特 集 肥満と吸入麻酔薬 宇部興産中央病院麻酔科 森本 康裕 PROFILE ──────────────────────────────── ─ 森本 康裕 宇部興産中央病院麻酔科 部長 Yasuhiro Morimoto 1988年:山口大学医学部卒業 同 年:山口大学医学部麻酔科 1994年:徳山中央病院麻酔・集中治療科 1999年:米国テキサス大学医学部ガルベストン校麻酔科 2000年:山口大学医学部麻酔蘇生学教室 助手 2004年: 同 講師 2007年:宇部興産中央病院麻酔科 部長 現在に至る 趣味:カメラ、自転車、神社参拝、ブログ運営(http://eanesth.exblog.jp/) ───────────── 1. はじめに 肥満は各種薬物の薬物動態に影響を与える1)。吸入麻酔薬では脂肪組織に吸入麻 酔薬が取り込まれるので覚醒が遅くなると漠然と信じられてきた。本稿では吸入麻 酔薬の薬物動態に対する脂肪組織の影響を中心に肥満患者での吸入麻酔薬の使用に ついて考察する。 ───────────── 2. 吸入麻酔薬の薬物動態 吸入麻酔薬は換気により吸気から肺胞へ運搬され、肺胞から血液に溶解する (Fig.1)。吸気中の麻酔薬濃度(FI)は肺胞(呼気中)麻酔薬濃度(FA)よりも高い。吸 気麻酔薬濃度と肺胞麻酔薬濃度の比 (FA/FI) は血液に溶解しにくい薬物ほど大きく、 投与時間が延長するほど体組織への移行が減るために 1 に近づく。 肺胞から血中への移行は血液/ガス分配係数で示される。血液/ガス分配係数は 37℃ 1 気圧において血液 1 mLに溶ける麻酔ガスの量 (mL) である。血液/ガス分配係 数が小さいということは血液に溶けにくい麻酔薬であることを示し、麻酔導入・覚 醒が早くなる。セボフルランの血液/ガス分配係数は0.63でありイソフルラン (1.43) やハロタン(2.4)と比べると小さく、より血液に溶けにくい吸入麻酔薬である 2)。 2011年より国内でも使用可能となったデスフルランは0.424とより低値である。 血液から組織への移行については、体組織を①脳・肝臓・腎臓など血流に富む組 織 (VRG:vessel-rich group) 、②筋肉 (MG:muscle group) 、③脂肪 (FG:fat gorup) 、 ④血管の乏しい組織(VPG:vessel-poor group)に大別して考える。 FGは血流の少ないbulk fatと、大網や腸間膜など血流の多い組織の周囲にある脂 肪に分けられる。後者はintertissue diffusion group ( ITG) と呼ばれ bulk fatよりも 血流が多く薬物動態への関与が異なる。このようなITGは脂肪全体の 1 / 6 を占め ている。 VRGは体重の10%程度であるが心拍出量の75%の血流を受ける。麻酔薬にとっ て最も重要な脳内濃度はVRGの濃度であり静脈麻酔薬における効果部位濃度に相 当する。 組織への麻酔ガスの溶解は組織/ガス分配係数で示される (Table 1)。セボフルラ ンはデスフルランと比べてMGには2.2倍 (1.7 vs 0.78)、FGには2.8倍 (34 vs 13) 溶 解することができる。 3 A net Vol.16 No.3 2012 動脈 吸気FI 肺胞 ALV 呼気FA 血管に富む 組織 VRG 筋肉 MG 脂肪 FG ITG 静脈 代謝 Fig.1. 吸入麻酔薬の薬物動態モデル ALV:alveolar Table 1. 薬物動態パラメータ 薬物動態パラメータ VRG MG FG ITG 体積(L) 組織/血液分配係数 デスフルラン セボフルラン イソフルラン 組織/ガス分配係数 デスフルラン セボフルラン イソフルラン 時定数(分) デスフルラン セボフルラン イソフルラン 組織100mL当たりの血流(mL/分) デスフルラン セボフルラン イソフルラン 6 33 14.5 2.9 1.3 1.7 1.6 1.73 2.62 2.5 29 52 50 29 52 50 0.58 1.1 2.24 0.78 1.7 3.5 13 34 70 13 34 80 4.32 5.65 5.32 38.1 57.8 56.7 1226 2198 2114 230 412 396 1.32 1.82 2.59 3.58 5.3 7.7 9.73 15.7 22.5 4.35 7 10.1 (文献2より引用) 一方、組織/血液分配係数から各組織での麻酔ガス分圧の上昇と低下を予測する ことができる。これが時定数であり、血液と組織の平衡が63%に達する時間であ る。