解説資料 - 山口県文書館

平成 27 年度山口県文書館第7回資料小展示
2015.10/1(木)~29(木)
(休館:月曜・祝日)
信長の娘と伝えられた女性
戦国時代に毛利家と婚姻関係を結んで同盟関係を築き,江戸時代は萩藩一門筆頭と
なった宍戸家。宍戸元続の最初の妻であり,元続との間に一女(右田元倶の妻)を儲け
た女性は,織田信長の娘と伝えられています。実は,彼女は様々な顔を持っており,
信長の娘云々という説はその一部にすぎません。
本展示では,当館所蔵資料の中からこの女性に関する史料を紹介します。
【展示リスト】
史 料 名
番号
①
②
③
④
⑤
⑥
※途中で展示替をします。
請求番号
巨室系図
風土注進案 三丘村之内小松原村
毛利家文庫複写資料435
司箭伝 付宍戸元続室家之弁
毛利家文庫複写資料439
豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉朱印状
霧の墓
複写資料275(3)
複写資料275(3)
210/400
10/1~15
10/16~29
○
291/Y00
○
○
○
○
○
○
○
【解説】
1
宍戸元続の妻に関する説
宍戸家系図(史料1)には,元続の最初の妻は織田信長の娘であると記されています。
彼女の墓がある周 南 市 小 松 原 で も , 古 く か ら そ の よ う に 言 い 伝 え ら れ て い ま す
(史料2)。
と こ ろ で , 「 司箭伝 附宍戸元続室家之弁」(史料3)は,この女性に 関 し て , 二
もととも
つ の 説 が あ る こ と を 紹 介 し て い ま す 。一 つ は ,彼 女 は 信 長 の 娘 で ,毛 利 元 倶( 右
田 毛 利 2 代 ) の 妻 の 母 親 だ と す る 説 。も う 一 つ は ,内 藤 左 京 某 の 姉 妹 で ,毛 利 輝
元 の 養 女 と し て 織 田 信 忠 ( 信 長 嫡 子 ) の 嫡子 「 於 次 丸 」 ( 秀 勝 ) へ 嫁 ぎ , 「 於 次
丸」死後,宍戸元続の妻となったという説 です(ただし,「於次丸」を信忠の子と
するのは誤りで,正しくは信長の子です)。
この二つの説はどちらが正しいのでしょうか。
2
信長の娘説
江戸幕府の命で作られた「寛政重修諸家譜」等に載る織田家系図には,養女を含める
と 12 人確認できる信長の娘の中に,宍戸家に嫁いだという娘のことは出てきません。
ただし,毛利氏と信長との関係が悪化していない時期には婚姻関係を結ぶ話
があったことは事実です。その可能性があった時期と,この女性が宍戸元続
に 嫁 ぎ 娘 を 儲 け た 時 期 を 比 べ る と ,13 年 ~ 20 年 の 隔 た り が あ り ま す 。結 婚 後
すぐに子供に恵まれなかったとしても,当時の平均寿命からすればこの時間
差は大きいと考えられます。したがって,元続の最初の妻を信長の娘とする
説は,成り立つ可能性は低いと考えられます。
3
輝元養女=秀勝の妻説
この女性は,生まれも含め色んな顔を持っています。
①内藤左京の姉妹=内藤元種の娘=輝元の従姉妹(=内藤興盛の孫娘)
前述の「司箭伝」によると,内藤左京の姉妹とは内藤元種の娘のこととさ
れます。元種の姉妹は毛利輝元の母親なので,輝元からすれば,元種の娘は
母方の従姉妹に当たります。なお内藤家は,大内氏の時代に長門守護代を世
襲した家です。
②輝元の養女
この女性は従兄弟である輝元の養女となります。彼女は輝元の正室とも縁
続きになります。
③ 羽 柴 秀 勝 ( 信 長 の 実 子 で 秀 吉 の 養 子 ) の妻
こ の 輝 元 の 従 姉 妹 が ,正 式 に 毛 利 家 の 娘 と し て 於 次 丸 秀 勝 ( 信 長 の 実 子 で ,信
長の後継者となった秀吉の養子)に嫁ぎます。
④宍戸元続の(最初の)妻
秀勝と死別後,彼女は実家である安芸国の毛利家に戻って,宍戸元続と再
婚します。彼女と元続は共に内藤興盛の孫,つまり従兄弟同志です。
⑤毛利元倶妻の母親
彼女が元続に嫁いで儲けた娘が,成長して毛利元倶の妻となります。
以上紹介した彼女の様々な顔の内の多くは,他の史料からは裏付けがとれ
