ISSN 2187-7157 均気温は約17℃と温暖で、 年によっては 3000mmを超す降水量を観測する。 日照 時間は年間2000時間を超え、 特に冬季 の晴天が多いことが特徴である。 地形 地区は北部の山地と南部の平 こくぶ が わ 地に大別され、 そのほぼ中央を国分川が 南西に貫流する。平地は元来、 国分川に よって運ばれた土砂が堆積してできた沖 ち ょう そ が べ 積平野であるが、 南西部は長宗我部氏以 来、 拡大していった干拓地である。 が、 戦後進められた山の開発に由来する かなやまじょうせき 人工林も一部に見られる。金山城跡の斜 面に群生する孟宗竹は、 かつて食用を目 的に植栽されたものである。 N 香川県 徳島県 愛媛県 高知県 ∼ 自然と歴史 ∼ 植生 北部の山地は元来、 シイ ・カシ類、 アカマツを中心とした雑木林を基本とする 地域記録集 土佐の村々 3 高知県高知市布師田地区 平洋側気候のうち南海型に属し、 年間平 土佐郡 布師田村 気候 布師田地区がある高知市は、太 ▲高知県高知市の位置 とさやま 土佐山 16 かがみ 鏡 6 33 はだ 270 秦 高知IC みかづき いっく 一宮 初月 道 車 自動 高知 高知 あさひまち 旭街 朝倉 朝倉 高知城 274 あさくら 56 33 ぬのしだ 布師田 44 鏡川 おおつ 大津 374 けら 介良 たかす 高須 32 ごだいさん 34 五台山 うしおえ 37 潮江 かもだ 鴨田 みさと 35 三里 長浜 ▲高知市布師田地区の位置 14 小山橋 みやのきた 宮ノ北 金山城跡 木橋 ふれあいセンター 布師田橋 かわらじま 川原島 いしぶち 石渕 44 下ノ瀬大橋 道 街 の ぼ あけ 錦功橋 しんやしき JR土 讃線 小山 249 なかしば にしだに 西谷 こやま 新屋敷 新屋敷橋 布師田 駅 国分川 ▲布師田地区の9つの集落 中芝 じぞうどう 地蔵堂 195 しもつけ 下附 南国市と境を接する高知市の東端、 高知城か ぬのし だ ら約8㎞の場所に布師田は位置する。北部の山 沿いと地区の中央部を貫流する川の両岸に人 家が集まり、 平地の多くには水田が広がっている。 地区には、 古代以来の遺跡や神社が散在し、 古くから開かれた地であることがわかる。中世 に造られた山城の麓には、 江戸時代、 参勤交代 時に藩主が休憩する御殿が置かれ、 村は宿場と して繁盛したという。明治以後は、 国道の整備や 鉄道線路の敷設が行われ、 戦後になると工業施 設の建設、 宅地造成等が進んだ。布師田の風景 には、 時代と共に緩やかに変化してきた村の歴 史が反映されている。 そして現在、 地区の中央を横断する新たなバ イパス道路が開通し、 大きな変化のときを迎え ようとしている。 さ とぶん 本号では、 県都に隣接する、 ある里分の二千年 の歴史を振り返る。 ながはま はるの 春野 はじめに 浦戸湾 36 布師田のあけぼの 弥生遺跡と布師田古墳群 ∼弥生から奈良時代∼ 浦戸湾の北西、 国分川沿いの肥沃な地に布師田はある。 この地 こくりょう れる。 ミトロ遺跡︵下附︶ では、 竪穴住居跡や掘立柱建物跡、 弥生 に人々が住み始めたのは古く、 遠く弥生時代以来の歴史が知ら 出土している。 土器などが出土しており、国 領 遺 跡︵ 小 山 ︶ からも弥 生土器が 古墳時代から飛鳥白鳳時代にかけての遺跡としては、 七世紀 前半のものと推定される布師田古墳群︵西谷︶ がある。跡地は現 在宅地となっているが、 一号墳と二号墳とあり、 二号墳には横穴式 す え き 石室が設けられ、 須恵器・鉄器の出土も確認されている。 じょう り せい 条里制遺構と郡家比定地 いつぶん 布 師田地 区には条 里 制の施 行が推 定されており、ま ぐんけ た ﹃土佐国風土記 ﹄逸文より、 八世紀前半頃には、 土佐郡 えんぎ し き ∼平安時代∼ の郡家が布師田付近に所在したことが推定されている。 布師の里の神々 木の神と布師氏 だいご 平 安 中 期、醍 醐天皇の命により編まれた﹃ 延 喜 式 ﹄ には土佐 国内で二十一の神社が記載されている。布師田地区に鎮座する ぬのしのお み かつら ぎ のそつひこのみこ と こ う えい 木 咩 神 社もその中にみえる。平 安 前 期に編ま かつらぎめ ︵ひめ︶ し ん せ ん しょう じ ろ く 木 男 神 社と かつ ら ぎ お り、布 師 氏が祖 先 神として祀った社が﹃ 延 喜 式 ﹄ に見 える 木 れた﹃ 新撰姓氏録 ﹄ には、﹁布師臣﹂は 城襲津彦命の後裔とあ 男・ 木咩両社であったと思われる。