長期フィリップス曲線における インフォーマルセクター雇用の役割∗ 村尾徹士† 一橋大学大学院経済学研究科博士課程 2010 年 2 月 1 日 概要 本稿では、途上国におけるインフレ率と失業の長期的な負の相関関係がどのようなメカニズムによって 生じるのかを検討した。個人がフォーマルセクターとインフォーマルセクターのいずれかにおいて就業し、 また貨幣の蓄積と取り崩しにより失業に対する自己保険を行うモデルにおいて、異なる貨幣成長率のもとで シミュレーションを行った。その結果、インフレ率の上昇とともに失業率は単調に減少するとともにイン フォーマルセクター雇用比率が単調に増加することが示された。 1 はじめに インフレーションが経済厚生にどのような影響を及ぼすかについては、長らく経済学者の関心を引いてき た。とりわけ発展途上の国々は、現在でも総じて高いインフレ率を記録しているため、この問題は特に深刻 であると考えられる。本稿では途上国を念頭に置き、インフレの経済厚生的帰結について検討する。 インフレーションの経済厚生的含意を実証的に示すと考えられるものの一つに、インフレ率と失業率をプ ロットしたフィリップス曲線がある。表 1 は、非 OECD 諸国からなるサンプルにおいて、失業率の 5 年平 均値を、対数インフレ率の 5 年平均値および対数 GDP の 5 年平均値に回帰した結果である*1 。 [ 表 1 を挿入 ] 固定効果推定・ランダム効果推定の結果から、平均インフレ率と平均失業率の間には、頑健に負の相関が存 在することが分かる。このような長期的なインフレ率と失業率の関係より、一見するとインフレーションに は経済厚生上望ましい面が存在しているようにも見える。しかしながら、仮にインフレーションが失業率を 低下させていたとしても、失業率の低さが経済厚生上望ましいことであるか否かは、自明ではない。 失業期間は失業率に影響する重要な要因の一つであるが、Chetty (2008) および Shimer and Werning (2008) は失業給付が失業期間に与える効果を検討した。実証的には失業給付は失業期間を長期化すること が広く知られている。この結果の古典的な説明は、失業給付が求職者のモラルハザードを招く、すなわち求 職のインセンティブを阻害する結果、失業期間が長期化するというものである。 ∗ 本稿の作成にあたっては、黒崎卓教授・川口大司准教授(以上、一橋大学)にご指導を頂いた。また阿部修人准教授、荒戸寛樹 GCOE 研究員、祝迫得夫准教授、神林龍准教授、高準享氏、齊藤誠教授、櫻井武司教授、塩路悦朗教授、堀健夫講師(以上、一 橋大学)、岡田敏裕准教授(関西学院大学)、風神佐知子講師(中京大学)、宇南山卓准教授、駿河輝和教授、山崎幸治教授(以上、 神戸大学)、鈴木史馬助教(首都大学東京)、および一橋大学マクロランチワークショップ、2008 年度関西学院大学経済学ワーク ショップ、日本経済学会 2009 年度春季大会の参加者の方々から貴重なご助言を頂いた。また、近未来の課題解決を目指した実証 的社会科学研究推進事業「高質の住宅ストックを生み出し支える社会システムの設計」(研究代表者・齊藤誠)、文部科学省グロー バル COE プログラム「社会科学の高度統計・実証的分析拠点構築」から支援を受けた。記して感謝申し上げる。なお、本稿に含 まれる誤りはすべて筆者のものである。 † 連絡先: [email protected] *1 記述統計量は、表 3 を参照のこと。 1 しかしながら、Chetty (2008) および Shimer and Werning(2008) は失業者の流動性制約に着目し、より寛 大な失業給付が次の仕事をすぐに見つけなければならないというプレッシャーを弱めることで失業期間を 長期化させる経路もまた存在すると主張した。このような場合、寛大な失業給付はより効率的な職探しを促 していると言える。Chetty (2008) は失業給付が流動性制約の緩和を通じて失業期間を長期化させる効果を 「流動性効果」と呼んだ。米国を対象にした彼の実証分析によれば、寛大な失業保険による失業期間の長期 化に流動性効果が占める割合は、実に約 60% と非常に大きいものである。以上はアメリカの実証研究であ るが、発展途上国では信用・保険市場の不完全性はより深刻であることから、流動性効果はより大きいもの であると考えられる。 さらに、途上国経済を念頭に置く場合には流動性効果に関して、次の 2 つが言えるであろう。