CASABELLA JAPAN レクチャー

C A S A B E L L A J A P A N レ ク チ ャー
ニが分析した最近の 15 年間の仕事についてもっと詳しく
いかに建築空間は思考されるか 岡田哲史
[Figs.1 -2]
まタイトルになっていたのです。
それから数年後のこと。コロンビア大学建築学部の小
知りたいと願うのではないだろうか。そうすれば、現代の
最高の建築家のひとりの作品が伝える、開かれ、中身の
第6回─アドルフ・ロース試論[1]
さなギャラリーで、
「アドルフ・ロース」
と
「ル・コルビュジエ」
詰まった、
普遍的なメッセージがさらに明瞭になることだろ
聞き手=小巻哲
の比較研究を紹介する小さな展覧会がありました。それ
は、
コンセプチュアル模型とその傍らに添えられた図面を
う。生身のパウロ・メンデス・ダ・ローシャは、
メディアが作り
だしたメンデス・ダ・ローシャと異なり、
ピザーニの良書のお
─これまでフランク・ロイド・ライトに関する話を4 回にわ
照合しながら、
ロースのラウムプランを観察する絶好の機
かげで深く理解し評価することができるのだ。
たり聴いてきて、ふと気づいたことがあります。それはラ
会でした。その展覧会の内容はやがて小冊子にまとめ
4
4
イトとアドルフ・ロースに符合する何かなのです。ライトは
られ出版されます[注 2]。その監修者としてビアトリス・コロ
1867 年生まれでロースは 1870 年生まれと、ほぼ同時代
ミーナが名を連ねていましたが、
どうやら英語圏における
を生きた建築家であったわけです。単刀直入に言えば、
ロース研究は、1990 年代に入ってようやく盛り上がりを見
1910 年に出版したヴァスムート版ライト作品集と1908 年
せ始めていたのかもしれません。
にロースが発表した「装飾と犯罪」は、
ともに 20 世紀モダ
ところで、建築における20 世紀モダニズムを語るとき、
ニズムの起爆剤だったのではなかろうか、
と。個人的に
フランク・ロイド・ライトを抜きにすることができないのと同様
は、磯崎新さんの「20 世紀の前半はロース1人を考えれ
に、
アドルフ・ロースを抜きには考えられない……。おそら
ば十分だ」
という言説が頭にこびりついていて、
今だに気
くはそれが今日の一般的な見方でしょう。事実、20 世紀
になっているのですが、
岡田さんはロースについてはどの
近代建築を扱う歴史書で「アドルフ・ロース」
を外している
ように評価されているのでしょうか。
本はまず見当たりません。
ところが私自身のロースに関す
る知見はライトのそれに比べると圧倒的に少なく、今もな
岡田 ─私にとって「アドルフ・ロース」
といえば、真っ先
お謎だらけです。
しかし、それは私だけの問題なのでしょ
で
に思い浮かぶのが『 SPOKEN INTO THE VOID 』
うか? 前世紀から間断なく続けられてきたロース研究は、
す。ニューヨークで生活を始めた 1988 年の秋、初めてス
近年に至ってもなお新しい発見を携え歴史を塗り替える
トランド(古書店)に行ったときにたまたま手にした 1冊で
作業が行われています。ロースの言説をめぐる研究につ
した。初版本の『 Ins Leere gesprochen 1897-1900 』は
いては、
近年の業績を見るかぎりフアン・ホセ・ラウエルタの
1921 年にパリで発刊され、その10 年後にウィーンで出版
[注 3]
右にでるものはいないでしょう
。
ところがロースの作
されたようですが、私が巡り合ったのは後者を底本とす
品そのものに肉薄する目の覚めるような成果はおよそ皆
る初の英語翻訳版で、
「OPPOSITIONS BOOKS」の 1
無です。手っ取り早く検証したければ、
『 CASABELLA 』
冊として1982 年に出版されていたものでした。邦訳書も
818 号でダニエレ・ピザーニが書いたブックレビューが参
2012年に『虚空へ向けて』
という書名で出版されていま
考になります[注 4]。それは 2011年に出版された 2 冊の
す[注 1]。今にして思えば、
英語版がその年まで出版され
(Christpher Long, The Looshaus,
本、すなわち
『ロースハウス』
ていなかったことに驚きを感じます。少なくとも英語圏にお
Yale University Press, 2011)
と
『アドルフ・ロースとウィーン』
4
4
4
4
いて、その当時まで「アドルフ・ロース」は、その程度の存
在だったとでもいうのでしょうか……。それはそうと本の
内容は、サブタイトル[Collected Essays 1897-1900]が示す
通り、1897 年から1900 年にかけてロースが新聞等に寄
稿した論稿のいわば寄せ集めです。書名を文字どおり
うつ
解釈すれば「空ろへと放たれた言葉」
となりますが、
当初
その洒落たタイトルには何か深い意味が込められている
のだろうと思っていました。しかしロースは耳を患ってい
たらしく、その出版の前年にはほとんど聞こえない状態ま
で悪化していたことを知り、
腑に落ちたのを憶えています。
「自分から放った言葉が聞こえない」こと。それがそのま
21
Fig.1:アドルフ・ロース
Fig.2:ロース|
『 SPOKEN INTO THE VOID –
Collected Essays 1897-1900 』の表紙
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いずれにしてもモノとしての情報が少なすぎるのです。結
かもしれません。それはとりもなおさず、彼が建築学に関
局のところ、
ロースの空間を追体験する手段としては、お
してあり余る教養を持ちあわせているからなのでしょう。
よそ竣工当時に撮影されたモノクロ写真に頼るしかな
従来のロースの言説で最も誤解されてきたものと言え
い。カラー写真も残されてはいますが、
ロースが設計した
ば、
ロースの「装飾」に対する姿勢についてです。
「装飾と
新築の一戸建て住宅で、その内部空間がカラーで紹介
」は今やロースの代名詞と
犯罪(Ornament und Verbrechen)
された事例は相当に限られています。私の知るかぎり、