また﹁布師田﹂という地名に も、 布師氏がこの地に住したことが関係していると推測されてい 木男・ 木咩両社の神社比定ならびに地名の由来につい 木男神社(西谷) 木咩神社の故地(下附) 布師田の検地 ちょう そ がべも と ち か 天正 十五年︵一五八七︶から、長 宗 我 部 元 親 けんち は土佐一国にわたる大規模な土地調査︵検地︶ を実 施した。布 師田では同 十六年に検 地が行 ち け ん ちょう われ、 その台帳︵布師田村地検帳︶ が今に伝わっ しんしおた ている。布師田については、慶長二年︵一五九七︶ こし お た 六九七︶写の大塩田地検帳も残っている。 おおしおた の古 塩田・新 塩田地 検 帳ならびに元 禄 十 年︵一 天正十六年地検帳 天正十六年︵一五八八︶ の布師田村地検帳に 十二町五反余に及び、 その約 %を田地が占め よると、 田畠屋敷など、検地された面積は百二 里の古刹 ∼鎌倉・南北朝・室町時代∼ 土佐郷から一宮荘へ いっ く 布師田地区は、 平安中期から後期には﹁土佐郷﹂、 鎌倉から室 町時代にかけては﹁一宮荘﹂と呼ばれた、 現在の高知市一宮地区 にしや ま じ を中心とした地域単位の中に含まれていたと推測されるが、 資 な んろ し 料を欠き詳細は不明である。 西山寺 江戸後期に編まれた ﹃ 南路志 ﹄ には、 西山寺︵西谷、 真 し ょ う か ん の ん ぼ さつ ず し 言宗︶ に関する古い記録が引用されており、 永徳二年︵一 三八二︶ に、 本尊聖観音菩薩を納める厨子が制作された ∼戦国時代∼ ことなど、 南北朝・室町時代以来の寺の由緒が知られる。 布師田の戦国 二つの古城跡と石谷氏 か なや ま じょう い し がいみ ん ぶの しょ う し げ のぶ やかしろ ︵ら︶ じょう ちょう そ がべ 布師田地区には、 戦国時代の城跡が二つある。金山城跡︵西谷︶ と八頭城跡︵地蔵堂︶ く らの す け もとちか とりで である。ともに城主は細川氏の末流という石谷民部少輔重信で、 のち長宗我部氏に降 り、 金山城は長宗我部氏の重臣、 久武内蔵助の居城、 八頭城は﹁元親の砦﹂になったとさ れる。現在、 金山城跡には詰ノ段 ︵標高一一三・六m︶ ・二ノ段・三ノ段・土塁・空堀などの遺構 おこ う じょう が残り、 八頭城跡付近には、 城・堀ノ内・土居などのホノギが伝わる。 布師田の位置 戦 国 期の布 師田を 考 える上で、長 宗 我 部 氏の本 拠 、岡 豊 城 ︵南国市岡豊町︶との距離感や地理的関係は重要である。江戸 くにちか 中期の軍記物﹃ 土佐物語 ﹄ によれば、 石谷民部少輔が長宗我部 国 親に降った背 景として、布 師田の南に接 する大 津 城︵ 高 知 市 くにとら おおそね しのはら 大津︶ ・下田城︵南国市稲生︶ が国親に落城されたことを挙げて おり、 また安芸国虎が元親の岡豊城を攻めるに際し、 大埇・篠原 ︵南国市︶方面より布師田の東方に出て、 付近に火を放ったこと 岡 豊 城 を 中 心とした などが記されている。 戦 国 期 的 社 会 状 況の 中に布 師田 も 置かれ ていたこと が 想 像 さ れる。 宗我部氏が布師田で開発した塩田は、 古塩田・ ちせき 新塩田・大塩田の三区分で整理され、 検地され た地積の合計は五十四町余に及んでいる。天正 ど、 交通の基幹となる大道が地区内を通ってい ﹁石神大道﹂ ﹁フクヰ大道﹂ ﹁ハシノ本大道﹂な 録されている。 はそこに百姓が作職を所持しており、 新塩田で 長 宗 我 部 氏の直 轄 地︵ 直 分 ︶とされ、古 塩田で 古塩田・新塩田とも、 開発された田地は全て したことが分かる。 極めて短 期 間︵ 慶 長 元 年∼二年 ︶ の内に、開 発 十六年 検 地の田地 面 積の半 分 以 上の広さを、 たことも知られる。 はそこに﹁布師田衆﹂が扣地としての権利を所 西谷の﹁ウラタ﹂にある﹁正月十八日神事テン﹂ ﹁ 堤 ﹂などが詳しく 記され、海 水や砂の流 入を 古塩田地検帳には、﹁塩ハシリ﹂ ﹁スナ入アレ﹂ じ き ぶん 仏神田が多いことも布師田の特徴の一つであ 持していた。また、 古塩田では四反前後、 新塩田 は執行の給地で、 西山寺の扣地などというよう 防ぐため、堤を築きながら、 田地を開発してい ひか え ち に、 土地の用途・所在地・権利関係が明示されて 土地開発の困難さが察せられる。 た様 子が伺われる。海 辺 部の低 湿 地における さくしき る。下附の ﹁カツラキ﹂にある﹁神テン﹂は西山寺 では一町前後の田地が多く開発されている。 ぶっし んでん 神事田﹂は正祝分の地で、 神主七郎兵衛の給地、 の扣地、 川原島の﹁フケタ﹂にある﹁正月十五日 ンテン﹂ ﹁念仏テン﹂なども見える。 