エジプト周遊 8日間

エジプト周遊 8日間
ドは奴隷に作らせたのではなく、ナイル川の増水期に農業が
出来ない人々の生活を助けるために考えた当時の公共事業の
為だったというのが最近の学説である。ナイル川は毎年7月
から9月に掛けて増水し広大な農地に上流からの肥沃な栄養
分を含んだ水で埋め尽くされる。ピラミッドに使われた莫大
な石は上流で切り出され船で運ばれてくる。そのためにはピ
ラミッドが砂漠の真ん中ではなく増水時に船が接岸できるナ
イル川の沿岸に建設されたことが納得できる。
赤のピラミッドと屈折ピラミッド(ギザ近くのダハシュール)
「赤のピラミッド」はクフ王の父であるスネフェル王のも
ので、近くのメイドゥームにも古代エジプト史上初めての
四角錐である真正ピラミッドを建設した。ここで考えられ
た工法はその後600年間に渡って受け継がれたのである。底
世界四大文明発祥の地エジプトは誰でも一回は行ってみ
辺が219m、高さが105mあり、その角度は43度22分である。
たくなる憧れの地である。1965年上野の森で長蛇の列を並
この角度は手で握った砂を下に落として出来る砂山の角度
び一瞬のみ拝見したあの黄金マスク“ツタンカーメン”等
とほぼ同じ角度である。砂粒の一つ一つをピラミッド建設
の財宝にゆっくり再会したい。
用の石材と考えてみると崩れにくい角度だったことが理解
エジプト航空の直行便で成田から14時間、カイロに到着
できる。使われた石が鉄分の多い赤みを帯びた石灰岩で表
したのは夜の10時近かった。翌日のピラミッド見学からア
面が風化して赤っぽく見えることから「赤のピラミッド」
ブシンベル、アスワン、ルクソール、アレキサンドリアの
と呼ばれるようになった。限られた見学時間だったが有志
各地を巡りカイロに戻る七日間のコース。慌しい旅ではあっ
数人でピラミッドの内部に入ることにした。狭い急な階段
たがエジプト文明の主だった観光地を殆ど巡る効率の良い
を前かがみになって何回も天井に頭をぶつけて降り続ける。
行程である。旅をした順番ではなくナイル川沿いにカイロ
暫くすると今度は上り階段である。行き交う事もままなら
からアブシンベル迄辿り、最後にアレキサンドリアからカ
ない狭い通路だった。最も奥の部屋に辿り着くと更に急な
イロに戻る順に観光した場所の印象を綴ってみる。
階段が待ち構えていた。四千年以上の大昔によくも作った
ものだと感心すると共に墓泥棒も大変だったろうなと妙な
階段ピラミッド (ギザ近くのサッカラ)
感心をしてしまった。
最古のピラミッドと言われている第三王朝ジォセル王の
「屈折ピラミッド」は下の部分の勾配が54度27分で、上の
墓は、宰相イムホテプによって紀元前2620年頃造られた。
部分が43度22分になっている。石を積み上げていく過程で
従来使われていた日乾しレンガから初めて石材(石灰岩)
角度が急勾配過ぎて石の重量が支えきれなくなった為だと
が用いられた。何回かの製作段階を重ね最終的には六段の
推定されている。
階段状になっている。東西約130m、南北約110mで高さが
約60mという巨大なものである。近づいて見るとそれぞれ
三大ピラミッド(ギザ)
の石は風化していて配列も崩れているが当時は綺麗に磨か
今から4,500年ほど前のクフ王、カフラー王そしてメンカ
れて真っ白く光り輝く石灰岩であったのだろう。
ウラー王の時代に作られたピラミッド群で、最も完成度が
そもそもピラミッドは砂漠の真ん中にぽつんと建って
高く有名なものである。近くには大きなスフィンクスもあ
いると思ったが間違いだった。宿泊したギザ市内のホテルか
りエジプト観光では必ず行く所である。朝食後ギザのホテ
らも見ることが出来た。見学前に詳しい説明を受けて間違っ
ルを早々に出たが既に何台もの観光バスが並んでいた。9
た理由が解った。そもそも王の墓として建設されたピラミッ
時の開門と同時に先を争うようにクフ王のピラミッドの前
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エジプト旅行記
に到着した。説明が終わると同時に中に入場する。広々と
て結ばれていた。アムン神はもともとテーベの地方神だっ
した通路を我先に奥へ奥へと進む。テレビやビデオで何回
たが町の発展と共に太陽神ラーと結合して国家の最高神と
も見たが実際に自分の足で大回廊を歩いていると“四千年
なった。王であるファラオはアムン神の庇護の元の存在に
以上前に巨大な石を精度良く加工し遠くから運び積み上げ
なり、神殿、オベリスク、神像などを寄進し巨大な建築群
てそのまま残っているのか!”と思うと古代人の偉大さが
となった。
しみじみ伝わってくる。外に出て改めてこの大きさを実感
カルナック神殿は巨大な第一塔門の前にスフィンクスが
した。個々の石が平均2.5トンでなんと全てで230万個積み
並び、次の第二塔門に続くがその大きさに圧倒される。次
上げたそうだ。一辺が230m、高さが完成時には146mだっ
の列柱室には高さ23mと15mの巨柱が134本も並んでいる。
たそうだ。
(現在は137mだが鉄の棒が頂上に立っていてか
又、ラムセス二世の巨像を見上げると首が疲れる。それぞ
つての高さを示しているそうだ。避雷針ではない!)
