司祭のことば( 5月)

教会報
2010年
6月
第10号
聖霊降臨をお祝いして…
「『聖霊』の導きに従って生活しなさい。」
-キリストの弟子として頂く聖霊の喜びと実り
市岡
之俊
教会の典礼暦年のうちに、昨年のクリスマスから私たちは、御子の誕生、成長、3年間の公生活、
そして十字架の受難、復活、昇天を記念して、イエスさまの人生とともに歩んできました。そして
今、私たちは、キリストの弟子としてのさらに新しい飛躍を求められています。私たち一人ひとり
も新たな聖霊の息吹を受けて、イエスさまとともに、もう一人のキリストとして、主の救いの秘儀
を分かち合うために世に派遣されていくのです。御父のもとに昇られ一つとなり、私たちをも御父
と一つにするために道を開いてくださったイエスさまはまた、聖霊を通していつも私たちとともに、
すべての人々とともにいてくださるようにして下さいました。イエスさまはその聖霊を送る約束を、
愛する弟子たちを前にされました。
「
弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがた
にすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」
(ヨハネによる福音 14 章 26 節)
ある人気ドラマの中で、主人公の記憶は蘇り、また新たな人生と出会いとが出発、展開していく
様子が描かれています。私たちも聖霊の息吹を頂いて、すべてが新たに創造され、展開し、キリス
トの弟子としていつも喜んで歩んでいく道が出発するのです。そのような喜び、聖霊に満たされた
キリスト者が結ぶ聖霊の実り、しるしについて、聖パウロはガラテアの信徒への手紙の中で、次の
ように述べています。
「
『霊』の結ぶ実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人々は、『肉』を
その欲情と欲望とともに十字架につけてしまったのです。」
(5 章 22-24 節)
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制・・・、それらはもちろん、私たちキリ
スト者の信仰生活にとって必要なものばかりであるのでなく、すべての人々にとっても、欠くこと
のできないものでしょう。私たちの人生と生き方も、これらの実りと賜物が無くては、大変虚しい
ものとなってしまうことでしょう。聖パウロは、聖霊の導きに従わない、そのような虚しい生き方
について、「肉」の業として表しています。
「
『肉』の業は明らかです。すなわち、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、
敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、丌和、仲間割れ、ねたみ、泥酔、度はずれた
遊興、その他このたぐいです。・・・このようなことをする者は、約束された恵みと
して、神の国を受け継ぎません。」
(5 章 19-21 節)
日常生活を振り返ると、私たちの心は常に、聖パウロの言う「『霊』の結ぶ実」と「『肉』の業」
を行ったり来たりしていることに気付きます。今日の一日の動きを、心静かに座り、祈りのうちに
振り返ってみましょう・・・。
「『霊』の結ぶ実」には感謝の祈りをささげ、
「『肉』の業」には回心
の恵みを願います。私の心の動き、人々の心の動き、家族の中の動き、教会の中の動き、ご近所の
動き、社会の動き、世界の動き・・・。私たちは、「『霊』の結ぶ実」と「『肉』の業」を、確かに
-1-
行ったり来たりしていています。その行ったり来たりは、私たちの内側から出て来るものであった
り、外側からやってくるものであったりと、そのかたちも、また動き方も千差万別です。それらの
実りと業とについて、祈りのうちに、もっとよく注意をしてみてみると、感情、心、身体などの、
私たち人間がもつ様々な自然の動きとともに、
「『霊』の結ぶ実」の背後には聖霊の動き、
「『肉』の
業」の背後には聖霊とは反対の動き、があることに気がつきます。普段、私たちの日常生活では、
それらの様々な動きに対しては、さほど関心と注意とを意識をもって向けられてはいないでしょう。
無意識のうちに上手く処理されていたり、あるいは何となく、グレーゾーンの狭間に均衡が保たれ
たりしていればまだよいのですが、困ったことには、それらの諸々の波間に知らぬ間に、私たちが
無意識のうちに翻弄されてしまっている場合も多いのです。特に、人生の途上の大切な出来事や、
職場や共同体における大事な方向性などを決めていく時に、その行ったり来たりの動きを、個人の
レベルでも、共同体のレベルでもきちんと意識され、適切な識別を持たれていればよいのですが、
それがなされていない場合には、誤った理解と判断を下し、知らず知らずのうちに、神さまのみ心、
共通の善とは反対の方向に進んでいってしまう危険性もあるのです。その結果、意識されず、識別
されず、知らぬ間に蓄積されてきてしまった負のエネルギーは、ある時に、突然の個人的なレベル
での崩壊、共同体の緊張、社会的レベルでの爆発、地球的規模での破壊など、様々な形でその姿を
現し、私たちはその代価を精算しなければならない時もあるのです。
もちろんイエスさまは、私たちすべてのものに対する神さまの愛と慈しみのゆえに、すべての負
のエネルギーと結果でさえも、ご自分の十字架上での捧げをもって精算され、新たな復活の生命と
聖霊の息吹とを、私たちの罪のゆるしと新しい人生の出発をために不えて下さいました。しかし、
だからこそ、今もその世界中の負のエネルギーを、時と空間を超えてその身に背負ってくださり、
新しい愛とゆるしの世界、神の国の愛と救いをこの世界に不えよう、広げようとされるイエスさま
に従い、わたしたちもイエスさまの協力者、キリストの弟子として日々を歩もうとしているのです。
そのためには私たちも、イエスさまがこの地上における御父から頂いた使命をまっとうすることを
助けてくださった弁護者、協力者であるお方、聖霊を、頂かなくてはならないのです。私たちは、
聖霊の助けなしに、キリストの弟子として、この世の中を歩んでいくことはできないでしょうし、
御父から頂いている神の国の無限の恵みと救いを、聖霊が結んでくださる「愛、喜び、平安、寛容、
親切、善意、誠実、柔和、節制」の実りのうちに、人々と分かち合っていくことも難しいでしょう。
聖霊の導きと助けを、常に祈り求めましょう。
「 『霊』の導きに従って生活しなさい。そうすれば、けっして「肉」の欲望を満たす
ことはありません。」
(ガラテアの信徒への手紙 5 章 16 節)
この聖パウロのことばは、私たちが「聖霊の導き」のうちにあるならば、その聖霊が、私たちの
うちに結んで下さる「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の実りのうちに、
戦争、利己主義、孤独、断絶などの様々な「肉の業」とその壁にも打ち勝つように助けてくださり、
多くの人々とも、この世の中をさらに良いもの、神の愛と救いに満ちたものにしていけるという、
彼自身の信仰における確信からくることばです。その信仰とは、もちろん、ご自身の十字架と復活
の業を通して、すべての肉の業と世の罪、悪にも打ち勝ち、私たち、そしてすべての人々を、その
神さまの愛と救いへと招き入れて下さる救い主との出会い、イエスさまへの確信です。イエスさま
は、地上を旅する私たちにも、聖霊の導きのうちにその実りと武具とをもって、平和のうちに歩み
なさいと励まされます。
「
勇気を出しなさい。わたしは既にこの世に打ち勝ったからである。」
(ヨハネによる福音 16 章 33 節)
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カトリック磐田教会報
2010 年
5月 第9号
ご復活の朝、聖堂で…
『わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは
彼らを知っており、彼らはわたしに従う。』
市岡 之俊
「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、誰も彼らをわたしの手から奪うことは
できない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、誰も父の手か
ら奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」(ヨハネ 10・27-30)
父である神さまは、とてつもなく大きなお方です。わたしたちには考えられないほど大きなお方
です。宇宙万物を創り、それでいて、すべての生きとし生ける小さな命にまで、ご自身の命をかけ
て護られる大きなお方です。罪のうちに滅びることなく、「永遠の命」に生きられるように、父で
ある神さまは、その愛する御子イエスさまを、わたしたちに送ってくださいました。そして、その
大きな父である神さまの愛のうちに、イエスさまの呼び掛けを聞き、従っていくことが召命です。
この召命ということば、広い意味においては、神さまから創られたすべての人間に与えられている
ものであり、またイエスさまの声を聞き分けるキリスト者のものでもあります。そしてその意味が
だんだんと狭くなっていくと、信徒、修道者、そして助祭、司祭、司教ということになります。
この春、横浜教区では、助祭としての最終学年を終えた2人が、無事に神学校を卒業しました。
藤沢教会出身の宮内毅助祭、そしてベトナム出身の卜ゥ(Ha-Minh-Tu)助祭です。宮内毅助祭は、
4 月 29 日、藤沢の聖園学園において梅村司教さまから、司祭叙階の恵みを受けます。卜ゥ助祭は、
5 月 25 日、ベトナムのフー・クォン(Phu-Cuong)教区にあるカトリック・センタ-において、ペ
トロ・トラン・ディン(Tran-Dinh-Tu)司教さまから、司祭叙階の恵みを受けます。それぞれの新
司祭の出発のために、どうぞみなさまのお祈りと祝福をよろしくお願いいたします。
-1-
教会報
『主のご復活の喜びを申し上げます。
』
2010 年
4月 第8号
市岡
之俊
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」(ルカ 24・25-26)
エマオに向かう弟子たちは、途中から一緒に近づいてきた旅の男が、復活をされたイエスさまで
あることにはまったく気づかず、トボトボと歩いています。自分たちが裏切り、殺されることをも
ゆるしてしまったイエスさまの十字架の出来事を、ただただ後悔し、分かち合いながら、暗い顔を
