ウシュアイア乗船&出港

2016年1月7日(木)
ウシュアイア乗船&出港
南極探検クルーズ/オーシャン・ダイヤモンド
船長、オフィサー、乗組員、スタッフ一同、皆様のご乗船を心より歓迎申し上げます。
船長&オフィサー
ホテル・チーム
船長
オレグ・クラブテンコ
ホテル・マネージャー
トマス・フェニングス
一等航海士
ヴォロディミール・キミク
料理長
クリサント・ベレザ
機関長
パナギオティス・スタトポロス
チーフ・パーサー
ウィリー・リリオ
エクスペディション・チーム エクスペディション
デイビッド・ウッディ・ウッド
ガイド
デイヴ・アルコン
ガイド
林 由希恵
ガイド
デイヴィッド・バートン
・コーディネーター
カヤック・ガイド(2 名)
スコット、ライアン
エクスペディション
ガイド
クリス・クロクソン
ガイド
ロス・ホートソン
・リーダー
エクスペディション
・コーディネーター
フアニタ・ヴォルカー
ラチラン・グレイ
歴史学講師
フェデリコ・ガルギュロ
ガイド
ニック・エンゲルマン
地質学/氷河学講師
ウォルフガング・ブルーメル
ガイド
トッド・ウエイスロット
鳥類学講師
リリアナ・ケスリンカ
ロジスティック・マネージャー
ウラジミール・セリヴェルストフ
海洋生物学講師
アニー・イングレス
ロジスティック・マネージャー
ジョン・フリッパー・スータ
写真
アカシア・ジョンソン
ブティック・マネージャー
ジェイミー・マッコウリー
医師
レイ・ジャリス
クウォーク社日本正規代理店クルーズライフより派遣の同時通訳・ナチュラリストガイド:保阪瑠璃子
★の行事は同時通訳付きです。入り口で添乗員よりイヤホンガイドをお受け取りになり席にお付きください。
乗船 – 皆様のご乗船を心より歓迎申し上げます。
16:00
ご自分の荷物は過不足なく届いておりますか? 船内をご自由にご見学ください。
4階
ザ・クラブ
5階
メインランジ
5階
メインランジ
3階
ダイニング
4 階のザ・クラブに飲み物とスナックを用意いたしておりますのでご自由にどうぞ。
船内放送でご案内 ★
全員出席して安全と船内生活に関するウェルカム・ブリーフィング ウッディ
南極に向けて出港予定。(出航後約 5 時間で外洋に出ます)
18:00 予定
出港風景をデッキからお楽しみください。
船内放送でご案内★
避難訓練(お客様全員ご参加ください。)
ロッカー上の救命胴衣を手に持って集合。出席確認の点呼があります。
20:00
ご夕食(自由席) ※3階ダイニング或いは 4 階のレストランお好きな方でどうぞ
4階
レストラン
夕食後
クォーク社の防水性のパルカとブーツの配布(夕食御済みの方からソックスを持って)
5階
メインラウンジ
21:15
船医が船酔いの心配なお客様のご相談を承ります。(酔い止め薬も配布可)
4階
ザ・クラブ
夜
ビーグル水道をお楽しみください。外洋に出る前に割れ物などをかたずけましょう
●ご注意
(1)今朝、ホテルで預けたスーツケース等の荷物が客室に届いているかご確認ください。荷物が届いていなかったり、他
のお客様の荷物が間違って入っていたりした場合には、直ち(出航前)に添乗員にお知らせ願います。
(2)ドレーク海峡航行に備え、小さなものは動かないように、壊れやすい物は引き出しやロッカーに収納してください。
シャワーは揺れ始める前に済ませましょう。
(4)外洋航行中に船内を動き回る際は、必ず手すりにつかまりましょう。突然閉まるドアに手を挟まれないように。
スリッパやつっかけなど、かかとが履物に固定されない物は危険です。
(5)貴重品は鍵のかかる引き出しを利用なさるか、スーツケースに入れて鍵をかける事をお勧めします。
(6)飲料水の補充はザ・クラブ(4階)、メインラウンジ、(5階)、展望ラウンジ(7階)にある給水湯器をご利用ください。
バーではペットボトル入りミネラル水も販売しております。
夜間緊急時:☎998
レセプション:☎999(営業時間:06:00~23:00/4 階)
重要な電話番号
医師(レイ・ジャリス)
無線で呼び出してもらえます。
添乗員:大橋・栗原 (相部屋)☎610 ビーグル水道(Beagle Channel)
南米大陸南端とフエゴ群島との間にあるのがマゼラン海峡ですが、フエゴ島のさらに南にあるのが長さ約 240 ㌔の
ビーグル水道です。ティエラ・デル・フエゴ群島の中心フエゴ島(Isla Grande)と、その南にある他の島々とを南北に分ける
ように太平洋から大西洋まで通じています。幅は最低 5 ㌔程度で、深さ 260 ㍍位のところもあります。太平洋側の西半分は
ゴードン島を挟んで南路と北路に分かれており、東半分は一本の水路となって約 145 ㌔先の大西洋に続いています。水道
の北岸を成しているフエゴ島は西経 63 度 36 分を境に西側のチリ領と東側のアルゼンチン領に分かれ、フエゴ島の南はビ
ーグル水道が国境線を成しているので、水道の南側の島々は全てチリ領です。
現在見られる地形は 100 万年前頃から 1 万年前頃まで続いたと見られる大規模な氷河活動によって出来た比較的
新しい地形です。今から 18,000 年位前まで、ティエラ・デル・フエゴの殆どは最後の氷河期の氷河で覆われていたと考えら
れます。氷河時代からの氷河は今でも南緯 50 度を中心としたアンデス山脈の高地に一部残っています。氷河はそれ自体
