津留田正昭・嶋田義仁 - 名古屋大学 文学研究科 文学部

比較人文学研究年報 2007
ラオス伝道 −歴史的ノート−*
M.ベルテア (パリ外国宣教団)
訳:津留田正昭**・嶋田義仁***
Ⅰ.地理と民族誌
地理
ラオス暫定教区 vicariat1は、中国からカンボジアに至るメコン川流域にある。北は雲南、東はト
ンキン、南はカンボジア、西はタイとビルマに接している。面積は 50 万平方 km で、フランスと
ほぼ同面積である。
政治的には2つの政治領域に属する。メコン川の右岸側は(旧バサック王国地は除く)タイ国の支
配下にあり、左岸は 1892 年の条約以降フランスを宗主国としている。
民族
20 以上の反抗的で未開の人種がこの広大な土地に混在している。彼らはタイラオ Thai Lao 族で、
いわゆるラオス人であるがその内容は以下のように様々である。ト Tho、メーオ Mëo、ヤオ Yao、
カ Kha、プートン Phou-thung、ソーSô、セーク Sëk、タイ Thai、ムエイ Muei、チャウラオ Chau Lao、
リュ Lu、プウン Phoueun 、ノーNho、タイヌア Thai Nua、プータイ Phou Tjai、その他。さらにトン
キン(ヴェイトナム)人、中国人、カンボジア人、ビルマ人、タイ人なども含まれている。
人口は、襲撃や戦争、疫病、飢饉などで大量に失われ、多くて 250 万人で、フランス領土側には
50 万人しかいない。
言語
ラオス語は極東の多くの言語によくある、歌うような話し方をする言語である。ラオス語はタイ
語とよく似た言語で、書き方も似ている。
バンコクのダムロン Damrong 王子は去年ラオスを訪問し、
ラオス語がタイ語の初期時代の言語であることを確認している。
服装と習慣
*
本論文は M. Bert héas (1909) La mission du Laos, Lyon : Imprimerie J.Poncet.の全訳である。著者はラ
オス宣教師。ラオスにおけるキリスト教の宣教の記録であるが、19 世紀末のラオスにかんする数
少ない文献である。翻訳は津留田正昭が全訳をした後、嶋田義仁が修正を加えた。
**
中京大文学部卒業後、1980 年フランスに留学し、パリ大学に留学、リヨン大学等で学ぶ。現天
理日仏文化協会パリ天理語学センター日本語教師。天理教ナゴヤ・パリ布教所長。
***
名古屋大学文学研究科教授。
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ラオス伝道
−歴史的ノート−
ラオス人男性はタイと同じラングチ langouti と呼ばれる服装を身につけ、また女性は自分たちが
織った腰布を腰に巻いている。
主食は蒸した餅米で、塩漬けの魚や肉、蛙などとともに食す。どれもが香辛料、唐辛子などで強
い味付けがされている。
一般的にラオス人は雑食性が高く、食さない動物や植物の名前を見つけることが難しいくらいで
ある。また、ラオス人は優秀な狩人であり漁師である。広大な森や多くの池があるため、野生の動
物、魚には不足することはない。
熱帯地方の土着民と同じく、ラオス人はアレク arec やキンマ bétel を噛む。さらに現地で採れた
タバコを吸う。ただし残念なことに多くのものが阿片や大麻を混ぜている。大麻は阿片より危険で
ある。また、米で酒を造る。結婚式・葬儀には伝統の酒樽が並ばないことはない。招待客は酒樽を
空にすることを許されている。
住居
ラオスの家屋は 1.5m から2m の柱でつくられ、逆V字形の屋根がつけられている。多くは藁で
葺かれ、竹屋根もある。
床には織物の機具がおかれている。
貧しい人たちは木の枝で作られた小さな小屋で満足している。
気候
ラオスは2つの気候に分けられる。乾期(10∼4月)と雨期(5∼10 月)である。
雨期の間は植物が繁茂し、乾期には逆に土地が乾き、いかなる作物も出来ない。
宗教
この国の宗教は仏教である。フェティシズムも混在する。しかし、支配的なのはピー、すなわち
悪霊に対する恐れで、ラオス人たちはあらゆる病気やその他の災いの原因はピーにあるとしている。
Ⅱ.ラオス伝道の試み
このような野蛮な地の福音伝道が早くから隣接する暫定司教区の司祭によって試みられてきた。
トンキンを担当するパリュ猊下が 1660 年に、すでに 10 年前から説教師らが中ラオスヘと入ってい
たと記している。しかし彼らの足跡を見つけだすことは残念ながらできない。
レイドレ Reydellet 猊下(1771 年)、ダブスト Davoust 猊下(1780 年)、ゴチェ Gauthier 猊下(1853 年)
ら歴代の暫定司教はトンキンから教理教師(カテシスト)2、宣教師らをラオスヘ派遣した。しかし、
現地の不健康な状況は布教の障害となった。1855 年にミッシュ猊下によりカンボジアから、1866
年にはデュポン猊下によりシャムから宣教師団を派遣したが、いずれも成功の栄冠を勝ち取るには
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至らなかった。
1881 年、神によって定められた時がやってきた。1881 年1月2日、コンスタン・プロドム Constant
Prodhomme とクサヴィエ・ゲゴ Xavier Guégo という2名の在シャム宣教師が、シャム暫定司教区
の司教ヴェイ猊下により任命されて、ラオス伝道の旅へ出ることとなった。そして8日後、2名の
パイオニアは準備を終えたのち司教のもとに跪き祝福を得て、神を信じ、希望を心に旅立った。目
的地は南ラオスの主要都市ウボン Oubon で、ジュチア Juthia、コラート Khorat 、ソンナボ Xonnabot 、
コンケン Kon-kën、カラサム Calasim の町々を通りながらの旅であった。
宣教師たちの持ちものといえば、ごく限られたもので、ミサ用のワイン、いくつかの教会用装飾
品、薬品、少量の神具、そして書籍一箱であった。また資金は、布施で賄った。