まず、貨幣 価値の下落を意味することから、個人が貨幣の貯蓄と取り崩しによって失業リスクへの対処を行っているよ うな経済では 、インフレーションは拙速な職探し行動を促しうる*2 。すなわち不完全な保険・信用市場のも とでは、インフレーションは負の流動性効果を持つ可能性がある。加えて、途上国において広範に観察され る労働市場の二重性―フォーマル/インフォーマル・セクターの共存―を前提とすると、流動性制約のきつ い失業者は、はじめから入職が相対的に困難なフォーマルセクターでの職探しを諦め、より入職が容易なイ ンフォーマルセクターでの職探しに専念するかもしれない。以上の推測が正しければ、インフレーションは 雇用者に占めるインフォーマル・セクター従事者の割合を増加させているかもしれない。 表 2 および表 3 は、インフレ率がインフォーマルセクター雇用比率(インフォーマルセクター雇用が全 雇用に占める割合)に回帰した結果である*3 *4 。 [ 表 2 を挿入 ] 標本数が少ないこともあり有意性は低いが、固定効果推定の結果からはインフレーションがインフォーマル セクター比率を押し上げていることが示唆される。インフォーマル・セクターの労働環境は、賃金などの面 でフォーマルセクターに比べて劣悪であることが指摘されているので、この結果はインフレーションが雇用 の質に悪影響を及ぼすことを示しているかも知れない。 以上 2 つの実証結果より、インフレーションの労働市場を通じた経済厚生的な影響は単純ではないこと 分かる。インフレーションが労働市場を通じて経済厚生に与える影響を判断するためには、インフレ率と失 業率の負の相関関係、およびインフレ率とインフォーマルセクター比率の正の相関関係が、それぞれどのよ うなメカニズムによって生じているのかを明らかにする必要があるであろう。 以上のような、流動性効果と雇用の質を分析した既存研究として、Acemoglu and Shimer (1999, 2000) が ある。彼らは、入職が容易だが低賃金の雇用機会と入職が困難だが高賃金の雇用機会とが共存する経済にお いて、信用・保険市場の不完全性に直面している失業者の求職行動を考察した。彼らは以上の特徴を持つ部 分均衡の不完備市場モデルを米国経済にカリブレートした結果、より寛大な失業給付が、入職が困難である 一方で高賃金の職探しを促す結果、経済厚生を改善すると主張している。 しかしながら、Acemoglu and Shimer (1999,2000) による失業者の行動における流動性効果についての研 究は、あくまで失業給の雇用の質に与える影響の分析であり、実物モデルを利用していた。従って、途上国 において雇用の質に影響を及ぼし得るインフレーションについては、既存研究において、考慮されて来な かった。そこで本稿では Acemoglu and Shimer (1999,2000) のモデルを貨幣経済に拡張し、インフレーショ ンと失業率・インフォーマルセクター雇用シェアの関係をシミュレーションによって検討する。 その結果、インフレーションが失業率を低下させることとインフォーマルセクター比率を上昇させるこ とは、保険市場の欠落と借り入れ制約に直面する失業者の職探し行動から統一的に説明できることを示す。 またシミュレーション結果からは、インフレーションは経済厚生にとって望ましくないことが示される。 本稿の構成は以下のとおりである。第 2 節では、労働供給・職探しに費やす時間が分割不可能である基 本モデルの経済環境を記述する。第 3 節では基本モデルの経済の均衡を定義し、その性質を議論する。第 4 節では基本モデルのシミュレーション結果を議論する。第 5 節では労働供給・職探し時間が分割可能な拡 *2 Bewley(1977) および Imrohoroglu (1992) は、個人が貨幣の貯蓄・取り崩しにより自己保険を行う経済を考察した。 「インフォーマルセクター雇用者比率」の標本数は限られるため、ここでは時系列平均ではなく単年度の値を用いて推定を行った。 *4 コントロール変数として、一人当たり実質 GDP の 1 期ラグを用いた。後述の理論モデルより、インフレ率はインフォーマルセク ター雇用シェアを通じて当期の GDP を押し下げる。従って本稿の理論モデルを前提とすると、当期の GDP を推定に含めることは 過剰なコントロール(over control)となるためである。 *3 2 張モデルの経済環境を記述する。