ブログ小説 事業承継し、会社を潰した、後継者の告白

ブログ小説 事業承継し、会社を潰した、後継者の告白
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第1部 後継者の告白
会社を継いで15年後の平成19年、私は会社を倒産させ、すべてを失った。この物語はここから始まる。
●ミッション~はじめに~
私は、三代目社長として子供服の会社を15年経営した。社長になったのは30歳である。「会社を大きくした
い」という気持ちが強く、毎日、誰よりも頭も体もすべてフル回転させ、朝から晩まで働いた。決してすばらしい社
長ではなかったが、「日本の子供たちを可愛くします」というビジョンを目指して、人材教育を重点とし、拡大に向
けて全力で走った。「会社を大きくすること」だけを考え、それだけがみんなにとっての「幸せ」だと思っていた。私
の代から、業態を新しく変え、24店舗まで拡大し、業界でも注目されるほどになった。業界が小さかったこともあ
るが、全国で有数の会社にまでに拡大し、順調に成長したように思えた。
しかし、平成19年に会社が倒産する。私は自己破産し、すべてを失った。今まで私の周りにいた人たちが、ま
るで潮が引いていくようにして、去って行った。「こんな思いをするために、経営していたわけではない」「こんな思
いをするために、生まれてきたのではない」「もう二度、あんな思いはしたくはない…」
それから、友人を頼って鞄一つで上京する。傷が癒えてくるにしたがい、「一人として私と同じ経験をさせたくな
い」との想いが、日に日に、強く、また強く、渇いた体から湧き上がってきた。これが、私のミッションであると確信
した。この強い想いが、私をコンサルタントの道へと連れて行くことになる。高級ソープの運転手をしながら、中小
企業診断士の資格を取得し、倒産してから3年後の平成 22 年の 7 月に、コンサルティング会社、ヒロ・パートナー
ズを設立した。「頑張る経営者の応援団長」として、自分を使い、第二の人生を進んで生きたいと思った。
●プロローグ~全ては笑顔のために~
第1話 第二の人生
「この先どうやって生きていくのか」。その気持ちさえも失っていた。何が自分にあるのか・・・。ずっと考え
ていたが、何も出てこなかった・・・。後ろを振り向けば、世話した人ほど、全力で私から逃げていく。当然で
ある、私にはもうお金がないのだから。本当の友人だけは、背中を押して応援してくれた。言葉にはできな
かったが、「嬉しかった・・・」。どんどん、どんどん、嬉しさがこみ上げてきた。「ああ、なんて、私は幸せ者な
んだ」多くの物を失ったが、その代わりに、かけがえのない人の温かさに出会えた。目に見えないものほど、
本当に大事なものかもしれない。
住む場所も飯を食う金もなく、住み込みで働ける場所を探していた。鈍行列車で京都まで行き旅館で働か
せてもらおうと、頭を下げて頼んだが、「せっかくですが、うちには重過ぎる」と言われてしまった。トヨタ期間
工なら、と思いお願いをしに行ったが、結果は同じであった。経営者には雇用保険などは無い。まったくの文
無しである。それまでの私は挫折すら味わったことの無い、ボンボン育ちであった。そんな私でも、「人間、死
ぬ気になったら何でも出来る」と想った。「どうせ2度目の人生、こうなったら東京に行くしかない」。
黄色いスーツケースを1つだけ持ち、東京へ向かった。お金は片道の交通費のみ。このお金は、お袋が
やっとの思いで工面してくれたものだった。「ありがとう」「本当にありがとう」。一からのスタートを、どうやって
生きていくのか。「もう一度生きる」と決めたその日から、私にとっての第二の人生がはじまっていた。
第2話 東京
大学時代の友人を頼り、東京は新橋の烏森神社近くの居酒屋座敷に居候させてもらうことになった。昼
間は日比谷図書館で暑さをしのぎ、夜は居酒屋の最後のお客がいなくなるまで、新橋や銀座の街角で時間
を潰しながら、次の仕事のことを考えていた。そんな時、「おまえどこまで落ちる覚悟があるんだ」と、友人か
ら言われた。
ハンマーで頭をかち破られるほどの衝撃だった。心のどこかで仕事を選んでいる自分がいたことに気づ
かされた。私が聞きたくないこと、私に言いたくないことを、伝えてくれる人が近くにいる。「どんなに幸せなん
だろうか」「食べていく為には仕事は選んではいられない」それからは、大手宅配便の物流センターで、夜間