目的地に到着するには3ヵ月半を要した。彼らがウボンに到着したのは 1881 年4月 24 日であっ
た。いずれこの旅行記を彼らが執筆してくれるのであろうが、ラオス伝道の先駆者は一度ならず病
に倒れ、伝道は幾度も危機に陥った。
ウボンでは、宣教師たちは地方長官の命により、一部廃墟となっていた町の法廷内に寄宿するこ
とになった。彼らはこれを幸いに法廷での様子を見学することによって当地の法律や習慣を学び、
あらゆる階級の人たちの考え方やモラルを知った。最初の6ヵ月はこのように過ぎ去った。しかし
土地の生活習慣を学び、国の生活規範を体得することができたこの期間は無駄な時間ではなかった。
そのうえ、彼らは鎖に繋がれ、市場へ連れて行かれる途中の奴隷約 100 名を解放できた。ビルマ人
たちが当時は奴隷交易を独占していた。
カトリック最初の伝道拠点設置
この奴隷たちを解放したのが 1881 年の6月末であった。このために費やしたエネルギーの大き
さは計り知れない。なぜならビルマ人は、土地の役所に彼らがイギリスによって保護されている身
であることを主張したからである。ビルマ人はあらゆる手段を使って彼らの権益を守ろうとした。
2人の宜教師たちは迷うことなく解放のために力を注いだ。ビルマ人の手から逃れた 18 人のラ
オス人たちが、宣教師たちのもとに保護を求めてやってきた。宣教師は、裁判で正義とユマニテを
守ることができた。この 18 人の奴隷が後のラオスでの布教の中心となっていく。宣教師たちは、
彼らに対してパンと神の言葉以外にも住居と食物を提供し、貧困から立ち上がるための仕事の道具
などを与えた。しかし、宣教師たちの最大の問題は、日ごとに増える洗礼志願者 catéchumène3を隔
離された一つの村に住まわせることであった。幾度にもわたる折衝ののち、当時いたマンダラン(中
国の役人)たちはやっと村の奥の土地を宣教師に譲ることとなった。そこは悪霊が棲むといわれた
森であったが、この悪霊とは熱病の話にすぎなかった。
直ちに土地の開墾を始め、床上式住居の移築をし、そこに 1881 年 10 月 17 日、宣教師たちを指
導者とするキリスト教徒の共同体が誕生した。
ビルマ人たちが自分たちの奴隷とみなしたラオス人たちに手をつけようとする動きはあった。し
かし、神の加護が彼らを守った。神は明らかに宣教師たちと洗礼志願者を救ったのである。
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拠点設置から洗礼志願者たちに対する教育が定期的に行われ、そしてついに翌年の 1882 年8月
15 日、かれらは洗礼によって生まれかわり収穫の初穂のように神に捧げられた。
ラオスの最初のカトリック拠点ウボンから、信仰は外へ広まり始め、同年中(1882)に近隣の村の
数家族の者が洗礼志願者として登録される喜びを得た。しかしキリスト教の初期の時代と同じく、
伝道者たちの神の家に入ることを望んだのは貧しき人々であった。新しい信者が増えるために教区
の出費はかさんだ。これが伝道者たちの負担を増大させることにもなった。しかし神の思し召しに
よって、ヴェイ Vey 猊下より派遣されたロンデル Rondel 神父が支援者として到着しラオスの最初
の宣教師たちと苦労を分かち合うことになる。
メコン川岸の旅・カソリック信者の発見
1883 年初め、プロドム、ロンデル両神父はメコン川流域の土地の探検のためビエンチヤンまで
旅をした。この旅は大きな苦労をともなうものであったが、同時に満足を与えるものであった。
ランコン Lakhon に到着すると、彼らは弾圧を逃れて国を逃れてきたトンキン出身の6人のカト
リック信者に出会ったのである。数週間の滞在の間に、彼らの親族から 11 人の改宗者があり、こ
の彼らが後のランコンのキリスト教の中心的存在となっていった。6ヵ月の旅の後、2人の宣教師
たちは再びウボンヘと戻るが、帰路、パノン Phanon 村では、約 100 人の奴隷を解放することに成
功した。彼らの多くは高地ラオスの出身者である。彼らは盗賊の「黒屋敷団」から逃れるため故郷の
村を少し前に離れ、メコン川を下る最中に奴隷商人にとらえられたのであった。奴隷たちは喜んで
宣教師たちに従ってウボンにやって来てウボンのカトリック共同体はふくれあがったのである。ウ
ボンには近隣地域で解放された 60 人も収容されていて、その規模は広がる一方であった。
1883 年末にはロンデル神父が帰国した。彼の病が一時期この使命から離れることを余儀なくし
たのである。代わってダバン Dabin 神父が後任として派遣され、翌 1884 年初めに着任した。
ダバン神父はランコンに残された人たちを長い間放っておくことはよくないと説き、同年、プロ
ドム、ゲゴ両神父がランコンの人々へ慰めと喜びを与える旅へと出発した。
神父たちはランコンで良好な状況下で過ごす信者達と再会した。しかし一方、マンダラン(中国
政の役人)たちの反抗があらゆる抑圧的な方法ではじまっていた。宣教師たちへ食料を売ることさ
えも禁じ、背く者は誰でも牢屋へと連行された。憎しみにみちたこれらの政策によって、人々の善
意は妨げられることとなった。
こうした状況下、2人の宣教師は、アンナン(安南)人の信者達の招きに応じるが良いと考えた。
アンナン人のキリスト教徒たちは以前からサコン Sakhon へ訪れることを願っていた。サコンには
すでに多くのキリスト教徒たちが避難していたのである。
*
*
サコンへ到着するや、副知事との争いが始まった。80 人のトンキン人と約 10 人のラオス人が奴
隷としてこの不幸な人物(副知事)によってとらえられていたが、裁判において宣教師たちによって
解放されたのである。そしてそのうち、62 名が同年9月8日に洗礼を受け、新たに 50 人以上が洗
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礼志願者として登録されるに至った。