なっていますが、その論考の内容を建築論に重ね合わ
シュー邸(Scheu House, 1912 -13)、
ミュラー邸(Villa Müller,
せるのは誤りです。そして、
ロースがその論考で表明した
1928 -30)、
クンナー邸(Khuner House, 1930)のわずか 3 件
思想を一生涯かけ徹頭徹尾貫いていたと考えるのも誤
です。
しかも内部空間が包括的に撮影された事例はミュ
りなのです。
ラー邸だけ。それが現実です。ちなみにここで「個人邸
建築家として駆け出しの頃のロースは「装飾」を肯定
の空間」と限定した理由は、
もちろん「フランク・ロイド・ライ
していました。そもそもシンケル、
ゼンパー、そしてヴァグ
ト」を視野に入れてのことですが、いずれは詳しくお話し
ナーを尊敬していたロースは、古典的伝統に立脚し、現
ようと考えている「ラウムプラン」を抜きにロースを論じるわ
代に靡かないことを善とし、実用的であるがゆえに美しい
けにはいかないからであり、それがとりもなおさず個人邸
と認められる装飾については肯定していたのです。時系
[Fig.3]
において鮮明に実現されていたからです。
列的に見ると、1893 年に渡米しますが、その当時は装飾
もうひとつの原因についてですが、
ロースは実に多くの
を肯定していたと述懐しています[注 5]。1896 年に帰欧
エッセイを執筆していましたが、実際には「建築」
と無関
しウィーンで建築家として活動をスタートさせますが、彼
(Marco Pogacnik, Adolf Loos und Wien, Mury Salzmann Verlag,
係な論稿のほうが圧倒的に多く、それを強引に建築論ま
が装飾を否定し始めるのは 1898 年に入ってからです。
2011)
についてコメントしたものですが、
それを一読するだ
で敷衍しようとすると混乱をきたしてしまいます。1990 年
それが過激な言い回しを伴って強い主張になり始めた
けでもまだまだ不十分というか、
ロースの謎は解けないま
代以降の研究実績にまだ厚みが足らないと言いますか、
のが 1902 年。そしてその後の醸成期間を経て 1908 年
まオープンエンドといった印象を拭うことはできません。そ
どうもその混乱を解きほぐす作業がまだ途半ばのように
の「装飾と犯罪」に結実します。
きわめて大雑把ではあり
の原因についてあれこれ考えてみるのですが、結局のと
思われるのです。
「アドルフ・ロース」
と聞いて、皆さんはま
ますが、
これがおよそ正しい認識です。ラウエルタは、初
ころ、大きく分けて2つあると思うのです。ひとつは、今日追
ず何を思い浮かべるでしょうか?ロースは建築史のなか
期の論稿のなかでロースは「装飾の排除にはほとんど触
体験することのできるロースの建築作品が少なすぎるこ
では、例えば「装飾を否定した 20世紀近代建築の先駆
れていないし、装飾を犯罪とみなし根絶すべきと弾劾す
と。
もうひとつは、
ロースが残した言説が多すぎること。そ
者」
というふうに紹介されてきました。その認識は決して
る、近代的な視点から装飾を論じる場面は皆無である」
(笑)
の 2 点に起因しているのではなかろうかと
。
間違いではないのですが、
しかしそれをお題目のように
と述べていますが[注 6]、
「装飾と犯罪」でロースは「装飾
唱えていてもロースをめぐる難問に肉薄することはできま
(中略)
いま
はもはや我々の文化を表現するものではない。
─意識的に分かりにくくしている?ロース自身「私の活
せん。彼を本気で理解したければ、
まず古典主義建築
から10 年後、
オルブリッヒの作品はどうなっているだろう。
動自体は多分、たいした影響力をもたないだろう。……
について知る必要があります。彼は説得力のある意見を
現代装飾は先祖も子孫もなく、過去も未来もない」
と記述
建築の雑誌や書物などに[作品が]発表されることのない
正々堂々と主張することもあれば、大人気ない屁理屈を
していますから、すでに彼が装飾を否定する意図を持っ
1910)
(
「建築について」、
私、
……」
などと公言していたし、
「私
捏ね繰り回して読者や聴衆を煙に巻くこともやっていまし
ていたことは疑いのないところです[注 7]。
が設計した内部空間を写真に撮っても、その本当の空
た。ロースはむしろ確信犯的なゲームを積極的に仕掛け
間効果はまるで発揮できないことは、私の最も大きな誇り
ては、それが原因で巻き起こるセンセーションを糧にして
─ロースハウスは 1911年に完成していますが、その頃
(同)
である」
など、
自虐なのか自信たっぷりなのか分から
いたのではないでしょうか(その反面、抱えきれなくなったストレ
のロースはすでに「装飾」を否定する立場にいたと考え
ない発言をしています。
スに負けて自らを病的な状態に追い込んでしまうこともあったようで、
られます。それにもかかわらず、
その建物にはドリス式オー
私は彼が聾になってしまったのもストレス性難聴の悪化によるもので
ダーが取り付けられたりしています。つまり言動が一致し
岡田 ─そうですね。ひとつめの原因についてですが、
はなかったかと推察しています)。いずれにしても
「ロース」は
ていませんね……。
やはり今日私たちが実際に体験することのできるロース
なかなか一筋縄では捉まえにくい対象なのです。世紀末
の建物、
とりわけ当時の状態をありのまま残している
“個
ウィーンの文化論からアプローチし、
ロースについて考察
岡田 ─ロースは建築における装飾を非難しておきな
人邸の空間”
は皆無に近い状況です。あの世のロースに
をめぐらせる論考は幾つも眼にしますが、
ロースの深部ま
がら、
自分の建築作品には、古典主義時代のオーダーを
してみれば、それこそ思惑どおりということになりますが、
で迫ることに成功しているのは今のところラウエルタだけ
デザイン要素として取り入れていましたし、古典主義建築
Fig.3:ロース|ミュラー邸の内部空間、プラハ、1928 -30
なび
22
のコンポジションを踏襲していました。その代表的な例が
(簡潔に言えば柱芯が上下層で一致し
の連関性に齟齬がある
読み込んでしまったのではないか。それは一種の誤読で
