或いは古代からの伝統的
手段での造られ方をさすのか、或いはその両方でなければ
伝統木造構法について考える
ならないのか・・・・・・・・・・・・・。
■伝統木造の基本的考え
■伝統木造構法と在来構法住宅
一般に我が国において伝統木造といえば、寺社建築など
以上の三点を考えた場合、寺社建築などの伝統的建木造
の重要文化財建築を思い浮かべる。一方住まいに限ってみ
築物の保存や復元・修復に当たっては、様式・生産手段共に
れば、江戸時代からの古民家や伝統的建造物保存地区など
正真正銘の伝統構法でなければならない。
しかし住まい造り
に見られる街道筋の古い商家などに思い当たる。
の場合は、ツーバイフォーでもプレハブでもない在来的な
これに対してここ100 年来、ごく一般の民家はこれらと
日本的住宅を求める一般庶民の立場にしてみれば、
リーズナ
また違った造りとなっている。
つまり歴史的かつ伝統的木造
ブルなコストで建設できれば有り難いと思っているはず。
の前者の建物と違い、かすがいの他にさまざまな金物を使
伝統木造構法を住宅を取り入れると云うことになると、
い始め、経済的な材料取りの軸組構法で造られてきた。主と
伝統木造構法のどの部分をどのように取り入れるのかに
して大正・昭和に造られてきた一般的な住宅がこれにあた
ついては設計者各人各様であるように思える。
る。これらは1960 年代以降に出現したプレハブ住宅やツー
要するに、一部の好事家が古式の構法で造る伝統木構造
バーフォー住宅などに対して、我が国古来の在来木造構法
住宅は別として、現代化された在来木造構法を、たとえ
建築群として位置づけられている。
ば「 新 在 来 木 造 構 法 」又 は「Modernized Native Housing
この在来木造構法建築群の中に、
ひとつは文化財などの伝統
System(MN ハウジング システム)」などと呼び代えて、一
的木造構法建築であり、
もうひとつは軸組の接合方法などを合理
般のイメージを確かなものにした方がよいのではないかと
化・簡略化し発展してきた軸組木造構法で、
近代化した在来木造
提唱する次第である。
(太田 統士)
構法又は単に在来木造と呼んでいることは周知のとおりである。
6
(11 ぺーじへつづく)
「盧生邯鄲の夢」
中村 孝
昭和47年の10月、大学の研究室で国産カラマツ材
様に思い出します。昭和52年の段階で、住宅の性能を
を使用した「充腹梁(ボックスビーム)」の実験と卒業論
重視したペアガラスや設備・電気の集中配管等先進的な
文の纏めに没頭していました。当時は、戦後すぐに植え
発想は、以後我々の「企画型住宅」開発の指標となった
られたカラマツや杉材の利用が進まず、その利用につい
と考えられます。
て某木質プレファブメーカーの委託研究だったと記憶し
ています。
そんな中、担当教授から木質構造材に関して住宅会社の
社員の募集があるがと受検の勧めがあった、これが、正に
「邯鄲の夢」の始まりとなりました。
当時は、
「日本列島改造論」がもてはやされ又「パイロット
ハウス設計競技」の実施で「住宅の産業化」
・
「工業化住宅」
に対する熱気が業界に溢れていました。
入社した西武不動産㈱でも分譲地の大規模造成が進み、
建売戸建住宅の供給棟数が拡大する中、木造軸組工法だけ
では、建築生産能力が不足しプレファブ住宅メーカーへ建
設発注が行われ、木造軸組工法に代わる生産性の高い工法
開発が求められていました。
入社後すぐに、新工法開発室なる組織に所属して建売住
宅を対象とした工法開発の業務に携わりました。調査・研究
の過程で当時の住宅金融公庫の発行誌の中に、水谷達郎氏
の欧米の木造工法に関するレポートを見つけ、若年の怖い
もの知らずの勢いで直接氏に木造建築工法の合理化につい
ての意見を拝聴に出かけました。その折、水谷氏より大野
勝彦氏と青山正昂氏の紹介をうけ両氏との知己を得ること