執念深い副知事は新たな攻撃をはじめた。サコンの町中で彼の怒りと立ち向かうことは良い方策
ではなかった。そのため、1885 年始めに、この町を捨て、タレ Tharë という 105km離れた村にカ
トリック信者の町を築くことを決定した。宣教師たちは良い立地条件だと考えていた。この移転に
よって新たなキリスト教共同体の発展が可能となり、信者連が抑圧から守られるようになった。
Ⅲ.信仰の最初の大発展
1885 年から大量改宗者がではじめ、これは4∼5年にわたって続いた。
1884 年終わり、プロドム神父のバンコク旅行からの帰途、バンムック Bangmouk で奴隷として
とらえられていた 200 人以上が神父に従ってやってきて、タレ地区の新たな共同体が大きくふくら
んでいた。
ラコンでは、信者は 100 人を超え、町から離れた5km 先にカンコン・サン・ジョセフ Saint Joseph
de Kham-Kom 村を創設した。
ウボンに残ったダバン、クレモン両神父は、90 人の信者と共にバンドウン Ban-Doun に新たな宣
教所を創設する喜びを得た。
*
*
プロドム師はさらに宣教のための旅を続け、1885 年の終わりには初めてバサック Bassac を訪れ
た。そこではラオス人のみならずアンナン人の奴隷、計 96 人の解放をおこなった。
その中に、テ Thé という現地人司祭の妹のアンナン人信者の老女がいた。彼女は15年間とい
う拘束期間中、一度も肉を食することがなかった。なぜなら、キリスト教により肉食を禁じられた
斎戒日に肉を食べるのを恐れたからである。彼女が野蛮人のカス族に捕らえられたとき、アンナン
から持っていた数珠には十数粒の玉しか残っていなかった。けれども彼女はそれを大切に持ってい
た。
この新たなグループは、宣教師に従ってウボンヘと赴き、そこで最初の安住に必要なものを揃え
なければならなかった。
数日間の休息の後、プロドム師はウボンを離れ、バンムックにいる洗礼志願者たちを訪問し、勇
気づけた。彼らはよい状況下にあり、中にはアンナン人の新しい信者もいた。
初期に洗礼を受けた信者グループの代表格である1人の中国人がいた。彼は洗礼志願者達の導き
の神であった。しかし我々の聖なる宗教の進歩に嫉妬した悪魔が新しい改宗者たちに試練を課した。
宣教師たちが出発した翌日から、この勇敢な中国人信者は、激しい攻撃にさらされた。
おそらく土地の役人(マンダラン)の支援を受けた一団が夜中に家を包囲し、この中国人と夫人に
至近距離から発砲し殺害、さらに家中の金品を強奪して去ったのである。しかし、神の加護のもと、
この中国人と夫人は前夜に告解と聖体拝受を得る喜びを得ていたのである。
この犯罪は国中に響き渡った。しかし、プロドム師の大いなる力によって犯罪者たちは捕らえら
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れ、投獄され、多くの者がそこで倒れた。
Ⅳ.886 年のプロドム師の宣教活動
中国人信者の殺害事件の裁判が終わるや、ただちにプロドム師はサコンヘと向かった。そこでも
新たな困難な事件と立ち向かわなければならなかったのである。
マンダランの攻撃に対して立ち向かうよう、サコン、ランコン、バンムック、ウボン、バサック
などの多方面から呼びかけがあり、いずれも苦難から栄光を得るに至ったのである。
1886 年、サコン滞在中、急ぎの使者がラコンからやって来た。直ちにラコンヘと行き、信者た
ちを安心させた。そこからバンムックヘ行き、そこで 105 人の奴隷を解放することに成功した。し
かしプロドム神父のもとにおしよせる人口の数が多すぎた。この不幸な者たちに対して食物を与え
ることができなかった。カンコンの米倉庫は底をつき、数百人の解放奴隷を救うための宣教師たち
の資金も空になった。
*
*
カンコンヘ戻ると、プロドム師はサコンヘの招待状を受け取った。新たな改宗者やチャンペン
Champhen の新しいキリスト村の創設がマンダランたちの新たな怒りをまねいたのである。
パジャ・チャン Phaja Chan という副知事は宣教師と信者たちをこの土地から立ち退かせることを
決定したのである。
しかしながら、副知事はこの犯罪的な計画を実行する前に、ある占いにゆだねることを思いつい
た。
副知事は生きたカタツムリを3匹、机の上に正三角形を形作るように配置した。カタツムリの1
匹は彼自身を表し、2つ目は宣教師を、そして3匹目は人々を表しているという。そして初めの2
匹のうち、どちらかが先に人々を表すカタツムリヘと向かっていくかということを競わせるもので
あった。
室内は沈黙に包まれ、こうして人々の運命が決められるのである。机の上におかれたカタツムリ
は貝から角を出した。2匹のカタツムリはうごめき這い出すと、第3のカタツムリ、宣教師の表す
カタツムリヘと向かったのである。そのカクツムリは2人の巡礼者を受け入れているかのように動
じなかった。
この光景を見ていた人々にとって、このシーンはあたかもこの国の人々がみな宣教師のもとへと
赴き、新たな宗教を受け入れることを意味していた。
知事は一時混乱した。しかし自分の悪い運命を頑として受け入れることはせず、不屈の部下 70
人を招集した。銃や剣で武装した彼らは3度にわたって、タレのキリスト村を攻撃した。しかし3
度とも、彼らによれば悪霊のために攻撃は失敗した。時を同じくしてこの村に天然痘がひろがり、
中には病に倒れる者もいたが、それが敵を寄せ付けなかった理由である。新しい信者たちはこの災
いの中に、神の福音を見た。
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*
プロドム師はタレ地区の一時的にでも解放された様子に安心し、新たに着任したコンブリュー
Combourieu 師にこの村の運営を託し、本人はカンコンへと渡った。
そこでも新たな信者が増大し、新たな村を創設する必要性が生じていた。
