パタゴニア大自然と 南部アンデス ・ バリローチェの旅 南米アルゼンチン・チリ両国の南緯40度以南はパタゴニ アと呼ばれている。両国はアンデス山脈で東西に分かれて いる。チリ側は偏西風が山脈に吹き付け雨や雪を降らせ緑 1 世界最南端の町 “ウシュアイア” カラファテで名物の強風(疑問だが80m/s と言っていた) に会いフライトが3時間遅れてビーグル水道に面した南 豊かだが、アルゼンチン側は乾燥しきった風が大地に吹き 緯55度のウシュアイアに降り立った。北半球ならサハリン 荒れる。アンデス山脈には多くの氷河が今でも残っている。 (樺太)の北のはずれ迄来た事になる。あと1,000km で南極 降雪量が多いので上流では年々成長をし続けるが氷河の先 大陸の半島に位置し、ここからは南極への遊覧飛行や観光 端は海や氷河湖にずり落ち崩落を繰り返す。 用クルーズも出発する。南の果ての飛行場はユニークで管 最南端には、16世紀にマゼランが発見したマゼラン海峡 とダーウィンが航海したビーグル水道が横たわっている。 制塔が丘の上にあり、空港ビルディングは自然の木材を上 手く利用したモダンな建物であった。1万年以上前の最後 長い冬が終わり春から夏に向かう11月の陽気は山に残雪 の氷河期に、モンゴロイドがベーリング海峡を渡ってアメ が残り、北半球では見ることが出来ない珍しい花が咲き誇 リカ大陸を延々と旅しここまで到達した話をテレビで見た る観光シーズンが幕を開く。日本の丁度裏側に位置し交通 ことがある。その後ヨーロッパから移住してきたスペイン の便も悪く、18日間を飛行機に13回も乗り複雑な経路を辿っ 人が生活した道具類が民族博物館に展示してあり、昔の開 たが、便宜上南から北に沿った順番で旅の思い出を綴るこ 拓の様子が解った。ここには金・石油・天然ガスといった とにする。 地下資源があり、1914年にパナマ運河が開通するまでは太 平洋と大西洋を行き来する重要な航海路であった。今でも 6万人の住人が暮らしている町を見下ろす小高い丘の斜面 に建っている綺麗なホテルに一泊した。夜は部屋から南十 字星を見ることが出来た。 翌朝ビーグル水道をクルーズするツアーに参加した。沖 には豪華な大型観光船が停泊していた。夏の期間だけ南米 の沿岸をクルーズする定期船だそうだ。我々は他の団体と 乗り合いの小さな水中翼船で狭い水道を巡りアシカ・うみ 鵜・アザラシ・オットセイ等の鳥や動物を見学した。この 水道はアルゼンチンとチリの国境で1860年代にイギリスの 生物学者ダーウィンが通った時の船の名前「ビーグル号」 図1 地図 56 SEAJ Journal 2007. 3 No. 107 写真1 パンアメリカンハイウェイの終点 パタゴニア大自然と南部アンデス ・ バリローチェの旅 に因んで名付けられた。その後船を下り豪華な蟹の昼食を マゼラン海峡の大西洋側の入口は間口35km もあり河口 味わった。タラバガニがお皿一杯盛り込まれ食べ切れない か海峡かマゼランには解らなかったと思う。プンタ・アレー 程の量であったが、全員大騒ぎして頬張り誰一人残さず食 ナスの丘の上から海峡を望んだが対岸は30km 以上もあり べきったのにはビックリした。 遥かかなたに霞んでいた。ところが詳細な地図を見ると、 町の西を約20km 進むと道路の終点になる。ここはアラ 太平洋側はフィヨルドの小さな島々が連なっていて狭い海 スカのフェアーバンクスから遥か17,848km 続くパンアメリ 峡を通り抜けなければならなかった。マゼランによりこの カンハイウェイの終着点である。かつて囚人をこの最果て 海峡は大西洋から太平洋に抜ける航路として発見されたが、 の地に送り木材の切り出し作業に従事させた名残のトロッ 実用的にはビーグル水道を通るか、南端のホーン岬を通る コ鉄道が観光用に残されていて、 “世界の最果て列車”と呼 コースが主に使われたそうだ。 ばれている。