が出来ました、当時セキスイハイムの開発を行い、「部品
化住宅論-現代民家論」を唱えられていた大野氏からは、
2)「女の時代」と企画型住宅の商品化
オイルショックまで、住宅業界では「人が主と書いて
住まいと読む」と言ったコピーに代表される様に、住宅
購入の決定者は男性であったが、この時代以降某デパー
トの宣伝コピーにある「女の時代」の通り、主婦の意見
が決定力を増して行った。前述のO型も住宅の性能や機
能性等は先進的であったものの、デザインにおいて女性
の好みを反映する面では、不十分であったと思われ、各
住宅メーカーは競って「女性に好まれるデザインの企画
型住宅」を追求する様になり、三井ホーム㈱の「洋風デザ
イン」が一世を風靡しました。
3)輸入住宅とバブル経済
昭和60年のプラザ合意による「円高」で、海外特に
北米の建築資材の輸入価格の低減化が進み、海外旅行を
経験した女性層の支持を背景に住宅そのものを輸入する
試みが行われるようになり、輸入住宅村の建設や3階建
て共同住宅建設のパイロットプロジェクトとしてスー
パーハウスの建設が行われた。この時代以降、日本の
住宅は完全に洋風化したと考えられます。
4)バブル崩壊と大震災後のデザイナーズ住宅
工業化住宅に対する多くの知見を得ました。
平成3年に発生したバブル経済の崩壊と平成7年の阪神
又青山正昴氏との出会いで、当時建設省が推進していた
大震災、平成9年の山一証券の倒産を受け新築住宅の
「小規模住宅の新施工法開発 プロジェクト」による北米のツー
着工棟数は大きく変動した、すでにこの時期住宅需要は
バイフォー工法導入計画の存在を知り同氏と水谷氏の協力
棟数的には充足して、「量から質へ」の転換が求められ
を得て、昭和49年の「枠組壁工法技術基準告示」施行と
る時代に入った。郊外の大規模分譲地開発も既に終焉を
同時に建売分譲住宅への導入を行い、さらに同工法による
迎え、企業の資産処分の動きを背景に都市部ではより利便
大型タウンハウスを建設しました。
性の高い地域での「都市型小規模分譲住宅」が主流となっ
それ以来、41年に渡る住宅産業との関わりを添付の年
て行きました、この状況の中、多くの既存の住宅会社が
代表に纏めてみましたが、正に住宅産業の激しい変革の歴
撤退し、地域毎にパワービルダーと呼ばれる中規模の住
史が見て取れます。
宅会社が台頭しました。又バブル時代を経て、住宅の関
1)オイルショックとO型の衝撃
連建材は昭和50年代から開発された「部品化」が種類・
品質共充実し、図面のCAD化も設計事務所への普及が
昭和48年に起きた、第一次オイルショックでは、200 万
進んだ、これを背景に、従来の住宅メーカーと一線を
戸に迫まるまで増加した住宅新築着工戸数は建築資材の
画した「デザイナーズ住宅」と呼ばれる個別性を重視
不足と高騰により、一気に120万戸台まで落ち込んだ。
した住宅が現れました住宅の性能面でも、省エネルギー
住宅需要の低迷する中、グッドリビングショーに展示さ
や耐震化を前提に「住宅の性能表示化」が進み消費者
れたミサワホームのO型には衝撃を受けたことを昨日の
保護の考え方が定着しました。(10 ぺーじへつづく)
7
PSATS Report Vol. 065 SUMMER
8
9
PSATS Report Vol. 065 SUMMER
(7 ぺーじからつづく)
の時代30年から40年を掛けて確立してきた「部品化
5)リーマンショックと東日本大震災
住宅」を支える多品目の建材の生産システムを維持出来
山一証券ショック後のデフレ経済の中、「少子高齢化」
るのか、という重い課題が提示されている。又、現場生産
への社会的変化を背景に、 住宅生産の産業化を支え
に於いても大工職を中心とした技能工の不足は解消され
てきた建材メーカーの再編成や撤退が進む中、リーマン
ていない。今後の住宅業界ではおそらく、リフォームや