そして、カンコン村の一部信者はザビエル・ゲゴの指揮のもと、ドン・ドーン Done-dône 島に移
り住み始めた。その島はこれまで誰一人住んだこともない所で、人々からは悪魔が棲む島といわれ
ていた。
同じ頃、新たなミッションが組織されムアン・ナム・ナオ Muang-Nam-Nao ヘと向かった。そこ
では、洗礼志願者のほとんどが奴隷としてとらわれている家族がいるとのことであった。現地に着
くと、135 名がプロドム師の胸の中に飛び込んできたのである。
この新たなるグループは、チヤンピン Chan-Phin という改宗した元仏教僧侶に導かれて、ドン・
ドーン島へ向かった。一方、救済者であるプロドム師は南へと足を進め、ウボン・聖金曜村に到着
した。
そこでタイ国の宮廷役人の公正な態度のもと、この地区を担当する宣教師たち、ダバンとサリオ
両師は、これまでにない平穏な暮らしを始めることができていた。これを目にしたプロドム師は5
月末にランコンヘと帰路を急いだ。彼の存在は、マンダランたちが反撃を決意していたので不可欠
であった。
*
*
ラコンから南へ 25km のところに位置するカンタオ Khan-Thao 村の改宗は、火薬に火をつけた。
サブ・スアンというタイの軍曹が通過した機会を狙って、マンダランたちは宣教師たちに対して死
の脅しをかけた。軍曹はマンダランたちの手先となった。さらにこの自分の立場を利用し空威張り
をする軍曹は、憎しみの思いを表すために信者によって建てられた礼拝堂の壁に2度にわたり発砲
し、そしてこの銃弾は宜教師たちに向けられたものだと宣言した。
この事件を耳にしたプロドム師は町の法廷へと赴き、この耐えがたい事件はマンダランたちの行
為であると非難した。
それにもかかわらず、改宗者たちは後を断たなかった。近くの2つの村ナラクマイとナリレプ村
ではキリスト教の教義を学ぶことを決めた。マンダランはこうした行動を止めさせることが不可能
だとわかると、これまでと違う方法で挑んできた。新しい信者や洗礼志願者たちが王に対する労役
を果たさなかったという理由で告発しようとした。この罪は非常に重い。しかし実際はすべてが告
発者たちの奴隷になることに対するキリスト教徒たちの拒否にはばまれた。
*
*
サコン県知事は 100 人の追い剥ぎ団を動員して、タレ村の外に出てキリスト教信者を装わせて、
3人の信者がサコン湖の島で捕らえられ、法廷へと連行され、その場で鞭打ちにされ、他の審議も
一切なく投獄された。
宣教師たちの抗議は圧制者の憎しみを増長させるだけで何の成果も得られなかった。
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サコン県内では、新たな洗礼志願者への妨害にもかかわらず、改宗者たちはふえていった。サオ
クアン Sao-Khuan 村の半数は我々の宗教を受け入れることを決めている。
新たなる信者たちを異教徒から守るために、タレから 40km 離れた廃村シャンミン Xang-Ming に
彼らを移住させることを決めた。タレは痘瘡(天然痘)により多くの犠牲者が出ており、これ以上人
を受け入れることができなかったのである。合計 125 名がこの災禍のため死亡した。彼らは皆死ん
だけれど、神の加護により、洗礼水によって神のもとに甦った。
当時のラオスに、30 人から 40 人の伝道者たちがいたらと悔やまれてならない。信者は増え、キ
リスト教村は増加するばかりなのに、5∼6人の宣教師たちは疲れ、また資金もなく、助けを求め
て手をさしだす不幸な人々数千人に応えることができなかったのである。
これこそがラオス伝道者が受けた困難の中で最も過酷なものと言わざるを得ない。
*
*
ラコン村、サコン村ではマンダランたちの憎しみは、正義を獲得するいかなる希望も消してしま
った。こうしたことからプロドム師は雨期にもかかわらずプラチャク Phra Chak 殿下の法廷に訴え
るためノンカイ Nong-Khai 行きを決めた。
殿下は自由主義を尊重する人であった。宣教師たちの言葉に耳を貸し、すぐに第一の部下である
トレ・フェット・ファジャ Phaja Trai Phet に命令し、マンダランたちが改宗者を訴えた内容に対し
て現地で調査させた。プロドム師はラコン村、サコン村でも信者たちを守る弁護人として、告発が
くだらない憎しみによって生まれたものであることをやすやすと証明できた。その上、告発者たち
の不正義を明かし、殿下の代表たちはサコン村で投獄されている3人の信者の身柄を自由にし、ま
た信者たちが略奪された数多くの品を返還することを命じた。
このようにして 1886 年は終わり、いろいろな事件が起こった。同時に実りの多い年でもあった。
宜教師たちは、最も多くの魂の収穫ができたのである。
1887 年の初め、あちこちで静けさが戻りつつあった。プロドム師はウボンへ戻り、バンコク旅
行を同年担当したダバン師が一時的に代理となった。ダバン師は毎年、宣教所に必要な物資を求め
てシャムヘ赴いた。この旅行は長く、経費もかさむ。通常 12 月か1月の乾期の初めに行われ、約
3ヵ月弱を要した。
ダバン神父は帰路に、新たな宣教師であるピエール・エクソフオン Pierre Excoffon と5人の教理
教師を伴った。
ウボンヘ戻ったプロドム師はマンダランたちが新たな訴訟を準備しているラオス北部へ戻るこ
とを急いだ。
彼らは偽の借用証という方法を使って、キリスト教信者となった奴隷たちの所有権を主張したの
である。幸いにも、この証書の真偽は反論を受けつけない方法で証明された。多くの場合、使用さ
れた証書の紙の模様が書かれた日付の 20 年以後のものであることが発覚した。告発者たちの校滑
さを示す証拠は有無を言わせぬものとなり、戦闘的なマンダランたちの気持ちを一時的ではあるが
静める結果となった。
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*
しかし、プロドム師はこの国の数々の法廷で繰り返した数年間にわたる闘いで、疲労をまねき力