の日払いバイトの職に就くことが出来た。体をフルに使っての仕事で下っ端として働いた。そして、朝仕事が
終わり、現金を頂いたとき、お金が、重く、すごく重く感じられた。生まれてきて、お金のありがたさを、これほ
どまでに感じたことはなかった。1円でも大事に、大事に扱った。
第3話 目覚め
夜、居候先の友人と話をしていると、こんな最低の私だから話せたと思うが、彼ひとりの頭と胸の中にしま
っていた、ある問題を私に話してくれた。社長であったときも、上京する度に彼の店に顔を出していたが、彼
のお店の状況がこんなに悪いとは、その時まで分からなかった。そんな状況であるのにもかかわらず、貧乏
神の私を気持ちよく迎い入れてくれた、そんな彼の温かい気持ちに触れたとき、誰もいない部屋で涙を流し
ました。「彼の役に立ちたい」「彼の温かい心に何か応えたい」。彼の悩みを聞いた後、ただ、それだけを考
えていたら、「私の失敗した経験が活かせるのではないか」ということに気づくことができた。彼の会社の状
況は、私の時に比べれば、まだ軽い方であり、ほおって置くと死に至るが、軽い外科的手術をすれば、何と
か助かるレベルであることが分かった。
第4話 大切なもの
「あなたにとって、一番大切なものは何ですか」
私にとっての本当に大切なものは、大事な人の笑顔です。私の場合、失ってから初めて分かりました。経営
者であった頃の私は、元妻の笑顔が一番好きでしたし、一番大切でした。会社の状況が悪くなり、資金がつ
まり始めると、私から笑顔が消えていき、それに合わせて、周りのものからも笑顔を奪っていきました。家族、
友人、社員などと。
実は、自己破産を決断した夜、私は母から一通の手紙をもらった。そこには、「あなたの明るい笑顔が見
られますよう祈っております」と書かれていた。親というのは本当にありがたいです。二人とも70歳を超え、
バカ息子のために銀行の保証人はもとより、親戚や友人から借金をし、私と同時に自己破産もした。それな
のに子供に対しては無償の愛を与えてくれる。母の手紙から、本当に大切なものは、「笑顔」であるというこ
とを教えていただいた。
話は戻るが、幸いにして、友人とその奥さんには、まだ「笑顔」が消えてはいなかった。
「笑顔」があれば、必ず立ち直れる。「笑っていれば、必ず幸せはやってくる」。もし、「笑顔」を無くした経営者
がいれば、私の経験を活かして、少しでも多くの「笑顔」を取り戻したい。
第5話 中小企業診断士
ある日、恩人(N氏)から、「そういえばゴッシー(私のニックネーム)は、大学の時に、中小企業診断士の1
次試験に受かってたんじゃなかった?」「今から取ればいいじゃん!」。その言葉が、「まだ自分にも誰かの
役に立てるかもしれない」「自分と同じ経営者を救いたい」。そんな目標がおぼろげに見えてきた。それから
すぐに、中小企業診断士の資格取得のため、無料説明会を友人宅のパソコンを借りて探した。すぐに申し
込みをし、説明会に参加すると、資格取得には10万5千円の費用がかかるとわかった。
「払えない」。その時の自分には、こんな大金は無かった。 悩みに悩んだ末、思い切ってお袋に電話した。
お袋に、そんなお金はあるわけもなかった。ただ、それでも今の気持ちを伝えておきたかった。お袋は何も
言わずに、お金を振り込んでくれた。どうやってお金を用意できたのか。今でもそれは分からない。「涙が溢
れてどうしようもなかった・・・」「絶対に中小企業診断士になる」。そう、私は決断した。
第6話 財産
社会復帰をするためには、公共料金を払い、銀行口座を開くことが必要で、そのためには住所が必要だ
った。新橋の後、亀戸のゲストハウスに住んでいたが、友人の好意で、彼の親が持つアパートに礼金・敷金
なしで住まわせてもらった。1Rだったが幸せな気分になれた。まずは、中古の机と洗濯機を買った。これが
私の最初の財産であり、あとは全て友人たちからもらった。「本当の財産って、なんだろうか」そんなこと、社
長だった頃は、考えたことも無かった。
第7話 ソープランド
中小企業診断士の旧制度で1次試験合格していた私は、一度しか2次試験の受験が認められなかった。
このチャンスを逃せば、また1次試験から受け直さなくてはならない。日払いのバイトをしながら、勉強するし
かなかった。 夜間のバイトは、奴隷のような扱いで、頭の先からつま先まで汗だらけになりながら、2ヶ月間
勉強した。そんなに簡単にいくものではなく、2次試験は不合格となり、振り出しに戻った。このままでは受か