ショックによる新築着工棟数の激減はその動きを加速さ
多用途住宅(二世帯住宅・店舗併用住宅・アパート併用
せました。その中で発生した東日本大震災は、仮設住宅
住宅等)の需要を創出しつつ、生産システムの維持を図っ
建設や復興事業において現在の住宅の生産システムの
「建築労働者の老齢化と熟練者の不足」
・
「建材生産の短期
需要への対応力低下」等の問題点も明確にしました。
6)住宅大量生産時代の終焉と今後の住宅産業
ていく必要があると考えられます。
あとがき
今、私の机の上には国産の杉材のツーバイフォー材のサン
プルが置かれています、材料の木目は、学生時代研究室で
昭和40年代から50年代、住宅の産業化は「工業化住
手に取っていた杉材と同じ源平の肌合いが美しい又、現在
宅化」・「部品化住宅」等をキーワードに住宅メーカーや
ツーバイフォーの合理化を目的に製材の「充腹梁・重ね
建材メーカーを中心にシステム化や技術開発が行われ、
梁」の検討を行っている、住宅業界に身を置いて40数
当初目標とされた要素は現実化されたと考えられます、
年の時間を超えて又学生時代のテーマに辿り着くとは正
しかしその前提は年間の新築住宅着工棟数が100から
に「盧生邯鄲の夢」の如くであろう。
150万戸という 「大量の住宅生産」と「職人の不足」
「邯鄲の夢より覚めて、振り向けば、テールライトに路光り」
を背景に開発された生産システムであり新築住宅着工棟数
たかし
が今後100万戸以下で推移すると考えられるこれから
小著「建設業の安全衛生法令用語検索エンジン」について・・・笠原 秀樹
建設現場で日常的に用いる「安
理に日常的に使う用語から安衛法令を引き出し、約 500
全ネット」や「命綱」など、労働
語の用語の解説とその関連条文、公示、告示、通達等を
安全衛生法(安衛法)及びその関
集め、マニュアルとしての機能も付した。このような安
連法令の用語で、その法的根拠を
全衛生法令用語集は他に類がないと思う。
知りたいときがある。従来の用語
小著が建設業の労働安全衛生に係る方々に広く活用さ
辞典等は用語の意味は分かるが、
れ、安衛法令の正しい理解を深め、災害防止に役立つこ
適用条文と多くの関連通達等は分
とを願っている。
からない。
特 色 : 用語は「解釈」
「関連法令」と「関連用語」で解く。
安衛法は、全ての業種、業務と
建設業に係る安全衛生法令の用語から安衛法令の条文が
そこから生ずる多様な労働災害を対象として、それを一
分かる ( 逆引き検索)。
つの入れ物に詰め込んだので、建設業には無関係な条文
用語が正確に分からないとき、「関連用語」から探すこと
が多数あり、複雑で非常にわかりにくい。また、安衛法
ができる ( 逆引き検索)。
は一定の要件だけを規定し、具体的要件は施行令、施行
用語の「解釈」には、可能な限り法令条文又は告示、公示、
規則等の関係法令に譲っている。外にも多数の公示、告示、
通達等を記載した。
通達等が複雑に入り組み、更に多くの法改正等が加わり、
安衛法令 ( 労働安全衛生法及びその政令、省令及び関連法)
一つの用語に複雑に絡み合っている。
に使用していない用語や慣 用語等も取り入れた。
本用語集は、この絡み合いを解くこと、及び著者の私
多岐にわたるもの分かりづらいものは、表にまとめた。
的な必要性から、長年に渡り少しずつまとめたもので、
■ 建設業の安全衛生法令用語検索エンジン 笠原秀樹 著
幸にも出版社の御理解と多大な御支援・御指導を頂き、
■ 発 行 日刊建設通信新聞社出版部発行
日の目を見ることができた。
■ A4版 336 頁
かつて先輩から「安衛法令は現場安全管理の技術マニュ
■ 定 価 ¥3,000(税別)
アルだ」という名言を聞いた。そこで、建設業で安全管
10
(6 ぺーじからつづく)
現在の建築基準法を基にした伝統建築の保存修復に腕を振
るわれている坂本先生への厳しい質問と討論が行われた.