が奪われていくのを感じた。そして、ヴェイ猊下に対して一時的に辞職を申し出ることを考えた。
休息は不可欠となった。1887 年末、状況が平穏な時期を利用して、バンコクヘと出発した。そし
てこの旅行で悩みから解放され、責任の重荷からも身軽となり、健康を取り戻した。
ヴェイ猊下は彼を再任したうえで、代理暫定司教の地位も与えた。
1888 年の大事件
プロドム師のラオスヘの帰還は、1888 年5月大きな問題もなくおこなわれ、さらに師は一時フ
ランスヘ帰国していたロンデル師と共に帰ってきた。
彼らがウボンヘ着くや、ラコンでのマンダランたちの“悪事”を知ることとなった。マンダランた
ちは、プロドム師の不在を好機として、攻撃を再開したのである。彼らは改宗者たちに対して国王
の食料庫へ納めるための米の年貢を支払うよう指令を下した。この命令の裏には必ずや何らかの罠
が待ち受けているだろうと察した人々は、この命令に急いで従った。人々が町に着くや、マンダラ
ンたちは街道の追い剥ぎと化し、人々に襲いかかり、品物を奪い取ったあと“反抗の罪”で牢屋へと
連行した。知らせを受けたゲゴ師は直ちに法廷へと急いだ。マンダランたちが太鼓を打ち鳴らし、
官吏たちに続いて、村の人々も集まってきた。ゲゴ師を取り巻き、騒ぎ立て、興奮して騒ぎ立てる
人々は口々に“河へ投げ捨てろ”と叫んだ。宣教師が懐から古い一丁の銃を取り出すと、驚いた人々
は彼に道を開けた。
Ⅴ.人間の不正義と神の正義
ゲゴ師はウボンヘと向かった。1日平均 50km の道のりを6日かけてたどりつき、そしてラコン
のマンダランたちを告発する手続きをした。ウボンの王国警備隊は直ちに新たな洗礼志願者たちの
身柄を解放する旨の知らせを送った。また、バンコクの王宮がこの事件を知ることとなった。この
異常な事態に対して、タイ国王は直ちに命を下し、ウボンの王国警察長の息子がラコンの訴訟裁判
官となる旨を伝えた。
そしてこの審議は実に3ヵ月を要した。
ラコンのマンダランたちは、罪から逃れるため、2人の偽の証人を送り、彼らは恐怖に震えなが
らも、マンダランたちに有利となるよう証言をした。この証言を信じる者はいなかった。タイ王宮
によって任命された裁判官も法廷で、マンダランの供述や証言には虚偽がにじみでていることを認
めざるを得なかった。しかしながら、いかなる罰も下されなかった。
敗者となったマンダランたちは沈黙するかにみえたが、そうではなかった。
官吏たちをあざむき、ラコンのマンダランたちは宣教師たちに対する新たなる告発をするため、
何人もの現地の人々を利用し、新たに宣教師を告発したのである。
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プロドム師はラオスでの法廷に赴くことは無理だと考えて、パウロの儀にならってカエサレの法
廷、すなわちバンコク宮廷へと訴え出た。
シャム警察はこれを受け入れ、この両者に対して直ちにウボンヘ行き、そこからタイの首都へ行
くことを勧告した。
買収された告発者たちは、こんな大きな訴訟になるとは思いもよらず、ラコンのマンダランたち
に対する恐怖からこうなったのだと、宣教師たちに対して許しを願い出、同時に告発の取り下げを
行った。
こうして、タイ国王はこの事件に終止符を打った。
しかし、宣教師たちは、公正な法廷からのより大きな正義を期待していたのである。考えてみる
と、当時のバンコク宮廷にとって、ラオスという小国に対して自分たちの考えを押しつけることが
できるとは思っていなかったのではないだろうか。
いずれにしても、ラコンのマンダランたちに対してタイの法廷がいかなる罪の宣告も下さなかっ
たとしても、神はその罰せられなかった犯罪をお許しにはならなかった。
*
*
最初の偽証人は次のように証言した。「私がもしも真実を語らなければ、雷に打たれて倒れるで
あろう」と。そして事実、3週間後彼は魚漁に出かけるため、筏に乗っているときに落雷のため死
亡した。
次の偽証人は「私が真実を語らなければ、虎に襲われるであろう」と語り、1ヵ月たらず、家の近
くで虎に襲われた。野獣の一撃で頭の皮が顎まで剥がされた。この不幸な男はその後 10 日間生き
続け、苦痛の中にとどめを刺してほしいと願い続けた。
県知事はその年末まで生きられなかった。迫害者によくあるように、ウジ虫にむしばまれて死ん
でいった。さらに副知事もその後を追うようにして突然死んだ。
この悲痛とも言える数々の死の最後に町の第三の地位にある高官ラクソボン Raxavong が最も悲
劇的な死を遂げることになった。グザビエ・ゲゴ師に対する侮辱やあざけりを続けたことに対する
神の仕打ちであるかのようであった。
法廷で審議する間、この宣教師は法定内を行ったり来たりしながらミサを捧げていた。これに対
して、ラクソボンは皮肉やおかしな行動をとってこの宣教師をあざ笑っていた。罰は長く待たず下
された。ラクソボンはある晩、薬でも効果のないくらいのおかしな痛みを感じた。その痛みは昼夜
を問わず彼を苦しめ、多くの人々の手を借りて、自宅まで運ばれることもあった。動きを止めると
今度は苦しみに叫び、ついに 15 日目に息を引き取った。
圧政者たちの悲惨な最期を目にした人々がいかに感じていたかということを理解するのはたや
すいことである。ウボンの王国警察長はこの事件を知り、そしてこのように言った。「ラコンのマ
ンダランたちはあまりに校滑すぎたので、彼らの犯罪が彼ら自身を殺した。彼らは全て滅びるだろ
う。」しかしながら、ひとりだけ残った。神は若いマンダランたちを教育させるため、おそらく彼
ひとりは残されたのであろう。何故なら、彼はキリスト教信者を苦しめることを止め、しかも我々
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比較人文学研究年報 2007
の考えに反対する人々に「君たち、若者よ、この果実を食したいか。私はもう食べないことにした。
その果実はいつも不幸を呼ぶのだ」と繰り返し言っていたというのである。