50%の平衡に達する時間は時定数×0.7で求められる。VRGのhalf-timeはセボ フルランで3.0分、デスフルランで4.0分とどちらも速やかに濃度が変化する。一方、 MGのhalf-timeはセボフルランが40分、デスフルランが27分、FGのhalf-timeはセボ フルランが1,540分、デスフルランが860分と非常に長い2)。 代謝率はセボフルランでは約3.3%であるが、デスフルランでは0.02%と非常に低い。 ───────────── 3. 麻酔導入時の薬物動態 麻酔薬吸入開始後はまずVRGに麻酔薬が取り込まれる。しかしVRGの組織容量 は小さいため10分程度で動脈血と平衡に達する。 Fig.2 はセボフルランによる麻酔導入時の薬物動態シミュレーションである (GasMan® 3.1.9を使用)。新鮮ガス流量 6 L/分、心拍出量 5 L/分、換気量 4 L/分と した。ALVはFI に近づいていくが、VRGの濃度はこれに遅れて上昇し10分程度で ALVとほぼ一致する。MGやFGの上昇はこの時期では軽微である。実際にはVRG 4 特 集 からITGへの移行があるため肥満患者ではVRGの濃度上昇がやや遅れる可能性が ある。 (%) 5 4.5 4 3.5 Fl ALV VRG 3 2.5 2 MG FG 1.5 1 0.5 0 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15(分) Fig.2. 麻酔導入期の薬物動態 5%セボフルラン吸入時のシミュレーション。 GasMan®3.1.9を使用。新鮮ガス流量 6L/分、心拍出量5L/分、換気量4L/分とした。 FI:回路内 ───────────── 4. 麻酔維持期 麻酔導入期に麻酔薬が VRGに取り込まれた後は MGへの取り込みが主となる (Fig.3)。MGは体重の50%を占めるが心拍出量の20%の血流しか受けていない。こ のように容量の大きな組織を満たすには時間が必要であり、動脈血と平衡に達する には数時間を必要とする。前述のようにMGのhalf-timeはセボフルランが40分、デ スフルランが27分である。実際にデスフルランでのMGの濃度上昇はセボフルラン よりも早い。 FGは体重の20%を占め、心拍出量の 6 %の血流を受ける。したがって同じ重量 あたりの血流量はMGとほぼ同様である。しかしセボフルランの脂肪 /ガス分配係 数は34であり筋肉/ガス分配係数の1.7と比べるとはるかに高い。つまり、FGはMG よりも麻酔薬の親和性が高く平衡に達するには24時間程度を要する。このため数時 間程度の麻酔ではFGでの麻酔薬分圧は低いことを示している。 (%) 5 4.5 4 3.5 Fl ALV VRG 3 2.5 2 MG FG 1.5 1 0.5 0 0 20 40 60 80 100 120 140 160 180 200 220 240(分) Fig.3. 麻酔維持期の薬物動態 5%セボフルランを15分吸入後、1.7%吸入で麻酔維持したときのシミュレーション。 GasMan®3.1.9を使用。新鮮ガス流量 6L/分、心拍出量5L/分、換気量4L/分とした。 5 A net Vol.16 No.3 2012 Fig.4 は麻酔開始50分後の各組織での麻酔薬の分布を図示したものである2)。セボ フルランはデスフルランと比べてMG、FGの麻酔薬の容量が大きいことを示して いる。組織へのセボフルランの取り込みとITGによるFGへの取り込みはデスフル ランよりも多いが、平衡には達していない。代謝によって失われる麻酔薬量も多い ため、デスフルランではFI とFA の差は0.12であるが、セボフルランでは0.21とより 大きくなる。 セボフルラン デスフルラン MGと皮膚 MGと皮膚 ITG ITG 肺 FI 換気 12% 2.3% FG 脳 3.3% 代謝 FG FA 12% ITG 4% 均等 肺 FI 換気 FA 脳 20% 均等 20% 均等 ITG 0.02% 代謝 脳を除くVRG 脳を除くVRG Fig.4. セボフルランとデスフルランの薬物動態の比較 (文献2より引用) 麻酔開始50分後の各組織への麻酔薬の蓄積、組織間の移行を図示した。 ───────────── 5. 麻酔維持期の薬物動態と 肥満 肥満患者ではFGの容量が増える。肥満により心拍出量が増えることと合わせ FGへの血流量は増大する。このためFGでの麻酔薬の取り込み能と取り込み量は 増える。またFGの表面積が増えるためITGによるFGへの移行も増える。