坂本功先生,渡辺一正先生対談
論点の一つとして,
基準法の規制する「土台は基礎に緊結
「現代の構造解析技術で伝統木造建築技術を何処まで
しなければならない」をどう考えるかと例示された.分かり
理解出来たのか」傍聴記
易い実例として,厳島神社の海中の鳥居は砂地の上にただ
この団体の勉強会は第20 回を数えるという.それぞれ
立っているだけであるし,多くの寺院は礎石の上に自立し
長い名称,タイトルで,課題の大きさと積年の検討,参加団
ている.そう言われると,嘗ては玉石地形というのもあっ
体の広がりを知った.当日配布された資料に両先生の講義
た.しかし,現実には地震の揺れにより,柱が礎石を外れて
録が詳細にまとめられており,終了後,繰り返し再読して
倒壊した寺院の例も坂本先生より示されている.建築基準
両先生の研究の成果,視座の相違がよく分かった.
法というのは新築案件に対して定められたものであるか
坂本先生のお話はまず,基調講演として伝統架構の歴史
ら,既存の伝統建築に関しては「不適合」や基準法との不
的由来を含め,構造力学的評価から説き起こされた.経年
整合が発生するのはやむを得ない事であろう.単純に言う
変化による歪みや大地震による倒壊の例とその原因を
と伝統構法は基本的に木組み構造であり,揺れに対しては
例示,更に,法隆寺や東大寺大仏殿の軒の垂れさがりが不調
部材が組み合ったまま,動きながら平衡を保とうとするの
法な支柱で補強された例,明治になって欧米より輸入され
に対し,現代建築は全体を固い一体構造として横力に耐え
た鋼材によるトラス補強が導入された例を説明された.
ようとするもので,同一の論理,それに基づく法で括るのは
伝統構法は不完全な構法であるが,存続できたのは信仰や,
難しいと思われる.私自身は構造力学は専門外のこともあ
文化財を残そうという熱意による補強修正によるもので
り,感覚的な捉え方に偏っているだろうが,閉会後の感想と
あるという解説が記憶に残った.
して,改めて伝統建築技法と現代建築技術を総括する視野
一方,質問者の立場に立たれた渡辺先生は,現在各地で計
の論理が必要なのかもしれないと思った.同時に,確か昭和
画されて補強改修工事が,
「構造家が関与するとなぜ,ガチ
30 年代後半頃に盛んであった「伝統とはなにか」という
ガチの構造になるのか」という言葉に集約されるように,
論争を思い出したことだった.
(伊藤 誠三)
伝統建築の幅広い考察から発せられる問題提起がなされ,
「新宿東宝ビル新築工事 竣工直前作業所見学会記」
久しぶりの新宿歌舞伎町訪問である。
竣工直前3 月2 日
(月)
構造担当の岡村さんからは、
高強度コンクリートを用いた
の見学会となった。
旧コマ劇場前の公園にある作業所事務所
CFT 柱の採用、
オイルダンパー、
粘性体制振壁を採用した制震
の前に、
和田先生はじめ11 名の参加者は集合した。
構造、
ホテルの風揺れ対策としてのAMD 設置、
さらに場所打
見学をお願いした竹中工務店設計部構造担当の岡村祥子
ち杭と耐圧版によるパイルド・ラフト基礎の説明があった。
さん(東大神田順研究室出身)と作業所の方々に出迎えて
質疑では、
高層ホテル階から平面的に広がるシネコン階へ
いただき、
早速、
作業所会議室での説明会となった。
の地震時応力伝達について等等活発なやり取りがあった。
2011.3.11 東日本大震災のころにコマ劇場は解体され、
説明会の後は、
見学となった。
先ず高層ホテル階に上がり、
翌2012.7 に着工し2015.3 竣工であり、この間、東日本復興
下りながらゴジラヘッドの部屋の階から設置されたゴジラ
の歩みがどれだけ進んでいるかと思いはつながる。
の横顔を眺め、シネコン階に下り12 スクリーンの説明を聞
階数・規模 地下1 階、
地上30 階、
PH2 階 高さ130.25m
き、
素晴らしいシートでシネマ鑑賞することを期待した。
延床面積54,735 ㎡ 2 階のアミューズメントは素晴らしい高級パチンコ店が
構造 S 造、
一部SRC 造 今や遅しとお客さんを待っているようであった。
1 階店舗は
用途 1 階:店舗・2 階:アミューズメント・