サコンのマンダランたちも神の復讐から逃れることはできなかった。この地方の知事は、特に悪
魔の手先といわれる程の人であったが、他のどんな人よりも悲惨な結果を感じていた。彼の正妻は
ハンセン病で死んだ上に、一人を除いて、全ての子供たちを数カ月間に失った。その残された子と
も、彼は穏やかに生きていくことができなかった。
しかも、彼が自宅に力づくで留めておいた複数の妻たちは家から逃亡し、タレ村に定着した。た
ったひとりだけ残った妻も事あるごとに、他の妻たちのようになると彼を脅した。ほんの 10 年前
までは、国中に誰一人としてあらがう者がいなかった人にとって、この状況は極めて苦しいことで
あった。
しかし、暴君という者は真実に目を向けようとはしない。彼は宣教師たちに闘いを挑んだのであ
り、そのために最大の不幸に見舞われることになった。
終わりのない訴訟にもかかわらず、1887 年から 1888 年の活動は 700 人の大人の洗礼という集積
で幕を閉じた。
この後 1889 年から 1992 年の間に、ラオスの宣教師たちは年に 1000 人の信者を獲得するに至っ
ている。タレ、カンコン、ドン・ドーンの三大キリスト村ではこのために大きな役割を果たした。
この間、平穏な暮らしが続いたということでは決してない。それ以上に宣教師たちは王に対する忠
実さによってシャム人の心、特にノンカイのプラチック殿下の心を傷つけないことを配慮した。そ
れ故、王は常にキリスト教徒に対して公平な秩序を持った。
Ⅵ.大飢饉
しかしながら、試練の時がウボンの地方に訪れた。その試練は異教徒の人々の世界に宣教師の慈
悲と献心の姿を明らかにすることになった。1889 年から 1891 年までの大飢饉である。
3年間続いて米の収穫がなく、この国でこれまで見たこともない米不足が起こった。こうした緊
急事態に対して、宣教師たちは工夫を凝らして荷車でのキヤラバンを構成し、北部のキリスト村ま
で行って、人々に米をもたらした。飢饉の最初の年から米は少なく、村人たちは憎侶への布施も止
めてしまった。寺院も早々に見捨てられた状態となった。
同時に腹をすかせたまさに骸骨が歩き回るような不幸な人々が移住を始め、少しでも豊かな地方
へと逃れていった。
死は多くの人々をなぎ倒した。生き残った人々は木の根を食べて生き延びたのである。
*
*
この苦しみの状況下で、宣教師たちはまず捨てられた子供たちを集めた。小さな藁小屋に 75 人
の孤児をやっとのことで押し込めた。重要なのはその子たちにいかにして食物を見つけるかという
ことであった。
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ラオス伝道
−歴史的ノート−
また一方では、毎日 40 人の年老いた人々や障害者がやって来て、ひとりあたり8スー(フランス
の昔のお金の単位)の恵みを受けに来るのである。それでいくらかの野菜とふすまを手に入れるの
である。
また、ウボンの王国警察長は、職員や囚人たちへの食料を賄うことが不可能なため、宣教師たち
の所へ助けを求めにやってきた。そして彼らは幸い要望に応えることが出来たのである。
こうした苦しみの間、信者たちはまさにキリストの慈愛の心を見事に見せたのである。多くの家
族は1人か2人の捨てられた子供を養子として受け入れ、彼らの粗末な食事をもっと貧しい人々と
分け合ったのである。
“メ・ウン Me Ung”という老婆は洗礼志願者で、その献身さゆえに当時有名になった。この老婆
は毎日 48km の道のりを歩いてウボンまで行き、そこの牢獄に収監されている息子のために食料を
運んでいた。その道中、彼女が息も絶え絶えの子供に出くわしたことは1度や2度ではなかった。
こうした子供たちの姿を見て、苦しむ子供たちを自分の籠に入れ、宣教所まで連れてきた。こうし
て多くの若い魂が、死を前にして洗礼を受け、天への扉を開くことができたのは、彼女の勇壮な慈
悲の心によってである。そして彼女の行為に報いるために、神は彼女に洗礼を受けたその日の晩に
静かに召されるという恩恵を与えた4。
物不足は長期化し、不幸な人は日を追って増えていった。一方、宣教所の内部は人であふれ、そ
して宣教師たちの資金も底をついてしまった。旅行が可能な人々は全てを北へ送ることを考えた。
タレ、カンコン、ドン・ドーン、シェンジュン Sieng Jung などで貧困の漂流者たちを受け入れて
くれた。そこで人々は苦しみから解放され、死から逃れた。これにより、ウボンの宣教師たちは新
たな信者に対応することができた。この急場しのぎの方策は功を奏し、北への移動によって空にな
った宣教所は、しばらくして埋められることになった。
*
*
そしてついに 1890 年9月の初めに長く待ち望んでいた雨が降り始めた。神のみ恵みを信じなが
ら、宣教師たちは村人たちを集め、土地を耕し始めた。いくらかの望みを託して、遅すぎるが米の
種まきの基礎ができ、諦めかけていた人々に対して 5000kg の米の種を配布し、勇気づけた。こう
して神への信頼を続けて、雨は 11 月末まで続き、種を蒔いた苗の生長が確保され、平均的な収穫
が確かとなった。
神父たちの配給した物資にもかかわらずキリスト村は大きな被害を受けた。75 人という信者や
洗礼志願者たちが飢えのために命を落とした。一方、宣教師たちは飢えに苦しむ人たちをー人でも
多く救うために、自ら切りつめた生活を強いた。フランスにこの状況を訴えたが、現況はなかなか
伝わらなかった。それほど当時のラオスは遠かったのである。
この間にも神のお働きは成果を見せていた。多くの村が信仰を始め、ウボンから 30km 離れたシ
タン Sithan 村、ヤスントン Yasunthon に近いスソン Se Song 村などである。その上、飢饉の間、ウ
ボンの多くの家族がバンブア Ban-Bua やヴァン・カン・フン Vang-Kang-Hung などに移住して宣教
拠点を開設した。