いる。その他に﹁八月三十日ノ御スイテン﹂ ﹁ヒカ 家臣団を維持、 増強して行くための、 また居城 布 師田の塩田開 発は、長 宗 我 部 氏にとって、 塩田の開発 かわなり 目 的 を 持っていた。塩田開 発は、布 師田の歴 史 しお である浦戸城周辺の地域開発としての、 二つの しょう 浦戸湾の周辺、 海辺部の低湿地帯で、 慶長初 はや と 年に長 宗 我 部 氏によって干 拓された水田を塩 く らの す け 土地に対し権利関係を持つ者としては、 長宗 検地地積合計 内訳 毛付 荒 に大きな足跡を残している。 我部氏の家臣︵久武内蔵助・福留隼人・国沢将 し おは ま 大塩田 かわあれ え んでん 畠の川成の合計は約4%と少ないが、 地検帳全 た 体に川原や川成、 川荒などが確認され、 国分川 ている。畠地・屋敷地はそれぞれ約6%で、 水田 西山寺は、 古くは 「七ツ城」 (西谷) に所在した と伝えられる 短期間での塩田開発の背景には、 豊臣秀吉による朝鮮出兵と、 長宗我部氏 のそれへの従軍という政治的動向が関係していたと思われる 田と呼んでいる ︵当時、 塩田は塩浜と表記︶。長 大塩田 概要 た んご 古塩田 しぎょう 古塩田 概要 検地地積合計 15町9反13代5歩 内訳 作目 14町6反34代5歩 塩ハシリ 1町 33代1歩 堤分 1反30代4歩 荒 15代 げん きゅうち 天正16年地検帳に見えるホノギの多くが現在にまで伝わっており、長宗我部 検地の復元研究が可能である 図中の網掛け付近には、古塩田・大塩田のホノギが残っており、400年前の 開発を今に伝えている 佐 国一ノ宮の土 佐 神 社 関 係 者︵ 執 行・神 主・正 祝・惣 佾・伶 人ほか︶ や、地 域の寺 院︵西山 寺・西 蓮寺・定林寺・常通寺ほか︶ などが確認される。 さ んでん 長宗我部氏の直轄地 ︵散田︶ も九十筆を超える。 特に、 久武内蔵助の給地は多く、 百三十筆を 超える地が久武の給地として記載されている。 てづく り ち 久 武は西谷の﹁七ツ城 ﹂に土居 屋 敷を構 え、そ の南面の ﹁西ノ前﹂に手作地を所持していた。彼 は た し せ い じ き が 布 師 田の﹁ 代 官 ﹂だったこと も 確 認 される ︵﹃ 秦氏政事記 ﹄︶。 いや し き 屋敷は、 全部で百六十八ヵ所が検地され ︵そ の内、 八十 八ヵ所が居屋敷︶、 その多くは下附・ さ え も んの す け 地蔵堂・西谷付近に所在していた。また、 前述の 久武内蔵助の土居、 同左衛門佐の土居、 土佐神 社の執 行のものと思われる土 居 など、複 数の ﹁土居 ﹂も確 認され、執 行の手 作 地六ヶ所も記 15町9反13代5歩 25町6反37代3歩 12町7反19代 54町3反20代2歩 古塩田 新塩田 大塩田 計 塩田の 地積合計 12町7反19代 10町1反19代2歩 2町5反49代4歩 監・桑名丹後・谷忠兵衛ほか︶ が多く、続いて土 原本の表紙と冊子の姿、 土佐一国分368冊が伝わる を中 心とした土地 利 用の様 子が知られる。田 西山寺の本尊聖観音菩薩と同寺の現況 金山城から東方約2.5kmのところに 岡豊城はあった 金山城跡から岡豊城跡を望む 国分川を眼下にし、 周辺を見渡せる 好位置に金山城はあった 金山城跡を南方より望む 遺跡は布師田地区から南国市岡豊町の範囲に広 (写真:高知県立埋蔵文化財センター提供) 「従是西土佐郡」 と刻まれている がる 一千筆を超える土地が検地されて いる 金山城縄張り図 ミトロ遺跡からの出土物 長岡・土佐両郡の郡境 を示す石碑 現在、 祭神は 木男神社と合祀されており、 江戸中期、谷秦山が高皇産大明神社を 付近には 「カツラキ」 のホノギが伝わる 『延喜式』 所載の 木男神社に比定した 天正16年地検帳の冒頭部分 1筆目に塩入アレ、 2筆目に塩ハシ リの注記が見える 古塩田地検帳の冒頭部分 (高知市教育委員会発行 『高 知市の文化財』 1992年より) る。︵ ては諸説あり︶ 木男神社と 木咩神社の文字が みえる (国宝、 東京国立博物館蔵) 長宗我部地検帳にみる布師田の風景 『延喜式』 巻10 沿いの水損状況が推察される。 長宗我部地検帳(重要文化財) 2 3 80 江戸時代の布師田 こし お た 野神(布師田山東) 折越にあり 石の龕中に石像あり やかしろ 古城蹟(布師田山東峯) 元親斥候配置所という 臣斎藤甚五兵衛は、 城下に入る 下へ入った。