やがて新宿のにぎわい復活に貢献することが目に見えるよ
3 ~7 階シネコン・8 ~30 階:ホテル
うであった。対応していただいた竹中工務店の方々に感謝
作業所の方から、工事概要の説明があり、
DHC( 地域冷暖
し、
若者や家族ずれが集う健全な新宿の復活を期待し開散と
房) のための歌舞伎町熱供給洞道(58m+65m) 築造の汚泥圧
なった。
この後、
数人は恒例の喉をうるおす反省会を行った。
式推進工法には興味があった。
(安部重孝)
11
PSATS Report Vol. 065 SUMMER
<大型木質構造建築設計> Webセミナー2014終了
大型木質構造建築を支える設計者・技術者の育成を目指
(1)勤務先業種
しスタートした講座、
「大型木質建築設計Webセミナー」の
設計事務所
建設会社・
資材製造・流通
その他
86 名
住宅メーカー
41 名
27 名
12 名
4年目のプログラムが3月末をもって終了しました。
(2)職種
1.事業の背景と目的
設計
102 名
昭和34 年日本建築学会における「建築防災に関する決議」
(いわゆる「木造禁止決議」以後、新たな中大型木質構造建築
設計
102 名
度制定の、いわゆる「公共建築物等木造利用促進に関する法
に大きく舵が切られている。しかしながら半世紀に亘るブラ
ンクは当然、これを担うべき技術者不足を招いており、この
ことを少しでも解消するため「本講座」
を開始した。
本事業は木質構造建築に関心があり、学習意欲も高いが、
主として時間的制約からその意欲を満たせない設計者を対
象に、
Web という手段を活用することにより、<いつでも・
どこでも・何度でも>をスローガンに、受講者から時間的・
地域的制約を排除した手段を採用した。
2.過去3 年のプログラム
昨年度までのプログラムは下記の通りであるが、次の2 点
を主眼に企画・実施した。
◆海外事情・最新情報を含め、
「木造でここまでできる」とい
う事を示し、受講者の木質構造建築設計への挑戦意欲を高め
てもらう。
◆設計上、性能確保が欠かせない、構造・防耐火・耐久性など
に係わる法令および技術的な基本事項、ならびに木質建材の
生産・流通事情の解説を行った。
3.今年度のプログラム
下記の通りだが、
次の3点を主眼とした。
◆大型木質建築の具体的な実例解説
◆構造設計者による、種々の木質構造計画のポイント解説と
意匠設計者との関わり方
◆新しく登場した木質材料、CLTの基本事項の解説、なら
びに実例・課題解説
テーマ
1)設計実例解説―①「銀座に建つ 5 階建2x4建築物」
2)設計実例解説―②「都市木造の実践」
3)実例で語る構造計画のポイント
4)意匠設計者と構造設計者との効率的な仕事の進め方
5)CLTの概要
その他技術
56 名
(3)活動地域
物はほとんど姿を消したが、半世紀経過した今日、平成22 年
律」が制定され国や地方自治体による公共建築物等の木造化
施工
8名
施工
8名
受講者のプロフィールは、ほぼ狙い通りであった。
設計者が主体だが、新素材CLTの解説を充実したので、
資材関係会社の技術者も増加した。さらに本講座の狙いであ
る、講習を受けるチャンスの少ない、首都圏以外の技術者の
聴講も半数以上占めた。質問や問い合わせの頻度・内容から
すると、首都圏以外の
聴講者の熱意は数字以上に強いと感じられた。
◆最後に、<アンケート>を実施した。概ね、良好な評価で
あったが、自由記述では興味深く、今後の参考とできる意見
が多く得られた。一部を記載すると
・大断面集成材の実例がもっと見たい。
・CLT建築の実例を詳しく見たい。
・大断面木造を構造部位(床・壁・小屋)ごとに、パターン
整理して解説してほしい。
・CLTについては、強いリーダーシップを持った人から、
「今後こうなるのではないか」という話を(仮説でも良い
ので)聞きたい。
等の要望がありあり、更には企画の手法に関する提案まで頂
いた。
◆今後に向けて
今季の事業は概ね予定通りの成果を得られたと考えるが、
これを継続していけば、木質構造建築設計者が順調に育つわ
けでもない。したがって今期以降は、更に以下の点を考慮し