第 6 節では拡張モデルのシミュレーション結果を提示する。第 7 節で総 括する。 2 経済環境 本節では経済環境について述べる。モデルは Acemoglu and Shimer (1999,2000) によって提案された、不 完備保険市場のもとでのディレクテッドサーチモデルに基づく。彼らは外生の利子率の下での部分均衡を 考えたが、本稿では資産(貨幣)市場の一般均衡を明示的に考察する*5 。 途上国経済を念頭に置き、所得ショックに対する保険市場が欠落していると仮定する。また資本市場が未 発達であるがゆえ、労働者は一切の借り入れができないと仮定する。もちろん、現実の途上国に保険市場や 信用市場が全く存在しないわけでは無いが、多くの研究は、なお多くの労働者にとって失業や農作物の不作 による所得ショックが深刻であることを示している。保険市場・信用市場が存在せずとも、貨幣経済が存在 すれば、労働者は貨幣の蓄積と取り崩しを通じた自己保険を行うことができるであろう。実際、保険市場・ 信用市場の未発達な途上国経済においては、貨幣は所得ショックに対する自己保険の手段として重要である と考えられる。そこで本稿では、蓄積可能な資産として利子の付かない貨幣のみが存在する経済を考える。 このような貨幣市場の定式化は、Imrohoroglu (1989) に負う。 以下ではまず、職探し・労働供給に費やす時間が外生的に固定されている基本モデルを考える。その後、 この仮定を緩めた拡張モデルを考える。 2.1 選好 無限期間生きる多数の労働者からなる経済を考える。人口は 1 に基準化する。労働者は次の効用関数を 最大化する。 ∞ X E0 βt U(ct ) = E0 t=0 ∞ X t=0 1−γ c βt t 1−γ (1) ここで E0 は第 0 期における期待値オペレータ、β(0 < β < 1) は割引因子、γ は相対的危険回避度、である。 個人は毎期、消費 ct から効用を得る。また個人は分割不可能な 1 単位の時間を使って就業中は労働・失業 中は職探しを行う。時間の分割不可能性の仮定は後に緩める。 本稿では効用関数の形状として、特に CRRA 型を想定する。CRRA 型の効用関数は、消費水準が上昇す るに従い、絶対的危険回避度が減少する(Decreasing Absolute Risk Aversion)という性質を持つ。すなわ ち、消費水準が低いほど消費の絶対水準の下落リスクを重く評価する。モデルに即すと、低消費の労働者ほ ど、失業リスクを重く評価することに相当する。本稿では、途上国の労働者の行動を念頭に置いているた め、この仮定は妥当であると考えられる。 以上から、名目表示の予算制約式は次で与えられる。 pt ct + mt+1 ≤ pt yt + mt + gt Mt (2) ここで pt は名目物価水準、mt+1 は家計が t 期から t + 1 期に持ち越す名目貨幣残高、yt は t 期の所得、gt は 貨幣成長率、 Mt は経済全体の名目貨幣供給である。個人が保有・蓄積できる唯一の資産として、この経済 には貨幣が存在する。名目貨幣残高に利子は付かない。また個人は利子を生むいかなる金融資産にもアク セスできないものと仮定する。これは、途上国では一般に金融市場が未発達であり、金融市場へのアクセス が限られることによる。さらに、金融市場が未発達な途上国経済を念頭に置いているため、一切の借り入れ はできないものと仮定する。すなわち mt > 0 である。 就業中の労働者は毎期一定の確率で解雇されるが、解雇に伴う所得ショックに対し、貨幣の貯蓄と取り崩 しで対処する。*6 。貨幣供給は、いわゆる「ヘリコプタードロップ」により行われる。 Mt を t − 1 期から t *5 Acemoglu and Shimer (2000) は、入職が困難だが高賃金の仕事(Good Job)と、入職が容易だが低賃金の仕事(Bad Job) を考え、 失業者が自らの資産水準に基づいていずれかの職を探すというモデルを考えた。本稿では途上国を念頭に置き、彼らのモデルの Good Job と Bad Job をフォーマル・セクターとインフォーマル・セクターと読み替える。 *6 言い換えれば、この経済では貨幣は保険市場を代替している。 3 期にかけての名目貨幣残高(人口は 1 に基準化)、gt を t − 1 期から t 期にかけての貨幣成長率とすると、t 期に家計が中央銀行から受け取る一括トランスファーは gt Mt である。