Joyful Communication ! SALESIAN BULLETIN J A PA N 13 July 2014 No. 世界のサレジオ家族ニュース インタビュー サレジオ会新総長紹介 ドン・ボスコの10番目の後継者 フェルナンデス総長の母イザベルさん 連 載 インタビュー DBの教え子たち 黒田一敬さん 第27回 サレジオ会総会 フォトダイアリー Ciao! サレジオ家族探訪 カリタス ドン・ボスコスクール 目黒星美学園小学校 もっとキミに伝え隊!! 特 集 宣教師たち 今回の応援隊員 田中次生 神父 ~想いは国境を越えて~ Message サレジオ家族の皆様へ Joyful Communication ! Contents もくじ 3 Message ●「より神のもの、兄弟のもの、若者のものとなる」 4 特集 ● 宣教師たち ~想いは国境を越えて~ 6 日本にやってきた宣教師 ●「日本の土になりたい」~日本に来た最初のサレジオ会員~ ヴィンチェンツォ・チマッティ神父 8 インタビュー 海外で働く日本人宣教師 【コラム】海外派遣を体験!サレジオ家族の海外ボランティア 14 ドン・ボスコの教え子たち インタビュー ● 黒田一敬さん from サレジオ学院高等学校 16 世界のサレジオ家族ニュース 教皇フランシスコを囲んで、チャーベス前総長(左)、フェルナンデス新総長(右) Photo by ANS 今 「ドン・ボスコの宣教師団派遣」 ● 12 ドン・ボスコゆかりの地を巡る ● アルゼンチン サンカルロス扶助者聖マリア大聖堂 サレジオ会日本管区長 アルド・チプリアニ神父 Essay 年 2 月から 4 月にかけて、サレジオ会ローマ本部で、サレジオ会の第 27 回総会が開催されました。6 年に一度開かれる総会 には世界中から 200 名を超える管区長と管区代表が集まり、共に祈り、生活を分かち合いながら会の現状を考察し、将来に 向けて指針を打ち出します。今回の総会は、2 期までと定められた 12 年を務めたチャーベス総長に代わる、新総長選出の任務も帯 びていました。 テーマは、「福音を徹底して生きるあかし人」。創立の原点をふりかえり、世界の現状、若者の状況についての報告や考察、教 会の声、教皇フランシスコの言葉、お互いの分かち合い、祈りを通して、今、神様がサレジオ会に呼びかけていることは何か、私た ちは聞き取ろうとしました。 18 サレジオ会新総長紹介 ドン・ボスコの10番目の後継者 より神のもの、兄弟のもの、若者のものとなるようにという招きでした。源泉であるドン・ボスコの生き方に立ち帰るように、心を開き、勇 気をもって出かけていくようにと私たちは招かれています。教皇フランシスコは私たちに、惜しみなく福音を生き、若者たちの貧しさが如 実に現れる場へ出かけて行くようにと呼びかけてくださいました(3 月 31 日バチカンでの教皇謁見にて)。 21 第27回 サレジオ会総会 フォトダイアリー 22 Ciao! サレジオ家族探訪 ● カリタスドン・ボスコスクール 目黒星美学園小学校 26 サレジアンが心を込めて贈るあなたへ応援メッセージ ● もっとキミに伝え隊!! 27 Book Review ● 本のひととき !ピサルスキー神父 28 サレジアン小伝 ● ありがとう 宣教師としてささげ尽くした人生 29 Info ● お知らせ ドン・ボスコ生誕200周年記念イベントのお知らせ レジオ会員は若者の皆さんの可能性を信じ、聖書の言葉にあるように、皆さんが“地の塩、世の光”であるようにと願っています。こ 31 読者プレゼント 2014 年 6 月 24 日 ドン・ボスコの霊名の祭日に 03 SALESIAN BULLETIN JAPAN July 2014 No.13 ドン ・ ボスコとは? 「青少年の友」と呼ばれ、見す てられた若者たちのために生涯 を献げた神父。1815 年イタリア 生まれ、名前はヨハネ(イタリア 語でジョヴァンニ。ドン ・ ボスコは 「ボスコ神父」 の意味)。青少 年教育に献身するサレジオ会を 創立。1888 年帰天。 サレジオ家族とは? ドン ・ ボスコの精神を受け継ぐ修 道者・信徒・協力者たち。世 8 月 16 日、いよいよドン・ボスコ生誕 200 周年を祝う1 年が始まります。今年、私は管区長としての 6 年の務めを終えますが、新 管区長がこの希望に満ちた時に、 日本のサレジアンの旅を導いてくれるでしょう。皆様の温かい応援、 ご支援に心から感謝申し上げます。 溝部脩司教司祭叙階 50 周年 記念ミサに集まった会員たち。 左前から、カヴァリエーレ神父、 EAO 担当地域顧問のクレメン テ神父、コンプリ神父、その後 ろにパウロ神父、同日司祭叙 階 60 周年を祝ったシモンチェ リ神父、そしてスミス神父、マッ サ神父。 20 フェルナンデス総長の母 イザベルさん 新たに私たちサレジオ会とサレジオ家族を導くことになった新総長、アンヘル・フェルナンデス神父は次のように呼びかけました。「サ の旅を共に歩むなら、私たちの前にはすばらしい日々が待っています」。 表紙の写真 新総長アンヘル・フェルナンデス・アルティメ神父に聞く タイ 私たちの心に響いたのは、神を中心に生きる「神秘家」、兄弟愛の「あかし人」、貧しい青少年に仕える「しもべ」になるため、 13 July 2014 ● 小下和代 シスター イエスのカリタス修道女会 in ブラジル 倉橋輝信 神父 サレジオ会 in ボリビア 竹山敏枝 シスター サレジアン・シスターズ in ボリビア 10 J A P A N 「心はなんのため?」~日本の人に「心」を説いて60年~ カルメロ・シモンチェリ神父 「より神のもの、 兄弟のもの、 若者のものとなる」 SALESIAN No. BULLETIN 界 130 以上の国で、30 団体、 「ドン・ボスコの風」 について ─ 「ドン ・ ボスコの風」は、喜びを共にし、サレジオ家族 の原点を見つめ、絆を深め、社会・世界に羽ばたいて、その実りを分かち合うためのコミュニケーショ ン誌を目指しています。ドン・ボスコの精神を多くの方々と共有し、新しいつながりに広げていくきっ かけとしてご活用いただければ幸いです。皆様からの情報提供とご支援をよろしくお願いいたします。 40 万人以上のメンバーが、学 校、教会、社会生活のさまざま な場面で青少年や貧しい人びと のために奉仕している。サレジア ンファミリーとも呼ばれる。 「 ミッション」 とは宣 教 や 使 命 を 意 味 する。 宣 教 するこ とを使命と感じて、今日も世界のすみずみで宣教師が働 取材・文・写真 ● 編集部 いている。 宣教師は祖国を離れて、人びとに何を伝えよ うとしているのだろうか? 執筆中の聖パウロ バレンティン・デ・ブローニュ て、すべての造 られ たものに福 音 ( よ 望みでもあ り ました。「 全 世 界に行っ う れ しいこ と を 体 験 し た 人 は、 そ れ を 誰 かに 伝 え た く な り ま す 。 イエ 宣べ伝 え な さい」(マルコ い 知 ら せ = 神 の 国、 救いの 到 来 ) を ) 。 こう スの弟 子 たちにとって、 イエスという ているのかという 喜びの体 験 で し た。 活 を 体 験 したことは、 神の愛の体 験、 した。 に 向 かって 出 発 し、 宣 教 を 開 始 し ま し て イエスの 弟 子 た ち は、 世 界 各 地 の上 川 島で 歳 で 亡 く な り まし た 。 ビエルは中 国への宣 教に向 かい、 途 上 ほ ど とい わ れ てい ま す 。 そ の 後、 ザ 滞 在 中、 洗 礼 を 授 け た 数 は700 人 教 を 伝 え ま し た。 2 年 3ヵ月 の 日 本 1 54 9 年 に 日 本 に 初 め て キ リ ス ト イ ン ド のゴア に 派 遣 さ れ、 そ こ か ら 日 本 人 が 一 番 よ く 知っている 宣 教 師はフランシスコ・ザビエルでしょう 。 東洋の使徒、 聖フランシスコ・ザビエル す 。 そ し て 同 時 に、 こ れ は イエスの 使 命 ( = ミッション) を感じていき ま ら な い 多 く の 人 に 知 ら せ たい とい う 分 か ち 合 い たい、 ま だ こ の 喜 び を 知 弟 子 た ち は、 そ の 喜 び を 多 く の 人 と つま り 神 が こ ん な に も 私 た ち を 愛 し ・ 人 物 に 接 し、 ま た そ の 受 難 と 死 、 復 「宣教」の始まりは? ~想いは国境を越えて~ 宣教師たち 宣教師とは あ る 特 定 の 思 想 や 宗 教 (ここでは キ リ ス ト 教 )を 伝 え る た め に、 自 分 の 属 す る 共 同 体 ( 国 な ど )を 離 れ て 活 動 す る 人 のこ と。 イエス・キ リ ス ト か ら 特 別 に 選 ば れ た 十 二 弟 子 のこ と (ア ポ スト を 使 徒 と 呼 び ま す が、 こ れ は ギ リ シ ア 語 で “απδστολ ο 15 ピーター・パウル・ルーベンス 私 た ち 一 人ひと り も 宣 教 師? 宣 教された人は、 今 度は宣 教 師になっていきます。 愛された人 は 愛 する 人に、 喜 びを 与 えられ た人は、喜びを与えていく人になっ ていくのです。 喜 びの知らせはこ うして世 界のすみずみに伝 播して いきました。 宣 教 地であった日本 からも、 宣 教 師 として海 外に派 遣されていく人が出てきました。 しかし、 海 外に行 く 神 父や 修 道 者 だけが宣 教 師ではありませ ん。神から呼ばれてこの世に「 生 」 を受けている私 たちが、この命の 喜 びを 感 じ、 周 囲の人 たちとそ れを分かち合い、 愛 する者となっ ていくとき、広い意 味で私たちは (『祈りへの旅立ち』ドン・ボスコ社 より) すでに宣 教 師なのです。 マザー・テレサの言葉 大浦天主堂展示室所蔵 ”、 本 来 の 意 味 は 「 遣 わ さ れ た ロス ) 者 」 で、 こ れ に ラ テ ン 語 で、 同 じ 意 の語 が充て られ ま 味 を 持つ "missio" ( 宣 教、 使 命 ) 、 し た。 英 語 の mission ( 宣 教 師 )の語 源で す 。 missionary 異邦人の使徒、聖パウロ ユダ ヤ 教 か ら生 まれたキ リスト 教 が 世 界 に 伝 わ って い く きっか け )という 神の声 を 聴 き ま す 。 こ う 日本における宣教 フランシスコ・ザビエルの来 日以 降、 キリスト教は急 速に広 まり ましたが、 や がて 豊 臣 秀 吉 の迫 害、 禁 教 が 始 ま り ます 。徳 川 幕 府 もそれ を引き 継ぎ、 宣 教 師 た ち は 国 外 追 放 と な り、 潜 伏 して 捕 え ら れ た 者 は 処 刑 さ れ 殉 教 し て い き ま し た。 そ の 後 、 約 2 30 年 間、 禁 教 下 に おいて 信 徒 た ち は 自 分 た ち だ け で 密 かに 信 仰 を 守 り ま す。 181 5 年、 フ ラ ン ス か ら 来 た 宣 教 師 に よる 日 本 の信 徒 発 見 は 世 界 を 驚 かせました。 明 治 維 新 に よる 開 国 以 降、 信 教 の 自 由 によ り 外 国 人 宣 教 師 たち が 来 日 し、 各 地 に教 会 や ミッションスクール が 建 て ら れ、 日 本 に お け る キ リ ス ト 教 再 宣 教 が 始 ま り まし た 。 ローマに宣教した聖ペトロ 神戸市立博物館所蔵 を 作った の は 使 徒 パウ ロで 彼はキリスト者 を迫 害 する者でしたが、 神 から し た。 最 初 、 の特 別 な 招 き により 回 心 し、「 行 け、 わ たし が ・ あ な た を 遠 く 異 邦 人 のた め に 遣 わ す のだ 」 ( 使 徒言行録 な が ら も 小ア ジア、マケ ドニア な ど に 宣 教 し、 してパウロは異 邦 人の使 徒 となり、 迫 害 を受け 最 後 はローマで 殉 教 し ました。「 福 音 を 告 げ 知 らせないなら、わたしは不 幸なのです 」(一コリ9・ )とパウロは書き 残しています 。 迫害にもめげず キ リ スト 教 が 説 く 唯 一 絶 対 の 神へ の 信 仰、 神 の 前 に お け る 人 間 平 等 の 思 想 な どは、 絶 対 的 支 配 体 制 を 築 こ う と す る 為 政 者 や 既 存 の宗 教 者 か ら 危 険 視 さ れ ていき ま す 。 多 く の国 々 で 宣 教 師 た ち は 迫 害 の 憂 き 目 に 遭い ま す 。 し か し、 こ う し た 迫 害 に も 耐 を 伝 え 続 け ま し た 。 そ し て、 そ の 実 え な が ら、 宣 教 師 た ち は 地 道 に 福 音 り と し て 世 界 の さ ま ざ ま な とこ ろ で 教 会 が誕 生していき ました。 46 17 世紀初期に書かれた フランシスコ・ザビエルの図 レオナルド・ダ・ヴィンチ 高輪教会所蔵 ς “その喜びをあなたが出会う すべての人と分かち合いなさい” 最初の「宣教師」12使徒 元和キリシタン殉教の図 21 16 信徒発見の図 特集 22 04 SALESIAN BULLETIN JAPAN July 2014 No.13 05 16 Missionaries in Japan 心はなんのため? ~日本の人に「心」を説いて 60 年~ 日本にやって来た宣教師 1926年、9人のサレジオ会員が初来日した。 日本での事業の基礎を築いてきた先人たちの中から、 2人の宣教師の生き方と思いを紹介したい。 文・写真 サレジオ会 カルメロ・シモンチェリ神父 どり着いたと安心しました。着任先は、東京 との寂しさを感じましたが、次第に慣れ、信 にある家庭のような雰囲気の小さな調布神 者の方々と接するうちに、これが宣教師の理 学校で、チマッティ神父様が優しくて素晴らし 想の仕事、自分に合った仕事であるとわかり いお父さんでした。すでに管区長の任を終え、 ました。また、教会にとって音楽はとても重要 あこが 静かな生活を送っていましたが、私の気持ち な要素ですから、よい音楽を広めるためチャ を理解してくださり、大きな愛情の中で私を リティーコンサートを開いたりもしていました。 包んでくださったように思います。 幼稚園の園長をしていた時は、ドン・ボス ● 編集部 日本の土になりたい ~日本に来た最初のサレジオ会員~ サレジオ会 ヴィンチェンツォ・チマッティ神父 コが望んだ“心”を中心とした教育、 使命感、 ドン・ボスコとの出会い 多才な司祭 私は 13 人兄弟の 10 番目として、イタリア 日本での日々 信仰の雰囲気を先生方と一緒に作る努力を 1926 年 2 月 8 日、9 人のサレジオ会員が サレジオ会員となった彼は、トリノの名門 チマッティ神父が宣教において苦労したの 北部の村で生まれました。