ながら充実させ、継続していくことを検討している。
①講座内容の充実
②受講者とのコミュニケーションの充実、併せて、
(遠隔地聴
講者を含め)コミュニケーション手段の検討
③木質構造建築設計者を中心とした、地域における<大型木
質建築推進グループ>の設立支援。併せ、モデルケースとし
て他の地域における参考となるよう活動支援・紹介
6)CLT国内外の現状と今後の課題
④各所で企画・実施されているセミナー、グループ活動との
7)CLT法基準の整備状況と今後の課題
連携
(小藤捷吾)
4.実施結果と今後
◆参加受講者は約170 名で、そのプロフィールは以下の通り
であった。
12
「木造住宅は高耐震を標準に」・・・神谷 文夫
私の「高耐震」の定義は基準法の 2 倍以
な耐力壁の大臣認定を数多く取得してきた。これらの耐力壁
上の耐震性能である。言うまでもなく、基準
を使えば、間取りを変えなくても、耐震強度をおよそ 2 倍に
法は民間行為にお上が課した最低基準である
することができる。24mm の合板を張った耐力壁は、認定倍
が、建築ビジネスの世界では、
そのようになっ
率は上限の 5 であるが、実力は仕様により 5.9 ~ 7 である。
ていない。品確法が基準の 1.25 倍、1.5 倍
当初、なかなか使ってもらえなかったので、手段と目的を
で止まっているのは、簡単に強くできる木造住宅に限れば
取り替えて別荘を建てた。外壁だけで基準法の 2 倍、間仕切
全く物足りない。
り耐力壁を入れて基準法の 4 倍である。紙面がないので紹介
兵庫県南部地震とその後の振動台実験で得られた主要な
できないが、ラーメンですかと聞かれるほど壁が少ない間取
知見は、①基準通りの強度があれば、神戸 JMA でもぎり
りである。かかり増し費用は約 20 万円(合板と金物代の
ぎり倒壊しない、②当時の新しい住宅が激震地域にあって
差額)
。システムキッチンのワンランクアップの価格である。
も被害が軽微であった理由は、非構造部分が構造部分以上
JMA 神戸で倒壊しないからと言っても安心できない。JMA
の耐力を付与していること、であった。
神戸近辺が最大の激震地域ではないし、川の近くや崖地では
非構造部分の寄与は、石膏ボード直貼りによる壁が主で、
地震力は拡大される。耐震はもう分かった、今の住宅は十分
実験では倍率 1 程度の実力がある。これが外壁の室内側と
な耐震性がある、と考えるのはどんなものか。地震のたびに
間仕切り壁の両面に張られているから、標準的な間取りであ
認識を変えるのがむしろ科学的であろう。田辺平学があらゆ
れば、例え壁量がゼロでも耐震等級 3 以上の実力を持つ理屈
るところに「なるべく」と書いたことを忘れてはならない。
である。それでも、壁の開口付近では亀裂が発生するし、外見
たった 20 万円。これを高いとみるか安いとみるかは、
上は被害軽微であっても、ローンに加えて多額の修理代を払う
施主が判断すればよいが、施主に対して提示さえされていな
ことになる。非構造部分の寄与は、下地の留め方、意匠や
いのが現状である。住宅業界では「1 万円でも安く」がビジ
間取りの流行とともに変わるのであてにするべきではない。
ネスの世界。容易でないのは確かであるが、いったん標準を
日本合板工業組合連合会では、倍率が高くて仕様が豊富
上げれば各社がなびく。高耐震が標準になればいいのだが。
・・・原 康之
「自転車とナポレオン」
5月は花粉症の季節が終わり、心地よい風を感じて走る自
た行動とは何だったでしょうか。ナポレオンは地面に突き刺
転車乗りにとっては格好の月になります。私は40代になっ
してあった軍旗を引抜いて橋を渡って突進していったので
たころから太りすぎ防止のため運動を始めようと考え、半ば
す。最高司令官が突進していった訳ですから将官たちが続き、
勢いでロードバイクに乗り始めて5年目になります。自転車
そして兵も突撃していったのです。ナポレオンはなぜ敵に向
が趣味になると、この世界で最高峰のレース、ツールドフラ
かって突っ込んでいったのでしょうか。彼は将来皇帝になる
ンスも気になるようになり、毎年ケーブルテレビで観戦する