らない。まずは、日払い生活からの脱出し、給与所得者になることを決めた。
フリーペーパーでドライバーの仕事を見つけ、すぐに面接をお願いし、筆記試験、実技試験を受けたが、
どちらも最悪だった。岐阜生まれの私には、東京の道路事情がわからず、人を乗せる運転などしたこともな
かったため、散々なものであったが、運良く、条件付きで合格できた。神様はいるものである。その条件とは、
「川崎にあるソープランドでの仕事」であった。どんな仕事かもわからなかったが、「給与所得者になる」とい
う思いから、迷わず、「はい」と返事をした。
第8話 1次試験合格
ソープランドでの仕事は夜番だったので、西荻窪を17時21分に出発し、帰ってくるのは翌日の早朝5時
45分。昼は勉強、夜はソープの多忙な生活であったが、目標が私の心を支えてくれた。
夜は頭を下げに下げ、自分が情けなくなることもあったが、耐えることができた。お金が無かったので、専門
学校に行くときは、当日分の受講料をその都度払ってから授業を受けた。その甲斐あってか翌年、1次試験
を突破することができた。合格発表の時、私の受験番号を見つけた。すぐに実家に電話をしたら、両親が泣
いて喜んでくれた。私も本気で泣いていた。言葉なんかいらなかった。
第9話 笑顔
川崎からの帰り道、いつものように電車で寝入っていたら、気がつくと、そこは神田駅であった。
1次試験を突破した私であったが、いつも心に穴があり、どこか寂しかった。東京で一人頑張ると決断し、中
小企業診断士取得という目標も持ったが、何故か心は寂しかった。目が覚めると、無意識に神田のホーム
へ降りていた。私の駅は西荻窪である。神田のホームで、なぜか一人電車を待っていた。不思議なことに、
何度も同じ間違えをしていた。何度も、何度も。
これは後の話になるが、神田に通勤する、今の家内と知り合うことになる。不思議ではなく、引き寄せても
らったのだと思った。私は家内に、すべての過去を話したが、「それがどうかしたの」「今がどん底ならこれ以
上落ちることないよ」と笑っていた。不思議と心から寂しさが消えていた。心から笑うことができていた。私の
人生に、また「笑顔」が帰ってきた。
第10話 2次試験合格
その年の2次試験は惜しくも敗退した。諦めることは考えていなかった。2次試験の受験資格は2年(2
回)で、落ちたら、また一次試験から受け直さなくてはならない。考えるだけで恐ろしかった。「絶対に診断士
になる」「自分のように苦しんでいる経営者の支えになりたい」「彼らの笑顔を取り戻したい」その使命感だけ
で頑張ることができた。
相変わらずソープランドの仕事はきつかったが、それでも中途半端が嫌で精一杯働いた。仕事道具であ
る車は毎日誰よりもきれいに洗車した。洗車にはポリシーを持っていた。「洗車は誰にも負けない、一番にな
ろう」。気づけば、いつしか夜のリーダーになり、若い子たちを育成する立場にまでなっていた。2次試験の1
週間前には、職場の仲間達の協力で休みを取ることができ、昼間に勉強できるようになった。残りの1週間
で最後のラストスパートをかけた。
そして、合格発表の日。「受験番号0221」。そこに私の番号が書いてあった。
第11話 入籍、そして、開業
「最高に嬉しかった」「嬉しくて、嬉しくて、仕方が無かった」。私の受験番号は0221。嬉しさのあまり、家
内との入籍を2月21日にした。年が明けて、2次試験の口述試験が終わり、実務補習となった。実務補習
は、実際にある会社を分析して報告書を完成させる。ここで素晴らしい指導員の先生と仲間たちに出会うこ
とができた。補習が終わり、4月に中小企業診断士として登録。2年8ヶ月お世話になったドライバーの会社
を退職して、平成22年7月に事務所を開業。
会社を倒産させてから3年、多くの人々に支えられ、何とか第二の人生のスタートラインに立つことが出
来た。祖父の代から続いていた会社を潰し、妻と別れ、自己破産をし、二度死のうとしたこともあった。しかし、
そんな経験をしてきたが、今の私は幸せである。たとえ、どんなに、取り返しの付かない失敗をしたとしても、
その失敗が「自分の誤りを教えてくれた」のだと思えれば、必ず幸福が訪れると信じている。そして、失敗は、
それまでには感じられなかった、大事なものも教えてくれる。もしかしたら、人生の失敗や後悔は、幸福にな
るためのカテゴリーなのかもしれない。このブログ小説では、そんな私の失敗を書いていきます。大きな失