乗車前の待ち時間にはアルゼンチンタンゴを チリの首都サンチアゴから2,400km 離れたプンタ・アレー 生演奏するグループが居たが、その音楽に釣られて狭い駅 ナスに来た目的は次に延べるパイネ国立公園へバスで向か 舎で踊りだす南米人が居た。我々ツアーの中からも何人か う玄関口だからである。翌日、パイネ国立公園へ向かう途中、 誘われ踊りだす陽気な場面に出くわした。 町から未舗装道路を1時間程走りペンギンの営巣地に立ち 寄った。体長約70cm のマゼランペンギンが愛嬌を振りまい 2 マゼラン海峡に面した港町 “プンタ ・ アレーナス” ている可愛い姿を沢山見ることが出来た。 1480年ポルトガルの貴族の子として生まれたフェルナン ド・マゼランは1513年モロッコの戦いで足を負傷した。そ 3 氷河で削られた山と湖の “パイネ国立公園” の後スペイン王に掛け合い西回り世界一周に旅立ったのは プンタ・アレーナスから北へ約200km パンパ高原を走り 1519年9月20日だった。総員265人が5隻の船に分乗し翌年 プエルト・ナタレスという町に到着した。バスにガソリン の11月28日に全長560km の細長く曲がりくねった海峡を抜 補給して更に約150km 進み国立公園の入口ゲートに到着し けて太平洋に達した。更に苦労の連続で、目的の香料諸島 た。砂煙を撒き散らしながら対向車とすれ違いサンミエン (今のインドネシア中央部)に辿り着いた時は一年後で、たっ ト湖の北側を走り続けると氷河によって削られた花崗岩の たの2隻になってしまった。その内の1隻トリニダード号 岩峰群が目の前に表れた。パイネ・グランデだ! 手元の は積荷の香料が重すぎて浸水。3年掛かってスペインに帰 ガイドブックでは標高3,050m と書いてあったが3,248m の方 港した時にはビクトリア号のみでたったの18人だった。マ が正しい様だ。帰国後色々な本を読んだら違うことが解っ ゼラン自身は1521年4月にセブ島にて戦死してしまい世界 た。軍事機密の為だろうか、チリは自国の地理を詳細に公 一周はできなかった。 表したがらないようで地図情報は古いままだった。グーグ 我々の宿泊したホテルの直ぐ前にアルマス広場があり、 マゼラン像が大砲に足を掛けて立っていた。大きな像の四 ルアースを見ても詳しい地図はリンクしていなかった。こ こにも隣国アルゼンチンとの不仲が伺える。 面足元には先住民族が腰掛けている像があり、その足に触 起伏に富んだ道を暫く行くと西隣の湖であるペオエ湖が れると無事航海を終えることができる(転じて幸福になれ 見えてきた。湖上に浮かぶ小さな島に桟橋が掛かっている。 る)という言い伝えがあり多くの人々に撫でられた足がテ 何時ものツアーならこの島に建てられたホテルに宿泊する カテカ光っていた。 のだが、今回我々のツアーに限っては更に10km 以上南に 写真2 マゼラン像 写真3 マゼランペンギン SEAJ Journal 2007. 3 No. 107 57 あるホテルに移動しなければならなかった。このホテルに した。この日も晴れていてパイネ国立公園を象徴する印象 宿泊し湖面越しに朝焼けに光るパイネの山群を眺めたら最 的な3本の岩峰“トーレス・デル・パイネ”が見えるとこ 高だろうと想像できる。このホテルにてっきり宿泊出来る ろまで車で行った。行く途中にはラクダの一種であるグア と思っていた一部の客からは添乗員に不満を漏らしていた。 ナコを沢山見かけた。又、バスの運転手がコンドルを見付 添乗員は「このホテルは部屋の設備が余り良くなく、今回 ける度に臨時停車してくれるがカメラに納められる距離ま 皆さんが泊まるホテルの方が高価なのですよ」としきりに でにはなかなか近づいてくれない。それにしても運転しな 言い訳を言っていた。 がら良く見付けられるものだと感心した。アマルガ湖の湖 翌日は幸い晴れ上がり、朝日に照らされたパイネグラン 畔をピクニックしたら足下にタンポポが一面に咲いていた。 