ためではなく、単に目前の戦いに勝利するためにそのような
ようになりました。
行動を半ば勢いで取ったのだと思います。
自転車レースは5時間程あるので飽きるかと思われるかもし
成功するには情報収集し、最善の方法を決断するなどとよ
れませんが、建築を仕事としている身にはテレビ画面に広がる
く言われますが、人生の中で進学・就職先を決めたり家を買っ
風景、一般の住宅や街道沿いの街並みを様々な視点で中継され
たりするときなど、目前の目的を達成する時は意外とその場
興味が尽きません。レースでは気になるポイントが幾つか出て
の勢いだったが、あのとき決断してよかったという事があり
きます。例えば、イタリアとスイスとの国境にあるグラン・サ
ます。チャンスや決断の瞬間はいくら準備していても突然やっ
ン・ベルナール峠、コルシカ島のアジャクシオ、そしてレース
てくるのだと思います。単に自転車を見に行ったはずが高額
最終日のパリにある凱旋門などです。なぜ気になるかというと、
なロードバイクをその場で買って
これらは全てナポレオンと関係のある場所なのです。
しまい、今ではその魅力に嵌って
好きな人物はと聞かれれば私はナポレオン・ボナパルトと
週末のサイクリングやテレビで7
答えます。フランス革命の中で、多くの戦功を立て、皇帝ま
月のツールドフランス観戦を楽し
で登り詰めたナポレオン。好きな理由は彼の果敢な行動力で
みにしている今日この頃です。
すが、最も好きな場面はイタリア方面軍最高司令官だった時
のロディの戦いです。河にかかる一本の橋を挟んでフランス
軍とオーストリア軍が対峙している中、このまま留まってい
ると背後から敵に挟み撃ちになってしまう状況下で彼がとっ
パリスホテル前で(ラスベガス)
※ フランスには行ったことがあり
ません。
13
クラシックカメラの楽しみ 菅澤 光裕 ライカという名前は聞いたことがあっても、
リンホフやハッセル
次は、
中判カメラの王者
「ハッセルブラッド」
です。
戦後、
スエーデン
ブラッドがすぐに分かる方はあまり多くないかもしれません。
クラ
のハッセルブラッド社から発売され、使用中でもフィルムを変更でき
シックカメラという趣味はあまり一般的なものではないと思います
るフィルムバック式を導入し、最初はコダック製レンズを装着しまし
が、多くの熱狂的なマニアが存在するのも確かです。
クラシックカメ
たが、すぐにツアイス製レンズに換えるなど、その高性能によってた
ラと聞くとヴィンテージものなど、高価なカメラを思い描き、金持ち
ちまちプロ愛用の定番カメラになりました。一時期、世界中のコマー
の道楽趣味と思われるかもしれませんが、小生のようなサラリー
シャル写真のほとんどがハッセルブラッドで撮影されたと言っても過言
マンのマニアも多いようです。今回は先日、戸建部会のショート
ではないでしょう。日本の有名写真家も多くが使用していました。
スピーチ(かなりロングでしたが)でお話しましたクラシックカメラ
アポロに搭載されて月面で写真を撮影したカメラとしても有名です。
について述べてみたいと思います。
カメラの原形は組立暗箱ですが、その形式を一番色濃く残すの
元々は、長いこと建築や登山に関する撮影をしていましたが、
自宅
が、大判フィルム(4×5判などのシートフィルム)を使用する蛇腹
には父が持っていたクラシックカメラがいくつかあり、そのメカニ
式のフォールディングカメラです。その大判の王者はなんと言って
カルな美しさが大好きでした。風景写真を撮影するようになって
も
「リンホフ」でしょう。
リンホフスーパーテヒニカは世界中のプロ
中判カメラ
(6cm幅のブローニー判と呼ばれる中判ロールフィル
カメラマンが愛用した名機です。特に風景や山岳写真では大定番
ムを使うカメラ)が欲しくなり、入門機として購入した中古カメラ
でした。大判カメラはアオリという特殊操作ができる上、
カメラ本体
(マミヤ645プロ)が素晴らしかったことから機械式のカメラに
とは別にレンズを自由に組み合わせることができます。
シュナイデル・
興味を持ちました。中判ではなんと言ってもハッセルブラッドが憧
クロイツナッハやニッコールなど名レンズから色々と選択する楽し