ロースハウス(Looshaus, 1909 -11)です。この建物に関する
ていない等)
こと。3:ルネサンスの建築家たちはその誤謬
すよね。
詳しい分析はラウエルタの論考に委ねますが、古典主義
を修正しようと試みたが、
ラファエロだけはその「誤謬」
を
的伝統を重んじるロースにとってみれば、それは当然の
[注 8]。
受け入れ、むしろ豊饒な表現へと結びつけたこと
岡田 ─「装飾と犯罪」は文化人類学的な論考です。
ことでした。ロースハウスは、緑色のチポリーノ大理石で
以上の 3 点です。ロースは、その「誤謬」
を逆手にとり、歴
ロースは「建築に装飾は不要である」ことを分離派の建
仕上げられた基壇部に商業施設が入り、その上の4層
史上で「誤謬」
を抱えてもなお美しい建物は、パンテオン
築家たちに対して声高に捲し立てたところで見向きもさ
分にアパートメント、
そしてその上に屋根を載せるという三
とラファエロの建物と
「私の家」の 3 つしかないと言い切
れないことが分かっていたため、一般の人々に向けて分
層構成でできています。
ロースは古典主義のフレームワー
るのです。つまり、歴史的に最も美しい(?)建築が「誤謬」
かりやすく理詰めで説明しようという腹積もりがあったに
クを外さないという大前提のもと、唯一、伝統から大きく
を内包していることを論拠に、
ロースハウスの正統化を図
ちがいありません。
しかしだからと言って「建築」の話をし
逸脱したデザインを試みます。それがアパートメント部分
ろうとしていたわけですね……(笑)。結局のところ、
飾りっ
ても、やはり甲斐がないことくらいお見通しでした。19 世
の白いスタッコで平滑に仕上げられた壁面でした。
気のない矩形窓の窓台部分にブロンズ製のプランターを
紀末のウィーンで経済力を持ちはじめた新興ブルジョワ
さて、そのファサードをめぐって次のような騒動が起こり
設置するという、改善策にもならないような修正案をもっ
ジーは貴族の生活スタイルに憧れ、古典主義様式の豪
ます。1910 年 9月、
ウィーン市建設局は工事中だったロー
て和解が成立します。さきほど「ロースは大人気ない屁
奢な館に羨望の眼差しを投じていたのです。
したがって
スハウスの建設差し止めを断行します。建築的にはア
理屈を捏ね繰り回して煙に巻く」
と言いましたが、
その「巻
装飾テンコ盛りの建築を真っ向から否定すれば、彼らの
パートメント部分に歴史的連続性を担保する伝統的装
き方」が尋常じゃないのです。それにしてもロースは、白い
飾がなかったことが原因ですが、法的にはロースが違法
平滑な壁をめぐり、そこまでして「装飾」
と闘おうとしてい
行為に手を染めていたことが理由です。ロースは、建築
[Fig.4]
たのでしょうか。
許可申請用の図面として共同設計者のエルンスト・エプ
ロースが官主導の記念碑的な公共建築物を設計し
スタインが作成した体の良い立面図を提出し、許可が下
実現させたことは生涯一度もありませんでした。彼はオッ
りた 3ヶ月後に自分のデザインを反映させた図面とすり替
トー・ヴァグナー(Otto Wagner, 1841 -1918)
を尊敬していた
えていたのです。その事実を市当局に隠蔽したまま着工
とはいえ、
ヴァグナーの息のかかったアカデミズムからは
していたわけですから、厳重な指導を受けるのは当然で
疎遠だったし、
なによりロースハウスに関する不正行為で
す。ロースは、その修正勧告に対して一向に応じる姿勢
ウィーン市当局を敵に回してしまったことが、関係を難しく
を示さなかったため、役所のみならず一般市民からも厳
していたのでしょう。
しかしそんなロースにも、1921 年 5月
しく非難され、やがて情緒不安定に陥り、胃潰瘍を患い、
に市の住宅局から声がかかります。第一次世界大戦直
挙句の果てにイタリアへと逃避行します。工事中断のまま
後の混乱期、社会に溢れかえっていた人々を定着させ
放置しておくわけにはいかないと判断した市当局は、
ロー
る住居、つまりは集合住宅を大量に供給する事業が推
スを除外してファサードを設計しなおす動きにでますが、
進されることになり、その主任建築家としてロースが抜擢
ローマでそれを知った彼は慌てて帰国し、
「ミヒャエラー
されるのです。低所得者層向けの住空間に贅沢は不要
プラッツの私の家」
と題する講演を行うのです。ここで「私
と考える当局の眼には、
「装飾と犯罪」を声高に叫ぶ建
の家」
と言い切ってしまうところに彼の執念が感じられる
築家が適任者と映ったにちがいありません。
ロースにして
し、迫力さえ伝わってきますね……。1911年12月11日、
も、
「装飾は(罪どころか)犯罪である」
と言わんばかりの言
現場における事情聴取に出頭したロースは、その直後
論を発し始めてからおよそ10 年の年月が過ぎ、そのイン
におよそ 2,000人の聴衆を前にして設計主旨を語りまし
パクトのある思想がロース自身を一種の呪縛に追い込ん
た。内容は、当該のファサードをデザインするに至った根
でいたはずですから、引っ込みがつかなくなっていたの
拠についてですが、そのエクスキューズがいかにも滑稽
[Fig.5]
かもしれません。
4
4 4
Fig.4:ロース|ロースハウス、
ウィーン、1909 -11
なのです。その核心部分を掻い摘んで説明すると、次の
ように大きく3 つの要点にまとめられます。1:ルネサンスの
─「装飾と犯罪」を読み返してみますと、
これは建築そ
建築家たちが古代ローマ時代の神殿パンテオンの内部
のものを論じた建築論ではないですね。建築の装飾を通
に「誤謬」を見出していたこと。2:その「誤謬」
とは、内側
して、近代(人)の立ち位置を論じるという建築論。むしろ
ファサードの三層構成において、垂直方向の構造(表現)
読み手のほうが都合の良いように具体的な建築論として
23
Fig.5:ロース|オットー・ハアス=ホフ集合住宅、
ウィーン、1924
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夢そのものを否定することに直結し、かえって自らを四面
てサイエンティフィックに究明できるという点(ニュートラルな
のように響きますが、当時はその急先鋒として「ヒストリシ