敗も無く、今を順調に生きている人でも、私の失敗から、少しでも何かを得て頂ければ幸いです。
すべては「笑顔」のために。
●第1章 後継者
第12話 後継者
私は、生まれながらの後継者であった。もちろん、他の選択肢は無く、「いつか自分が会社を継ぐんだ」と
思っていた。傷つかないように、皆から大切に育てられ、安全な道を歩かせてもらってきた。これは、苦労し
た創業者が、「自分の経験した大変な思いを、息子や孫にはさせたくない」という気持ちからであるが、これ
は本当に、本人のためにはならない。これこそが後継者の育成で、陥りやすい過ちだと思う。
「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」と言われるとおり、 子供を甘やかすことは、一見やさしい
親であるように見えるが、子供の将来を真に考えるのであれば、躾をし、厳しく接することこそ、本人のため
になる。小さい頃に受けすぎた「甘え」は、大人になっても取れないものである。私は創業者である祖父の願
いで、後継者となった。それと同時に、私は自分の夢をあきらめた。それが私の人生で初めてのあきらめで
あり、大きな決断でもあった。
第13話 夢
私が小学校の低学年のときに、放課後校庭で遊んでいると、そこには露天商のおじさんがニコニコしなが
ら、笑顔でベンチに座ってヒヨコを売っていた。しばらくすると、チンピラ風の人達2~3人が、露天のおじさん
のところにやって来たかと思うと、少し話しをした後に、無理やりおじさんを何処かに連れて行ってしまいまし
た。
何が起こったのか一瞬のことでわからなかったが、子供ながらに、どうにかしておじさんを助けたいと思っ
た。でも、怖くて、足がすくんでしまい、そんな自分が情けなかった。この時のほんの一瞬の出来事で、私は、
「警察官になりたい」と本気で思うようになった。その夢は子供の夢では終わらず、中学校、高校、大学入試
でもその気持ちは変わらなかった。変わったとすれば、「警察官」から「警察官僚」になり、「巨悪を取り締まら
ないと世の中は変えられない」という思いに変化していったことだった。
第14話 レールの上
今思うと、自分の子供時代は、子供らしさがなく、小さな大人のようだったかもしれない。家が事業をやっ
ていて、忙しかったことから、両親に遊んでもらった記憶がない。抱きしめてもらった記憶もない。お手伝いさ
んが数人いて、その大人たちが私と遊んでくれていた。自分で言うのも変だが、年の割には、大人びた子供
だったと思う。習い事もたくさんさせてもらったが、自分の意思でしたことは何一つなかった。気付いたら、親
が良かれと思って敷いたレールの上をただ歩いていた。確かに安全なレールの上だったと思ったけど、そこ
から学ぶことは少なかった。
第15話 気を使う子供
ピアノ、絵、習字、そろばん、英会話、柔道、水泳、ボーイスカウト、塾、家庭教師・・・。習い事は、色々さ
せてもらったが、一つも心に残るような想い出はなかった。自分がやりたいと思う気持ちは全て却下されて
いた。今思うと、つまらない子供時代だった。両親は忙しく、土日はいつも妹と、店の前にあったラクダの乗り
物にずっと乗っていた。10円玉で動くラクダは、いつも、カタカタ、カタカタ揺れていた。たまに観る映画は、
母が、友達のお母さんにお金を渡して、一緒に連れて行ってもらった。何度も何度も同じ映画を観ていた。
今でも覚えているのは、何度も観た映画の内容ではなく、子供ながらに、気を遣っていたことだ。
第16話 籠の中
休みになると、商品の買い付けに、連れられて行った。たくさんの大人たちの中で、私は一人椅子に座っ
て、良い子で待っていた。大人たちがザワザワと動いている中で、一人寂しく、同じ場所を見ていた。私の子
供時代は、何でも買ってもらい、何不自由のない生活であった。我慢した記憶が無く、「それが本当に良い
のか、悪いのか」、子供の頃の自分にはわからなかった。きっと、両親は、私のためにと、一生懸命に出来
ることはしてくれたと思う。私は、痛みや厳しさを知らないまま育ててもらった。だからこそ、心は弱く、人を思
いやる気持ちに欠け、自己中心的な人間であると思う。私は、お金さえあれば、誰でも与えられるような、
「そんなもの」が欲しかったのではなく、両親しか与えられない「温かいもの」が欲しかったのだと思う。
第17話 願い
もし、自分に子供が出来たなら、可能な限りは、一緒にいてあげたい。休みの日は転げ回って遊んであげ
