奈良学ナイトレッスン 第1期 『奈良の古仏を愛でる』 ~第3夜 「女性の祈り

奈良学ナイトレッスン 第1期 『奈良の古仏を愛でる』
~第3夜 「女性の祈りと仏像」~
日時:平成 23 年 5 月 25 日(水) 19:00~20:30
会場:奈良まほろば館 2 階
講師:西山厚(奈良国立博物館・学芸部長)
内容:
1.小さな観音さま
2.日本仏教の始まりは女性
3.皇后のなみだ
4.母と子
5.女性の極楽往生
6.女性達のアイドル・阿難
7.愛の力が信仰の力へ
8.いつも仏さまのそばに
9.さびしいとき
1. 小さな観音さま
私が温めている大切なテーマのひとつに「女性と仏教」があります。
いきなり私事ですが、私が2つのとき、母が病気になりました。悪性のもので、発見が遅かったため、
わかった時にはすでにかなり進行していて、すぐに手術しなければ助からないと言われました。入院す
る日の朝、母は私をおんぶして家の中をぐるぐる回り、
「帰ってきたら、またおんぶするわね」と言っ
て出ていきました。
「もう帰ってこられない」と思っていたのかもしれません。そのときの記憶は鮮明
に残っています。
幸いに手術は成功しました。しかし、再発したら終わりだと言われていたそうです。母は小さな観音
さまの像を持って嫁いできました。夜寝る前に、この観音像の前で、母はいつも『般若心経』と『観音
経』を唱えていました。父も体が弱く、臥していることが多かったので、ふたりは「自分たちは、来年
はもうこの世にいないかもれない、いま死んだら、小さなこどもたちに何を残せるのだろうか」と考え
て、私には仏教童話全集を買ってくれました。これが私と仏教との出会いとなりました。
母がお経を唱えている間、末っ子の甘えん坊だった私は、いつも母にくっついてお経を聞いていまし
たが、母が切なる祈りを観音さまに捧げていたことを、小さい私はまだ理解できませんでした。
やがて私は、それがなければ生きられないというような信仰に心ひかれるようになりました。女性の
ほうが、男性よりも、信仰が深い場合が多いです。それは女性のほうが、より深く悲しんだり苦しんだ
りしがちだからかもしれません。
2.日本仏教の始まりは女性
日本に仏教が伝わったのは6世紀のことです。538年とも552年とも言われます。そして日本で
最初に出家したのは女性でした。善信尼という人で、まだ11歳(17歳とも)でした。禅蔵尼、恵善
尼というお弟子さんと合わせて、この3人が日本仏教のトップランナーだったのです。
「聖徳太子絵伝」
には、聖徳太子のそばにこの3人の女性の姿が描かれています。
外来の宗教を受け容れるかどうかで有力豪族の間に対立が生まれ、善信尼も迫害を受けた時期もあり
ましたが、それを乗り越えた善信尼は朝鮮半島の百済への留学を希望します。受戒の法を学ぶためです。
善信尼は受戒が出家の道の根本と考えていました。戒とは仏教者がみずからの意志で守る決まりのこと。
受戒とは戒を守る誓いを立てる儀式のことで、受戒をして初めて正式な僧や尼になります。しかし、当
時の日本にはまだそういう制度がなかった。善信尼は真の出家者になるため、百済へ渡って受戒の法を
学びたいと考えたのです。奈良時代に受戒の法を伝えた鑑真和上のことはよく知られていますが、鑑真
さんが日本へ来る150年も前にこんな女性が存在したのです。善信尼は百済で勉強して日本に戻り、
飛鳥の豊浦寺に住んで、仏教を広めていきます。
『日本書紀』によれば、この頃、百済からの使いが「この国はただ尼寺ありて、法師寺および僧なし」
と述べています。お寺はすべて尼寺、出家者はすべて尼という意味です。本当にそうであったかどうか
は検討が必要ですが、いずれにせよ、日本仏教の幕を開けたのが女性であることは間違いありません。
推古天皇32年(624)の統計では、お坊さんが816人、尼さんが569人で、すでに男性のほう
が多くなってはいますが、女性の数の多さに驚かされます。
3.皇后のなみだ
現存する最高の仏像は薬師寺金堂の薬師如来像だと私は思っています。この薬師寺を建てようとした