れの柱や壁には色々な戦の図や象形文字が刻まれている。
夜ともなると「音と光のショー」がオプションで見学できる。
遺跡を次々にライトアップし奥の池まで誘導し四千年以上
に渡る歴史を物語風に説明してくれる。
クフ王ピラミッドの警備員
一方、カフラー王のピラミッドを守るような位置には高
さ20m、長さ57mの巨大なスフィンクスが横たわっている。
これも天然の岩石を基に造られている。アラブ人の侵入に
ルクソール神殿でのラムセス二世像
より鼻が削られ、イギリス人には長いひげを取られてしまっ
ルクソール神殿はカルナック神殿より規模は小さいが正
てのっぺりした顔になっている。同行の女性からスフィン
面のオベリスクが有名である。何故かと言うと対になって
クスとキッスをしたような写真を撮りたいとカメラを渡さ
いる筈のオベリスクの右側が無い!1831年にエジプト総監
れ、狭い塀によじ登り何回かシャッターを切った。
モハメド・アリがフランスに寄贈してしまい、パリのコン
コルド広場に聳え立っている。(フランスはそのお礼にカイ
ラムセス2世の巨像(ギザ近くのメンフィス)
ロの丘にあるモスクに掛け時計を贈ったが今は壊れたまま
ピラミッドとスフィンクスの観光途中に古代エジプト古
で止まっている)
王国時代に首都として栄えたメンフィスに立ち寄った。庭
にはアラバスター(雪花石膏)製のスフィンクスが端正な
王家の谷(ルクソール西岸)
顔立ちで横たわっていた。1912年に発見されたばかりだそ
古代のエジプト人は死後の安住地は太陽が沈む西側にあ
うだ。15mもあるラムセス2世の巨像は脚の一部が欠けて
ると考え、ナイル川を挟んだルクソールの西岸には多くの
いるだけで保存状態は良く専用の建物内に収められ二階か
墓や葬祭殿がまとまってある。市内の南のはずれにある立
ら全体像を見学することができた。
派な橋を渡ると広々としたサトウキビ畑があり、暫く進む
と一対の大きな坐像に出会う。新王国時代絶頂期の王アメ
カルナック神殿とルクソール神殿(ルクソール東岸)
ンホテプ三世のもので「メムノンの巨像」と呼ばれている。
ルクソールはかつてテーベと呼ばれ、中王国、新王国そ
その後ろには葬祭殿があったが、後の人たちが石材として
して末期王朝時代の一時期に首都として栄えた。カイロか
使用し完全に破壊されている。今では一対の巨像だけが観
らナイル川を遡って約500㎞に位置する。
光客を迎えている。
エジプト最大規模の遺跡であるアムン大神殿が中心のカ
早稲田大学の考古学研究の拠点であるワセダハウスとツ
ルナック神殿とその南にあるルクソール神殿とは約3㎞離
タンカーメンを発見したハワードカーターが当時過ごして
れているが、かつてはスフィンクスが両側に並ぶ参道によっ
いたカーターハウスを通り過ぎ、北のはずれの谷に行くと
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るテロリストへの警備は厳しくなり、今では安心して観光
が出来る様になった。唯、道から外れてぶらぶらしている
と何処から見ているのか係官が直ぐ飛んできて注意される。
古王国時代はピラミッドの東側に葬祭殿が建設され再生
復活の儀式が行われたが、新王国時代になると独立した建
築物となり、王個人の記念碑的性格を持つようになった。
王位継承の正当性を示したり、王が行った功績をレリーフ
などに描くようになったりした。このレリーフは今でも色
鮮やかに残っている。
ラメセス二世葬祭殿 ・ ラメセス三世葬祭殿(ルクソール西岸)
王家の谷での観光客
それぞれラメセウム、メディネト・ハブ神殿と呼ばれて
沢山の観光バスが駐車している。連絡用トロッコの奪い合
く彩色も見事なので時間を掛けてゆっくり見る価値がある。
おり、巨大な塔門と列柱がある。ここのレリーフは彫が深
いが現地ガイドの間で繰り広げられている。我先に有名な
墓の見学をする為だ。一枚のチケットで三箇所のお墓を見
ホルス神殿とコム ・ オンボ神殿(ルクソールとアスワンの間)