家族は、すべて 1950 年の終わり、戦時中は日本に入れな しました。 現在の福岡県・門司港に上陸しました。そ ヴァルサリチェ学院の高等学校を卒業。実 は日本語でした。それに加え戦前・戦中・ において教会が中心でした。身近に宣教師 かった神学生が世界各地から来日し、神学 12 年前から移り住んだここ大分の別府教 の目的は宮崎・大分両県の宣教地をパリ が数人いたので、宣教への憧れが強かった 校は日本の若者も増え、チマッティ神父様を 会は、別府市の観光名所に指定され、多く 外国宣教会から受け継ぐこと。団長がヴィン ことを覚えています。12 歳でトリノ近郊のサレ 中心に、皆で喜びのうちに過ごしていました。 の人が訪れます。チャンスがあると“心”の 地課程ではヴァルサリチェ学院で教師をしな 戦後のとても困難な時代に慣れない土地で がら、国立トリノ大学で自然科学の博士号、 の苦労は計り知れません。彼は他の宣教師 哲学・教育の博士号、国立パルマ音楽大 たち、日本で育てた教え子たちとともに、日 ジオ会志願院に入り、サレジオ会的な教育 自給自足のため広い土地を開墾し、家畜を 話をし、キリスト教を紹介すると、ほとんどの 1879 年、イタリア中部ファエンツァ郊外の 学院で「コーラスのマエストロ」 のディプロ の中で喜びを分かち合っていました。勉強も 飼い生活していました。当時、神学校は社 人は喜んでくれ、 時には感動して「これからもっ 貧しくも温かい家庭に生まれた彼は、信仰篤 マ(免許状)を取得。神学の勉強も怠らず、 学校を建て、様々な事業に心血を注ぎまし 真面目にしましたが、無理強いされることはあ 会との接触がほとんどなく、ただ勉強に励ん と心を活かして、人のために尽くしたい」とい い両親に育てられ、2 歳の時にドン・ボスコ 1905 年 25 歳で司祭に叙階されました。そ た。病床で「日本の土になりたい」と語っ りませんでした。家庭的で喜びあふれる生活 でサレジオ会的養成を進めるという閉鎖的な う人もいます。 独自の表現ですが、 “心の商売” に出会います。彼の母親は幼い息子にドン・ の後 46 歳までヴァルサリチェ学院で校長も たほどすべてを日本にささげたのです。その働 でしたが、私は宣教地への願書を出しました。 ものでした。しかし、私と数人の神学生で子 “心の宣伝”ができるのは大きな喜びであり、 ボスコを一目見せようとわが子を高く差し上げ 務め、忙しい日々を過ごしたのでした。 きは今も、彼の精神を受け継いだ日本のサ 宣教への憧れ チェンツォ・チマッティ神父でした。 あつ 日本の土になりたい 本の人びと、特に青少年のために出版をし、 哲学の勉強中に自ら希望して大学の教育学 どもたちとのふれあいの場を作りたいと、休日 宣教師としてやりがいを感じています。この商 てこう叫びます。「ヴィンチェンツォ、ドン・ボス 科へ編入、教員資格を得る頃に突然サレジ に町に出て子どもたちを探していました。子ど 売が繁盛すれば、世界が一つになって本物 コをごらん」。この言葉は彼の心に深く刻まれ 宣教への熱い思い チマッティ神父は教会から「尊者」とさ オ会本部から一通の手紙が届きました。「宣 もたちは手を差し出し、「チョコレートをちょう の喜びを分かち合えるのです。 ました。 イタリアでの充実した環境の中でも、宣教 れ「日本のドン・ボスコ」と呼ばれています。 教地への願書が受理されました。日本に行く だい」とか「ガムをちょうだい」という雰囲 現在はサレジオハウス責任者として年配・ 幼少期にはサレジオ会のオラトリオ(教会学 への熱意は消えていませんでした。当時のサ 彼は私たちにドン・ボスコの精神を遺産として ことになったので、早急に準備をしなさい。 」 気でしたが、 「今度、 サレジオに見に来なさい」 病気のサレジオ会員と共に生活し、世話をし 校)に兄ルイジと共に通っていました。9 歳に レジオ会総長、リナルディ神父へ宛てた手紙 残しました。今でも私たちに「ドン・ボスコを と誘っていました。 ています。何人かの会員を天国へ見送りまし なると兄の後を追ってサレジオ会の学校の寮 でこう語っています。「…私が赴く宣教地とし ご覧なさい」と言って見守っているのです。 た。いくつかの修道女会の聴罪司祭と司牧 で 7 年を過ごします。背は小さかったのです て、より貧しく、より苦労の多い、より見捨て もしています。こうして、神の愛、神のご計 が、成績優秀、足も速く、演劇、聖歌隊で られた場所を見つけてください。どうも居心 日本への旅立ち 1949 年 11 月 13 日ジェノヴァ港から出発 司祭としての日々 ひ もん や レジオ家族によって継続しています。 おもむ し、海にも慣れて気持ちよく船の生活を送りま 1954 年に碑 文 谷 教会で叙階されてすぐ 画の実現に協力し応えていくことがいかにすば も皆の注目を浴びるほどでした。それでも少し 地のよい場所は私には合わないのです。どう した。一時帰国していた宣教師の神父も数 は調布神学院で働きましたが、その後は数 らしいかを、以前よりもはっきりと感じています。 も浮かれる素振りを見せなかったそうです。あ か、今度こそ、願いをお聞き入れください」。 人いて、一番若い神学生だった私は人気 年ごとにいくつかの小教区で働き、たくさんの 神に感謝、皆に感謝、すべてのために。 る時、南米から帰国した宣教師の話を聞き、 手紙が送られた同じ頃、ローマ教皇から 者になり、寂しさは感じませんでした。船が 1 すばらしい体験をしました。 いつかは遠く貧しい宣教地に行きたいと考え の命を受けたサレジオ会は、宣教師派遣 週間、香港に留まった時には現地のサレジ 東京・小平のサレジオ学園ではドン・ボス るようになりました。ドン・ボスコの精神を学び、 50 周年記念事業として日本へ宣教師を派 オ神学院の中国人神学生に様々な場所に コの教育は“心の教育”であることを皆にわ 善良さと勤勉さをもち合わせたヴィンチェンツォ 遣することを決定。1925 年 12月29日、 チマッ 【参考文献】 連れて行ってもらったのが楽しい思い出です。 かってもらえたことが大きな慰めでしたし、多く 少年は、導かれるように 17 歳の時、生涯を ティ神父を団長とする宣教師団はフルダ号に 『チマッティ神父ー本人が書かなかった自叙伝 上下巻』 1950 年の元旦の朝、目覚めたら三重県 の子どもや家族と接するうち、日本の社会に 神に捧げる誓いを立て、サレジオ会へ入会し 乗り、イタリア・ジェノヴァ港から日本へ向け 『チマッティ神父の生涯 上下巻』A・クレバコーレ著 四日市の港に着いていました。横浜に着いた 表と裏があることも気づかされました。初めて ました。 て出発したのでした。46 歳の時です。 のはその 6 日後。やっと自分の新しい国にた 教会の主任司祭を任された時、1 人で働くこ 07 SALESIAN BULLETIN JAPAN July 2014 No.13 カルメロ・シモンチェリ SIMONCELLI Carmelo 1927 年 7 月 1 日イタリア・トレント県ロベレート市リッツァーナ生ま れ。1950 年に宣教師として日本に渡り、チマッティ神父と共に働く。 1954 年に日本で司祭叙階。調布神学院、大阪支部院長、小 平サレジオ学園、下井草教会、三河島教会、鷺沼教会などの 小教区で司牧。現在別府サレジオハウス責任者。87 歳。 ヴィンチェンツォ・チマッティ CIMATTI Vincenzoo サレジオ会司祭。1879 年 7 月 15 日イタリア・ファエンツァ生まれ。 1926 年にサレジオ会として初来日し、多くの日本人司祭・修道者 を育成。音楽家としても900 曲以上も作曲している。1965 年 10 月 6 日、86 歳で帰天。 ガエタノ・コンプリ編訳 『ほほえみ、慈愛と祈りの人 チマッチ神父』 A・クレバコーレ著 06 in ボリビア 教育と開発を目指す女子国際ボランティア VIDES 喜びの日々! ボリビアの土になりたい 倉橋 輝信 神父 が「近くに日本人移住地があり、 学校には 50 人近くの日本人二世がいる。勤勉で真面目ですばらしい。 年に発足した国際組織で、 世界 26 日本人司祭が 1 人いたら助かる」 と。 ちょうど総会でローマに来ていた故本田管区長に彼を紹介しました。 カ国で活動。 日本加入は 1994 年 数日後、本田神父から、「命令ではないが、もし行きたければ願書を出しなさい」と。 10 月。「できるところから、 気負わ 当時新総長になったヴィガノ神父が「ある管区は一人も宣教師を送ってない」と話されたのを聞いて、 ず、 無理せず、 できることだけを行 う」 がモットー。 VIDES 東 京では 行ってみようと思いました。私は 40 歳で、これからスペイン語など学ぶのはきついな思いましたが、本田 14 の活動がある(海外ボランティア、 学資支援、リストランテ、フレ 神父は「あちらでは日本人のために働くんだ。スペイン語の勉強は必要ないと」と。実際は行ったらほ ンドシップ等)。いつでも、だれでも入会できる。詳細は公式ホームペー とんどスペイン語でしたが(笑)。ボリビア・サンタクルスに派遣され、ずっと喜びの日々でした。大部分 ジ http://www.videsjp.org/ にて。 が信者ですからすべきことはたくさんあります。今では日系人のためよりボリビア人のための仕事が大半に なりました。仕事をするのは感謝されるためではないけれど、たくさんの人から感謝をされます。ボリビア ドン・ボスコ海外青年ボランティアグループ DBVG 1991 年に東京・調布のサレジオ神学院で行われていた活動の中から青年たちの発案により、サレジオ会日 の外国人の宣教師が日本の土になっている。日本から1人ぐらい外国の土にならな ければ恥ずかしい。それこそ日本人サレジオ会員の意地として(笑)。 している。参加資格は 18 歳以上、自ら派遣参加を希望する男女。詳細は公式ホームページ http://www. くら は し て る の ぶ donboscojp.org/sdbdbvg/ にて(2014 年度の募集は終了)。 神奈川県・横浜市出身、 77 歳。 1980 年よりボリビア・サンタクルスへ渡り、 今年で 34 年目。 事務や栄養士として勤務していた児童養護施設を停年退職する年 1975 年にブラジル・サンパウロに渡って来年で 40 年。あっという間 齢に至った7年前、再挑戦したいという欲求を抑えることができず、もが でした。きっかけは 33 歳のとき、長上から海外に宣教師として行ってみ いていました。正直言うと力を出し切っていないという欲求不満があった ませんかと声を掛けられたこと。自分の望みというより修道者としての従順 のだと思います。幸いに当時の長上の寛大な理解を得て、とりあえず異 で行きました。当時、カリタス会はすでにブラジルに入っていて、先に宣 文化体験という名目で海外に出る選択をしてボリビアにやってきました。 教師として出発したシスターたちを見送ったことがありましたが、まさか自 始めは燃える宣教熱意に動かされて出てきたわけではありませんでした。 分が行くとは思っていませんでした。それからずっと日系人入植地で日本 しかし現在では、抑えられなかった再挑戦への欲求が、少しずつ確か 語学校や日本語教育の幼稚園、老人ホームなどで働いてきました。現 在、日系移民一世が減り、日本語を話す人は少なくなりましたが、二世 な宣教熱意へと変えられていくのを感じています。 in ボリビア 一番左が竹山シスター 最も貧しい 青少年たちの中で サレジアン・シスターズ 竹山 敏枝 シスター た け や ま とし え 長崎県長崎市出身。 1964 年初誓願宣立。 今年は誓願 50 周年(金祝)にあたり、 一時帰国予定。 09 SALESIAN BULLETIN JAPAN July 2014 No.13 編集部 の活動の中で参加者が出会いや交流、体験を通して人間的な成長を促すと共に、他者へ開かれることを志 ● ロモン諸島などのサレジオ会関連施設に3週間滞在し、ボランティア活動をすることを目的としている。こ とされていると感じます。ボリビアで骨を埋めるつもり。日本は何十人というサレジオ会 取材 本管区を母体として発足。「社会貢献」と「青年たちの育成」を柱にフィリピンやパプアニューギニア、ソ 人は友情を大切にし、感謝の気持ちを率直に表す国民です。来てよかった。必要 キリスト教の教え・愛を分かち合うために、 ボランティア活動を統合し、 1991 日本から海外に渡った宣教師たちがいる。 ローマで勉強していたとき、スペイン人のサレジオ会員で、ボリビアで宣教している神父がいました。彼 その体験や思いを語っていただいた。 世界中のサレジアン・シスターズの インタビ ュ ー サレジオ家族の海外ボランティア 特集 サレジオ会 海外で働く日本人宣教師 海外派遣を体験! 日々の活動は、文字どおり最も貧しい青少年(身寄りのない青少年 のための施設)の中で、将来の自立の一助になることを希望しつつ、 in ブラジル 手芸などの技術を教えています。日本の中学・高等学校で家庭科の 授業をしていたことが大いに生かされています。こちらでは給料や措置費 が支給されないので監査の苦労がなくありがたいです。 従順の下にですが、やりたいことが思いっきりやれるということは神から 授かった力を完璧に生かしきっているという喜びを感じます。「忠実なし もべよ…」と主にほめられたいですね。強いて苦労があるというならば、 言葉の不自由さのために、誤解や人間関係のトラブルに耐えなければ ならないということです。 日本の歌手、 中平マリ子氏とその母上。 日系老人ホーム 「憩の園」 訪問 南米ブラジルで受けた 思いやりの心 イエスのカリタス修道女会 小下 和代 シスター こし た か ず よ 長崎県・佐世保市出身。 姉と叔母もイエスのカリタス会シスター。 や三世の日本人としてのアイデンティティの面でこれからもサポートが必要 だと思います。司牧した人々の中からシスターが育ち、ブラジルのカリタ ス会には現在日系二世のシスターが 16 名います。ブラジル人の子ども たちのために今彼女たちが第一線でバリバリ頑張っています。 日本の若者たちには国際的な感覚を身につけてほしいですね。海外 に出るのもいいですが、日本にいる外国人に対する思いやりを持つことも 大切だと思います。ブラジルはカトリックの国ですからキリスト教精神があっ て人間愛が温かいです。私はブラジルで現地の人から温かくしてもらいま した。日本の若者たちが、外国人たちに温かく接してほしいです。それ こそが国際的な感覚の第一歩だと思います。 08 12、あなた方が衣食住において貧しいことを世の中に知ってもらいな さい。そうすれば、神のみ前では豊かで、人びとの好意を受けること になるでしょう。 