して歩いていました。その2人の話しを聞いていたイエスさまは、ため息まじりに思わず話しかけ
られます。
「十字架の苦しみを受けて、必ず復活する・・・十字架は輝くといったではないか・・・」
と弟子たちを諭されます。私たちも、十字架の出来事のみに目が奪われてしまい、その背後にある
神の救いの計画、復活の力には目をむけない時があります。
この春、カナダのバンクーバーにおいて行われた冬季オリンピックでは、世界中の人々が、心を
踊らせました。特にフィギア・スケートの部では、アジア勢の活躍も目覚ましく、浅田真央さんと
キム・ヨナさんの2人のライバル対決は、日本をも韓国をも、大きな熱気で巻き込みました。横浜
教区にいる韓国の神父さんは、
「私はもちろんキム・ヨナ選手を応援する」と宣言をしていました。
その結果みなさんもご存知の通り、キム・ヨナさんが金メダル、浅田真央さんが銀メダル、そして
カナダ、日本の選手たちと続きました。その中で、決勝前のインタービューにて語られた、2人の
メッセージには、少し違いがありました。浅田真央さんからは「金メダルがどうしてもほしいです」
という言葉が何回も語られていました。キム・ヨナさんからは、「誰が金メダルをもらうかどうか
については、神さまが決めること。私はベストを尽くすだけです」というようなメッセージが告げ
られていました。両選手とも、スポーツ界だけからではなく、国家をあげての応援から受けるその
プレッシャーには、いかばかりかのものがあったのでしょう。精神力や体力、技術力、運をかける
ことだけではすまされない、常人ではとても考えられないプレッシャーがあったことでしょう。
キム・ヨナさんは3年前、韓国のカトリック教会
において、お母さんと一緒に洗礼を授かりました。
この春にも、磐田教会、掛川教会、そして日本中、
世界中の教会で、たくさんのキリストにおける兄弟
姉妹たちが生まれます。いろいろな理由があったの
でしょう。あるいはまた、神さまに向かうこと以外
には、他に何の理由もなかったのかもしれません。
南米のサッカー選手たちがそうするように、競技に
向かう前にはキム・ヨナ選手も、胸に十字をきって
いました。
「金メダルがほしい」
・・・どのような選手であれ、
誰もが願うことです。同時にまた、誰もがこの目標
に向かっていくためには、その十字架をも背負って
いく覚悟が必要です。それを一人だけで、自分一人
カナダ・バンクーバーの春
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の力だけで、背負っていくというのでしょうか?十字架は十字架として受け取らねばなりませんが、
エマオに向かう弟子たちのように、十字架の出来事だけに目を奪われ、背後にあるもっと何か大切
なものを見失ってしまう恐れもあります。あるいは神さまのうちに、すべての人々とともに一緒に
歩み、十字架を背負っていくのでしょうか?ライバルも一生懸命に頑張っています。背負っている
十字架を一度、イエスさまの十字架と復活の秘儀のもとに一緒におき、ともにメダルを求めながら
自分もベストを尽くし、その神さまの広がりのうちに、誰かが、金メダル、銀メダル、銅メダルを
受けることになる。。。このような余裕を心にもっているということは、プレッシャーの中にあって
も、かえって自分の中に、また回りの人たちに対してさえも、その人だけにしか与えられていない
可能性と力とを、より発揮させてくれるものとなるでしょう。モンテッソーリの教育理念にもある
ように、すでに神さまから与えられている限りない可能性とは、自己から他者、神さまへと向けら
れていく中で、より開かれた、より深められたものへと実現されていくのです。それは科学的にも、
臨床的にも、立証されることでしょう。宗教的な言い方をするならば、自分だけで、独りよがりに
がんばっていく生き方から、神さまが働いてくださるスペースをきちんと大切に守りつつ、隣人と
ともに、その恵みと祝福を分かち合いながら歩んでいく生き方への転換、回心のプロセスなのです。
現代の日本社会は、何かの過渡期、転換点にあるように思います。高度成長期からこれまでにも、
「○○がほしい」「○○を目指して」といって進んできたような精神論、物理的な動きだけでは、
決してすまないような時期にきているように思います。現在、お隣の韓国、中国も、ある意味での
高度成長期の時代にあるといってもよいのでしょう。しかし、これまでの日本の成長の仕方とは、
すこし異なっているところがあります。中国や韓国の成長が、キリスト教や仏教などの宗教の強い
影響とともにあるということです。中国においては、現体制のもと、精神的、霊的なものに対する
強い乾きが見受けられ、その反面、キリスト教への入信とその人口の増加には、著しいものがあり
ます。また歴史的な傷、北朝鮮との民族分断という、国家としての大きな十字架を抱えている韓国
では、仏教界とともにキリスト教会に対する信頼と信仰には、文化的にも政治的にも、とても強い、
深いものがあります。日本において私たちの心の中には、神さまが十分に働いてくださるスペース
をもつことが、本当にゆるされているのでしょうか?私たちの心が、「○○がほしい」という発想
から、「○○がほしい」ということの背後に働く大きな存在と力とに対して、もっと開かれていく
転換と回心とが、社会的にもより必要とされている時にきているのではないでしょうか?浅田真央
さんとキム・ヨナさんのメッセージの相違には、今日の日本が直面している、これから歩むべき、
一つの方向性が示唆されているように思います。
4年後、ロシアのソチで行われる冬季オリンピックにおいては、浅田真央さんもまた、他の選手、
キム・ヨナさんたちとともに、もう一回りも、もう二回りも大きくなって、神さまの恵みと働きの
うちに、より力を発揮し、ベストを尽くすことができますように。そしてまた、復活の金メダルを
期待して祈っています。
咲きほこる満開の桜 日本の春
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教会報
2010年
3月 第7号
インド・カトリックアシュラムの祈りの朝
『 父よ、祈り、節制、愛のわざをあなたにささげます。
灰を頭に受けたわたしたちが、自分に頼るのではなく、
いのちであるあなたに信頼して生きることができますように。
私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。 』
(灰の水曜日・共同祈願の祈願文より)
『四旬節を迎えて』
市岡
之俊
四旬節がはじまりました。イエスさまの十字架と復活の秘儀を黙想し、私たちに与えられた神さまからの
救いと恵みをあらためて思い起こし、心からの感謝と祈りを捧げる時です。また、私たちの信仰生活を振り
返り、一人ひとりの生き方、家族、教会共同体のあり方、社会の状況、世界の動きが、神さまのみ心と愛、
正義と慈しみとに、きちんと沿ったものになっているか、あるいは遊離したもの、反対したものになっては
いないか、心から吟味し、神さまのもとへと立ち返る時であります。
「回心」とはまさに字のごとく、心を回し、自分中心の世界から神さまの方へと向き直り、新しい出発を
することです。神さまの愛と慈しみ、光、ゆるしに気がつき照らされて、
「このような暗闇、罪をもった私、
私たちでさえもゆるされ、愛されているのだ・・・」
。その神さまへの感謝のうちに心は新たにされ、本当の意
味での「改心」「悔心」
、つまり心を悔い改めることが可能となるのです。
*
*
*
この四旬節の季節、少し静かな祈りの時間をもって、振り返る時間を持つように努めましょう。
キリストの弟子として、イエスさまとともに、神さまのみ国のために、今、私、また私たち共同体は、どの
ように歩んできたのか、どのように歩んでいるのか、またどのように歩もうとしているのか・・・
1.個人(私自身)として
2.共同体(家族、教会、学校、職場、地域)において
3.人間関係において
4.社会(自然・世界)との関わりにおいて
個人、家族、共同体、社会のうちに潜む、エゴイズムと悪、自己中心の世界から、創造物の本来の目的と
調和の姿をもった、信仰と希望、愛、平和に基づく、神中心の世界へと、向きを変えていくことができます
ように。灰の水曜日から始まった、私たちの四旬節の祈りが、すべての人にもたらされる主の十字架と復活
の救いと喜びを、より多くの人々に分かち合っていくものとなりますように。そのためにもまず私たちは、
様々な教会で行われている黙想会、十字架の道行き、ゆるしの秘蹟などにも積極的に参加し、個人としても、
共同体としても、祈りと行いを通して、その準備をしてまいりましょう。
1/2
大陸横断鉄道の寝台車内のこども
チャンナイからの鉄道
祈りのインドから
感じてください・・・
フェリックス神父様(中央・シモガ教区)と
ノルベルト神父様(左・イエズス会)と
インドの子どもたち
デカン高原の夕暮れ
高原を走る大陸横断鉄道
*市岡神父さまがお話してくださる新興国インド。その中で、まだこの国が大切にしているもの・・・今月の教会報に散
りばめた写真から感じられるような気がします。神父さまには、写真を提供していただきありがとうございました。
2/2
教会報
2010年
2月
第6号
―
『陽だまりの中で』
市岡
之俊
寒い冬の日、縁側の窓際に、柔らかな太陽の日差し、ポカポカと降りそそぐ暖かな日の光の中で、
ひと時を過ごしたことはありませんか?「あれはいつだったのだろう・・・?」
「最近?いやーっ、
このところいそがしくて・・・。はるか遠い昔だったみたい・・・。」そのいそがしさは、私たち
が生きるためには受け入れていかなくてはならない、現実のものであるのかもしれません。しかし、
その忙しさが読んで字の如く、「心を亡くす」ものであるとしたならば、それは折り返し地点の時
にあるのかもしれません。
昨年の 2009 年を振り返って、いろいろと反省をしたことがあります。世界的な経済不況、生活
不安の中で、さまざまな支援、共同体の活動、学校、福祉、建設など、それらはまさに神さまから
私たちが頂いている協働の恵み、分かち合いでもあります。しかし同時に、それらどこかで私たち
人間の弱さと混じり合って、
「心を亡くしてしまう」ような状況を作り出すことはなかったかと・・・。
2010 年を歩みながら、寒い冬の日にも暖かく降りそそぐ、この太陽の日差しのような神さまの
愛の暖かさを、心に決して忘れることがありませんように。イエスさまが十字架につけられるまで、
その最後に至るまで守ろうとしたものは、すべての人の上に降りそそぐ、この神さまの愛の暖かさ
と慈しみであったのではないでしょうか?