楚歌の状況に追い込んでしまいます。そこでロースはマッ
議論の地平を築いたという意味)
では、偏見にまみれた生物
(歴史主義)
」が、
まるでひとつ前のモダニズムを退ける
ズム
クス・ノルダウの生物学的文化論を下敷きにし、人類が
学的文化論を持ち出して煙に巻いてしまうロースの論法
ための有効手段であるかのように措定されていました。
進化するプロセスと装飾の関係性に言及します[注 9]。
よりもスマートですね。それから「装飾要素と認められる
建築の多様性を主張する道具として、一度はモダニズム
例えば「文明の程度が低いほど装飾への執着も強くな
ものはすべて排除する」といった極端な思想に振れてい
によって排斥されていた「歴史」
を復活させる動きが流行
る」とか、
「退化し堕落した人間ほど装飾に快楽を求め
なかった点が、その当時も今も評価されるところなのです
し始めるのです。いま思えば、いかにも短絡的かつ衝動
る」とか、
「進歩的な文化は装飾を排除していく」といっ
(ちなみに、私はそこのところにロードリと親交のあったヴィーコの人
(これをアメリカ東海岸のエリー
的な反 動ですが、モダニズム
リアクション
た調子です。
しかしどう考えても無理がある。
というか、彼
間味溢れる包容力豊かな哲学との親近性をみています)。
ティズムと置き換えても、
あながちまちがいではない)
の呪縛に苛ま
の攻撃的な言葉の数々は偏見に満ちていて、
とうてい一
ところで、
リクワートがヴェネツィアにあるサン・フランチェ
れていた建築家たちは大真面目でした。そしてその彼ら
般に通用する言論とは認めがたいのです(当時はこうした
スコ・デッラ・ヴィーニャ聖堂を訪れ、聖堂に付属する修道
が武器として手に取ったのが、古典主義建築が古代か
議論が当然のように行われており、
ファシストを産む土壌が形成され
院の壁に穿たれた「ロードリの窓」を調査したのが 1950
ら慣習として身に纏っていた「装飾」だったのです。建築
ていた)。
年代後半、
そして『アーキテクチュラル・
レヴュー』誌にロー
分野が主導したとされるポストモダニズムの最初のイン
一昨年、古典主義建築についてお話したときに触れ
ドリに関する論考を上梓したのが 1976 年 7月のことです
パクトは 1968 年 3月、建築家ヴェンチューリとスコット・ブラ
たことですが、
“装飾と近代性”
をめぐる問 題については
[注12]
から
、その間の熱血迸る研究活動が偲ばれるとい
ウンが『アーキテクチュラル・フォーラム』誌に上梓した「A
18 世紀のイタリアまで遡ることができます[注10]。具体的
うものですが、
ここで注目したいのはそこではなく
「1976
SIGNIFICANCE FOR A&P PARKING LOTS OR
には、
カルロ・ロードリの建築装飾論がそれです。そのロー
20
年」
という年のほうなのです。
というのも、
「なぜ装飾が、
LEARNING FROM LAS VEGAS」で[注 13]、
ラスベガ
イシュー
44 4 4
4
4
ドリを
「歴史」
と言う名の巨大な山から掘り当て、20 世紀
20世紀後半にもう一度注目され
世紀初頭のロースの後、
スのたわいない看板小屋を建築と見なした時点に始まり
の現代に蘇らせた人物こそ偉大なる建築史家ジョセフ・
ることになったか」という問題について考えるきっかけを
ますが、その後、
こう言ってよければ、
「おちゃめな建築」
リクワートでした。ロードリの建築装飾論は、ロースのそ
与えてくれるからです。話を混乱させないためにここで一
が加速度的に増殖し続けます。参考までに、
コールハー
れに比べれば遥かに説得力があります。それをここで詳
(より厳密に言えば、
ポ
旦整理しておきますが、単純に「装飾」
スとゼンゲリスが「EXODUS」
を発表したのは 1973 年の
しく説明していると今回の論旨を大きく外してしまいそう
レミカルに扱われた「装飾」
)
という名の補助線を引いて建築
『 CASABELLA 』誌でした[注14]。1976 年のリクワートに
なので要点だけを掻い摘んでおきますが、原則として装
史を下ると、18 世紀初頭のロードリに続いて19 世紀末
よるロードリに関する論考は、20 世紀近代建築のそうした
飾を否定する立場にいたロードリは「機能的装飾」
という
(ちなみにオットー・
のロースを炙り出すことができるということ
短絡的で衝動的で、
もっと言えば安直な反動形成に対す
概念を打ち出し、慣習に基づいて無思慮無分別に施さ
ヴァグナーの装飾論もルイス・サリヴァンの装飾論も主要理念はロー
る警鐘だったはずなのですが、
それも空しく、せいぜい機
れる装飾とは区別し、それを容認していたのです[注 11]。
ドリの延長線上にあると考えてよい)。実はこうした
「装飾」の
関誌『 OPPOSITIONS 』
の近傍で議論されていたにすぎ
この場合、何をもって「機能的」
とするかが問題になりま
歴史を蘇らせるモーメントが 1970 年代後半から始まって
なかったように記憶しています。勘のよい方ならもうお気づ
すが、その基準を与えるのが今日でいうところの構造力
いたということなのです。それが先ほど「1976 年」に注目
きかもしれませんが、私がニューヨークの古本屋で手にし
学です。当時はまだ経験主義的=合理主義的=方法論
[Fig.6]
したいと言った理由です。
た『 SPOKEN INTO THE VOID 』
は、そうした 1970 年
の域を出ていたわけではないのですが、幾何学を駆使し
「ポストモダニズム」
と言うと、いまや使い古された用語
[Fig.7]
代の流れを受けて出版された本だったのです。
さて、
ちょっと寄り道をしましたが、
「アドルフ・ロース」は、
ポストモダン・ヒストリシズムによって 20 世紀後半に、いわ
4 4 4 4 4 4
ば担ぎ出された建築家だったのです。その当時のポスト
モダニストたちがロースに見ていたのは、
とりもなおさず
シカゴ・
トリビューン社屋ビル設計競技案です。1908 年に
「装飾と犯罪」を発表し、装飾を真っ向から否定してい
たロースが、1922 年のコンペ案では「ドリス式オーダー」
がそのまま高層ビルに化けた建物を提案していたという
