地方の治安の乱れと武士の発生 ~国衙軍成立の背景

 地方の治安の乱れと武士の発生
~国衙軍成立の背景~
たいらの まさ かど
ふじ わらの すみ とも
10世紀のほぼ同時期に起こった東国の 平 将門の乱と西国の藤 原 純友の乱は、都の貴族を恐
じょう へい
てん ぎょう
怖におとしいれ、この2つの乱を時の年号から 承 平・天 慶 の乱ともいう。平将門の乱は一族
ひたち
しもつけ
こうづけ
の内紛を発端とするが、939(天慶2)年には常陸・下野・上野の国府を襲撃して反乱に拡大し、
しんのう
関東地方の大半を占領するに至り、将門自ら新皇と称して支配することとなった。
1 平将門の乱と伊豆・駿河
ほん ちょう せい き
〈史料1〉
(『本 朝 世 紀 』二 天慶元年11月3日丙午条)によれば、反乱前年の938(天慶元)
〈史料1〉
如本
天 晴、 中 納 言 藤 原 実 頼 卿、 参 議 源 清 蔭 卿・ 藤
頁)
だい じょう かん ぷ
原 顕 忠 朝 臣、 聴 レ政、 今 日、 請 下印 諸 司 大 粮 盡、
上
424
幷依 二伊豆国解 一可 レ追 二捕平将武 一之由、給 二駿
一
(『静岡県史』資料編4古代
河・伊豆・甲斐・相摸等国 官符四通 、〔後略〕
〔前略〕
〈史料2〉
唯武蔵権守興世王為 二時宰人 一、玄茂等為 二宣旨 一、
二
且放 二諸国之除目 一、下野守叙 二舎弟平朝臣将頼 一、
上野守叙 二常羽御廐別当多治経明 一、常陸介叙
藤原玄茂 一、上総介叙 二武蔵権守興世王 一、安房
守 叙 二文 屋 好 立 一、 相 摸 守 叙 二平 将 文 一、 伊 豆 守
叙 二平 将 武 一、 下 総 守 叙 二平 将 為 一、 且 諸 国 受 領
点定、且成 下可 レ建 二王城 一議 上、其記文云、王城
可 レ建 二下総国之亭南 一、兼以 二檥橋 一号為 二京山
埼 一、以 二相馬郡大井津 一号為 二京大津 一、便左右
大臣、納言参議、文武百官、六弁八史、皆以点定、
頁)
内印・外印、可 レ鋳寸法、古文正字定了、但孤
(『静岡県史』資料編4古代
疑者、暦日博士而已、〔後略〕
428
たいらの まさ たけ
年には伊豆国の申請によって下された太 政 官 符 により、平将門の弟 平 将 武 が駿河・伊豆・
か
い
さがみ
つい ぶ
いえの こ
甲斐・相模等の国から追捕される対象となったことがわかる。将門一門の 家 子にあたる将武が、
〈史料3〉
二
一
二
人民 、
一
(『静岡県史』資料編4古代
頁)
遠江・伊豆等国連署解状来云、官符使卜部松見、於 二駿河国 一、
一
為 二群賊 一被 二奪取 一了、又駿河国岫崎関為 二凶党 一被 二打破 一、
二
又兵来囲 国分寺 、奪 取雑物 、射
432
乱以前からすでに伊豆国を拠点とし、その周辺諸国に及ぶ反国府活動をして
いたと推定される。
しょう もん き
〈史料2〉の『 将 門 記 』によれば、939年12月、将門は上野国府を占拠す
じ もく
ばんどう
ると除目という会議を行い、坂東8か国と伊豆国の国司を任命した。なお、
しん ぴょう せい
『将門記』は軍記物の先駆として著名な文学作品ではあるが、信 憑 性の高
しゃてい
い部分もあるとされる。この国司には将門の舎弟4人が含まれ、そのうち将
かみ
武が伊豆守に起用されたと伝える。この記事は、938年の将武追捕を命じた
官符からわかるように、将武が乱以前から活動の拠点としていた伊豆国とも
重なり、将武の伊豆守任命はほぼ事実として認めてよいであろう。
に ほん き りゃく
〈史料3〉
(『日 本 紀 略 』天慶3年正月25日条)によれば、940年、駿河国
うら べの まつ み
くきがさき
で官符使ト部松見が群賊に官符を奪い取られ、岫 崎関が凶党に打ち破られ、
さらに兵が駿河国分寺を包囲し略奪行為に及んでいる。この事件は、平将武
の軍勢の一部が駿河国まで侵入したものと考えられている。この史料から、