その考えをあきらめるのだが、宣 教へ 的 指 導 者 )の導きによってドン・ボスコは 1875年 月 、ドン・ボスコが 歳のとき、初めての宣 教 師 団を海 外 の熱 意は彼の中で消えることはなかっ る。この宣 教 師 派 遣という一 大イベン 会を象 徴 する出 来 事であったと言え まさに世 界に羽ばたこうとする修 道 とき、ドン・ボスコはオラトリオの少 年 中の読 書としてこれらの本が読まれた る話をしていたというのである。 食 事 1848年には宣 教 師たちを派 遣 す いる。「ああ。もしもっと司 祭や神 学 生がいるならば! 私は彼らをパタゴニ ア (現在のアルゼンチン・チリの南に広がる地域) やティエラ・デル・フエゴ ( 南アメリカ南 端 ろう! ベッリア、なぜその場 所かわ かるかい?」「 多 分そこが最も必 要と の諸 島 )に福 音を伝えるために送るだ ドン・ボスコは1841年 月に司 祭になった後 、すぐに司 牧の現 場に出 けん さん るのではなく、司 祭 研 修 学 院で その後もドン・ボスコは宣 教を進め ていた人たちと関わり続けていた。そ 。ドン・ボスコは当 然 理 区が設 立された) 教 師を送っていた (1842年に使 徒 座 代 という た Oblati di Maria Vergine 会があり、ビルマ ( 現 在のミャンマー)に宣 者の一人であるランテリ神父が創立し このときまでには、ドン・ボスコの中 では宣 教 師を派 遣 することは、 彼の 高まっていった。 は宣 教 師へのあこがれの機 運がさらに 聖され、1867年に日 本205殉 1875年 月 日(当時フランシスコ・ 、ドン・ボスコは学 生たち サレジオの祝日) え始められていた。 サレジオ会として果たすべき使 命と考 教 者が列 福されたとき、オラトリオで この会のメンバーたちと知り合いになっ けたと考えられる。 結 局カファッソ神 父 1871年の宣 教の夢 (ドン・ボスコの霊 個 人 的 な 興 味や 傾 倒 というよりは、 はある修 道 会に入り、 宣 教 師になる ことを真 剣に考えていたのである。 理 殉 教 者が列 して1862年に日本 での勉 強が終 わるころ、ドン・ボスコ 間 研 鑽を積んでいた。 実は研 修 学 院 3 由はいくつかあるが、研 修 学院の創 設 の通り! 彼らは最 も 見 捨てられた 人たちなのだ!」 されているところだからですか?」「そ 宣 教へのあ こ が れ であり、アイデアだったのだ。 長い間少しずつ温められてきた気持ち 話ではなかった。ドン・ボスコの中では、 の一 人ベッリアにこう言ったと言われて トはその数 年のうちに急に思いついた にサレジオ会の会 憲 会 則が承 認され、 た。 宣 教に関 する 記 録や 本 を 読み、 (アルゼンチン)に派 遣する。前 年にはつい 60 年 6 そのとき、 若 者たちに先 導された宣 ちが現れるのだが、皆 殺されてしまう。 た。すると平 野の果てから宣 教 師た 大でいかめしい顔で、ほとんど 裸 だっ の人々が行 き 来 しており、 彼 らは巨 か彼 方に岩 山が見 える。そこに多 く ドン・ボスコはまったく未 知の土地に いる。 広 大な平 野で、 地 平 線のはる 彼らを宣 教 地に送るのは大きな痛 手 た。 イタリアのサレジオ 会にとって、 団 長となったのは、 ドン・ボスコは山のような希 望 者の 中から最 も 優 秀 な 人 物 たちを 選ぶ。 もまた大きく増 加した。 え、そのために司 祭になろうという人 た。だれもが宣 教 師になる熱 意に燃 歳のカリエロだっ 教 師 団が登 場する。よく目を凝らし だろうと発 表する。反 応は爆 発 的だっ そんな中 、ドン・ボスコは夢を見る。 と会 員を集め、サレジオ会 員はまもな 話を要 約 するとこういうことになる。 く宣 教のために南アメリカに出 発する 1 知った顔であった。ドン・ボスコは彼ら に扶 助 者 聖マリア大 聖 堂で荘 厳な派 らを派 遣 することになる。 て見ると、それはサレジオ会 員たちで、 でもあったが、ドン・ボスコはあえて彼 のことを心配するのだが、人々は今 度 遣 式が行 われた。それは非 常に感 動 日 は陽 気な雰 囲 気で彼らを迎え、武 器 的な場 面であったという。サレジオ会 にとって、まさに新しい歴 史の始まり 月 をおろす。 宣 教 師たちは彼らに教 育 を与え、福 音を伝えていくのだ。 たのだ。 に広がるパタゴニアこそがその場 所だっ のことだったのだ。 南アメリカの南 部 それはまさに、 あの夢で見た地域、 人々 リカの地 理に関する本を読み、驚く。 依 頼されたとき、ドン・ボスコは南アメ スの大 司 教から宣 教 師を送ることを そしてついに1874年 、ブエノスアイレ 努めるのだが、なかなか見つからない。 たイメージと情 報を一 致させるように であった。 11 ドン・ボスコは、 最 初この夢がどこ を指しているのかわからず、自 分の見 11 1886 年ドン・ボスコの「宣教の 5 番目の夢」。チリ・サンティアゴから北京まで宣教師を送るという夢を見た 1875 年第 1 回宣教師団派遣。前列左端がカリエロ神父、その右がドン・ボスコ ● 文 11 ており、学 院 時 代に大きな影 響を受 26 サレジオ会司祭。サレジオ学院卒。 教皇庁立サレジオ大学大学院霊 性神学博士課程修了、神学博 士号取得。ドン・ボスコの研究家。 現在サイテック館長。 「ドン・ボスコの 浦田慎二郎 宣教師団派遣」 5、特に病人、子ども、老人、貧しい人びとの世話をしなさい。そう すれば、神の祝福と人びとの好意を手に入れられるでしょう。 10 SALESIAN BULLETIN JAPAN July 2014 No.13 11 29 37 浦田慎二郎 うらた しんじろう 「宣教師に与えた 20 の勧め」 ドン・ボスコ直筆のメモ 13、互いに愛し合い、助言し合い、 過ちは矯正し合いなさい。 けれども、 嫉妬や恨みは抱き合わないように。 むしろ一人の善が皆の善になるよ うに。一人の痛みや苦しみが皆に とっても痛みや苦しみとみなされるよ うに。そして一人ひとりがその苦悩 を遠ざけるか少なくとも和らげるよう努力しなさい。 Essay 「ドン・ボスコが最初の宣教師に与えた 20 の勧め」 より gonia イ・オフィシオス ( 芸 術 と 職 業 学 校 ) 」 聖ヨハネ大 通りの角に学 校「アルテス・ た。1876年 、現 在のタクアリと 画し、その1つが職 業 訓 練 校であっ 司 教だった間 、必ず 教 皇フランシスコはブエノスアイレス大 年の歳 月 をかけて 建 設された。 現 当 者として呼び、1900年から ト・ヴェスピニャーニ神 父を建 設の担 日のミサ ─ サレジオ会最初の宣教地 ─ ● ガエタノ・コンプリ Gaetano Compri サレジオ会司祭 チマッティ資料館館長 事ガンツォロが、ブエノスアイレスの大 年 、サヴォーナ駐 在のアルゼンチン領 派 遣したいと考えていた。1874 師の 理 想 を 育 て、いつか宣 教 師 を 話を聞かせ、サレジオ会の中に宣 教 子 たちにはしばしば 宣 教 師 たちの 宣 教 師になろうと思っていた。 教え 枝を広げ、豊かな実りをもたらすで であり、 次 第に大きな木に成 長し、 んが、 今 日のこの 出 発 は 小 さな 種 宇 宙を改 宗させるわけではありませ 業の始 まりです。 わずか数 日で 全 は次のように述べた。「これは大 事 は後に枢 機 卿になった。ドン・ボスコ 長はジョヴァンニ・カリエロ神 父 。 彼 南 米 での 宣 教 司 教にサレジオ会 員のことを話した。 けてドン・ボスコは書 き 残 している。 「 南アメリカの地 理に関 する本を取 第1回 宣 教 団 一 行は1875年 月 日、アルゼンチンのブエノスア その場 所であった」(『 完 訳ドン・ボスコ ルゼンチンの南 部に広がるパタゴニアが 地 域を完 璧に描 写していたのだ。ア これもが、 私 が 夢 で 見 た 人 びとや とに、 本に載っている 版 画のどれも 学 校 運 営のためにサンニコラスに移っ 残り、ファニャーノ神 父は男 子 寄 宿 リエロ神 父は小 教 区の司 牧のために 3万 人のイタリア人 移 民だった。カ たのは、 司 牧 者 を 必 要 としていた イレスに到 着 し た。 そこに待ってい りそろえて丹 念に読んだ。 驚いたこ 伝 』より) 。そして派 遣を決 意する。 14 ゼンチン移 住を依 頼した。それを受 しょう」。 11 すると 大 司 教はサレジオ会 員のアル 11 アルゼンチン を建て、2年 間 活 動していたが、サ と 行 列の司 式のために来ていたと、 たことが知 れ 渡 り、 世 界 中から 巡 礼 者が増えている。 未 開 地 パタゴニア、 そして世 界へ 1878 年 ブエノスアイレスの 大 司 教は、コスタマーニャ神 父 とラバリ ら135年 後の2013年 、サレジ 宣 教 師への 憧 れ 1875年 月 日、トリノの扶 助 者 聖マリア大 聖 堂で第1回サレジ 神 学 生 時 代 、ドン・ボスコは宣 教 地からの報 告をよく 読んだりして、 オ会 宣 教 団 派 遣 式が行 われた。 団 ★ アルゼンチン ブエノスアイレス アルマグロ区 ★ ンカルロス小 教 区 運 営をサレジオ会に 当 時の主 任 司 祭が語っている。 教 皇 年 前この大 聖 堂で洗 礼を 受け 月 委 託される 際 、 少 し 離れた 所に移 が 世 学 校の土 台となっ された。その学 校が現 在のアルマグロ 区にあるピオ た。アルマグロ区の人口増 加に伴い、 1910年にサンカルロス扶 助 者 聖マ る。こうしてサレジオ会 員たちはブエ アーティ神 父 、 大 司 教 代 理をパタゴ リア 大 聖 堂が建てられた 時 、ほと ノスアイレスを拠 点としてドン・ボスコ ニアの調 査 旅 行に派 遣 した。 道 中 たん 記を書いた手 紙は、サレジオ会 報に 掲 載され、 多 くの人 びとが冒 険 譚 ブエノスアイレスの中 心 地に建つこ の大 聖 堂 は1895年からアルゼン オ会は144回 目の宣 教 師 派 遣 式 を 楽 しみにしていたという。 それか チン管 区 長を務めたヨセフ・ヴェスピ を 行った。 現 在 、その事 業 は 世 界 ニャーニ神 父により 「 世の終 わり アルマグロ区の大 聖 堂 の夢を実 現していく。 んどの彫 刻をこの学 校が作 成してい 10 12 Rio Grande Tierra del Fuego Ushuaia 計 画された。 彼の弟であるエルネス 奥行き 67 m、幅 27 m、丸天井の高さは 45 mあり、聖堂奥2階の扶助者聖マリア像は高さ5mの位置にある。 地下、中階、上階にそれぞれ聖堂があり、地下聖堂には 16 の祭壇がある。 教皇フランシスコはブエノスアイレス在住の頃、このマリア像下でよく祈っていた 24 文 サンカルロス 扶助者聖マリア大聖堂 Pata Uruguay ドン・ボスコゆかりの地を巡る Chile た。カリエロ神 父は つの事 業を計 Bolivia 12 SALESIAN BULLETIN JAPAN July 2014 No.13 13 5 サンカルロス扶助者聖マリア大聖堂の正面。 み心のイエスのご像が正面玄関で迎えてくれる 写真提供:Mario Iantorno sdb /サレジオ会司祭 アルゼンチン在住 Buenos Aires 19 アルゼンチンの南端にある Paraguay 9 77 133の国と地 域に広がっている。 1875 年に設立されたアメリカで一番最初のサレジオ会支部、 サンニコラス学校 Argentina 3 Brasil Perú 世 紀の始 まりの記 念 」 として 世界最南端の町、 フエゴ島ウスアイアのドン・ボスコ神学校の入口 Ecuador と 20 フエゴ島リオ・グランデのサレジオ会の農業学校 ウスアイアの風景。 世界の最南端にあるサレジオ会の教会と学校 Venezuela Guyane Guyana française Surinam Colombia 今 や メ ディア の 発 達 で 世 界 中 で ( 独 ) 国 際 協 力 機 構JICA専 門 で 理 想の社 会 を 築 く 支 援 を す る、 代 黒 田一 成 ※です。 代 目 当 主が 私の先 祖である三 奈 木 黒 田家の初 展 示 発 表にも 励みました。そのと 化 祭 )ではコンプリ 校 長の聖 骸 布 に暮れると言えばドン・チップ ( 現サ た。 泣いてばかりの日々でした。 涙 思い出がいっぱいです。サレジオ祭( 文 必 死で走ったマラソン大 会や 野 尻 湖での肝 試しなど、ほろ苦い青 春の サレジオでの思い出は? 先 祖からの御 縁に感じます。 レジオ学 院で学んだことも不 思 議な 私 自 身 当 時 川 崎 市にありましたサ 治 時 代以降 、 カトリックに再 受 洗し、 不 肖の私です。三 奈 木 黒 田家は明 たが何とかティモール人を守ることが く試 験の点に結びつかない生 徒でし ては要 領が悪く、勉 強してもまった の骨を折ったり( 笑 )。 勉 強に関し トボード階 段7段 跳びに挑 戦して足 ともしていました。学 校 近くでスケー いへんな魅 力でした。 結 構 無 茶なこ してくれる本 物のパスタ、チーズはた ザリオの静 謐さ、 神 父 方の御 馳 走 長 )もいました。ドン・ボスコの家のロ き 後 輩に、 鳥 越 君 ( 現サレジオ学 院 校 人は、喜びのうちに刈り取る」( 詩 だと思います。「 涙のうちに種 蒔く 本 当に役に立つことを 学んでいたの す。 試 験の結 果より、 後の人 生で ドン・ボスコの眼 差 しを 思い出 しま いつもそこにいて目を合わせてくれた に頭を抱えてふと上を見 上げると、 あのサレジオの教 室 、できないテスト ロダかと言 われておりました( 笑 )。 レジオ会 日 本 管 区 長チプリアニ神 父 )かク 黒田さ ん は 、 今年のNHK大河ドラマ 「軍師官兵衛」 の黒田官兵衛との つながりがあるそうですが… せい ひつ シア、東ティモール、パキスタンなどで 出 来 ました。 自 分がどうなっても、 ★ ★ ★ キリシタン大 名だった黒田官 兵 衛 の息 子が長 政で、その弟となるのが す。 専 門 分 野は選 挙の実 施による まず人を助けることに迷いは全くあ りませんでした。とっさの判 断にサレ られた証です。モットーは 「 大 切な 思っています。これは宣 教 師に育て 者に夢 を 与 え 続けることを 使 命 と 「それでも人 生は素 晴らしい、理 想に燃えることは素 晴らしい」 と他 与えられた使命だと思っています。 