従ってマネーサプライの推移は、 Mt+1 = (1 + gt )Mt (3) と表わされる。以下で定義される定常競争均衡において、物価上昇率はマネーサプライ成長率に等しい (Imrohoroglu,1992)。 2 において、at+1 ≡ mt+1 /pt および At+1 ≡ Mt+1 /pt と定義すると、次の実質表示の予算制約式 ct + at+1 ≤ yt + 1 gt at + At 1 + πt 1 + πt (4) を得る。 s は労働者の就業・失業を表わす状態変数である。 s = sF をフォーマル・セクター、 s = sI をイン フォーマル・セクターにおける就業状態を表わし、また s = su で失業状態を表わす。就業中の労働者は賃 金 y(s j ) = w j を受け取る。また失業中の労働者は家内生産により y(su ) = B を得る。 本稿では、フォーマル・セクターとインフォーマル・セクターを、賃金率と入職確率によって特徴づけ る。具体的には、賃金率については wF > wI が成立している一方で、入職確率については mF < mI が成立 しているとする。このような仮定は以下の理由で正当化されると考えられる。賃金率は生産性、入職確率 は労働市場のフリクションをそれぞれ表わすが、インフォーマル・セクターのサーチ・フリクションがよ り小さいことは実証的にも知られ、Zenou (2009) など既存の理論研究においても仮定されている*7 。また Zenou (2009) にまとめられているように、インフォーマル・セクターの生産性はフォーマル・セクターの生 産性よりも低いという実証結果も多く存在する。解雇確率 δ j はどちらのセクターも同じであるとする。す なわち δF = δI である。 労働者は毎期、フォーマル・セクターに就業・インフォーマル・セクターに就業・失業のいずれかの状態 にある。失業中の労働者は職探しを行うが、毎期いずれか一方のセクターにおいてのみ職探しを行うことが できると仮定する。この仮定は次のように正当化できる*8 。フォーマル・セクターとインフォーマル・セク ターは通常、市街の同じ場所には位置していない。従って失業者は職探しを行うに当たって、どちらの地区 へ赴くかを決めなければならないと考えられる。また本稿では、同じ理由によりインフォーマル・セクター からフォーマル・セクターへの直接の移動(on-the-job-search)はできないと仮定する*9 。 Acemoglu and Shimer (2000) は、ある種のミクロ的基礎を持つ労働市場のモデルにおいて、賃金と入職 確率の関係 m(w) が企業のゼロ利潤条件から導かれ、労働者の資産や失業補償などの政策からは独立に決ま ることを示している。従って本稿でも、賃金及び入職確率は外生的であり、インフレ率とは独立に決定され るものと仮定する。職探しの結果、仕事を見つけると労働者は次期から就業する。また単位サーチ時間当た りの就業確率を m j とする。 [ 図 1 を挿入 ] 以上のもとで、セクター j に就業している労働者の価値関数 V(s j , .; .) は次のベルマン方程式を満たす。 V(s j , a; A) = max c c(s j , a; A)1−γ + β{(1 − δ j )V(s j , a0 ; A0 ) + δ j V(su , a0 ; A0 )} 1−γ subject to c(s j , a; A) + a0 (s j , a; A) ≤ w j + 1 g a(s j , a; A) + A 1+π 1+π (5) 次に失業者の行動について考える。各期の失業者は、自らの実質資産保有に基づき、フォーマル/イ ンフォーマルどちらのセクターで職探しを行うかを決定する。セクター選択に関する最適決定ルールを *7 Zenou(2009) は、フォーマル・セクターをサーチ・フリクションの存在する高生産性セクター、インフォーマル・セクターを完全 競争的な低生産性セクターであると仮定した。 以下の正当化は Zenou (2008) による。ただし Zenou (2008) は以下の事実を、インフォーマル・セクター労働者の on-the-job-search を認めないことの正当化として紹介している。続けて述べるように本稿でも、on-the-job-search はできないものと仮定する。 *9 先の脚注を参照。 *8 4 χ j (a; A) ∈ {χF (a; A), χI (a; A)} で表わす。すなわち、 χg (a; A), if V(su , a; A) = S (a; χg ; A) χ j (a; A) = χb (a; A), if V(su , a; A) = S (a; χb ; A) (6) である。この最適決定ルールは、以下のように導くことができる。まず、所与のセクター選択 χ j ∈ {χF , χI } の下で得られる失業者の価値 S (.; ., χ j ) は、次のベルマン方程式を満たす。 " # c(su , a; A)1−γ h(su , a; A)1+σ −ψ c,h 1−γ 1+σ + β{m j V(s j , a; A) + (1 − m j )V(su , a; A)} S (a; χ j ; A) = max (7) (8) (9) subject to c(su , a; A) + a0 (su , a; A) ≤ wu + 1 g a(su , a; A) + A 1+π 1+π (10) 失業者は自らの資産水準に基づき、より大きい価値をもたらす χ j を選択する。従って、失業中の個人の価 値関数 V(su , ., .) は以下で表わされる。 V(su , a, .) = max{S (a; ., χF ), S (a; ., χI )}, ∀a (11) 3 均衡 3.1 均衡の定義 本稿では単純化のために、定常競争均衡に絞って議論を行う*10 。 定義(定常競争均衡) 0 定常競争均衡は、以下を満たすインフレ率 {πt }∞ t=1 、最適決定ルール c = gc (s, a; A), a = ga (s, a; A)、 χ j (a; A) ∈ {χg (a; A), χb (a; A)}、および定常分布 Λ(s, a; A) により構成される。 1. 最適決定ルール c = gc (s, a; A)、 a0 = ga (s, a; A)、χ j (a; A) は家計の最大化問題を解く。 2. 貨幣市場は均衡している: Z Z a0 (s, a; A)dΛ(s, a; A) = A (12) s×a 3. 確率分布 Λ(s, a; A) は、[a0 (s, a; A), P] に関する定常分布である。 Z Z λ0 (s0 , a0 ; A0 ) = P(s, s0 )dΛ(s, a; A) s {a:a0 =ga (s,a;A)} (13) このモデルでは、毎期の失業に伴う所得ショックが完全には保険されないため、失業を長く経験した個人 とそうでない個人の間に、毎期資産格差が生じている。これが代表的個人モデルと異なる点である。しかし ながら、労働市場のアウトカムに関する運・不運の累積によって生じる資産格差は、十分長い時間が経過し たのち、定常な分布へと収束する。ここで定義した定常競争均衡は、資産分布が定常分布に収束したのちの 競争均衡を表わしている。 Acemoglu and Shimer (1999,2000) と同じく、本稿でも失業者がどのセクターで職探しを行うかに関する 最適決定ルールは、次のような閾値戦略(cut-off strategy)によって特徴付けられる。すなわち、資産水準 が閾値 a∗ を上回る失業者はフォーマル・セクターの仕事を探し、資産水準がこの値を下回る労働者はイン フォーマル・セクターの仕事を探す。後に述べるように、このモデルの一つの重要な結果は、この資産閾値 がインフレ率の水準の影響を受けることである。 *10 以下の定常競争均衡については、Aiyagari(1997)、Huggett(1993)、Imrohoroglu(1992) を参照のこと。 5 4 カリブレーションと数値計算 4.1 カリブレーション 以下のシミュレーションでは、1 期間は 1 週間に対応するものと想定してパラメータを設定した。4 種類 の貨幣成長率、0.0000(%)、0.18346(%)、0.35124(%)、0.50582(これらの値はそれぞれ、年率のインフレ率 で 0%、10%、20%、30% に相当する。 シミュレーションに用いたパラメータの値は、表 4 のとおりである。 [ 表 4 を挿入 ] また社会厚生関数は、Aiyagari and McGrattan (1998) に従って以下を用いる。 Z Z Ω= V(s, a; A)dΛ (14) s×a ただし Λ は定常分布関数である。