たい。夜寝るときは本を読んであげたい。自分で考えることの大切さを教えてあげたい。愛のある厳しさで、
たくましい子に育てたい。そして、何よりも子供のやりたいことをさせてあげたい。親の敷いたレールを歩か
せるのではなく、例え、「じゃり道で、右へ左への人生」であっても、自分でつくった道を歩ませてあげたい。
それがきっと親のしてあげられる、子供への愛情のような気がする。
第18話 アメリカ
大学入試では、どうしても警察官僚になりたく、法学部へ進みたいと思っていた。祖父や両親の意向に従
い経営学部に進んだが、それでも夢をあきらめることはできなくて、ひそかに法学部への編入をたくらんでい
た。そんな時に、転機はやってくる。大学三年生の時、父親からの一言から、アメリカへ留学することになっ
た。この経験が、自分の考え方や目標を大きく変えることになる。
留学先のアメリカで、お世話になったホームステイの家には、アメリカ陸軍少佐の旦那さんと、
インディアン・スー族の出身の奥さん、そして、3人の子供が住んでいた。父親は、温かくて、厳しい人であり、
母親は優しくて、明るく、太陽のような女性だった。その2人に育てられた3人の子供も、とても明るくて、楽し
く、ユーモアたっぷりの子たちであった。とにかく、この家は、笑いが絶えず、温かい家族であった。自分を本
気で叱ってもくれた。黙って旦那さんの椅子に座るものなら、末っ子の女の子が真っ赤な顔で、「その椅子は
座っちゃダメ!」「お父さんの椅子には誰も座れない!」と怒られた。それだけ、お父さんを子供たちは尊敬
しているのだと感じた。何だか、注意されているのに気分が良かった。自分もこの家族の一員になれた気が
して、うれしかった。そして、自分も、こんな父親になりたいと思った。私の望んでいた理想の家族像がそこ
にはあった。
第19話 ライオンズクラブ
そもそも、この渡米は、何気なく父親からの、「ライオンズクラブの交換留学生としてアメリカに言ってくれ
ばいい」という話から始まった。ライオンズクラブとは、経営者の集まりである。当時の私がイメージしていた
アメリカは、ロサンジェルスのような、華やかで、楽しくて、遊べて・・・と、ボンボンが思いつくような景色だっ
た。アメリカのどの町に行くかは、クラブの事務局任せであり、都市の指定は出来なかったが、テキサス、エ
ルパソと聞かされていたため、ルンルン気分であった。
出発の日が来て、アメリカへ向かうことになった。行きの飛行機は、乗り換えの連続であった。
乗り換えて、また、乗り換えて…。目的地に着いたとき、東洋人は私1人であった。 やっと着いた場所が、ま
ったく自分が想像していたアメリカとは違っていた。「えっ!ここ?」町では、日本人、いや、東洋人に出くわ
すことすら、すれ違うことすらないところだった。しかも、周りは全て見渡す限りの砂漠である。日本に帰りた
いと思い、心細さも感じた。その町は、メキシコとリオグランデ川を挟んだところにある、トニーラマブーツで
有名な町であった。
第20話 後継者スイッチ
2 日、3 日と時がたつにつれ、英語での生活がたまらなく楽しくなり、自分への自信にも繋がっていった。
「片言だが、英語で会話している!」「相手も自分の英語を理解してくれている!」。アメリカ人という、異国の
人達との係わり合いや、メキシコ人とお互い母国語ではない英語で話をした時の感動は、21歳の自分にと
ってはあまりにも強烈であった。
そして、一生心に残る景色がそこにあった。見渡す限りに広がった、砂漠の景色の中に大きなショッピン
グセンターが聳え立っていた。中に入ると、また驚く。とにかく広くて、めちゃくちゃ楽しかった。「これが小売
業?」。強烈な衝撃だった。「これぞ本物のショッピングセンターだ!」。その時、小売業の三代目に生まれた
私の魂に火がついた。「自分の店もこんなショッピングセンターの中に出店したい」。
この経験が、私の心にスイッチを入れてくれた。「自分の人生だから、悔いの残らないように生きよう」「日
本だろうがアメリカだろうが、皆同じ人間であり、世界中の人々とビジネスをしたい」と考えるようになった。そ
して、「自分も社長になって会社を大きくしたい」という夢を持つようになっていた。警察官僚の夢ではなく、私
は会社を承継することを決断した。後に、社長へ就任してから、"Five Kid's"という、オリジナルブランドを立
ち上げることになるが、このブランドは、ロスの南のアナハイムにある、サウスコーストプラザのベビーGap
の店を参考にした。