デの雄大な山並みと独特の形をした“パイネの角”を眺め 三峰の頂上付近は雲が掛かっていたが約1,200万年前地下か ることが出来た。ここでは3連泊することになっている。 ら隆起した花崗岩の岩山で、これを覆っていた白亜紀の推 中日には例の湖上ホテル迄マイクロバスでドライブするオ 積岩が氷河によって浸食されこの様に尖った姿になったそ プションツアーを仕組んで貰い夜明け前に出発した。桟橋 うだ。 を渡り島の最も高いところまで暗闇の中を登りカメラを セットしたが、生憎雲が多く期待の写真を撮ることは出来 なかった。 4 崩落の瞬間を見損なった “ペリト ・ モレノ氷河” パイネ国立公園はアンデス山脈の東側に位置するがペ 2日目はパイネ国立公園の西外れにあるグレイ氷河を見 ルーに属する。プンタ・アレーナスに到着してからずっと 学に行った。途中の橋は重量制限で大型バスは通行禁止な ペルー側を旅していたが、本日はいよいよアルゼンチン側 ので2台のマイクロバスに分乗してグレイ湖の南端まで に渡ることになる。これまでお世話になった現地ガイドさ 行った。実は我々がプンタ・アレーナスから遠路乗ってき んとバスに別れを告げアルゼンチン側のバスに乗り移った。 た大型バスがホテル到着後駐車場で夜中に他の車にぶつけ パタゴニアの大地(パンパ)を走り続け、200km 行くとア られ走行不能になってしまったので、代替のバスを手配中 ルゼンチンで一番大きいアルヘンチィーノ湖に到着した。 である為でもあった。車から降り、歩き始めたら小さな吊 湖のほぼ中央南湖岸に接してカラファテという人口4,000人 り橋が掛かっていた。湖畔を歩き遥かかなたに氷河が見え の町があり、ロス・グラシアレス国立公園観光の基地であ る所まで強い風の中を埃まみれになりながら向かった。崩 る。グラシアレスとはスペイン語で氷河。従って日本語で 落した氷河の欠片が風に流されて岸辺に寄せられていた。 は“氷河国立公園”となり、大きなものだけでも47個もの 湖面から拾い上げ添乗員と現地ガイドが用意したウィス 氷河があり、ユネスコの世界遺産に登録されている。総面 キーで水割りにして全員で乾杯した。午後はパイネグラン 積は4,459km2 で山梨県とほぼ同じ大きさである。冬の最低 デとパイネの角が目の前に迫って見える所までハイキング 気温が比較的高いので氷の溶解、再氷結が短いサイクルで した。11月で山には真っ白く雪が残っていて山頂の部分に 繰り返される。その結果氷河の最先端部では巨大な氷塊が は氷河も見ることが出来た。足下には変わった花が色とり 轟音と共に湖へと崩落している様子を見ることが出来る。 どり咲いていた。最も変わった花には可愛らしく“乙女の テレビで度々見る機会があったがその凄まじさを自分の目 スリッパ”という名前が付いていた。 で見ることとビデオカメラに収めることが今回の旅の最大 3日目の当地最後の日は国立公園の北東端までドライブ 写真4 パイネ国立公園 58 SEAJ Journal 2007. 3 No. 107 の目的であった。ところが西側の湖上から船で2時間、南 写真5 乙女のスリッパ パタゴニア大自然と南部アンデス ・ バリローチェの旅 写真6 ペリト・モレノ氷河 写真7 氷河の崩落 側の丘からの遊歩道では3時間、眺め続けたがとうとう“大 れた。バスは古くさくほこりだらけでタイヤも磨り減って 崩落”を見ることは出来なかった。船から小規模な崩落が いて本当に動くのだろうかと疑わしかった。我々17名と他 一回と、丘から遠方で発生し湖上に氷が大きく輪を描いた の団体の外国人が乗り次の湖まで20分程度の移動だった。 のをビデオカメラに収めただけだった。それにしても高さ 1年間に1㎜しか成長しない杉が道の両側にそびえ立って 数十 m、横幅5km の氷河の先端を間近で見ることが出来 いる。