『主は
羊飼いとして
群れを養い、
御腕をもって集め、
小羊をふところに抱き、
その母を導いて行かれる。
』
(イザヤ書 40 章 11 節)
インド・コモリン岬
カナダ・グエルフ黙想の家
『天の父は、
悪人の上にも善人の上にも
太陽を上らせ、
また、正しい者の上にも、
正しくない者の上にも
雨を降らせてくださるからである。』
(マタイ 5 章 45 節)
カトリック磐田教会報
2010年1月 第5号
新年、明けましておめでとうございます!
2010 年も、主の祝福、恵み、平安に満たされた1年でありますように!
Blessing, Grace, and Peace of the Lord be yours through 2010! 市岡
之俊
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
May the Lord bless you and keep you.
主が御顔を向けてあなたを照らし
あなたに恵みを与えられるように。
May the Lord let his face shine on you
and be gracious to you.
主が御顔をあなたに向けて
あなたに平安を賜るように。
May the Lord uncover his face to you
and bring you peace.
民数記6章 24-26 節
Numbers 6.24-26
2009年度の『現代用語の基礎知識』選、新語・流行語大賞に、
「政権交代」が選ばれました。
その他トップテンには、「脱官僚」「事業仕分け」などの「政権交代」に関連することばとともに、
「新型インフルエンザ」「派遣切り」などの、現代の世相を反映したことばも選ばれていました。
アメリカのオバマ政権発足時にアピールされたことば、
「変革−チェンジ」にも象徴されるように、
日本、世界における様々な危機的状況の中で、国内外における「新しさ」
「変化」が強く求められた
2009年でもありました。
そのような「新しさ」「変化」への、人々の強い
期待と希望がある中で、それらがけっして表面的
なもの、見せかけのものだけに終わらないように
するためにも、また真の変革がもたらされるため
にも、私たち自身が1人ひとり、日々霊的に新た
にされていくものでなければならないでしょう。
聖パウロは、『古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新た
にされて、真の知識に達するのです』とも言って
います(コロサイの信徒への手紙3章 9-10 節)。
フランス・クリュニー 「テゼの丘」
-1-
まず、神さまだけがもたらすことのできる「祝福」と「恵み」、「平和」を、心から神さまの前に
ひれ伏して、謙虚に願い求めていかなくてはならないでしょう。そのような意味で、旧約の時代に
モーセが、イスラエルの共同体のために主の祝福と恵み平安を願い、共同体の上に祈り求めている
姿は、イエスさまが今も私たちの上に願い求め、祈っていてくださる姿であり、また同時に私たち
もキリストの弟子として、人々のために祈っていかなければならない姿であるでしょう。
このモーセの祈りは、1月1日の元旦の「神の母聖マリア」、「世界平和の日」のミサのうちに、
世界中の教会において、第一朗読、旧約聖書の民数記からのみことばとして読まれます。すべての
3つの祈りが、「主が」、
「主が」、「主が」と、3回も「主が」と親愛をこめて呼びかけられる祈り
から始められています。私たちが生きるのに必要な「祝福」、「守り」
、「恵み」
、「光」、「平和」も、
それらのすべてがまず、主から与えられるものであることがはっきりと現されているのです。
新しくこれから始まる2010年が、本当に神さまから与えられる「祝福」と「守り」、
「恵み」、
「光」と「平和」に満たされた、喜びの一年でありますように。またイエスさまの愛と救い、喜び
が、世界中の人々、社会、共同体、家庭、そして私たち自身一人ひとりの上にもいつも豊かにあり、
心からの祈りをもって分かち合っていくことができますように。
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カトリック磐田教会報
2009年12月
第4号
『主は来られる、すぐに来られる・・・。』
アドベントゥス - 待降節を迎えて
市岡
之俊
『主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう』
( ルカによる福音書 1 章 45 節 )
聖母マリアは急いで山里に向かいます。親戚のエリサベトが身重になり、そのお手伝いをするた
めでした。エリサベトのお腹には、後にイエスさまの人生とも深く関わることになる、洗礼者ヨハ
ネの赤ちゃんが宿っていました。遠くからやってくるマリアさまの挨拶を聞いたとき、その胎内の
子が踊りました。聖霊に満たされたエリサベトは、声高らかにうたいます。「あなたは女の中で祝
福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに
来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の
子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」
(42-45 節)
聖母マリアの生涯とその使命は、まさに驚くことの連続でした。天使ガブリエルは聖母に現われ
こう告げられました。
「あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その名をイエスとつけなさい。」
(1章 26-38 節)。マリアさまは驚いて応えます。「どうしてそのようなことがありえましょうか。
わたくしは男の人を知りませんのに・・。」天使は優しく語りかけられます。
「聖霊があなたに臨み、
いと高きおん者の力があなたを覆うでしょう。それゆえ、お生まれになる子は、聖なるもので、神
の子と呼ばれます。あなたの親戚エリサベトも、年寄りでありながら男の子をみごもっています。
うまずめと言われていたのに、はや六ヶ月になっています。神には、何一つおできにならないこと
はないからです。」マリアさまは応えます。
「わたくしは主のはしためです。おことばどおり、この
身になりますように。」
実は、私たちの心の深みにも、神さまからの私たちに対する望み、使命が語られているのです。
しかしその神さまからの大切な語りかけも、私たちから①「忘れさられてしまっていたり」、②「聞
かれていなかったり」、③「否定されてしまったり」
する場合も多いのです。特にそれは、マリアさまも
体験されたような出来事、①「とても意外なこと」、
②「信じられにくいこと」、③「実現が全く不可能
のようなこと」などに、私たちが出会うようなとき
にです。私たちの心の中には、また望みの中には、
神さまの望みも隠されているのです。時には浅い、
表面的な言葉や思いの中にも、時には深い、深層心
理の中にでも、神さまのみ心は隠されているのです。
しかしそれでさえ、無意識の中に埋もれてしまって
いたり、否定されてしまっていたりする場合もまた
多いのです。
-1-
心のうす紙を、一層、一層、はがしていくかのように、あるいは突然、飛行機に乗っている時に、
太陽の光がオレンジ色に幾つにも重なる雲の層を突き抜けて照らしわたるように、私たちの何層に
も重なる心のうちにも、神のみ心は照らし渡っているのです。注意深く、探し当てていかなければ
なりません。心に聴いてみなければなりません。
神の子を産むという神の偉大な計画を聖霊に告げられ、その使命を受け入れられたマリアさまを、
主のみ心を受け止め、救いの業の実現に「はい」と協力されたマリアさまを、エリサベトは「幸い
な者」と呼びました。心の深みに呼びかけられる声、神さまの救いの業への協力を呼びかけられる
声は、私たちすべての人間の心に渡って響いています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると
信じた方は、何と幸いでしょう」と、マリアさまがエリサベトから語りかけられたメッセージは、
私たち1人ひとりに対しても呼びかけられている招きのメッセージでもあることに気づくのです。
-2-
カトリック磐田教会報
11月22日「王たるキリストの祭日」
− 教会の1年の終わりと始まりの時を迎えて
2009年11月
市岡
第3号
之俊
『王たるキリストの祭日・・・1 年の教会の終わりと始まり』
「王たるキリストの祭日」の週をもって、教会の1年は終わります。通常の私たちのカレンダー
よりも、いつも約1ヶ月早く年の終わりを迎えるのです。そして次の週には、御子の誕生の期待を
もって、待降節を迎えます。新たな教会の1年がスタートするのです。王たるキリストの祭日に、
私たちは、世の終わりの時に訪れる救いの完成を黙想し、またそれに向かう教会の使命と時の流れ
の中で、また新たな1年にも生まれくる救いの恵みとご計画のしるしに期待をしつつ、感謝のうち
に待降節を迎えます。
『2教会、3教会に1司祭の時代の始まり』
この磐田、掛川教会への任命を私が頂いてから、2回目の教会カレンダーでの新しい年を迎える
ことになりました。磐田教会はバルビエ神父様、掛川教会はソビオン神父様と信徒の方々とともに
創立され、途中に掛川教会にはラネール神父様とともに、1教会に1司祭の恵みのうちに、歩んで
こられました。そして、本柳神父様の短い期間ではありましたが、両教会への主任司祭代行の時を
経て、昨年春より私が正式な任命を頂いて、2教会に1司祭の時代が始まりました。
最初は両教会のみなさまも、大変であったと思います。もちろん私も司祭として、戸惑いがあり
ました。何せ、信徒の方々にとっても司祭にとっても、2教会で1司祭という体制と体験は初めて
のことであったのですから…。横浜教区では、静岡県の範囲だけでもお隣りの鷺の宮、三方原教会
では高野神父様、焼津、島田教会では高橋神父様、富士、富士宮教会では岩間神父様、沼津、三島、