●第2章 社長修行
第21話 中小企業診断士
日本に帰国後、ビジネス界に出る前に、何か役に立つ資格を取得したいと思い、中小企業診断士試験の
勉強をスタートさせた。中小企業診断士の受験校では、ほとんどが、30 代~50 代ぐらいの人達であり、学生
はクラスの中で私 1 人だけであった。そんな人たちに囲まれながら、勉強に励み、資格取得の目標に突き進
んでいました。そして、翌年には1次試験に合格。2次試験は不合格であったが、当時は、1次試験に合格
すれば、永久に2次試験の受験資格がもらえたため、「そのうち取得すればいい」と考えていた。後に、この
資格が、私の第二の人生に大きく関わることになるとは、夢にも思はなかった。
第22話 就職活動
受験校の人達は銀行員の方が多く、学生で中小企業診断士の勉強をしているということからか、F 銀行
からのお誘いも頂いた。しかし、その頃は、もう小売業界にしか頭に無く、そのお話はお断りさせて頂いた。
私の就職活動は、家業を継ぐと決断していたことから、他の友人たちとは違った就職活動であった。父から
は、「他の企業に就職させていただいても、家業を継ぐため辞めてしまう。」「企業様にご迷惑をかけてしま
う」と言われていた。そこで、父の知り合いであり、事情を理解してくれたということから、同業の S 社にお世
話になることが決まった。S 社での勤務には条件があった。それは、3 年間の修行という期限付きであり、3
年たったら岐阜に戻るということであった。
第23話 入社
入社時の私の目標は、「同期の中で一番早く店長になる」であった。配属先が決まり、現場での研修が始
まった。毎日毎日、接客や在庫管理、商品説明、配列、売り場づくりなどと、現場に入りながら、どんどん知
識を覚えていった。新入社員には、シスターといわれる、教育係りの先輩が一人ついた。私の場合、大学卒
業後であったため、自分よりも年下の先輩がシスターとして付いた。「社会に出れば、年が自分より若くとも
入社が早ければ先輩となる」当たり前のことであるが、その時の私には、「少し複雑な思い」をしたことを憶
えています。そして、入社して6ヶ月、1 番手ではなかったが、2番手で、店長への昇格が決まった。
第24話 店長
H 店の店長として配属されたが、そこには、やり手の店長代行がいた。店長代行は、大卒で年上の女性。
彼女は、私が何をしても、「気にくわない」という態度であり、配属されてからの 3 ヶ月間は、毎日が戦いであ
った。「社長になる」と決断したからには、こんなところで、もたもたできない。私はとにかく、 一つ、ひとつの
作業を徹底的にマスターしていき、全ての作業において彼女を上回ろうと努めた。そして、その行いが実っ
たのか、3 ヵ月後には自分を店長と認めてくれるようになった。この H 店では、1 年間店長を務め、新人賞も
取らせていただいた。この 1 年間は、毎日時間を忘れ、働きに働いた抜いた 1 年であった。
第25話 成長階段
それから、ファッション専門店がひしめく O 店へ移動した。O 店でも、私は耽々と実績を上げていった。とに
かく、突っ走った。 そして、ある日、上司から、「会社で一番売上が高い店舗をやってみないか」という話を
頂いた。「やってみたい」「自分を試してみたい」「成果を出したい」。その店舗は幹部候補が進む店舗であり、
次はエリアマネージャーになることが約束された出世コースであった。
「誰にも負けたくない」「1番になる」。気付いたら、あっという間に、入社してから 2 年半の歳月が立ってい
た。少しずつ社内での地位も上がっていき、仕事が楽しくて、楽しくて、仕方がなかった。当初の 3 年間という
条件とはいわずに、いっそうのこと、30 歳くらいまで、「この会社で、やれるところまでやってみたい」と思える
ようになっていた。
第26話 退社
「S 社で、やれるところまでやってみたい」。それを聞きつけた実家では、父が「まずい」と思ったらしく、「S
社の社長とは 3 年の約束で息子をお願いしていたが、家業が厳しい状況のため、半年早いが戻ってもらい
たい」と東京まで上司に直訴に来てしまいました。S 社の部長からは、「お父さんがわざわざお越しになった
のに、私が駄目とは言えない」「だが、君は今、わが社、いや、関東運営部には無くてはならない人間であ
る」「何とか引き延ばしてもらえないか」と言って頂けました。私の気持ちは、「是非、全社で一番の店をやっ