動かしがたい事実。それこそ、ポストモダニストにとって
Fig.6:ロードリの建築装飾論が
Fig.7:
『アークテクチュラル・
Fig.8:ロース|シカゴ・
具現しているとされる窓|
フォーラム』誌|
トリビューン社屋ビル
サン・フランチェスコ・デッラ・
1968 年 3月号の表紙
設計競技案、
シカゴ、
ヴィーニャ聖堂、
ヴェネツィア、18 世紀
1922
Fig.9:ヨーゼフ・ホフマン
Fig.10:ヨーゼフ・マリア・
オルブリッヒ
は嘆賞の極みであり、
「モダニズム」を撃退せんと立ち上
がった戦場で、大きな勇気を授けてくれる「歴史」
という
[Fig.8]
名の力強い戦友でした。
24
ところで、
なぜ 1922 年当時のロースは、古典主義建築
(笑)
。実は、私はアドルフ・ロースが抱える「複雑さ」と
「矛
における「装飾」の権化とも言えるオーダーを建築デザイ
盾」は、すべてその変化、つまりは転向に起因していたの
ンとして採用したのでしょうか? その理由についてはこれ
ではなかろうかと考えているのです。それはロース自身に
までに諸説ありますが、
ロースがそのオブジェにシニカル
とっても、それから、ちょっと大袈裟かもしれませんが 20
なメッセージを託していたことだけは確かです。なかでも、
世紀近代建築にとっても、
“事件”
と言えるほど重みのあ
そのタワーがやがてピサの斜塔のように傾いてゆく姿が
る出来事でした。さて、ではその事件は、いったいいつ起
最終ヴィジョンとして想定されていたという説には興味を
こっていたというのでしょうか? 引かれます。ロースは 1893 年にシカゴを経験しています
結論から言えば、それは 1898 年。いや、
ひょっとしたら
から、その敷地が河畔の軟弱地盤にあることを知ってい
1897 年まで遡ることができるかもしれませんが、いずれ
ました。ピカピカに磨き上げられた黒御影石が建物の全
にしても、1898 年に入っていたとしてもせいぜい 5月頃ま
体を覆い尽くす姿は、
まるで都市に聳える墓石のように、
でのことではなかったかと考えます[注 15]。実はもっと的
堅く重く硬直した一種異様な空気を漂わせます。ロース
( Josef
確な言い方をすれば、ロースがヨーゼフ・ホフマン
4
4
4 4 4 4
4
4
4
4
4
Fig.11:オルブリッヒ|分離派館、
ウィーン、1897 -98
はその巨体が傾く姿に形骸化した古典主義の死を重ね
Hoffmann, 1870 -1956)
と険悪な関係に陥った瞬間から、
と
合せていたのではないでしょうか……。そう考えると、そ
[Fig.9]
言うことができるのではかなろうか、
と。
れを象徴するオーダーとして、彼が「ドリス式オーダー」
と
ウィーンで 分 離 派( Secession )が 結 成され たのは
いうもっとも初源的なオーダーを選んでいたことも頷ける
1897 年 4月3日です。その拠点となったのが分離派館
ある同じ学校で送ります。ホフマンはよほど勉強が苦手
ような気がするのです。
もうひとつ気楽な推論を加えてお
(Secessionsgebäude)で、建築家ヨーゼフ
・マリア・オルブリッ
だったか、5 年に進級する試験で 2 度も落第していまし
くと、そのコンペ案を作成していた当時、
ロースはフランス
( Joseph Maria Olbrich, 1867 -1908)がその設計を担当し
ヒ
た。ロースは 13 歳のときオーストリアのメルクにあるギムナ
に滞在中で、
フランスの建築家として設計競技に登録申
ていました。分離派館の杮落しは 1898 年で、同年の 11
ジウムに転校しますが、17 歳になって両者はまたしてもブ
請していました。彼がウィーンの外にいたこと、つまり
「装
月には第 1 回展覧会が企画されていたのですが、
どうや
ルノにある高等技術学校で一緒になり、その後ロースは
自分を擁護してく
飾と犯罪」の呪縛から解放された地で、
ら、その分離派展をめぐって、
ロースとホフマンのあいだ
20 歳でドレスデン工科大学に、ホフマンは 22 歳でウィー
れるル・コルビュジエやトリスタン・ツァラがいる地で、
他者と
でひと悶着あったというのです。ロースがホフマンに対し
ン芸術大学に進みます。ロースはドレスデン工科大学で
して振る舞うことが可能な環境にいたことも、
ロースを大
て、
自分を出展者のひとりに加えてもらえないかと申し出
ゴットフリート・ゼンパー(Gottfried Semper, 1803 -79)による
胆な行動に誘う要因となっていたかもしれません。
たところ、あっさり却下されてしまったという話。当時、分
建築理論の洗礼を受けました。それに対してホフマンは、
そういえばヴェンチューリは、1966 年に出版した自
離派はウィーンのアヴァンギャルドを自負するアーティスト
ウィーン芸術大学でオットー・ヴァグナーのもと頭角を顕わ
著 に「 COMPLEXITY & CONTRADICTION IN
の溜まり場でした。建築家で言えば、
ヴァグナーの弟子筋
し、95 年にはローマ賞(イタリア旅行を全額給付されるいわば
ARCHITECTURE」
というタイトルを与えましたが、
見方に
にあたるオルブリッヒとホフマンが主導的立場にいて、
ヴァ
最優秀学生賞)
を受賞します。一方、1895 年当時のロース
よってはロースの建築だってその延長線上にあったと見
グナー自身も1899 年に加入します。他方、
ロース本人は、
といえば渡米のさなかでした。そして帰途についた彼は
ることもできるし、
なによりロース自身がその
「複雑さと矛盾」
先進諸外国の新風を吸収してはオーストリアに吹かせよ
ロンドンとパリを経由し、1896 年からウィーンで定住を始
を抱えていたわけですね。つまりロースをより深く理解する
うと躍起になっていたくらいですから、
アヴァンギャルドを
めます。それは分離派が誕生した年のわずか 1 年前の
ための鍵は「COMPLEXITY & CONTRADICTION
自負していたはずです。それゆえ自分が第 1 回分離派展
ことなのです。こうしてみると、ギムナジウムで出来の良く
に名を連ねないなどありえないと思っていたのでしょう。
なかったホフマンがウィーンにしっかり根をおろしてエリー