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カラサム Kalasim や、カラマサイ Kalama-sai、コンケン Kon Kën などからたくさんの使者がウボ
ンやタイに来て宣教師たちに教えをもたらすように願い出た。しかし、すでに多くの仕事に携わっ
ていたために、神父たちは神の教えをもたらすことを後回しにしてしまった。何たることか。
物事を先に延ばすことは後述するように遅すぎることになってしまったのである。
*
*
1892 年の初めから、いくつかの問題がフランスとシャム国間で起こった。そして最も酷い知ら
せがあちこちで広まった。村々では戦争の見通しまでが人々のロに広がった。フランス人・シャム
人は相互に様子を探っていたことは当然であろう。このような状況下において、宣教師たちはきわ
めて慎重にふるまわなければならなかった。
何人かの我々の同国人たちの未熟さから、シャム人と問題を起こし、伝道を危うくさせることに
なりそうだったこともあった。その上、シャム人たちは、全く異国の者であるキリスト教信者たち
が外国人であるという理由で、あちこちで報復を加えようとした。
例えば、ノンハン Nong Han 州のボファート Bophat では、何人かの洗礼志願者が連れ去られ、無
惨にも暴行を受けたのである。ただ単に彼らが改宗したという理由のためであった。プロドム師は
ノンカイにあるプラチャンク殿下の法廷へ訴え、信者のために訴訟を起こした。彼らの無実は認め
られたが、ノンハンのマンダランたちは容疑を否認した。神はこのような状況下でも、このような
不正を働いた人たちに全能を示し、事実、幾人かが突然命をなくした。そして、この事件の主犯格
人物である州の警察長は後日気がふれてしまった。
これらの事件は、ポーンスン Phôn Sung やボファートのキリスト教信仰の土台を揺るがすもので
はなかった。しかしながら、この2つの村は距離が離れていて、宣教師の目も届かず、他の村人た
ちに対する信仰の導きを充分に得ることができなかった。この2つの村の信者数は 200 人を数える
のみに至っている。
ソンクラン Song-Khram 村の近くにある2つの村、ナブア Na-Bua、クチョク Khut -Chok も改宗し
たが、それは元僧侶で教理教師(カテシスト)となっていたチャンピンの献身の成果による。
Ⅶ.伝道の発展一政治による困難
疲れを知らない宣教師であったグザビエ,ゲゴは、メコン川の左岸に渡り、ソー族と呼ばれる人々
の住む北域の中央に、十字架を打ち建てに行った。その結果、ドンマックバ、ポンキオン、ブンフ
ァナの3ヵ所に拠点が設けられた。そこでは多くの改宗が行われ熱心な宣教師たちを喜ばせた。そ
れはとりわけソー族の言葉を理解する老女の改宗者がいて彼女がソー族の教化に献心的に働いた
からである。
ロンデル師も、カムコン地区の担当をしていたが、ゲゴ師同様メコン川を上り、ケンサドック
Keng-Sadok やパクサン Pak-San のキリスト教化の基礎を築いた。その後、サリオ Sallio 師が両地区
の担当をすることになるのであるが、献身さゆえに病に倒れてしまった。高熱に冒されながらも、
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−歴史的ノート−
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−歴史的ノート−
彼は信者たちから離れることを拒み、同僚たちのもとへ帰って治療を受けなかった。生来健康で丈
夫な体のため、病に倒れるということを信じなかった。しかし、この地域の習慣と、言葉を知り、
まさにキリスト教化に貢献しようとしたばかりの時、死はこの宣教師を連れ去った。
*
*
1893 年となった。私は特に当時の政治的なことを話すつもりはない。それらは近代史の分野で
あり、本編とは関係ない、次のように言うだけで充分だろう。このような混乱の時代にあっても、
宣教師たちはその慎重さにより平穏を享受できた。自分たちの使命である福音のための説教師とい
う立場を堅持して、シャム人の自尊心を傷つけることもなかった。それ故、その布教は決して揺る
がされることはなかった。
1893 年の条約によって、フランスとシャムはメコンの左岸側をフランス支配下とすることを取
り決めた。
この変化は改宗の動きに新たな発展をもたらすだろうと考えられた。しかしながら、フランス、
いや当時のフランス政府は世界でキリスト教信仰を保護するという立場を放棄していたのである5。
宣教のために模範的な行いや施しをおこなった敬意を表すことができるのは嬉しいことだけども、
高みから落ちてきた不幸な状況と日に日に増大していったセクショナリズムは、思い出すだけでも
苦しいものであった。そのためメコン川左岸での布教はそれ故、ほとんど成功しなかった。
同時に、タイでも改宗の動きが減速化していった。
しかし 1895 年にバサック村にキリスト教宣教所が開設されたことは、忘れてはならない。これ
はひとえにクアスノン Cuasnon 師の努力の賜であり、クアスノン師はそこに数年後、ラオスで最も
美しい教会を建築することになる。同時期に、ムアンクック Muang-Khk にもキリスト教布教所が
誕生した。それはラオスの最北の布教所である。
この時期、宣教師たちはラオスのほぼ全ての地方に分散する多くの信者たちを教化する仕事を専
ら行っていた。
プロドム師はドーンドンに神学校(セミネール)の基礎を作ると、ウボンに“Amante de la Croix”(十
字架を愛する女たち)という修道院を創立した。さらにランコンから北へ4km のところにあるメコ
ン川沿いのノンセン Nong-Seng に最初のラオス暫定司教が居住する家屋を建てた。
Ⅷ.ラオスの暫定司教区の設立
1899 年、ラオスにとって新たな時代の始まりであった。ローマ法王は5月 12 日の条例により、
ラオスからタイを切り離し、副教区とした。