熱海教会ではソン神父様と、2教会、3教会において1司祭という体制がうまれ、神奈川県を始め
とする教区内の他県内の教会も同様の状況となってきています。それでも新しい司祭の召し出しに
は恵まれている横浜教区なのですが、もっと厳しい状況下にある教区も数多くあります。将来は、
横浜教区が他の教区を助けなければならない状況もくるでしょう。同時に昨今、多くの若手司祭が
この静岡県に任命されてきたことは、パリミッションの神父様方が、まだ若かりし頃、多くの困難
やご苦労を重ねながら、この静岡県の地にフランスの信徒の方々の多大な援助を頂きながら、教会
を建てられた頃を思い感謝し、そのご恩に報いていくことができるためにも、その神父様方に育て
られた私たち教会の邦人信徒、司祭たちが、今度は自分たちの教会を、自分たちの手で立てながら、
できれば他の教会、他の地域、国々への宣教にまで及んでいくことができるようにと、その準備の
時が始まったことを感じさせるものです。特に、この西部地区での教会の子どもたち、そして地区
レベルで始まろうとしている青年会は、教会のみなさま方の賜物でもあり、同時にこれからさらに、
先輩方のみなさまに励まされ、信仰の力と恵みの分かち合いを必要としていく宝でもあります。
『現在の磐田教会・掛川教会』
そのような中、教会のある方から、どのような経緯と方針をもって、これまでの1年間半を過ご
してきたのか、現在はどのような方向性をもって共同体が動いているのか、そしてこれからの展望
を分かち合ってくださいとの強いご要望を頂きました。ちょうど教会のカレンダーの、1年の計の
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時期にもあたり、また特にこの磐田、掛川教会においては、2教会で1司祭となった2008年の
春から、どれほどに多くの方々からのお祈りと支え、ご協力を頂いてくることができたのか、あら
ためて感謝のうちに振り返るよい機会ともなります。特に次のような委員会活動の軌跡のもとに、
両教会のみなさまが、直接的にも、間接的にも、その神さまからの恵みと働きに応答、ご協力して
くださったことがよくわかります。
[磐田教会]
① 新創設 −『典礼委員会』・『教会学校委員会』・『広報委員会』(教会便りとホームページ)
『外国籍信徒委員会』・『フィリピン共同体委員会』
『ブラジル共同体委員会』
② 再発足 −『財務委員会』
③ これからの創設予定(仮称)
『青少年委員会』(西部地区青年会、サマーキャンプなどのサポート)・
『教会ビジョン委員会』(磐田教会の共同体の歴史、現在、将来のビジョン
などを十分に見据えていく。将来に予想される大規模修繕などに対しても、
建物の建築などからではなく、その計画の是非についても、生きた共同体
のビジョンと成長、コンセンサスから出発、識別、判断できるようにする)
[掛川教会]
① 新創設 −『典礼委員会』・『教会学校委員会』・『外国籍信徒委員会』
『フィリピン共同体委員会』・『ブラジル・ラテン共同体委員会』
② 再発足 −『建設委員会』(2008年8月より約1年の期間、掛川教会ビジョンの策定
を計画・実施する)
③ これからの創設予定(仮称)
『マリア会』(婦人会)
『青少年委員会』(西部地区青年会、サマーキャンプなどのサポート)
同時に、両教会では磐田聖マリア幼稚園、掛川聖マリア保育園との大切な一致と交わり、協力、
磐田教会では小さき花、レジオマリエ、テレジア会などの活動グループ、掛川教会では建設委員会
のみなさまが関わってくださった、教会ビジョンのための多くの黙想会や研修会などがあります。
また両教会において月に2、3回、水曜日の午後、晩、木曜日の午前にそれぞれ3回開かれている
キリスト教講座では、毎週、計50名ほどの方々が熱心に参加され、みなさまの信仰と分かち合い
を伺う度に、心からの感動を頂きます。
昨年春に磐田、掛川教会に任命を頂いてから、わたしはいつもみなさまのからの励ましとお祈り、
ご協力を頂きながら、それ以上にみなさまからの共同体への熱い思いと信仰、希望の力をつぶさに
感じてまいりました。それは、諸先輩の神父様方と信徒のみなさまが培ってこられた信仰の歴史で
あり、また賜物でもあります。また同時に、磐田、掛川教会が現在に直面し、将来の世代にむけて
準備していかなければならないこともあるでしょう。青少年の養成、そしてこの地域に住む、その
多くがカトリック信徒である外国籍の方々についても同様です。特に現在、日本のカトリック教会
の日曜学校や中高生会の何割かは、もうすでにどちらかが外国籍の親御さんをもつ家庭のお子さん
であるという事実があります。磐田教会、掛川教会も、まったくそのような現実におかれています。
カトリック司祭の役割も、昨今、今までの日本のカトリック教会にはなかった宣教、司牧の現実に
直面しています。同時に信徒のみなさまも、これまでにはなかった、新しい日本の教会の現実に、
直面しているのです。抽象的な説明とならないように、磐田、掛川教会において、私が司祭として
働かせて頂いている中で、特に具体的に新しい現実と感じていることについて、分かちあわせて頂
きたいと思います。
『2教会に8つの共同体』
現在の共同体の状況は磐田、掛川両教会に、実質的には8つの共同体が存在していることになり
ます。日本語を中心とした日本人を主とする両教会の2つの共同体のほかに、英語、タガログ語を
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中心としたフィリピン人を主とする共同体が計2つ、ポルトガル語を中心としたブラジル人を主と
する共同体が計3つ、そしてスペイン語を中心とした南米からの人々を主とする共同体が1つあり
ます。両教会にあるそれぞれの各国語の共同体は、独立した各国語委員会をもち、月に1回は必ず
委員会会合を開いています。そこでは各国語共同体の洗礼や初聖体、堅信の準備、キリスト教講座
や不況にあえぐ人々への生活支援などの活動の計画、識別、連絡などを、それぞれの各教会内だけ
で行っていくだけでなく、他の地区の教会、地域との関わりなどをも念頭に置きながら進められて
います。さらに磐田、掛川教会のそれぞれの小教区教会委員会への参加だけでは、時間も限られて
おり、十分な話し合いもできないので、それぞれの教会では、月に1回の外国籍信徒合同委員会も
持たれており、各国語共同体の協力、連絡、調整などが行われています。そこでは司祭だけでなく、
むしろ両教会の多くの日本人信徒の方々の協力と働きがあります。8つの共同体を司祭1人だけで
ケアすることは到底不可能なことであり、共同体の在り方としても、決して望ましいことではあり
ません。特に昨年秋からの、リーマンブラザースの破綻に端を発する世界経済不況の波を、もろに
受けたこの静岡西部地区ですが、その影響がもっとも深刻な外国籍の人々に対して、特にその大半
はカトリック信徒でもありますが、教会の方々が捧げられた献身的な支援活動には目を見張るもの
があります。磐田、掛川両教会における信徒のみなさまの、信徒使徒職としての信仰の力と行いの
発揮には大いに励まされ、心からの感謝を、いつもミサと日々のお祈りのうちにささげています。
『静岡聖母学園・聖母福祉会・静岡中西部地区フィリピン共同体』
横浜教区から私に対する正式な任命として、静岡県下カトリック幼稚園13ヶ園をもつ学校法人
である静岡聖母学園、同じくカトリック保育園7ヶ園と社会福祉施設1ヶ園をもつ福祉法人である
聖母福祉会における、それぞれの理事職の任を頂いています。これまでにもパリミッションの神父
様方によって、各教会と一体となった宣教の礎として築き上げられてきた各園も、今はこの2つの
学校、福祉法人のうちに、互いに助け合いながらその歩みを守っています。各教会も、各園と一体
となってともに歩んでいますが、静岡聖母学園理事長の梅村昌弘司教様、聖母福祉会理事長の静岡
教会主任司祭の林健久神父様を補佐しながら、教会側の理事としては特に、静岡県西部地区の各園、
各教会との関係を大切にしていくことが求められています。磐田、掛川の両教会のみなさまにも、
特に、磐田聖マリア幼稚園、掛川聖マリア保育園を、教会の大切な兄弟姉妹、宝物として見守り、
これからも共に支え合って歩んでいくことができますように、ご協力をお願いいたします。
そして今年度の7月からは新たに、静岡中部、西部地区におけるフィリピン人宣教司牧の責任者、
担当モデラトールとして、その任を司教様から頂くこととなりました。その範囲として、東は静清
地区にある蒲原、清水、静岡教会、志田・榛原地区の焼津、藤枝、島田教会、そして西はこの西部
地区の掛川、磐田、浜松教会のフィリピン共同体にまで及ぶ、広大な範囲のものとなっています。
教区からアシスタントとしての正式な任命を受けられた、静岡の天使の聖母宣教修道女会のフィリ
ピン人、シスター・シルビアがサポートをしてくださることになっています。浜松にあるスピノラ
修道女会のフィリピン人、シスター・ニルダからも協力を頂けることになっています。静岡県下の
スペイン語圏の方々のモデラトールは、清水、草薙教会のアルベルト神父様、アシスタントとして
浜松教会の山野内神父様、そしてブラジル人担当のモデラトールは、浜松教会のオズマール神父様
となっています。今後とも、磐田、掛川教会におけるブラジル、ラテン共同体へのご協力を頂ける
ことになっています。特に、キリスト教国である欧米とともに、カトリック国であるフィリピン、
ブラジル、ラテンの国々などの人々からも、私たち宣教国である日本の教会は、神学的にも、また
生活や社会、祈り、カテケジスの実践などにおいても進んでいるその先輩国の教会から、たくさん
の学べることがあります。同じ信仰をもつ兄弟姉妹として、また私たち教会の信仰の先輩としても、
それらの人々とともに学び、信仰を分かち合いつつ、お互いに歩んでいくことができますように、
みなさまのご協力とお祈りとをよろしくお願いいたします、
『小さな分かち合い』
このような中、私が日頃、個人的に感じている小さな十字架を、1つだけ、分かち合わせて頂き