FGでの 取り込みが増えても、麻酔薬取り込みの容量も増大するため、FGでの麻酔薬の 分圧は非肥満患者と変わらない。また、VRGとMGに関しては肥満の影響は少な い(Fig.5) 。 非肥満患者 肥満患者 MGと皮膚 MGと皮膚 ITG ITG 58% 15% 58% 15% FI 換気 肺 FG 脳 ITG 0.02% 代謝 FA 脳 58% FG FI 換気 FA ITG 58% 0.02% 代謝 脳を除くVRG 脳を除くVRG Fig.5. 肥満患者での薬物動態 (文献2より引用) デスフルランで麻酔開始200分後の各組織への麻酔薬の蓄積、組織間の移行を非肥満患者と肥満患者について図示した。 6 特 集 ───────────── 6. 覚醒期 覚醒には 2 つの要因が関与する。MAC awakeと中枢神経からの麻酔薬のクリア ランス(wash-out)である。セボフルランとデスフルランのMAC awakeはともにMAC の約 1 / 3 である。麻酔薬のwash-outは麻酔薬の血液への溶解度(血液/ガス分配係 数)と組織への蓄積の程度により決定される。溶解度が小さければほとんどの麻酔 薬は肺胞から排出されクリアランスは100%に近づく。クリアランスが100%であれ ば覚醒に組織への麻酔薬の蓄積は問題にならない。実際にはデスフルランのクリア ランスは60%以上、セボフルランは55%程度、イソフルランは35%程度である2)。 このため組織への麻酔薬の蓄積は覚醒に影響を与える可能性がある。この効果はイ ソフルランでは顕著である。 長時間の麻酔や肥満患者では組織に蓄積した麻酔薬が覚醒時に血液に戻る量が増 えてwash-outに影響を与える。Bailey3)は静脈麻酔薬で用いられる維持濃度以下に 低下する時間(decrement time)やcontext-sensitive half-timeの概念を吸入麻酔薬に も応用してシミュレーションを行った。VRGにおける吸入麻酔薬濃度80% decrement timeではイソフルランがセボフルラン、デスフルランと比べて長く、麻酔時 間が長くなるにつれて延長した。デスフルランとセボフルランに差はなかった。 90%decrement timeになると麻酔時間が90分以上ではセボフルランがデスフルラン に比べて長かった。肥満患者でのシミュレーションはないが、麻酔時間と同様にデ スフルランではあまり影響を受けないがセボフルランでは多少覚醒が遅れる可能性 がある。 ───────────── 7. 臨床での検討 ここまではあくまでも理論的な考察である。臨床での結果はさまざまである。 La Collaら4)は肥満患者でのデスフルランの薬物動態をwash-inとwash-outに関し て検討した。Wash-in curveは吸入開始10分と15分で肥満患者で軽度低下していた (Fig.6)。これはデスフルランの組織での取り込みが多かったためと考えられる。 Wash-out curveは肥満患者と非肥満患者で差がなかった。術後の開眼、離握手、抜 管までの時間、名前や生年月日を言えるようになるまでの時間は差がなかった。 セボフルランではwash-out curveが麻酔終了後0.5〜2.5分の間で肥満患者で遅れ 5) ていたがその後は差がなかった(Fig.7) 。Cakmakら6)は、肥満患者 (BMI>35) に対 1 * 1.0 0.9 肥満患者群 非肥満患者群 * * 0.8 ** 0.7 0.8 ** * * 0.6 FA/Fl 0.5 FA/FA0 0.4 0.6 0.4 0.3 0.2 0.1 0 ** 0.2 肥満患者群 非肥満患者群 1 5 P<0.01 vs 非肥満患者群 10 15 20 25 0 30(分) 投与時間 (文献4より引用) Fig.6. デスフルランのwash-in curve 0 1 P<0.01 vs 非肥満患者群 * 2 3 排出時間 4 5(分) (文献5より引用) Fig.7. セボフルランの wash-out curve 7 A net Vol.16 No.3 2012 して、デスフルランは 6 %、セボフルランは 2 %で麻酔を維持して覚醒の状況を比 較した。覚醒時間、抜管までの時間は両者に差はなかった。このことからセボフル ランとデスフルランは肥満患者に対して共に覚醒遅延の懸念なく使用できると考え られる。 一方、McKayら7)は術後の気道反射の回復について検討した。麻酔終了から指示 に従えるまでの時間は両者共にBMIの影響はなかった。しかし、覚醒後に20mLの 水を飲めるまでの時間はセボフルラン麻酔ではデスフルラン麻酔よりもBMIの影 響を受けた。