のは天武天皇です。天武天皇の皇后は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)
、のちの持統天皇です。
天武天皇と鸕野讃良皇女はとても仲がよく、壬申の乱の際にも行動をともにし、ふたりは力を合わせて
政治をおこないました。その皇后が680年に病んだとき、天武天皇は皇后の病気平癒を願って薬師寺
の建立を発願しました。本尊は薬師如来。病気を治してくれる仏さまです。幸いに、寺を建て始めて程
なく、皇后の病は治りました。しかし6年後の686年、今度は天武天皇が病気になり、そのまま亡く
なってしまいます。翌年、皇后は300人のお坊さんを集め、一人に1枚ずつ、袈裟を贈りました。そ
れらは天武天皇の御服をほどいて縫って作ったものでした。その由来を語り始めた皇后は、やがて悲し
みで言葉が出なくなります。
『日本書紀』には「詔(みことのり)の詞(ことば)
、酸(から)く割(い
た)し。つぶさに陳(の)ぶべからず」とあります。
薬師寺建立の事業は皇后(持統天皇)が引き継ぎました。天武天皇の死から2年、薬師寺で「無遮大
会(むしゃだいえ)
」が開かれます。誰もが参加できる大法要です。おそらく本尊が完成し、それを記
念するイベントであったのでしょう。しかし、すべての工事が終わったわけではなく、伽藍がほぼ完成
して僧侶が住むようになるのはさらに10年後の698年、天武天皇の発願から数えると20年もかか
っています。薬師寺は、天武天皇と持統天皇が、それぞれに相手のことを思いやって建てたお寺。薬師
寺は、天武天皇と持統天皇の愛の結晶なのです。
薬師寺は平城遷都に伴って藤原京から平城京へ遷ってきました。東塔は奈良に遷ってまもない頃に建
てられたもので、六重塔のようにみえますが、三重塔です。小さい屋根のように見えるのは裳階(もこ
し)で、屋根ではありません。昭和から平成にかけて薬師寺の伽藍を復興した高田好胤さんは、「大き
な屋根は天武天皇。小さな裳階は持統天皇。これは天武天皇が持統天皇をやさしく抱きしめている姿で
す」と説明していました。これ以上すばらしい説明はないと思います。
4.母と子
法隆寺には厨子に納められた国宝の阿弥陀三尊像があります。
「橘夫人念持仏」です。橘夫人とは県
犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)
。光明皇后のお母さんです。中央が阿弥陀如来、向かって右が
観音菩薩、左が勢至菩薩。池から蓮の茎が立ち上がってきて、花が開き、その花の上に仏さまがおられ
ます。橘夫人はとても信仰の篤い女性で、光明皇后の深い信仰もお母さんから受け継いだものと思われ
ます。橘夫人と光明皇后は聖徳太子への信仰も篤く、聖徳太子ゆかりの法隆寺にさまざまな宝物を寄進
しました。この阿弥陀三尊像もそのひとつで、白鳳時代のとても優しそうなお顔をしておられます。橘
夫人はいつもこの像の前で手を合わせておられたのでしょう。
橘夫人は天平5年(733)正月11日に亡くなりました。光明皇后は亡き母の冥福を祈って、興福
寺に西金堂を建てました。西金堂は何度も焼けて、今は存在しませんが、かつてはおよそ30体の仏像
が安置されていました。有名な阿修羅像はそのうちの一体です。第1回のナイトレッスンで詳しくお話
をしましたので、今回は結論だけにしますが、阿修羅像と対面する時には、お母さんを亡くした光明皇
后の悲しみに思いをはせてほしいと思っています。阿修羅は8人でチームを組んでいます。これが八部
衆です。八部衆の一人である五部浄(ごぶじょう)は少年の顔をしています。沙羯羅(さから)はもっ
と小さくて、幼稚園児ぐらいの男の子の顔をしています。お母さんが亡くなる4年3ヶ月前、光明皇后
はわが子を亡くしています。男の子でした。その子は生まれたときから病弱だったようで、どんな治療
も効果がありません。仏教にすがるしかないと思った天武天皇と光明皇后は、観音菩薩の像を177体
造り、観音経を177巻も写経しましたが、皇子は満1歳を迎えることなくこの世を去りました。八部