キュアズ Cuaz 師がヘルモポリス Hermopolis 司教6とラオス暫定司教区長に任命され、バンコクで
ヴェイ猊下の手により叙任され、ただちに任務についた。ノンセンには 10 月末に到着し、毎年の
静修(retraite annuelle)を執行した。
着任と同時に、キュアズ師は現地把握のための使命が待っていた。そして、現状を保つためには
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もっと多くの宣教師が必要であることを認識した。
そして毎年パリの責任者たちに向けて加勢を得るため、繰り返し懇願を送った。ラオス伝道が現
在1万1千人強のキリスト教信者しか得られていないとすれば、フランスとほぼ同様の面積のこの
国にキリスト信者は埋もれているようなもので、しかもこの国でのコミュニケーションの方法はご
くわずかしかないのである。
ラオスでの伝道生活の特有の困難さを理解するには、1つの県を担当する宣教師たちは、県庁所
在地から馬に乗って行って一日かかるような布教所を4、5箇所担当しているという事実を挙げる
だけで充分だろう。物資調達のセンター地点から遠いという悲惨な状況を考えれば、ラオスでの伝
道生活は困難だらけである。しかしながら、ここ4年、主要な地では状況は少しずつ改善されつつ
ある。
ただし、キュアズ暫定司教の屋敷は特別に考えないといけないと思う。ノンセンはラオスにおけ
る教会行政の中心であるが、現在2棟を擁するのみで、1棟は司教と司祭たちの協同建物で、宣教
師たちの診療所も兼ねている。
もう1棟は 1904 年に建てられたサンポール女性修道院 Soeurs de Saint Paul の修道女、特に現地の
修道女によって使われている。
カテドラル、孤児院、学校、全てはこれから作らなければならない。そして私達は、神の慈悲に
よって全てが作られることを待ち望んでいる。
*
*
お許し頂けるなら、まずカテドラルの必要性からお知らせします。ノンセン副教区長宅が完成し
て9年になりますが、これまで教会建設のことを考えることができなかった。キュアズ神父はまず
宣教師たちを貧困から救うことが第一と考えていたから。彼は今日まで貧しい家をカテドラルとし
て使うことに満足していた。
しかし建物は老朽化してきた。
ここに読者に対して、この教区の守護聖者聖アンスに対して、立派なカテドラルでなくても、我々
の必要により適した教会を与えてくださるように願います。ノンセンは宣教師たち が毎年の静修
のために集まる場所でもある。キリスト教徒にキリスト教会の盛大な儀式を見せるにはなんと良い
機会であろうか。このことが、土地の人々の精神に良い影響を与えることは間違いない。
私達は現在ではタイの政府当局がかなり好意的になっているとみています。カトリックの礼拝堂
建設に力添えをする信者に、王のための労働奉仕を免除する用意もあるようです。
それだけでなく、何人かの高官たちは、ノンセンのシヤルトル・サン・ポール女性修道院に自分
たちの子供を預けたいとさえ言っている。
私達が唯一もっている建物の状態を一度見てもらいたい(写真 11)。この機会にぜひ、関係者の関
心を呼び起こしたい。メコン左側のラオス領のフランス人たちも彼らの子供達のために同じ要求を
している。
こうした状況のもと、孤児院、寄宿学校、幼児院などを含んだ拠点を本年から設置したいと希望
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している。事実、異教徒たちさえも、捨てられた子供たちを修道女たちに託しに来るのである。
さらに我々の教理教師たちのための建物も加えて必要だということ。神はご存知だろう。宣教師
たちのために働く多くの部下たちがいかに大切であるかということを。
彼らは子供たちに教え、そして改宗志願者に堅信礼に必要な基礎的な教えを教えているのであ
る。
こうして、これから本誌読者の方々のおかげで、長年温めてきた計画を実行することになった。
それはカテドラル建設、2ヵ所の孤児院、そして教理生活の学校である。おそらく3万フランでこ
れらの建設工事は賄えるだろう。
次のことを告白しなくてはならない。資本や収入がなければ我々はわずかの「信仰伝道の努め
L’Oeuvre de la Propagation de la Foi 」によって与えられるお布施で日々生きるしかない。ここは経済
の中心から離れているので、すべてを遠くから買わなければならない。サイゴン、バンコクあるい
はフランスから。輸送費が全ての値段を2倍にしている。
伝道の将来は、私達の事業がどれだけ飛躍できるかにかかっている。すでに一つの運動が始まっ
ている。
皆様のお力添えで私達の運動が実りますように。
終
註
1
Vicariat とは正式の司教区になる以前の暫定司教区。アフリカやアジアなどのヨーロッパ旧植民地の司教区の
多くは Vicariat である。
2
カトリックのキリスト教では、少年期に基本的な教理を学んだうえで、洗礼をうけ、正式の信者となる。この
儀礼を堅信礼といい、堅信礼を受けたものだけがミサなどに参加できる。堅信礼のための教育は、かつては小
学校教育に相当した。その教育を担当する教師をカテシストと呼ぶ。
3
4
堅信礼をうけるためにキリスト教の知識を学習中の者を言う。
カトリックのキリスト教では、死後の復活と神による救済が何よりも大切であり、その必要条件は洗礼を受け
て正式のキリスト信者となり、かつ死に臨んで終油式をうけることである。
5
1870 年にフランスではナポレオン3世の帝政が倒れ、第3共和政がはじまった。第3共和政時代に、フランス
は植民地帝国としえの発展をとげるのであるが、フランス革命の理念実現を目指す第3共和政は、フランス国
家とキリスト教の分離策を徹底的に推し進めた。
6
エジプトの Hermopolis を任地とする名誉職の司教職。
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