過去に建築材料として大量に伐採されてしまった為 満足だった。ヨーロッパや一部のカナダの氷河は年々溶け に今では伐採が禁じられ保護されているとのことだった。 続け後退しており、将来は無くなる運命であろうと想像さ 回りを山に囲まれた小さなフリアス湖だ。氷河湖で凄く濃 れる。しかしながらここパタゴニアの氷河は規模が大きく い青色をしている。風も全くなく穏やかでゆっくり船は南 滋養、移動、消耗を繰り返しつつ全体の氷雪量の収支を保っ の方向に進んでいく。見るべき景色もなく多くの乗客が椅 てほぼ一定の位置に存在している。 子に座って寝ている。次のバスに乗り換えていよいよアル ゼンチンからチリへと峠の国境を越える。先程のバスより 5 南米のスイス “バリローチェ” はましなバスで未舗装の道を思いっきり飛ばす。毎日の晴 パタゴニア地方としては最も北側に位置しアルゼンチン・ 天で雨が無く道はほこりだらけだ。湖が海抜800m で峠の頂 チリ両国にまたがった山と湖の国立公園で景色がスイスに 上が約1,000m。従って約200m の上り坂で両脇はナンキョク 良く似ているので“南米のスイス”と呼ばれている。19世 ブナの林が続く。道は狭く対向車とはすれ違えない。お互 紀末、スイス・ドイツそしてオーストリアから多くの移民 いにトランシーバーで連絡し合っているそうだ。途中で沢 が移り住み、湖畔沿いにスイス風のロッジが並んでいる。 山の箱を積んだトラックに追い越された。後で解ったこと ブエノスアイレスからの直行便でバリローチェに到着した だが我々観光客のトランクを積んで先回りをして国境税関 日も快晴だった。ゴンドラで丘の上に登り国立公園の全貌 まで運んでいたのだ。峠の頂上は地理的な国境で木製のゲー を360度望んだ。山には雪がかぶっており湖は氷河湖らしく トは在ったが入国検査をする検問所はチリ側に暫く下った きれいな青色をしていた。 ところまではない。一旦バスを降り「ようこそアルゼンチ 翌日は東のアルゼンチン・バリローチェから西のペルー・ ンへ」と書かれた標識がチリ側から書かれた所で記念写真 プエルトバラス迄を船と連絡バスを乗り継ぐツアーに参加 を撮った後バスに戻り、又バスに揺られて坂を下った。約 した。国立公園内は両国共自然保護を徹底的に管理運営し 700m 下った所に検問所があった。各自手荷物を全部持参し ており、私有財産の所有を許さず観光バスの乗り入れを許 バスから降りた。別トラックで既に運ばれた自分のトラン 可していない。従ってバスも船も他の団体客と同一行動に クを探し出しパスポートと入国手続き書類を係官に提出す なった。ナウエルウアピ湖のジャオジャオ港から観光船に る。無作為だと思うが何人かは手荷物とトランクを全部開 乗り込んだ。日本人は我々のツアーだけで船上はスペイン けさせられた。アルゼンチンとチリとは仲良くなく自然保 語とフランス語で賑わっていた。クッキーを手に持ち高々 護の為なのか植物の種の持ち込みが禁止されている。ロー と振りかざすとカモメが器用に飛び付きくわえていった。 ズヒップのお茶を没収された仲間がいた。糖尿病の予防に 船が進むに従い湖の色は微妙に変化するが、1,200万年前は なると言われて自分も何個かつられて購入したお茶である ここもすっかり氷河で覆われていた筈だ。暫くして湖の西 が、葉だけでなく種も入っているというのが係員の言い分 側に到着すると我々は20号車のバスに乗り込むよう指示さ である。税関を通り過ぎると暫くは大きな河沿いの道をバ SEAJ Journal 2007. 3 No. 107 59 スは走り続ける。回りの山と河原を見ているとネパールの 回は一人参加だったが新たな旅友達が出来、思い出話を夜 ジョムソン街道が思い出される様な風景だった。 遅くまで話し合った。 ドド・ロス・サントス湖に到着した。乗り合いツアー最 おく つ かずひさ (元広報部 部長 奥津 和久) 後の船に乗船して暫く進むと汽笛を鳴らした。