学することが出来る。ここには60を超えるお墓が発見され
ルクソールからアスワン迄のナイル川沿いの200㎞はのど
ているが、現在公開されているのはその一部だけである。
かな風景が続く。サトウキビ畑が連なる畑の畦道をのんびり
我々は先ず初めにラムセス九世の墓を見学した。チケット
牛にまたがった親子が居たり、ヤシの木が繁っていたりして
の一辺を無造作に切り取られ中を見学した。その後自由行
いる。但し、観光バスは勝手な行動が許されていない。ポリ
動で残り二箇所のお墓見学に移った。一番奥のセティ二世
スが乗り込んだ車が先導し数台の観光バスが一緒になって移
とトトメス一世のお墓がすいているのでゆっくりと見学し
動しなければならない。途中のトイレ休憩も決まった所で必
た。内部はカメラ撮影が禁止されているにもかかわらず堂々
ずお土産屋が付属している。畑の畦道をぶらぶら暇つぶしに
とフラッシュを光らせて撮影しているアジア人が係官に捕
歩いていたらバスに戻るよう注意された。訳を聞いたら「ポ
まっていた。デジタルカメラだったので無理やり削除させ
リスに捕まるよ」とのことだった。移動途中で遺跡を二箇所
られていたがフィルムだったら関係ない部分も含めて全て
見学したが、有名ではないが規模が大きく保存状態が良く見
没収されていただろう。
ごたえがあった。このような遺跡はまだまだ限りなく有るの
いよいよ目指すはツタンカーメンのお墓である。これだ
だろう。何枚写真を撮っても撮り飽きない。
けの人混みだからさぞかし待たされるだろうと思っていた
が直ぐに入ることが出来た。実はこのツタンカーメンのお
墓だけは共通入場券では入れず特別に別料金が掛かること
が後で知らされた。短い通路を通り抜け前室を右に折れる
と目指す玄室があった。1922年にハワードカーターが発見
した時にはミイラが四重の木製金張りの厨子と硅石製の石
棺、三重の人型棺に納められ黄金のマスクを付けた状態だっ
た。その殆どが今ではカイロの考古学博物館に移され特別
展示されている。ここでは石棺の上にガラス張りの蓋が被っ
ていて中に汚れたマスク等が見えるだけだった。
(最終日に
カイロの特別展示をゆっくり見れば良いと軽い気持ちでお
墓を去ったが、実はあの中には実物のミイラが納められて
居る事が後で知らされた)
コム・オンボ神殿での現地ガイド
ハトシェプスト女王葬祭殿(ルクソール西岸)
イシス神殿と切りかけのオベリスク(アスワン)
ハトシェプスト女王葬祭殿は大きな岩山を背に三段のテ
カイロの上流700㎞に位置するアスワンハイダムは10年の
ラスの両側に柱廊が伸び、各テラスの中央に長い斜路が繋
歳月を掛けて1970年に完成した。その前イギリス統治時代
がっている。1997年テロリストにより多くの日本人観光客
の1902年に、約15㎞下流にやはりダムが建設され「イギリ
が襲撃され、一躍有名になった所だ。以来、観光客に対す
スダム」と称されている。その後の人口急増に伴う電力確
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エジプト旅行記
もっとも現在の学校教育ではアラビア語を教えているよう
だがーーー。
アブシンベル神殿はアスワンハイダム建設時に水没の危
機にさらされユネスコが国際キャンペーンを行い、世界
レベルでの寄付を募り1964年から68年に掛けて移設工事を
行った。大小二つの神殿を1,042個のブロックに切断して60
m下の位置から今の位置にそっくり移動した。
飛行機でアブシンベル空港に着陸する前に左座席から見
ることが出来ると添乗員に教えられた。生憎窓際には座れ
なかったが新婚夫婦がビデオカメラとデジタルカメラを準
備していた。そろそろ着陸する頃なので窓の外を見ていた
切りかけのオベリスク
ら一瞬それらしき姿が目の前をよぎった。空港からバスで
保と更なる安定した農作業が行われるように大掛かりなダ
人工的に造った丘のように見える。徒歩で15分位回り込ん
ムを作る必要に迫られた。ナセル大統領の肝いりでドイツ