豊隆の死を悼んだ家 装束を改めて、 葬列を組んで城 御棺を安置、 ここで藩士達は旅 師田村の川 原に小 屋 を 設 けて 江 戸から帰ってきた際には、布 また、 六代藩主豊隆の遺骸が えて、 城下へ向かった。 行 列は、布 師 田 村で衣 装 を 整 参勤 交 代で帰 国 する藩 主の 結界の村 けっかい ﹃藤並神社御神幸絵巻﹄ より 扮した行列が出された。 村からは﹁忠臣蔵夜討装束﹂に 下で大祭が催されたが、 布師田 て、 天保七年︵一八三六︶ には城 大 明 神 号 を 受 け た 記 念 とし 夫妻と二代藩主忠義を祀った。 設置した藤並神社は、 藩祖一豊 文 化三年︵一八〇六︶ に藩が 藤並神社への御奉仕 ふじなみ 高皇産大明神社(大谷) 社方五尺東南向き 拝殿と調馬圃あり として藩政の中枢にあった 横山覚馬はその子孫である。 語り継いでいる。 と して その功 績 を 今 に して果てた。村人は義人 が、その責めを 負い自 害 に踏み切り村人を救った の許 可 な く 藩 蔵の開 放 起きた飢饉の際に、藩庁 安 芸 郡 羽 根 浦 赴 任 中に 方の分一役などを勤めた。 ぶいちやく 生まれ、藩の材木方や浦 年︵一六二八︶ に布師田に 岡村十兵衛は、 寛永五 ○岡村家 前、 この布師田村で剃髪した。 れた 横 山 九 郎 右 衛 門 は、 役﹂を仰せつかり馬廻に昇 衛の息 子 ︶は、 ﹁ 新田 開 発 の跡を継いだ新兵衛︵権兵 考 えられる 。九 郎 右 衛 門 技 術 を 縁 としたものだと 姻も﹁新田開発﹂に関する の娘 と一木 権 兵 衛 との婚 家であろう 。九 郎 右 衛 門 に関 係 する技 術を有した かった。横山家は新田開発 領 し、 ﹁ 開 作 役 ﹂を 仰 せつ 散田︵荒廃田︶ 二百石を拝 さんでん 石谷民部 金山城主(細川氏の末裔) 新田﹁古塩田﹂九〇石が含まれる。元禄元年 木 咩 神 社など﹁ 公 的 ﹂な寺 社 を中 大鳥居あり 十五代藩主容堂の側近 格した。 人物 村の姿 国分川沿岸の新田を調査、 四八石余を打ち 村の信仰 木 男 神 社と ﹃土佐州郡志 ﹄ が、 寺院は西山寺、 神社は式内社であ る 心に記録するのに対し、﹃ 南路志 ﹄ では、 これに加えて、 ○川 布師田川は、 鯉や鮒を特産とする漁業の川 であり、 材木などを運ぶ舟が行き交う舟運の 川でもあった。また、 刑罰関係の文書では﹁布 師田川西限禁足﹂の用語が確認でき、 布師田 川の流れそのものが、罪 人 追 放の境としての 機能をもっていた。 ○橋 橋は数度の架け替えが行われたが、﹃土佐州郡 志﹄ に記されるように、 川を挟んで広がる村内の 小村は、 橋を起点とした方角で把握されていた。 ○堤防の利用 万治元年 ︵一六五八︶ 、 松村覚兵衛なる人物が、 国分川左岸の堤防七百間の内六〇間に竹を植 える申請をしている。 これを許可した土佐藩は、 木木船大明神(下付東南) 社方三尺東向き 土佐 藩 士に召し抱 えら ○一木家と横山家 いざという時は藩による利用を条件とした。 ○横山家 長 宗 我 部 氏に仕 えた 横 山 家は、 一時 浪々の身 門 が二代 藩 主 忠 義に召 となるが、 横山九郎右衛 し抱えられた。九郎右衛 門の娘は一木権兵衛に嫁 ぎ 、継 嗣に恵 まれなかっ た 九 郎 右 衛 門は権 兵 衛 して迎えた。後に断絶す の息 子 新 兵 衛 を 養 子 と る一木 家の功 績は、横 山 家によ り 後 世に伝 え ら れた。 鯉 鮒 松茸(布師田山) ︵一六八八︶ に免奉行奥村安太夫が布師田の 出したように、浦 戸 湾に注 ぐ 国 分川 沿いで 江戸時代の布師田村は、 千を超える土佐 の村々を代表する大村である。江戸時代中 かんぽ う ご う ちょう 新田開発が進んでいることがわかる。 ○一木家 野 中 兼 山は布 師 田 村 の用水路建設に注目、 そ を 土 佐 藩 士に取 り 立て れを主導した一木権兵衛 た。普 請 奉 行となった権 兵衛は、 諸処の普請事業 を完成させ、 延宝七年 ︵一 む ろつ 六七九︶、安 芸 郡 室 津 港 普請完成を見届け自刃 して果てたと云う。享年 六三。跡は息子市三郎が 継ぐが、 宝永五年 ︵一七〇 八︶ に一木家は断絶した。 ﹃御侍中先祖書系図牒﹄ より横山新兵衛の部分 家代(橋東) 古蹟 期の ﹃ 土佐七郡 本田新田地 払 帳︵ 元 禄 地 払 一木権兵衛と妻の墓 いち ま ん ど 伊 勢 神 宮の御 師が札を祀った﹁一万 度 ﹂や稲 作を守る い げ 水の神である﹁神母﹂など、 村人の日常に直結する神々 が 採 録 されている 。特に神 母は国 分 川 沿いの本 田三 十ヶ所に及び、 村の神々の中でも特異な位置を占める。 