事するというこの仕 事は、神 様から し、人々と痛みを共にして支 援に従 ボスコの教えの実 践だと思っています (ベツレヘム、ロスパロス、ディリ、四谷など各地で多くの恩師や同窓生との再会に恵まれ、サレジオ歴は卒業後に深まっている。 ) 武 功により、三奈木 黒田家は幕末まで大 老家を務めた。 に報いるため、一成を養 子として迎えている。その後の 際 、父の重 徳が色々と世 話をし、後に官 兵 衛はその恩 れ 牢 獄 に 入 れ られ た 黒 田 官 兵 衛が捕 えら 得に有 岡 城へ向かった 抗 した 荒 木 村 重の説 初 代 。 織 田 信 長に反 黒 田 二 十 四 騎の1 人 。 三 奈 木 黒 田 家の ※ 黒 田 一 成 くろだ・かずしげ 編126・5)とあるとおりです。 紛 争 後の社 会 再 構 築です。 家の黒田一敬さんに話を聞いた。 サレジオ学院高等学校(旧サレジオ高等学校) 波 瀾 万 丈の中でも、挫 折があって も、 自 分はいつか役に立つという 使 命 感だと思います。 ジオ魂が出たと思います。 防弾車で行き来していたパレスチナ と打って変わって、カイロでは地 下 鉄 2007年から JICA 専 門 家 として、 パレスチナの地 方 行 政プロジェ 2011年からは、アラブの春と言 で通 勤 しています。 混 雑 した 地 下 黒田さんの仕事を われた政 変 後の民 主 化 支 援・選 挙 鉄の中で人々の顔を見ていると、民 クトに3 年 7か 月 勤 務 し ま し た。 支 援・ 中 東 連 携 協 力の 任 務 を 得 教えてください 紛 争 後の各 地で国 連の平 和 維 持 活 動に従 事してきました。1992 主 主 義 とは何か、どうしたら 良い 選 挙ができるのかなど、ひらめきと 発 想を生む貴 重な時 間となっていま す。現地の人とひざを突き合わせな ことは目に見えないんだ」 というサ この仕 事において嬉しいことのひと つは、 世 界のあちこちでサレジオ会 ― 大切なものは、目に見えない て家 族 と 共にエジプトに在 勤してい ます。 仕事において ン=テグジュペリの言葉です。 活 動 、民 主 化 支 援 、人 道 支 援とい "Le plus important est invisible" 年からこれまで の国や地 域に派 遣 されました。カンボジア、南アフリカ、 モザンビーク、タンザニア、ボスニア・ ヘルツェゴビナ、クロアチア、インドネ 1999年 東ティモールの独 立を 問う住 民 投 票で、私が立ち会ってい う現 場でも、国 連より先に入ってい がら本当に必要な支援は何か考えて た投 票 所は民 兵の襲 撃を受け、投 るのがカトリック修 道 会であり、サレ 大切にしていることは? 石と銃 弾を浴 びました。 逃げ遅れ ジオ会もその一つです。 彼らの存 在 いくという 私のアプローチは、ドン・ た投 票 所 係 員をかばって、私は机の にはいつも大いに励まされます。★ 員 と出 会えることです。 平 和 維 持 下に押し込み、 飛んで上にかぶさっ ていました。 私は腕に怪 我をしまし 「それでも人生は素晴らしい、 理想に燃えることは素晴らしい」 www.salesio-gakuin.ed.jp 起 こ る 紛 争 のニュー ス が 絶 え な さん 黒田 一敬 14 SALESIAN BULLETIN JAPAN July 2014 No.13 15 カヌーにバイクを載せ大河を渡り 6 時間の奥地にて。 紛争後の将来につ いて語らう。真実和解委員会。国連モザンビーク活動 ONUMOZ 1994 1960 年生まれ。 民間企業を経て 1992 年より国連カンボジア暫定行政機構で活動。国連職員として派遣さ れた東ティモールで、 投票所にて襲撃に遭い腕を負傷。第 3 回中田厚仁基金褒賞受賞。現在、 エジプトの民 主化支援に従事。メキシコ生まれ南米育ちの熱血日本人の妻、 東ティモール生まれの長男、サマリア地方生ま れの長女と共にエジプトアラブ共和国カイロ在住。 神奈川県横浜市都筑区南山田 3-34-1 14 プロフィール 教え子たち い。 そ ん な 危 険 と 隣 り 合 わ せ の かずよし くろだ の ドン・ボスコ 紛 争 地 域 で 平 和 維 持 の た め、 現 (独)国際協力機構JICA専門家 No. サン=テグジュペリ Saint-Exupéry 人々の希望が詰まった投票箱を積んだヘリ。 民兵の攻撃を受けながらも離陸し た瞬間。独立を問う住民投票。国連東ティモール支援団 UNAMET 1999 DB 地の人 びと と 共 に 「 サレジ オ 魂 」 「サレジオ出身の悩む父、 筋金入りのカトリック家庭 出身のラテン母、 海外で生まれ育つ子女二人。ドン・ ボスコの教え子として海外生活 22 年、イスラム社会 にて 10 年。 家族は現地社会との深い接点を生きて います。 長男の初聖体はイスラエルのヤッフォにて、 北川大介神父がエルサレムから駆けつけてくださいま した。」(本人談) 15 サレジオ学院中学校・高等学校 17 ★サレジオ歴★ 連載インタビュー ナイジェリア 大 き な 潜 在 力 を 活 かす 手 段 で あ る のための教育こそ、ナイジェリアの 教 区 司 牧 などを 行い、 平 和 と共 存 北 部 で テロが 頻 発 し、 多 くのキ リ と確信している。マドリッドのサレ こと、政治的権力抗争など。 現在、 スト教徒が避難民になっている。 国 ジ オ 宣 教 事 務 局 は誘 拐 さ れ た 少 女 たちの解放を要求し、国際的なキャ 会 は 直 接 被 害 を 受 け て い ない が、 学 校 教 育 と信 仰 教 育 を続 けるこ と の中 央 と 南 部 で 活 動 す るサレジ オ が暴力への自分たちの答えだとシル 代のためのセミナー 自分を知る ─ ザンビア ン ペ ー ン # BringBackOurGirls に参加している。 ヴィオ 神 父 は言 う。「ボコ・ハラム は教育に“ノー” と言い張っていま す。 私 たち は、 教 育に“ イエス”、 特に女の子たちの教育に“イエス” と 言 い ま す。」 200 人 以 上 の 少 女たちが誘拐された事件について、 「 多 くの人の努 力 に も かか わ ら ず た。 子どもの人身売買、性的虐待、 麻薬・アルコール依存症など深刻な オロ修道士は語り、この悲劇によっ ません。 祈 り 続 け ましょう 」 とパ のレンツク 神 父 は 生 活 指 導 プログ 若 者 た ちのた め、 現 地 サレジ オ 会 麻 薬 や 代の妊 娠 出 産 などの問 題に直面するザンビア・ルフブ村の に乗り越えられるか語り合った。 口の重かった若者たちもしだいに心 問 題の話 し 合いで は、 初 めのう ち て、サハラ以南のアフリカでは珍し 週 間 にわ た り、 サレジ オ 会 ザンビ ラムを行っている。 5月5日から1 サレジオ会はナイジェリアで、ス トリートチルドレンのための活 動、 を期待した。 ムが主 催 す るセミ ナー 「 人 生の道 リエントス神父と首都ルサカのチー ア管区青少年司牧担当ハビエル・バ 宣教師カルロ・ブラガ神父 中国・フィリピンで活動した に積極的に取り組むように励まし、 というモットーを紹介、人生の課題 知る、目標に向かって力を尽くす」 チームスタッフのチェンベさんは、 「 自 分 を 知 る、 自 分 の立 ち 位 置 を の若者が参加した。 代の人間関 レジ オ 家 族の列 福・列 聖 申 請 者 ピ ルナンドで今年1月に始まった。 サ 聖の手続きはフィリピンのサン・フェ と し て 働いた ブ ラ ガ 師 の列 福・列 れ た。 中 国 とフィリ ピンで 宣 教 師 日、イタリア・ティラノで、 5月 しもべ 神の僕カルロ・ブラガ神父 (1889 エルルイ ジ・カメローニ神 父がブラ ~1971)の叙階100周年が祝わ 係 」 というテーマで 話 し た。 参 加 ガ 神 父 の 取 り 次 ぎ に よる 恵 み を 紹 ジャフェットさんは 「 者 は 抱 え ている 問 題 や う れ し かっ 介、 列 福 運 動に参 加 し 祈 る た めの 助けを求める声や、いただいた恵み や価値観の危機に苦しんでいます。 人が集 まり ます。 人々は経 済 危 機 礼 者 が 集 う。「 毎 年、 た く さ んの 日を 祝 う た め、 各 地 から 多 くの巡 え、 大 き な 喜びに包 ま れ た。 この を行 わ れ た 』 から、 今 もそう して い ら れ ま せ ん。 マリア は『 すべて 私たちはマリアのことを考えずには 「ドン・ボスコの家族の一員として、 姿を見つめるようにと語りかけた。 少 年 運 動 の若 者 た ち に、マリアの 大 聖 堂 を 埋 め尽 く し たサレジオ 青 大聖堂でミサをささげた。 総長は、 午後には、フェルナンデス神父が 総 長 として 初 めて 扶 助 者 聖マリア パラグアイ川をさかのぼり、チャコ チャコと サレ ジ オ 会 の 関 わ り は 1896年、 人のサレジオ会員が と訴えている。 同司教は 「私たちもパラグアイ人」 を 肥 や す こ と し か 考 え て い ない。 都で 過ごし、 立 場 を利 用 して 私 腹 政 治 家 たち は1 年のほとんどを 首 と同 司 教は強 く 非 難 する。 地 元の ら顧みられ ず、 見 捨て られて き た オ で 語った。 長 年 にわ た り 行 政 か エスコバル・アヤラ司教は地元ラジ 祝いは 日の前夜祭から始まり、 ロザリオや徹夜の祈りが行われた。 日の当日、トリノのノシリア大司 者 はさ らに富 を 得、 貧 しい人 々は のために亡くなっています。 富める 母 行 列 が、 参 加 者の持つろ う そ く 夕 方 か ら は、マリアにさ さ げ ら れ た 1 週 間 を し め く く る 伝 統 の聖 先生、扶け手 ― について語った。 皇 ピオ 牧を行っている。 1948年には教 来、サレジオ会はチャコの宣教・司 シオンのシンフォリアノ司教がサレ 教はミサの中で若者たちに、「社会 果 で す 」 と 代 牧 区 長 ガ ブ リエル・ への感 謝 の声 を 聴 く こ と がで き ま お ら れ る か らで す! 皆 さ んに尋 ねます。『 君にとってマリアとは誰 始まった。 1917年、首都アスン の 人 々の 中 で 福 音 を 広 め た と き に す」 とある巡礼者は語った。 らに、マリアの つの顔 ― 女性、母、 か? 自分にとってマリアとは誰な のか?』」 フェルナンデス神 父 はさ 金で 働 かさ れる人、 失 業 者、 不 安 さ らに 貧 し く なっていま す。 低 賃 の光 で 通 り を 埋 めな が らト リノの 集 中 豪 雨 が 何 日 間 も 降 り 続 き、 各 地の道 路 は崩 壊、 さ らに、 人 や 物 資の大 事 な 輸 送 手 段 だった 飛 行 機 が故障し、住民は完全に孤立した。 「 私 た ち が 孤 立 し た 状 況 に あ るの は、 行 政・政 治 の責 任 の欠 如 の結 世によってチャコ・パラグ ジオ 会に同 地の宣 教 を ゆ だねて 以 定 な 雇 用の人 た ち がいま す。 日々 町を巡った。 と呼びかけた。 は 変 化 を も た ら す 第 一 歩 で す。」 災害支援要請 チャコ・パラグアヨ使徒座代牧区 パラグアイ の現 実 に働 き か け ま しょう。 そ れ たす あ ま り に 多 く の人 が 飢 え や 貧 し さ したテーマで公開フォーラムを行っ たこ とを 仲 間 と 分 かち 合い、 募 集 10 の現状にあきらめないでください。 会 新 総 長 フェルナンデ ス 神 父 を 迎 代 ナイジェリアのサレジオ会 人”、1億1千万人の 歳以下の人 口を擁する希望の国」。 今年5月に 入 り、 サレジ オ 会 西アフリ カ 英 語 圏 管 区のシルヴィオ・ロッジャ神 父 とパオロ・ヴァス ケット 修 道 士 は、 ナイジェリアをこのように評した。 この国のテロの原因は、国外から のイスラム原 理 主 義、 豊 富 な 石 油 資 源の恩 恵 が国 民に還 元 さ れ ない パンフレットも配られた。 ブ ラ ガ 神 父 の教 え 子、ソロモン 諸 島 ギゾのルチアノ・カペッリ司 教 がティラノの教 会でミサをささげ、 カメローニ神 父 は 説 教 で、 試 練 の 多かったブラガ神父の子ども時代、 家 庭の価 値の擁 護 と 促 進のた めに 23 が代牧区長を務めている。 ロン司 教 よ り 代 々、 サレジ オ 会 員 代のウルグアイ人サレジオ会員ムゾ アヨ使 徒 座 代 牧 区 が創 設 さ れ、 初 12 働いたこと、中国とフィリピンでド ン・ボ スコの 予 防 教 育 法 を 特 に 慈 愛 と 霊 的 父 性 を もって 生 き たこ と 代目総長ルア神父に出会い、 現地の若者とともにミサをささげる トリノ扶助者聖マリア大聖堂前の様子 を紹 介 し た。 ブラガ師は、 少 年 時 代に 中国では殉教した聖ヴェルシリアの 傍らで生活した時期もある。 10 ボリビア、ブラジル国境に近いパ ラグアイ北部のチャコは、 月下旬、 5 イタリア 「君にとってマリアは?」 フェルナンデス総長、 若者たちに問う 5月 日の扶 助 者 聖マリアの祝 日、トリノの町とドン・ボスコの子 4 23 将 来 に 大 き な 可 能 性 を 秘 めた “ 巨 を 選 ぶた めに」 に120人の イタリア を 開 き、 直 面 する問 題 を どのよう く ない少 女 たちの強 制 婚 や 家 庭 内 ど う し た ら 解 決 で き るのかわ かり 暴 力 な どの 問 題 に 光 が 当 た る こ と 10 職 業 訓 練 校、 貧 しい人 々の多い小 大きな可能性を秘めた 10 「 多 く の 問 題 と 暴 力 に 苦 し み な がらも、 深い変 化をとげつつあ り、 World Salesian Family NEWS ブラガ神父。宣教地、中国で現地の子どもたちと共に ら は 一つになる。 今 年 はサレジ オ 4 24 25 16 SALESIAN BULLETIN JAPAN July 2014 No.13 17 世界の サレジオ家族 ニュース 2 24 セミナーの様子 ガブリエル・エスコバル・アヤラ司教 SFN World Salesian Family NEWS 新総長アンヘル・フェルナンデス・アルティメ神父に聞く ドン・ボスコの 10番目の後継者 どのよ う な か か わ る 困 難 に 出 会 い ま し た。 し か し、 今 日 ま で の 私 の サ レ ジ り、 父 や お じ が 海 に 出 る と き は 神 に ゆ だ ねて い ま し た。 