すなわち Ω は、経済の初期分布が均衡定常分布であるとき、初期状態が 決定する前の個人にとっての生涯期待効用の平均的な値である。 Aiyagari and McGrattan (1998) が提案した厚生指標は、「全ての時点・状態において一定の率の消費を増 加させた場合に、ベンチマークとなる Ω の水準を達成するのに必要な、消費増加の百分率」で定義される。 この厚生指標は、貨幣成長率 g の下での社会厚生を Ωg 、ベンチマークのインフレ率の社会厚生を Ω とする と、上述した消費ベースの厚生指標は以下の λg から 1 を減じたものとなる。本稿ではインフレ率が 0 の ケースをベンチマークとする。貨幣成長率 g の下での社会厚生を Ωg 、ベンチマークのインフレ率の社会厚 生を Ω とすると、上述した消費ベースの厚生指標は以下の λg から 1 を減じたものとなることを示すことが できる。 λg = Ωg 1 ! 1−γ Ω (15) ただし Ωc は、Ωg のうち労働の不効用に起因する部分を除いたものである。 また、平均消費と平均所得はそれぞれ以下に従って計算される。 Z Z Ec = c(s, a; A)dΛ s×a Z Z Ey = V(s, a; A)dΛ ⇐ (16) (17) s×a 4.2 数値計算結果 モデルの数値計算結果は、表のとおりである。 [ 表 5 を挿入 ] 定常競争均衡におけるインフレ率は、貨幣成長率に等しいので、表における貨幣成長率の値は全てインフ レ率に読み替えることができる。従って、より高いインフレ率のもとで、以下が成立することが分かる。 1. 実質貨幣残高の均衡水準は低い。この結果は Imrohoroglu(1992) に準ずる。インフレが貨幣保有のイ ンセンティブを阻害することによる。 2. 職探しの最適決定ルールに関する資産閾値は高い。すなわち、より低い貨幣成長率の下でフォーマ ルセクターで職を探していた家計の一部は、インフォーマル・セクターにて職を探している。これは フォーマル・セクターにおける職探しがリスキーな投資に相当することによる。より高いインフレ率 の下では、蓄積された貨幣の価値の目減りの速度はより早い。従って、より低いインフレ率の下で フォーマル・セクターにて職探しを行っていたであろう失業者のうち、資産保有の規模が十分に大き くない個人は、より安全な投資機会であるインフォーマル・セクターにおける職探しを選好するよう になる。 6 3. 社会厚生は低い(表 5 を参照)。これには 2 つの効果が存在する。Imrohoroglu (1992) により指摘され た、インフレーションが消費平準化を阻害する効果と、インフォーマル・セクター雇用が増加すること による、平均賃金低下の効果である。均衡では資源制約により平均所得と平均消費は等しいので、よ り高いインフレ率のもとでは、平均消費の値も小さくなる*11 。 さらに、貨幣成長率の上昇に従って、失業率は一貫して減少すると同時に、インフォーマルセクター雇用 者比率は一貫して増加する(図 7)。この背後には、2 つの効果が存在する。第 1 に、前述したようにより 高いインフレ率に対応する定常競争均衡における資産閾値はより高い。これはより高いインフレ率の下で 自己保険が困難となるため、個人はリスキーな投資であるフォーマルセクターの職探しを嫌うようになるこ とを示している(表 5 を参照)。第 2 に、より高いインフレ率のもとでは、均衡資産分布は下方にシフトす る(図 7 を参照)。すなわち、低資産家計が増加する。これらはともに、失業率を押し下げる方向に作用す ると同時にインフォーマルセクターでの職探しを行う個人の割合を増加させる。 5 労働供給・職探し時間が分割可能な場合 ここまでの議論では、職探し時間および労働時間が分割不可能とされていた。本節ではこの仮定を緩め る。個人は、消費効用と労働不効用に関して分離可能な CRRA 型効用関数を最大化する。 ∞ X E0 βt U(ct , ht ) = E0 t=0 ∞ X t=0 1−γ c h1+σ − ψ t βt t 1−γ 1+σ (18) ここで E0 は第 0 期における期待値オペレータ、β(0 < β < 1) は割引因子、γ は相対的危険回避度、 σ ∈ [0, +∞) は労働の異時点間代替の弾力性(フリッシュ弾力性)の逆数である。個人は毎期、消費 ct から 効用を得、労働 ht から効用を得る。本節では個人は毎期、分割可能な 1 単位の時間を賦与されているとす る。