だら見えた!ビデオや写真で何度と無く見たあの高さ20m
と旧ソ連が協力した。ダムの横幅は3,600m、高さは111m
のラムセス二世の巨像が四体真正面を睨んでいた。1813年
もある。この上流はナセル湖になり全長500㎞に及び、琵琶
スイスの探検家ブルクハルトが発見した時はまだ上半身だ
湖の7.5倍もある。
けで殆どが砂で埋め尽くされていた。徐々に掘り起こし内
イシス神殿は元々古代エジプトでは聖なる島とされてい
部まで入り込んだ時の感激は凄かったであろう。3,300年前
て、フィラエ島にあったが一部水没していたので隣のアギ
のエジプト人のなせる技術も凄いがそれを分割して移動し、
ルキア島に1980年に移された。見学するには小さな船に乗っ
元の姿に復元した現代人もたいしたものだと感心した。
て行く必要がある。この島には古代エジプト時代の神殿だ
ラムセス二世の大神殿の右側には彼の王妃ネフェルトア
けでなくローマ支配時代にもさまざまな神殿が建てられた。
リの為に建造した小神殿がやはり今のナセル湖で埋まって
その証拠に遺跡の一部にはコプト十字架も残っている。
いる場所から移設されている。ネフェルトアリの像二体と
帰りの船で“ナイルの水を飲めばナイルに戻れる”との
並んでラムセス二世の像が四体と子供達の像が並んでいる。
言い伝えの話が出た。現地ガイドが今では“ナイルの水を飲
それぞれの神殿は中に入ることが出来、多くのレリーフが
んだらあの世に行かれる”と冗談を言ったが、現地の人は今
彩色され壁面を飾っている。
現地に到着しても、こんもりした丘しか見えない。どうも
でもナイルの水を飲んでいるそうだ。舟を漕いでいる若い男
がコップを取り出して川から水をすくい一気に飲んでしまっ
た。確かに綺麗で透き通っているが飲む気にはなれない。
“切りかけのオベリスク”はアスワンの町外れの斜面に横
たわっている。工事途中で二箇所にひびが入ってしまった
のでそのままになっている。今では古代の石の切り方のヒ
ントになる為に珍重がられている。聞く所によると当時ダ
イヤモンド等無かったので先ずは何箇所も切り込みを入れ
る。次に木の楔を打ち込んだ後水で濡らす。すると楔が膨
張し自然に石が割れるそうだ。それにしても表面を綺麗に
磨いたり象形文字を切り込んだり大変な作業だったろうと
思う。因みにこの切りかけのオベリスクは長さ41.74m、重
さ1,168トンもあり建立されれば最大級のものとなった筈だ。
アブシンベル小神殿
アブシンベル大神殿 ・ 小神殿(アブシンベル)
「ポンペイの柱」 と国立博物館(アレキサンドリア)
アスワンから更に208㎞上流に行くとスーダンとの国境
エジプトは長く続いた王朝時代以降、周辺各国の侵略を
近くにアブシンベルがある。この付近はヌビア地方と称し
受ける。紀元前332年アレキサンダー大王がエジプトを征服
て、古代エジプト末期王朝の100年間を除いて、殆どエジプ
した。カイロを扇の要にして広がっているナイル・デルタ
トの属国として支配されてきた。ヌビア人は独特の言語文
地帯の地中海沿岸に築いた都市がアレキサンドリアである。
化を持ち続け、文字が無い話し言葉だけのヌビア語を話す。
プトレマイオス朝時代に入るが王朝最後の女王がかのクレ
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オパトラで、アレキサンドリアは「クレオパトラがいた街」
でもある。
我々はルクソール見学後、夜8時半発の夜行列車に乗り
カイロを経由してアレキサンドリアに到着したのが朝の8
時だった。小雨降るアレキサンドリア中央駅を後にした観
光バスは狭い港町の路地を通り抜ける。最初にカタコンペ
の地下3階もある貴族のお墓を見学した。その後「ポンペ
イの柱」に向かった。かつては400本も有っただろうと言わ
れているローマ皇帝が建てた図書館の高さ27mの柱が丘の
上に一本だけ残っている。材料は赤の花崗岩ではるばるア