海 は い オ会 生 活 年 間 は、 日 々 若 者 た つ 荒 れて 思 わぬ 事 故 が 起 こ る か の 両 親 の 友 人 で も あった の で す 婦 人 が サ レジ オ 会 員 の 友 人 で 私 休 暇 を 私 の 村 で 過 ご してい た 老 も う 1つは、 サ レジ オ 会 の 学 校 で 勉 強 で き た か ら で す。 夏 の わからなかったからです。 に夢を見 ることです。 も、 若 者 と 共 に 考 え 、 若 者 と 共 た。 人 々 を 活 気 づ け 束 ね な が ら に よって 豊 か な も の と さ れ ま し 道 会 が 私 に 与 え て くれた 可 能 性 ち と 共 にい る こ と を 通 し て 、 困 難 よ り も、 人 生 と 人 生 の 主 と 修 が、 幼 少 の 私 の た め に し て あ げ ら れ る 最 も 良 いこ と は 私 が サ レ 世界の多種多様な文化の中 間 た ちへの 接 し 方 、 友 情 、 自 然 ジオ 会 の 学 校 で 勉 強 す る こ と だ な 振 る 舞 い、 親 し さ、 単 純 さに 総 長 これは 私 た ち が 取 り 組 ま な け れば な ら な い 最 も 重 要 な 課 で 、 サレジ オ 会 は どのよ う に フェルナンデス総 長 ( 以 下総 長) 心 を 奪 われ ま し た。 そ れ が あっ 題の一つです。 最も大 切なことは と 考 え た の で す。 こ う し た わ け スペイン 北 の 海 辺 の 漁 村 に 育 ち、 素 朴 で 穏 や か な 子 ど も 時 代 て、 後 に 医 学 か 科 学 を 学 ぶ た め 交 わり を 保 障 す る こ と で す 。 共 一 致 と ア イ デ ン ティティを 保 でし た。 大 自 然 と 海 、 太 陽 の 印 大 学 入 学 の 書 類 を 書 いていま し 通 の 幹 で あ る ド ン・ボ ス コ と、 で 私 は 村 を 離 れて、 サ レ ジ オ 会 象 が 強 い 場 所 で し た。 両 親 、 祖 た が、 幸 せ が 約 束 された 生 活 を 聖 霊 が ドン・ボ スコ を 通 し て 教 て る で しょう か? 母 、 お じ 、 お ば、 そ の 他 親 戚 た サ レジ オ 会 員 た ち と 共 に し て み 会 に 与 え た カ リ スマに、 あ ら ゆ 員 た ち と 出 会い、 彼 らの 私 や 仲 ちの 豊 か な 愛 情 に 包 まれて 成 長 た い と い う 望 み が 起 こって き た 院長、 ジオ家 族の交わりの結び目です。 る か に 関 わ ら ず、 総 長 は 全 サ レ 困 難 は あ り ま し た か? 減 少 ) は否 定 で き ま せ ん 。 召 命の危 機 ( 司 祭・修 道 者の そして管区長として、 交 わり が 保 障 さ れ ま す 。 誰 が な し、 明 朗 で、 穏 や か 、 愛 情 深 く 入 会のきっか けは? 総 長 2 点 あ り ま す。 ま ず、 幸 せ な 家 族 の 中 で 育った と い う こ 世 紀のサレジ オ 会の姿 は り、 マリ アへの 信 心 が 生 き て お 教 的 環 境 で し た 。 神 が そ こに お 意 味 が な い 事 業 が、 他 で は と て 状 況 に よ り ま す。 あ る 地 域 で は 長 と し て も、 そ の 奉 仕 の 使 命 に す。 院 長 と し て も、 2 度 の 管 区 ま す。 し か し 私 の 大 き な 愛 と 情 に 寄 り 添って く だ さ る よ う 願 い づき 、 聖 霊 が 修 道 会 と 私 の 人 生 支 え る 方 で あ り、 私 が 御 父 に 近 総 長 どんな 人 生、 役 割 を 選 ぶ に し て も 、 つね に 困 難 は あ り ま 総 長 召 命 の 危 機 について 話 す と き 、 世 界 は 私 た ち が 住 んでい 他 宗 教 の 強 い 世 界 で は カ ト リッ も 意 味 が あ り ま す 。 た と え ば、 と 。 単 純 で す が 本 物 の キ リスト る と こ ろ よ り も ずっと 大 き い と た ち は しっか り し た 養 成 を 忍 耐 召 命 は 力 強 く 芽 生 え て お り、 私 また、 ラテンアメリカにおいて、 希 望 に 満 ち た 未 来 が あ り ま す。 て お り 、 アフ リ カ 大 陸 に お い て 現 在 アジア 大 陸 で 大 き く 開 花 し た と え ば、 サ レ ジ オ 会 の 召 命 は は教 会 全 体についても言 えます。 者 た ち に 向 け ら れて い る か と い 切 な こ と は、 ど ん な タ イ プ の 若 も 事 業 形 態 にか かわ ら ず 最 も 大 と な り ま す 。 ど ん な 国 に お いて と な り、 優 れた 福 音 宣 教 の 手 段 可 能 )、 職 業 学 校 は 教 育 の 土 台 り ま せ ん が( あ る と こ ろ で は 不 クの 教 会 を もつの は 簡 単 で は あ し て 彼 が 感 じ る よ う に 感 じ、 彼 今 、 総 長としてドン・ボスコに 私 の 心 が 彼 の 心 に 似 る こ と、 そ 揺さぶられるのを感じます。 親 密 さ を 味 わ え た と き には 心 が ルドッコでドン・ボスコの そ ばで は 感 動 し ま す し、 ト リ ノの ヴァ ボ スコについて 考 え る と き、 私 熱はドン・ボスコなのです。 ドン・ たちは取り組みます。 副管区長を経て、 2000 年から 6 年間、レオン管区長を務めた。 2009 年 う こ と で す。 私 た ち を よ り 必 要 す。 からアルゼンチン南管区長。2014 年 3 月 25 日よりサレジオ会総長を務める。 強く行わなくてはなりません。 の 色 が 異 な り、 他 の 言 語 を 話 し デジタルの世 界 、インターネッ ト は、 良 い 面 は 利 用 し 、 危 険 性 取得。スペインで管区青少年司牧担当、 オウレンセの学校長、 管区評議員、 えてくださるように願います。 て い る か も し れ ま せ ん が、 間 違 に 注 意 し な が ら、 私 た ち が 存 在 1960 年 8 月 21 日スペインのゴソン‐ルアンコ生まれ、 53 歳。 18 歳でサ が 考 え る よ うに考 え る 恵 み を 与 いな く とても 生 き 生 き と し た も を 示 さ な く て は な ら な い サ レジ レジオ会に入会、 27 歳で司祭叙階。 司牧神学博士、 哲学と教育学の学位を ろ、 現 実 の 生 活 のニーズに 私 た のになるでしょう 。私たちはヨー オ 会 的 「 校 庭 」 で す。 この サ レ Fr. Ángel Fernández Artime と してい る 若 者 た ち が い る と こ ロッパにおいても勇 気 をもって積 ジオ 会 的 「 校 庭 」 が 近 い 将 来 に アンヘル・フェルナンデス・アルティメ神父 召 命 は ヨ ー ロッパで よ り 困 難 な 状 況 に あ り、 東 ヨ ー ロッパ よ 極 的 に 若 者 た ちに 挑 戦 し 続 け ま 大 き な 発 展 を と げ ることは 間 違 サレジオ会第 11 代総長 ち が 応 え たい と こ ろ、 そ こに 私 しょう 。 主 が 全 世 界 に お いて 若 いないでしょう 。 世 紀 の 修 道 会 は、 多 少 肌 者 を 招 き 続 けて くれ る こ と を 確 どの姿 に よ り 親 近 感 を 感 じ ま サレジ オ 会の歴 史の中 で 今 日 、 優 先すべき 主イエスこそ私の人 生を支 配し、 総長 私の大きな情熱の対象 は ドン・ボスコで す。 も ち ろ ん、 す か? インタ ー ネット も そ う で しょう か? 総 長 それぞれの 地 域 の 具 体 的 略歴 りも西ヨーロッパにおいて顕 著で ど う な る で しょう か 。 い う こ と を 考 え ま しょう 。 これ 21 サレジ オ 会への る 人 が、 様 々な 方 法 で 参 加 す る 幼 年 時 代 で し た か? 35 のです。 アンへル・フェルナンデス・アルティメ神父 活 発で、感 情 豊かに育ちました。 第 11 代総長 「 宣 教の領 域 」 は 何 で す か 。 信しています。 21 新総長 紹介 世界のサレジオ家族ニュース インタビュー INTERVIEW 18 SALESIAN BULLETIN JAPAN July 2014 No.13 19 ア管区の管区長に任命されたばかりでした。どのような人物なのでしょうか、 ANS (サレジオ情報庁)によるインタビューからご紹介します。 総長就任後の教皇フランシスコへの謁見 サレジオ会 World Salesian Family NEWS 今年 3 月 25 日、 第 27 回サレジオ会総会(GC27)はドン・ボスコの 10 番目の後継者にアンヘル・フェルナンデス・アルティメ神父を選出しました。 前任はアルゼンチン南管区長。昨年 12 月にスペインの新しい扶助者聖マリ World Salesian Family NEWS サレジオ会総会 General Chapter 27 スペイン GC27 第27回 フォトダイアリー 2014 年 2 月 18 日~ 4 月 12 日、 イタリア・ローマのサレジオ会 本部にて 6 年に 1 度のサレジオ会総会が開催されました。 世界各 地から議員 207 名、オブザーバーが 13 名が一堂に介し、 様々な 話し合いがなされました。日本からは、 アルド・チプリアニ管区長と 本誌編集長の山野内倫昭副管区長が参加。 山野内神父がその様子 を参加者の目線で紹介します。 3 月 25 日、ドン・ボスコの 10 番目の後継者(総長) としてスペ イン人のアンヘル・フェルナ ンデス神父様が選ばれま した。21:00 から催された晩の祝賀会 で、ローマのサレジオ会修 練者たちとギ ター伴奏する新総長。 文・写真/山野内倫昭神父 マンガ/ Daniel Federspiel 神父 フランス INTERVIEW 世界のサレジオ家族ニュース インタビュー フェルナンデス総長の母 イザベルさん 第 27 回総会で総長に選出されたフェルナンデス神父は、 初めて 最高評議会メンバー以外から選ばれ、 その人となりはあまり知ら れていません。 新総長の素顔に迫ろうと、スペインのサレジオ会 会報から、 総長の母イザベルさんへのインタビューを紹介します。 総長の両親、妹、姪 息子さんがサレジオ会の新しい総長に 選ばれたと最初に伝えたのは誰ですか? ーで、 族の代 表メンバ 界のサレジオ家 世 全 ギー 、 ル ~ ベ 南 :00 真はフランス・ 3 月 25 日 21 を開きました。写 ア ミ デ カ ア む 。 囲 す で 新総長を 。本物のピエロ スピエル管区長 管区のフェデル 「で、 君は、どこから来たの?」 「サレジオ会員なら誰でも同じさ、 ベッキで生まれたんだ」 2 月 22日、200 人以上の 総会議員たちが 19:00 に ローマからバスで トリノへ移動し、サレジオ 会の母なるヴァルドッコの 扶助者聖マリア大 聖堂でミサをささげました。 区長ホセ・ロドリゲス・パチェコ神父様でした。 ていました。とても短い会話でした。 その時、 とてもびっくりして、 信じられませんでした! そ 息子はとても忙しく、 後でまたゆっくり電話する の後に、 前総長チャーベス神父様からも電話が からと言いました。 ありました。 私は胸がいっぱいで泣いていたの で、 神父様に何も言えませんでした。 総長秘 いただきました。 知らせを聞いてどのように感じましたか? 者ドン・ボスコ生誕 サレジオ会の創立 2 月 23 日 11:00、 げました。 さ さ サを ボスコでミ の場所コッレ・ドン・ ~、 た。18:00 の祝日でし フ の セ め ヨ た 聖 の この日は 議員たち 3 月 19 日、 拝堂で総会 礼 ナ ー ィ システ バチカンの れました。 ートが催さ サ ン コ 別 特 んの人が助けてくれるから心配しないでと言っ ルト・ロドリゲス神父様 (広報顧問)からも電話を 3 月 31 日、バチカンのサラ ・クレンメンティーナにて 教 皇フランシスコと謁見。一人 ひとりと挨拶した後、全員 と記念写真を撮りました。 教皇を見送る会員たち。 どのようにサレジオ会と出会ったのですか? イザベル 私たちの人生は神様の手に導かれて た。 我が家ではマリア様の前にはいつもローソ トーリ会員で、 私たちの親しい友人であるマリ クが灯っています。このマリア様が大好きです! コから 200km 離れた) 自分の町のサレジオ会の学 どう考えたらいいのか、 何をしたらいいのかわ 校で勉強したくないかとアンヘルに尋ねました。 かりませんでした。 総長は大きな責任ですし、 アンヘルは考えてみると言いました。 翌年 10 そのためにたくさん難しいことに立ち向かわなく 歳のとき、アンヘルはその学校へ行って勉強す てはならないので、 心配しました。でも…希望 ると決めました。その 4 年後、 ルアンコに戻っ もありました。 息子にはいつも言ってきました。 て高校に入る選択肢もありましたが、 アンヘル 神様は埋もれさせるために才能をくださったの はそれを望みませんでした。レオンに残ること ではなく、 人に与えるためにくださったのだと。 を望みました。 そのときからサレジオ会は息子 母親として、 息子がどれほどすばらしい価値を にとって特別なものになりました。 息子さんの良いところは? イザベル とても親切で、 やさしいし、とても イザベル 息子からはすぐに電話はありませんで 愛情深いです。 いつも家族のことを、 自分の した。 最初の知らせを受けてから 2 時間以上 務めを心にかけています。 私たちは、 初めから 息子に信仰を伝えてきました。 私たちの家庭は イザベル アンヘルは家庭料理が大好きです 21 SALESIAN BULLETIN JAPAN July 2014 No.13 息子さんからもらった贈りもので 一番うれしかったものは? 歳のとき、レオン市に住むサレジアニ・コオペラ 家に帰ってくると手料理を 食べさせているそうですが、好物は? 4 月 6 日、バチカ ン・サンピエトロ 広場でヴァルサリ のサレジオ・ユー チェ センターの青少 年たちと記念写 210 人がこの日の 真。 12 時のお告げの 祈りに参加しまし た。 も言って聞かせていました。 