てみたい」であり、両親の説得と家業の現状把握を兼ねて、休暇をとって岐阜へ帰った。両親や幹部と会っ
て話をしてみると、会社の状況が私の想像以上に厳しいことが分かった。その状況を目のあたりにして、私
は、実家に戻ることを決断した。こうして、あっという間の修行期間が終わった。
第27話 家業へ
東京の S 社寮を出るため、部屋の荷物をまとめていた。不思議と、「この先どうなるのか」などの不安はま
ったくなかった。若かったせいもあるが、「絶対に立て直してみせる」という想いの方が強く、やる気に満ち溢
れていた。自分で言うのも変な話しだが、S 社での修行は、2年半という短い期間ではあったが、「自分のた
め」になったし、何よりも「自信」が持てたことが大きかった。「大勢いるスタッフを、一つにまとめる」「しっかり
と会社を引っぱって行く」。そして、何よりも、「顧客満足を追求する」ということを、心に刻み込ませたことを憶
えている。家業に入る時、私は24歳になっていた。
第28話 創業者
私が岐阜に戻り、家業に入ることを、一番に喜んでくれたのは、創業者である祖父であった。
その時には、祖母がもう亡くなってしまい、祖父は一人で暮らしていたので、私は両親とではなく、祖父と二
人で暮らすことに決めた。そんな祖父との生活は「最高に居心地が良かった」。祖父は無口だが、そばに居
るだけで落ち着く存在であった。私は、今でも尊敬している。「おじーちゃんのためにも早く嫁さんをもらって、
跡を継いで、安心させてあげるからね」そんな時は決まって、そっと、「笑顔」を見せてくれた。私は、それだ
けで嬉しかった。
第29話 我を知る
家業に入ってからは、全ての店舗を見て回った。傾く会社にはやはり何か原因がある。色々な問題が見
えてきた。私がはじめに感じたことは、「仕入を全てバイヤーに任せている」という問題であった。しかも、全
員男性バイヤーだったため、決めの細かい仕入れができていなかった。バイヤー制度を導入したのは良い
が、機能しておらず、現場の声を吸い上げていなかった。それは、お客様の声が仕入まで届いていないこと
を意味する。これでは顧客が満足する店にはならない。基本に戻らなくてはいけないことを痛感した。
次に、「人事制度」の問題があった。全店舗の店長を「男性だから」や「年功序列」で決められていた。「こ
れでは、本来店長になるべく人材が店長になれない」「実力があり、汗水たらして一生懸命に働く良い人材
が報われない」「従業員がやる気を失い、良い人材が育たなくなってしまう」。また、従業員の採用は社長で
ある父が行い、従業員の教育は店長に任せっきりであった。このように、採用から教育、評価、処遇などの
人事制度が不十分であった。経営不振の原因をあげたら、きりが無い状態であった。
●第3章 経営革新
第30話 事業再生
多くの問題があったが、「勝ち目はある」と、すぐに感じた。何故なら、問題が見えた分、そこを全て改善す
れば済むことだからだ。そこで、まずは、「実力に合わせた店長の登用」を行った。そして、店長に「採用から
教育」までの権限を与え責任を持たせた。次いで、バイヤーには店舗を回らせて、「現場の声を聞くように」
と義務づけた。
私の好きな金言の1つに「山本五十六元帥」の言葉がある。「やってみせ 言って聞かせて させてみて
誉めてやらねば 人は動かじ」。この言葉には人材育成の要諦が凝縮されていると思う。一番大事なことは
自分が率先し、やって見せることである。私は会社の業績に一番影響のある店舗の店長となり、必死に働き
ました。「誰のためでもなく、会社のために」。その結果、35坪で2億4千万を売り上げることができた。気付
けば、業界でも屈指の高効率店となっていた。
第31話 常務取締役
それを近くで見ていた従業員たちが、「やればできる」という気持ちになり、全店舗が少しずつではあった
が、活性化してきた。勢いが出てきたのである。そして、今後売上の見込みの立たない、不振店舗のスクラ
ップを行った。2年後、傾きかけていた会社は見事に立ち治った。私は26歳になっており、常務取締役に就
任した。余談ではあるが、この年の正月に、私は「26歳の年の11月16日に結婚する」と宣言していた。も
ちろん、その時には相手は決まっていなかったし、まだ誰とも出会っていなかった。今でもそうだが、私は、
実現したいことは必ず口に出していた。「有言実行」である。宣言した通りに、私は元妻と結婚をした。母が、
「この女性こそ」と、とても乗り気だったのを覚えている。