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平将門の乱は関東のみならず遠く静岡県中部にまで及んだ大規模な反乱であったことがわかる。
2 国司帯剣と軍事集団の編成
ちょう や ぐん さい
てん
その後の駿河国の騒然とした状況を伝えるのが〈史料4〉(『 朝 野 群 載 』巻22諸国雑事上 天
りゃく
暦 10年6月21日駿河国司解)である。この史料は、駿河国内では武装集団による暴虐な行為が
横行しているにもかかわらず、国司が武装していないため追捕できない事態について述べている。
まし づ
ともの なり まさ
ほう がん だい なが はらの ただ ふじ
なかでも954(天暦8)年には益頭郡司の 伴 成正と国司の判官代永 原 忠藤らが殺害され、さら
すけ
たちばなの ただ もと
に翌年には国司の介である 橘 忠幹も殺されたように、極めて治安は悪化していた。当時は全
国各地で国司が襲撃される事件が多発しており、駿河国も例外ではなかった。そこで956年に駿
たいけん
ちょっきょ
河国司は、国司・郡司らの「帯剣」つまり武装することを太政官に申請し、 勅 許を得たのである。
しな の
すでに平将門の乱のあった承平・天慶年間(931 ~ 947)には、甲斐・信濃両国に国司帯剣が認
められており、駿河国にも同様の措置がなされたことになる。この時点で、上は国司から郡司以
ぞうにん
下雑任に至る下級職員にまで武器の携行が一挙に拡大したのである。武装したのは数百人に及ぶ
と考えられ、国司が直接指揮する軍隊が創設されたことになる。
〈史料4〉
国司以下申 二帯剣 一、
駿河国司解
申請
官裁事
状
請 下因 二准諸国例 一、被 上令
国司幷郡司雑任帯剣
二
レ
右、謹検 二案内 一、当国西作 二遠江国榛原郡 一、東承
一
二
相模国足柄関 一、況復国内帯 二清見・横走両関 一、坂
東 暴 戻 之 類、 得 レ地 往 反、 隣 国 姧 猾 之 徒、 占 レ境 栖
集、 侵 害 屢 闘、 奪 撃 自 発、 百 姓 不 レ安、 境 内 无 レ静、
国 宰 守 二官 符 旨 一、 勘 二糺 姧 犯 之 輩 一、 不 レ帯 二弓 箭 一、
(九八四年)
害 一也、是或拒 二捍公事 一、或忽結 二私怨 一、
無 レ便 二追補 一、近則、管益頭郡司伴成正・判官代永
二
レ
原 忠 藤 等、 去 天 暦 八 年、 被 二殺 害 一、 介 橘 朝 臣 忠 幹、
去年、被
往 々 所 レ侵 也、 重 検 二傍 例 一、 甲 斐・ 信 濃 等 国、 雖
云 レ不 レ置 二関門 一、去承平・天慶之間、任 二国申請 一、
(衍)
こく が
あった国衙を
462
已被 二裁許 一、此国已帯 二両関 一、何不 二申請 一、加以
司の政庁で
頁)
限を与え、国
(藤原)
を発動する権
不 可 丙捕 下糺 私 帯 二兵 仗 一之 輩 上、 及 勤 乙行 警 固 甲之 状、
に国司へ武力
官符重畳、若無 二弓矢之儲 一、何禦 二非常之危 一、望請、
鎮圧するため
官裁、準 二諸国例 一、被 レ裁 二許件帯剣 一、将 レ為 二不慮
はこの群党を
之備 一、仍録 二事状 一、謹請 二官裁 一、謹解、
続発し、国家
(『静岡県史』資料編4古代
群党の蜂起が
天暦十年六月廿一日
レ
けて東国では
件帯剣事、同年十月廿一日、中納言師尹宣、奉 レ勅、
ら10世紀にか
依 請、
9世紀末か
拠点として組織された軍事集団が成立していったと考えられている。このようにして各国で編成
された国衙軍こそが武士発生の起源の一つとみる説が有力である。〈史料4〉は、まさに武士が
発生していく過程のひとこまを如実に物語る史料といえよう。やがて中央から派遣されてきた国
司のなかには、任期が過ぎても帰京せず土着して武士化していく者もあらわれる。
〈参考文献〉
『静岡県史』通史編1原始・古代 第3編第1章第3節 他
福田豊彦『平将門の乱』(岩波新書)
石井進「中世成立期の軍制」(『鎌倉武士の実像』平凡社選書)
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