イザベル 管区長に任命されたとき、レオンか いつも信仰に支えられた家庭でした。 「私は インターネットや SNS で コミュニケーション してるよ」 「私は…… 伝染させること によってだ」 (喜びを伝染させよう!) イザベル 才能を埋もれさせてはいけない、 人 に与えるためにそれをいただいたのだと、 いつ ら扶助者聖マリアのご像を持ってきてくれまし なたを必要としています」と言いました。でも、 たって、 息子と話しました。 総長に選ばれたと 息子さんに伝えた特別な人生訓は? た魚を売っていました。ある日、 アンヘルが 9 ア・サンチェス・ミニャンブレスさんが、(ルアン 電話があったとき、 何と言ったのですか? ばらしい魚があります。 います。 私の主人は漁師で、 私は主人のとっ イザベル 「主よ、助けてください。あの子はあ もっているか、 知っています。 「 “世界を目覚めさせるため” に来たんだ!」 「でもパジャマを着替えるのを 忘れたね」 けてくださると言いました。アンヘルは、たくさ イザベル 最初に伝えてくれたのはレオンの管 書のフアン・ホセ・バルトロメ神父様やフィリベ 3 月 30 日、およ そ 120 人のサ レジオ会員がアッ シジの聖フラ ンシスコ大聖堂 を巡礼、お墓 の前で祈りました 。 もう知っていると伝え、 必要なときは神様が助 が、 特に野菜が好きです。「アストゥリア鍋」 (キャベツ、香辛料の効いたソーセージ、黒プディング、ベー 子どものころ、 いたずらしましたか? イザ ベ ル とても良い 子 で、 悪さをすること は一 度もありませんでした。 生まれたとき泣 かなかったので、 私たちはとても心 配しまし た。 で も、 少しして 突 然 泣き 出しました … そ れ から 3 歳 になるまで 泣き 通しでし た‼ 私 たちは お 手 上 げ になりそうでした。 で も、 一家で私の両親の家に引っ越し、 他の家 族が周りにいるようになると泣かなくなりました。 幼いころ辛い思いをしたのです。私たちが魚市 場で働いている間、 何時間も家でひとりぼっち だったからです。 息子さんのために、 神様と扶助者聖マリアに何を願いましたか。 イザベル 神様が助けてくださるように祈りまし た。 息子が物事を良く果たせるように手を貸し てくださいとお願いしました。 神様の助けがな ければ、 誰も何もできません。サレジオ会は船 で、 海に出たらうまく舵を取らなければなりませ ん。 神様と、 先を歩んだドン・ボスコが息子を 助けてくださるでしょう。 コン、 豆などを煮込んだシチュー) が好きです。もち 総長の故郷、スペイン北部の町ルアンコ ろん、 魚も好きです。 アストゥリア地方は、 す 出典:ANS スペイン 2014年4月17日 20 “ドン・ボスコ”が強く息づいているフィリ ピン。サレジオ家族の一員であるイエスのカ 年。近年、近く リタス修 道 女 会が、ドン・ボスコの名 前を 頂く本校を設立して早 に次々と私立校が移 転・設立され、学 園 都市になりつつある中、“最初の学校” と して地域の人々との絆に結ばれ、日本の皆 さまのご支援にも支えられて、新たな挑戦 をしています。 教室なしでスタート 1994年 月に校舎もないまま、でき たばかりの住宅街のコミュニティホールを借り 人の生徒と 人の現地の先生、そ 根だけのホールに棚や仕切りを設けて教室 に。 2 フィリピン ラグナ州 サンタローザ 20 てプレスクール( 幼 稚 園 )を始めました。 屋 6 人の日本人シスターたちによる、小さく して助けなしにはやっていくことのできない 21 ゆけ、カリタス ボスコ二アン! 各地のドン・ボスコの仲間を紹介します カリタス ドン・ボスコスクール 2014 年現在では 1,400 名の生徒がボスコニアンとして本校で学んでいます。 貧しいスタートでした。 共に働く若者たち・良い協働者 サレジオ教育を身につけた現地の協働者 が与えられたことは、学校の基盤を築くた めの重要なポイントでした。学校設立と同 時に、日曜日には近くの巡回チャペルでオラ トリオ (教会学校)を始めることができたの も協働者のお陰でした。そして数年後には、 協働者の中からシスターが生まれました。 奉仕の原点は愛です。このモットー Serve" ション能力を高めるとともに、本校生徒た す。シンプルに謙 虚に生きること、ごく普 い強さと福音の価値観をもつことが必要で "Education is a matter of the ……教育は心の問題だ Heart" を選択できる人になってほしいのです。 ちの自然な信仰、明るさ、ホストファミリー 年は、本校教員を都城に派遣し英語のみ を校舎のあちこちに記し、意識を高めてい いただいたプレゼントをより恵まれない子ど で授業をし、イングリッシュキャンプを実施 通のやるべきことを一生懸命により良く果 もたちへ寄 付すること、支 援 物 資を運ん しています。彼らは日本の食生活、規律、 の温かさなど、現地で直接体験していただ だり、お年 寄り・障 害のある人と直 接 関 仕 事の倫 理に影 響を受けて戻ってきます。 ます。また、災 害などの被 災 地を想いク わるなどの活動をしています。加えて生徒 このようにお互いの良さを分かち合い、取 たすこと、喜んでもう一 歩 苦 労すること 間、仲 間 同 士の助け合いのプログラムもあ 私たちは、このような卒 業 生を社 会に 送り出したいと、環境作り (神様の存在を感 じる祈りと喜びの雰 囲 気、共にいること、親しさと のために転んでは起き、 信頼関係、 家族的精神) みなら、 これからもこの地で続いていくと確 試行錯誤を繰り返しています。神様のお望 校舎の中心にはステッラマリスチャペルがあ ります。ボートの形と祭 壇のステンドグラ 師が生前 「あなた方はいつかフィリピンに行 くでしょう。そして海の星の聖母の聖堂を 建てるでしょう」 と言われた夢の実現でも あります。 (文・写真/イエスのカリタス修道女会 サンタローザ共同体提供) 信しています。 ここには、サレジオ会宣教師 尊者ヴィンセ ンシオ・チマッティ神 父とアントニオ・カヴォ ちを導いていることを想起させてくれます。 スは、“ 海の星のマリア”が航 海する私た 夢の実現と生徒たちへの夢 り、学 習、家 庭 問 題や友 人 関 係について リスマスには盛大なパーティーを控えること、 くことを大 切にしています。加えてここ数 力、利 己 的で私 腹を肥やすことに与しな くみ い影 響を与え、ひいては社 会で不 正と権 高校生との交流もあります。特に姉妹校、 で、家 庭で、地 域の中で、関わる人に良 幼稚園 3 年、 小学校 6 年、 高等学校 4 年の全 13 学年あり、 本校のモットーは愛すること、奉仕する 都 城 聖ドミニコ学 園 高 等 学 校からは毎 年 うた ことを謳っています。 "I Love, therefore, I 生徒を短期・長期に受け入れ、コミュニケー 奉仕するリーダー養成 3 itas r a C ! Go ns! a i n o c Bos り入れています。 助け合います。また、SYM (サレジオ青 少 年 運 動 )クラブもあります。これは小 学 年生から高校生全員が対象で、宗教活動 とリーダーシップトレーニング、タレントを伸 ばす場ともなっています。 しつけ 年 生からの日本 語の 40 生徒たちへの夢は、学校のヴィジョン、モッ トーを生きることです。そのためには学校 Caritas Don Bosco School Laguna Technopark, Brgy. Biñan, Biñan, Laguna 4024 www.cdbs.edu.ph フィリピンと日本の 文化・習慣・言語の融合 しています。 小 学 科目にあり、毎年日本研修旅行を実施し 皆興味津々です。高校では日本語が選択 食べ物、生活習慣など言葉以外についても 授 業では、アニメの影 響もあって、日本の 3 て学 習 意 欲を高めています。また日本の カリタス ドン・ボスコスクール 4 5 ( 整 理、 整 頓、 清 潔、 清 掃、 躾 )や、 リ神 父の日本への 日間の船 旅と宣 教 師 環 境 問 題への取り組みも全 校レベルで実 施 精 神が大 切に込められています。カヴォリ S 1994 年、できたばかりの幼稚園の様子 スポーツ大会 毎週行われるミサ 卒業前のリーダー引き継ぎ 日本からの留学生たち 22 SALESIAN BULLETIN JAPAN July 2014 No.13 23 ! o a Ci Salesian Family Visit ! オ チャ サレジオ家族探訪 Salesian Family Visit 喜びのある学校 ─ いつも子どもたちと共に ─ 東京都目黒区碑文谷 期 生で 1954年に開設されました。隣接する サレジオ幼稚園の教室を仮校舎としてのス タートでした。 今 年の1年 生は す。 祈りに始まり、祈りに終わる学 校 生 活の中でも、教 師と子どもたちは一 緒に なって始業前や放課後の時間にグラウンド や体育館で遊んでいる姿があります。子ど もたちと教 師の距 離が近いと言 われます が、それはドン・ボスコの教えた “アシステン ” を生きようと努めているか ツァ (共にいる) らではないでしょうか。 喜びのある学校 ドン・ボスコの教 育の根 幹であり、聖 書 に基づいた 「 喜び」 を大 切にしています。 子どもたちが多様な 「喜び」 を感じられ るように、特に“4つの喜び” を意識し ています。 1 神と人に愛され・愛する喜び 週2時 間の宗 教の授 業を基 盤として、 学 習・生 活、子どもたちのすべての活 動 を通して、各々が神様から愛されている存 在であること、キリスト教 的な愛、道 徳 つちか 的な価値観を育み、すべての命の尊さを学 び、豊かな心を培うようにしています。 様への愛の行い、人のためになる良い行いや小さな犠 また、様々な宗 教 行 事を “ 徳の花 (神 ”によって準備し、いただいた恵みに 牲など) 感謝し、心を耕す教育活動に取り組んで います。 の教育基金になっています。 れていると感じさせること。その体験を通 ドン・ボスコが大 切にした家 族 的 精 神に よる教 育とは、一 人ひとりを認め、愛さ 活の糧となり子どもたちを成長させます。 だち、自 分と向き合う体 験は、日々の生 合 宿をしています。 自 然の中で神 様と友 1回、5年 生以上は年2回の3泊4日の する心を育んでいます。 ごころ献金の呼びかけなど喜んで人に奉仕 施設の訪問や宗教行事の協力、発表、ま 聖 母マリ アの 小 さ な 使 徒 会 ( Piccoli )はPAMと呼ばれ、福祉 Apostoli di Maria して子どもたちは成長していきます。 聞き合い、考え合う授 業を通して、友だ ちと共に学びを深め合います。このような ベーシックな授 業のあり方だけでなく、校 内に Wi-Fi を完備し、各教室でアイパッド・ ミニを使っての授 業も展 開しています。 言 語活動の充実のため、日常からコミュニケー ション力を意 識し、外 部 講 師によるマナー 教 室を実 施しています。 専 科 教 員による 授業に加え、ゲストティーチャーによる授業 本 校の教 員だけでなく、卒 業 生などが指 活 動も他 学 年との交 流の絶 好の場です。 希望者が行う課外の聖歌隊やオーケストラ ともに成 長していきます。4年 生 以 上の めに「いつも子どもたちと共に」 生活をし 真なることへと子どもたちを向かわせるた 結ぶことでしょう。良いこと、美しいこと、 もたちの未 来は明るく開け、豊かな実を ト」 活動を行っています。さらに学期に一 (文・写真/目黒星美学園小学校提供) ています。 ます。 4 与える喜び 自分の力を誰かのために惜しみなく使う こと。これが本 当の喜び。 喜びは、分か ち合い、更なる喜びの広がりに繋がります。 月に一 度、「まごころ献 金 」 を行ってい ます。子どもたちが小さな我慢を捧げて、 1年生は、防災の訓練も兼ねて学校で宿 度のおにぎり献金はカンボジアの子どもたち 東京都目黒区碑文谷 2-17-6 www.meguroseibisho.ed.jp も行っています。ハンガリー音 楽 家のコダー イの指導法による声楽の授業や箏曲、クラ フトの授業など、専門家の卒業生が講師 ろに届けています。金額の大きさだけなく、 国内外の援助を必要としている方々のとこ 3 共に活動する喜び 連帯も意識して呼びかけています。 泊合宿をします。2年生から4年生は年 受け入れられる幸せを感じて活動していま また、毎年カンボジアの友だちに手作り す。 特に大 切にしていることは合 宿です。 の道具袋と文房具類を送る 「愛のポシェッ みんなで協力しながら受け入れる喜び、 として指導を行っています。 導にあたり、より充 実した活 動となってい 学習の基礎基本を大切にしながら言語 とで 「 一 人ではできないことを成し遂げ 能 力の素 晴らしさに気づき、自 信と喜び 活 動を充 実 する授 業を心がけています。 られる」 という喜びの体験を積み重ねて、 をもって活 動することができるなら、子ど 子どもたちは力を秘めた豊かな土地で す。神様からいただいたそれぞれの資質や 運動会や音楽会などでは、友だちや他 学 年と心を一つにして力を合わせていくこ 校庭で先生と子どもたちが一緒に遊ぶ 2 分かった・できた喜び 目黒星美学園小学校 61 目黒星美学園小学校 聖母マリアの小さな使徒会 (通称 P・A・M ) 5 年生 森の学校 ゲストティーチャーを迎えて カンボジアの友だちに送る「愛のポシェット」 作り 卒業生のクラフト作家、 花田えりこさんの作品 24 SALESIAN BULLETIN JAPAN July 2014 No.13 25 ! o a Ci Salesian Family Visit ! オ チャ サレジオ家族探訪 い ちゃん?」 中 学 3 年 生 の 学院・サレジオ高専で教壇に立つ。2014 年 事 があって も “ 急 ブレーキ” を 裕 や遊びの空 間 を もつこ とを忘 化”であり、“遊び”だからです。 私 も学生の頃、教会の青年会 の女子学生から誘われて女子大 れないようにしたいですね。 かけなくて済 むように、 心に余 加したことがありました。 即席 の文 化 祭に行 き、お茶の席に参 続 くマタ イ の 聖 書 を 読 む と き、 見よ! 蒔き もせず、紡ぎ もし ない。 …野の花を見なさい」 と つむ 品に食べよう と少 し 緊 張 し たの 少 年 イエス様 は忙 しい大 工のヨ ま 聖書の中の 「聖家族」 から学 び たい と 思い ま す。「 空 の鳥 を で 作 法 を 学 ん で 臨 ん だ とこ ろ、 か、 お皿の上の丸いお菓 子 を落 セフ様のお手伝いをしながらも、 着 物 姿 の 女 子 学 生 の 手 前、 上 と し て、コロコロと 皆 の 真 ん 中 マリア 様、ヨセフ様 と 一 緒 に普 なことを学ばれたのです。 