たいと思います。みなさまの中にも、同様に感じていらっしゃる方も、おられるかもしれません。
やはり2つの教会に1人の司祭ということについてです…。休日も平日も、2つの教会の行き来と
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ともに、これまでにも述べましたような働きも求められています。磐田、掛川、西部地区の教会、
静岡県内の法人、フィリピン人担当の働き、横浜での担当など、車だけでの移動も、一週間に平均
300km位の走行となります。土曜日の朝だけは少なくとも、移動と活動に流されないように、
共同体のみなさまへの霊的な奉仕の要として、ミサの準備と説教のまとめなどの時間として、沈黙
の祈りの時間を守り、必ずキープするように努めています。しかしそれでも、午前中の半日は、朝
早くから一方のA教会において通常の1日分の用事や行事、ある時には共同体にとってももっとも
大切な冠婚葬祭の祈りと典礼、昼間は西部地区や静岡県内での会合や諸活動、病院訪問やお見舞い
などに、夕方には他方のB教会に帰ってからの通常の1日分の用事や行事、そして夜遅くになって
からの相談、結婚講座や各種講座、原稿書きや会合、講座への準備などは深夜にまでなってしまい
ます。しかし、それでも時間が足りないというような状況が休日、平日と続いてしまう場合が多く
あります。その日の前半は、A教会において1日分のさまざまな委員会や行事を半日で終えてくた
くたになっていますが、その日の後半はB教会に向かい、また新たに最初から、1日分の始まりと
いうことが多々あります。横浜の山手教会や菊名教会で働いていた時代以上に、責任と働き、仕事
量の大きさを感じます。これまでにも多くの教会でそうであったように、もし1つの教会に1人の
司祭のみが任命されている場合には、司祭も信徒の方々も一日中一緒にいるので、その働きが相互
に理解できます。午前中忙しく、みなが疲れていることが共同体でお互いにわかれば、
「みなさん、
このことはもう来週にしましょう」、あるいは「神父さん、もう他の時、他の方法を考えましょう」
ということが言えるでしょう。しかし、2つの教会に1人だけの司祭が任命される場合、お互いの
時間と場所を共有、認識できることは半分となってしまいます。お互いに気がつかないでいると、
自然に、これまでの1つの教会の1日分の働きがあるとすると、2つの教会となってからも両方の
教会における1日の働きの量は変わらず、むしろ1日分を圧縮した形で休憩もとらず、実質的には
2日分の働きをしてしまうようなこともあります。司祭の側も気をつけてはいるのですが、やはり
共同体のみなさんのご理解とご協力のうちに、このような状態に陥ることが避けられているように
思います。
従来までは磐田教会、掛川教会も、日本人の共同体が主となっている中で、それぞれの教会に、
司祭も1人ずつの任命を頂いていましたが、現在は外国籍のカトリック信徒の数も爆発的に増え、
日本語、英語、スペイン語、ポルトガル語の8つの共同体に1人の司祭となっています。この地区
でも外国籍信徒のもっとも多い浜松教会には、やはり日本、フィリピン、ブラジル、ラテンの4つ
の共同体がありますが、3人の司祭が常駐しています。私もできれば、助任の司祭をお願いしたい
ところであるのですが、司教様からは現在も最大限のバックアップを頂いていますし、浜松教会の
神父様方からもスペイン、ポルトガル語のミサのお手伝いを頂いていますので、それ以上のことを
望むことは難しいでしょう。私もまだ若手の司祭に属するとはいえ、2教会における8つの共同体
以外に、静岡県下や教区の他の仕事も加わってくることとなると、やはり体力的にも、精神的にも、
霊的にも、限界というものを感じ始めることになります。この春には、司教様から別の仕事のお話
を頂きましたが、これまでの事情をお話して、ご理解を頂くことができました。しかしそれ以上に、
もっと大切なこととして、相談、病人のケア、事故やお葬式などに対しては、いつでも十分に対応
ができるように、司祭としては余裕をもってきちんと準備ができているように、優先しておきたい
ことがあります。すべての家庭を回ってほしいというある方のご意見も頂きましたが、2つの教会
にいらっしゃる急病や病人の方々、相談を待っておられるご家庭への訪問、緊急を要す苦境にある
外国籍の信者さんなど、お尋ねする方々をまず優先させて頂くことに精一杯で、それを望んでも、
なかなかすぐには適わない状況にあります。体がもし2つあったなら・・・と思う瞬間です。一方、
磐田、掛川の2つの教会に赴任してからも、相談や告解に来られる方が多いということも、望まし
いこと、司祭としてもとても感謝なことであり、できる限り応えさせて頂きたいと思っています。
しかし、そのための十分な時間がとれなくなる時もあり、そのような時は、本当に心苦しく、みな
さまに対して申し訳思います。
現在、長野の御聖体の宣教クララ修道会の黙想の家で、梅村司教様を囲みながら、横浜教区司祭
の年の黙想が行われています。これまでの1年半を振り返りつつ、みなさまのためにお祈りをして
います。新たなみことばと祈りの力、これからの宣教と司牧のために必要なインスピレーション、
ビジョンを頂いています。また帰りましたら、みなさまにもこの恵みを分かち合いたいと思います。
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カトリック磐田教会報
2009年10月
第2号
「山に登られたイエス」
市岡
之俊
イエスは祈るために、ペトロとヨハネとヤコブとを連れて、山にお登りになった。
祈っておられると、お顔の様子が変わり、衣は真っ白に輝いた。そして、二人の人がイエスと話し合って
いた。それはモーセとエリヤであったが、彼らは栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで成し遂
げようとする最期について話していたのである。ペトロと他の二人は眠くてたまらなかったが、はっき
りと目を覚ますと、イエスの栄光と、イエスとともに立っている二人の人とを見た。
この二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロはイエスに、「先生、わたくしたちがここにいるのは、
素晴らしいことです。わたくしたちは三つの仮のいおりを造りましょう。一つはあなたのため、一つはモ
ーセのため、一つはエリヤのために」と言ったが、自分でも何を言っているのかわからなかった。
ペトロがこう言っているうちに、雲が現われて、彼の上に影を落とした。彼らが雲に覆われたとき、弟子
たちは恐れた。すると、「これはわが子、われに選ばれたる者。彼に聞け」という声が、雲の中から聞こ
えた。この声がやんだとき、イエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守って、自分たちが見たことを、
そのころ、だれにも話さなかった。
(ルカによる福音書9章 28-36 節)
イエスさまは愛する弟子たちと山に登りました。何か必ず重要な決定事があるとき、また大切なこと
を祈るときに、イエスさまはよく山に登られます。そこで弟子たちは、驚くべき光景に出会います。
師であるイエスさまの姿が、衣が真っ白になるほどの光で輝いたのです。さらにそこには、彼らユダ
ヤ人にとってもっとも偉大な預言者、モーセとエリヤもいたのです。「わーっ・・・」、驚きのあまりに思考
回路のストップしてしまったペトロは、イエスさまとモーセ、エリヤの3人のために、それぞれに家をたて
ましょうと分けのわからないことを言いだします。そこで3人により話し合われていたことは、これから
すべての人のために命をささげなければならない、イエスさまの十字架上での出来事であったのに…
今、弟子たちが目の前に見ている山の上での光り輝くできごとは、その十字架上の奉献がおこる前に
起こされた、いわば復活の栄光を予兆する、神の救いの約束のしるしでもあったのです。背後にある深
い意味を充分に理解できず、目の前の輝きと光だけに心を奪われてしまっていたペトロたちは、雲が現
われその影に覆われたとき、非常に恐れました。すると雲の只中から、「これはわが子、われに選ばれ
たる者。彼に聞け」という声が聞こました。
わたしたちも日々の生活の中で、毎日の出来事に追われるうちにも、時にこの山の上での弟子たち
-1-
の体験のように、何か光り輝くこと、嬉しいこと、驚くような神さまからの恵みと祝福に出会うと、「神
に感謝!」と心は喜び、神さまをたたえ、人にも優しくなります。しかし、わけのわからないことで雲に
覆われると、わたしたちの心はすぐに消沈し、恐れや心配、時には憤りなどにも満たされます。実は「雲」
は聖書の中に、神さまの顕現の場所としてもよく表わされています。山の上の出来事の場合にも、ペト
ロたちを恐れさせた、光の輝きに続いて現われた雲の中からも、御父は、「これは、わたしの愛する子、
これに聞け」と語りかけられます。
目の前に見える神さまの輝き、喜びは大切です。しかしそれだけに心を奪われると、背後にあるもっ
と深い救いの意味、十字架を通して現わされる十字架の輝き・・・復活の光を見失ってしまう恐れもあり
ます。わたしたちを本当の復活の光へと導くために、イエスさまが背負っていて下さる十字架、あるい
は誰かを通して背負っていて下さる十字架・・・。日常生活の中でしばしば現われる雲を恐れることは、
人間としても自然なことです。しかし忘れてならないことは、その雲の中でさえ、いやその中でこそ、
私たちが本当に聞いて従うべき声、帰っていくべき声が聞こえてくるということも確かなのです。
「こっちだよ…祈って聴いてごらん。聞こえるはずだよ!」と。
*
*
*
9月のはじめに、夏休みの半分を頂いて、北アルプスの
穂高岳に登りました。遥か遠く八ヶ岳、南アルプスの山々
から富士山にまで見渡せる、絶好の登山日和となりました。
下山の日、前穂高岳の山頂直下で遅い朝食を食べていると、
どこかで見覚えのある眼鏡をかけ、髭をはやした外国人が、