ロースがホフマンに申し出た経緯の背後には、そうした
ト街道を順調に歩んでいたのに対し、
ロースは根無し草
─ロース自身のなかに巣くう
「複雑さと矛盾」で思い出
心理が働いていたにちがいないのです。では、
なぜオル
さながらのアウトサイダーだったことが分かりますね。ロー
すのが、
さきほど話されたロースの変化についてです。
も
ブリッヒではなく、
ホフマンだったのでしょうか?[Figs.10 -11]
スは最初、
カール・マイレーダ(当時ウィーン市建設局で局長の
う一度ここで問い返してみたいのですが、
ロースは建築
ロースにとってホフマンこそ、分離派メンバーのなかで
任務に就いていた)
の事務所で働きはじめますが、
よほど馬
家として活動し始めた当初は装飾肯定派だった。
しかし
最もアプローチしやすい人物だったのです。彼らは、実
が合わなかったか、1897 年には独立の道を選びます。ほ
やがて否定派へと180 度立場を変えてしまった。この変
は生まれながらにして因縁の関係にありました。両者とも
とんど地ならしもできていない土地にいきなり根を下そう
化をどのように理解すればよいのでしょうか? 1870 年生まれで、同い年です。故国もチェコスロヴァキア
としたわけですから、その時点でホフマンに対しては大
で同じ。生誕地こそロースは都会のブルノ、
ホフマンは田
きなハンディキャップを負っていたことになります。分離派
舎町のブルトニツェと異なりますが、両者ともギムナジウム
を結成するアーティストや建築家の実績に照らし合わせ
44 44
IN LOOS」
を解きほぐすことにあるのです。
岡田 ─いよいよ今回の核 心に迫ってきました……
25
(中高一貫の大学進学準備校)時代の一時期をイフラヴァ(ブ
ルノから西北西に約 80 km のところにあるチェコ最古の鉱業町)
に
C A S A B E L L A J A P A N レ ク チ ャー
てみても、
ロースの実績はゼロ同然ですから、
ホフマンが
く筆を走らせていたロースがその機関誌に関与したの
一人の主である)
[注16]に凝縮されています。注目すべき
」
ロースの申し出を却下したのも不思議ではないのです。
は、後にも先にもその年だけでした。それから、
もうひとつ
は、彼が建築の「構 造 法」に着眼していた点です(この
決定的な出来事がありました。ロースは 1897 年 11月6日
CONSTRUCTIONを「建設」
と解釈すると誤解しますから要注意
ところで、その一連のロースの行動でとりわけ私が注
発行の新聞『 Die Zeit(時代)』に「ウィーン市の設計競技
です)。実はそれこそ、
ヴァグナーの建築理論が 18 世紀の
目しているのは、
ロースが分離派の機関誌『 Ver Sacrum
について」と題する論説を寄稿していましたが、その中で
ロードリの思想の延長線上にあると同定できる所以なの
(フェル・ザクルム)
』に 2 度も寄 稿していたという事 実で
オルブリッヒとホフマンを「ゼンパーの弟子」
として称賛し
ですが、
ヴァグナーは自著『近代建築』のなかで、
「建築
す。そのうちのひとつが、1898 年 7月号 掲 載 の「Die
ていました。
ところがその翌年の事件後からは、
まるで人
家は常に構造法に依拠する芸術的形態を発展させな
Stadt(ポチョムキンの都市)」でした。それは
格が豹変してしまったかのように彼らを貶しはじめるので
ければならない」
と明言するのです[注17]。彼は「実用的
1787 年のこと、ロシアの女帝エカテリーナ 2 世がクリミア
す。結局、展覧会への参加がかなわないと分かり、
プライ
でないものは美しくありえない」
という金言も残しています
を訪問するという知らせを受けた将軍グレゴリー・ポチョ
ドを傷つけられたロースは分離派の「装飾」を目の敵に
が[注 18]、実用性のない構造法などありえないことを考え
ムキンが、その町の繁栄を偽装するために慌ててハリボ
しはじめます。このあたり精神分析学者に意見を聴いて
れば、
思想的本質は貫かれています。
テの街並み(書割の都市)を拵えたという話に由来してい
みたいところですが、
ロースにとって
“分離派の装飾”
が、
ヴァグナーの傑作のひとつウィーン郵便貯金局(1903 -
ます。ロースは、
ウィーンのリングシュトラッセに立ち並ぶ古
オルブリッヒやホフマンの代理として機能し、彼の人格を
12)
を例に挙げれば、彼はその建物から古典主義建築
典主義様式の建物にそのハリボテの街並みを重ね合わ
変転させる引き金となっていたように思うのです。その際、
に特徴的な装飾をいっさい排除し、当時最先端の建築
せていたわけですね……。話を元に戻しますが、私は、
ロースが分離派に見ていた「装飾」は、
もはや古典主義
材料であるアルミニウムとガラスを多用して透明感の漂う
そのロースの分離派に対する積極的なアクションは、第 1
に依拠するそれではありませんでした。
というのも、
ヴァグ
美しい空間を実現させています。
しかし彼の合理主義の
回分離派展を意識したポーズだったのではなかろうかと
ナー、オルブリッヒ、ホフマンといった分離派の建築家が
真骨頂は外壁のディテール、すなわち大理石の薄板をリ
推察するのです。つまりその寄稿は、
「自分にはこれといっ
標榜し表現しようとしていたのは 19 世紀末現代における
ベットによって留め付ける方法に如実に顕われているの
た建築作品はないけれど、書き物で前衛に立って見せま
モダン・デザインだったからです(そもそも分離派は、その表現
です。それは「モルタルで石板を貼り上げる」という古代
しょう」といった自己アピールの手段、つまりはキャンペー
の自由を正当化するために立ち上がった同盟でした)。
から慣習的に継承されてきた概念を根底から覆す奇天
ンの道具であったということ。それが証拠に、当時勢いよ
(厳密に言えば、
ロースは画家
さて、その分離派の「装飾」
烈なアイデアです。
しかしリベットで留め付ける乾式工法
や彫刻家の手になる装飾を咎めていたわけではないので「建築家
は、モルタルで貼りつける湿式工法よりも手間は軽減でき
の手になる装飾」
と表現するのが適切なのですが……)
を糾弾
るし、作業性が良いから工期も短縮できる、