そん まで 転 がったのを 皆で 笑 わ れ た を覚えています。 が合唱し、野の花たちが美しく 苦い経 験 があ り ます。 今 だった さて、最近は東日本大震災だ け で な く 暗いニュースが 続 き ま 咲 き 誇っていたので、 そ れ がイ 通にお散 歩をしたり、お花の香 す。 殺人、しかも犯人の言葉の エス様の心 を 広 げ、 周 囲の人々 ら 「 たかが遊びじゃない?」 で 遊 ぶ家 庭は、 一 緒に成 長してい 中 に 「 相 手 は 誰 で も よ かった 」 ていったのではないでしょうか。 への優 しい気 持 ち をつく り だし り をかいで おら れ たのだ なぁと く も の だ 」(『 家 族 のエ ネ ルギ ー』) 式の通 り す がりのもので あった 済 ませてしまいます が、 なにし とい う ガ ブ リエル・ガルボの 考 り、 親 子 間で あったり、 何 かさ 肩の力を抜き、緊張から心を 解 放 す る “ 心 の 遊 び ” を、 私 感じます。 小さい頃から両親と えです。 一人の人間の成長過程 びしいものが多 す ぎ ます。 いろ たち も聖 家 族から学びたいもの 一 緒に散 歩 し ながら、いろいろ にあって も、 人 類の歴 史 上の発 ん な 理 由 が あ る ので しょう が、 です。 生だったので、真っ赤になったの 展にあって も “ 遊び” が大 切 な 私には今の社 会・家 庭 があ まり ろ当時は純情無垢 (?) の神学 要素であることは、認められて にも真 面 目 す ぎるのではないか なイエス様の心の中で 小 鳥 たち きた “習い事” も、もとを正せ と思います。 別言すれば“遊び” 無いから “ 急 ブレーキ” がかか ばすべて 遊びで す。 喉 が渇いた り怪我をするのです。 人間関係 プレー キ と 同 じ で、“ 遊 び ” が 向いて は お辞 儀 し、 こっち 向い も“遊び”がないからすぐに“殺 が無 く なっているので す。 車の てはお辞儀をしなければならな 人”にまで行ってしまうのです。 らお茶をグイ と飲 めば済 むこと 聞かれると答えようがありませ ン・ボスコのことば100に続 く シ リ ー ズ。 2000 年 以 上 前 に るのだと気付かされます。 の自 伝 的 作 品です。 小 学 校に上 D ( 学 習 障 害 )児 だった 作 者 自 身 (編集部評) 信 頼 し 支 え て く れ る 手 は す ぐ そ ばに あ げ な く 開いて 見つけ た イエスの言 葉 に、 ま す。 世の中 が 儚 く 思 え た とき、 な に その言葉が生きていることを教えてくれ 言葉の中に感じることができ、現代でも しみ、 苦しんで生きる姿を一つひとつの 間 と し て 私 た ち と 同 じ よ う に 喜 び、 悲 や す く 表 現 し た 名 言 集 で す 。 生 身 の人 れたイエスの言葉を、現代人にも伝わり 活 動 を 行い、 キ リ スト ( 救い主 )と 呼 ば びとの前で神 からのメッセージを伝 える 中 東パレスチナでたったの3年 間のみ 人 ド 私たちは毎日の生活で色々な パトリシア・ポラッコ 作・絵 香咲弥須子 訳 いくことでしょう。 (田中直美評) さしさの灯は、他の人へと受け継がれて 在 は 人 を 成 長 さ せ ま す 。 受 け 継い だ や じてくれる人、待っていてくれる人の存 ず読めるようになる。 約束するよ」。 信 勇 敢 だ。 一 緒 に変 えてみ よ う。 君 は必 れ ます。「 君は賢 くて、 それにとっても 人フォルカー先生もやさしさを伝えてく です。 主人公が5年生で出会った運命の の絶 対 的 肯 定 感 を 味 合 わ せて あ げ たい いか 」 と 応 え る 祖 母。 子 ど も たち にこ がうってことは、いちばん すてきじゃな に、「もちろんだよ。 でも、みんなとち がっても字が読めないことに悩む主人公 L ありがとう、 フォルカーせんせい 2013年 ドン ボ・スコ社 208頁 500円+税 浦田慎二郎 監修 サレジオ会日本管区 編 イエスのことば いつでも共にいてくれる いのか」 な ど と、 面 と 向 かって を、“ 茶 道 ” で は 「 な ぜ あっち います。 日本人が大切に育てて 最近、私自身とても納得して いる 言 葉 があ り ま す。「 一 緒 に の 4 月から調布教会助任司祭。趣味はカメラ。 2001年 岩崎書店 40頁 1400円+税 方々と一緒に 1968 年に司祭叙階。 日向学院・大阪星光 ん。“茶道”という習い事は、“文 花実の咲くまで 堀口順子 作 みずうち さとみ 画 2012年 小峰書店 183頁 1400円+税 トミ・ウンゲラー 作 今江祥智 訳 2002年 BL出版 28頁 1300円+税 Book Review 新 太 郎 のも とに、 3 月 に 死 サレジオ会司祭 フリックス る 日 突 然、 幸 福 な 猫 の 夫 婦 に一 匹の犬の赤ちゃんが生 まれ ます。 ほん えるのではないでしょうか。 (田中直美評) 異 質 な ものを 排 斥・攻 撃 す る 社 会 は 消 このよう に無 条 件の愛の中 で 育つな ら、 に、 他 者を排 除しない大きな許 容です。 の子どもじゃないの」 という言葉のよう てあげて。 なんてったって、 わ たしたち まれたときの猫の奥さんの 「だいじにし ま す。 この絵 本 の魅 力 は、 犬 の子 が 生 されますが、温かいものが胸中を満たし しい青年に育ちます。 結末はあっと驚か のままを受け止められ、のびのびと心優 は、 外 見 にと ら わ れ ず、 両 親 か ら あ り フ リック ス と 名 付 け ら れ た こ の 男 の 子 あ (編集部評) ろうなと思います。小学5・6年生から。 」 が青 少 年の成 長 を促 すのだ にいること) あたたかい。 周囲の「アシステンツァ(共 く、 新 太 郎 を 見 守 る 大 人 たちの視 線 が 伊 達 家 花 実。 同 級 生 との友 情 が清 々し ていきます。「花実」は新太郎の高座名、 はな み わりをとおして、自分の進む道を見つけ をとおし、またまわりの人びととのかか ですが…。 じいちゃんとの不思議な日々 いた新 太 郎は、 すっかり 絶 望していたの 語家のじいちゃんに弟子入りを切望して んだじいちゃんがひょっこり 現 れ た。 落 「じ “遊び”が大切 ひととき 「調布教会ルカ福音書を読む会」 の お ぎ つ か な た 26 SALESIAN BULLETIN JAPAN July 2014 No.13 27 100 余裕が人生を楽しくしてくれます あなたへ応援メッセージ キミに 本の 田中・次生 その美しさを楽しむ心のゆとり、 今回の応援隊員 道端の花に目をとめ、 サレジアンが心を込めて贈る !! タイ サレジ オ 学 院のフィリ ピ ン 語 学 研 修 中 高 一 貫 の 男 子 校 で あ る サレ ジ オ 学 院 ( 神 奈 川 県 横 浜 市 )で は、2013年 度 か らフィリ ピン・マニラ 市 の学 校 におい 日 よ り 9 日 間 の 研 修 を 行っ 名 が 参 加 し 、 3つの 目 標 を 掲 て 語 学 研 修 を 行っている 。 今 回 は 高 校 2年 生 げ、 3 月 た 。① 少 人 数 ク ラスの英 語 での授 業 を 、 ● 宣教の熱意に燃えた若者 歳でサレジオ会 志 願 院に 1918年ドイツ国 境に近いポーランド 農 村 部の町に、 人 兄 弟の一 人としてピサルスキー 1996年の司祭叙階 周年は、ローマでヨハ ネ・パウロ二世と 共に祝った。2008年 月 日、 来日したポーランド大 統 領よ り 聖フラン でも 多くの若い会員が宣教師に志願した。その 地に派遣することを教皇に約束し、ポーランド リカルドーネ 神 父は、1000人の会 員 を 宣 教 入 り、1937年に誓願を立てた。当時の総長 をしてくれる 人 た ちにいつも 微 笑み、ニコデモ 2007年に脳血栓で倒れて以来、 晩 年は病 の苦しみを 捧 げる日々だった。それでも 、世話 と恵みを飾る目に見えるしるしである。 とは、ピサルスキー神 父の宣 教 師としての奉 仕 シスコ・ザビエルの祝日に勲 章 を 授 与 さ れ たこ 人の仲 間と共に の名前にかけて“ニコニコ神父”と親しまれた。 月 原に連 れて 行 き 、 牛が 食べる 草 を 観 察、 同じ していた時の涙ぐましいエピソードがある。ピサ 響 を 受 けて養 成 を 中 断し、 長 野の野 尻に疎 開 山々を 行 き 巡 り、 良い知 らせを 伝 え る 者の足 ルスキー神父の心を 語る。「いかに美しいことか 礼 を 受 け、 宣 教 師として生 涯 を さ さ げ たピサ 好 き な 聖 書の言 葉は 聖バルトロマイの祝日に 読 ま れる もの。 故 郷の聖バルトロマイ 教 会で洗 力 を 注いだ。 育 英 高 専 ( 現サレジオ 高 専 )では、 幼 稚 園と 派 遣 さ れるそ れぞ れの場で、 持てる ルを 求める 厳しい先 生だった。 学 校、 小 教 区、 赴任、生活指導や音楽の授業で生徒に高いレベ 1946年 月に司 祭に叙 階 さ れたピサルス キー神 父は 開 校したての日 向 学 院と 志 願 院に ● 行動する宣教師 い。ピサルスキー神 父 様、 あ りがとう ございま る。 私 た ちはその生 涯 を 神に感 謝してや ま な キリストに従 う 私 た ちの歩 み を 力 づけてく れ ひ た む き な 姿 は、 ドン・ ボスコに 倣いイエス・ 宣 教 師として奉 仕に生 き たピサルスキー神 父の 「 彼は な すべきことをした 」と同期で同郷の モスカ 師 はピサルスキー 師の生 涯 を 要 約 す る。 え、救いを 告げ あなたの神は王となられた、 とシオンに向かって呼ばわる。」(イザヤ ・ ) は。 彼は 平 和 を 告 げ、 恵みの良い知 らせを 伝 校 長となって数 年で赤 字だった 経 営 を 健 全 化、 した! 別 府の海の星 幼 稚 園、 東 京の目 黒サレジオ 幼 稚 園では、 親しみ や す く 優しい園 長として 予 防教育を身をもって示した。ある教え子は、「神 父様は私にとってお父さんでした 」と語る。大 分 教 区の幼 稚 園 を まとめ学 校 法 人「 大 分カト (文/サレジオ会) なら 学校の雰囲気を立て直し、教育を充実させた。 野草を集めては皆で飢えをしのいだという。 ルスキー神 学 生とも う 一 人は 毎 朝、 乳 牛 を 野 で指 導 を 受 けた。 時 代は 第二次 大 戦、その影 1937年 中にピサルスキー師 もいた。 日に来日、チマッティ師のもと 神 父は 生 ま れ た。 12 7 めに働 き かけるこ と。 女性や若者たちが困難を乗り越えて で 、 武 蔵 野 ダルク に も 歳の青 少 当 日の講 演 会 にはサレジアニ・コオペ ラ トーリ、 イエスのカリ タス修 道 女 会 、 本 当 の 幸 せ に 導 か れ る こ と を 願 い、 こ 、 VIDES も 参 加 し 、 サ レ ジ オ 家 族 の れ か ら も 微 力 な が ら 協 力 し て い き たい の関 連 施 設 が あ る。 武 蔵 野 www. 年 や 主 婦 か ら の 相 談 が 相 次 い で い る。 と のこ と。 詳 細 は ホ ー ムペー ジ 参照。 m-caritas.jp/darcl よ う こそ 日 本へ 2 014 年 月 日 、 韓 国 か ら サ レ イ チュン ソ プ ジ オ 会 司 祭・李 春 燮 神 父 が 来 日 し た。 に よって 救 わ れ た 渡 辺 肇 氏 が 東 日 本 大 の 関 わ り は2 年 前 か ら。 自 身 も ダルク ダルク と イエスの カ リ タ ス 修 道 女 会 と 生 まれの 1966 年 、 韓 国 の 忠 清 南 道 の 天 安 市 国 人 の 司 牧 に あ たって い る。 李 神 父 は 現 在 、 三 河 島 教 会 所 属 。 と く に在 日韓 歳。 1999 年 に 叙 階 後、 震 災 を 機 に 東 京 に 新 た な ダルク を 開 こ 全 国 に約 「 ダルク 」 とい う 言 葉 を ご 存 知 だ ろ う か? 「 薬 物 依 存 回 復 施 設 」 の 略 で 、 武 蔵 野 ダルク を 支 援 イエスのカ リ タス修 道 女 会 、 つながり を感 じるひととき と もなった。 山司教に「行動する宣教師」と評された。 リック学 園 」 を 立 ち 上 げ る ために尽 力し、 平 そ の 活 動 内 容 は、 サ レ ジア ン・シ ス ターズとVIDES( 国 際ボランティア組 織 ) 言 権 も 与 えられている。 本 会 議 で は 、 短 い 時 間 で は あ る が、 発 2007年 には 国 連 からの承 認 を 受 け、 傍 らで 他のNGOと共 に 活 動 している。 調 査・勧 告 す る 目 的 で 1993 年 に 設 立 ) 」の 弁 務 官 事 務 所 ( 世 界 中の重 大 な 人 権 侵 害 を サ レ ジア ン・シ ス タ ー ズ 人 権 擁 護 室 は、 ジュネ ー ブ に あ る 「 国 連 人 権 高 等 れ 、 人 権 擁 護への意 識 が喚 起 され た。 人 権 擁 護 実 現 の た めに 」 の 講 演 が 行 わ カプート シスターによる「 正 義 と平 和 、 権 擁 護 室 責 任 者 のマリア・グ ラツィア・ 布 市 )にて 、 サレ ジアン・シスタ ー ズ 人 日 午 後 、 サ レ ジア 2 014 年 4 月 ン・シ ス タ ー ズ 日 本 管 区 本 部 ( 東 京 都 調 国連に小さな声を 院 な らで はの研 修になった 。 食 事 を 通 し て 親 交 を 深 め 、 サレ ジ オ 学 ぐ 同 年 代の若 者 と 共に音 楽 、スポーツ、 う 。 交 流 会 で は ド ン・ボ スコを 父 と 仰 優しさと、時には厳しさをもって、どんな場所でも宣教の実 世 界 各 国 の児 童 と 女 性 た ち に 対 す る 人 52 サレジオ会司祭。1918 年 9 月 13 日 ポーランド生まれ。1937 年来日。育 英高専、目黒サレジオ幼稚園など、 教育の現場で活躍。1999 年別府 教会に移り、2013 年 5 月 6 日、帰天。 17 りを結ぶよう努力を惜しまなかったピサルスキー神父の心に の2 団 体 の 活 動 を 通 し て 、 宣 教 地 な ど Nikodem PISARSKI sdb 16 ルスキー神父。