こちらの方をキョロキョロみていました。コロンバン会の
オーストラリア人、ポール神父様でした。環境問題、人生
のことなどを分かち合いながら信仰の話しにもなり、それ
はいつの間にかイエスさまの現存を感じる、タボル山上で
の出来事となっていました。
-2-
カトリック磐田教会報
2009年
9月
第1号
「新しいスタート」
市岡 之俊
今年の夏は本当にやって来るのか、梅雨はいつ明けるのか、8月の初旬であるというのにその頃、私たち
の心は少々不安になりました。特に今年は集中豪雨や大雨、洪水などによる多くの被害にも見舞われ、たく
さんの人々の尊い命が犠牲となりました。その方々の魂の安息と被害者のためにも祈りたいと思います。そ
して梅雨が明けた途端、短い夏にも、秋の虫がセミに混じって鳴き始め、日差しもいつもより何となく早い
秋の気配を感じさせました。
私もこの磐田、掛川教会への任命を、昨年の春に司教さまより頂いて以来、早かったようで長かったよう
で、1年と半年がすでにたとうとしています。私にとりましては、歴代の神父様方が培ってこられた由緒あ
る2つの教会を、正式な主任司祭としては初めて、1人だけで受け持たなければならないということへの
少々の不安もありましたが、両教会のみなさまからの暖かな出迎えと励まし、支えのうちに、いつの間にか
全く自然な形で、両方の共同体を喜んで行き来するようになっていました。同時に、さらに良い方向に向う
ため、幾らかの調整も必要となって参りました。
① 主日のミサのスケジュールの調整・・・掛川教会における9時のミサが終わってから、共同体の方々と
の交わり、多くの方々との話し合い、大切な相談、秘跡なども途中で打ち切らざるを得ず、急いで高速
道路を通って磐田教会に向ったとしても、11時のミサにはほとんど遅れてしまうようなことが続いて
いました。磐田教会ではミサの前には必要とされる、共同体のみなさまとの十分な祈りと準備の時間も
なく、車の運転からすぐにミサをささげることとなります。1週間に一度、信者として大切な主日のミ
サに集う共同体のみなさまを前にして、決して相応しいことではありませんでした。準備によって共同
体の祈りの深さもかわります。そのために2つの教会の間には、ミサの1時間、ミサ後の共同体のみな
さまとの交わり、話し合い、相談、秘跡などに必要な1時間、そして移動と次の教会に着いてからのミ
サの準備などに向けた1時間のためにと、少なくとも計3時間は必要であることが明らかとなってまい
りました。
② 各教会において多様化するさまざまな教会活動や委員会などに向けての調整・・・両教会とも、土日曜
日に集中するさまざまな委員会、教会学校、レジオマリエや母の会などの従来から行なわれてきた活動
などとともに、ラテン、フィリピン、ブラジル籍の人たちを中心とする各コミュニティのミサ、委員会、
活動なども増え、さらには静岡西部地区において活発化する5教会協力の動きなども加わり、従来のス
ケジュールだけでは十分に対応しきれなくなってきました。また、11時のミサ後の教会の時間帯にお
ける活動と、9時のミサ後の教会における時間帯のものとの間では、その活動のし易さや物理的、時間
的な要因する差なども、また大きなものになっていきました。そのような中、鷺宮、三方原教会におい
て今も行われている、ミサの時間を奇数週と偶数週で交互にするという案が、その解決策の一つとして
浮かび上がってまいりました。同時に、両教会のミサの時間を午前と午後に分ける、あるいは一ヶ月交
替にするというような案に関しては、みなさまからあまり良い反応を頂くことはありませんでした。
-1-
この度は、みなさまからもさまざまなご意見、お考えも伺いながら、これまでにも暫定的に行なわれてき
た、主日のミサを中心とする土日曜日のスケジュールの、根本的な見直しを行なうこととなりました。準備
のためには決して急がず十分に時間をかけてきたつもりではおりますが、まだまだ完全なものではなく、こ
れからもみなさまのご意見を伺いながら、実際に動いていく中での調整、変更等の可能性をも十分に考慮に
いれてのものであります。新しいスケジュールのもと、磐田、掛川の2つの共同体がさらなる聖霊の力と識
別、喜びのうちにスタートをしていくことができますように。今後ともみなさまのお祈りと支え、ご協力を
よろしくお願いいたします。
-2-
2009年
8月号
「バルビエ神父さまをお訪ねして」
市岡
バルビエ神父さまとともに
之俊
アシジにて
6月の終わりから約8日間、磐田教会の前主任司祭バルビエ神父様をお訪ねし、巡礼団としてフランスの
方に行って参りました。新型インフルエンザなどの心配もありましたが、フランスでの神父さまとの喜びの
再会を無事に果たし、復路はイタリアをも訪ね、聖フランシスコの故郷であるアシジにも立ち寄り、ローマ
では教皇様との謁見の恵みを頂きました。
バルビエ神父様は第二次大戦後すぐに、パリ外国宣教会の宣教師として中国宣教への派遣命令を受けられ、
マルセイユの港から船で出発をされました。しかし1951年末には中国共産党による国外追放を余儀なく
され、日本へと渡って来られました。その苦しみと犠牲とを通して、聖霊の風は、神父様を新たな日本の教
会における主の宣教のご計画へと導かれ、運ばれたのでしょう。初めて日本の土を踏まれた神父さまは、静
岡と浜松の教会において働かれました。1956年には磐田教会を創立、最初の主任司祭としてフランスに
戻られるまでの約50年間、お隣の磐田聖マリア幼稚園とともに、そのお働きにご尽力をされてきました。
そして神父様がフランスに戻られてから、もうすでに2年がたち、是非この機会に神父様にご挨拶に伺おう
ということで、この巡礼団が立ち上げられました。
バルビエ神父さまとともに
パリ外国宣教会ホームの近くの村
フランスの南部、中世期にはヨーロッパでの疫病の流行から一時的に教皇庁がおかれたこともあるアビニ
オンから程遠くないところに、バルビエ神父様が現在住んでいらっしゃる、パリ外国宣教会のホームがあり
ます。南フランス独特の明るい色調の古い町並みに、鮮やかな青空と太陽の光が映え出でる日でした。
バルビエ神父様は、以前よりは少しお腹がひっこまれた様子で、笑顔とともに現れました。ミサをともに
ささげ、神父様のお部屋に案内して頂き、しばしの思い出ばなし、お互いの近況などについて思いを馳せま
した。時の流れるのを忘れ、あっという間にホームを離れる時間となってしまいました。別れ際、神父様も
涙をこらえていらっしゃる様子でしたが、その笑顔で一行を送り出して下さいました。
思えばこの静岡西部地区をはじめ横浜教区、日本の教会も、多くの宣教師の方々の祈りと働きによって創
り上げられてきました。特に今年は横浜も開港150周年を迎え、明治開国以来の日本のカトリック教会と
しても最も古い山手の横浜天主堂も、パリ外国宣教会の神父様によって建てられました。私たち静岡西部地
区の教会も、過去から現在、そして将来にいたるまでの、心からの感謝と賛美を主と先達の方々にささげら
れるような、しっかりとした信仰とそのヴィジョンをもっている必要があるように思います。
アシジの町並み
アシジの聖フランシスコの墓前の祭壇でのミサ
バルビエ神父様とまたの再会の約束をした一行は、アビニオンからツールースを巡り、イタリアへと向い
ました。アシジでは聖フランシスコの足跡を辿って、彼が祈りの場所として好んだ山の中の隠遁所、カルチ
ェリを訪ね、また予約を取ることが難しいといわれる彼の墓前の祭壇で、ミサを捧げることもできました。
ローマでは4教会の巡礼などとともに、バチカン広場での教皇様との謁見の恵みを頂くこともできました。
ご婦人方が、まるでマイケルジャクソンか韓流俳優と出会われたかのように、手を振りながら歓声をあげら
れていたのには思わず微笑んでしまいました。
教皇様との謁見
聖ペトロ大聖堂
今回の神様からの大きな恵み、バルビエ神父様訪問の巡礼の旅において、唯一残念であったことと言えば、
掛川教会の前主任司祭でおられ、数年前に神様のもとに旅立たれたソビオン神父様をはじめとする、母国を
離れて生涯を尽くして下さった宣教師の方々が眠るお墓に、アビニオンからも遠いということで訪れること
ができなかったことです。いつかまた神様から、そのような機会が与えられましたなら、そして掛川教会の
建設も無事に終わりましたなら、是非みなさまとともに、そのご報告のためにも、再び訪れることができま
したらと願っています。
2009年 7月号
「『黙れ、静かになれ』
。すると風はやみ、大なぎとなった。」
市岡
「さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに『向こう岸へ渡ろ
う』と言われた。そこで弟子たちは群集を後に残して、イエスを舟に
乗せたままお連れした。そのとき、ほかの舟もいっしょに行った。す
ると、激しい突風が起こり、波は舟の中までうちかぶり、舟は水びた
しになった。ところが、イエスはとものほうで、まくらをして眠って
おられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたくしたちがお
ぼれ死んでも、かまわないのですか』と言った。イエスは起き上がっ
て風をしかりつけ、湖に向かって言われた。
『黙れ、静かになれ』。す
ると風はやみ、大なぎとなった。イエスは弟子たちに言われた。『な
ぜ、そんなに恐れるのか。まだ信仰がないのか』。彼らは大いに恐れ
て、
「いったい、このかたはだれだろう。風も湖もこの人の言うことを
聞くとは』と互いに言った。」(マルコによる福音書 4 章 35-41 節)
『舟』-
之俊
韓国・多島海
みなさん、嵐や雷、大雨といったものは、とても嫌なものです。特に、昨今の地球温暖化の影響もあるの
でしょうか、ゲリラ豪雨といったものまでも、頻繁に起こるようになってきました。同時に夜中に流される
台風のTV情報を、何となく他人事のように、わくわくと眺めながら見ていた覚えのある方もいるはずです。
しかし自然現象だけに限らず、私たちの日々の生活の中に起こる嵐のような出来事、またはそれ以上に、大