地蔵 川と橋 地蔵堂 寛保三年︵一七四三︶成立の ﹃ 寛保郷帳 ﹄ に おおみち ○大道 布 師田には、城 下と土佐 東 部や北 山 を 結ぶ往還﹁大道﹂が通っていた。江戸時代中 期に藩が編纂した ﹃ 元禄大定目 ﹄ によれば、 ごて ん ﹁大道﹂ の幅は三間と規定されている。 ばんしょ ○番所・御殿 情報や物資の送達を担当する送番所が 石 渕に設 置され、藩 主 休 息 所として御 殿 下付 三家の墓 │ 一木・横 山・岡 村 │ も設けられていた。 地蔵堂 帳 ︶﹄ によれば、村 高 平 均二五〇石の土佐 国 置づけられ、 年貢率が八∼九割と規 定されていた。 石渕の土居家の襖の下張りからは、 わじき 国分川・布師田川・和食川・物部川の 普請や藩主の鹿狩り、 あるいは参勤 道の整備や参勤通行などに関する 人夫料︵合計十九匁六分︶上納の一 覧が発見されたが、 村で何が収穫さ れたのか、村 人 達の生 活はいかなる 石淵 よれば、戸 数二六七、人口一一八一人︵ 男六二 前田貫次郎(郷長) ものであったのか、 それを復元できる 巌瀧大権現 にあって、 布師田村の村高は二二九二石余、 土 明治 4(1871) 資料は今のところ見つかっていない。 別当西山寺 一 ・女五六〇︶ で土佐国で四七位、 土佐郡では 不詳 横山覚馬の墓 岡坊跡(西岡山上) 地蔵堂(橋東) 住吉大明神 うしおえ 慶応 3(1867)∼明治 4(1871) 西山寺(真言宗五台山末) 西蓮寺跡(西山) 石淵 佐 国で第 十三位、土 佐 郡では朝 倉 村、潮 江 竹中藤助 寺社 観音堂 四位の村である。ちなみに、 馬五八匹・牛二八 万延 元(1860)∼慶応 3(1867) 万治3年(1660) に移動 30箇所 村に次いで第三位である。潮 江 村と布 師田 村山五之助 明暦年中(1655∼1658) は東山の端に架かる 神母 匹がいた。 安政 5(1858)∼万延 元(1860) 東西に架かる 古は西山六本松にあり 喜兵次塩田 村を大村たらしめる原因は、 長宗我部時代 村山伝平 那々津代にあり 長33間 広2間 一万度 おくりばんしょ 安政 5(1858) 橋 源右衛門塩田 この布師田村を﹁大道﹂が貫通、 村内には 村山吉十郎 材木舟あり 一万度 から江戸時代にかけて進展した新田開発で 嘉永 5(1852)∼安政 5(1858) 御殿と送番所が設けられ、 藩主を初めとす 不詳 ある。村 高二二九二石 余のうち九〇 〇石が 嘉永 元(1848)∼嘉永 5(1852) る人々と物資・情報が行き交った。 橋田新左衛門 新田であり、 本田にも長宗我部時代の干拓 天保13(1842)∼嘉永 元(1848) 布師田川 甫喜山に発し国分川・岩瀬川に合流 七ツ代 村の役人 不詳 南川(待井川) 田の間を流れ布師田川に合流 一万度 村 政は庄 屋を中 心に 天保 7(1836)∼天保13(1842) 布師田山 私伐禁止 鉄を産すと伝わる 石淵 運営されるが、 土佐藩の 武田勇次 川 一万度 庄 屋は転 勤 するのが特 天保 元(1830)∼天保 7(1836) 山 新屋敷 色である。布師田村では、 橋詰理作 橋 南 : 川原嶋(49戸) 若宮 長 宗 我 部 時 代から約一 文政 5(1822)以前 橋 西 : 新屋敷(50戸) 石淵(60戸) 場所 ノツコ山 八〇 年にわたり 岡 本 家 不詳 道と番所 文政 4(1821)∼天保 元(1830) 高知県立埋蔵文化財センター提供︶ 奥田常右衛門 橋東北 : 西谷(59戸) 橋西北 : 垣之上(14戸) 神仏 荒神 が庄 屋を勤めていたが、 宝 暦 七 年︵一七五 七 ︶に 同 家が高 岡 村に所 替に なったあ と、次々と庄 屋 固 定した家が庄 屋 役を が赴任・転勤を繰り返し、 勤めることはなかった。 発掘された荷札 平成二十五年︵二〇一三︶ 、 県市合築図書館建設地の発 掘調査で、﹁武左衛門﹂ ﹁布 師 田 村 ﹂と 墨 書 された 荷 札 が 発 見 された 。布 師 田から 城 下への物 資 廻 送 を 知 らせる 追手筋遺跡出土木簡︵写真 寛政12(1800)∼文政 4(1821) 西窪(2戸) 柳之坪(6戸) 『南路志』 (1813年) のみ に登場する神仏 『元禄土佐国絵図』 (高知市立市 民図書館蔵) より布師田の部分 興味深い発見である。 村の土地 本田には長宗我部時代に開発さ れた干拓新田﹁古塩田﹂九〇石七斗 じょうつう じ 七合が含 まれ、土佐 国西半 分の真 ふれがしら 言宗触頭である常通寺の寺領と上 ちぎょう 級武士の知行に分けられ、 残りは藩 の直轄地である。 