さらには構造
するロースが戦略として持ち出したエクスキューズが「伝
躯体にかける重量的負担も軽減できるなど、建設的にも
統」でした。ここへきて彼が「伝統」を持ち出さざるをえな
経済的にも合理的です。
ヴァグナーは、
コンクリート躯体に
[Figs.12 -13]
sche
Potemkin’
4 4 4 4
アンカーされるリベット胴部には粘りのあるブロンズを使用
たからです。前衛的だったのです。ロースは分離派の装
し(アルミニウムは剪断破壊が懸念されるためリベット胴部には使用
飾に対して「新しさを追うあまり珍奇な装飾を施すくらい
できないのです)
、頭部には軽くて錆びにくいアルミを選択し
なら、伝統に乗っ取った装飾を施すほうがまだましだ」
と
ていたわけですが、彼はそのダンゴ状に潰されたリベット
いった批評をぶつけていました。
ところが「伝統」を強調
頭部に 19 世紀末のモダンな「装飾」を重ね合わせてい
しすぎると自らの前衛性を汚しかねないと気づいたから
[Figs.14 -15]
たのです。
かった理由は、分離派の装飾がとりもなおさず新しかっ
4
Fig.12:ゴット
Fig.13:オットー・
Fig.15:ヴァグナー|ウィーン郵便
フリート・ゼンパー
ヴァグナー
貯金局の外壁ディテール
4
Fig.14:ヴァグナー|ウィーン郵便貯金局、
ウィーン、1903 -12
コンストラクション
4
4
4 4
でしょうか、エクスキューズを「装飾は不経済」という考え
ともあれロースは、分離派を自滅に追い込むためには、
方、
すなわち「合理主義」に切り替えていくのです。その
オルブリッヒやホフマンが設計した建物を真正面から非
ときのロースには、
ヴァグナーを梃にして分離派を内破さ
難するよりも、彼らの建築がそもそもヴァグナーの合理主
せるロジックが見えていたはずです。ヴァグナーの合理主
義思想とは相容れないものであることを分離派内部に
義思想を触発し活性化させることに成功すれば、分離
認識させることのほうが有効と考えていたはずです。な
派は自ずと瓦解するにちがいないという読みですね。分
ぜでしょうか?理由は単純です。オルブリッヒもホフマンも、
離派は、
ヴァグナーを迎え入れた瞬間から時限爆弾を抱
ヴァグナーを師として尊敬し、精神的支柱として仰いでい
えることになったのです。
たからです。そのロースの戦略が功を奏したからでしょう
ところで、ヴァグナーの合 理 主 義 思 想は「ARTIS
か、
ヴァグナーは内部対立が原因で 1905 年に分離派か
SOLA DOMINA NECESSITAS(必要性こそ芸術のただ
ら脱退します。1903 年にウィーン工房(Wiener Werkstätte)
26
を設立していたホフマンも、
ヴァグナーが脱退した同じ年
にオルブリッヒと袂を分かちます。そしてオルブリッヒはとい
96 邦訳:
「建築に加わるのは、
ごく一部の建築でしかないのか?」
2012年
『 CASABELLA JAPAN 』818 号、
うと、その数年後の 1908 年に永眠の途についてしまいま
5 ─前掲書、
p.63
『 虚空に向けて』、
す。分離派における建築家同盟は、
こうして事実上崩壊
6 ─ Juan José Lahuerta,“Ornament e delitto? I,”CASABELLA,
したのです。
no.788, 2010, pp.2-3「装飾は犯罪か?I」
『CASABELLA JAPAN 』
788 号、
2010 年
Princeton Architectural Press, 1997
─ Beatriz Colomina, Privacy and Publicity – Modern Architecture as
Mass Media, The MIT Press, 1994
─ Harry Francis Mallgrave, Modern Architectural Theory – A
Historical Survey 1673-1968, Cambridge University Press, 2005
─ Roberto Schezen、et.al. Adolf Loos: Architecture 1903-1932, The
さて、今回の締め括りとして、つぎの問いかけをしておしま
7 ─ Adolf Loos,“Ornament and Crime”in August Sarnitz,
いにしたいと思います。
「もし、
ロースが首尾よく第 1回分
Adolf Loos 1870-1933, Taschen, 2003 , p.87
離派展に自分の名を連ねることができていたとしたら、そ
8 ─ Juan José Lahuerta,“Ornament e delitto? II,”CASABELLA
の後の歴史はどんなふうに動いていていただろうか?」
no.789, 2010, pp.12-13「装飾は犯罪か?II」
『CASABELLA JAPAN 』
と。彼はきっと
「装飾と犯罪」を書く必要を感じなかったで
795号、
2010 年
しょうし、今日ミヒャエラープラッツで当然のように眼にする
9 ─ ibid, p.9 ; 前掲書 p.24
ロースハウスも誕生していなかったでしょう。それから、今
10 ─岡田哲史「建築家が歴史から学ぶことpart2『
」CASABELLA
回はラウムプランの話まで進めることができませんでした
JAPAN』823 号、
2013年
2011年
─ 田中純『建築のエロティシズム』、
平凡社新書、
が、
ラウムプランを内包する住宅に特有の無装飾の外観
11 ─岡田哲史「ロードリとピラネージの建築論─18世紀モデル
─ 古川真宏「ウィーン分離派とアドルフ・ロース−世紀末ウィーンにお
も実現されることはなかったでしょう。
『ピラネージの建築論 対話』
ニズモをめぐる論考」、G.B.ピラネージ
今回の話で私が主張したかったことは、第 1回分離派
2004 年、pp.90 -122
横手義洋訳、
アセテート、
展をめぐるホフマンとの事件は、それほどまでにロースの
12 ─ Joseph Rykwert, The Necessity of Artifice, Rizzoli, 1982 ,