きな人生の中で迎える、嵐のような時もあるかもしれません。イエスさまの弟子たちも、ガリラヤ湖の湖上
でよく起こるといわれている突風に出会い、気持ち絶え絶えにイエスさまに叫びます。『先生、わたくした
ちがおぼれ死んでも、かまわないのですか?』その時、イエスさまは何と、その突風の嵐のさ中でまくらを
して眠っていました。そして『ファーッ』と起きて目を覚まし、風をしかりつけ、湖に向かって言いました。
『黙れ、静かになれ』
。すると風はやんで、大なぎとなりました。
『嵐』-
カナダ・トロント
私たちも度々、日々の生活の中で、嵐、突風のようにた
とえられるような状況に出くわします。その時、私たちも
祈り、叫びます。すると、確かにそれが穏やかな状況にな
る時もあるかもしれません。反対に嵐の状況がまったく変
わらないように見える時も多いでしょう。しかし、それで
も祈り続ける時に、状況がたとえ変わらなくても、不思議
な形で私たちの心に、穏やかさと平和が訪れる時もありま
す。何かが動くのです。私たちが祈るときに、すべてがう
まくいくということではないでしょう、しかし確かに、何
者かの御方が、その方の方法のうちに動いてくださるので
す。私は最近、ある不思議な体験をしました。その日は久
しぶりにエクササイズで体を動かし、晩になるとすぐに深
い睡眠へと入っていきました。突然、目が覚めました。時
計を見ると、夜中の2時半頃でした。目がばっちりと冴え
眠ろうとしても眠れません。羊を数えようか…
みなさんにも、そのような経験があるかもしれません。その晩はあきらめました。ベッドの上に座り、黙想
のような形で祈り始めました。すると何か暖かい平安のような流れが、心の奥底から湧き上がってくるよう
な思いを感じました。そしていろいろなアイデア、インスピレーションが湧き上がってきました。それをみ
な書き留めていくと、1日かけて終わるかな、もしかすると2日、3日はかかるかなと思っていた大切な仕
事が、たった1時間で終えられることになりました。朝方に一度寝ましたが、翌日の1日もまったく、疲れ
や眠気なども感じさせられませんでした。
私たちの思い通りに行かないようなとき、祈ることは大切です。何かが起こるかもしれませんし、
またたとえ起こらなくても、心の平安を頂くでしょう。フランスのルルドの巡礼地を思い出して下さい。
祈り、そこですべての人の病気が癒されるわけではないでしょう。しかしたとえ癒されなくても、何らか
の心の平和、魂の平安を感じて、喜びのうちに帰っていくといわれます。祈り、求める時、もしかすると
望んでいるものは与えられないかもしれません。しかしそれ以上に、全く自分たちでさえも気がつかない、
私たちにもっとも必要とされるものを、神さまはご自身の方法で与えてくださるのです。イエスさまは、
弟子たちに言われます。
『求めなさい、そうすれば与えられるだろう。捜しなさい、そうすれば見出すで
あろう。たたきなさい、そうすれば開かれるであろう。』(ルカによる福音書 11 章 9 節)
イエスさまは、私たちを、嵐の只中で呼ばれます。
「重荷を負って労苦している者は皆、わたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。 わたしは心が柔和であり、謙遜であるか
ら、わたしの軛を受け入れ、わたしの弟子になりなさい。
そうすれば、魂は安らぎを見出すだろう。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
」
(マタイによる福音書 11 章 28-30 節)
『平和と喜び』-
カナダ・トロント
2009年 6月号
『初代教会からのメッセージ』
-
わたしたちの共同体が聖霊の喜びとともに
市岡
「
之俊
一同は、ひたすら使徒たちの教えを守り、兄弟的交わりを大切にし、パンを手で分け、祈りをしていた。
そして、使徒たちによって行なわれる多くの不思議なこととしるしとを見て、一同の心に恐れが生じた。
信じる人たちは皆一つとなり、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、それぞれの必要に応じて、
みんなでそれを分配していた。また心を一つにして、日々、絶えず神殿に参り、家でパンを手で分け、
喜びとまごころをもって食事をともにし、神をたたえた。彼らはすべての民に好意を持たれた。主は日々
救われる人人を信者の数に加えてくださった。 」 (使徒言行録 2 章 42-47 節)
みなさん、聖霊降臨の祭日、おめでとうございます。わたしたち、キリストの弟子たちの教会の誕生日のお祝
いです。教会の大切な3つのお祝い日でありながら、何故かクリスマスやイースターよりもひっそりとした存在
になっています。でも実は、このペンテコステ、聖霊降臨の祭日も、他の2つの祭日に勝るとも劣らない、イエ
スさまにとっても、また私たちにとっても、非常に大切なお祝いの日なのです。
「
五旬祭の日が来て、みんなが一つ所に集まっていた。そのとき突然、激しい風が吹いてくるような音が
天から聞こえ、彼らが座っていた家じゅうに響き渡り、炎のような舌が現われ、分かれておのおのの上
にとどまった。すると、みんなは聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、さまざまな他国の言葉で語り
始めた。 」 (使徒言行録 2 章 1-4 節)
あれほどに弱かった弟子たちも、復活のキリストとの度重なる出会いのうちに励まされ、強められながら、そ
してとうとう、まことの「キリストの弟子」、主の十字架と復活の救いを生きる人となる日を迎えました。キリ
ストの救い、「よき知らせ」を、聖霊に満たされて、世界のすみずみまで大胆に告げ知らせていく人となる日を
迎えたのです。実は私たちもその1人、「キリストの弟子」の1人なのです。そしてさらに大切なことですが、
キリストの弟子たちは、決して一人きりではないということです。キリストのパンとぶどう酒を共に分かち、同
じ日々の釜の飯を食う、大切な兄弟姉妹、仲間がいつもともにいるということなのです。お釈迦さまのもとには
サンガ、後のお寺の基礎となる弟子たちの最初の共同体が創りあげられました。イエスさまの弟子たちも、現在
の私たちの教会の礎ともなる、初代の弟子たちの共同体が創り上げられました。イエスさまの救いを証しする共
同体は、イエスさまとみなでいつもともに祈り、集い、助け合い、パンを裂き、分かち合い、聖霊の導きと働き
とを識別しながら、また常に主であり、師であるキリストに、喜びをもってついていきました。「一同は、ひた
すら使徒たちの教えを守り、兄弟的交わりを大切にし、パンを手で分け、祈りをしていた」。そしてその姿は、
回りの人々にも分かち合われ、認められて、「彼らはすべての民に好意を持たれた。主は日々、救われる人人を
信者の数に加え」られたのです。
私たちカトリック教会、そしてキリストを信じる他のすべての兄弟姉妹の教会は、今、どのように歩んでいる
のでしょう?私たちの共同体はどうでしょう?私たち一人ひとりのメンバーが、キリストの弟子として集い、と
もに恵みと喜びとを分かち合い、さまざまな教会内外の奉仕にも、まごころと祈りとをもって参加していくこと
ができますように。私たちの日々の信仰生活と実生活とにおいて、イエスさまとともに、聖霊の恵みと働きとの
うちに、いつも元気に歩み、回りの人々に主の救いを分かち合っていくことができますように。実は、その実現
のためにも大きなヒントとなるメッセージが、初代教会の共同体の姿の中に、キリストの弟子たちの姿のうちに、
時代を超えて伝えられ、私たちにも現されているのです。
「
一同は、ひたすら使徒たちの教えを守り、兄弟的交わりを大切にし、パンを手で分け、祈りをしていた。 」
「
信じる人たちは皆一つとなり、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、それぞれの必要に応じて、
みんなでそれを分配していた。 」
「
心を一つにして、日々、絶えず神殿に参り、家でパンを手で分け、喜びとまごころをもって食事をともにし、
神をたたえた。彼らはすべての民に好意を持たれた。 」
2009年 5月号
『聖霊降臨の喜び』
-
イエスさまの十字架の輝き、復活の神秘を通して
市岡
之俊
復活祭も間もない聖週間、わたしのノートパソコンが、突然に妙な音を出しながら壊れました。
カナダでの留学中、またその旅行中の振動の中でも、忍耐強くついて来てくれていました。聖週間の
典礼の準備、また特にその年度末の時期に多く重なった外国籍の人たちの支援のために、2つの教会
を行き来しなければならないこの肝心の時に・・・と、神さまへの文句が祈りで口からでそうになり
ました。修理をメーカーに依頼すれば何万円もかかる、そう思ってインターネットを見ると、修理の
方法などが細かく述べられていました。そして新しい250GBのハードディスクが、数年前の10
分の1の値段で売られていました。データや写真でいっぱいに重くなって、動いているかどうかわか
らなくなり、とうとう壊れてしまった80GBのハードディスクを、250GBの新しいものに、自
分で交換することにしました。注意深く交換し、前の状態にインストールしてみると、壊れる以前と
は比べものにならないほど軽いものになり、すべてがスムーズに動きはじめました。
わたしたちは風邪を引くと、「あー風邪を引いてしまった、こんな忙しい時に」と、つぶやいてし
まうのではないでしょうか。確かに風邪を引くと、すべてにだるくなり、効率も落ちてきます。何と
か薬で抑えようとしますが、大方の場合、休息をとったり、睡眠、栄養をとったりすることで、また
元気なもとの姿にかえっていきます。いや、風邪を引いた後は、むしろ風邪を引く前よりも、もっと
すっきりと、体調もさらによい状態になっていることを感じるのではないでしょうか。風邪をひく以
前は、私は元気だと言っていましたが、いや言い聞かせていましたが、実は結構無理をしていて、自
分では分かっている程に疲れきっていたり、あるいは何かを変えなければならないことを感じていた
のではないでしょうか?