MAC awakeの25%のセボフルラン濃度でも咽頭筋の協調性を低下さ せることが報告されている。覚醒濃度以下のレベルのwash-outにはセボフルランと デスフルランで差があることが考えられる。同様にBilottaら8)は肥満患者での脳神 経外科手術に対してセボフルランまたはデスフルランで麻酔し術後早期の認知機能 の回復について検討した。麻酔終了から開眼・抜管までの時間、術後の認知機能の 回復はデスフルランで有意に早かった。脳外科手術のように長時間となり、しかも 速やかな覚醒が求められる症例で肥満患者を麻酔する際はデスフルランがより安全 かもしれない。 ───────────── 8. まとめ 肥満患者における吸入麻酔薬の薬物動態と実際の麻酔管理の報告についてまとめ た。セボフルランはイソフルランなど従来の麻酔薬よりも脂肪組織への蓄積の影響 は少なく、肥満患者でも安全に使用することができる。手術が長時間でより速やか な認知機能の回復が要求される症例ではデスフルランを選択することを考慮する。 ───────────── 引用文献 1 )Ingrande J, Lemmens HJ:Dose adjustment of anaesthetics in the morbidly obese. Br J Anaesth 105:i16−i23, 2010. 2 )Eger EI II, Saidman LJ:Illustrations of inhaled anesthetic uptake, including intertissue diffusion to and from fat. Anesth Analg 100:1020−1033, 2005. 3 )Bailey JM. Context-sensitive half-times and other decrement times of inhaled anesthetics. Anesth Analg 85:681−686, 1997. 4 )La Colla G, La Colla L, Turi S, et al.:Effects of morbid obesity on kinetic of desflurane: wash-in wash-out curves and recovery times. Minerva Anesthesiol 73:275−279, 2007. 5 )Casati A, Marchetti C, Spreafico E, et al.:Effects of obesity on wash-in and wash-out kinetics of sevoflurane. Eur J Anaesthesiol 21:243−245, 2004. 6 )Cakmak AB, Ozdogan H, Aydin GB, et al.:Hemodynamic effects and emergence times of desflurane, sevoflurane and propofol infusion in laparoscopic gastric banding. Internet J Anesth 29, 2011. 7 )McKay RE, Malhotra A, Cakmakkaya OS, et al.:Effect of increased body mass index and anaesthetic duration on recovery of protective airway reflexes after sevoflurane vs desflurane. Br J Anaesth 104:175−182, 2010. 8 )Bilotta F, Doronzio A, Cuzzone V, et al.:Early postoperative cognitive recovery and gas exchange patterns after balanced anesthesia with sevoflurane or desflurane in overweight and obese patients undergoing craniotomy:a prospective randomized trial. J Neurosurg Anesthesiol 21:207−213, 2009. 8
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