ません。しかし,例えば,略系図に示したような,内藤家の娘が重縁の間柄
にある毛利家の養女として他の大名家に嫁いだり ,実家にもどってからまた
宍戸家に嫁ぐというようなことは自然な話です。また,この女性が宍戸元続
に嫁いだ時期と元続との間に娘を儲けた時期はほぼ同じ時期なので ,この点
でも違和感はありません。
さらに,これらの説を前提とすると大変理解しやすい文書が当館に残って
います。
4
秀吉から娘と呼ばれた女性
毛 利 家 の 一 門 右 田 毛 利 家 に 伝 わ っ た 豊 臣 秀 吉 の 朱 印 状( 史 料 4・5 )が そ れ に
当 た り ま す 。右 田 毛 利 家 は ,こ の 話 の 主 人 公 で あ る 女 性 が 生 ん だ 娘 の 嫁 ぎ 先 で
もあります。
この二つの史料の宛名である「御もし」,「五もし」は娘という意味です。
史 料 4 は ,自 分 の 身 近 か ら ど こ か に 下 向 さ せ た ら し い 娘 の 道 中 を 案 じ て い た 秀
吉 が ,無 事 に 到 着 し た と い う 知 ら せ と 贈 り 物 を 受 け 取 っ て 安 堵 し た 旨 を 伝 え た
返事です。一方史料5は,同一人物と考えられるその娘から「文」(手紙)と
贈り物として「かひき」(絹)をもらった,その礼状です。特に後者の史料5
で は ,こ の 女 性 は ,「 あ き 」を 冠 し て 呼 ば れ て い る こ と が 注 目 さ れ ま す 。「 あ
き 」と は ,「 安 芸 国 」( 現 広 島 県 ) ,具 体 的 に は こ こ を 本 拠 と し て い た 毛 利 家 の
こ と を 意 味 し ま す 。し た が っ て ,こ の 場 合「 あ き の 五 も し 」と は 安 芸 国 の 毛 利
家にいる娘という意味になります。
こ れ ら の 史 料 か ら は ,秀 吉 か ら 安 芸 国 に い る 娘 よ と 親 し く よ ば れ た 女 性 が 毛
利 氏 側 に い て ,手 紙 や 贈 り 物 を や り と り し て い た こ と が う か が え ま す 。こ の「 あ
き の 五 も し 」が ,い っ た ん は 秀 吉 の 養 子 の 秀 勝 の 妻 と な り ,の ち 宍 戸 元 続 と 再
婚 し た 女 性 と 同 一 人 物 だ と す れ ば ,色 ん な こ と が 理 解 し や す く な り ま す 。こ の
秀 吉 の 礼 状 が ,毛 利 家 や 宍 戸 家 で は な く ,ほ か な ら ぬ 右 田 毛 利 家 に 伝 わ っ た 理
由 も ,彼 女 の 娘 が 右 田 毛 利 家 に 嫁 い だ と い う 縁 に よ る も の だ と 考 え れ ば ,う ま
く説明できます。
以 上 を 勘 案 す る と ,宍 戸 元 続 の 最 初 の 妻 は 輝 元 養 女 = 秀 勝 の 妻 で あ っ た と す
る説は,十分ありうる話なのです。
5
結論
毛利方の出身で,信長と縁ができ(信長の息子=秀吉の養子の嫁となった),後
に 宍 戸 元 続 の 妻 に な っ た 女 性 が い ま し た 。実 際 の 彼 女 は ,信 長 よ り も ,秀 吉 と
の つ な が り の 方 が 強 か っ た よ う で す 。し か し ,「 ど う も 信 長 と 縁 の あ っ た 人 ら
し い 」と い う 信 長 と の つ な が り の 方 が 人 び と の 記 憶 に 残 っ て 後 世 へ 伝 え ら れ た
のではないか,と考えられます。
元
就
宍
戸
隆
家
毛
利
右
田
元 毛
政 利
女
興
盛
隆
元
三
女
内
藤
元
種
女
輝
元
元
秀
羽
織
秀 柴
吉
信 田
長
秀
勝
秀
勝
女
元
続
元
倶
女
女
婚姻
養子
関係略系図
関係略系図
◆もっと知りたい人は◆
西尾 和美:「豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」
(川岡勉・古賀信幸編『日本中世の西国社会① 西国の権力と戦乱』,清文堂,2010 年)