祖国ポーランドから遠く日本の地で宣教師と 権 侵 害 の実 状 を、 各 国 国 連 大 使 た ち に ニコデモ・ピサルスキー 5 1 日6 時 間 、 5 日 間 実 施 。 ② 東 南 ア ジ ア の 豊 か さ と 貧 し さ を 知 る た め、 神 の 愛 の 宣 教 者 会 の 養 護 施 設 にて 子 ど も た ち の世 話 、 衣 服 の洗 濯 、 食 事 の準 備 を 体 験 。 ③ サ レ ジ オ の グ ロー バルネット 50 3 して 76 年、司祭として 67 年の生涯だった。 知 ら せ、 各 国 政 府へ人 権 擁 護 実 現 の た 今 で は 違 法 薬 物 よ り む し ろ 市 販 薬 の過 い反 面 、人 材 や経 済 面では窮 している。 誕 生 か ら 日 が 浅 い 武 蔵 野 ダ ルク は、 すべてボランティアで 賄 わ れ 、需 要 が多 観 点 からで きる支 援 を続 けている。 た の が きっか け。 家 庭 の 使 徒 職 とい う う と 事 務 所 を 探 し ている 時 、 連 絡 を し ま す。 はや く 日本 語 で も ミ サを 挙 げ ら を 通 し て サ ポ ー ト し てい け た ら と 思い オ の 霊 性 に あった 音 楽 や ス ポ ー ツ な ど 活 を 送 る こ と が で き る よ う に、 サ レ ジ の 信 者 の 皆 さ ん が 喜 び を もって 信 仰 生 心 か ら の 歓 迎 に 感 謝 し てい ま す 。 韓 国 き た。「 日 本 の サ レ ジ オ 会 の 皆 さ ん の 青 少 年 司 牧 や 社 会 福 祉 の 分 野 で 働いて き たらと思います 」 と抱 負 を語った。 日 本 の 信 者 の 方 々 の た めに お 手 伝いで れ る よ う に なって 、 サ レ ジ オ 共 同 体 と 剰 摂 取 や 脱 法ハー ブ な どのほ う が 問 題 48 2013 年 5 月 6 日、93 歳で天国に旅立ったニコデモ・ピサ ワーク を 体 感 す る た め、カリ タス ドン・ ボスコスク ール ( サンタロー ザ )の 生 徒 た ち との交 流 会 を 開 催 。 英 語 で 理 解・会 話 す る な かで 感 じ る 達 成 感 や 課 題 が、 生 徒 た ち の今 後 の活 動へのモチベー ションにつな がる と 期 待 隣 り 合 わ せの 貧 し さ とい う 現 実 に 直 面 3 昨年9月に後援会が発足、12月には念願の女性シェ ルターが開設された し て い る 。 ま た 、 フィリ ピ ンの 繁 栄 と し 、 多 く のこ と を 考 え さ せ ら れ た も よ 22 28 SALESIAN BULLETIN JAPAN July 2014 No.13 29 14 11 7 60 1992 年 5 月 23 日、目黒サレジオ幼稚園にて聖母祭での一コマ は、いつも福音を告げる者としての誇りがあった。 11 12 人権擁護室責任者のマリア・グラ ツィア・カブート シスター 宣教師として ささげ尽くした人生 現地の生徒たちと共に楽しい食事のひととき 12 ありがとう!ピサルスキー神父 23 23 Salesian Life Storyサレジアン小伝 ドン・ボスコのように生きた人たち お知らせ Info PRESENT ドン・ボスコの風 読者プレゼント 応募方法: お名前 (フルネーム) ・住所・年齢・ご職業とご希望のプレ ゼント(A・B・C)いずれか一つを明記し、本誌のご感 想・ご要望をお書き添えの上、Eメールまたはハガキで下 記宛先までお送りください。 【Eメールの場合】 [email protected] 【ハガキの場合】 〒160-0004 東京都新宿区四谷1-9-7 ドン・ボスコ社内 「ドン・ボスコの風」 編集事務局 応募締切:2014年9月31日消印有効 当選者の発表は、賞品の発送をもってかえさせていただきます。 ご応募いただいた方の個人情報は賞品の発送のみに使用し、 その他には一切使用致しません。 編集後記 今年8月16日からドン・ボスコ生誕200周年の祝賀 期間に入ります。 ドン・ボスコは、1875年に一番最 初の宣教師たちをアルゼンチンに派遣しました。こ れまで多くのサレジオ会員とサレジアン・シスター たちが、 ドン・ボスコが建てた扶助者聖マリア大聖 堂から派遣されています。現在では132か国で活 動するサレジオ会を始め、サレジオ家族には30のグ ループがあり、所属メンバー総数は40万人、その他 27グループが所属を望んでいます。今号を通して 少しでも多くの方々に宣教の意義と宣教師たちの 証に触れ、 フランシスコ教皇の言う 「福音の喜び」の 招きに心燃えていただければ幸いです。 (M) 13 No. SALESIAN BULLETIN JAPAN July 2014 2014 年 7月10日発行(年2回発行) 編集人 山野内 倫昭 発行人 アルド・チプリアニ 発行所 カトリック・サレジオ修道会 「ドン・ボスコの風」編集事務局 〒160-0004 東京都新宿区四谷1-9-7 ドン・ボスコ社内 電話:03-3351-7041 F a x:03-3351-7042 Eメール:[email protected] 編集・デザイン制作 ドン・ボスコ社 印刷所 日之出印刷株式会社 本誌掲載の記事、写真、 イラストの無断転載を禁じます。 © カトリック・サレジオ修道会 2014 BICENTENARY OF BIRTH NEWS A DVD ドン・ボスコ B こころの教育者 ドン・ボスコの 「ローマからの手紙」 C 扶助者聖マリア メダイ付き パウチカード 愛と信頼、強い心で少年たち を育んだ真の教育者、ドン・ ボスコの姿が美しい映像でよ みがえる。イタリア国営放送 の感動の作品。 ドン・ボスコのメッセージが 凝 縮された「ローマからの手紙」 全 文と、その教 育 法のエッセ ンスを紹介する「読み解きガイ ド」、関 連する聖 書 の 言 葉を 収載。 扶助者聖マリアのかわいいメダ イ付きパウチカード。 裏面には アヴェ・マリアの祈り (イタリア語) を記載。ポケットに携帯してい つでも扶助者聖マリアのご保護 を思い起こそう。 ロドヴィコ・ガスパリーニ監督 日本語吹替版 200分 サレジオ会日本管区 編 浦田慎二郎 改訳・監修 イタリア製 メダイ部分 44×33mm 5名様 5名様 5名様 (いずれもドン・ボスコ社提供 www.donboscosha.com) 次号No.14は2015年1月発行予定です。 「ドン・ボスコの風」バックナンバーは、 サレジオ会ホームページ http://salesians.jpでご覧いただけます。 トップページの「ライブラリー」→「ドン・ボスコの風」 ニュース ドン・ボスコ 2015 年 8 月 16 日はドン・ボスコの 200 回目の誕生日! ドン・ボスコ生誕 200 周年をみんなで盛大にお祝いしよう! 祝賀期間 一から知るドン・ボスコ講座 日本では、2014 年 8 月 16 日~ 2015 年 11 月 23 日を祝賀期 ドン・ボスコについて、基本的なことから学んでいく講座を 2 か 間とし、記念行事など各種イベントを予定しています。 月に一度開催しています。講師は浦田慎二郎神父。平日午前中です が毎回大盛況です。6 回目は、10 月 2 日 10:30 ~ 12:00、サレ 記念シンボル「ひまわり」 ジオ会研修施設サイテック (カトリック下井草教会斜め向かい)にて。 日本のサレジオ家族は「ひまわり」を、ドン・ボスコ生誕 200 周 参加費 1000 円。どなたでも参加いただけます。 年を記念する花として育てます。あざやかな黄色の花が咲きならぶ 姿は、ドン・ボスコの「よろこび」「明るさ」にぴったりですね。ひ 青少年と共に祝うイベント まわりのように、私た 世界的なイベントは、2015 年 8 月11~16 日、トリノおよびコッレ・ ちもいっしょに神さま ドン・ボスコ(ベッキ村)で、青 年の集い(Bosco Camp of the に 向 か って歩 み、 笑 Salesian Youth Movement)が開催されます。日本からも青年を 顔でまわりの人に生き 派遣する予定です。日本国内では、2015 年秋、中高生や学生を中 るよろこびを 分 かち 心とするイベント (Salesian Youth Day)を開催する予定です。 (詳 合いましょう。 細は決まり次第お知らせします。) サレジオ会碑文谷支部のひまわり 2014 年 6 月現在 200回目の誕生日は2015年8月16日 祝賀 期間 2014年 2015年 8月16日 11月23日 土 月 ドン・ボスコ 生誕 200 周年開始ミサ お祝いを盛り上げていきましょう! 2014 年 9 月 15 日(祝)サレジオ家族合同で、200 周年開始式 イベントを自由に企画・実行してみませんか? ドン・ボスコのこと ミサを次の 5 か所で行います。東京/カトリック碑文谷教会、大阪 を学んだり、知らせたり、ドン・ボスコの仲間とつながりを広げたり。 /大阪星光学院、長崎/カトリック植松教会、別府/カトリック別府 Facebook「ドン・ボスコの風」にその様子を投稿して、 みんなでシェ 教会、宮崎/イエスのカリタス修道女会宮崎修道院。どなたでも参 アしましょう! それぞれの学校、同窓会、教会、活動グループで、200 周年記念 列いただけます。 (開催時間など詳細は決まり次第ホームページでご 案内します。) 記念グッズ・出版物、続々登場予定! ドン・ボスコがもっと身近になる、200 周年記念グッズや出版物 イタリア巡礼ツアー を現在、企画・制作中です。かわいいキャラクターグッズも登場予定! ドン・ボスコゆかりの地を巡るツアーを企画しています。ドン・ボ どうぞお楽しみに!(詳細は順次お知らせします。 「ドン・ボスコ社」 スコの歩んだ人生を実感し、共に祝うこの機会に、ふるってご参加 の ネ ットシ ョッ プ http:// ください。 (詳しくは本誌の裏表紙をご覧ください。) www.donboscosha.com もぜひご覧ください。) 記念コンテスト 多数のご応募ありがとうございました! 「みんなで描こう!ドン・ボスコ」 「みんなで歌おう!ドン・ボスコ」 「みんなで 写真は試作段階のサンプルです。 着よう!ドン・ボスコ T シャツ」の記念コンテストは、計 1500 人を超える皆 さまからご応募いただきました。ありがとうございます。現在、応募作品を展 示する特設ホームページを 2014 年 9 月公開に向けて準備中です。 (募集は、 2014 年 3 月末をもって締め切らせていただきました。 ) ドン・ボスコ生誕 200 周年に関して、詳しくは サレジオ会日本管区ホームページ(salesians.jp)内 「ドン・ボスコ生誕 200 周年」コーナーをご覧ください。 30 ドン・ボスコ生誕200周年 記念巡礼ツアーのお知らせ ドン・ボスコゆかりの地を巡る Don Bosco Bicentenar y of Birth Pilgrimag e Tours 全行程添乗員同行 2014年7月 教職員向け 13 No. 旅行日程 2014年12月26日~2015年1月3日 9日間 ・参加対象/サレジオ家族関連学校 教職員向け ・訪問主要都市/トリノ、 フィレンツェ、 アッシジ、 ローマ (教皇に謁見)等 ・旅行代金/363,000円~398,000円(参加人数によって変更があります) 【お申し込み・お問い合わせ先】 近畿日本ツーリスト株式会社 首都圏西団体旅行支店 担当:藤田・小沢 TEL.042-847-6161 FAX.042-847-8328 SALESIAN BULLETIN July 2014 年2回発行 信徒・ 一般向け 旅行日程 2015年4月22日~5 月2日 11日間 ・参加対象/小教区信徒・一般の方 ・訪問主要都市/ミラノ、 トリノ、 アヌシー、 アッシジ、 ローマ等 ・旅行代金/372,000円~419,000円(諸事情により変更になることがあります) 写真:ローマ/バチカン サン・ピエトロ大聖堂 フランス アヌシー トリノ 【お申し込み・お問い合わせ先】 株式会社ステラ・コーポレーション 担当:小池俊子 TEL.03-3407-1218 FAX.03-3407-1582 [email protected] 教職員向け 2015年5月21日~29日 9日間 フィレンツェ ファエンツァ イタリア ロレート アッシジ ローマ ・参加対象/サレジオ家族 ・訪問主要都市/トリノ、 ファエンツァ、 ロレート、 ローマ (教皇に謁見)等 ・旅行代金/未定(下記までお問い合わせください) 【お申し込み・お問い合わせ先】 近畿日本ツーリスト株式会社 首都圏西団体旅行支店 担当:藤田・小沢 TEL.042-847-6161 FAX.042-847-8328 旅行日程 2015年8月20日~28日 9日間 ・参加対象/サレジオ家族関連学校 教職員向け ・訪問主要都市/トリノ、 フィレンツェ、 アッシジ、 ローマ (教皇に謁見)等 ・旅行代金/未定(下記までお問い合わせください) 【お申し込み・お問い合わせ先】 近畿日本ツーリスト株式会社 首都圏西団体旅行支店 担当:藤田・小沢 TEL.042-847-6161 FAX.042-847-8328 信徒・ 一般向け 発行:カトリック・サレジオ修道会 「ドン・ボスコの風」編集事務局 〒160-0004 東京都新宿区四谷1-9-7 TEL: 03-3351-7041 FAX: 03-3351-7042 E メール:[email protected] サレジオ家族向け JAPAN 旅行日程 ミラノ 旅行日程 2015年10月15日~23日 写真:トリノ近郊 コッレ・ドン・ボスコ周辺の 田園風景 9日間 ・参加対象/小教区信徒・一般の方 ・訪問主要都市/トリノ、 ファエンツァ、 ロレート、 ローマ (教皇に謁見)等 ・旅行代金/未定(下記までお問い合わせください) 【お申し込み・お問い合わせ先】 近畿日本ツーリスト株式会社 首都圏西団体旅行支店 担当:藤田・小沢 TEL.042-847-6161 FAX.042-847-8328 紙面に掲載の情報は2014年6月24日現在の情報です。 未定の情報・詳細等は各お問い合わせ先にてご確認ください。 各ツアーのお申し込み締切は、催行日より2ヶ月前まで ※各ツアーの行程は諸事情により変更になることがあります。予めご了承ください。 ※上記旅行代金には空港施設使用料、空港諸税、運送機関の課す付加運賃・料金(燃油サーチャージ等) が別途かかります。 写真:トリノ ドン・ボスコの 事業発祥の地
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