やくち あてが 新田は上士には﹁役知﹂として、 郷 りょうち く もつ 士には﹁領知﹂として宛行われ、 残り 島村嘉三右衛門 知行:上士の本田 役知:上士の新田 領知:郷士の土地 御蔵知:藩直轄の本田 御貢物地:藩直轄の新田 は御貢物地として藩が直轄した。 横山新兵衛と一 木市三郎は一木権 兵衛を父とする兄 弟であ り、 木 男 神 社には、両 名 連 じょうきょう 名の棟札がある。 貞 享 四 年︵一六 八七 ︶に藩 が 作 成 した ﹃覚﹄ によれば、 布 師 田 村 は、江ノ 口村や大津村と並 宝暦 7(1757)∼不詳 役知 41石4斗2升6合 横山新兵衛 衣斐覚助 下村市之丞 一木市三郎 領知 66石8斗5升 前田加介 安東小兵衛 横山権八 岡本彦十 国沢藤左衛門 横山六兵衛 御貢物地 791石7斗4升8合 (久右衛門支配共) 土産 岡村十兵衛の墓 岡本丈助 新田900石2升4合 布師田御殿跡の石垣 享保 8(1723)∼宝暦 7(1757) 橋 東 : 下付(19戸) 中芝(20戸) 畠中(6戸) 岡本牛右衛門 石淵∼中嶋35町 古の駅路は北山の下にあり 享保 5(1720)∼享保 8(1723) 小村 岡本牛右衛門 駅路 貞享 3(1686)∼享保 5(1720) 東西44町 南北20町 土色 灰色 岡本源右衛門 東限中嶋 西限石淵 南限大津 北限蒲原 寛永12(1635)∼貞享 3(1686) 面積 岡本源右衛門 村境 天正 元(1573)∼寛永12(1635) 『土佐州郡志』 (1700年代前半) に記される布 師田村 人物 本田1392石1斗4合 (内90石7斗7合は古塩田) 任期 100石常通寺領 50石今井左五右衛門知行 30石加藤六兵衛知行 15石横川市兵衛給 32石7斗6合損田引地 1164石3斗9升8合 御蔵知 『道番庄屋根居』等にみえる布師田村の庄屋 都合2292石1斗3升8合 4 5 び 生 産 力 が 高い ﹁ 上 免 之 村 ﹂と 位 『土佐七郡本田新田地払帳 (元禄地払帳) 』 (1600年代末) にみる布師田村 近現代の布師田 明治∼昭和戦前期 近代布師田の出発 布師田村は、 明治二十二年︵一八八九︶ の市制町村制施行 を経て、 昭和十七年︵一九四二︶ に高知市に編入されるまで、 江戸時代の村を引き継いで土佐郡布師田村として存在し た。明治二十四年︵一八九一︶ には戸数約三百、 人口およそ千 三百人を数え、 江戸時代中期から大きな変化はみられない。 しかし、 自由民権期には布師田自由党が結成され、 隣の さねとみ 一宮村民とともに減租請願書を太政大臣三条実美へ提出 するなど、 村人達は確実に近代日本の影響を受けていた。 西谷の変容 村 役 場は御 殿 跡に建 設され、明 治二十四年 創 設の布 師 ゆ る 田小学校は当初井流山南の中腹にあったが、 明治四十五年 ︵一九一二︶ に御殿山の麓に移転している。江戸時代、 参勤交 代の際に藩主が休憩した布師田御殿という﹁公的﹂な場所 布師田の歴史資料 高知市立市民図書館には、明治 から昭和戦前期までの布師田村関 係の資料が百三十九点所蔵されて いる。 この資料群は大きく分けて三 つの性 格に分 類できる。 一つは戸 籍 や入転籍など村役場行政に関する 帳 簿 類︵ 約六十 点 ︶、 二つ目は国 分 川水害予防組合に関する文書︵約 検 査や簡 閲 点 呼 を 中 心 とした 兵 六十点︶、 三つ目は昭和初期の徴兵 事関係資料 ︵約二十点︶ である。 また、郷土史 的 視 点から布 師田 森 澤 栄 晴 両 氏の ﹃ 布 師の里 ﹄︵一九 を記したものとしては、森 澤 富 寿・ 八二年 ︶ や森 澤 栄 晴 氏の ﹃ 嶺の水 ﹄ ︵一九九九年︶ などがある。 1,362 300,822 2,015 60年(1985) 312,241 2,278 平成 2 年(1990) 317,069 2,161 7 年(1995) 321,999 1,989 12年(2000) 330,654 2,151 17年(2005) 333,484 2,249 22年(2010) 343,393 2,214 国分川との関係 明治二十四年の布師田には百三十六艘の川 舟が確認できる。この舟数は、 村民の生活が国 分川の舟運との密接な関係の上に成り立ってい たことを物語っている。 その一方で、 時として起こる国分川の氾濫は 村に甚大な損害をもたらし、 布師田村にとって国分川の治水は重要な課題であった。 (高知市立市民図書館所蔵) きごう ち そ わ り ちょう を慰霊するため、 昭和三十一年︵一九五六︶ に布師田郷友会によって忠霊塔が建立された。 ﹁忠霊 日清、 日露戦争から敗戦までに出征し戦死した布師田住民は六十二名にのぼる。この戦死者 本の兵役体制とそれに組み込まれた布師田の人びとの姿が具体的に浮かび上がってくる。 に至る手続き文書が綴られ、 村民十四名が現役兵として検査に合格したことがわかる。戦中日 言の帰郷を果たした二名の村葬が行われた。昭和十六年の徴兵検査帳簿には、 検査内容や実施 の村葬関係資料によると、 布師田小学校を式場に、 無 や徴兵検査に関する帳簿がある。例えば、 昭和十五年 和十四年︵一九三九︶ から同十七年の間の、 戦没者村葬 ﹁布師田村資料﹂︵高知市立市民図書館所蔵︶ には、 昭 近代日本の歴史は、 戦争抜きで語ることはできない。 戦争の時代 大正期の村の出来事としては、 大正五年 ︵一九一六︶ に電灯の供給が開始されたことが注目される。 ても農村という布師田村の基本的な生産形態は変わっていない。 二︶頃には、 村の面積のうち約半分を田地が占め、 九千石の米を生産するなど、 大正・昭和になっ 大正十年︵一九二一︶ の統計によれば、 二百十七世帯のうち約三分の二が農家、 昭和七年︵一九三 大正期の布師田 割り当てられていた。 川の ﹁南岸﹂と﹁北岸﹂ のそれぞれに設けられ、 名寄帳や地租割帳などによって、 村人達に負担が なよせちょう が、 それによれば、 水害から村を守るために堤防や水門の整備・保護が計られている。組合は国分 布師田地区には明治十年代から昭和初期にかけての水害予防組合の資料がのこされている 国分川南岸水害予防組合書類 所を訪問している。 成九年︵一九九七︶ に開設し、 同十四年には天皇・皇后が同 南海福祉会の介護老人福祉施設﹁グランボヌール﹂は平 保育園﹂が開園した。 昭和六十三年︵一九八八︶ には布師田福祉会の﹁布師田 平成二十一年︵二〇〇九︶ より布師田に置かれている。 師田に開園した。運営母体である高知慈善協会の本部も の高知育児会を起源とし、 昭和三十九年︵一九六四︶ に布 児童養護施設﹁愛仁園﹂は、 明治十六年︵一八八三︶創立 設置された。 布師田には戦後、 社会福祉法人の運営による諸施設が 社会福祉と布師田 塔﹂ の刻書は吉田茂の揮毫である。 この塔は御殿山から今も布師田地区を静かに見守っている。 遂げている。 きのなかで、次々と変 貌 を 経 済 成 長 以 降の社 会の動 した。布師田の風景は高度 けぼの街道︶ が全区間開通 する国道百九十五号線︵あ ︵二〇一三︶ には地区を横断 ら移 設され、平 成二十五年 所︵ 車 両 基 地 ︶が高 知 駅か ると JR土 讃 線 高 知 運 転 さらに、 二十一世 紀に入 している。 黒 潮 博 覧 会が開 催され、その跡 地には高 知 県 産 業 振 興 た五水田の松が姿を消した。 その過程で国分川の景勝として永く親しまれてき 河川改修・築堤工事は、 地区の安全性を高めたが、 繰り返される水害と、 その都度進められてきた 択され、 大規模な護岸工事が進められた。 川・舟 入川 河川 激 甚 災 害 対 策 特 別 緊 急 事 業が採 豪雨﹂が発生、 甚大な被害を受けたことから、 国分 近 年では平 成 十 年︵一九九八︶ にいわゆる﹁ 九八 ため、 昭和五十七年︵一九八二︶ に小学校は現在の場所に移転した。 起こすほどで、 布師田小学校の校舎裏山も土砂崩れの恐れがあった。その 台 風 十七号がある。このときの雨 量は、 西谷・石渕の山の土砂 崩れを引 き また、 住民の記憶に深く刻まれた災害として昭和五十一年︵一九七六︶ の 国分川をめぐる水害は、 戦前より繰り返し布師田住民を悩ませてきた。戦後、 昭和四十五・四十 西部の塩田地帯では、 昭和五十九年︵一九八四︶ に高知 は国鉄土讃本線布師田駅が開業した。 が布 師田を通 貫していたが、昭 和二十七年︵一九五二︶ に 的に押し寄せた。大正十四年︵一九二五︶ にはすでに鉄道 戦後の布師田には、 交通網の整備や工業化の波が断続 大きく変わる布師田の風景 田園より愛仁園(左奥) と布師田小学校(右) をのぞむ に、 近代の公的機関が引き継ぐかたちで置かれたのである。 280,962 55年(1980) センターが設立された。昭和六十年代にかけては高知機 五水田の松(上) と布師田橋(下) <ともに昭和32年、個人蔵> 小 学 校は昭 和四十五・五十一年︵一九七〇・七六︶ の台 風 50年(1975) 七年 ︵一九七〇・七二︶ の豪雨により堤防が決壊し、 水防のため西谷・新屋敷の河川改修工事が計画・ 国勢調査、高知県企画部企画調整課編『高知県の集落』 (1990年) をもとに作成 被 害もあって、昭 和五十七年︵一九八二︶ に現 在の場 所に移 1,229 転したが、御 殿 跡には現 在も布 師田ふれあいセンターと高 1,299 240,481 知市農協布師田支所がある。 