船の右側に 見える半島にはモレノ博士のお墓があるそうだ。彼はパタ 参考資料 ゴニア地方の地理研究学者で国境の策定にも尽力した功績 1 「アルゼンチン・チリ・・・」地球の歩き方 ダイヤモンド・ビッ を讃えて、ここを通過する船は必ず汽笛を鳴らすことになっ ているそうだがペリト・モレノ氷河のペリトはスペイン語 で博士、モレノは人の名前。まもなくすると半島の蔭から 富士山が見えてきた。頂上に雪を被ったきれいな対象型を した活火山で標高2,652m のオソルノ山である。我々日本人 は“チリ富士”と呼ぶがチリ人が日本へ来て富士山を見た ら“日本オソルノ山”と呼ぶことだろう。本日最後のバス は我々ツアー専用で大きな湖であるジャンキウエ湖の南面 をホテルまで移動した。この湖は琵琶湖の1.3倍あるそうだ が、周りの景色が雄大なので大きさの実感が沸かない。長 い旅であったがとうとうパタゴニア最後の夜になった。今 写真8 “南米のスイス” 氷河の消失により海面上昇の危機? 「ヒマラヤ氷河が急激に溶け、大洪水を引き起こす恐れがあ る。 」 「世界の山岳氷河は1980年代の10年間で厚さが約2m 薄 くなった。全長100m ほどの小型氷河は今世紀中に完全になく なる可能性も大きい。 」と温暖化の関連図書に書いてある。こ のまま温暖化が進むと氷河が消失し海面上昇の危機が訪れ、 南の島が消え日本の海岸線が殆ど無くなると心配されている。 CO2 の削減を真剣に取り組まないと温暖化が加速され地球の 平均気温は上昇し海面上昇の危機が迫ることは理解できる。と ころで氷河の消失はそれ自体で海面上昇につながるのだろう か? 疑問に思っていたら NHK の高校講座地学で「温暖化で の海面上昇は海水の熱膨張に依る」との解説を聞いてビックリ した。 そもそも地球表層に存在する水分の97%は海水であり、残 りの3%が淡水だそうだ。そして淡水の90%が南極大陸、9% 60 SEAJ Journal 2007. 3 No. 107 グ社発行 2 「パタゴニア」(氷河・氷河地形・旅・町・人)安仁屋 政武著 古今書院発行 3 「Flora Torres del Paine」Osvaldo Vidal O. 著 Editorial Fantastico Sur Ltde. 発行 4 「Handbook of LAGO ARGENTINO & GLACIAR PERITO MORENO」Miguel Angel Alonso 著 ZAGIER & URRUTY 発行 5 「世界の探検家列伝」竹内 均編集 ニュートンプレス発行 6 「氷河の科学」若浜 五郎著 日本放送出版協会刊 1978. 6.20 7 「温暖化は憂うべきことだろうか」 近藤 邦明著 不知火書房発 行 2006.07 8 「パタゴニア探険記」高木 正孝著 岩波書店発行 写真9 “チリ富士”オソルノ山 がグリーンランドの雪氷である。氷河の全てを合計しても1% であり海水を含めると0.03%に過ぎない。到底氷河が溶けて海 面が上昇するとは思えない。しかも淡水の大部分である南極大 陸は、大陸部の氷の増加量と海岸部の崩落する減量とのバラン スが取れているそうだ。 南極大陸で日本隊は地下3,000m までの氷を掘削して約72万 年前まで積もった雪の分析をしている。2,500m 分までの解析 が終わり34万年間の気候変化が判明し3回間氷期が有ったこ とが解った。13万年前、25万年前そして34万年前に大気が急上 昇し間氷期を迎えた過去の原因はなんだったのだろうか? ロングスパンで地球を考えるといずれ氷河期を迎えると、セビ リアの地球物理学者ミランコビッチは1920年代に学説を唱え ている。地球の公転軌道が楕円であることと、地軸の傾きが変 化することでシミュレーションを行った。
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