ルシンベルから運んできたそうだ。ローマから延々地中海
を航海してアフリカに到着して初めて見えるのがこの柱だ
ムハンマド・アリのモスク
そうだ。
アレキサンドリアではグレコローマン博物館が有名だが
茶を飲みながら雑談して時間つぶしをした。その現地ガイ
生憎改造工事中で国立博物館の方を見学した。ギリシャ・
ドはカイロ大学で考古学を学び23歳で卒業しガイド業をし
ローマ時代の遺品が沢山収納されており、館内は自由に写
てお金を貯め、28歳で結婚した。エジプトでは男性側が結
真撮影をさせてくれた。
婚資金を全て用意しなければならない。結婚指輪とブレス
ロゼッタはアレキサンドリアの東方約30㎞に位置するが
レットに大金を掛け、莫大な結納金を払う様だ。聞くとこ
今回は残念ながらそこまでは足を延ばせなかった。ロゼッ
ろによると総額700万円掛けたそうなのでこの国の物価から
タは16世紀オスマン朝になるとアレキサンドリアの衰退に
すると凄いことだと思った。現在でも一夫多妻が許されて
従って地中海沿岸最大の港となり、エジプト・トルコ間貿
いるそうだがかなりのお金持ちで無いと実現できない。
易の重要拠点として栄えた。1799年にロゼッタがフランス
軍に占拠された時、かの有名なロゼッタストーンが海底か
考古学博物館(カイロ)
ら発見された。この石に刻まれていた三種類の文字をフラ
世界各地から沢山の観光客が集まる大人気の博物館であ
ンス人のシャンポリオンが研究して古代エジプトのヒエロ
る。館内の撮影はかつてお金を払えば撮影できたそうだが
グリフを解読することが出来るようになった。
2004年8月からは一切禁止された。入口で厳重なボディー
アレキサンドリアからカイロまではナイル・デルタ地帯
チェックがされカメラ類の持込は禁止されている。1階は
を約150㎞バスで移動した。途中石油プラントを見掛けた。
時代別に展示され2階はツタンカーメン、ミイラ、パピル
エジプトも立派な産油国で、70%自国で消費し残りの30%
ス等の分野別展示になっている。現地ガイドの一通りの説
を輸出しているそうだ。
明を受けた後、自由見学時間をツタンカーメンのコーナー
だけに絞った。例の黄金マスクは最も人が集まっていた。
ムハンマド ・ アリのモスクとハンハリーリ ・ バザール(カイロ)
その他、大きな四つの厨子や第二・第三の石棺が並んでいる。
ナポレオンが1798年にエジプト遠征し多くの古代遺跡を
そして玉座をじっくり眺め満足感一杯でエジプトの旅を閉
調査した。更に1801年にはムハンマド・アリがエジプトに
めた。
おく つ
かずひさ
(元広報部 部長 奥津 和久)
赴任したがこのムハンマド・アリ朝時代には多くのモスク
が建てられた。1851年に完成したムハンマド・アリのモス
参考文献
クはカイロ市内南東の丘の上に聳え立っている。幾つもの
「地球の歩き方エジプト」ダイヤモンド社
巨大なドームと鉛筆型の高いミナレットはトルコイスタン
「ナイルの遺産」山川出版社 尾形禎亮監修
ブールの街を思い出す。中に入ると未だ朝早かったので係
「エジプト」新潮社 鈴木八司監修
員が窓に掛けてあった扉を一つ一つのんびり開けていた。
「ヒエログリフの謎をとく」創元社 ミシェル・ドヴァシュ
薄暗く照らされていたシャンデリアの明かりに朝日が射し、
テール著 遠藤ゆかり訳
大きな天井ドームの模様がとても美しかった。
「古代エジプト人の世界」岩波新書 村治笙子著
ハンハリーリのバザールはトルコイスタンブールのグラ
「古代エジプト文明」PHP 研究所発行 レンショ・ロッ
ンドバザールに似ており細い道がくねくね曲がっていてそ
シ著 松本弥訳
の両側に土産屋がびっしり並んでいる。金属細工の食器、
宝石類、革細工、アラバスター製品そして中世から形の変
わらない水パイプーーー。歩き疲れるので現地ガイドとお
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注)文中の地名・人名は全て「地球の歩き方エジプト」に
基づいて表記した