217,889 45年(1970) 戦後∼現在 新しい集落の 誕生と人口増加 40年(1965) 械工業団地の稼動が始まるなど、 工業振興地帯へと変化 高知市と布師田地区の人口推移 実施され、 それに伴って昭和五十八年 ︵一九八三︶ までに布師田橋・新屋敷橋の架け替えが完了した。 戦後の災害と対策 二千人前後で推移している。 に大きく増加し、 以来現在まで た布 師田の人口は、 これを 契 機 百人と大きな変動をみせなかっ 江 戸 時 代より 千二百∼千三 ﹁宮ノ北﹂が誕生した。 れ たこ とによ り 、新 た な 集 落 田に移転し、 職員住宅が造成さ 所・交 通 機 動 隊が相 次いで布 師 昭 和五十 年 代には高 知 刑 務 高知市農協布師田支所 6 7 1,309 明治23年(1890)発布の教育 勅語中の文言「啓発智能」 (右) 、 「成就徳器」 (左) が刻まれている 同校が御殿山から現在地に移転 した際に門柱も移された 布師田小学校(明治末∼昭和初期、個人蔵) 布師田 196,288 布師田小学校門柱 高知市 昭和35年(1960) 年 御殿山に建つ忠霊塔 高知ぢばさんセンター (上) とあけぼの街道遠景(下) (旧布師田村役場) 高知刑務所 図中の参勤道は 『参勤交代北山道 整備活用計画書 10.活用提案 みちを歩くことを楽しもう』 (高知県教育委 員会、1997年)所収の「高知城から領石へのみち」図 を参考にした (参勤道の経路については諸説あり) 下ノ瀬大橋 参勤交代道 高知ぢばさんセンター 錦功橋 374 国分 川 高知機械工業団地 JR土讃線 布師田 転所 高知運 44 菱池川 宮 新屋敷橋 ❻ ❷ 金山城跡 ❸ 布師田御殿跡 ❹ 一木権兵衛・横山家墓所 ❺ 岡村十兵衛墓所 ❻ 密倉神社 ❼ 郡境の碑(2基のうち東側の碑) ❽ ❾ 地蔵堂 木咩神社跡 木男神社 ❶ お世話になった人々 ︻機関・団体︼ 高知県立埋蔵文化財センター 高知市教育委員会 高知市立市民図書館 高知市立布師田小学校 東京国立博物館 西山寺 布師田の未来を考える会 ︻個人︼ 今井健夫 江渕幹史 岡林昭利 岡本純一 北村光輝 北村 擴 澤田高興 澤田昌孝 土居國起 土居稔昌 土居利光 徳弘頼昭 冨田英郎 永野 功 西川章史 西村敏雄 野々村壽昭 前田修一 安岡孝晃 ︵敬称略・五十音順︶ 編集後記 本 号 を 作 成 し 始めてから、地 区の自 治 組 織﹁ 布 師田の未 来 を 考 える会 ﹂の歴 史 環 境 委 員 会の 皆さんには、 大変お世話になった。 地 区の歴 史を守り伝 える活 動に 取り組む委 員 会の人たちにお話 師田に通った。 を 聞 く ため、私 たちは足 繁 く 布 記 録 集の編 集 を 始めるにあた 文 書や手 紙 、写 真 などの情 報 提 り、委 員 会から地 区の家々へ古い 供の呼びかけが行われた。その結 果、 石渕の土居家より、 一枚の古い 襖が発見された。襖を預かり、 私 下 張りから参 勤 道などに関 する たちが解 体 調 査を行ったところ、 人 夫 料 上 納の一覧が見つかった 。 江戸時代の資料があまり残ってい ない布 師田において、貴 重な成 果 これを契機として、 今後さらに となった。 資 料の発 掘や調 査が進むことを ︵企画員 筒井聡史︶ 願って止まない。 地域記録集 土佐の村々3 高知県高知市布師田地区 土佐郡 布師田村 ∼自然と歴史∼ 発 行 平成二十七年︵二〇一五︶三月三十一日 編 集 公益財団法人 土佐山内家宝物資料館 執筆者 差し込み 渡部 淳︵館長︶ 一・八頁 筒井聡史︵企画員︶ 二・三頁 横山和弘︵企画課長︶ 四・五頁 渡部 淳︵館長︶ 六・七頁 冨井 優︵学芸員︶ 庄屋一覧 片岡 剛︵学芸員︶ 印 刷 有限会社 片岡印刷所 ※本冊子掲載資料の内、所蔵表記の無い資料は、 いずれも土佐山内家宝物資料館所蔵の資料である。 ミ トロ遺跡 布師田保育園 ❺ 252 道 あけぼの街 送り番所跡 一 佐 土 岡豊高 ❽ 195 布師田橋 布師田小 ❾ ふれあいセンター ❸ 高知東高 ❶ ◎高知市役所より車で約15分 ◎JR高知駅よりJR布師田駅まで約10分 木橋 西山寺 忠霊塔 愛仁園 一宮東小 249 グランボヌール ❷ ❹ 国領遺跡 郡境の碑 ❼ 交通 小山橋 地図と写真で見る布師田
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