実質表示の予算制約式は次のように書くことができる。 ct + at+1 ≤ yt + 1 gt at + At 1 + πt 1 + πt (19) ただし、at+1 ≡ mt+1 /pt および At+1 ≡ Mt+1 /pt である。就業中の個人は毎期の所得として、時給に労働時間 を乗じた額、y(s j ) = w j h(a) を受け取る。また失業中の個人は家内生産により y(su ) = B を得る。 就業中の個人はフォーマル・セクターとインフォーマル・セクター、いずれかのセクターにおいて労働を 供給している。失業中の個人は、どちらのセクターで職探しを行うかの他に、職探しにどれだけの時間を費 やすかも併せて決める。失業者の職探し行動を後ろ向きに解けば、まずどちらのセクターにおいて仕事を サーチするかを決定し、さらに職探しに費やす時間 h(a) を決定すれば良いことが分かる。職探しに成功す る確率は m j h(a) で表わされるとする。また時間が分割可能である場合と同様、インフォーマル・セクター からフォーマル・セクターへ直接移動すること(on-the-job-search)はできないと仮定する。 フォーマル・セクターとインフォーマル・セクターの賃金率と入職確率について、wF > wI 及び mF < mI が成立している。また解雇確率については δF = δI である。 以上のもとで、セクター j に就業している個人の価値関数 V(s j , .; .) は次のように表わされる。 " V(s j , a; A) = max c,h # c(s j , a; A)1−γ h(s j , a; A)1+σ −ψ + β{(1 − δ j )V(s j , a0 ; A0 ) + δ j V(su , a0 ; A0 )} 1−γ 1+σ subject to c(s j , a; A) + a0 (s j , a; A) ≤ w j h(s j , a; A) + g 1 a(s j , a; A) + A 1+π 1+π (20) 次に失業者の行動について考える。各期の失業者は、自らの実質資産保有に基づき、フォーマル/イ ンフォーマルどちらのセクターで職探しを行うかを決定する。セクター選択に関する最適決定ルールを *11 実際の数値計算では、貨幣市場の清算条件を用いて均衡を計算しており、財市場の清算条件は用いていない。表から平均所得と平 均消費は等しく、従ってワルラスの法則の成立を確認できる。 7 χ j (a; A) ∈ {χF (a; A), χI (a; A)} で表わす。すなわち、 χg (a; A), if V(su , a; A) = S (a; χg ; A) χ j (a; A) = χb (a; A), if V(su , a; A) = S (a; χb ; A) (21) である。この最適決定ルールは、以下のように導くことができる。まず、所与のセクター選択 χ j ∈ {χF , χI } の下で得られる失業者の価値 S (.; ., χ j ) は、次のベルマン方程式を満たす。 " # c(su , a; A)1−γ h(su , a; A)1+σ −ψ c,h 1−γ 1+σ + β{m j h(su , a; A)V(s j , a; A) + (1 − m j h(su , a; A))V(su , a; A)} S (a; χ j ; A) = max (22) (23) (24) subject to c(su , a; A) + a0 (su , a; A) ≤ wu + 1 g a(su , a; A) + A 1+π 1+π (25) 失業者は自らの資産水準に基づき、より大きい価値をもたらす χ j を選択する。従って、失業中の個人の価 値関数 V(su , ., .) は以下で表わされる。 V(su , a, .) = max{S (a; ., χF ), S (a; ., χI )}, ∀a (26) 6 カリブレーションと数値計算―労働供給・職探し時間が分割可 能な場合 6.1 カリブレーション カリブレーションは、基本モデルのパラメータ(表 4)に準ずる。労働供給・職探し時間を内生化した結 果、拡張モデルでは新たにフリッシュ弾力性の値をカリブレートする必要がある。フリッシュ弾力性の推定 については現在でも活発な議論が存在するが、ここでは多くの研究に従い σ = 1 を用いることにする。