第32話 環境変化
当時、ベビー業界はロードサイド店舗のブームであり、全国のいたるところに赤ちゃんデパートが出来始
めていた。また、期を同じくして、岐阜市内に大型ショッピングセンターができる計画があった。会社に余裕
が出てきていたが、まだまだ体力が十分ではなく、「ロードサイド店舗」か「ショッピングセンター店舗」かの、
どちらか一方を選ばなくてはならなかった。当時の番頭の意見を聞き、私は、「ロードサイド店舗」でいくこと
を決断した。このように、地域一番店として、時流に乗り、ロードサイド店舗を展開していった。
第33話 ペガサスクラブ
私は常務に就任しており、勢いにも乗っていた。「会社を大きくしたい」。私は、「チェーンストア理論」を勉
強し、次の展開のために動き出した。「チェーンストア理論」で有名な「ペガサスクラブ」には、S 社時代から
社員として教育は受けていたが、自社としては、まだ入会してはいなかった。会社を大きくするためには、経
営層の教育が一番重要と考え、ペガサスクラブに入会し、父である社長や営業部長(番頭)とともにセミナー
に積極的に参加した。
第34話 考え方のズレ
期待を胸に社長と番頭と一緒に参加したが、彼らからは否定的な意見が多かった。彼らと私の考えとの
間に「ズレ」を感じた。「会社を大きくするためには、会社を変えていかなくてはならない」「なぜ、わかってくれ
ないんだ」「このままでは改革はできない」「これでは会社を大きくすることはできない」。私は悶々とした気持
ちであった。
第35話 チェーンストア
一人で「ペガサスクラブ」のセミナーを片っ端から受講していった。「チェーン化こそが会社を大きくする唯
一の道」だと確信していた。翌年からは幹部を連れてセミナーに参加するようになった。毎月セミナーに参加
することで、従業員とともに学んでいった。渥美先生とアメリカにもいった。そのことは自分にとっても誇り高く
思っていたし、今でもあの頃の自分は一生懸命だったと思える。とにかく、「経済民主主義の実現」に向けて、
「会社を大きくしていくこと」が全てであった。当時一緒に学んだ人達の中には、イタリアン料理 S 社の S 社長
や、家具 N 社の N 社長がいた。彼らは今や誰もが知る大企業となり、私は倒産という全く反対の人生となっ
た。あの頃の自分は、「チェーン化がすべて」であり、「チェーン化こそが正しい道である」と信じていた。今思
えば、そこにも原因があったのだと思う。
第36話 オリジナルブランド
ペガサスクラブで勉強するにつれ、「自分たちにはオリジナルブランドが必要だ」「価格主導権を持つこと
が必要だ」という結論に達していた。自社ではウサギをメインキャラクターにしていた。うさぎは多産系であり
子供をたくさん産むという理由からだ。また、ウサギには、「ホップ、ステップ、ジャンプ」というイメージがある。
それらのことから、「STEP KIDS」というブランド名を社長が名付けてくれた。このオリジナル商品を作り、
既存店で販売した。すべては順調に進んでいるように見えていた。当時、私は28歳。全てに情熱をかけて
いた。そして、4年後、ある1通の投書から、「STEP KIDS」の販売中止・店舗閉鎖をすることになる。この
時は、そんなことになるとは、夢にも想わなかった。
第37話 社長交代の準備
妹が結婚し義弟が会社に入った。S社の先輩にも会社に入ってもらった。そして、入社当時から意見の衝
突があった、営業部長(番頭)には会社を辞めていただいた。元妻は商才がある女性だったので、別事業部
を任せた。いよいよ、社長になる準備が少しずつ整っていった。祖父はかなりの高齢となっていたため、父
は、「祖父が目の黒い内に会社を私に引き継ぎたい」という想いで、社長交代を急いでいた。その時、私は2
9歳であった。
第38話 社長就任
「本当に社長になってやっていけるのか」。この思いに対し、自分を試すため、「管理者養成学校」の「地
獄の特訓上級コース」を受講した。「この研修をトップで卒業できたら社長になる」「トップで卒業できなけれ
ば社長就任を延期する」。結果は見事トップで卒業することができた。「自分自身に勝った」。最高に嬉しか
ったことを今でも憶えている。こうして、私は30歳で社長になった。「3代目の誕生」である。
第2部へ続く
ブログ小説 事業承継し、会社を潰した、後継者の告白
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完