の重さで周りの岩を削りながら低い方に流れだし、通過した後には幅の広い U 字谷を残しました。ビーグル水道の北岸に見
られる例ですが、氷の比較的薄い小さな氷河が厚い本流氷河に落ち込むように合流して出来た、かかり谷(懸谷)には、氷河
の後退した今では名残の滝が多く見られます。ビーグル水道自体は、西から東に流れていた大きな氷河がフィヨルドになっ
たもので、典型的な U 字谷の形をしています。世界的に氷河が融けて海水位が上がった頃、この氷河も融けて海水が入り込
み、平均 100 ㍍位の深さの海峡になりました。現在もビーグル水道に注いでいる氷河の後退が速まっていることは、最近深
刻さを増している地球温暖化現象の具体例と言えるでしょう。
ティエラ・デル・フエゴ地方の最も古い人類の居住記録は 1 万年以上前に遡ります。プエルト・ナタレスの北にある洞
窟からは 1 万年前位とみられる人骨が発掘されています。以前は氷河期にアラスカのベーリンジア陸橋を超えてアジアか
ら新大陸に移動してきた人々の子孫がさらに南に移動したとする説が大勢でしたが、最近ブラジルやペルーでそれ以外にも
カヌーなどで直接南米へ移動してきた可能性を示す人骨などが発見され、複数の移動経路が使われたとする説が有力にな
りつつあります。
ヨーロッパや北米からの探険家が初めてにこの地にやって来た時(16 世紀)には既にパタゴニア南部とティエラ・デ
ル・フエゴには 4 つの原住民部族が生活していました。しかしこれらの原住民の歴史は悲しい結末となりました。もっとも古
いのは、グアナコを狩猟しながら遊動生活をしていたハウッシュ族(マネケンクン族)でした。その後、数が多いオナ族とヤガ
ン族に押されてフエゴ島の東端部にあるミトレ半島に退きました。ハウッシュ族は 1800 年代に多く訪れた探険家や科学者、
そして入植者達と関わりを持つことが多くなり、外界からの疫病などで絶滅してしまいました。毛皮製のテントを使ってグアナ
コなどの陸上狩猟と浅瀬の魚釣り中心の遊動生活をしていた、比較的背の高いオナ族(=シャルカム族)は最も数が多く、フ
エゴ島の広い範囲に住んでいましたが、多くは後にヨーロッパから入植してきた牧場主や金鉱探しなどに殺害されてしまい
ました。残りは麻疹などの病気で次々と死に、純血のオナ族は死に絶えてしまいました。ダーウィンが 1833 年に遭遇したの
はヤガン族(=ヤマナ族)です。彼らはビーグル水道からホーン島にかけての島々沿いで数日毎にカヌーで移動しモリやヤリ
を使ってカワウソ、アシカ、貝類、魚類を食する生活をしていました。木の皮でカヌーを作り、中で火をたいて暖をとりました。多
彩な語彙を持った彼らの言葉は 1870 年代にやって来たイギリス国教会の宣教師、トマス・ブリッジズにより辞書にまとめら
れています。2007 年現在、純血ヤガン族が一名、少数の混血がナバリノ島の西部で生存しています。4 つ目の原住民族は
ヤガン族に似た沿岸カヌー生活をしていたアラカルフ族ですが、彼らの居住地はマゼラン海峡の西端周辺と太平洋側の離
島でした。カヌーに帆をかけ、弓矢と銛なども使いました。西欧人との接触が殆ど無かったアラカルフ族は他の種族のような
短期間での絶滅は被らずに済み、現在も僅かの純血生存者がチリのプエルト・イーデン周辺に残っています。
西欧人がビーグル水道を発見したのは、英海軍ロバート・フィツロイ船長(24 才)率いるティエラ・デル・フエゴの探検と
測量を目的とした第一次ビーグル号探検(1826-1830)の際です。熱心なキリスト教信者であるフィッツロイ船長は「未開人
をキリスト教精神で教育する」熱意に燃えて、4 人のヤガン族(ジミーボタン、ヨークミニスター、ボートメモリーそして唯一の女
児フージアバスケット)をイギリスに連れ帰りました。フィッツロイ船長は 4 人を教会の宣教協会に預けて英語と宗教教育を
頼みました。当初は全てがうまくいっていましたが、最も順応していたボートメモリーが天然痘で早く死に、11 才のフージアバ
スケットがヨークミニスター(28 才)と抱き合っているのが発見されてしまいました。大きなショックを受けたフィッツロイは 3 人
を故郷に返すことにしました。そのビーグル号第二次探検(1831-36)にナチュラリストとして自費参加したのが 22 才のチャ
ールス・ダーウィンです。
ビーグル号は 1833 年 1 月、ジミーボタンの故郷であるナバリノ島のウーリャ入り江に 3 人と宣教師としてマシュー牧
師を降ろし、6 日目に再び戻ると、ヨークミニスターとフージアバスケットがジミーボタンの所持品を持ち逃げした後でした。牧
師の命も危険な状態だったので、宣教地を移すことにしました。痩せこけて僅かな腰布だけに戻ったジミーボタンは船上で
の夕食の後、自分の故郷に留まることを告げて帰っていきました。こうしてフィッツロイ船長の高貴な実験は失敗に終わりま
した。
フィッツロイがパタゴニアの海岸線の測量をしている間にダーウィンは陸上の長い探検に出ました。行く先々であら
ゆる種類の動植物や化石の標本を採集しました。5 年間にわたるビーグル号航海中に寄港各地で集めた膨大な標本や記
録ノートが彼の進化論の自然淘汰理論を推し進め、後に有名な「種の起源」を著す基となったのです。 ⒸRlindblad02052014