衆像を製作している頃、男の子が元気であれば満6歳くらい。五部浄や沙羯羅はそれくらいの年頃の男
の子の顔をしています。光明皇后は、亡くなったお母さんだけではなく、亡くなったわが子のことも思
って西金堂を建てたのだと私は思っています。
5.女性の極楽往生
奈良時代に中将姫という女性がいました。説話のなかの女性で、本当に実在したかどうかははっきり
しませんが、奈良には中将姫の生まれ育った地と伝えられる場所もあります。彼女は辛く悲しいことが
あって家を離れ、當麻寺に入ります。そして生身(しょうじん)の阿弥陀仏を見るまでは寺を出ないと
いう誓いを立てます。
「當麻曼荼羅縁起絵巻」によると、やがてふたりの女性(年配の尼と若い女性)
が現れ、若い女性が蓮の糸を用いて極楽浄土の様(浄土図)を織り出してくれます。中将姫自身が蓮の
糸で織ったとする話もありますが、その浄土図は「當麻曼荼羅」と呼ばれて當麻寺に現存しています。
浄土図が完成すると、若い女性は飛び去ってしまいます。観音菩薩だったのです。年配の尼は中将姫に
浄土図の絵解きをしてくれ、終わるとやはり飛び去ってしまいます。阿弥陀仏だったのです。中将姫の
思いの深さに応えて、生身の(本物の)阿弥陀仏が姿をみせてくれたのです。やがて中将姫が亡くなる
時に、阿弥陀仏が迎えに来てくれました。先頭にいる観音さまが持つ蓮台に乗り、中将姫は極楽浄土に
往生します。29歳でした。
29歳でこの世を去った中将姫。彼女の人生は幸せだったのでしょうか。それとも不幸だったのでし
ょうか。現代の私たちの常識では29歳の若さで死ぬのはかわいそうということになると思います。し
かし絵巻には「思ふがごとくに往生す」とあり、中将姫の願い通りだったことが明記されています。彼
女は最高に幸せであったに違いありません。幸せは人生の長さでは決められません。
平安時代の中期に編纂された『日本往生極楽記』には、極楽浄土に往生したとされる45人が紹介さ
れています。このなかに女性も10人います。ある女性は、3人の子どもと夫に先立たれ、世の無常を
感じて出家しました。そののちは自分の体や命を愛することなく、いつも阿弥陀仏を念じ、柔和で、慈
悲深く、蚊や虻(あぶ)を追い払うこともなかった。彼女が亡くなった時、空中に音楽が聞こえたとい
います。それは極楽浄土から阿弥陀仏が迎えに来たことを意味します。
またある女性は、昼も夜も仏典を学び、毎月15日には五体投地をして「南無西方日想安養浄土」と
唱えていました。お父さんもお母さんも体をこわすのではないかと心配していましたが、25歳で女の
子を産み、まもなく亡くなりました。そのとき音楽が空に満ちたと言われます。
彼女たちの死は、残された者の心にとりわけ深くしみたと思われます。なぜこんなにも早く世を去ら
ねばならなかったのか。せめて極楽に往生したのであってほしい。彼女たちが仏教によって幸せを得た
と信じたい人々によって往生伝は誕生します。きっと本当に、空に音楽が聞こえたのでしょう。
平安時代も半ばを過ぎると、
「女性は成仏できない」
「女性は往生できない」と言われるようになりま
す。もちろんそんなことを言うのは男たちです。男に変化したら往生できるとされ、男に変身して往生
する「変成男子(へんじょうなんし)」が説かれますが、ほとんどの女性は本気にしていなかったよう
です。
治安元年(1021)の秋、皇太后妍子(けんし)の女房たちが、それぞれ男性と組んで、
「法華経」
一品経の制作にかかった話が『栄花物語』に出てきます。当時は「法華経」の写経が大流行しており、
しかも豪華絢爛な経巻を作るほど功徳が大きいと信じられていました。そこで30カップルの男女が1
巻ずつ担当して、その装飾の華麗さを競い合ったのです。もともとは罪を滅するため、殊勝な気持ちで
始めたはずですが、やがて「かえって罪つくりに見えたり」と言われるほどの白熱ぶり。女性は本当に
みんな元気です。
同じく『栄花物語』に、京都の法成寺の阿弥陀堂に4〜5人の尼さんグループがお参りに行く様子が