れで、それから始まり、ライカ、
リンホフと泥沼に入り込んでしまい
みもあるのです。
ました。個人的にはオートフォーカス以降はクラシックとは考えてい
これら以外にも、二眼レフの王者「ローライ」、
スプリングカメラの
ませんが、1990年代以降の新しいものや、シャッターが動かないと
名品
「フォクトレンダー」
や
「イコンタ」
、
プレスカメラの大定番
「スピー
か外装がボロボロといったジャンクも含めて、今では300台以上
ドグラフィック」、国産でも、世界を驚愕させた「ニコンS」、一眼レフ
はあると思います。
(真面目に数えていないので不明です。)
の開拓者「アサヒフレックス」、二眼レフの革命「マミヤフレックス」、
クラシックカメラはカメラの歴史でもあります。一つ一つのカメラ
ハッセルを超えようとした「ゼンザブロニカ」
、一眼レフの名機「ニコ
が発売された時代の雰囲気を漂わせていて、
それと同時に個々に完
ンF」など話し出したら枚挙に暇がありません。
成されたメカニカルな美しさを持っています。
そしてバリエーション
これらのカメラのほとんどは新品は販売されていませんので、
の多彩さも魅力です。時代々々で様々なトライアルが為されていて、
中古ばかりです。中古はレベルが様々で、元箱付属品付・新品同様・
現在ではお目にかかれない機構も数多くあります。工業製品は後に
完動品といった一級品では数十万、ものによっては百万単位の値
なるほど改良が進み、
良くなっていくのが普通かもしれませんが、
クラ
段が付きますが、そんなコレクターアイテムは手が出ませんので、
シックカメラは必ずしもそうではなくて、一つの銘柄では初代が最高
原則として外観より実際に撮影ができそうなものを選んでいます。
傑作ということも多いのです。
それは職人技の結晶であり、今日では
カメラの購入は中古カメラ店巡り
(銀座や新宿)
とネット・オーク
考えられないようなコストの掛け方をしていたりするからでしょう。
ションによりますが、相場より安いものを探すのはもちろん、見た目
それでは、代表的なクラシックカメラをいくつかご紹介しましょう。
も重要です。何よりクラシックカメラは姿の美しさもポイントです
まずはクラシックカメラの王者「ライカ」です。エルンスト・ライツ社
から。
これらの名品を手にすると、そのずっしりとした重みや金属的
の技術者オスカー・バルナックが映画フィルム(35mmフィルム=
美しさを感じることが出来て、つくづく良いものは良いと実感しま
ライカ判)を活用して、自ら使うために開発したと言われるカメラ
す。現代のデジタルカメラも愛用していますが、それとは別物の
です(ライカ=ライツのカメラの意)。今日のカメラ形式の多くの
楽しさがクラシックカメラには満載なのです。
原型であり、それまでの大型暗箱+ガラス乾板に比べて、信じられ
ないほど小型軽量になりました。初期のバルナック型と呼ばれるシ
リーズは当時はもちろん、現在でもファンが多い傑作で、当時、世界
中にコピーカメラが出回りました。本家のライカは昭和初期から
日本に輸入され、ライカ一台、家一軒と言われるほど高価でした。
後にM型と呼ばれるシリーズに進化し、初代M3型はその圧倒的な
完成度の高さから、
ライカに追従しようとしていた日本メーカーを
諦めさせ、一眼レフへの転進を促したといわれる名機です。
ライカには永遠のライバルがあります。
レンズの巨人、カール・
ツアイスの肝入りでドイツの中小メーカー4社が合併したツアイス・
イコン社が、満を持して発売した「コンタックス」
です。
ライカが評判
になり始めた時期に発売され、高度な機構とツアイスの優秀なレン
ズで高性能カメラとして高い評価を得ました。
日本でもライカ以上
に高価なカメラとして知られました。戦後に一眼レフの初期の傑作
コンタックスDに進化します。
上段左から、
リンホフスーパーテヒニカ、
スピードグラフィック
下段左から、
ローライフレックス、ハッセルブラッド500C、
コンタックスⅢ、
ライカⅢf(バルナック型)
、
ライカM3
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