その後を決定づけるものであったということ。1898 年に
p.115
1962 年、兵庫県生まれ。建築家、千葉大学大学院准教授。コロン
ロースの人格が引き裂かれ、
ロースの中に、
こう言ってよ
13 ─ Robert Venturi and Denise Scott Brown,“A Significance
ビア大学大学院修了後、早稲田大学大学院博士課程修了。日本
ければ、
「正気のロース」と
「狂気のロース」が共時存在
for A&P Parking Lots or Learning From Las Vegas,”Architectural
学術振興会特別研究員、文化庁芸術家在外研修員、
コロンビア大
する状況が生まれたこと。ヴァグナー譲りの「装飾」であ
Forum, March 1968 , pp.37-43
学大学院客員研究員を経て、1995 年、岡田哲史建築設計事務所
れば受け入れる前者のロースと、分離派(つまりはオルブリッ
14 ─ Rem Koolhaas and Elia Zenghelis,“ Exodus or the
設立。デダロ・ミノッセ国際建築賞グランプリほか、受賞多数。ヴェネ
ヒとホフマン)の「装飾」に対してはヒステリー反応を示し、
Volumtary Prisoners of Architecture,”CASABELLA no.378 ,
ツィア建築大学(IUAV)、デルフト工科大学など、海外の主要大学で
完全なる無装飾の世界へと振れてしまう後者のロース。
1973, pp.42-45
も建築デザイン教育に携わっている。主要著書:
『ピラネージと
「カン
しかし私たちは、その「狂気のロース」があの時あの場
15 ─ Adolf Loos,“ Der Silberhof und Seine Nachbarschaft,”
(桐敷真次郎/岡田哲史、本の友社、1993)
プス・マルティウス」』
、
『 建築巡礼
所に存在していなければ、あの時代に完全無装飾の外
Die Zeit, 15 May 1898
(丸善、1993)
(共著、
トレヴィル、1997)
32 ピラネージの世界』
、
『 廃墟大全』
、
観をもつ建築など誕生していなかったことを再認識して
16 ─ Otto Wagner, Modern Architecture – a guide for his students
おいてもよいかもしれません。
to this field of art, Getty Centre, 1988, p.91
2004)など。2009 年には、
ミラノのエレクタ社より作品集『 SATOSHI
17 ─ ibid, p.93
(序文:フランチェスコ・ダルコ)
OKADA 』
が刊行されている。
[2014年 12月23日]
Monacelli Press, 2009
─ Hans Hollein et. al. ed.,
“Vienna Dream & Reality,”Architectural
Design, London 1986
─ Kenneth Frampton, Modern Architecture – A Critical History,
Thames & Hudson,1980
─ カール・ショースキー
『世紀末ウィーン−政治と文化』、
安井琢磨訳、
1983 年
岩波書店、
2012年
ける装飾とセクシュアリティー」
『人間・環境学』、
[岡田哲史]
(G・B・ピラネージ著、岡田哲史校閲、アセテート、
『ピラネージ建築論 対話』
18 ─ ibid, p.82
[注]
1 ─アドルフ・ロース
『虚空へ向けて 1897-1900 』、加藤淳訳、鈴
2012年
木了二+中谷礼仁監修、
アセテート、
2 ─ Beatriz Colomina, et.al. Raumplan versus Plan Libre : Adolf
[図版提供]
[注記以外の参考文献]
岡田哲史建築設計事務所
─ Adolf Lood, Spoken into the Void – Collected Essays 1897-1900,
The MIT Press, 1982
[いかに建築空間は思考されるか]
Loos and Le Corbusier, 1919-1930, Rizzoli, 1993
─ Benedetto Gravagnuolo, Adolf Loos, Idea Books Edizioni, 1982
1 ─過去と現在を相対化させること(CASABELLA JAPAN 833 号)
3 ─ Juan José Lahuerta, Humaredas, Arquitectura, ornamentacion
─ Panayotis Tournikiotis, Adolf Loos, Princeton Architectural
(CASABELLA JAPAN 837 号)
2 ─起点としてのフランク
・
ロイド・
ライト
[1]
『 CASABELLA
y medios de masas, Madrid 2010(「装飾は犯罪か?」の邦訳は、
JAPAN 』788 号、789 号、794 号、795 号に掲載されている)
4 ─ Daniella Pisani,“ Solo Una Parte dell ’Architettura
Architetura?,”CASABELLA, no.818, 2012, pp.94Appartiene all’
27
Press, 1996
─ Giovanni Denti, et.al., Adolf Loos opera complete, officina
edizioni, 1997
─ Allison Saltzman ed., Villa Müller – A Work of Adolf Loos,
(CASABELLA JAPAN 838号)
3 ─起点としてのフランク
・
ロイド・
ライト
[2]
(CASABELLA JAPAN 841号)
4 ─起点としてのフランク
・
ロイド・
ライト
[3]
(CASABELLA JAPAN 842号)
5 ─起点としてのフランク
・
ロイド・
ライト
[4]
(本号)
6 ─アドルフ・ロース試論[1]