ま た ψ = 1 とする。労働時間・職探し時間が内生である場合にも、先の分析を若干修正することで Aiyagari and McGrattan (1998) の厚生分析を行うことができる。労働供給・職探しが外生の場合と同様に、厚生指標 を「全ての時点・状態において一定の率の消費を増加させた場合に、ベンチマークとなる Ω∗ の水準を達成 するのに必要な消費増加の百分率」と定義するが、労働供給・職探しが内生であるので、労働供給行動・職 探し行動はベンチマークケースの最適決定ルールに固定する。具体的には、貨幣成長率 g の下での社会厚 ∗ 生を Ω∗g 、ベンチマークのインフレ率の社会厚生を Ω とすると、上述した消費ベースの厚生指標は以下の λ∗g から 1 を減じたものとなることを示すことができる*12 。 ∗ 1 Ω∗g − Ω 1−γ λ = 1 + Ω∗g c ∗g (27) ∗g で表わすことができる。ただし、Ωc は、Ω∗g のうち労働の不効用に起因する部分を除いたものである。 Ω∗g c の近似値は、数値的に得られた最適決定ルールから、求めることができる。まず、最適決定ルールか ら任意の初期値 (a0 , s0 ) から人生を始めた場合に T 期間の生涯に得られる、消費効用の割引現在価値和を求 めることができる。このような生涯消費効用は、(T が有限の場合には)労働市場における運・不運に依存 したものとなるが、このシミュレーションを十分多く繰り返すことで、任意の初期値 (a0 , s0 ) のもとで得ら れる生涯消費効用の期待値を得ることができる。この操作を全ての初期値 (a0 , s0 ) について繰り返して求め g られた生涯消費効用を、定常分布で加重平均することにより、Ωc の近似値を得ることができる。 *12 補論を参照のこと。 8 6.2 数値計算結果―労働供給・職探し時間が分割可能な場合 労働供給・職探しを内生化したモデルの数値計算結果は、表 6 のとおりである。 [ 表 6 を挿入 ] より高率のインフレーションが持つ含意は、労働供給・職探しが外生の場合と定性的には変わらない。特 に図 7 より、貨幣成長率の上昇に従って、失業率は一貫して減少すると同時に、インフォーマルセクター雇 用者比率は一貫して増加することが分かる。この背後には、まず、労働供給・職探しが外生の場合と同様の 2 つの効果が存在する。すなわちより高い資産閾値とより低資産の失業者が増加すること(図 7)により、 インフォーマル・セクターでの職探しを選好する失業者が増えることである。職探しが内生的なケースでは さらに、次のような効果が存在する。6 から、貨幣成長率が高いほど失業者の平均的な職探し時間も長いこ とが分かる。これは相反する 2 つの効果の結果である。まず、所与の貨幣成長率のもとで、低資産の失業 者ほどサーチ時間は長いが、より高い貨幣成長率のもとでは低資産の個人が増加する。これは平均サーチ 時間を押し上げる効果を持つ。一方で、所与の実質資産のもとで、インフレ率が高いほどサーチ時間は短く なる(図 7)。これは平均サーチ時間を押し下げる方向に作用する。しかしながら、少なくとも表 4 のパラ メータの値の下では前者の効果の方が大きくなる。 7 結論 本稿では、途上国におけるインフレ率と失業の長期的な負の相関関係―長期フィリップス曲線―がどのよ うなメカニズムによって生じるのかを検討した。Acemoglu and Shimer (1999,2000) 流のディレクテッド・ サーチモデルを一般均衡の貨幣経済にすることで、 個人がフォーマルセクターとインフォーマルセクター のいずれかにおいて就業し、また貨幣の蓄積と取り崩しにより失業に対する自己保険を行うモデルを考え、 シミュレーションを行った。モデルのシミュレーション結果からは、インフレ率の上昇とともに失業率は単 調に減少するとともにインフォーマルセクター雇用比率が単調に増加することが示された。 参考文献 [1] 今井亮一、工藤教孝、佐々木勝、清水崇著、(2008) 『サーチ理論 分権的取引の経済学』、東京大学出 版会。 [2] Acemoglu, Daron (2001), “Good Jobs versus Bad Jobs,” Journal of Labor Economics, vol.19, no.1, 1-22. 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