描かれています。九体の大きな阿弥陀仏がずらりと並んでいる様子は浄土さながらで、尼さんたちは大
興奮。寺を出ても興奮冷めやらず、とても家に帰る気分にならないので、一人の尼さんの家に行き、食
っちゃ寝、食っちゃ寝しながら御堂のありさまをいつまでも嬉しく話し合ったといいます。食っちゃ寝、
食っちゃ寝しながら浄土の話をするのが楽しそう。女性はたくましいですね。男たちのたわごとを真に
受けるような女性はほとんどいなかったと思います。
「粉河寺(こかわてら)縁起」という絵巻があります。和歌山県の粉河寺の本尊千手観音にまつわる
縁起を絵巻にしたものです。あるところの長者の娘が病気になり、どうしても治らない。そこへ童子が
やってきて病気を治してくれる。その童子は、山のようなお礼の品は受け取らず、提鞘(さげざや/袋
に入れて腰からつるす小刀)と紅色の袴だけを持ち、
「恋しくなったら粉河へ来なさい」と言い残して
姿を消します。娘や両親一行が粉河へ訪ねていくと、お堂があり、扉を開くと、提鞘と紅袴を手にした
千手観音が立っていた。驚き、そして直ちに髪を剃り落として出家する人々の様子が描かれています。
6.女性たちのアイドル・阿難
お釈迦さまが亡くなる時の様子を描いた絵を涅槃図といいます。お釈迦さまが亡くなった2月15日
には、多くのお寺で大きな涅槃図を掛けて法要がおこなわれます。涅槃図をご覧になる時には阿難を見
落としてはなりません。金色をした大きな体のお釈迦さまが真ん中に横たわっていて、まわりでは仏さ
まも人間も動物も悲しんでいますが、お釈迦さまの手前で倒れている色白で顔立ちの良いお坊さんに注
目してください。この人が阿難です。お釈迦さまといつも一緒にいたのに、優しすぎてなかなか悟りを
開けなかったという私好みの人物です。お釈迦さまが亡くなって悲しいのだけれど、悟りを開いたお坊
さんたちは、生あるものは必ず滅す、人は必ず死ぬ、という真理を知っているため、泣かなかった。し
かし、阿難は悟りを開いていないので、悲しみに耐えられず、ついに気を失ってしまうのです。涅槃図
では必ず阿難が倒れています。
お釈迦さまの足もとにはおばあさんがいます。涅槃図によっては男性が描かれている場合もあります
が、おばあさんが多い。この女性も阿難と関係があります。お釈迦さまが亡くなると、たくさんの人た
ちがお釈迦さまを囲んだ。前のほうは男性ばかりで、女性はなかなか近づけない。それを見た阿難は、
女性たちの気持ちを察して、お釈迦さまの近くに導いてあげます。ひとりの女性が涙をこぼし、それが
お釈迦さまの体にかかると、そこだけ金色が失われてしまった。遅れてやって来た大迦葉(だいかしょ
う/お釈迦さまの後継者になる高弟)がそれに気づき、阿難はひどく怒られるのですが、女性はきびし
い大迦葉よりやさしい阿難のほうが好き。玄奘三蔵の『大唐西域記』には、インドのマトゥラーでは尼
僧は阿難を礼拝供養していると記されています。日本でも、尼寺である奈良の法華寺で、2月8日と8
月8日に阿難を本尊とする阿難講がおこなわれていたことが鎌倉時代の記録からわかります。インドに
おいて、仏教教団は、初めは男性だけで構成されていましたが、女性も入れるようにしてくれたのも阿
難です。阿難はいつもやさしい。それに男前。だから女性は阿難が大好きです。
7.愛の力が信仰の力へ
鎌倉時代に作られた「華厳宗祖師絵伝」という絵巻が京都の高山寺に伝わっています。新羅の義湘(ぎ
しょう)という僧が勉強のために中国へ行き、善妙(ぜんみょう)という女性と出会います。善妙は義
湘に一目惚れをし、思いを告白します。しかし、すべての人々を幸せにしたいという義湘の心中を知り、
生涯をかけて義湘を支えることを決意します。やがて修学した義湘が新羅に帰ると聞き、善妙は贈り物
を用意するのですが、義湘は挨拶もなくさっさと船出してしまいます。善妙は急いで海辺に向かいます
が、義湘の乗った船の白い帆が遠くに見えるばかり。善妙はひっくり返って大泣きします。やがて立ち
上がった善妙は、贈り物の箱を海に投げ入れ、さらにわが身も海へ投げます。そして善妙は龍に変わる。