わたしたちは、何かが起こると、特にそれがマイナスなことであればあるほど、その現象だけに目
を奪われ、「あーこれは…」と勝手に判断してしまうのです。その背後にある、人間的に言えば、も
っと大きなチャンス、信仰的に言えば、神さまのみ摂理、救いへの計らいに、目を閉じてしまうので
す。日頃に起こる私たちの小さな十字架から、人生の試練として起こる大きな十字架もあるでしょう。
しかし、私たちは、どちらの場合にもよく注意をしていないと、十字架の背後にある、神さまの大き
な救いの計画、イエスさまの十字架を通して現れてくる輝き、復活の神秘にも、そして聖霊の働きに、
目を向けないことがよくあるのです。
弟子たちも、イエスさまの十字架と復活の出来事の後、復活されたイエスさまにたびたび出会い、
交わりの時をもちながらも、自分たちの心が主の復活を完全に信じきることができるまでには、さら
なる時間が必要とされました。十字架の出来事は弟子たちにとって、あまりにもショッキングな出来
事であり、またゆるされない記憶でもありました。なぜなら、あれほどにも愛していた主であるイエ
スさまを裏切り、十字架につけられることをゆるし、また自分たちも仲間であるとされて逮捕され、
十字架につけられることを恐れて逃げ回っていたのですから…復活のイエスさまに出会いながらも、
自分たちの弱さを乗り越え、また変わらない現実の中で、復活された主に自分たちを委ねきっていく
生き方が可能となっていくためには、さらなる時間と出会いの場とが、必要とされたのでした。しか
しイエスさまは、それでも根気よく、復活された姿をもって弟子たちに現れ続け、励まし、ついに弟
子たちも、復活の息吹、聖霊に満たされて、
「古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分を着る」
、その瞬間を
迎えるに至ったのです。それが、聖霊降臨のできごとであり、聖霊によってまったく新しくされた弟
子たちが集う共同体の誕生でありました。
わたしたちもこの5月31日、聖霊降臨の祭日を迎えます。イエスさまの弟子たちが聖霊に満たされ
て、復活のイエスさまとともに一つになって歩み始める共同体の交わり、教会の誕生を記念する聖霊
降臨祭は、降誕祭、復活祭とともに、教会にある祭日の中でも、もっとも大切な祭日の一つです。十
字架の背後にある神さまの救い、その輝きである復活の神秘のうちに、わたしたちもどのような準備
をもって、聖霊降臨の祭日を迎えていったらよいのでしょうか。約50年前この磐田の地に、磐田教
会はバルビエ神父さまとともに、聖霊降臨のうちに誕生されました。このことに対する心からの感謝
と賛美のうちに、この2009年にもイエスさまは、磐田教会に対しどのようなことを求めていらっ
しゃるのでしょうか。
特にこの経済不況と外国籍の人々を巡る厳しい状況にある中でも、私たちはキリストの真の弟子とし
て、共同体の交わりと一致のうちに、聖霊の識別の導きをともに願い、祈ってまいりましょう。
2009年 4月号
主のご復活の喜び、心より申し上げます。
市岡
之俊
「後ろを振り向くと、そこにイエスが立っておられるのが見えた。
しかし、その人がイエスであるとは気がつかなかった。」(ヨハネ 20 章 14 節)
≪フランス・テゼ共同体≫
主の復活のしるし・・・『空の墓』
「だれかがわたしの主を取り去りました。どこへ置いたのか、わたしにはわかりません。」
マグダラのマリアは墓の外に立って泣いていました。わたしの愛する主、生涯をかけて慕って
いたイエスさまが、十字架にかけられて死んで葬られてしまったばかりでなく、その遺体までも誰かに
よって、墓からどこかに取り去られてしまったのですから…マリアの心は悲しみでいっぱいになり、打ち
拉がれていました。そこにはただ、空っぽになってしまった墓が、目の前にあるだけです。マリア
は泣きながら、身をかがめて、その空になった墓の中を覗き込ました。するとそこには、白い衣を着た
2人の天使たちが座っていて、マリアに尋ねました。
「婦人よ。なぜ泣いているのですか。
」マリアは
答えます。
「だれかがわたしの主を取り去りました。どこへ置いたのか、わたしにはわかりません・・。」
わたしたちも、日常の生活の中で、あるいは人生の旅路において出会う出来事、重大な選択、
または直面させられる危機のうちに、マリアと同じように心につぶやくような時があります。
「わたし
のできる術も、もうすべて取り去られました。どうしてよいのか、わたしにはわかりません。
」
後ろを振り向くと・・・
マリアが途方にくれながら後ろを振り向くと、一人の人が立っているのが見えました。マリアは、
その人こそ、イエスさまの遺体をどこかに持っていってしまった園の番人ではないかと思って、さらに
哀願します。「あなたが、もしあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、教えてください。
わたしが引き取ります。」そのとき、彼女に呼びかけられます…「マリア」…園の番人である
と思っていたその人こそ、マリアがあれほどにも探し求めていたイエスさま、その方であったのです。
しかも死んでしまった、遺体のままであるイエスさまなのではなく、死んで墓に葬られ、しかし新しい
神の命に復活された、今この目の前に生きていらっしゃる、正真正銘のイエスさまなのです。マリアは
嬉しさのあまりに、イエスさまに飛びついて言いました…「先生!」
復活・・・
「十字架は必ず輝く」
わたしたちもマリアのように、もう主はすでに復活されているのに、ただただ途方にくれて、
相変わらず空の墓を探し回っているようなことがあります。もう墓の中に、主はいないのです。十字架
は十字架のままでは決して終わらないのです。十字架には、必ず復活の訪れる時があるのです・・・
「十字架の輝き」。墓の外に、そしてわたしたちのすぐ後ろに、復活されたイエスさまは立っていらっ
しゃいます。わたしたちも思い切って、向きをかえ、振り返ってみる必要があります。また振り返っても、
マグダラのマリアがイエスさまを、園の番人と見間違ってしまったように、わたしたちもある人のことば、
ある人の手、ある出来事のうちに、イエスさまが聖霊を通してわたしたちに語り、触れ、復活の命へと
招いてくださっているのに、そのことに十分に気がついていない時も多いのです。
「復活・・・十字架
は必ず輝く」。
2009年の春、主のご復活の記念を今年も再び迎えるわたしたちですが、昨年来の経済危機
の影響は、世界、日本、そしてこの磐田、特に静岡西部地区にも、さまざまな困難と痛み、十字架を伴
う現実をもたらしています。わたしたちも途方にくれて、救いをまるで、空の墓に果てしなく捜し回り
続けているかのように感じてしまう時があります。そのような時にはいつも、このマグダラのマリアの
姿を、心に思い起こしていたいと思います。復活されたイエスさまは、わたしたち、そしてすべての人
のすぐ後ろに立っておられる・・・そしてわたしたち一人ひとりの名前を呼ばれます・・・
「○○」。
≪フランス・ルルド≫