龍に姿を変えた善妙はたちまち船に追いついて、(襲いかかるのではなく)船を背に乗せて新羅まで送
っていきました。この絵巻の詞書には「愛心なきはすなわち法器にあらざる人なり」とあります。愛す
る心のない人には仏教はわからない。これは思い切った発言です。仏教では「愛」は執着だから悪いも
のと考えます。愛があるから苦しみが生まれる。しかしこの絵巻を作った明恵上人は愛を肯定していま
す。善妙=華厳宗を守る女神と考えた明恵上人は、善妙神像を制作して高山寺の鎮守としました。承久
の乱で夫や息子を失った女性たちが明恵上人のもとに集まってくると、明恵上人は高山寺の近くに尼寺
を建てて彼女たちを収容します。寺の名は善妙寺。明恵上人は「本当の仏教は善妙寺に伝わっている」
と述べています。
善妙と義湘の物語と似た話があります。道成寺縁起です。旅の僧である安珍に恋した清姫は、約束を
破った安珍を追いかけるうちに大蛇となり、道成寺の釣り鐘に隠れた安珍を焼き殺す。しかし、道成寺
に伝わる「道成寺縁起絵巻」をみると、上半身が蛇に変わった女は「観音さま、助けて」と叫びながら
男を追っている。誰からも(愛する男からも)怖がられ、避けられ、嫌われる、おぞましい化け物に、
自分がなっていることを、女はちゃんと知っている。でももうとめられない。愛欲に狂い、化け物にな
り、滅びの道をひた走る。
「観音さま、助けて」と叫びながら。
8.いつも仏さまのそばに
平安時代の多くの女性は普賢菩薩を信仰していました。奈良国立博物館が所蔵する鎌倉時代の普賢菩
薩の絵には、普賢菩薩の周囲に十二単(ひとえ)を着た女性たちが描かれています。きっとこの絵を見
た女性たちは、絵の中の女性に自分を投影しただろうと思います。普賢菩薩は白い象に乗っています。
白馬に乗った王子さまならぬ、白象に乗った普賢菩薩さま。いかにも女性好みのお姿ですね。一番手前
には赤ちゃんを抱いている女性もいます。訶梨帝母(かりていも)です。もとは人間の子どもを食べて
しまう鬼でしたが、心を入れ替えてこどもの守り神になりました。園城寺の訶梨帝母像は、女神の像と
いうよりも、普通の人間のお母さんがこどもをやさしく抱いているように見えます。こんなふうに、女
性は仏像や仏画に表現された女性に自分を重ね合わせながら、信仰をさらに深めていったのです。
奈良の伝香寺に伝わる地蔵菩薩立像は「裸地蔵」と呼ばれています。本当に裸のお姿で造られていて、
本物の衣を身につけておられます。そして年に1回、お着替えをします。体内には小さな仏像や文書が
納められており、そこに「比丘尼妙法」
「比丘尼唯心」の名がみえます。この地蔵菩薩像は女性が造ら
せた仏像です。このような裸形の仏は全国に50数体ありますが、いずれも女性が関わって製作された
ものと推測されています。女性はお世話することが好き。もちろんそうでない女性もいるでしょうが、
自分で縫った服を仏さまに着せたりするような、そういうお世話をしたい女性たちが産み出したのが裸
形像です。裸であることは生身(しょうじん)つまり本物の仏さまであることも意味しています。本物
の仏さまのおそばでご奉仕することは、女性にとって大きな喜びであり、それによって深いやすらぎが
得られたのです。
9.さびしいとき
私は金子みすゞさんの詩が大好きです。いちばん好きな詩を紹介します。
「さびしいとき」という詩
です。
私がさびしいときに よその人は知らないの
私がさびしいときに お友だちは笑ふの
私がさびしいときに お母さんはやさしいの
私がさびしいときに 仏さまはさびしいの
素敵な詩です。
「私がさびしいときに 仏さまはさびしいの」
。この感じ方はたいていの男の人には理
解しづらいような気がします。女の人にしかわからない信仰世界ではないでしょうか。深く悲しみ、深
く苦しみ、仏さまに出会い、仏さまに寄り添ってきた女性ならでは祈りの深さが感じられます。
初めにお話した私の母は、おかげさまで今も元気に過ごしています。88歳になりました。今日も小
さな観音像の前で手を合わせています。